昔はきっと自分でも…。
今日は今月から来てくれ始めた低学年さんのレッスンや休校になったことで今月だけご兄弟と一緒にレッスンのご希望を頂いたお子さんとのレッスンなどがありました。(なぜか休校になって以降ずっと、普段よりバタバタの状態が続いていて、今日も4コマレッスンがありました。)
うちにある程度の期間通ってくれている小さい子達は、ほとんどの子が自分の頭で考えるのが当たり前になってくれているものの、まだ日が浅い子や、既に学年が上がっている子などの場合、本来であれば考えていたはずなのに、自分で考えるのではなく、教えてもらうのを待つ姿勢を見せることは珍しくありません。
教えられた曖昧な記憶を引っ張り出そうとし、自信のないまま、意味を理解しないまま答えを書く子どもの姿は、ほぼ例外なく、目に力がこもっておらず、表情が曇っています。更には、ちゃんと考えるよう促しただけで泣き出されることもあります。恐らく、「考える」ということが当たり前ではないので、パニックに陥るのではないかなと思います。
そういう姿を見るたび、一方的に教えてしまうことの罪深さを痛感します。
塾講師だった頃の私も、きっとそうしていたんだろうと思います。いかにわかりやすく教えるかを一所懸命考え、子ども達からも学校の先生よりよく分かるなどと言われることもありましたが、その定着度は悲しいぐらい低かったのです。
だからこそ、何かおかしい、もっと何かいい方法があるのではないかと模索し続け、出合ったのが「教えない」学習法だったのです。
「教えない」代わりに、子どもの表情や反応をしっかり見ることで、それまで知らなかったことが次々と起こり始めました。教えて覚えさせるわけではないので、定着度が上がったのはもちろんのこと、ほとんどの子は塾で週2回授業をしていた頃より週1回のレッスンの方が早く進んでいくことにも、本当に驚かされました。
早く進めようとしているわけではなく、普通に進めているのに進んでいくので、子どもの負担も小さいのだろうと思います。
もちろん、初めはゆっくりゆっくり時間をかけて進む期間もありますので、速さが問題なのではなく、子どもの目に力がこもっているか、子どもの表情が晴れているかが何より大事なことです。
そうやって学んでいった子は、勉強が得意だろうと、あまり得意でなかろうと、恐らく勉強が嫌いとは感じにくいのではないかという気がします。
大切な子ども達のためにも、ひとりでも多くの大人がしっかり子どもの表情を見て指導してくれるといいなと思います。
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