遡ること高校時代、入学直後からしばらくの間、高校の数学で大苦戦をし、その後なんとか抜け出して、文系の数学は得意科目にまでなったのですが、友達がしばしば、数学の公式を眺めながら、「なんでこれで解けるの?」と尋ねてきました。
進学校で、日々の授業と予習や課題をこなすだけでもアップアップの状態でしたから、その頃の私には1問1問じっくり考えて解く余裕など、公式を覚えて当てはめて解くということをしており、公式が出てくるたびに「なんで?」という友達を見ながら、そんなことにこだわっていたら先に進めないんだから、そのまま使えばいいのにとさえ思っていました。
授業ではもしかすると多少の説明はしてくれていたのかもしれませんし、参考書などを読みこめば、どうしてその公式が導き出されたかを書いてあるものもあっただろうと思いますが、そこまでの余裕はありませんでしたので、結局「なぜ?」という部分は目をつぶって、どうにか高校の授業や大学入試を乗り切ったという感じだったように思います。
その勉強の仕方に違和感を抱かなかったのは、私自身、塾などに通ったことがなく、教科の勉強といえば学校で先生から教わるもの、教わったものを覚えて使いこなせるようにするものというような意識だったからだと思います。
自分で意味を考えるより先に、先生が説明をしてくださったり、教科書を読めば説明が書いてあったりするので、話を聞いたり、教科書などを読んで理解した気になるわけです。そして、それなりに覚えて問題が解ければ、本当の意味で理解しているかどうかなどは問われることはありませんから、自分でもできているからわかっているという気でいたように思います。
そして、今なお多くの指導者が、問題が解けることと本質を理解していることはイコールではないということに気づいていない、もしくは気づかないふりをしているのかもしれないと、教室を始めて以来しばしば感じています。
知識偏重、受け身の学習ではいけないということで、アクティブラーニングという言葉を頻繁に目にするようになりましたが、本当の意味で、問題を解けることと本質を理解していることとは全くイコールではないということを理解している指導者がいなければ、結局子ども達は振り回され、形だけの学び合い、教え合いに終わってしまう可能性もあるのではないかと思います。
高校時代の友人が「なんで?」と疑問を感じたそれを、しっかり解決して、公式に当てはめれば速く処理できるけど、公式を覚えなくても解けると思える状態になって初めて、その学習内容を理解したと言っても許されるのではないかと思います。(もちろん、それではまだ不十分な場合もあると思いますが。)
少なくとも、なぜその公式に当てはめれば答えが出るのかを理解していないものの、答えを出すことはできるという状態は、テストでは得点できるとしても、本当の意味では理解してはいないということだと思います。
そういう意味では、高校時代の私は数学のほぼ全てを「理解」はしていなかったものの、まずまずの成績をつけてもらっていたので、進学校であろうと、重視されるのは得点できるかどうかだったのだと思います。
もしこの先、本当に大学入試が変わり、それに伴って中学、高校の入試も変わっていくことがあるのであれば、本質を理解していない状態では点が取れなくなっていくだろうと思います。
しかし、指導者がその本当の違いに気づいていなければ、どんな指導をすればいいのかわからないというようなことも起こるかもしれません。
例えば、問題が解けずに先生に質問に行けば、解き方、考え方を教えてくださる場合がほとんどでしょう。
どうしてそうやって解くのか、なぜそう考えればよいのかまでしっかり教えてくださる先生であればいいのですが、仮にそうしてあげたい気持ちはあっても、時間的制約や人数の多さなどでそれができないという先生もおられるかもしれません。
算数の段階からきちんと理解せずに、やり方を覚えて解くということを繰り返し続ければ、中学高校でそれ以外の方法に切り替えるのには相当な苦労を伴うだろうと思います。
定期試験や入試などの期限があり、時間的に諦めざるを得ない場合も出てくるかもしれません。
ですが、小学校の算数の段階できちんと考えて本質を理解するということを積み上げておけば、それがその子にとっての当たり前になりますから、中学、高校に進んでもそれまで通り、自分で考え、理解するということを重ねていけばよく、覚えなさいといわれる公式の大半は覚えなくても解けることも理解できるだろうと思います。
ですから、小学校の算数は本当に大事に考えてほしいと思います。
やり方を教え込むのではなく、子ども自身に理解させることを意識して頂けたら、その先必ず大きな力になるはずです。
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