ブログを始めて20年
教室を始めてから22年余りになりますが、ふと、昔はブログでしばしば熱く語っていたな、恥ずかしいけど、どんなこと書いていたのかなと遡ってみたところ、ブログを始めてからは20年余りが経ったことに気づきました。
その頃はブログが流行り出した頃で、とても大勢ブログを書いている方がいたように思います。
そこから時は流れ、恐らく若者でブログを書いている人はほとんどいないのではと思ったりもしますし、人のブログを読んでいる方もきっと相当減ったのだろうなとも思います。
20年前の今日はたまたま、高校時代の恩師の話を超長編で書いていました。
語りすぎていて、そして、もし読んでくださる方がいたら、途中で投げ出してしまわれるのではと思いつつ、ちょっとこちらに転載してみようかと思います。
以下20年前の今日のブログ。
私の人生で、何度か印象深い出会いがありました。
これまでご紹介したのももちろんその中のひとつではあるのですが、これまでを振り返ってみると、本当に大切なタイミングで必ず素晴らしい出会いを頂いているように思います。
その中でも、今の私を語る上で欠かすことのできない恩師との素晴らしい出会いについて書かせて頂きます。お時間のある方はお付き合いください。
私は多分、学校の先生方との出会いにはとても恵まれていたのではないかと思っています。
未だに幼稚園の頃の先生とも年賀状だけですが交流が続いていますし、お世話になった先生、色んな思い出がある先生、挙げればきりがありません。
ですが、その中でも、あの先生との出会いがなければ私の人生は全く変わっていたかもしれないと思う恩師がお二人おられます。お一人は中学時代の恩師、私が教師を志すきっかけをくださった方です。
そして、もうお一人は高校時代の恩師、教育学部への進学を勧めて下った方。
今日はまず、高校時代の恩師のことをご紹介させて頂きます。
これはいずれ自分のことを振り返って書かせて頂こうと思っていますが、私の両親は躾には厳しかったものの、教育、特に進学に関しては本当に疎く、また、私自身も偏差値だの、どの学校が難しいだの、そんなこと全くわかっていないような子どもでした。
当時の私の内申書から、学校に勧められるままに願書を出し、よくわからぬままに運良く紛れ込むことができたのは学区では一番の進学校でした。
この進路指導についてはまたいずれ書かせて頂くかもしれませんが、セーラー服は着たくなかったのに。。。そんな思いを抱いての入学でした。
さすがに、入学するまでにはその高校が学区一の進学校だということはわかっていましたので、自分は最下位クラスで当然だろうと、成績が悪いことは特に気にも留めていませんでした。
今思えば自分でもなぜだったのかはわからないのですが、高校に入った途端、私は数学で完全に躓きました。後に見直してみると、一番初めは中学でもやった因数分解や解の公式などから始まっていたにも関わらず、小テストはいつも0点。定期テストは追試の常連。そんな有様でした。
テストの点数や順位は別にどうでもよかったのですが、留年するのはさすがに困る。だけど、自分では一所懸命やっているつもりなのにこの状態ではとてもじゃないけど着いていけない。。。入学して2ヶ月近くは毎日のように高校を辞めることを考えていました。
ただ、辞めたらもう一度どこかを受験できるのか。1年遅れになるのではないか。そんなことをあれこれ考えているうちに、できないながらも徐々に学校生活自体には馴染んでいきました。
1年の時の担任は、奇しくも数学の先生でした。その頃私がもっとも苦手としていた教科です。
その先生はある日こんな話をしてくださいました。
先生は地図に興味があって、地理を専攻したかったんだけど、目に問題があり、色がきちんと見分けられないため、その道を断念して数学の教師になったのだと。
夢を諦めても、高校の数学の先生になられたのですから、間違いなくとても頭のいい方だったのだと思います。ですが、そんなご経験があったからか、本当に親身に素晴らしいご指導をしてくださいました。
クラスの子の大半は、小テストでは当然満点。悪くても2問中1問は完答。そんな感じでした。その中にあって私は数少ない0点連発の生徒だったのです。
そのくせ、なぜか学級委員などをするハメになり、先生とは何かとお話をする機会もありました。正直なところ、いい加減にやっていて点が取れない訳ではなく、私が真面目にやっているということは先生は感じてくださっていたんだと思います。
用事で職員室に行くと、20点満点のテストでたった5点取っただけの私を「○○さん、今日は頑張ってたね~!」と褒めてくださるのです。決してとってつけた風でもなく、当然嫌みでもなく、笑顔で心からそう言ってくださるのです。
もう、何が何でもこの先生の教科だけはできるようになりたい!
そう思わせてくれました。しかし。。。いかんせん、既に数ヶ月躓きっぱなし、数学は2つに分かれていて両方とも目も当てられない状態。
何からどうすればいいのかもわからぬまま、日々出される大量の宿題の解答解説をひたすら赤ペンで写し、少しでもわかるようになりたいと必死で解説の意味を考える日々がしばらく続きました。
ノート提出があったとき、私のノートは見事に真っ赤っかで、多分ただの1問も自力で解いた問題がなかったのではないかと思います。それを提出した後、担任に呼ばれました。
「○○さん、これは何ですか!?」
確かに全て真っ赤で書かれたノートです。宿題をやったとは言えないのかも知れません。ですが、事実を言うしかない。そう思って、先生に伝えました。
「とにかく全部わかりませんでした。だけど、提出しないといけないし、だからと言ってできないのに答えを黒で丸写しする訳にもいかないのでこうしました。」
先生は「わかりました。」とだけ言って、そのノートを受け取ってくださいました。
それからもしばらくは真っ赤っかのノート提出が続きました。一応は進学校でしたから、1回の試験の範囲がかなりあり、ただひたすら読んで写す作業にもかなりの時間がかかりました。でも、なんとしてもこの数学だけはできるようになりたいと、他の教科を犠牲にしてでもその先生の数学だけは試験範囲の問題の解答解説を全てとにかくしっかり読み、わからないながらも問題と照らし合わせながら、ノートに写す。そんなことをしばらく続けました。
サボっていてできないのではないということを考慮してくださってか、1学期の数学は2つともかろうじてぎりぎり赤点を免れました。ただ、相変わらずわからないまま、チャートや問題集を写す日々が続いていました。
そんな調子のまま夏休みを終え、2学期が始まったある日、そのとき解答を写そうとした問題の意味がわかったのです。本当に突然、「あ、こういうこと?」と線が繋がったのです。
すると、思ってもみなかったことに、これまで習ってきた全ての内容が理解できるようになったのです。
そして、気づけばもうひとつの数学も、こちらほどではないものの理解できるようになっていました。更に驚いたことに、他教科全てにもいい影響が出たのです。
その高校の通知簿はなんだか珍しく、5点刻みの20段階、100点満点でつけられ、45点以下が赤点だったと思うのですが、1学期の終わりの数学の成績は両方とも赤点ギリギリの50点。
それが、確か2学期の終わりだったと思いますが、75点、70点ぐらいまで上がり、他教科も含めトータルで確か80点近くアップしたのです。(まあ、それまでが恐ろしく悪かったという話もありますが。。。)
担任が終業式の日にみんなの前で嬉しそうに言ってくださいました。
「このクラスに、1学期から2学期にかけて80点ぐらい通知簿が上がった人がいます。良く頑張りました。」
もちろん、誰のことかはおっしゃいませんでしたが、信じられないことにそれは確かに私でした。
この先生に出会えなければ、きっと数学はずっと苦手なままだったに違いありませんし、無事進級できていたかどうかさえあやしいところです。
また、満点が当然のようなテストにも関わらず、私個人を見てくださって、その私が5点取れたことを心から褒めてくださる先生でなければ、そこまで頑張れなかったとも思います。
この先生との出会いは間違いなく、今の私が存在する大きな大きなきっかけだったと思っています。
小さなことかもしれませんが、恩師にもうひとつ感謝していることがあります。
私は高校に進学したとき、進みたい道が2つありました。ひとつは中学校の教師になること。そして、もうひとつは服飾デザイン関係の仕事に就くこと。
ですから、私の進路希望は大学の教育学部かデザインの専門学校かというものでした。高1の進路希望調査のとき、この学校で専門学校を進路希望の中に挙げることがおかしいという意識が微塵もなかった私は、堂々とそのまま先生に伝えました。
すると、先生は一切バカにすることなく、呆れることもなく、ただ穏やかに「だったら神大の教育学部を目指しなさい」とだけおっしゃいました。
自分でも、免許や資格が必要なのは教員だということはわかっていましたので、だったら教育学部を目指そうと、すんなり思えたのです。
でも、もしあのとき先生が「何を馬鹿なことを言ってるんだ」とか「進学校にいながら、何ふざけたこと言ってるんだ」とか、少しでもそんなことを口にされていたら、もしかすると天邪鬼な私は何が何でもデザインの道に進むんだ!と思っていたかもしれません。
とにかく、本当に感謝して止まない恩師のお一人です。
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