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2020年9月17日 (木)

「当たり前」の基準

大人にとっての常識は子どもには当てはまらないことはわかっているつもりですが、自分の子どもの頃を思い返して、このぐらいは当たり前では?と思うことも、子どもによってはやはり当たり前ではないのだなと思わされることがあります。

私は怒られるのが嫌で、こう見えて小心者、やや神経質な子どもだったので(気づいている子は少なかったと思いますが…)失敗しないように、できるだけの注意を払っていたように思います。
ですので、例えば表とグラフの学習などで、調べた資料の表が1番から30番までであれば、それを表に移した合計が30人にならなければおかしいと、それは私にとっては「当たり前」だった気がするのですが、そういう、ほんの少し気を付けるだけでできるところを間違っている子を見ると、面倒でいい加減にやっただけなのか、そういう視点を持っていないのか(合計の数が合わなければどこか間違っているはずだという)、どっちなのだろうと思います。

やり直せばきちんとできるのであれば、いい加減にやったということなのだとは思いますが、表を作るのが面倒でも間違えたらまたやり直さなくてはいけない方がもっと面倒なはずで、だったら、面倒でも1回目にちょっとがんばろうとはならないものなのかなと、それも不思議に思ってしまいます。
ですが、私は中学生の頃に「可愛げがない」と言われていた子どもなので、世の多くの子どもは小学生、中学生の頃からどちらが合理的かとかいうことまで考えたりしない子が多いのかなぁという気もします。

もちろん、普段から一人ひとりの子を見て、その子の状態から、このぐらいはできるはずと判断していますが、一人ひとりの子の「当たり前」はきっと子どもの頃の私とは違うこともあるのだろうことをよりしっかり意識して、子どもが気づいていないのかもしれないことは、言葉にして働きかけていく必要もあるのかなと思いました。

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