2006年10月26日 (木)

今日のニュース

今日はこんなニュース。

<睡眠>7~9時間が適切 10万人規模の調査で判明 (毎日新聞)

子どもはよく寝るほうがいいっていうのは前から言われているし、睡眠不足の子は、きちんと寝ている子に比べて、精神不安定になったり、問題傾向が出やすくなるってことも本などを読んで知っていたけれど、寝すぎてもダメって言うのがちょっとびっくり。

ここです、ここ↓。

逆に、9時間以上は40.8%で、7~9時間よりも不健康の割合が増した。

あ、けど、10万人規模って書いてあるけど、対象が中高生なのですね。
じゃあ、確かに普通に学校生活を送りつつ、中高生で9時間以上寝るというのは、まあ正直なところ結構難しいですよね。(苦笑)

仮に学校が8時半に始まって、部活して帰って、塾とかに行かない子だとしても、起床時間は7時とか7時半だとして、9時間以上寝るには10時前後には寝なきゃいけないんですもんね。

って!?!?
いや、私は中学生の頃、夜10時を過ぎても起きていたら「早く寝なさい!」と叱られていた記憶が・・・。けど、朝は早起きが苦手で遅刻しないギリギリぐらいに学校に行っていたような気がするので(朝練とかがなければ)、9時間以上寝ていた気が・・・。(苦笑)

私は例外ってことでしょうか?(悩)
けど、受験期、高校生のときにはさすがにそれだけ寝ることはできませんでしたけどね。

個人的には、幼児・小学生にも同じような規模で調査をしてもらいたいものだなと思うわけです。そっちの方がより深刻な話のような気がするんですけど・・・。(既に調査されているんだろうか・・・。)

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2006年9月16日 (土)

とても素敵なコメント

私に美味しいお野菜を送ってくださっただんきちさんからとても素敵で、けどハッとするコメントを頂きました。

私自身、小学生の間は母親が専業主婦で、もともとなんでも自分でやらないと気がすまないタイプの人なので、お手伝いもろくにせぬまま大きくなり、自分で家族のご飯を作るという経験はほぼ全くないまま実家を離れました。
そのため、こういう発想が全く出てこなかったのですが、確かにそうですよね。何も必ずお母さんが作らなくたっていいんですよね。当番だっていいかもしれない。

コメント欄だと気付かれない方も多いと思いますので、こちらに転載しておきます。だんきちさん、もしご迷惑だったらおっしゃってくださいね、残念ですけど消しますので。

だんきちさんのくださった素敵なコメントはこれ。↓

我が家の場合も、忙しさのあまり、子どもたちは0歳から保育所&留守番生活をしていました。それでも、なんとか心の健康を保ったまま、育ってくれたのは、やっぱり「食べること」だけはおろそかにしなかったからかな、と思います。

今も起きて台所に入るなり、子どもらはもうろうとしながら、パンを焼いたり、ごはんをよそったりしています。「食べること」に対する執着がある子どもはやっぱり心も健康なように思います。

食事の支度をするのは、お母さんじゃなくてもいいんです。我が家ではもちろん父親も料理しますが、小学校のうちから子どもが食事を用意することもあたりまえでした。

「仕事が忙しいからつくれない」という声はよく聞きますが、「じゃあ、子どもにつくってもらったら。」というと、みんなきょとんとします。「そんなの、無理」って。でも、子どもにもできます。やらせれば、必ず、できるようになります。

仕事から疲れて帰ってきた時に、暖かいご飯が用意されていたら、こんなにうれしいことはありません。その準備をする子どもは決して「お母さんがつくってくれないかわいそうな子ども」ではありません。「食べたいものが自分でつくれる」「人の分もつくることができる」ラッキーな子どもだと思います。

「子どもの食生活」をいうと、どうしてもお母さんにプレッシャーがかかってしまうものですが、お母さんも忙しい今、もっともっと「子どもにご飯をつくってもらう」ことがあたりまえになってもいいのにな、と思います。ちょっとした考え方の転換で、仕事を持つお母さんもずいぶん楽になるものです!  

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2006年9月15日 (金)

食べるということ(2)

(昨日の続きです。)

もう日付も変わる頃、仕事で疲れて帰ってきてキッチンで包丁を握る。長らく面倒でそんなこともしていなかったが、作る人の思いがこもった新鮮なお野菜を料理してすぐ頂く。そうすることで疲れが軽くなるような気がした。そして、何より気持ちまで満たされるような気がした。
改めて、食事というのがいかに大切なのかということを感じた。

もちろん、私の仕事は体が資本で、私が倒れたら代わりにレッスンをしてくれる人がいるわけでもないし、レッスンができなければ当然私の生活も成り立たなくなる。
だから、忙しいながらも睡眠や食事にはある程度気をつけているつもりだったが、手間のかからないものばかり食べていては、「心の健康」までは維持できないのかもしれない。ちょっとそんなことを思った。

有機栽培のお野菜は、通常、スーパーなどの店頭に並ぶものより値段が張るし、更に近所のお店でちょっと購入ということもまだまだ難しい。宅配などをやっている業者などの広告もたまに見かけるが、ひとり暮らしの上、毎日必ず自宅で食事をするとは限らない私には分量が多かったりもして、これまで利用することもなかった。

しかし、手頃なお値段のものをスーパーで買って、それを使い切れずに捨ててしまうのであれば、作った人が見えるものを少しの量買って、残さず美味しく頂く方が結局は体にも心にも、環境にまでもいいのではないか、そんなことを考えた。

とは言っても、このところ慢性的にバタバタしているので、思い切ってそんな生活に切り替えられるかどうかはわからないが、今回のことで改めて考えたことがある。

「食育」という言葉が使われるようになって結構になるが、子どもにとって「食べる」ということは単なる体の健康のためだけではなく、むしろ「心の健康」のためにとてもとても大切なことなのではないかと改めて感じたのだ。

あくまでも頭の中のイメージでしかないので、当然例外もあるだろうし、一概には言えないだろうが、「お母さんの手料理」が食卓に並ぶ家庭の子どもは、ファーストフードや出来合いのお惣菜、冷凍食品などのメニューが並ぶ家庭の子と比べて、色んな意味で「健康」のような気がするのだ。

お母さんの手作りといったって、何も「○○の××風」とか、手の込んだ料理じゃなくって構わないと思う。お野菜を切って炒めただけ、お肉を焼いただけ、お魚を煮ただけ、そんなメニューだって、子どもの健康を気遣い、心を込めて作ったものであれば、きっとそれは目に見えない力となって子どもに届くような気がする。

最近は世の中がどんどん便利になり、作る手間を考えたら買った方がかえって安かったりということだって少なくないだろうし、お母さん達も何かとお忙しいだろうから、毎日手作りの食事というのは難しいかもしれないが、子どもが小さい間は、それこそ、家事の中で最優先すべきことが食事の支度なのかもしれないとさえ思う。
掃除はしなくても死なないことは私が身を持って証明しているし(・・・威張って言えることではないけれど・・・)、お洗濯は殆ど機械任せでできるはず。他で手を抜いても、「食べること」はおろそかにしてはならないのではないか、そんな風に思う。

食事の支度に割く時間があれば、その分他に使いたい。
最近はもっぱらそんな風に思ってしまっていた私だが、今回だんきちさんのお野菜を頂いたことで、ちょっとその考えを改めよう、そう思った。

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2006年9月14日 (木)

食べるということ

昨日、先日教材をご紹介し、一部お貸ししたお礼にとだんきちさんが有機栽培で作っておられるお野菜を送ってくださった。
「少しだけ」とメールに書いてくださっていたのだけれど、一人暮らしの上、最近は全く料理をしていない私には有り余るほどの量だった。

私は直接の知り合いで農業を営んでいるという人がいない。
たまに親のお知り合いなどが田舎から送ってきたなどといってお野菜を実家に届けてくださることはあるけれど、やはりそれは「知らない方」が作ったものだ。

そういう意味で、今回だんきちさんから頂いたお野菜は私にとって初めて、本当の意味で「生産者の顔が見えるお野菜」だった。(まあ、旦那様のお顔は存じ上げないけれど。)

不思議なもので、知っている方が丹精込めて(何しろ有機栽培だからその手間は一層大きなもののはず。)作られたお野菜を無駄にしてはばちが当たると思った。

もちろん、普段から食べ物を粗末にしてはいけないと思っているし、食事はなるべく残さず食べ、どうしても食べられないときには捨てる前に心の中で「ごめんなさい」と謝る。
それでもやはり、冷蔵庫の中でトマトを腐らせたり、葉野菜をしなびさせたり、別の場所ではジャガイモから激しく発芽させ、食べられぬまま処分することになるものも決して少ないとは言えない。

もったいないとは思うし、作ってくださった方に申しわけないとは思うのだけれど、やはり顔の見えない人が作ったものにはその程度の気持ちしかもてないということなのだろう。

昨日は教室を出たのが23時を回っていて、帰宅したときにはもう30分もせずに日付が変わるという時間だった。
普段ならそんな時間に帰って料理なんて絶対にしないし、特に夏休みは早寝早起きしなくちゃいけなかった分、夜遅くに食べると寝られなくなるし、それでも寝ると太るから、体力や健康を維持できるであろう最低限だけ食べて寝る、そんな生活を続けていた。
カット野菜の生野菜サラダに納豆やお豆腐、もずくやめかぶなどの海藻類、殆どそんなものばかり食べていたので、本当に長らく「料理」と呼べることをしていなかった。

けれど昨日は、送って頂いたお礼を、ちゃんと美味しく頂いた感想と共に伝えたかったので、久しぶりに包丁を握って火を使って、(まあ、そうは言っても料理といえるほどのことはしていないが)野菜を調理した。

(続きますが、すみません、一旦ここで帰宅します。今日は「だんきちさん自家製トマトソース」で晩ご飯を食べたいので。。。)

(帰ってちゃんと美味しくご飯は頂いたのですが、今度は眠くなって、頭が働かなくなってきてしまいました・・・。覗いてくださった方がおられたらお許しください。続きは明日書かせて頂きます。)

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2006年9月 6日 (水)

もっと褒めよう。

育児本などにもよく「褒めて育てよ」というようなことが書かれているのを目にする。
また、子どもをやる気にさせるのにも、できないところを指摘してそこを改善させるより、まずはできるところをもっと徹底的にできるようにさせる方が効果的だなんてこともよく目にする。

実際、褒められて嫌な気がする人は殆どいないだろうし、特に小さい子などであれば、褒められたいがために嫌なことでも頑張れたりするなんてことはあるだろう。

そういうことは頭ではわかっているし、普段のレッスンでも極力子どものできるところを見て、そこを褒めるように心がけているつもりだ。

ただ、昨日改めて、やっぱり褒めるってのは大事だなと思った出来事があった。
ま、それは単に私が「子ども」なだけかもしれないのだが、あるメールのひと言で褒めることの効果を身をもって再認識したのだ。

最近、パズル問題を作っている。
もともと、教材などを必要に応じて作ることはあったし、それは今でもそうだ。ただ、パズルに関してはこれまではあまり作る必要性がなかったので、作らずに過ごしてきていた。

けれど、りんご先生とお知り合いになったことがきっかけで、自分でも問題を考えるようになった。
そして、できた問題をりんご先生に送って見てもらい、意見を聞いたりもするようになった。

すると、ときどきりんご先生がメールに書いてくださるのだ。

「先生、すばらしいですね。」

とか

「最高です。」

とか。

もちろん、社交辞令も入っているとは思うが、大人になってそんなにストレートに褒めてもらう機会は殆どない。特に私は1日の大半を子どもと過ごしているので、大人から自分の仕事その他に対する評価を受ける機会は一般の社会人より一層少ないのではないかと思う。
仮に塾などに勤めているのであれば、同僚の先生や経営者などからの評価を受けることもあるのだろうけれど、それすら私にはない。

なので、仮にお世辞だろうとなんだろうと、「すごいですね」とか「最高です」とかという言葉はやはり素直に嬉しいのだ。

何かを作って、どうかなぁと思って見せたときに、第三者が「すごいね」って言ってくれることで単純にやる気が出る。
もっと違う問題も作って感動してもらいたいとか、驚かせたいとか、そんな風に思うようになるものだ。

実は私は家事の中でも特に掃除が嫌いだ。もちろん汚いのが好きな訳ではないし、教室は子ども達が快適に過ごせるようにと、仕事の一環として掃除もする。
しかし、自宅は正直言って人様には絶対見せられないような状態なのだ。

洗濯はしなければ生活に困るけれど、掃除はしなくても特に困りはしない。埃アレルギーでもあれば別の話だが、幸いそんなこともない。いくら埃っぽい部屋でも、生活する上での不自由はあまり感じないのだから、一層掃除をする必要性を感じられない。

けれど、仮にもし素敵な旦那様でもいて、掃除をしたときに「おぉ、綺麗になったなぁ。気持ちいいなぁ。」とか言ってくれたら、旦那様のためにも頑張って綺麗にしようとか思えるのかもしれない。(と言いつつ、実際にはしなさそうな気もするが。。。。。。)

褒めるというのは、相手をきちんと見るということでもあると思う。
髪型が変わったとか、今日の服はよく似合っているとか、そんな小さなことを褒めようと思えば、普段から相手をきちんと見ていなければできないことだ。

目の前に子どもが2人いて、同じ問題を解いているとして、ひとりは10問中1問だけ間違えた。もうひとりは1問しか合わなかった。
その事実だけを見れば、前者が褒められ、後者は叱られるかもしれない。

しかし、仮に前者は普段常に全問正解をしている子で、後者は常に0点を取っている子だとすれば、状況は変わる。前者ではなく、後者の1問こそ褒めるべきなのだ。(もちろん前者も褒めて構わないが。)
けれど、後者を褒めるにはそれまでのその子を見ていない限り無理だ。目の前の9問不正解の答案だけ見て褒めることは難しい。

仮に全問不正解だったとしても、その問題を解くのに目の前のその子が本当に必死で取り組んでいる姿を見ていたらどうだろう。
結果は全問間違いだったとしても、必死で解こうとしたその姿勢を褒めることだってできるはずだ。

高校時代の私は正にそんな経験をした。以前にも書いたが、私は高校入学直後、数学で甚だしく躓いた。担任はとてもいい先生で、その先生が数学の担当であるのに、小テストでは毎回のように0点。いい先生なのだから、何とか点を取りたいと思っても思うようにいかない。
けれど、担任の先生は稀に私が部分点を取ったとき、本当に心からの言葉で「よく頑張ってましたね!」と褒めてくれるような方だったのだ。
あの先生がいてくださったから、今私はこうしていられると言ってもいいかもしれない。

それほどに「褒める」ということは大切なのだ。

これまでもできないことを責めるのではなく、できることを褒めるよう心がけてきたが、これからはより一層そう心がけていきたいと思う。

自分の口から常にプラスの言葉を発していれば、褒められた相手だけでなく、間違いなく自分だって幸せな気持ちになれるはずなのだから。

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2006年8月16日 (水)

これってどうなんだろう?

最近私は殆どテレビを見ない。忙しいときなど、考えたら3日ぐらいテレビつけてないなぁと思うこともあるぐらいだ。
新聞は一応取っているけど、殆ど読んでいない。という訳で、私がニュースを知るのは殆どがネットを通じてだ。

で、今日たまたまこんな見出しを見つけた。

早寝早起き運動、乳幼児に拡大=「キレる子」対策の一環-文科省

そして、過去のニュースとしてこんなものも見つけた。

文科省が運動 「早寝 早起き 朝ご飯」 - 読売新聞(6月2日)
子どもの肥満対策 早寝早起き朝ごはん - 読売新聞(7月14日)

もちろん、子どもにとって早寝早起きや朝ご飯をしっかり食べるのがいいことだというのはわかるし、私もこれまでブログに何度か書いたり、関連書籍を紹介したりもしてきた。

実際、私自身とにかくよく寝る子どもだったし、そもそも起きていたくても時間になれば母に「寝なさい!」と叱られたものだ。当然朝ご飯を食べずに学校に行った記憶もない。

健康面でも学力面でも、更には今日のニュースでは心の面でも「早寝早起き朝ご飯」が見直されているということなのだろうけれど、これってどうなんだろう?
文部科学省がわざわざ予算を組んで取り組まなくてはならないようなことなんだろうか?

もしそうなのだとしたら、子どもがどうのこうのという以前に、間違いなく「大人(親)」の方に問題があるということなのではないんだろうか?

ブログにも何度も取り上げている、うちの教室のスーパーちゃんたちは、大抵みんなおうちの方がきちんと躾をしておられ、規則正しい生活をしている子が多い。
そもそも、「早寝早起き朝ご飯」なんてことは各家庭で躾、教育すべきことなのではないんだろうか?
文科省が予算を組んでまでやらなければならないということが事実なのだとしたら、やはり子どもに関わる大人たちが反省しなければならないように思うのだが。。。

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2006年6月 7日 (水)

もしかしたら何か参考になるでしょうか。。。

教室を始めてから、自分の中でも変わったことが色々ありますが、初期の頃と今とでは更に変わってきていることもあります。
そんな中で、いつ頃からかはちょっと不確かなのですが、ある場面に出くわすとやってみるようになったことがあります。

最近では普通にやっているのですが、そのことがもしかしたら家庭学習の際、何かご参考になるかもと思ったのでちょっとだけご紹介します。といってもなんでもないことなので、既に皆さん実践されているかもしれませんが。

子どもと勉強していて、時々こんなことはありませんか?

前回(前日だったり1週間前だったり、それは色々ですが)スラスラできていた問題が突然できなくなる。
極端な場合は、ほんの2、3分前までスラスラ解いていた問題が突然できなくなる。

子どもがそんな状態に陥ったとき、以前の私は(一体どうしたの??)と思い、子どもにも「なんで?さっき(または先週)までできてたやん?」と尋ね、何とかしてその問題を思い出させようとやっきになったりということがありました。

どう考えたってほんのさっきまでできていたのに、できないはずはない!と思っているため、やったらできるはず。。。と熱くなってしまうのです。

けれど、そういう状態に陥った子に熱くなっても大抵の場合いい結果は得られません。私は焦る、子どもにもそれが伝わるし、確かにさっきまでできていたのになんで?と子どもまで自信をなくしたり、どんどん表情がどんよりしてくる。
ホントにいいとこなしです。

では、どうすればいいのか。

この方法は上記のような状態になった子にしばしば効果がありますので、ご家庭で「なんでこんなのもできないの~~!!(怒)」となってしまう危険を回避するためにもご参考までにお知らせします。

それは、一旦全く別の、できればその子が確実にできそうな問題をやらせてみるのです。
私なら、そのプリントの中で確実にできそうな問題を先にさせるか、その中にはなさそうであれば、別の確実にできそうなプリントなどをまずやらせるのです。そして、調子が戻ってきた頃に、改めてもう一度その問題に戻らせてみると、絶対ではありませんが、かなり状況が改善します。場合によっては「なんでできへんかったんやろ?」とか言いながら、スラスラ解いていく子どもを見ることもできます。

どうしてそういう状態に入り込んでしまうのかはまだわからないのですが、うちに来てくれている子達でそんな状態になることがあるという子は決して少なくありませんから、ご家庭でそんな状態になることもきっとあるんだろうなと。

けれど、実際、以前は当たり前のようにできていたのですから、何かちょっとしたきっかけで元に戻ったりすることは往々にしてあるようです。その方法が、「視点を変える」、「気分を変える」、「できることをやって調子を戻す」といった工夫なのです。

これをやってもダメな場合は、「その日は一旦諦める」というのも大事なんじゃないかと思います。ひと晩寝たらまたできるようになったなんてことも十分あり得ますから。

簡単なことですが、何かご参考になれば幸いです。

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2006年6月 2日 (金)

子どもへの口止め

多分私も幼い頃、母に言われたことがあるような気もしなくはないが、少なからぬ世のお母さんが子どもに向かって「これは人に言っちゃダメよ」と口にしてはいないだろうか。

例えば、夫婦喧嘩をしたときに人様に知られるのが恥ずかしくって
「○○ちゃん、ママ達が喧嘩してたのはみんなには内緒ね。」
みたいな口止めをすることもあるかもしれないし、ついついお隣の人の愚痴を言ってしまったのを子どもに聞かれて
「○○くん、今言ったことはお隣のおばさんには言っちゃダメよ。」
なんていうこともあるかもしれない。

お家の中でついやってしまった恥ずかしいこと、知られたくないことを口止めするのはまだ可愛いことのような気がするが、私が時々出会う、子どもにとって可哀想な口止めがある。

わかりやすい例で言えば、大量の機械的反復学習はさせないことをお願いしているのだが、量の少なさが不安なのか、お家やそのほかのところで色々反復させておられるご家庭がたまにある。

そんなとき、それをお子さんに口止めされることがあるのだ。
以前から書いているけれど、子ども達はお母さんが大好きだ。お母さんの言いつけは一所懸命守ろうとする。言ったらダメと言われたことは極力言わないように努力するのだ。

しかし、じゃあなぜ私にそれがわかるかというと、これまで何人かの子たちが私にこう言ったからだ。

「お母さんが言っちゃダメって言ってたから。」

子どもは本当にけな気だ。言ったらダメと言われたということを答えてくれる。決して口止めされたことそのものを認めたり、しゃべったりはしないのだ。自分の答えが大人にとっては肯定と同じことだとはわからずに、必死でお母さんとの約束を守ろうとするのだ。

もちろん、ごく稀にそういうことがあるだけなのだけれど、私の小さな教室でさえ稀とはいえそういうことに出会うということは、世の中にはそんな例は沢山あるということなのではないかと思うのだ。

「お母さんが言ったらダメって言ってた」といった子のお母さんにその話を私からすることはない。せっかく本人が必死で約束を守ろうとしているのに、私がそれをお母さんにいうことで、万一その子が「言ったらダメって言ったでしょ!」と怒られたりすることがあっては可哀想過ぎるからだ。

けれど、考えてみてほしい。そもそも、幼い子に口止めをすること自体、大抵の場合無意味だ。子どもは言っていないつもりでも結果的には相手に伝わってしまう確率は低くないと思う。

もちろん、何か約束を守ることは大切なことだ。けれど、無意味な口止めは子どもにいい影響を与えるようには思えない。
ならば、最初から口止めなどしない方がずっといいように思うのだ。

わかりやすいよう、教室の子どもとの例で書かせてもらったが、子どもに伸びやかに幸せに育ってもらいたいと願うのであれば、何かを口止めする前に一度考えてみてほしい。それは本当に口止めすべきことなのかどうか。口止めさせなくてはいけないようなことなら、それ自体をしなければいいのではないかと。
考えた上で口止めが必要なことであれば(例えば、身内が病気だけれど、人に心配をさせないために治るまで言わないようにとか、そういうことは他人への配慮でもあるし、いいのかもしれない。)すればいいと思う。

お母さん達にお願いしたい。
大切な子ども達の小さな心が不必要に痛まないためにも、無意味な口止めはできるだけしないであげてほしい。
私はそう願っている。

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2006年6月 1日 (木)

佐世保の事件の手記

昨日ネットのニュースで佐世保の事件の被害者と加害者それぞれの父親の手記が公開されたのを読んだ。

被害者のお父さんは毎日新聞社の方だったこともあり、事件直後から何らかの手記を何度か発表されたように思うけれど、加害者側からの手記が出たのはこれが初めてのようだ。

あの衝撃的な事件からも随分時間が経ち、私の中での記憶はかなり薄れてしまっていた。あの事件の直後には加害者の家庭に問題があったのだろうと思っていた。

もちろん、子どもが犯した罪の責任は親にもあるだろう。どんな理由があったにしろ、結果的に我が子が人の命を奪ったのだから、その子の親は何の責任もないというのには無理がある。

しかし、手記を読んで正直言って驚いた。もちろん、書かれたものからわかることだけで判断するのは軽率かもしれない。書こうと思えばいくらでも嘘を書けるのだから。

ただ、あの手記を読んで、お父さんが嘘を書いておられるような印象は受けなかった。そして、書かれている内容が全てお父さんにとっての真実なのだとしたら、事件直後、お父さんご自身が本当に信じられなかったに違いない。

もちろん、自分を振り返ってみても、小学6年生頃といえば、もう親に内緒のことも色々あったし、何でも正直に答えていた訳ではない。親に見せる顔と友達に見せる顔は違っていただろうとも思うから、お父さんは子どもの心の底に潜む何かに気づけなかったということなのかもしれないが、少なくとも手記から感じられるその家庭の風景は、親子の会話がないわけでも、親が子どもに過重なストレスを与えていたわけでもないように思える。

だとすると、一体なぜなんだろう。

一時、この本を取り上げたばっかりにちょっとややこしいことになりかけたけれど、ゲームの恐ろしさを挙げた岡田氏の著書のことがまた頭を過ぎった。

そしてまた別に、適応障害などの何らかの障害によって、突発的にそういうことをしてしまう場合があるというようなこともいくつかの本で読んだけれど、そういう障害は親が早い段階で気づいて適切な対処をすれば症状が軽くて済んだり、殆ど治ってしまうこともあるようだけれど、対処を誤ると悲しい結果につながることがあると書かれていたことも頭を過ぎる。

加害者の彼女が果たしてなぜあの事件を起こしてしまったのか、それはいつの日か本人の言葉で伝えられることがあるのかもしれないし、本人以外に本当の理由はわからないだろう。だから、あれこれ考えても仕方のないことなのだけれど、今回の手記はなんだかすごく考えさせられるものだった。

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2006年5月22日 (月)

胸の痛むニュース

「栄養失調児:校長見かねて、こっそり牛乳飲ます」

今日、ネットのニュース項目を見ていると、こんなタイトルが目に入った。
仕事柄、学校や教師、子どもの話題には目が留まる。一体どんなニュースなのだろうと読んでみると、なんともやり切れない気持ちになった。
この両親にとって子どもはなんなのだろう。産むつもりもなく産まれてきてしまったのだろうか。

コンビニの賞味期限が切れたもの自体は、廃棄するぐらいなら食べたって構わないと思う。実際、賞味期限は「美味しく頂ける期限」であって、ものが傷んでしまうからそれまでに食べなさいという「消費期限」とは違うのだから。

もちろん、両親には両親の事情があるのだろう。けれど、少なくともこの両親もが栄養失調だったようには思えない。食べないからといって偏った食事をさせることを正当化させるのは親としてやはり絶対間違っていると思う。

この子の救いはこの校長先生に出会ったことかもしれない。校長先生がそんな風にひとりひとりの子どもに目を配っているということにはちょっと感動した。
そういえば、以前読んだ「夜回り先生」の著書の中にも、校長室で手首を切ろうとした男の子の話が出てきたっけ。その子の苦しみを真正面から受け止めて、その校長先生は彼と一緒に暮らしたと書かれていたような気がする。

私には子どもがいない。だから、私が親を批判しても「あなたは苦労をしらないから。」「どれだけ大変かわからないでしょ。」そう言われてしまえば返す言葉もない。
けれど、子育てがどれだけ大変で、どれだけ大切なことなのかはわかっているつもりだ。産んだからには、ある程度自立するまで守り育てるのは親の何よりも優先すべき務めのはずだ。

もちろん、世の中にはいくら子どもを愛していても、貧しくて十分に食べさせられない家庭だってあるだろう。けれど、この子の場合はきっと違う。そして、そんな子は他にもきっといるということなのだろう。

世の中に「親が子どもを育てる」という務めより大切な務めはあるのだろうか。
どうしても自分で育て上げることができないとしても、何の環境も整えずにそれを放棄することはあってはならないことだと思うのだ。自分ができなくても、代わりに愛情を注いでくれる大人は探せばきっといるはずなのだから。

校長先生から牛乳をもらって飲んでいる子ども達はどんな風に笑うんだろう。。。

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