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2025年11月 4日 (火)

「考える」とは

人それぞれ常識や基準が異なり、様々な能力や興味も異なるので、誰かにとって簡単なことも別の誰かにとっては難しいということがあるのはよくわかっているのですが、最近、「考えて」と言っても、その「考える」レベルもみんな異なるのかもしれないなと、当たり前のことかもしれないのですが、感じるようになりました。

考える深さとでも言えばいいのかもしれませんが、何かの問題を前にして、全く何も考えていないという子はほとんどいないのではないかと思います。
例えば、文章問題によっては、式がわからなくても、絵や図を描いて考えれば、答えを出すことができるものはたくさんあります。
簡単な例でいえば、植木算などの問題は、どういう場合は1足して、どういう場合は足さないかなど、覚えるのではなく、実際に絵を描いて考えてみることで、誰かに教えられなくても、子ども自身が気づくこと、「発見する」ことは可能です。

しかし、例えば、40mの距離に5mおきに木を植えるというような場合、40mを実寸で表すことはできませんから、適当な長さの線を描き、更にはそれを5mおきに区切るという場合、8等分できるということがすぐ分かる子もいれば、40÷5=8という計算はできても、その8が何を表しているのか分からない子もいるでしょう。
更には、数量感覚のない子の場合、40mとして描いた線分を5mずつ区切るというのは、実際の長さではないので(せめて、40㎝と5㎝の実寸にすれば考えられるかもしれませんが)、そのこと自体が難しい子もいるかもしれません。

絵を描いて考えればわかるでしょう?と言われても、子どもの状態によっては、無理ということもあるのでしょう。
もちろん、教室の子達に言うぶんには普段のその子を見て、この子ならこのぐらいは分かるはずという判断で言っているつもりですが、それでも自分の要求レベルがその子にとっては高すぎることがあるのかもしれないということが気になっています。

とはいえ、今のところその悩みは限られた子に対して抱いているだけではあるのですが、一人一人の子の精一杯まで考えてほしいというのは譲れないところですので、迷いつつも、手助けしすぎないよう気を付けて向き合っていきたいと思います。

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