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今日は市長と衆議院議員の選挙に行ってきました。
結果には色々思うところもありますが、まあ、こんな状況でも半分近くの方は投票に行っていないことに、なんというか本当に気が滅入ります…。
明日から11月。気持ちを切り替え、しっかり子ども達とレッスンしたいと思います。
今日は市長と衆議院議員の選挙に行ってきました。
結果には色々思うところもありますが、まあ、こんな状況でも半分近くの方は投票に行っていないことに、なんというか本当に気が滅入ります…。
明日から11月。気持ちを切り替え、しっかり子ども達とレッスンしたいと思います。
教室を始めて2年ほどで、最初に借りた小さな小さな(今の教室も十分小さいのですが、それより更に小さな)教室から今の場所に引っ越して、その年の12月から書き始めたブログが、気付けば記事数が6000件を超えていました。
そうは言っても、レッスンがお休みの日には更新を休むとだけ書いてアップするようになって久しいので、内容のある記事でいえば遥かに少ないのですが。
元々無精者で、コツコツ長く続けるのは苦手なため、ブログも一度サボったらなし崩しにサボるようになってしまうだろうと思い、たとえ内容がなくても、形だけでも毎日更新という形を続けてきていて(うっかり忘れていて、翌日2日分更新することもありますが…)、初期に1日に何度か更新していた時期があるので、まだ6000日を超えたというわけではありませんが、日数で考えるとしみじみと、ここまで教室を続けさせてもらえていることをありがたく思います。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
今日は通常レッスンはお休みで、1件振替レッスンがあったので、出勤ついでに普段なかなか手をつける気にならない雑務や教材等の整理などを。
教材会社や消耗品の会社などから届くDMも、あとで見ようと思って置いていたら、あっという間に時が過ぎ、あれ?これ未開封で3か月経ってる…なんてものも…。(まあ、DMなので見なくて大丈夫なのですが。)
時がたつのは本当に早いですね。
そして、1日のうちでも、教材を作ろうとか、予習をしようとか思って手を付け、気づけば「もうこんな時間!?」ということもしばしばあって、なんとかならないものかと思います。
時間がないわけではなく、取り掛かるまでに時間がかかることと集中力が続かなくなっていることが問題なんですが…。
今月は明日からが5週目になるので、10月の通常レッスンは今日でおしまい。早いもので、今年も残すところあと2か月ほどになってしまいますね。
今日は風邪でお休みの子や、鼻をぐずぐずいわせている子などもいて、寒くなったことで体調を崩している子達もいるのだなと。
私もついうたた寝をしてしまうことがあるので、気を付けなくてはと思います。
今日のレッスンはそんな感じで、調子が今ひとつ上がらない子もいましたが、算数で苦戦してきてくれるようになり、がんばっているものの学年が上がっている分目覚ましい変化はまだ見られない子が、とても楽しそうに問題に取り組んでくれている姿を見られることもでき、それはとても嬉しく思いました。
11月もどうぞよろしくお願いいたします。(まだ10月は数日ありますが。)
今思えば、自分も子どもの頃はそういう勉強をしていたところもあったんだろうなと思うのですが、子ども達とレッスンをしていて、それは学びにはなっていないんだと気づいてほしいと感じることが時々あります。
小さい頃から一緒にレッスンをさせてもらっている子達は、基本的にまず自分で考えて理解しようとするのが「普通」なので、ジレンマを感じることは滅多にありませんが、ここに来てくれるまでに学校や他の教室、塾などで勉強をしてきた子達の中には、少なからず、ほとんど役に立たない勉強をしている状態の子達がいます。
昨日のレッスンで、算数・数学がずっと苦手だったというある中学生さんが、正五角形のひとつの内角を求めようとして、「180-5」という計算をしました。その子は小1の頃からずっと算数・数学が苦手だったとのことで、覚えるべきこともなかなか覚えきれないようで、多角形の内角の和についても、既におさらいはしていたのですが、その子の頭の中に、学校で習った「180(n-2)」という公式が極めてぼんやり残っていたのでしょう。180から五角形の5を引くという、明らかにあり得ない計算をしたので、どうして5を引けばいいのか尋ね、五角形で5を引くなら、三角形なら180-3で177°になるの?と尋ねたものの、どうやって求めればいいのかは全く思い出せないようでした。
ただ、正五角形の1つの内角を指して、「ここは直角より大きいかどうか分かる?」と尋ねたところ、「大きいです」と言ったときには、その子は自分の頭で直角をイメージし、比較した上で、きちんと答えられたわけです。
今日のレッスンでは、学校で少しだけメートルの学習もしたらしい2年生さんに、1メートルは何センチか尋ねたところ、「10センチ?」と答えました。これはこの子に限らず、割とある反応なのですが、1mを1cmだと答える子達の頭には、1cmの長さのイメージも、1mの長さのイメージも全く浮かんでいないということです。
そんなあり得ない間違いをする子達でも、10cmがどのぐらいか尋ねると、定規などを目にする機会はよくあるので、極端におかしな長さを表す子はいません。また、自分の身長が1mより高いかどうか、10mより高いかどうかを尋ねると、1mよりは高いけれど、10mもあるはずはないと分かる子がほとんどです。
であるなら、自分の身長が10cmあまりなんてことはないわけですから、知っていることを使って、ある程度予測ができるはずです。
1mが100cmだと答えられない子でも、例えばプリントの1問目が1m=100cmと答える問題だった場合、その答えさえわかれば、2m=200cm、5m=500cm…というように、機械的作業でだだだっと答えを書いてしまう子も少なくありません。ですが、その場合、その子が本当に長さを実感し、理解しているかといえば、かなりあやしい場合も多々あるのです。
公式や換算を機械的に暗記し、それに当てはめて答えが出せるという状態は、学校のテストなどではある程度点数が取れ、「勉強ができる」と思ってしまうことがありますが、そういう勉強をしていると、応用問題などになったときにたちまちお手上げになったりもします。
速くできることが必ずしもいいことではなく、たとえ時間がかかっても、本当の意味で理解することの方が、長い目で見れば遥かに自分の役に立つということは多々あるのではないかと思います。
自分にとって役に立つ学びというのがどういうものなのか、気づいていない子達には、なんとしても気付いてほしいと思ってしまいます。
算数で苦戦しているということで来てくれた高学年さんは、当初から、真面目で礼儀正しく、控えめな子だったのですが、何かいうときもやや自信なさげだったり、尋ねたことに答えるときもちょっと怯えているように感じたり、なんだろうな、私が怖いからかなと思ったりしていました。
まあ、実際私は怖いので、私に怯えているのであればともかく、算数が苦手な状態できた真面目な子に、いきなり怖いということはまずないだけに、なんだろうな、算数に対する自信のなさから、色々躊躇うことがあるのかな?と思ったりしていました。
それが、少し前から表情が随分明るくなり、問題に取り組んでいるときも、時折楽しそうにしていることがあったりと、徐々に変化を感じるようになっていました。
それが、今回のレッスンでは、もう私にも慣れたのか、算数への苦手意識が薄らいだのか、何がきっかけなのかは分かりませんが、持ってくるべきものを丸ごと忘れたという報告まで、笑顔混じりに知らせてくれました。(笑)
慣れていい加減になるのは困りますが、何か言うのにも少しおどおどしていたその子が、明るい表情ではっきりした声で忘れ物のお知らせをしてくれたことは、やはりちょっと喜ばしいことでした。
勉強はできないよりできるほうが、嫌な思いをすることが少ないのではないかと思いますので、できるようになりたいという子の手助けはしたいと思っていますが、それより何より、できないことで自信が持てず、表情が暗くなっている子がいたら、その子が笑顔を取り戻してくれることほど嬉しいことはありません。
まだ算数に関しては「発展途上」の子ですが、楽しいと感じられるようになったら、これから先、きっといい方向に向いていくのではないかと思います。
子ども達とのレッスンで、数などに関しては教具などを使って、見て、触って、確かめながら考えてもらうことも多いのですが、今日のレッスンで、そうか、これも大事なんだなと感じたことと、子どもの反応に感心したことがありました。
思考力系の問題の場合、あれこれ考えてもらうこと自体が大切だと考えているので、ものを使ってすぐに答えを出してしまうのではなく、絵などを書いてもいいので、がんばって考えてほしいと思っています。
ですが、問題によって、もしくは個々の能力、興味の差などによっては、実際にものを使って確かめなければ、答えを出すことが難しい場合もあります。
ある低学年さんは、算数のセンスがかなりよく、思考力系の問題は進んで解いてくれるタイプなのですが、ある問題だけ、なかなか正解に辿り着かず、何度も保留にしていて、とうとうその問題のほかはまとめのところしか残っていない状態になっていました。
その問題というのが、時計の長針と短針が1日(24時間)の間に何度重なるかというものだったのですが、前段階で午前10時から午前11時の間には1回、午前11時から午後2時10分の間には2回というのを解いた後の3問目なので、この子なら考えられるのでは?という思いもあって、何度も保留にしてきていました。
ですが、そろそろ次に進んだ方がいいかな、この問題は今ひとつやる気が出ないみたいだしなと、今日は時計の教具を使って、12時間のうちには何回重なるか確かめていいことにしました。
すると、12時間に11回と分かり、1日なら22回と答えられたので、「なんで24回じゃなくて22回なんやろ?」と尋ねてみたところ、「あれ?どっか(1時間のうちに)重ならないところがあるのかな?」と言ったかと思えば、1時はこの辺、2時はこの辺…と順にぶつぶつ言っていたその子が、「10時のときにはもうこんなに来てる…。(長い針が重なるのが11時に近いところまで来ているという意味だと思われます。)」と言った後、「あ、11時には(重なるときが)ないんか~」と納得した様子。
どうして22回なのか尋ねただけで、時計をまた回し始め、理由を考え始めた姿も、1時間のうち針が重なる位置がだんだん後ろにずれていくというその視点にも、やはり算数がよくできる子はちょっと違うなと感心しました。
この子に関して、時計を見せて確かめてもらったものの、単に重なる回数を数えておしまいにはならず、もっと深い学びをしてくれたことを思えば、実際に見せて確かめてもらったことには大きな価値があったのではないかと思いました。
春から一緒にレッスンをしている高学年さんは、来てくれた当初、とにかくろくに考えないうちから次々答えを繰り出してくるタイプで、何度も何度もきちんと考えるよう促し、宿題もいい加減にするぐらいなら、できないものは残してもいいからしっかり考えて来てと繰り返し伝え、少し変わってきたかなと思ったら、学校や習い事が忙しくなるとまた元に戻ってしまったりと、一進一退という印象を持っていました。
それが、習い事がひと段落したと聞いて以降、また落ち着きを見せ始め、今週のレッスンでは、持ってきた宿題を一切言い訳や前置きなしに、終わらなかったものもあるとだけ言って提出し、見てみると、取り組んだものは明らかにきちんと考えて答えたことが感じられる状態でした。
そして、レッスン中も、やったことのない問題を前に、ヒントを欲しがるでもなく、自分で考えようとし、それでも困っていそうだったので助けようかと思ったところ、「待って、考えてみる!」ととてもとても嬉しい反応が返ってきました。
ほんの少し前なら、「どうやって解くの?」とか言ってきてもおかしくないような問題だったのですが、考えた末、学校のテストなどでその解き方をしてマルがもらえるかどうかという意味では「正しい解き方」ではなかったものの、答えはきちんと合っていて、明らかに試行錯誤しながら考えていることがひしひし伝わってきました。
もちろん、コンディションなどでまた集中できない日もあるかもしれませんが、春頃とは明らかに変わってきたその姿は本当に嬉しいものがあります。これで自信をつけて、持っている力をしっかり発揮できるようになってくれるといいなと思います。
子ども達に集中して考えてもらいたいと思ったら、気持ちの余裕ももちろん重要なのですが、体力的余裕もとても重要なのだと思います。
もちろんそれは前からなんとなく分かっていましたが、今日のレッスンで、校外学習があったという3年生さんが2人、来たときから、今日は疲れたという話をし、レッスン中も、普段はおしゃべりし過ぎるのを止めなくてはいけないぐらいなのに、2人とも口数も少なく、問題を考えていたかと思えば明らかにぼーっとし、たった今ぱっと答えた問題と同じような問題が全く答えられなくなったりもしと、本人達は真面目にやろうとしているにも関わらず、明らかに集中で来ている時間が少なく、進みも遅いまま終わりました。
眠いと頭が働かないのはもちろんですが、小さい子は特に、疲れて体力に余裕がないと、集中することも難しいのだろうと思います。
もしおうちで、明らかに疲れている様子なのに宿題などをしていて、なかなか進まないようなときには、思い切って15分程度仮眠をさせるなどしてみることも大切かもしれません。
先日から一緒にレッスンさせてもらうようになった低学年さんは、勉強すること自体はあまり苦にならないらしく、おうちでも長い時間続けて勉強できるという話を伺いました。体験レッスンでもその雰囲気は感じられたのですが、今回のレッスンで、問題をよく読まずになんとなく解いて間違えたり、まだほとんど考えていない段階で答えを言って、合っているかどうか確かめようとしたりということが目立ちました。
その子に限らず、他の塾や教室に通っていたことがある子や、学年が上がっている子などの場合、しばしばそういう「まだろくに考えていない段階で答えが合っているかどうか尋ねてくる」ということがあります。
そういう子が少数派ではないので、きっと、大人の中には、それが当たり前という感覚になっている人もいるのかもしれないと思います。
もしかすると、自分で教室を始める前の私も、聞かれたらすぐ答えていたかもしれません。
でも、それを続けていても、子どもに考える力はつきませんし、問題を深く理解することもなかなか難しいだろうと思います。なんとなく解いて、運がよければ正解、悪ければ不正解というような勉強は、果たして何の役に立つのか、そこを子どもにきちんと話をしなくてはいけないと思います。
もちろん、勉強なんてしたくない、せずに生きていくという覚悟を決めているような子はいいかもしれませんが、そうでないのなら、小学校だけでなく、その先に続く中学校、更には高校や大学まで続いて学んでいく子も少なくないわけですから、薄っぺらで役に立たない勉強を小さい頃からしていては、将来頭打ちになる場合が少なからずあるだろうと思います。なにより、ろくに考えずに答えを出すような勉強は、全く楽しさも達成感も感じられませんから、身につくものもほとんどありませんし、時間の無駄になってしまいます。
小さいうちからしっかり考えて、自分が納得した上で答えを出すという学びが当たり前になってほしいなと思います。
教室を始めて3年目のときに今の場所に移り、その後もう16年ぐらい、ここでレッスンをしていますが、ご存知の通りかなり古びた建物で、何より、共用部の掃除に関して、壁は一切掃除をしてくれないのがずっと気になりつつ、自分で建物の壁を洗うのもなかなか難しく、費用が掛かっても洗ってもらえないか相談しようかと思っていたらコロナ禍に…。
そんなこんなでもやもやしたまま延び延びになっていたのですが、今日出勤して来たら、エントランスや階段、外壁などの改修工事のお知らせが入っていました。
来週25日から始まる予定らしく、初日は特に大きな音が出るとのことですが、その予定通りであれば幸いその日はレッスンがないので助かりました。ただ、しばらくは出入りに不自由がありそうなのと、それなりに工事音がしたり、薬品臭がしたりするのだろうと思いますし、予定では11月25日から12月15日まで続くようですので、何かとご不便をおかけするかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。
建物が古いのはどうしようもありませんが、年末には少なくとも外から見たらある程度美しくなるのだと思いますので、それを楽しみに不便に耐えようと思います。
今年は10月だというのに日中の気温が28度ぐらいまで上がる日が長く続き、まだ長袖は暑いという感じでしたが、予報通り昨日から急激に季節が進みましたね。10月半ばですから、極端に冷え込んでいるわけではないのだと思いますが、このところの気温とのギャップに体調を崩しそうですね。もううたた寝は危険な季節になってしまいました。(苦笑)
新型コロナの第5波はほぼ終息したのかなと思いますが、急激に感染者数が減ったのは何が理由なのか、そこがはっきりしないため、まだ安心はできないなと思ってしまいます。ただ、現時点ではここまで感染者数が減ってきたのであれば、レッスン中に子ども達にもマスクをしてもらい続けなくてはいけないのかどうか悩ましいところです。
今週もみんな元気に来てくれますように。
子ども達とレッスンをしていてよく感じることなのですが、集中して頭を使うと、とても疲れるものなのですね。
小学校の授業は45分が一般的かと思いますが、一所懸命考え続けていた子達の少なくない子が、そのぐらいの時間が来ると途端に考えようとしても頭が働かなくなるということがあります。
学校では、45分授業を5時間とか6時間とかするわけですから、休み時間があるとはいえ、もっと消耗しそうなものですが、教室のレッスンのように、時間の大半を集中して考え続けるということはなかなかないと思いますから、やはり消耗度合いが違うんだろうなとも感じます。
今日は来週学校の行事でお休みするものの、土日以外なかなか振替が難しい5年生さんに、間で10分休憩を入れるので、2コマ続きで振替ということにしていたのですが、その提案をしたときには、もう高学年だし、間で10分休むし、そもそも土曜は学校がお休みだから、2コマぐらいは大丈夫だろうと思っていたのですが、1コマ目はかなりいい調子で進み、きりのいいところで10分休憩をし、引き続き2コマ目に入ったところ、一所懸命考えているのは分かるのですが、それと同時に、明らかに疲れているのも感じました。
2コマ目後半になると本人に口から「疲れた…」という言葉も出て、2コマ目が終わった頃にはもう限界という感じでした。
高学年の子で間で休憩を入れてもここまで消耗するのかとちょっと驚きましたが(まあ、これも個人差があるのだと思いますし、一緒にレッスンした妹さんは2時間経っても元気でしたが。)、それだけしっかり頭を使ったということなんだろうなとも思いました。
昨日書いたことにもつながるかと思いますが、集中し続けることは、好きなことでなければなかなか難しいものですし、集中できたとしても、それが続くのは多くの場合、長くて1時間弱なのではないかなと思います。また、体力的にも気力的にも余裕があることも大事です。
長い時間学習に取り組ませる必要がある場合は、途中で休憩を入れたり、気分転換をすることも心がけた方が、効率が上がるのではないかと思います。
4年生になってから来てくれ始めた子は、落ち着いて考えられれば結構賢いと感じるのですが、なぜかしばしばきちんと問題を読みもせず尋ねてきたり、適当に読んで、大事なところを読み飛ばしていたりすることがあります。
ある時期、その程度がひどくなったことがあり、その後また落ち着いたので、どうしてだったのか尋ねたところ、集中できていなかった時期は予定がいっぱいで、体力的にも物理的にも余裕がなかったようで、それを聞いて納得もしました。
その後、また落ち着きを取り戻してきたのですが、それでも油断すると、きちんと読まないうちから「これ、○○?」と尋ねてきたり、当てずっぽうの答えをしようとしたりすることがあり、「ちゃんと読んでないよね?読めない字があるんなら聞いてくれたらいいけど。」というと、ようやく問題文を読み始め、「ああ、そういうことね!」と。
その姿を見ていて感じるのが、普段時間に追われる生活をしていて、学校の宿題や習い事の課題などをこなすだけでも精一杯という状況が続くと、急がなくちゃ、早くやらなくちゃということばかりに意識が向いてしまい、それが習慣づいてしまうのではないかということです。
小さい子達が何かを考えるのには大人が思うより遥かに時間がかかります。それを知らずに、仮に子どもの希望であっても、たくさんの習い事をして、その後に学校の宿題やその他の課題をするとなると、よほど体力や気力がある子ならともかく、集中力が続かなかったり、眠くなってしまっても不思議ではないでしょう。
特に、放っておいても子どもが喜んで集中するようなことではなく、あまり気が進まないような課題であれば尚のこと、時間的にも体力的にも余裕がないと、じっくり取り組むというのはなかなか難しいでしょう。
子どもにはぼーっとする時間が大切だというのは、確かにそうなんだろうなと思います。
中3の受験生の子は一緒にレッスンをするようになって8か月ほどになりますが、話を聞くと、元々小1の時点で既に算数を難しいと感じていたそうで、その後、ここに来てくれるまでずっと算数・数学はとにかく苦手でわからない教科だったそうです。
実際、小学校の算数も相当あやしい状態だったので、低学年の算数から全ておさらいをし、どうにか中学内容まで辿り着いたものの、8年近く苦手なまま過ごしてきてしまったものを、さらっとおさらいしただけで全て理解できるのなら、当然苦手にはなっていないでしょうし、かといって、焦って先先進めても、本人の力にはならないことも分かっています。
ここに来てもらう前に、おうちの方にも、今の時点で苦手教科に時間を割くより、得意教科をさらに伸ばす方がいいかもしれないというお話もした上で、それでもと来てくれることになっただけに、本人にも受験までの時間は限られているし、それでも数学をするというのなら、最低限覚えなければどうにもならないことは覚える努力をしてほしいという話もしました。(うちの教室では覚えなくても考えたら分かることは、基本的に覚えなさいとは言いませんので、覚えるしかない用語やルール、導くのが面倒な公式など、ごく限られたものの話です。)
でもきっと、覚えなさいと言って覚えられたら、みんな苦労はしないということは分かりますし、人それぞれ覚えやすい方法は違うでしょうから、そこは本人が考えるべきことなのではないかと思っています。
受験もだんだん迫ってきますし、内申書は2学期までの成績でほぼ決まってしまうでしょうから、焦ってはいけないと思いつつもどうしても焦ってしまい、覚える必要がある事を覚えていないと、つい怒ってしまうのですが、もちろん、怒るたび、怒っても仕方ないんだよな…とも思います。
自信を失わせたくはありませんし、本人のペースに合わせてあげたい気持ちはあるものの、あまりにも時間がなく、なんとかそろそろ変化が見えてくれるといいのだけれどと祈り続けています。
こんなとき、自分にもっと指導力があればいいのにと、しみじみ感じます…。
子ども達とレッスンをしていると、関西弁の言い回しを国語で一般的に通用する言葉だと思っている子がいたり、国語では間違いとされるてにをはの使い方をしている子がいたりします。
思い返せば、私は子どもの頃、母親が言葉遣いに厳しく、例えば、今ではもうすっかり許容されましたが、昔は「全然」は「~ない」を伴って使うとされていたため、「全然いい」というような使い方をすると訂正されていましたし、母には乱暴に聞こえるような言葉遣いはよく注意されていました。(それをきちんと守ったかどうかは別の話ですが…。)
今にして思えば、正しくしゃべることを意識させてもらったことは、ありがたいことだったなと思いますが、時代も変わりましたし、言葉遣いをいちいち注意すると親子関係もぎくしゃくするかもしれませんから、その加減も難しいところがあるでしょう。
ただ、今の時代、ひと昔前には「ら抜き言葉」の間違いが指摘されていたのが、その上に「れたす言葉」というのまで出てきているようですね。
本来なら「れ」は必要ないところに「れ」が付け足される用法のようで、例えば、「行くことができる」は「行ける」なのに「行けれる」というように、え?どうしてそこに??と思うようなところに「れ」が加わるようです。
他にも「自転車に乗る」のように、普通は「に」を使うべきところに「を」を入れてしゃべる子も少なからずいますが、それはきっと子どもを取り巻く大人たちが、昔に比べてそういうことにうるさくなくなったということもあるのか、子どもはおかしいとわかっていない場合もあります。
些細なことかもしれませんが、そして、時代と共に変化して、誤用ではなくなっていくこともあるとは思いますが、間違えたまま身に着けてしまうと、国語で思わぬところでバツをもらうことになるかもしれませんし、何が正しいか知らないのは困る場面も出てくるのではないかと思います。
間違った使い方をさせない、なんとしても正すということではなく、間違っているなと気づいたときには、正しい言い方を知っているかどうかを尋ねてみて、もし知らなければ「本当はこういうんだよ」と教えてあげるというのも大事なことかもしれません。
学校の算数がわからなくなってきたということで来てくれた高学年さんは、わからなくなってきたというよりは、これまでは計算だけはある程度できていたんだろうなという感じで、おさらいをしてみても、自分が何をどう考えて解いているのかは全くわかっていないような印象でした。
問題に取り組んでもらっているときも表情が晴れず、頭が働いている感じがしない状態がしばらく続き、やらなくてはできるようにならないよという話を何度しても、できるはずの宿題さえろくにせずに来ることも少なくありませんでした。
それが、少しずつ変化を感じられるようになり、今日のレッスンでは、ちょっと面倒な課題のうち、どれか1つすればいいよと言ったところ、一番面倒そうなものを選んだ上、途中で分からなくなりかけたようだったので、助けようとすると「もうちょっと考えてみる」と言って、自分で考えようとしてくれました。
その後の問題も、尋ねたことにきちんと答えてくれるようにもなり、計算自体もかなり不安定だったのが、以前に比べるとかなりできるようになっていて、ひとりで嬉しく思っていました。
どんな問題でも、本人が前向きに取り組もうとしなければ、そうそう身にはつきませんから、苦手意識を持っていた算数に対して、気持ちが前向きになってくれたことは本当に大きいことだと思います。
今後の変化がますます楽しみです。
今日のあるレッスンで、夏から一緒にレッスンをし始めた1年生さんと、20までの数から9を引く学習をしました。これまで、20までの足し算は比較的スムーズに進み、20までの引き算も、10を引くものと5を引くものは割とすんなりだったので、9を引くというのも、教具を見せながら、下の10のうち9を隠して、いくつ見えるか答えてもらおうとしたのですが、なぜかこれまでに比べると遥かに反応が悪く、全く違う答えを答えたり、難しそうな表情をしたりしていました。
何度も見せながら確認したものの、ずっと表情が晴れなかったので、「じゃあ、17から10取ったらちょっと取り過ぎよね?何個返したらいい?」とジェスチャーを交えて尋ねたところ、「1個返す!」と答えたので、「じゃあ、17-9はいくつになる?」というと、「10取ったら7で、1個返すから…8!」と答えたかと思うと、そこからは明らかに表情が変わり、もう1問同じように尋ねながら解いてもらった後は、自分で「10個取ったら○個で、1個返すから△!」というように、ぶつぶつ言いながら、次々に正解していきました。
取る数が9個や8個のように、かなり多くなった場合は、10取ってから戻す方が簡単に感じる子はいますので、どちらでもやりやすい方法でいいのですが、少なくともこの子に関しては、教具を見せたことではぴんと来てもらえず、むしろ10個取って1個返す方がすんなりイメージできたようです。
分かりやすいと感じる方法はみんな同じではありませんから、これがいいと思った方法でも、反応を見て、別の方法を提示することもできるようでありたいと思います。
私はよく子ども達に、いい加減にするぐらいなら、宿題はしなくてもいいというような話をします。
嫌々やっても身に着かないから、それならしなくても大して変わらないし、いい加減にやるのであれば、全く自分の役に立たないから、時間も鉛筆も無駄になる上に、それを丸付けする私の時間まで無駄になるということを、その子が分かるように話します。
そして、本当にやりたくなくてやってこなかった場合にも、怒りませんが、宿題をしないのであれば、学んだことの多くを忘れてしまうのが普通なので、どうするかを相談することになります。
で、そういう話を何度かして、最近は宿題を持ってきた際に、分からなかったものがあったことや、計画通りに進められず、やれずに残ってしまったことなどを報告してから渡してくれるようになった子が、今日は「これが難しくてできませんでした。でも、ほかはちゃんと全部やりました。」と言って宿題のプリントを渡してくれたので、できなかったというものを見ると、足し算パズルで、確かに考えようとしてはいたので、これは感染していなくても仕方ないなと。そう思いつつ、他のプリントのマル付けを始めたところ、前回もやっていなくて、おうちでやってくると宣言したプリントがほぼ手つかず。更にもう1枚、それもぱっと答えが分かるものではないので、できていなかったとしてもしょうがないものだったのですが、全く何も書かれていないプリントが…。
「ほかは全部やりました」の宣言は何だったんでしょう。(苦笑)
別に、その2枚をしていなかったからといって、怒るつもりはありませんが、その報告とのズレはなんだったんだろうと、ちょっと不思議な気持ちになりました。
来てくれた当初は、はっきり言って目に力がなく、当然問題に向き合っていても全く楽しそうでもなく、自分の頭で何か考えているというよりは、どうならったかを思い出そうとし、曖昧な記憶で解いてみては間違うということを繰り返していた子が、一緒にレッスンするようになって5か月ほど経って、今ちゃんと考えているなと感じられることも増え、時々は笑顔も見られるようになりました。
見てわかるぐらいに目に力が感じられるようになってきましたし、以前は本当に数がイメージできていないのだなというのがひしひしと分かる状態だったのが、少しずつ、イメージできるものができてきたのも感じます。
さすがにこれだけ変わったのなら、少なくとも学校の授業で先生が言っていることは以前より分かるようになったのではないかなと思って、初めて本人に尋ねてみたのですが、シャイなその子はなんだかもじもじするだけで、否定するでもなく肯定するでもなく。
まだ本人が自覚できるほどの変化ではないのかぁと思いましたが、なんとか学年が上がるまでに、算数に対するコンプレックスを感じないぐらいになってくれるといいなと思います。
子ども達とレッスンをしていて、最も能力差を感じるのは空間認知に関してではないかと思います。
これまでにも書いていますが、例えば、サイコロの展開図を見て、サイコロになるかならないかを判断したり、組み立てたときにどの辺とどの辺がくっつくかを考えたりする問題で、そういう問題が初見の小さい子でも、「見える」子と「見えない」子がいるのは、結構はっきり感じます。
「見える」子は持って生まれた空間認知能力があり、「見えない」子にはないのだろうと思うのですが、私自身は後者なので、「見える」子の頭の中がどうなっているのかは想像がつきません。
小さい子が展開図を見ながら、明らかに頭の中で組み立てているなと感じることが、まずまずの頻度であるのですが、そういう子を見ると、羨ましいなぁと思います。
恐らく、そういう能力がある子達は、図形などを見ても、直角かどうか、長さが等しいかどうかなどを、見ただけでかなりの確率で判断できるのだろうと思います。
そして、今日のレッスンでも、ある子に驚かされました。
方眼紙上で2つの頂点を決めて、あと1つをどこに取れば二等辺三角形が描けるかを考え、実際に描く問題だったのですが、問題を作った私としては、二等辺三角形が横向きになっている状態で描いてもらうイメージで点を取ったものがありました。
すると、その子は私の予想とは全く違う、不思議な位置に点を取ったので、「そこだと同じ長さになる?」と尋ねたものの、その子は平然としていて、理屈ではそこにはならないはずなんだけど…と思いつつ、違うことを見せようとコンパスで確かめたところ、1ミリちょっとしか違いがありませんでした。1ミリちょっとの違いは、小学校低学年の作図では許容される誤差なので、その子は見ただけで、方眼の線に沿って引いた縦の線と、方眼には沿っていない斜めの線がほぼ同じ長さになる点を、定規も何も使わずに決めたということで、本当にびっくりしました。
高学年に差し掛かって、算数での苦戦が目に見えてきたとのことで、ここに来てくれるようになった子は、真面目で丁寧な子なのですが、実際、数の感覚がほとんど身についていない、イメージできていないという感じで、ただ習ったやり方通りに計算をすることはできるものの、文章題などになると途端に全くちんぷんかんぷんという状態でした。
これまで理解が曖昧なままやり過ごしてきたところが多いため、まだ学校の方が先に進んでしまう状態から抜け出せてはいないのですが、ここ1か月ほどでしょうか、ようやく自分から、物を使ってでも考えようという姿勢が見えるようになってきました。
学校では既に2桁で割る筆算なども済んでしまったのですが、解き方はある程度覚えていても、まだ数のイメージとはきちんと結びついてはいない印象で、小学校の間になんとか、イメージを伴って考えられるようになってほしいので、敢えて筆算の前段階を硬貨を使って両替をしながら、実際に何回取れるか、何円余るかなどを考えてもらっています。
前回は自分から硬貨を使い、問題に取り組んでくれていましたが、今回も、絵に描かれたものを頭の中で両替しながらというのはまだ難しいらしく、実際に硬貨を出し、両替したりしながら、問題を考えていました。
もちろん、もう高学年なので、1問1問そうやって解くのは時間ももったいないですし、実際に学校ではそうやって解くことはできないので、そのうち使わずに考えられるようになってもらわねばならないのですが、これまで長い間、数が具体物と結びつくことなく、量感を伴わないままきてしまったその子にとって、数をお金でイメージできるようになれば、それはひとつ大きな力になるだろうと思うのです。
小さい子達に数の教具を見せるとき、教室を始めるときにお世話になった先生は、見せ過ぎたらダメとおっしゃっていたのですが、数回見たらすぐ理解して、イメージできるようになる子もいれば、何回、何十回と繰り返し見せても、なかなかイメージできるようにならない子もいて、そういう、なかなかイメージできない子に、見せずに考えてというのは、結局きちんと理解できぬまま、嫌な感情だけが残るように感じました。
また、何度も何度も見なければできない子でも、自分の中でもう大丈夫と思えるときが来たら、自然と教具なしで考え始めるというのも、何度も目にしてきたことです。
ですから、もう高学年になっているその子にとっても、今、何度も硬貨を実際に並べ、分けてみる作業は、割り算をイメージする上で必要なことなのだと思います。そうして何度も触って、分けてみることで、学校などで問題を前にしたときに、100円玉や10円玉、1円玉が浮かぶようになるのではないかなと、そう思います。
自分が教室を始めてから何年経ったのか、しばしば曖昧になって、おまけに平成から令和に変わったので、きっと尚更分かりにくくなるんだろうと思いますが、今で19年目。多分丸18年と3か月ぐらいになるんだろうと思います。
丸18年ということは、生まれたばかりの子どもが大学生になるぐらいの期間。塾講師時代から合わせると、こういう仕事をしてもう25年ぐらいになるのだと思いますが、塾では下は小1から、教室では下は年中後半ぐらいからお受けしているので、あの頃小さかった子達ももうすっかり大人になっているんですよね。
教室を始めたばかりの頃、まだレッスンの数も少なく、その代わり、今より情熱も若さもあったので(今もこの仕事は大好きですが)、その頃使っていた教材ではカバーされていない部分を、自分なりに補う教材を作ったりもしていました。
ただ、その頃は今以上にパソコンでの作業にも慣れておらず、また、当然、向き合った子ども達の数もまだ少なかったので、その頃の教材を今見ると、なんだか初々しさを感じると共に、ここ数年作っている教材は、その頃よりは成長したはず…と思ったりします。
若さは徐々に失われる一方で、経験は積み重なっていきますから、この仕事をしていく上ではマイナスもプラスもありますね。マイナスがプラスを上回ることのないよう、これからもしっかり子ども達と向き合っていこうと思います。
今日の子達も概ねみんな好調で、よく集中し、しっかり考えられていた上に、そのうち2人の子が、したかったらどれだけしてもいいよと渡してある、思考力系の問題のテキストを、一体どうした?というぐらいたくさんしてきていて、レッスン中、宿題のマル付け、レッスンでしている問題のマル付け、思考力テキストのマル付けと、延々マルを付け続けることになった時間もありました。(苦笑)
レッスン自体も好調だったため、プリントもどんどん進み、いくらマル付けをしても子ども達に追いつかない!!という感じで、今日1日で果たしてどれだけマルをつけたんだろうと。この好調さが、今後も続くといいなと思います。
今日から10月。緊急事態宣言も解除になったようですが、それで一気にレジャーに繰り出したりする方達が増えるのではないかと、ちょっと身構えつつ、私自身はまだ当分、これまで通り最低限の外出に留めつつ、子ども達と向き合えたらと思っています。
涼しくなったせいか、今日も概ねみんな好調で、穏やかに1日が終えられました。
話は少し変わりますが、私は生まれつき、かなり強い乱視だったので、一般に「目がいい」という感覚は分からぬまま過ごしてきましたが、生まれつき悪かった分にはそれが基準になるため、さほど目の悪さに不自由を感じたことはなかったのですが、ここ数年、年齢的なものに加え、恐らくスマホやパソコンの画面を見ている時間が長いことも手伝って、明らかにより目が悪くなっているのを感じています。
すると、小さめの文字を読むのがしんどく感じるようになり、子ども達の問題でも、文字が小さいだけで、読むのに気合いを入れなくてはいけないようなこともあります。
今回、中学生が持ってきた試験の問題用紙の文字がこれまでより明らかに小さくなっていて、フォントサイズでいえば10より小さいのでは?というぐらいだったのですが、それを見た瞬間、うわぁ、読みたくない…と感じました。
私でもそうであれば、目が悪い子は、文字が小さいだけで問題を解くためのハードルが上がるということもあるんだろうなと思います。また、目盛りを読まなくてはいけないような問題などは、目が悪いと、それだけでも辛かったりします。
そういう意味では、視力をある程度維持するのは、学習においても重要なことなんだろうなと感じます。
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