中1の冬から一緒にレッスンをし、先日無事に志望校に合格した中3生のおうちの方がご挨拶に来てくれました。
その子は少し発達上の困難的なものがあるということを伺ってのスタートでしたが、レッスンをしている限りでは、感情の起伏が人より大きく、少しの躓きで何もかもダメだと思い込んでしまったり、逆に少しのきっかけで全てに自信を持てたりということは感じていたので、落ち込みそうになるとそれ以上落ち込んでいかないよう声掛けをするなどは気を付けていたものの、その他は何か特別な配慮をしたというようなことは全くなく、普通にレッスンをしていました。
それにしては、おうちの方がしばしば、過剰な感謝をしてくださるように感じてはいたのですが、お話を伺うと、うちに来られるまでに塾や習い事などいくつも断られ、中には発達障害のある子を受け入れるような教室でさえ断られて、こうして2年余りトラブルもなく、本人が不満を言うこともなく通い続けられたのが奇跡のようなのだとのことでした。
あまりに意外だったので、何度も「そうだったんですか、全く気付きませんでした。」「そんな風には感じませんでしたけど、なんででしょうね?」と言ったほどなのですが、そんなご苦労があったからこその「過剰な感謝」だったのだなと感じました。
実はこれまでにも、発達上の困難を持ったお子さん達とレッスンをさせて頂く機会が何度もありました。その他にも親や先生のいうことを聞かず困っているというお子さんとのご縁を頂いたこともありました。
私自身、決していいことだとは思っていませんが、好き嫌いがはっきりしている人間で、嫌いな人に、それを表に出さず取り繕って接するというのが子どもの頃から苦手です。だからといって、陰口を言うとか、いじめるとかはしたくないという性格でもあったので、嫌いな人とは極力距離を取るというふうに過ごして、そのまま大人になりました。
そんなこともあり、学校の先生になって受け持った子の中にどうしても好きになれない子がいたら、うまくやれる自信もなければ、かといってその子を疎んじるようなことをする自分は許せないだろうという思いもあって、それが教員の道を選ぶのは辞めた理由のひとつでもあります。
教室の場合、子どもも先生を選ぶ権利がありますし、どうしても好きになれない子がいたら、よその塾や教室を選んでもらう選択肢もあると思えたこともあって、今この仕事をしていますので、どの子も好きになろうとか、みんなに好きになってもらおうとかいう考え方をしたことはありません。
子どもに好かれようとは思いませんが、困っている子はなんとか助けたいと思いますし、算数が楽しそうな子にはより楽しんでほしいという思いで日々教室を続けていますが、これまで、上述の中3の子以外にも、発達障害の診断がついている子でも私にとっては少しユニークな可愛い子としか感じられなかったり、誰もが手を焼いて困っているという子はなぜか私を母のように慕ってくれたり、算数に強烈なコンプレックスを持ってやってきた、通うには少し距離のある子も、遠くても辞めたくないと言ってがんばってくれたり、そんな縁は色々頂いています。
それはなぜなのか分かりませんが、私は子どもに対しても対人間と思って、真剣に、できるだけ誠実に向き合い、診断や事前の情報に囚われずに自分が感じるものを大事にするようにしているのを、敏感な子達は感じ取ってくれているのかもしれないなと思ったりします。
もちろん、私でも全くお役に立てないこともあるのは間違いないと思いますが、救いの手を求めている子達がいるのであれば、できる限りのことはしたいと、いつも思っています。
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