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2017年10月 3日 (火)

複雑な気持ち

これまで何度も書いていますが、私自身は教員志望で教育学部に進学し、教員免許も取得して、教員採用試験を受ける前に数年社会経験をしてみようと一般企業に就職した結果、学校の教員になるという夢が少し違った方向に向き、色々あって、自分で教室をするに至りました。

教員志望でしたので、大学ではそれなりに真面目に授業も受け、単位もしっかり取ったのですが、そんな私でさえ自分で教室を始めるまでは全く知らなかったこと、気づいていなかったことですので、世の多くの大人は知らないままでも不思議はないのだろうと思う、でも、子ども達にとってとてもとても重要なことがあります。

塾講師だった頃、私はいかにわかりやすく教えるかに力を尽くしていました。でも、どれだけわかりやすく教えても、子ども達にはなかなか定着せず、火曜の授業で説明したことを金曜の授業ではきれいさっぱり忘れているなんて言うことも珍しくありませんでした。
これ以上わかりやすく説明するのは無理だと感じる一方で、ずっと何か違うのではないかというモヤモヤも感じていました。
そして、出合ったのが「教えないという指導」でした。

説明をするのでも、やり方を教えるのでもなく、子ども自身に気づかせる、わからせるという指導。
それに出合ったときは本当に目から鱗の気分でしたし、と同時に、それを知らなかったせいで何年もの間私は子ども達の考える力を奪っていたのかもしれないということに愕然としました。

つまり、学校の先生方でも、過去の私がそうであったように、わかりやすい指導を心がけておられる方、熱心に説明をされる方は大勢おられるだろうと思います。
でも、その結果、多くの子ども達が受け身になり、自分で考えるチャンスを失い、教えられたことを覚えて再現しようとする。その結果、忘れやすくなり、記憶も曖昧になり、ミスも増える。定着させるためには何度も何度も反復する。しかし、その作業は楽しくないので、尚更定着しづらく、結果、その教科が嫌いになる可能性も…。

もちろん、学校では一度に数十人の子どもを指導するわけですから、なかなか難しい面もあると思いますが(おまけに塾などで先に習っている子もいれば、全く知らない子もいるわけですし…。)、新しい内容を学習する際、説明から入るというのをほんの少し変えるだけでも、子ども達の理解度が変わりそうな気もします。

小学校高学年のときにうちに来てくれていた、現在中3になる子が急遽戻ってくることになりました。
何がどの程度できるのかを確認させてもらうため、中3でこれまで習ったことをピックアップして問題を解いてもらったのですが、小学生の頃、あれだけ私が「なんで?」「どうしてそうなるの?」と嫌というほど聞かれ、そのたび一所懸命考えて説明しようとしていた子が、習った公式などを思い出して解こうとしているのがありありと伝わってきました。

真面目な子なので、きっと一所懸命授業を聞いて、それを覚えて問題演習をして…ということを数年やってきたのだろうと思います。そして、それは褒められることはあっても責められることはありません。ですが、その方法では本当の力にはなっていないのもまた事実です。

例えば学校で新しい単元に入るとき、先生が説明をされる前に「これはどうなると思いますか?」などと尋ね、少し時間を取り(習って既に知っている子が発言しないよう、各自考えさせてノートに書かせるなどするのがいいかもしれませんが。)、それぞれの子が何かしら考えた後で説明に入るだけでも、きっと違うのではと思います。
もちろん、そう尋ねられても何も思いつかない子、考えられない子も中にはいるかもしれませんが、それでも、どうしたらいいかわからないからちゃんと聞こうと思えれば、何もなしにいきなり説明が始まるのとは違うのではないかと思います。

大学入試改革が進められている中、考える力がますます重視されるようになってくるのは間違いないだろうと思いますし、そもそも、大学に進学するかどうかとは関係なく、これからの時代、単純労働はどんどん機械などに取って代わられるでしょうから、考えられない人間は暮らしていくこと自体がとても大変になるかもしれません。
小中学生を指導する立場の大人も変わっていかなくてはいけないのではないかなと思います。

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