2006年5月 8日 (月)

こんなのを見つけました。

見つけたからってそれが何?って言われそうですが、私が幼い頃からうちの父の趣味のひとつになぜか「折鶴」っていうのがありまして、隠居して以来その趣味が再燃。2センチ角や3センチ角の小さい紙で千羽鶴を延々折っているかと思えば、自分で工夫して連鶴を折ってみたり。。。不思議な人です。

で、先日、JRの尼崎の事故に107羽の連鶴を届けたというニュースを見て、あんなのを折ってみたいと言い出したのです。
しかし、父はとことんアナログ人間なのでインターネットなんてやったこともありません。なので、代わりにちょっと調べてみたところ、こんなのを見つけました。

「秘傳千羽鶴折形」

なんだかとても趣きがありますね。妙に気になります。
で、どうやらこの本を参考にされたと思われる他のサイト(もっと見やすく、わかりやすく、紙の切り方を画像もつけて説明してくれているようなところ)も見つけたのですが、その途中でこんなのも見つけました。

1枚の紙でこんなのが折れるんだなぁと、賢い人は賢いなぁと感心しつつ、早速自分でも折ってみたりして。。。
空間図形の学習の導入とかでも使えるかもしれないなぁと思ったりしますが、いかがでしょう?

鶴とは全く関係ないのですが、私が折ってみたのはこれです。

連鶴も結構楽しそうだなぁ~~。

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2006年1月 7日 (土)

春の七草

今日は七草粥を食べる日。
昨日仕事の帰りにスーパーに寄ったら、七草セットが売り切れていて、ちょっと焦りました。

今日は早目にスーパーに行って確保しなくてはと思いながら、冬休み最終で子ども達がレッスンの曜日変更などが重なり、レッスンはお休みになったため、ついついお家で帳簿の整理をしたり(まあ、これは仕事なんですけど)、ブログ打ったり、お洗濯したりしていたら気づけばもう3時半になっています。
ちょっとピンチかもしれません。こうなったら「ニセ七草粥」になる可能性大です。(苦笑)

実家にいた頃、七草粥の日に母はしばしば「無理矢理な七草粥」を作ってくれたものです。
時にはにんじんとかも入ってたり。。。(笑)
それでも、そんな母のお蔭もあり、実家を離れた今も年中行事のひとつとして、やっぱり外せないもののひとつになっています。

その昔、まだ小学生の頃、母が近くの河原かどこかで「ぺんぺん草」を取ってきました。
それも春の七草のひとつなのだという母を、内心、(そんなん絶対ウソや。あんなもん食べさせる気なんやろか。。。)と思っていたのを思い出します。

子どもの頃には近所の空き地や河原などにぺんぺん草は簡単に見つけられ、葉っぱを折って、茎のところを持ってくるくる回すと、シャラシャラ音がするのを楽しんでいたものです。
そんな、その辺に生えている草を食べるだなんて、子供心に理解できなかったのです。だって、煮込んでもイマイチ柔らかくなりそうにないですし。。。(苦笑)

今の子達の多くはスーパーで売られている「七草セット」を見たことはあっても、道端でぺんぺん草を見たことはなくなっているのでしょうね、きっと。

因みにネットでいくつも紹介されていましたが、見やすくて、説明もきちんとしていそうだったので、ひとつサイトをご紹介しておきますね。
これが春の七草だそうです。
http://kiransou.hp.infoseek.co.jp/harunonanakusa.htm

さて、ちょっとスーパーに行ってきてみます。
手に入りますように。。。

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2005年12月18日 (日)

昔の遊び

このところ、以前にも増して色々なことを考えています。
その中でふと気になったのが「昔の遊び」。

昔といっても、自分が子どもだった頃にやっていたことですから、本当の意味で「昔」なのかどうかはわかりません。

私が子どもの頃には当然、テレビゲームなどというものはなく、遊びといえば外遊びか家の中で家族と一緒に遊ぶ。そんなものが主流だったように思います。

まだ幼い頃には外では、3歳年上の兄や近所の友達に混じって、ビー玉やメンコをしたり、空き地で虫を探したり、泥遊びをしたり、そんなことをしていました。

家の中では、ブロックや積み木で遊んだり、母に教わっておはじきやお手玉をしたり、けん玉をしたり、塗り絵をしたり、カルタ取りをしたり。。。そんなことが遊びの全てでした。

少し大きくなってからは表の道にチョークやローセキ(と呼んでいた気がする)で、「かかし」や「けんけんぱー」、陣取りなどを描いて遊んだり、家では少し難しいプラモデルや、オセロやダイヤモンドゲームのようなボードゲームなどをしていました。もちろんトランプもやりました。

周りの子達も恐らく似たような遊びをしていたと思います。

今思えば、それらは全て「頭」にも「心」にもよい遊びだったのです。
小さいうちからしっかり指先を使えるようになることは、賢くなるためには不可欠です。

昔の遊びの全てには自分自身で工夫したり、練習したりしなくては楽しくないものが沢山ありました。

ほとんど全て安価なものです。今なら、おはじきもけん玉も、それこそ100均に行けば手に入るほどです。

道にチョークで描いて遊ぶというのは難しい時代かもしれません。裏の空き地もなかなかない時代だと思います。
それでも、家の中での遊びなら、いくらでも昔に帰れるのではないでしょうか?

最初に何があるか。家に当たり前のようにお手玉やおはじきがある。けん玉がある。親がやってみせる。そうすれば、子どもにはそれが当たり前になる。

もちろん、いずれは他のお友達のおうちなんかでゲームの存在を知るかもしれません。けれど、自分で工夫する遊びを知っている子は、ゲームにのめり込むことはあまり心配しなくていいのではないかと思います。少なくとも、工夫する遊びを知っている子がゲームだけをやり続けるようにはなりにくいと思うのです。

それに、仮にお友達のところでやったって、お子さんが小さいうちは確固たる信念を持って家にはゲーム機は置かないと決められるのもいいと思います。

私が小学生の頃、同級生の中に、家にテレビがないという子がいました。情報はラジオで得るのだと。

子供心に、その子のことを可哀想だなと思っていましたし、テレビも買えないおうちなのかなと思ったりもしていました。けれど、そうではなかったのだと思います。私が知る限り、その子のおうちがテレビも買えないような切り詰めた生活をしているとは思えませんでしたし、彼の話ではお父さんがそう決めていると言っていたように思います。

今になって、そのお父さんの信念は素晴らしいなと思います。幼い頃にはテレビは見せない方がいいと、最近でこそ結構知られるようになってきましたが、そのお父さんは時代を遥かに先取りして、子ども達にテレビを見せない生活を選んでおられたのでしょう。

幼い頃から家にテレビがなければ、子どもにとってはそれが基準になるはずです。

であれば、子どもにとっての「遊び」は自ら工夫してするものだという価値観を最初に育めば、後はそれがその子の基準になるはずです。

幼いお子さんをお持ちのおうちの方、一度遊びを見直してみられませんか?

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