「当たり前」
先日のレッスンで、元々空間認知の能力を持って生まれた人たちは、それが見えない人のことが想像できないのだと思うという話を保護者の方としたのですが、それは算数に限ったことではなく、様々なことに対して、労することなくできたことは、それができない人に対して共感することも、できるように教えることも難しい場合が多いのではないかと思います。
例えば、あっという間に自転車に乗れるようになった子がいたとして、どうやったら乗れるか、どんな苦労があったかという経験がなければ、人にアドバイスをすることも難しいのではないかと思います。
持って生まれた能力については、それに恵まれなかった人の感覚を理解するのは、多くの場合困難でしょう。
私は空間認知の能力には恵まれませんでしたので、同じく苦手としている子達には、どうやって考えたらいいか、どう対処すればいいかを、自分の経験などを踏まえてある程度アドバイスすることができます。
ただ、例えば私は子どもの頃、作文や読書感想文などで苦労したことがなく、なかなか書けないという子の気持ちが分かりませんでした。何がどう難しいんだろう?と思っていた記憶があります。
ですから、やはり作文が苦手な子の頭の中を想像することは難しいです。
今日のある子のレッスンで、表やグラフを見比べて、どんな違いがあるか、どんなことを感じるかを答えてもらう課題があったのですが、「表は分かりやすいけど…」と書き始めていたり、折れ線グラフについて、「上がっているところは暑いとわかる」というようなことを書いていたりしたのですが、「わかりやすい」と言っても、人数を知りたいだけなら表の数字を見る方が分かりやすいこともありますし、人数が一番多いものや少ないものがどれかを知りたいのであれば、棒グラフが分かりやすいということもあるでしょう。
何について分かりやすいのかを説明しなければ、それは説明になっていないわけです。
また、折れ線グラフは上がっていたり、下がっていたり、時には平だったりするわけですから、折れ線グラフを見て、上がっているところは暑い(という表現も不十分ですが)とだけ答えるのは片手落ち、もしテストなどでそれを書いたら、半分も点数をもらえないかもしれません。
上がったり、下がったり、変わらなかったりしているのですから、そのうち1つだけを取り上げて答えるのでは足りないわけですが、言われなくても分かる子はともかく、分かっていない子には気づかせてあげる機会が必要でしょう。
人それぞれの「当たり前」には違いがあるということを意識しておくことは大切だなと思います。
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