親心は想像しかできないけど
私は親になる機会のないまま年を重ねてしまいましたので、親心というのは想像するしかできません。
自分のお腹をいためて生んだ子どもというのは、私が教室の子達をどれだけ大事に思ったとしても、比べ物にならないのだろうということもわかっています。
きっと、よその子だったら穏やかに見ていられることも、我が子になるとできないということもたくさんあるんだろうなということも、これまでの経験で想像してもいます。
子育ては常に何かと比較してしまいがちなものなのだろうとも思いますので、言葉を話し始めるのが人より早いとか遅いとか、歩きはじめるのが人より早いとか遅いとか、色々なことでやきもきしたり、安心したり、そういうのが親心なのだろうなと。そして、そうやって子育てをしておられる方達を本当に尊敬もしています。
ひとりひとり大切なお子さんだということはよくわかっているつもりなので、教室に来て頂くからには、私がその子にとってよいと思えることしかしないつもりで、これまでずっとやってきています。
随分以前のブログにも書いたことがあるように思いますが、勉強は何のためにするのかという問いがあるなら、それは「幸せになるため」なのではないかと思っています。もちろん、「幸せ」の定義は人それぞれ異なりますので、偏差値の高い学校に入ることが幸せだと考える人もいるかもしれませんし、お金持ちになれば幸せだと思う人もいるでしょう。(因みに、個人的には幸せかどうかは「心が満たされるかどうか」によるのではと思っていますが。)
ただ、人によっては、自分の幸せのためには学校での勉強は特に必要ないという人もいるかもしれませんし、何か夢や目標が明確にあって、そのために学校での勉強が必要ないという人は、別にしなくてもいいのではと、割と真剣に思っています。
偏差値の高い学校に入るために子どもの頃から必死で勉強して、難関大学を卒業して、人から尊敬されるような仕事に就いても、幸せではない人というのは少なからずいるのだと思いますし、勉強はあまりできなかったし、多くの人からは評価されないような仕事に就いていても、幸せな人も間違いなくいると思います。
うまく言い表せませんが、どれだけ勉強ができるかという物差しは、他者との比較になりがちで、自分を卑下したり、人を見下したりということにもなりかねません。ですが、目の前の課題をしっかり考えてクリアし、それを積み重ねていくという学びは自己完結できますし、安心感や満足感を得ることもできます。
そういう意味でも私はこれからも、後者のような学びを、子ども達をしていきたいと思っています。
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