2007年6月30日 (土)

かけ算についての記事を読んで(つづき)

(昨日の記事のつづきです。(しかし、実は今かなり体力も脳味噌も限界が近いようで、意味不明の文章になったらどうしようとちょっと不安だったりしますが・・・。)

塾講師時代、SZKさんが書いておられたように、「3×9+5×9」から「8×9」をすんなり導き出せる子には殆ど出会ったことがなかった。(個人的には、「9×3+9×5=9×8」の方が子どももイメージしやすいのでは?とは思うが。)

それが、教室を始めて今の教材や教具を使うようになってから、とにかく、学校でかけ算を習うより先に教室でかけ算の学習をすることができた子達の多くが、例えば「8×6+8=8×□」や「6×5-□=6×4」ような問題に出会っても、苦もなく(もちろん、計算してから答えを導き出すでもなく)、さも当たり前のこととして□に正しい答えを書いていくのを目の当たりにするようになった。

少なくない子ども達が「なんや、こんなん簡単!」と言って解いていく。
そして、実際にこの教材、教具でかけ算を習った子にとっては、確かに「こんなん簡単」なのだ。
初めてそういう子たちの姿を目にしたとき、かなり新鮮な驚きがあった。
(そうか・・・こうやって学習すれば、こんなに簡単だったんだ・・・)としみじみ思った。

因みに教室で使っている教材は、かけ算の単元に入っても、初めは一切九九は教えない。子どもたちは足したり引いたり、倍にしたり半分にしたりしながら、かけ算の答えを導き出していく。
九九の学習をさせる前に、2桁や3桁×1桁などの学習までしてしまう。そのあとでようやく九九が登場するのだが、そうなると、子どもたちは九九を知らなくても答えを出す方法がわかっているから、極端な話、スピードさえ求められなければ覚えたくなければ九九を覚える必要さえなくなるのだ。(もちろん、頻繁に使うものではあるので、最終的には覚えた方が便利だとは思うが、何が何でも絶対覚えなくてはいけないものではなくなる。)

どんぐりの糸山先生は三角計算でかけ算は全部で36個覚えればいいとおっしゃっているが、確かにそうだ。
何も、何が何でも81個必死になって覚える必要はないはずだ。
(そういえば、東大の池谷先生がかけ算の九九を覚えていないのはご存知の方もおられるのでは。池谷先生は、正に、足したり引いたり、倍にしたりというようなことを駆使して、結構な速さで計算されると何かで読んだことがある。)

とにかく覚えろ!的に覚えさせると、時には覚え間違いが発生する。
覚え間違えても、その答えが正しいのかどうか確かめる術を持たない子どもはそこでお手上げだ。覚えることが何より大事なのではなく、正しい答えが出せることこそ大事なことのはずではないか。

教室に来てくださっているお母さん方には、あまり早くから九九は覚えなくっていいですと機会があれば言っている。
というのも、先に覚えてしまっていると、考えて答えを出すというまどろっこしいことを嫌がって、結局「答えだけが出せる(その結果、分配法則や結合法則というものが実感できない)状態」になってしまいがちなのだ。

2年生さんは夏休みが明けたら(学校によっては夏休みに暗唱の宿題が出るようなところもあるかもしれないが)ボチボチかけ算の学習に入るだろう。
もし可能であれば、それまでにたっぷりと「かけ算とはなんぞや」という部分を学習させてあげてほしい。
そうすることで、その後に大いにプラスになることがあるはずだから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月29日 (金)

かけ算についての記事を読んで

先日、こちらの記事を読ませて頂いて、大いに共感したので書かせて頂くことにした。
本当はもっと早く書くつもりだったのだが、なかなか時間が取れなかったり、先に書きたいことが出てきたりで、ちょっと間が空いてしまったけれど、よければお読み頂きたい。

まず、こう書いておられるのだが、なんだか「おぉ!正に」と思ってしまった。

2年生で掛け算を習います。

けど、

いつの間にやら、

「九九」の単元になってしまっている状況を多く見てしまいます。

そう言えば「かけ算」と学習するのであって、「九九」を学習するわけじゃないんだなと、なんだか改めて思ったのだ。
「九九」に関しては「学習」ではなく、ほぼひたすら「暗記」するだけ。

ひたすら暗記するというのは、例によって「機械的反復」だから、意味を考えるなんてことはまずない。
特に短期間のうちに覚えなさいなんて言われてしまうと、お経のようにただただ繰り返し唱えて、意味もわからないけど答えが出るという状態になってしまう子が大半だろう。

そして、こう書いておられるところ、ここは本当に力強く「うんうん」と頷きたい気分になった。

3×9+5×9

なんて問題が

8×9

と答えが一緒になるってわかる子が、あまりにも少なすぎると思うんです。

子どもの教育に殆ど関わっておられない大人の方は、上の2つの式を見比べて、そんなの当たり前じゃん!と思われるかもしれないし、そうじゃないにしても、中学校で分配法則・結合法則なんてものを習った記憶がある方であれば、そのことじゃん!と思われるのかもしれない。

しかし、実際に子どもたちと一緒に勉強していると、かなりの数の子どもがこの2つの式をすんなり結びつけることができないのだ。

過去、塾講師だった頃に関わった子たちの中で、教えたり説明したりせずに理解した子はほぼ記憶にないし、独立してからも、学校で既にかけ算(というか「九九」)を習ってしまっている子どもたちの多くは、やはりこの2つのものが同じ数量を表すという認識をすることができないように感じている。

例えば、九九を既に知っている子に

4×3+4×5=4×□

というような問題を与えた場合、驚かれるかもしれないが、決して少なくない子どもが、まず左辺の4×3+4×5を計算して32という答えを出し、その後、4の段で答えが32になるところを探し、□に8を入れるというパターンで解答する。

正に、SZKさんが書いておられる通りだと私も感じている。
学校や塾などでかけ算を習ったはずの子どもたちの多くが「かけ算」というものの意味をほとんど理解していないということのようだ。

(すいません、続きますが一旦ここまででUPさせて頂きます。)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年6月 1日 (金)

数量感(つづき)

昨日の続きです。

機械的反復学習によって強い弊害が出るのは、もしかしたらそういう子ども達なのかもしれない。
まだ5や10までの数量感すらしっかり身についていない段階で、実感のかけらもない数の計算を延々とやり続ける。

ゆっくり考える時間を与えられるでもなく、決められたノルマをこなし、一定の量に達したら次のステップに進めるかどうかの確かめがあり、その確かめをクリアするためにまた大量の問題を繰り返す。
量的に見ても、じっくり、ゆっくり考えることはほぼ不可能だろうし、そんなことを繰り返していれば、当然「ゆっくり、じっくり考える」ことなどできない頭が作り上げられていくということなのだろう。

糸山先生など著名な先生がおっしゃるに、脳の発達などからみて9歳ごろ、もしくは12歳ごろまでにひとつの境界のようなものがあり、その間に大量にある脳の神経繊維の刈り込みが行われるそうだが、使わないものは不必要なものだとみなされて刈り込みが行われると言われれば大変納得の行く説明である。

刈り込まれてしまったあとでいくらその回路を使おうとしたところで、もう線自体がなくなってしまっていれば、どう頑張っても無理かもしれない。
まあ、「何歳までにやらないとダメ」という表現は好きではないし、以前読書のほうでご紹介した小西先生の、人間の未知の力の部分というか、例えば脳の一部に損傷を負っても、その部分の機能を他の部分が代行したりする場合もあるというようなお話にも大変共感を覚えるので、「絶対」ということはないとは思うが、必要な線を刈り込んでしまいさえしなければ、もともとする必要のない苦労を敢えて買おうという人はそうそういないだろう。

と考えると、幼い頃にきちんと段階を経て、数量感を実感しながらゆっくり進む時期は絶対に必要だと思う。
もちろん、数量に限らず、幼い時期にスピードや量を求めることは益より害の方が多いような気がしてならない。

10までの数の実感がない幼い子にそれ以上の数の計算をさせることにどんな意味があるだろう。
イメージできない、実感のないものを頭で考えることは算数に限らず、また、子どもに限らず、どんな場合も誰にとっても不可能なのではないだろうか。

幼い頃に速さと量を求めることの危険性を改めて強く感じる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月31日 (木)

数量感

この春から、幼児さんが随分増えた。(あくまでもうちの教室としての話で、一般的な教室からしたらかなり少ないのだが。)

もともとは小学校低学年をメインでスタートしたので、来てくれた子達は10までの感覚は大抵は身についていたし、知識としては数量感を身につけるのには、3まで、5まで、10まで・・・という段階があるということは知っていたものの、実感としてはあまり感じることはなかった。(10以上の20まで、100まで・・・というのは普段のレッスンで何度も色々な子ども達の姿を見てきたのである程度実感があるのだが。)

しかし、幼児さんたちとレッスンをするようになって、確かに「3まで」、次に「5まで」、そこを越えてやっと「10まで」という段階が存在することを実感するようになった。

数量感の獲得にももちろん個人差があるので、年齢などでは一概に区切ることはできないが、どの子も3までがぱっとわからない段階では5という数を実感することはできないし、5までしか実感できていない子に5を超えた数を掴み取ることも難しいようだということは目の前の子ども達を通してはっきりと感じ取れる。

以前にも書いたことがあるが、パッと見て3までしかわからない子は4個のおはじきを見せていくつか尋ねると、「1、2、3、4」と1から戻って数えなければならず、3より1個多いから4という答え方はほぼできない。

しかし、5までの数がパッと見て判断できるようになった子に、3個のおはじきを見せておいてもうひとつ足しても、1から数え直すことはなく、すぐに4と答えることができる。

5を超えた数でも同様に、5を見せてもう一つ増やした場合、5までの数の実感しかできていない子は1から順に確かめて6と答えることが多いし、10までの数が実感できている子はすぐ6と答えられる。

数量感の獲得には個人差があるとしても、どの子にもそういう段階があるのは恐らくほぼ確かだろう。

とすれば、10までの数量感のない子に和が10までのたし算をたくさん練習させたらどうなるだろう。
当然、実感がないのだから、計算して答えを覚えこむ以外方法はない。「4+5」という式を何度も何度も見ることで、その答えが「9」だと覚えるのだ。
和が10までであれば、和が2になるものから10になるものまでなので、まだ数も限られているし、大抵の子は和が5ぐらいまでであれば何となくは実感もできているだろうから、丸覚えしなければならないものの数はさほど多くないだろう。

だから、そうつまずくこともなく、また、見ている大人も「できている」と感じてしまうのではないだろうか。
しかし、そこで「実感がない」ということに気づかないことこそ何より恐ろしいことなのではと思う。

幼い子どもは丸暗記が得意だという。
であれば、10までのたし算、10までの引き算、20までのたし算、20までの引き算のあたりぐらいまでなら、ひたすら繰り返していれば覚えてしまうのだろう。
忍耐強い子どもであれば、更にその先も、そして九九も・・・とどこまでも覚え続けるのかもしれない。(もう少し続きます。)

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年3月24日 (土)

すてきだ。

こういうニュース大好き。

こういうのこそが「本物の学び」なんだろうなぁって。

ホントすごくすごくいい顔をしておられる。
見ているだけでこちらまで幸せになれそうな素敵な笑顔だ。

なんか、私ももっとしっかり頑張らなくっちゃ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年1月 6日 (土)

し、知らなかった・・・。

こんなサイトがあったとは、全く知りませんでした・・・。お恥ずかしい・・・。
けど、検索してもうまく引っかかってこないのですが、このサイトを見つけられて、たまたま紹介してくださった方はどうやって見つけられたのだろうと、ちょっと感心してしまいます。

私が「大先生」とブログで書かせて頂いている先生の家庭学習用教材についてのサイトが、本家のサイトとは別に完成していたようです。(大先生も教えてくださればいいのに・・・(苦笑))

こちらを見て頂きましたら、今よりお若い大先生のお姿が見られたりもします。
幼児用教材なども購入できるようですし、教材・教具に関する説明その他も本家のサイトより見やすいように思います。

そして、何より、一部大先生の指導のDVDが見られます!それぞれ5~6分程度のものがグレード別に3つあるので、延べ15分強、大先生の実際の言葉で大切なポイントなどが見られるとは、なんとも貴重なのではと思います。(タダですし。)

どうやら、資料請求をすれば、参考DVDも無料で頂けるようですね。私も請求しようかしら・・・。(違)

私の教室は低学年がメインですが、もともと大先生の教材は幼児がメインなので、幼児をお持ちの方は一度ご覧になってみられてはいかがでしょうか。

ピ○マリオン・幼児家庭学習

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月13日 (水)

ぼんやり思うこと

先日、新聞に気になる記事が載っていた。
りんご先生のここでも取り上げられているし、他にも何人もの先生がこの記事に関して意見をブログで書かれているのを目にした。

新聞で読んだ限り、とりあえず最初は集団指導の塾講師が対象らしいので、ま、私には関係ないやと思いながらも、どうもすっきりしない気分にはなった。

私の尊敬するウロコ先生なども書いておられたけれど、一体どんな基準でどんな判定が下されるというのだろう。
そんなことをぼんやり思いながら、ふと頭に浮かんだことがある。

集団指導の講師が対象なのであれば、もしあの宮本先生が授業をビデオに録って送ったら、どんな判定が下るのだろう?

ビデオに収められる授業が先日のテレビの映像と殆ど変わらないとしたら、宮本先生は「何も教えていない」わけだし、先生ご自身がそれを貫いておられる。
さて、どんな方たちがどんな基準で判定するのかわからないが、非常に興味がある。(まあ、きっとお受けにならないだろうから、残念ながら「結果」は永遠にわからないままなのだろうけれど。。。)

しかし、まあ、普通に考えれば、宮本先生の授業は「指導ではない」と判断されるんじゃないかと思う。
ということは1級も2級ももらえないということだろう。

だとしたら、そんな級に何の意味があるんだろう?

説明がうまくて、子ども達が集中している授業なんかがきっと高評価されるんだろうけど、では、最終的に宮本先生と1級をもらった先生のどちらが子どもを伸ばしたか、誰がどう判断するんだろう。

授業の「うまさ」でははかれないものがあまりにも多いように思うのだが、どんな基準でどんな判定をするのか、どこかで公開されているんだろうか?気になる。。。

因みに、もし個別指導の講師も対象にしますよってときがきて、私のレッスンをビデオに録ったら、多分私も20級とか(ってあるのかどうか知らないけど(笑))になるかもなぁ。
だって、教えないし、質問してきてもそうやすやすとは答えないし、考えたくないなら無理に来なくっていいよとか、平気で言っちゃうし。(苦笑)

どうもまた、必要のないことに労力とお金が使われるような気がするのは多分私だけじゃないはず。。。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月27日 (金)

「賢い」ってどういうことだ?

子ども達を見ていると、時折ふと無性に腹が立ってくることがある。
具体的に何に対してというのが特定できないのが厄介なのだけれど、目の前で一所懸命問題を解いている可愛い子を通して向こうに見える、私が恐れ、どこか憎んでさえいるかもしれない何かだ。

うちの教室には珍しいパターンだが、受験塾に通いながら並行してレッスンに来てくれている3年生がいる。
もともとは教室を立ち上げて間もない頃、まだ年長さんだったときに一度体験に来てくださったのだが、他にも色々習い事をしておられ、その時点でご家庭で教材を購入されて進められるという選択をなさったようだった。

基本的に私は体験に来てくださった方にその後一切勧誘をしないので、その後その子のことは時が経つにつれ忘れていたのだが、お母さんがお子さんの様子を見て、どうも何か実感がない気がするということで再び3年になってから尋ねてくださったのだ。

しかし、既に2年生から有名進学塾にも通い始めており、何をさせても大抵よくできる。その子を見ながら、私はしばしば冗談で「3年って言ってるけど、実は6年なんじゃないの?」とかいうぐらい、落ち着いているし「賢い」のだ。

計算の速さなどはもう私の及ぶところではなく、ちょっと複雑な計算でもさっさと答えを出してしまう。いつもホントにすごいなぁと感心して見ているのだが、そんな子に対しても、時折説明のつかない感情が湧いてくることがある。

昨日のレッスンでのこと。
複雑な四則が混じった計算や四則計算の一部が□になっていて、そこに当てはまる数を求めるものなど、うちの初期組のスーパー君、スーパーちゃんたちでさえ、やや嫌がりながら解いているのを感じたようなところでも、その子はあっという間に答えを出す。その速さは本当に見事だ。

しかし、ある問題でパタッと止まったかと思えば、訳のわからない数を書き込んだ。
何か勘違いしているのだろうと思い、少しずつヒントを出したのだが、なんだか反応が変だ。とりあえずその問題はどうにかクリアしたのだが、しばらくしてまた同じパターンの問題が出てきた。

その問題というのはこれだ。

(147+12)×58=□×58+12×58

その子はそれまでに分配法則や結合法則を使う、似たような問題を見た瞬間パッと機械的な速さで正解していった。
にも関らず、この問題の□に最初「1」と書いたのだ。

少し前に同じような問題をヒントを出しながらやったところだ。しかし、これはこの子が苦手なところなのかもしれないと思い、改めてこう言ってみた。

「147円のお菓子と12円の飴を58人の子に配るとしたら、いくらになるかってときにこんな計算(左側の式)するよね?」

すると、式を見ながら、

「あぁ~、うん。」

そう答えた。
さっきも同じようなヒントで解いたのだから、私は当然この段階で

「あぁ~~!な~んや、そういうことか。」

という反応が返ってくるものと思った。
しかし、予想は完全に外れ、

「12?」

「なんで?」

「ああ、50?」

「なんでその数が出たの?」

そんなとんちんかんな会話がしばらく続いた。

もう一度彼の目をしっかり見ながら、プリントに147円と書いたお菓子の袋の絵と12円と書いた飴の絵を描き、同じことを尋ねた。
更に、式の後ろの部分を指して、

「これは12円の飴が58人分ってことやんね?」

そう尋ねると、それには疑問はないらしく、素直にうんと頷く。
さすがにこれで「あぁ~~っ、そうか!」という言葉が聞けると思った。
しかし、更に予想は外れた。

更に何度かやり取りをして、最後にはどうにかこうにかやっと答えに辿り着いてくれたのだが、少なくともこの問題を解くとき、この子の頭の中には何のイメージもなく、ただテクニックとして身につけた(もしくは身につけさせられた)方法で答えを導き出しているに過ぎないのだろう。

ヒントとして私は、「147円」と「12円」と言っているのだし、58は「人」だと言っているのだ。このヒントで頭に思い浮かべなければならないものは、147円のお菓子と12円の飴、そして58人の子ども。
後は一人ひとりにそれらを配るというイメージだけだ。

少なくとも、それが思い浮かぶ子であれば、このヒントを聞いた瞬間に気づくし、□に「1」や「50」などという何なのかわからない数を入れることもないはずだ。

もちろん、算数が苦手な子、あらゆる文章題で苦戦する子であれば話は別だけれど、この子はいわゆる「植木算」や「鶴亀算」のように、そういう塾でテクニックを教えてくれる問題に関してはさっさと解いてしまう子だ。

また別の話だが、もうひとり、やはり有名受験塾に通いながら週に1回だけ来てくれている子がいるのだが、その子はおうちの方の方針がとてもしっかりしておられ、そういう塾に通いながらも頭の柔軟さを失っていない子だ。工夫したら簡単になるよというようなことをいうと、すんなり「ああ、そうか!」とそれを理解し、その後は何か工夫できないかなということを意識するような子なのだ。

見ていて、その子は本当にバランスよく賢いなぁと思っているのだが、そのお母さんのお話では、その塾の懇談などで繰り返し繰り返し「計算が遅い」と言われるのだという。挙句、下のお子さんに関しては年長ぐらいからプリント反復塾などに通わせておいた方がいいというご親切なアドバイスもされるのだそうだ。

先の子は記憶力や覚えたことを使う力という意味では確かにとても「頭がいい」のだろう。おまけに、小さい頃から色んなことをしてきている子なので、実際間違いなく「賢い」には違いない。話していても、この子ができが悪いと感じることなど一度もない。

ただ、そんなに「賢い」子が前述のヒントで何もイメージできないということは、本当に「賢い」と言っていいのだろうか。
そんな勉強が本当にこの子の将来のためになるのだろうか。。。

そういう塾に通っている子でなくても、例えば算数に苦手意識を持ってしまってから来てくれる子達を見ていると、とにかく急いで答えを出さなければいけないと思っているように感じる子たちが少なからずいる。

「速いことがいいこと」

幼児や低学年に対してまでそんな教育が広くなされているような気がして、私はまたやり場のない憤りを感じるのだ。

「賢い」ってどういうことなんだろう?
少なくとも3、4年生ぐらいまでの小さな子達に対して求められるべきは「機械を目指す」ことでないのは間違いないと思うのだが。

| | コメント (8) | トラックバック (1)

2006年10月13日 (金)

自信の力

子どもに自信を持たせることは大事だなんてことは、今更言わなくたって誰もがわかっておられることだと思うが、また改めてしみじみそれを感じる出来事があった。

ひと月ほど前から、レッスンにちょっと苦戦し始めた1年生さんがいた。プリントと教具を出しても、もう拒否反応が出始め、さてどうしたものやら・・・とちょっと私も悩んでしまった。

お母さんに、しばらくお休みされますか?とお尋ねしてみたのだけれど(苦戦しているといっても、既に3桁同士や4桁同士の足し算・引き算の暗算まで来ての話で、100までの足す・引くはもうスラスラできるようになっていたので、しばらく休んでも進度的には全く問題なかったので)、休ませるのはあまり・・・とのことで、ちょっとご相談して、しばらくちょっと違うことをやってみることにした。

といっても、最終的にはもとのレッスンに繋がっていくようにしなければならないので、躓いていなかった段階のものから本当に徐々に段階を経てレベルが上がっていくような問題のプリントと、学習パズルをやってみることにした。

パズルは試行錯誤しなくてはならないので、失敗するのがイヤという子には嫌がられるかもしれない。その子は少しそういう傾向があったので、何度も消して書き直すことに対して抵抗を示すだろうかと不安に思っていたが、幸いそんなことはなく、楽しそうにミニナンプレや不等号パズル、ミニサムクロス(縦横に足す)などに取り組んでくれた。

パズルは大好きなようで、それだと何枚でもやりたいとご機嫌だった。それに並行して、100-1桁、100-2桁、何百-1桁、何百-2桁、3桁、1000-1桁、1000-2桁・・・と徐々に段階を上げ、更に並行して、10が10個で100、20個で200、25個で250・・・というようなことや100が10個で1000、13個で1300・・・というようなことなども繰り返し、ある時期完全に拒否反応を示していたプリントへ戻れるかもしれないなという状態になってきた。

ただ、プリントの見た目で「このプリントは難しい」と思ってしまっている可能性があったため、ちょっとドキドキしつつ、今日のレッスンの終盤で1枚そのプリントを出してみた。

3桁-2桁の引き算のプリントを出すと、予想通り、見た瞬間に「うわぁ、むずかしそう・・・」と表情を曇らせた。
しかし、今日もそれまでは絶好調で問題をクリアしていたし、ここ数回ずっとその状態で来られていたのだから、思い切ってやらせてみようと、こう言ってみた。

「大丈夫。今の○○ちゃんならもう絶対できるよ!」

すると、ちょっと不安そうに

「ほんとう?」

と聞き返してくれた。

「うん、絶対できるよ。一緒にやってみよう?」

そういうと、ひと月ほど前にはもう見るのも嫌がっていたプリントに真剣な表情で取り組み始めた。
何問か一緒に考え、その後自分ひとりでもやってみてもらい、無事そのプリントを終えることができた。
今度はもう一枚と、3桁同士の足し算のプリントを取り出すと、最近引き算ばかりやっていたせいもあって、ちょっと逃げ腰。でも、これも一緒にやろうというと、すんなりと一緒にやってくれた。
そして、結局「もう見たくもない」プリントを3枚頑張ってやってくれた。

子どもの性格も本当にそれぞれだ。
失敗を恐れず何度もトライできる子はいいのだが、慎重で間違いをしたくないという子は難しそうに見える問題はやる前から「できない」と言ったりすることがある。
その壁を少しでも低くするには、やはり「自信」が何より強力なのだなと、また改めて思った。

多分もう通常のレッスンに戻ってもあの子は大丈夫だろう。
そんなことを思いながら、思わず顔がほころんでしまうのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月26日 (火)

続・勉強ってなんだろう

読書感想ブログで紹介した本を読みながら、またちょっと考えてしまった。
「勉強ってなんだろう」
以前にも同じタイトルのブログを書いたけれど、仕事柄、これは正解のわからない、永遠に解けないテーマなのかもしれないなと思う。

「お母さんはしつけをしないで」という大胆なタイトルの本。読みながら共感するところも多かったのだが、その中で、自分の子どもが勉強できなかったら・・・と大抵みんな不安に思うけれど、著者は子どもが勉強しなければしなくてもいいじゃないかという趣旨の、なかなか大胆なご意見を書いておられた。

私の仕事を考えたら、そんなこと言われたら困るのかもしれない。
それに、勉強できなかったらそれでもいいじゃないと言われたって、きっと大抵の親御さんは「人の子のことだと思って・・・」というような受け止め方しかされないのではないかとも思う。

ただ、著者がそう述べる理由はちゃんとあるのだ。

子どもが子どもでいる期間は短い。その期間を受験のための勉強に費やし、結果的に難関大学に進み、有名企業に就職したり、国家公務員になったりしたとして、そういう立場にある人たちが皆「幸せ」かどうかは話が別だというようなことを述べておられる。

それを読んだとき、なんか私的にはすごく「ああ、そうよね」というか、「わかりやすく表現してくれてありがとう」っていうか、そんな気持ちになった。

高い(という表現が正しいかどうかわからないが)地位や一般に憧れられるような職業に就いている方、経済的に恵まれている方であっても、幸せを感じていない方は恐らく少ないとはいえないだろう。

一般にはお金はないよりあるに越したことはないとかいうし、それはそうかもしれないけれど、あり過ぎるとかえってそれが争いを生んだり、事件に巻き込まれたりする可能性だって増える。以前、ある人が「人の気持ちもお金で買える」というような発言をして話題になったことがあったが、「お金で買った気持ち」や「地位で手に入れたもの」は、それを失うと同時に消えてしまうだろう。(実際、その発言をした人からは多くの人が手のひらを返したように離れていったようだし。)

以前聞いた話だが、裁判官は中立でなければならないし、守秘義務やら色々あって、退職するまでは同窓会などで気軽に世間話をすることもできないらしいとか。(聞いた話なのでもしかしたら違うのかもしれないが。)
裁判官に限らず、重要なポストに就いている方々は、その責任の重さと日々戦っているかもしれないし、忙しくて家族や友人と過ごす時間もないかもしれない。他人からは尊敬され、憧れられたとしても、自分が幸せでないのなら、その人生が素晴らしいといえるのかどうか。

もし仮に、子ども時代の大切な時間を犠牲にした結果、将来出世したとして、その子がそれを幸せだと感じられたらもちろん何も問題はないし、頑張ってよかったねって話になるのだろうけれど、色々なものを犠牲にして高い地位を得たとしても、その子が幸せを感じられなかったら、それは果たして「目指すべきもの」だったのだろうかということになる。

以前、夢を叶えた男の子の話を書いた。私が以前勤めていた塾で最初に送り出した受験生のひとりだ。
彼は中1のときからずっと工業高校に行くんだと言い、将来は自動車整備士になるんだと言い続けた。全教科の中で数学が一番苦手で、それでも彼の意志は揺らぐことはなく、工業高校へ進学。その後自動車整備士の専門学校に進み、晴れて整備士試験に合格した。

この彼は、数学以外の教科は決してできなかったわけではないので、普通科でよければもっと偏差値の高い学校も受けられるということを中学校からも言われたようだし、数学の苦戦振りを知っているおうちの方も「工業はやめたほうがいいんじゃない?」みたいなことを何度か言ってみられたらしい。

もしそこで彼が意志を曲げて、周囲の大人からすれば彼が受けた工業高校より「いい学校」である普通科に進んでいたら、彼は長年の夢を叶えることはなかったかもしれない。
少なくとも、「楽しい学校生活」にはならなかったんじゃないかと思う。

私は、自分の意志を貫いて夢を叶えた彼を素晴らしいと思うし、すごくかっこいいと思う。
学歴の高い人や勉強のできる人達から見れば、「工業高校を出て自動車整備士」なんて聞いたら、大したことないっていう人もいるかもしれない。けれど、もし彼を軽く見る人がいて、その人が立派な肩書きを持っていたとしても、もしその仕事にやりがいを見出せず、幸せを感じていないのなら、私は彼の方が何百倍も素敵だと思うし、素晴らしい人生だと思う。(そもそも比べるものではないだろうけれど・・・。)

やりたいことを見つけて、それに向かって努力する。
やりたいことをするために、ある子は東大を目指すかもしれないし、ある子は高校を出て仕事を始めるかもしれない。
けれど、自分の人生の目標を小学生の段階で決めることができる子どもはごく限られているだろう。その頃の夢や目標はコロコロ変わったりもするし、(最近は小学生でも将来なりたい職業はと聞くと、公務員とか会社員とかそんな答えをするようだけれど・・・)それでいいんだろうとも思うのだ。

夢や目標を見つけるためにも、子ども時代に勉強以外の色んな経験をすることはとても大切なのではないだろうか。その大切な時間を、不確かな「将来の安定」のために勉強を詰め込むぐらいなら、確かにしない方がマシなのかもしれない。
少なくとも、上述の本の著者が書いておられるように、やりたくない子に無理矢理に勉強させる必要はないのかもしれない。

「かもしれない」ばかりなのは、私自身、まだはっきりわからないからだ。
勉強以外のことに才能を見出せば、もちろん学校の勉強なんてしなくてもいいだろう。
ただ、何の目標も見つかっていない段階で、学校の授業に落ちこぼれてしまっては、やはりそれは子どもにとって不幸なことだろうとも思う。学校の成績がいいということは、少なくとも選択肢が広がるということでもあると思うからだ。

自分の中でもまだまだ答えは見つかりそうにないし、子どもが一人ひとりみんな異なる個性を持っているということから見ても、「正解」には永遠に辿り着くことはないのだろう。

それでも、ひとつだけ確信していることがある。

「勉強は幸せな人生を歩むためにする」ということ。

自分が描く将来の姿にとって勉強が必要なら勉強をすればいい。
何かの職人を目指すとか、芸術家やスポーツ選手を目指すとか、机の上の勉強はいらないと思うのであれば、それもいいだろう。

少なくとも私は、子どもの心を歪めたりしてまで不確かな「将来の安定」のために勉強を詰め込むことは絶対にできないし、やりたくない子を叱ったり強制したりしてまで勉強させることもできない。

そんな人間が教室なんてしていていいのか?なんて批判も出そうだけれど、私はこうなんだから仕方ない。

答えが見つからないこの問題を、この先もずっと考えていくことになるのだろう。
それでも私はいつだって、子ども達が幸せな人生を歩んでいくために必要な力を伸ばすお手伝いをしたい。そう願っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧