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2017年6月30日 (金)

不思議な現象

子ども達とレッスンをしていると、時々、え?どうしたの?と不思議になることがあります。
もちろん、そういう状況にも随分と慣れましたが、「おかしなスイッチが入った」などと表現したりして、何とかそこから脱出してもらえるよう、あれこれ試すということはよくあることです。

今日のレッスンでも、嵩の学習をしていた子がある問題で行き詰りました。
その問題に至るまでは結構順調に進んできており、計算問題ばかりのプリントになった2問目。
30L—9L7dL—3dL という問題で、全部で10L引くことになるので、答えが10L。
もちろん、学習し始めて数回。学校ではまだやっていない内容なので、簡単ではないかもしれませんが、何か考えているようだったので様子を見ていました。

すると、「14L」という答えが。
14L…。う~ん、何をどう考えたんだ??
どう考えたのか推測ができず、本人に尋ねてみたものの、眠いのか難しくてぼ~っとしているのか、反応がはっきりしません。
そこで、「9L7dL取って、3dLも取るのよね?全部でどれだけ取るの?」と尋ねてみたのですがこれもなぜか推測がつかない答えが。
そこで更に、リットルます、デシリットルます、10ミリリットルますを置いて、式では何が何個あって、それから何を何個取るのか説明してもらったところ、L30個からLを9個とdLを7個取って、dLを3個取るとますを触りながら説明できました。
ああ、これで大丈夫かなと思ったのですが、なぜかまだダメ。そこで、Lを9個取ったらどうなるか尋ねると、それは21Lと答えられたのですが、再びストップ。

ひとまずその問題は保留にして、それより下の問題を解いてみてもらったところ、難しさは変わらない、もしくはそれより難しいものもきちんと解けたので、たまたま何かおかしくなっていただけなのかなと、再び元の問題に戻ってもらったのですが、その問題になるとやはりダメ。

その後更に何度もやり取りをした末、なんとか答えには辿り着いたものの、どうしてその問題だけがあんなにも苦戦したのかはわからぬままでした。

でも、不思議なことに子ども達には結構見受けられる現象でもあるのです。
難しさはさほど変わらないように思われるのに、なぜかプリントの中のある問題だけ完全にお手上げ状態でどうにもならなくなり、ほかの問題を先にやってみてもらうとすんなりできるので、最後にまた戻るとできない。そういうことはこれまで何度も経験してきました。
その不思議な現象につける名前は思いつきませんが、何なんだろうなといつも不思議な気分になります。

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2017年6月29日 (木)

スピードを求めるのはリスクが高い

これまで何度も書いていますが、小さいうちから速さを求めることは、後々大きなリスクになることがあるように感じます。
2年生の終わりから来てくれている3年生さんは、小学校受験もし、私立の小学校に通っているせいか、算数で問題を前にすると、とにかく速く解かなくては!という状態になりがちです。
最初はこれまでのおさらいなどが中心でしたが、最近は学校で習うより先にこちらでできることが増えてきたので、まず自分で考えてみてもらうようにしているのですが、その「考える」が、これまで習ったことを使ってこうやるんじゃないかなという、なんというか表面的なところに留まってしまうことがあります。

今回のレッスンでは3桁×1桁の問題などをしたのですが、まずは百円玉、十円玉、一円玉などの絵を見ながら、式に表し、答えを考えてもらうということをして、段階を経た後、計算式だけのプリントをしてもらいました。
すると、問題によって、例えば350と15であれば365にすべきところを3515と並べて書いてしまったり、かと思えば、百の位のかけ算で出た答えと十の位のかけ算で出た答えをそのまま足してしまうというようなことをしたりします。
絵があれば絵を見てそれを数えたりしながら考えているのに、計算式だけになると途端にとにかく答えを出さなくては!となるのは、まだなかなか治らないようで、数字だけをあれこれいじっている段階は、答えが全くわかっていないのと変わりませんので、式のところに掛けられる数に合う百円玉や十円玉、一円玉などの絵を描いてもらい、それを見て考えるように伝えました。(掛ける数にあたるものを1回分だけ図示し、あとはそれをどう集めるかの部分を図を見て考えてもらいました。)

すると、正しい答えは出せるようになったものの、それでもまだどこかで速くしなくてはという気持ちが出るのか、2つ3つ描いて意味がわかれば、後は描かずに考えられそうなものを、今度は全ての問題に図を描き、それを見ながら考えていくのです。
もちろん、わからず数字だけをあれこれいじるよりは全て描いて見ながら考える方がずっといいのですが、それでも、考えることが習慣になっている子であれば、初めに絵の描かれたプリントをしているときから、自分が何を考えているか、どう考えれば3桁×1桁のかけ算が考えられるかをなんとなく意識する、もしくはしっかり理解するのが普通ではないかと思うのです。
しかし、普段から速く速く!!と思っている子は、問題を出されたらとにかく速く解かなくては!と目の前のことだけに必死になり、俯瞰で見ることが難しいのだろうと思います。
速くしたいのであれば尚のこと、1つ、2つ図を描いて、それを見て答えを出しながら、こう考えたらいいんだなと気づき、後は描かずに考えられる方が速くなるはずです。

恐らく学校などで速くしなくてはならない場面、もしくは、そう感じてしまう場面が多いのだろうと思うので、すぐすぐ変わるのは難しいのだろうと思いますが、その子を見ていても、やはり小さいうちからスピードを求めることは弊害になってしまうことが少なくないように思います。

もちろん、抜群のセンスで、大人が驚く速さで答えを出してしまうような子もいますので、それは問題ないわけですが、意味を理解していないのに速さを求めると、わかっていないけどやり方はこうだったはず…ということを繰り返し、そのうちそれが勉強だと思ってしまう。そうなると、いざ応用問題などを考えなさいと言われても、習っていないからわからない、何算をすればいいのかわからない、そういう反応につながっていくのではないかと思います。

小さいうちはその子自身がきちんと納得するということをできる限り大事にしてほしいと思います。

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2017年6月28日 (水)

つながる・つながらない

今日のレッスンでの1場面。
まだ3年生の子ですが、2桁の数で割る割り算なども既に学習が済んで、割り算の筆算も随分しっかりできるようになり、四則混合計算などもがんばった後、今日は割り算の割と手強い文章題にも取り組んでもらうことになりました。

その子の場合は、割り算をするのだということには迷いはなかったようで、すぐに式を書き、計算もできたのですが、そこで答えを間違いました。
1問目は先日別の子も解いていた、812人の子どもを6人掛けの椅子に座らせると椅子がいくついるかというもので、割り算の答えは135あまり2ときちんと出せたのですが、答えに「135きゃく」と書きました。
そこで「それでみんな座れる?」と聞いたのですが、どうもぴんとこない様子。「じゃあ、そのあまりの2っていうのは何の数?」と尋ねると「人が2人。」と答えられたので、「そうよね?」と言ってもまだ「あ!」と言ってくれません。
「じゃあ、もし10人を6人ずつ座らせたら、椅子はいくついる?」と聞くと、すぐに「2つ」と答えるものの、やはりまだ「あ!」とはいきません。

そこで、一旦その問題をそこで保留にして、次の問題を解いてみてもらいました。
1日90円ずつ貯金をしたら10000円以上になるのに何日かかるかというもので、それもやはり迷わず割り算をして、111あまり10という答えも出せました。
しかし、またそこで困っています。「1万円ぴったりにはならないよ?」と一応声をかけてみたものの、まだつながらない様子だったので、「90円を111回ためたらいくらになる?」と聞いたところ、少し考えて「9990円」ときちんと答えられました。しかし、なぜかやはり「あ!」とはなりません。
その後あと2度ほどやり取りをしたものの、やはりつながらず。

再びそこで保留にして、3問目へ。
1分に55m歩く子が1210m先の公園まで行くのに何分かかるかという問題。
こちらは余りが出ません。そして、計算をして22という答えも出せました。しかしなぜか答えが書けません。

あれれれれ??これはさすがにどこかにはまり込んでおかしくなっているのかな?違う問題でリフレッシュしたほうがいいかな?とちょっと迷いましたが、1分でどれだけ歩けるか、2分なら、5分なら、10分なら…と尋ねていき、20分で1100mというところまで来ました。これでいけるかな?と思ったのですが、今日はどうにもぴんと来ない様子。

そこで紙に短い線を描いて、その線の上下に「1分 55m」と描いてから、長い線を描いて、1210mと描きました。どこで詰まっているのかわからなかったので、その子が書いている式と答えは1210mを55mずつ区切っていったら22回分になるという意味だとわかっているかどうかを確認すると、それはわかっているようです。
そこで長い線を22に区切り、区切りを1つずつ差しながら、「ここまでで何分?」「1分」、「ここまでは?」「2分」と順に尋ね、ようやく22分という答えの意味がわかったようでした。

その後逆に戻っていったところ、「111日目に9990円貯まってるのよね?」と言ったら、ハッとして答えに「112日間」と書き、「じゃあもし子どもが810人だったら椅子がいくついるかはわかる?」と尋ねるとそれは迷わず「135きゃく」と答えられたので、「そうよね?でも、みんな座ったと思ったら、後から2人来たら812人で、その2人はまだ座ってないよね?」と言うと、これもまたハッとして「136きゃく」と答えることができました。

たまたま何かおかしなスイッチが入ってしまっていただけという可能性はありますが、このように、本人がぴんと来ていないのに、余りの分1増やせばいいのだというようなことを教え、無理矢理正解に辿り着かせても、子どもはもやっとしたままになるだろうと思います。

子どもによっても、その日のコンディションによっても、イメージできることとできないこと、ピンとくることとこないことがありますので、その日その時にその子の表情を見ながら、助け過ぎず、かといってほったらかし過ぎず、声をかけるというのは、何年やってもこれでバッチリ!とはいかないものです。

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2017年6月27日 (火)

一体何が…。

昨日の晩から今日の午前中にかけて、普段火曜のレッスンの方が振替、普段木曜の方が振替、普段土曜の方が振替と、なぜか立て続けに振替のご希望がありました。
そして、調整した後、今日の晩になって更に水曜のレッスンの方が振替のご希望…。
1週間のうちにこんなにも突発的な振替のご希望が重なったことってあったかしら?というぐらいに振替のご希望が重なり、一体何事??とちょっと不思議な気分です。

もちろん、学校行事などの重なる時期に振替が多くなるようなことはありますが、その場合は事前に予定が分かっておられることが多いので、直前のご連絡でこんなに重なることは過去にあったかしら?というぐらい珍しい気がします。

今日のレッスンでは、ある2年生さんが1000までの数を学校で学習しているようで、教室ではもちろん以前にやったことはあるのですが、宿題でわからないところがあったとのこと。
その子はレッスン中に見ていると、必ず何かをイメージしているのが伝わってくる子で、ただ、反応がゆっくりというか、数の感覚が身につくのに時間がかかるタイプなのか、答えが出るまでの時間は長めのことが多い印象です。
その子が100を超え、何百や1000という数になるとすんなりいかないのは、恐らく100ぐらいまでは実際に頭に玉なりタイルなり、何らかのイメージを思い浮かべているからなのではないかなと感じています。

その子に限らず、100を超えてもっと大きな数になった場合、実際にその数をイメージできるかといえば、それはなかなか難しいという子も少なくないだろうと思います。
そして、イメージできない子、繰り上がりの考え方をしっかり理解できていない子にそういう問題を解かせる場合、しばしばテクニックを教えて練習させ、答えが出せるようにするという方法を取ることがあるように思います。

それで答えが出せるようになれば、見た目はできている、わかっているという状態になるわけですが、本人は理解したわけでも納得したわけでもないので、できても満足感や達成感は乏しいだろうと思います。むしろ、わかっていないのに先に進んでしまうモヤモヤ感を抱く子も少なからずいるのではないかと。

理解のペースがゆっくりの子にはそのペースを尊重し、できる限りその子が納得するまで具体物を使ったり、絵を描かせたりしながら考えてもらうのがよいのではないかと思います。
基礎にはしっかり時間をかけても、基礎がしっかりした後で上に積み上げていくのは、やっつけ仕事で作ったぐらぐらの基礎の上に積み上げていくより、結果的には速く積み上げられるということもある気がします。
また、基礎の理解に時間がかかる子は、もしかすると算数の能力的には恵まれていない場合もあるかもしれません。そうであれば尚更、急いで先に進めても、その子は何もわかっていないままになるかもしれません。

ですので、単にスローペースな子に対しても、算数の力が弱いと思われる子に対しても、低学年のうちから急がせることは何もメリットはないように思います。
じっくりゆっくりその子のペースで、その子が納得して次に進む。ひとりでも多くの子どもにそうしてあげてもらえたらなと思います。

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2017年6月26日 (月)

漢字

もう何年も手書きで文字を書くことが激減していて、恐らくその影響は大きいのだと思いますが、読めても書くのは自信がない漢字がどんどん増えているように感じていました。
数年前に一時漢検の勉強をしたことがあったのですが、ひと月経たないうちにやらなくなってしまい、1年ほど前にはスマホの画面に手書きできる漢検用のアプリを見つけて取り組んでいたものの、やはり2、3ヶ月でやらなくなり…。

しかし、最近小学校高学年や中学生の漢字で、さすがに読むのは問題ないものの、書くとなると不安になることがちょくちょく…。これはちょっとまずいなぁと、また3日坊主や1ヶ月坊主になるかもしれませんが、○歳の手習いということで、誕生日に漢検の書き込み式のテキストを買いました。

かなり弱気で、絶対書けるものは飛ばすということにしようと、まずは5級(小学校卒業程度)のものから手を付けていますが、今のところ読み書きその他大丈夫で、ほっとしています。
数問間違えたのは書き順や画数の問題ですが、それは元々真剣に覚える気がないもので、合格点は十分クリアしているから良しとしています。(苦笑)

そもそも、文科省の指導要領だったか、それでは書き順は目安で絶対のものではないというのを読んだことがあるので、だとすれば書き順を試験すること自体がおかしいやん?と思ってしまうと一層覚える気になれず…。(もちろん、小中学生には学校では書き順のテストとかもあるかもしれないから、覚えられるなら覚えてねというような話はしますが。)
とりあえず小学校卒業レベルは問題なく合格できそうなので、やる気があるうちに4級へと進みたいと思います。

しかし、書き取りをしたり、音読みか訓読みか考えたり、熟語の構成や部首についての問題を解いたりしていると、これ、子どもが解くには結構難しいんだろうな、いっぱい色々覚えなくちゃ解けないんだろうなと感じています。

もう大人なので知っている言葉や同じような意味を表す言葉その他の関連から、ああ、この漢字だったなとか、こっちは音読みだなとか思い出せたり、判断できたりするものがかなりあるんだなと改めて感じるので、語彙が少ない、経験が少ない子どもが試験を受けるとなると、その部分を反復練習などで補わなくてはいけないんだろうなと。

ただ、別の考え方をすると、たとえ漢字検定であっても、普段の生活でどれだけ多くのことを経験しているか、どれだけ多くの言葉に触れているか、知らない言葉に興味を持って調べたりしているかなどによって、漢字学習が大変になるか楽になるかの差がかなりでるのかもしれないなとも感じました。
繰り返し書いて覚える漢字学習より、何かに関連付ける、普段の生活で目に触れるなどの機会を増やすことの方が、辛さも少なく、かつ定着度は高くなるんだろうなと、改めて思いました。

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2017年6月25日 (日)

オフでした。

今日は更新お休みします。

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2017年6月24日 (土)

〇回目の誕生日

今日は節目ともいえる誕生日でした。
これを書くと、歳をご存知のない方にもおおよそ歳がわかってしまいそうですが、もちろん子ども達には言わず、いつものようにレッスンをして、その後も土曜ながらも20時半頃まで教材作りなどをがんばりました。
そのせいで色々タイミングを逸して晩ご飯が超粗食になってしまいましたが、節目の日に仕事をまずまずがんばれたのでよしとしようと思います。(といっても、この1年ご飯が食べられなかったらどうしようとか思ったりしましたが(汗))

自分としては結構頑張ったせいか、帰宅後はぐったりしてしまい、このブログも完全に日付が変わってから書いています。
内容がなくて恐縮ですが、本日はこれにて。

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2017年6月23日 (金)

不思議

面倒なことを嫌がり、やり方を聞いてくることもしばしばながら、きちんと考えたら結構できる、算数のセンスは絶対あるのになぁというタイプの子がいます。
算数が苦手でどうしていいかわからず聞いてくるというのとはちょっと違い、面倒そうだな、難しそうだなと思った時点で考えるより先に「これ足すの?」とか聞いてみるという感じです。それで答えてもらえたら儲けものという感じで聞いているのかもしれませんが、その子との付き合いもぼちぼち長くなり、そんなことを聞いても私が答えないこともわかっているはずなのに、それでも諦めずチャレンジしてくるのは、ある意味すごいのかもしれません。

今日も、学年を考えると結構面倒なわり算などをしっかり解いて、最近は煮詰まることもほとんどなくなったなと思っていたところ、812人の子どもを6人ずつ長椅子に座らせたら長椅子がいくついるかという問題で、まずはすんなり割り算をし始めました。
筆算もしっかりできるようになっていて、答えも余りもきちんと計算できたようだったのですが、余りが出たことで何かひっかかったらしく、「これわり算?」と聞いてきました。
そこで「さあ、どうやろね。たすか引くか掛けるか割るかのどれかしかないよね。」そういうと、「これ、余りある?あったら変だよね?」と畳みかけてきます。

「さあ、余りがあるかどうかわからんけど、なんで余りがあったら変なの?6人ずつ座っていったら絶対ぴったりになるの?」と、ある意味かなりのヒントになりそうなことを言ったはずなのですが、なぜかかけ算をし始めました。
その時点で全く考えていないのはバレバレです。

「かけ算してみたらいいけど、1人ずつ座らせても812しかいらないよ?」
これまたほとんど答えているようなものだなと思いつつも、そう声をかけたのですが、まだ迷走が続きました。

その子のクラスは33人だというので、「じゃあ、○○ちゃんのクラスの33人を6人ずつ座らせたら椅子はいくついるの?」と少ない数、それも自分のクラスの子達というイメージしやすい状況に置き換えて尋ねてみました。

それでもぱっとは答えが出ず、しばらくしてはっと気づいたように、長四角の中にマルを6個ずつ描いて、そのマルが33個になったところで椅子の数を数えて答えを出しました。
その絵を前にして、「じゃあ、33と6はどんな計算したらいいの?」と言うと、なぜかまだすんなりとはいかず、割り算を仕掛けたのに余りがあるからとかけ算をしようとします。
答えが出ているのにかけ算するのはおかしいと止めた後、更に何度かやり取りをしてやっと式と答えが出ました。

時間も終わり近く、それまでにたっぷり頭を使った後だったので、何かおかしくなっていたのかもしれませんが、算数のセンスがある子が812人を座らせるのに椅子がいくついるかという問題で、割り切れなかったからかけ算をしてみるというのが何とも不思議でなりません。
算数のセンスがあるということと、算数に興味がある、算数が好きであるというのは、全く別物なのかもしれないなと、その子を見ていると時々感じます。

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2017年6月22日 (木)

子ども自身がわかるまで

元々は算数で大苦戦をして教室に来てくれるようになった子ですが、1年近くの間にかなりできることが増え、自分の頭でしっかりイメージして考えていることも伝わってくるようにもなって、随分成長したなと感じることも多くなりました。
その一方で、恐らくもともと持っている能力という意味では、ほかの得意なこと、好きなことに比べると、算数に関してはスローペースで数量感覚も身につくのに時間がかかるような印象はあるので、100を超えるような数になってくると、イメージするのが大変になり、計算で混乱するようなことが出てきました。

学校ではまだそこまでの計算はしていないので、焦って先に進む必要もありませんし、せっかくこれまでその子がコツコツ自分で理解して積み上げてきたことで、随分算数が好きになってくれた、そのことも大事にしたいので、前回全くイメージできず困っていた何千からの引き算を、今回はじっくりしてみることにしました。

まずは前回たまたまおかしかった可能性もあるので、紙に1000-1と式を書いて、答えがわかるか尋ねました。
しかしすんなりとはいかず、どうにか999と答えられたものの、2000-1になるとまたできなくなる状態でした。
ということは、たまたまおかしかったわけではなく、イメージできていない、理解できていないということだなと、教具を使って、それを触ったり、目で確かめたりしながら、答えを考えてもらうようにしました。

輪ゴムを外して枚数を数えてもらったり、なくなるところを隠してもらったりして、ひとつひとつ確かめて答えを書き、また確かめて答えを書きと、「何千-1桁」の問題を繰り返していたところ、途中から教具を見ずに式だけ見て答えが書けるようになりました。
途中でおかしくなっても、教具を見てもいいよと言うと何か思い出せるようになったようで、触ったり隠したりしなくても答えが出るようになりました。
その後、何千から2桁の数や3桁、4桁の数を引く筆算をしてもらったところ、随分考えられるようになりました。

筆算だと、一番上の位を1減らして、ほかの位は0が9になる、最後は10から引いた数が答えだというように、書き方を教えることはもちろん可能です。そして、それを何度も練習させることで、0が並んだ筆算のときにはこうするんだなと覚えて再現できるようにはなるかもしれません。
でも、それは本人が何をしているのか、どうしてそうすれば答えが出るのかを理解しているかどうかとはまた別の話です。

何をしているのか、どう考えるのかをひとつひとつ理解して進むことは、算数を嫌いにならないためにも本当に大事なことだと思いますし、また、それを積み重ねていくことで、算数が苦手な子であっても「本物の力」をつけていくこともできるように思います。
たとえスラスラ速く解けるようにならなくても、自分で考えてわかるものは大嫌いにはなりにくいようにも思いますし、これからの時代、単純計算のスピードより自分で考えられるかどうかの方がきっと大事になっていくと思いますので、ひとりひとりを大事に、その子のペースに合わせて進めていけたらなと思っています。

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2017年6月21日 (水)

考えない子に

教室に来てくれている子達の中に、これまで速く解くことに意識が向いて、じっくり考えることが苦手になっている子が、過去にもいましたし、最近も何人かいます。
そういう子達は、ぱっと読んだだけではわからないような問題に出合うと、しばしば「これ足すの?」などと、何の計算をすればいいのかを尋ねてきたりします。

そういうとき、私は大抵「さあ、どうやろね」などのようにはぐらかし、「たすと思うんならたしてみたら?でも、答えが合ってても違ってても、なんでなのか説明してもらうよ?」とか、「自分でこうやと思うことをしてみたらいいんじゃない?」とか言ってみます。

考えられない程度がひどい子の場合はそれだけでは本当にどうにもならないこともあるので、それはその子の様子を見ながら助けるところは助けますが、とにかく、自分で考えさせる。わからなければ式は書かなくてもいいから絵を描いたり何をしてでも答えを考えるよう促すなどしてみます。

ただ、これまでゆっくり時間をかけて考えるということをあまりしてこなかった子は、どうやって考えたらいいのか本当にわかっていないこともあるので、そういうときには問題を読みながら、時には身振り手振りも交えて、問題に書かれていることをイメージさせるようにします。(小さい子の場合は問題の登場人物をその子やその子の家族など身近なものに置き換えて問題を読んであげるのも効果があります。)

今週のあるレッスンで、3年生さんがちょっと面倒な文章題を読み終えたかどうかの段階で「これ足すの?」と聞いてきました。実はその問題は、一度の計算では終わらない上に、学年を考えると決して簡単ではない問題でした。
出てきた数を全て合わせてから割り算をするのですが、割り算も余りがあり、最終的な答えは余りの分を1切り上げるというものでした。

はなから考えていない様子だったので、「ちょっと想像してみてよ。読まなくなった本を集めて寄付するとかって、そういうことすることあるでしょ?まだしたことないかもしれないけど、小さい頃に読んでた絵本とか、もういらないけど捨てるのもったいないから寄付しようってことになって、班ごとに集めたのよ。で、集めた本を10冊ずつ箱に入れていくって、想像してみてよ。」そんな言い方をしてみました。

すると先ほどまでとは表情が変わり、班ごとの本の数を全部たした後、本の合計を10で割る式も書くことができました。そして、割り切れなかったあまりも書いて、最後はどうするかなと見ていたら、きちんと割り切れなかったあまりの本を入れる分、1箱増やして答えを書くこともできました。

じっくり考えたことがない子にただ「考えて」とか「よく考えて」とか言ったところで、どうすればいいかわからない場合があります。絵を描いてと言っても何を描けばいいかわからないこともあります。
だからといって、こう考えなさいとか、こういう風に描きなさいとか教えてしまうのは、結局子どもが考えたことにはなりません。やり方を真似た、覚えたということです。

絵を描いてと言っても手が全く動かない、考えてと言っても何をしていいかわからない、そういう子には、問題を読んであげながら、想像してねとか思い浮かべてねと言ってみるのもひとつの方法だと思います。

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2017年6月20日 (火)

「簡単なやり方」

子ども達とレッスンをしていると、時々子どもの口から「簡単なやりかた教えてもらった」とか「簡単にできる仕方知ってる」とかいうような言葉が出ることがあります。

教室では一人ひとりのペースを見ながら、無理がなければ学校の授業の進度などに合わせることはせず、どんどん先に進んでいくので、時には子どもにとってとても面倒なこと、時間がかかることをしてもらうときがあります。

例えば、まだ学校で九九を習っていない上に、教室では九九の暗唱はさせない。でもかけ算は考えたらできるという段階の子が2桁×1桁や3桁×1桁のかけ算を経て、2桁×2桁のかけ算を、まずは筆算のテクニックとしてではなく、足したり倍にしたり、のけたり、色々な方法を考えて解いてみてもらうことがあります。

九九を覚えていない状態でそれをするのは確かにとても面倒ですし、それをした後でいずれ筆算で解いてもらうのですが、2桁×2桁は大人でも何問もするのは面倒で、あまりやりたくないと思う方も少なくないでしょうし(私はできればあまりしたくないですし…。)お子さんが嫌がっていたら、筆算を教えて、こうやって計算したら答えが出るよと助け船を出してくださるというようなことがあるようです。

その際、どうしてそれで答えが出せるのかをお子さんが理解していればもちろんそれでも構わないのですが、上述のように「こうやったらできるらしい」というような感じで計算する子の多くは、位をずらして書くことを忘れていたり、どうしてその計算で答えが出るのかは説明できなかったりというようなことがあります。
やり方は習ったけど、意味は理解していないという状態です。

そして、その状態で答えが出せても、子どもは達成感や満足感を得ることは恐らくありませんし、多くの場合頭にも残りづらいものです。

たとえ面倒でも自分であれこれ考えて答えを出す。面倒だと何か工夫できないかなと感じる子もいるでしょうし、そう感じているときに「こんな方法もあるよ」などと工夫の仕方や考え方を言えば、興味を持って聞くかもしれません。
また、苦労して考えているうちに10回(10倍)だと一の位は必ず0になることに気づくかもしれませんし、だから筆算をしたときの下の段は一の位の0を書かない分ずれるんだなと理解できるかもしれません。

もちろん、苦労したことが後にうまくつながらない場合もあるかもしれませんが、自分で考えるより先にテクニックを教えるというのは、子どもの力にならないことが多いということを知っておいて頂けたらなと思います。

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2017年6月19日 (月)

この頃思うこと

恥ずかしながら、携帯電話をスマートホンに変えて以来、電車などの移動中も家にいても、すぐ手に取っては大して内容のない記事を次々と読んだり、ゲームをしたりするようになってしまい、読書量もやらなくてはいけないことをやる量もすっかり減ってしまいました。

パソコンやスマホ、ゲーム機などには中毒性があるというのは広く知られているところで、似たような悩みを持っている方や子ども達は少なくないのではと思いますが、自分自身、どうにかしなくてはという危機感を感じつつ、同時に気になり始めたことがあります。

ネット上に公開される様々な記事を見ていると、文法がおかしな文章なども少なくありませんが、例えば、タイトルや見出しなど、最も目にされる重要な部分に明らかな誤植、誤字があるようなものが結構あるのです。
個人のブログなどであればともかく、一応は企業として記事を公開しているようなところであってもです。

書き終わって読み直せば気づきそうなレベルの誤植なども(不要な文字が入りこんでいたり、変換がおかしくなっていたりというようなもの)少なくなく、本人が見落としたとしても、別の人が目を通したらさすがにチェックできるのでは?というようなお粗末な間違いが結構あるのです。

詳しくはわかりませんが、記事を書いた人の名前やプロフィールが公開されているようなものは、その記事を書くことで収入を得ているのではないかと思いますし、仮にそうなのだとしたら、あまりにお粗末だよなぁと、そういう間違いやミスを見るたび思います。

しかし、思って見れば、私自身も以前はこんな拙いブログでも、書いたら必ず全部を読み直して、誤字や文法的におかしなところはないかなど確認してから公開していたのが、いつの間にかとりあえず打ち終えたら、かなりアバウトに目を通し、まあ大丈夫だろうと公開してしまうことが多くなっていることに気づきました。

なんというか、インターネットでの情報伝達スピードがあまりに早く、例えば本を書くとなれば下書きをし、推敲をし、清書をし、編集者や校正者が再度確認をし、多くの手間と時間、人の目と手を使って、ようやく1冊の本が出来上がるというのが一般的なのではないかと思いますが、それに比べると、たった今何か事件が起こったら、その数分後にはニュースとして全世界に発信できる。ニュース記事、ブログ記事その他が、いつの間にか消耗品というか、使い捨てというか、「鮮度」の落ちるスピードが異常なまでに速くなっているように感じました。

どんどん消費されていくものに対して丁寧に時間をかけて書き上げるのは理屈に合わないとか、どんどん出さないと情報として古くなってしまうから、内容を吟味するよりスピードが命とか、なんだかそういう方向へ世の中が移っていっているような気がします。

気づけば私自身も相当その状態に毒されているような気がして、あまりインターネットなどを見ない、本や新聞をよく読まれる、そんな方のゆったりとした時間の流れというか、時間を大切に使っているというか、日々を丁寧に暮らしているというか…そんな方達の暮らしは素敵だなと感じています。

かなりいい歳をした大人の私でさえスマホによってここまで影響を受けているのですから、子ども達にスマホやゲーム機を与えるときは本当に覚悟のようなものが必要なのではないかと思います。
今日も電車に乗っていたところ、小学生と思われる子がスマホらしきものでレーシングゲームをしながら、両手でスマホを握り、目は画面にくぎ付け状態で全く前や足元を見るでもなく、電車に乗り込んできました。親や大人が一緒にいるのであれば注意を促すこともできるかもしれませんが、その子はひとりでしたので、例えば電車の乗るとき足元を見ておらずに電車とホームの間に落ちるなんてこともあり得るなと、ちょっとぞっとしました。

まずは少しずつでもスマホを触る時間をへらし、もっと日々を大切に暮らしていきたいなと、そんなことを思っています。(教育にあまり関係のないお話で申し訳ありません。)

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2017年6月18日 (日)

オフでした。

今日は更新お休みします。

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2017年6月17日 (土)

きっとほんとは難しくないのに。

算数アレルギーのような状態でおうちの方もどうしたらいいのか困られて、うちに来てくださったという経緯の低学年さん。まだ数か月なので劇的変化は見られないものの、アレルギーは少し和らいだかもという印象を受けていました。

既に習ったこともわからないというような状態からのスタートだったことと、低学年さんだと基礎が分かっていない状態で積み上げるのは難しいこととで、学校の進度が気になりながらもその子の理解を見ながら進めてきていました。
そのせいもあり、教室でするより数日前に学校で長さの学習をし始めてしまったようでした。
定規の使い方は習っていたようだったので、長さを測ったりすることから始め、順に課題に取り組んでもらったところ、元々とても几帳面で丁寧な子なので、測るのもかなり正確で、直線を引くのも結構上手でした。

前回は2本の線の長さを測って、合わせたらどれだけの長さになるかというあたりまでで終了だったため、今週は学校で長さの計算問題にも進んだようです。でも、なんだかよくわからず、先生がわからないのはとばしていいと言ったとのことで、ほとんどできなかったというのです。

でも、教室で長さを測って2本の長さを合わせたり、2本の長さの違いを求めたりした後、定規を見てもいいということで計算式のプリントにも取り組んでもらったところ、苦戦したのはほんの数問で、ほとんどはきちんとできていました。

長さ、それもcmやmmは身近な単位ですし、定規は子どもたちの筆箱に普通に入っているようなもので、この先何度も何度も目にするので、最初の段階でいっぱい色々なものの長さを測ったり、比べたり、合わせたりすれば、ほとんどの子がきちんと理解できるのではないかなと思います。
mやkmになると、子ども達にとってはパッと目に入る長さではなくなりますから、長くなるほど難易度は上がると思いますが、少なくともcmとmmは短い長さの単位なので、10で繰り上がる考え方を身に着けていて、100までの数を理解している子は、慣れれば難しいと感じることはないかなと。(もちろん目盛りを読むのがとても苦手な子などもいますので、個人差はあると思いますが。)

教室で先にやれていたら、難しいという先入観を持たずに済んだかもと思うと申し訳ないことをしたなと思いますが、100までの足す・引くがまだスラスラとはいかない段階なので、多少難しく感じるのは今は仕方ないのかもしれません。
何度か学習するうちに、なんだ思ったより簡単だなと思ってもらえるようになればいいなと思います。

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2017年6月16日 (金)

子ども達が先生

これまでずっと使ってきた教材の販売が終了になり、それがまだわかっていなかった頃から少しずつオリジナル教材を作り始めていたので、使っていた教材が扱っている範囲のものはおおよそできたのですが、一部の子達にその教材を使い始めたことで、新たに気づかされることがあります。

これまでずっと使ってきた教材やほかの塾用教材、市販の教材など、色々なものを見て、わかりにくいと感じるところを変えたり、いかにやり方を説明せず子ども自身に気づいて理解してもらえるかを考えたりして作り進んでいるものの、自分ではわかりやすいと思って作ったものを子どもが読み取ってくれなかったり、表現がわかりにくいと感じたりすることがあると、ああそうか、そんな風にも読めるんだなと気づかせてもらえます。

もちろん、一般的に用いられる表現であれば、その表現を理解できるようになる方がいいので、個別に言葉の説明をしてプリント自体の表現はそのままにすることもありますが、引っかかる子が何人もいたらやはりそれは変えるべきでしょうし、大人では当たり前の表現が子どもには当たり前でなかったりもしますので、やはり作ったものを使ってもらうことで初めて気づくことというのはあるのだろうと思います。

また、こうして自分で作ったものを使い始めたことで、これまで教材に対して「ここは使いづらいのよね…」とか「ここは難しすぎるのよね…」とか感じていた不満は、ある意味逃げだったのかもしれないなと感じるようにもなりました。
自分で作ったものだと難しすぎるとかわかりにくいとか、教材のせいにすることはできませんから、教材自体にも責任を持つことになるというと変ですが(これまでもいい教材だと思って使ってきたものなので。)、より自分自身の責任が大きくなるようにも感じます。

自分が思っている範囲までの完成はまだもうしばらくかかりそうですが、子ども達に先生になってもらいながら、新たな学びの機会をもらっているなと、ありがたく思います。

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2017年6月15日 (木)

成長してるなぁ

今日はある2年生さんと長さの学習の2回目のレッスンをしました。
学校でも習い始めたところだったので、前回教材の順を入れかえて急遽し始めたのですが、その子は最初理解するまでに少し時間がかかるタイプなので、どんな感じになるかちょっと心配しながらレッスンを進めました。
すると、時々、え?と思うような答えが出ることもありましたが、予想より遥かにスムーズに課題が進んでいきました。
そして今日が2回目。学校でも更に学習が進んだのだろうと思いつつ、しっかり考えられるようになったものの、スピードはまだゆっくりなので、長さの計算問題になったらどうだろうと、これもまたちょっと心配していました。
わからないときは定規を見てもいいよと伝えて、問題を考えてもらったところ、時々助けは必要だったものの、随分しっかり考えられていて、ちょっと感心するほどでした。

とはいえ、cmとmmが出てきて、繰り下がりがある引き算になるとどうかなと様子を見ていたところ、そんな仕方は私は教えたことがないのですが、mmが引けないときはcmを1減らして、mmのところに10増やすということを、前から知ってたよというぐらいの自然さでしたのです。(例えば13cm2mm-5cm4mmなら12cm12mmに直してから計算をするというようなことです。)

あまりに自然だったので学校かおうちで習ったのかなと思って聞いてみたところ、「ううん。」と。
「自分で考えたの?」というと、当たり前のように「うん。」と頷きました。
もしかすると学校で何か教えられたのかもしれませんが、この子は意味はよくわからないけどやり方を覚えて解くということはほとんどしない上、教えられたけどイマイチ意味が分からないものはかなりの確率で忘れるというのがこれまでのパターンなので、とにかく自分でちゃんと意味を理解してやっているのは間違いないだろうと思います。

1年生の早い時期に算数で大苦戦して来てくれた子が1年ほどでこんなに成長したんだなぁと思うと、改めて感動しました。

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2017年6月14日 (水)

感覚があるかどうかは大きな差になることもある

子ども達とレッスンをしていると、ワークブックなどの問題を見て、なんて簡単な問題!と思うことがよくあります。

もちろん、基本問題などの話ですが、例えば今日のレッスンでは6年生の子が速さに関する問題を解いていて、10秒で12mの速さで歩くと25分かかる距離を自転車で8分20秒かかった場合の自転車の分速を求める問題で、8分20秒を見たときに、3倍したら25分になるなと気づけば、かかる時間が3分の1になるということで、スピードは速くなるから3倍だなと。更に10秒で12mというのも、感覚が身についている子なら1分はその6倍だなと気づけることが多いので、そうなると、この問題は「12×6×3=216」で解けてしまいます。

しかし、仮にこれを学校などで一般的に習う方法で解くとすれば、まず10秒で12mだから1秒に12÷10=1.2。
1分だとその60倍だから、1.2×60=72。
分速72mで25分かかるから、72×25=1800。
1800mの距離を8分20秒かかるから、8分20秒は8と3分の1分なので、1800÷8と1/3=1800÷25/3=1800×3/25=216。
これだけの手順を踏む必要があります。(1秒あたりで求めたら、それを更に分速に直さなくてはならないので、式が更に増えます。)

また、5km進むのに50分かかる人の時速という問題は5kmで50分から1km10分だから、1時間はその6倍で時速60km。感覚がある子は、式すら書かなくても解けてしまうかもしれません。

しかし、これも感覚が伴なっていない、もしくはやり方を習って覚えて処理しているだけの子などは5kmを50分で割って分速を出し、それを60倍するか、50分を5/6時間に直して5÷5/6をするかだろうと思います。(感覚が伴なっていない子であれば、5/6もまずは50/60と書き、それが10で約分できるとパッと気づけばまだしも、実は結構まず2で約分して、更に5で約分、もしくはその逆というように2段階で約分する子も珍しくないかと思います。)
更に言えば、処理をしているだけの子は、分数の割り算も習ったことを再現していることが多いので、5÷5/6と書いた後、5×6/5と式を書き直してから答えを出すこともあるように思います。

時速30kmで70km進むのにかかる時間はという問題であれば、やはり感覚がある子は2時間で60km。あと10km進みには1/3時間だから2時間20分と、問題を読んだら式も書かずに解ける子もいるでしょう。

このように、感覚が伴なっているかどうか、イメージできるかどうか、図が描けるかどうか、そういう力は応用問題などを考える際、大きな差を生む場合が少なくありません。
そして、そういう力を養うのには、まだ脳も成長途上であり、時間にも余裕のある小学校低学年までの間がベストなのではないかと思います。

小さいうちにじっくり時間をかけることで学年が上がって時間が短縮できる、スピードアップできるというのは、こういうところが大きいのだろうと思っています。

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2017年6月13日 (火)

「なんかわかってきた。」

小学校受験もし、小学校でも2年間、おそらくみっちりと「速く処理すること」を鍛えられてきたんだろうなと感じる子と、春から一緒にレッスンをさせてもらっています。
教室には週1回1時間しか来ないので、すぐすぐ変わるものではないと思っていますし、じっくりやっていくしかないかなと思っていますが、それでもやはり提示の仕方ひとつでこんなに違うんだなと感じたことがありました。

これまでは学校で既に習ったことのおさらいなどが多かったこともあり、問題を解く際、どうやって解くんだったかを思い出し、うろ覚えだったり、詰めが甘かったりでミスをするようなことが少なくありませんでした。
でも、習ってしまったことを違う方法でさせるのは難しいことだというのはわかっているので、それに関しては意味を確認するなど、本当に不確かな部分を押さえ直す程度にとどめ、なんとか学校でやる前にこちらで少しでもやってもらえるようにと進めてきました。

その子もがんばってくれたことや、単純計算などの処理は放っておいても速くしようとすることなどで、やっと学校で習うより前にあまりのある割り算を一緒に学習することができました。
あまりのない割り算は既に習った後ですが、あまりのある割り算について、一切説明はせず、絵の描かれたプリントを渡し、問題を読んで考えてもらいました。

37本のえんぴつを2本ずつ、3本ずつ…と袋に入れていくと何袋できて、あまりがあるかどうか、あるならあまりは何本かを絵を見ながら考えてもらうというものだったのですが、どうやって考えるか見ていると、2本ずつは何か計算をしていたようですが、3本ずつは絵を3ずつ区切るようにして数え、答えと余りを書き、4本ずつも同じように数え、答えと余りを書きとしたところ、5本ずつのときにその子の口から「あ、なんかわかってきた。」という言葉が出て、「ごいちがご、ごにじゅう、ごさんじゅうご…ごしちさんじゅうご、ごはしじゅうだから…」と言って、袋は7袋、余りは2本と計算で答えを出しました。

これは私がどう考えたらいいかを言ったわけでも、説明を書いていたわけでもなく、自分で2本ずつ、3本ずつと絵を見て分けているうちに、計算で出せそうだぞと気づいたということです。
そして、その気付きは正に余りのある割り算を考えるときに説明されることだったというわけですから、少なくともこの学習については、教わって覚えたのではなく、その子自身が気づいて理解したのです。

きっとこういうことを積み重ねていくことで、自分で考えて理解するということがどういうことなのかを実感していってくれるのではないかなと思います。
もちろん、一足飛びにとはいかないと思いますが、これからが楽しみになってきました。

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2017年6月12日 (月)

もどかしい。

今日は土曜お休みだった子の振替で出勤していました。
小学生の頃来てくれていて、この春高校生になった、結構しっかり考えられるタイプの子なのですが、進学校の高校なので、予想通り授業のペースが速く、その上、一斉指導ですから、恐らく先生が説明をして演習をさせるというのがメインになっているのではないかと思います。
高校に入ってから毎週来てくれているわけではなく、入学前に何度かスポットで来て、中間試験前にもまた来て…という感じだったので、春休みの貯金はあっという間になくなり、既に学校が先に行ってしまっていました。
習ったというところをどれだけ理解しているか、まずは問題を解いてみてもらうことにしたところ、用語であったり、答え方であったりが色々あやしい状態で、おまけに違うと言われたら、どうやるんだったかなとやり方を教科書などで見ようとするような場面も。

やり方を見て解くなんてことを私がOKするはずもないのに、授業の進度が速かったり、中学時代の塾でも一斉指導を受けたりと、じっくり考えて解く機会が減ってしまっているその子は、私の目の前でも解き方を思い出そうとすることがあるわけです。

もちろん、私自身が高校生だった頃には、その子より遥かに意味も理解せず、ただ公式などを覚え、解き方を覚え…という感じで数学を乗り切っていたのが事実です。
ですが、今になって問題の意味を考えると、な~んだ、そういうことだったのか!と思うことも少なくなく、高校数学でさえも覚える必要のあることは思っていたより限られているんだなと、感じられるようになりました。

意味を考えずに覚えたものは、記憶があやしくても、こんな感じやったよなというふうに曖昧なまま使って間違うということがしばしばあります。
なぜそれで解けるのか、何を解いているのかを意識するかしないかの違いは本当に大きいのです。

曖昧な理解のままペースだけを上げられると、自信を持って解けない。試験などで結果が出づらい。忘れないよう反復が必要になり、そういう勉強は大抵ちっとも面白さを感じられない。その結果、好きだった数学が嫌いになっていくというようなことが起こってくるように思います。

その子の場合はある程度「地頭」があるので、時々でもここに来て自分の頭で考えることをしていれば、多少はマシかもしれませんが、進学校と言われるような学校では、ほとんどの子が平均以上の学力を持っているはずですから、授業のやり方を変えることで指導する側も生徒たちももっと楽しく身につけられるのではないかなぁと思うとなんとももどかしい気持ちになります。

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2017年6月11日 (日)

オフでした。

今日は更新お休みします。

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2017年6月10日 (土)

わかってもらえたかな。

もしかすると、子ども達と指導する立場の方の中にも、その違いを意識しておられない方がいるのかもしれないと思うのですが、とてもとても大事な、子ども達にはちゃんとわかっておいてほしいと思っていることがあります。
今日のレッスンでも、ちょうどそのことをわかってほしいと思う場面があり、どうすればこの子に伝わるだろうと考えて話をしたところ、「ああ、わかった。」と言ってもらえてホッとしたのですが、ちょっとそのお話をさせて頂こうと思います。

国語の面ではやや弱さを持っているものの、算数は結構よくできる子が、先日から少し骨のある問題を考えていました。
学校の授業などとは直接関係ないもので、その子の学年を考えるとかなり難しい問題ではあったので、やり方を教えて解いてもらうのではなく、自分で気づくまで、何度も時間を取って考えてもらおうと思っていたのですが、このところほかの宿題の取り組みが十分ではない状態が続いていたため、おうちの方にそれをお伝えしたところ、その難しい問題もおうちの方が一緒に取り組んでくださったようで、2問のうち1問は正解に辿り着いていました。(間違えていた1問も、どこかで計算を間違ったか、違う数字を使ったかなのではないかというような答えでした。)

おうちの方と一緒にしたのはまだ聞いていない段階だったので、「こっちはできてるけど、こっちがちょっと違うんよね。計算間違いとかかもしれないけど、こっち(正解した方)はどうやって考えたの?」と尋ねたところ、「お父さんと一緒にやったんやけど…」と言って、どうやって解いたかを説明してくれました。

ひとまず「じゃあ、おんなじようにやったらできるんじゃない?」と言って、どんなふうに解くのか見ていたところ、お父さんが言ったことやどんな計算をしたかを思い出そうとしているようでした。そして、途中、使う数字を間違えたりはしたものの、その数字は問題にないよ?などと伝えると、「同じ解き方を再現する」ことはできたようです。

ただ、この様子だと、この子は算数が得意でよくわかる子なのに、この問題は自分で何をしているのか、どうしてその答えが出たのかわかっていない気がするなと思って、少し尋ねました。
話を聞くのもあまり得意ではないその子に、どうすればわかってもらえるだろうと思いながらも話を始めると、これまでにも色々な話をしてきているので、話し初めの時点でこれまでに話していたことなどを思い出したのか、「それじゃボクの役に立たないの?」と尋ねてきました。

でも、きっとこの違いは大人でもわかっていない人もいるだろうし、それを言葉に対する弱さのあるこの子にどういえばわかってもらえるかなぁと思いながら、こんなたとえ話をしました。

「まだ幼稚園ぐらいの子がどこかで見た英語を覚えて書けるようになったとするやん。見て覚えてその通りにかけるねんけど、その英語がどういう意味か、それが英語なのかどうかもわからないねん。何かのマークかと思ってるかもしれへん。でも、お母さんが『前にあそこで見たあれ書いてみて』って言ったら、ちゃんと覚えてて、その通りに書けるねん。覚えてるってことはすごいけど、それってその子は賢くなったかな?その子の役に立ってるかな?」

そんな話をしたところ、「なってない。そうか、なんかわかった。」そう言ってくれました。

教わったことを覚えてその通りに再現できることも一つの能力なのは間違いありません。
また、中にはとにかく覚えるしかないことももちろんあります。ただ、少なくとも算数では意味も分からず覚えて再現するという能力は、長い目で見てあまり自分の力にはなりません。
特にその子の場合、算数は結構よく考えられるのですから尚更です。

やり方を教わったものの、なんでそうするのか、そうしたらなぜ解けるのかはわかっていないという話だったのと、本人がちゃんとわかった方がいいと思ってくれたのとで、その後もう一度、それぞれの計算は何をしているのかを考えてもらい、「ああ、そういうことか!」と言ってもらって、その問題を終えました。

できることとわかることの違いの例として、上述の英語の例だと小さい子でも何を言おうとしているかが少しは伝わりやすくなるかもしれません。
その子にも少し何かわかってもらえたのなら嬉しく思います。

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2017年6月 9日 (金)

煮詰まったら

今日のあるレッスンで、3人の子がみんな一気にどこかにはまりこみました。
顔を見ただけで頭が働いていないのがわかるという状態に3人同時にはまりこんでしまったので、さすがにこれはなんとかしないと…と、一旦レッスンを5分休憩するからおしゃべりしていいと言っても3人ともぼ~っとした表情のままだんまり。しかし、このままでは当分(もしくはレッスンが終わるまで)この状態から抜け出せないかもしれないので、「じゃあ、一旦靴はいて、下まで降りて上がってきて。」と階段を歩いてきてもらうことにしました。(その場で立ち上がらせて伸びをさせるとか、ドア辺りまで歩いてこさせるとかは、普段も結構あるのですが、今回は3人同時にどっぷりおかしくなった感じだったもので、普段より多めに動いてもらうことに。)

すると、学年が1つ上の2人は戻ってきた時点で再び頭が働き出し、レッスンが進んでいったのですが、残る1人は今日来たときからちょっと危険な空気を醸し出していたこともあり、復活せず…。
その子は途中で手を洗うか顔を洗うかしてきてと、再度動いてもらったところ、一瞬線がつながった時間もあったのですが、今日は復活しきれぬままでした。

この方法で必ずしも効果があるわけではありませんが、子ども達が突然おかしくなった(今までできていたことができなくなったり、表情がぼーっとしたりし始めた)場合、とにかく一旦体を動かすなど気分を変えてもらうことが効果的です。もちろん、大人にも有効だと思いますが。

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2017年6月 8日 (木)

見てみたいな

この頃随分とできることが増えてきた、算数でかなり苦戦をしていた子。
初めの頃は、その子がわからないことが何なのかを見つけることにも苦戦したこともありましたが、だんだんと想定外のところで行き詰ることは少なくなり、ゆっくりではあるものの、しっかり自分で考えて解けることが多くなってきました。
それでも、新しいことを学習するときには、今でもまだ「何をどう考えているんだろう??」と、予想外の反応がかえってくることがあります。
今回は学校でもし始めたというので、レッスンの順を少し入れ替えて、長さの学習をすることにしました。
絵を描くのが好きだという子なので、最初の課題はすんなり行けるのではと思いつつ、プリントを出しました。

1枚目は2つの絵を見くらべて長い方にマルをするというもので、ほとんどは迷わず選ぶことができたのですが、そのうち2つ、迷う子がいる問題でその子も迷って、違う方にマルをつけました。

1つは2本のジグザグの線で、両端は同じ位置。ジグザグの山谷の幅が違うというものでした。大人であれば、ジグザグが大きい(振れ幅が大きい)方が長いというのは当たり前のことだろうと思いますが、迷う子どもも結構います。
そんなときは、両方の線を指や鉛筆でなぞってみてもらい、どちらの方がなぞるのが長かったかを尋ね、それでもぴんと来ない子にはひもやモールなどを使って、同じような2つのジグザグを作ってみせて、それを真っ直ぐに引っ張るとどうなるかを見せたりもします。

この子は、指でなぞって長い方がわかったので、まずはクリア。もう1問迷ったのは、9つの立方体を横1列に並べたものと、3×3に並べたもの、それぞれの周囲をリボンで結んだ図。この図だと底になる面と側面のうち片方が見えない図なので、これも迷う子が割といます。(大人からすれば見ただけで横1列の方が長いのですが。)

それも、わからない子、迷う子には、見えていないところもリボンがぐるっと回っていることを確認し、周が積み木何個分(リボンが通っている面の数)かを確かめてもらうとだいたいは大丈夫ですが、それでも無理な場合は実際に積み木をひもでくくって見せたりもします。

この子は絵を見て数を確かめるだけでわかったので、さらに次のプリントへ。
ここでちょっと不思議なことが起こりました。

今度は4つの図を見くらべて長い順に番号をつけるものだったのですが、鉛筆の問題はすんなりクリア。
次に、両端の位置は同じで、のの字を繰り返し書いたような曲線、直線、かなりゆるいS字、ゆるいのの字の繰り返しの曲線というものがあったのですが、のの字の繰り返しが多いものに1と書き、ゆるいのの字に2と書いたので、ああ大丈夫ねと思っていたところ、一旦ゆるいS字に3と書いたのを消して、直線に3、ゆるいS字に4と書き直しました。

もう1問はリボンで、両端の位置は揃っておらず。見ただけで一番短いリボンはわかったようなのですが、端から端の直線距離はほぼ同じで、片方はぐるぐる何周もねじれており、もう片方はほぼ真っ直ぐという2本について、順番を間違いました。

何かを考えているような間が合った後に書いた答えだったので、どちらも適当に書いた感じではなかったのと、その後また図を指でなぞるなどしてもらったり、糸を出してきて比べてもらったりして、正しい答えもわかってくれたのですが、あのとき頭の中で何を考えていたのか、とても興味があります。

子どもが予想外の反応をしたときの頭の中を、本当に見てみたいなと、いつも思います。

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2017年6月 7日 (水)

ライブじゃないとできないこと

少し前までは高校生や予備校生、大人などを対象にした衛星授業やDVDによる授業が広がりを見せていましたが、最近ではその流れがどんどん中学生、小学生へと広がってきているようですね。
タブレットなどをつかっての映像授業などを取り入れている学校や塾、通信教育もどんどん増え続けているように思います。
うまく利用すれば手軽に安価で成果を得られるという面もあるのだと思いますが、個人的には少なくとも「児童」と言われる間ぐらいまでの子には、目の前で見てくれる人がいる状態とは大きな差があるだろうと思っています。

もちろん、目の前で見てくれる人がいる状態で、必要な部分だけ動画などを使うというのはいいのではと思います。例えば、実際に目の前でやってみせるには準備などが大変だとか、なかなかうまくできないとかいうものを映像で見せることによって、印象に残りやすくなるということはあるだろうと思います。

教室でも、中学生が球の体積の公式を学習するときなどには、インターネットで公開されている動画を探し、円柱と球の体積を押しのける水の量で見せている動画などを見せ、どうすれば球の体積が求められるか考えてもらうようなことをすることもあります。
これは、ただ公式として覚えると印象に残りづらいものの、球と、その球の直径と同じ直径、高さの円柱を用意し、水を入れて目の前で実際にやってみせるとなると(過去に球や円柱上の容器などを探したこともあるのですが)なかなか大変ですので、そういう部分は動画を使わせてもらったりしています。
ただ機械的に覚えなさいということは極力しないのが教室の方針ですので、確かめられることは極力確かめるようにしており、それが難しい場合に動画が利用できるようならするというスタンスです。

ですが、ただ見ただけのものはやはり忘れやすいです。わかったような気になっても、受け身で見ているものは定着しづらいだろうと思います。
また、子ども自身が学習内容に興味を持ってワクワクしながら取り組むのであれば効果も上がりやすいかもしれませんが、そうでない場合は、その子の表情変化などを見て、理解しているかどうか、助けは必要でないかどうかなど気を配る人が必要だろうと思います。

教室でのレッスンは完全個別対応なので、例えばある単元のレッスンを動画にとったとして、その単元を学習する子みんなに使えるかといえば、少なくともうちの教室では無理だろうと思います。もちろん、一部使えるとか、ぴったりではないけどまあ使えるとか、そういうレベルでなら使いまわしもできるかもしれませんが、その子にベストか、ベストとまで言えなくても、今私ができる最善かという見方をすれば、やはりひとりにしか使えないのです。

成長途上にある子ども達にはライブでなければできないこと、伝わらないことというのが、少なからずあるような気がします。

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2017年6月 6日 (火)

わかってほしいこと。

問題を見ると、とにかく急いで答えを出さなくては!と焦る子どもを見ていると、もっと何かするべきことがあるのではないかと思うものの、そこにある壁が大きすぎて、何をどうすればいいのか、一体どこからどう手を付ければいいのか、全く見当がつかず、そのうち生来の不精が顔を出して、なんとなく申し訳ない気持ちになりながらも、自分が関わっている子ども達だけに何とか…という風に考えてしまいます。

この感情は教室を始めてからずっと抱いているものですし、教室で一緒にレッスンをさせてもらうことができた子達には自分なりに精一杯、急がなくていいということ、考えるのには時間がかかるのだということ、考えてわかると気持ちいいのだということ、合っているかどうかも分からずマルをもらっても自分の力にはならないことなどを、繰り返し繰り返し伝えながら、考えてわかることの気持ちよさに気づいてもらうよう努めてもきました。

それでも、かつての私がそうだったように、やり方を教える。忘れないよう何度も演習させる。それが指導だと思っている大人はきっと数えきれないほどいるでしょうし、言った通りにできる子、速くできる子が賢い子だという評価をする大人もやはり大勢いるだろうと思います。

やり方を教えるとほとんどの子がすぐにそれを忘れてしまう。忘れないためには膨大な量反復させる。その方法は少なくとも多くの子どもは達成感や満足感などを得ることはないでしょう。
でも、指導者側が、それが指導というものだと思っている限り、ずっと同じことが繰り返されるのだろうとも思います。

何事にも例外はありますので、全ての子どもにあてはまるとは言いませんが、例えばなぞなぞやパズル問題などを解いているときに、焦って答えを出そうとするとか、合っているかどうかわからないけどとりあえず答えをいうとか、そんなことをする子はまずいないでしょう。(もしいるとすれば、既に勉強などで急がされ慣れている可能性もあるかもしれません。)そして、なぞなぞの答えを考える前に教えてというような子も恐らくまずいないでしょう。
自分で一所懸命考えて答えを思いついたときは嬉しく感じるでしょうし、たかがなぞなぞやパズルとは言え、わかった、できたという感情は小さな自信を生むかもしれません。

本来、考えてわかることは気持ちの良いこと、楽しいことです。ですから、小さい頃から教室に来てくれていて、じっくり考えることが当たり前になってる子達は、こちらが黙って待っている限り、焦って答えを出そうとはしませんし、心行くまで考えます。そういう子達にとって勉強は「学び」なので、辛く苦しいものではないのだろうと思います。

しかし、問題を前にすると途端に焦って答えを出そうとする子達は、みんな大人の反応を見たり、些細なことを自慢したり、答えがマルになっても嬉しそうということはなく、せいぜい合っていたことにホッとするような感じで、見ていて辛くなります。
でも、そういう状態にしてしまったのは、ほぼ間違いなくその子に関わった大人なのです。

小さい子達に本当にわかってほしい。
小さい子の親御さんたちにも、小さい子達を指導する先生方にも、本当に本当に知っていてほしい。

考えるのは時間がかかること。時間はかかるけど、記憶にしっかり残ること。
考えてわかると気持ちいいこと。安心すること。心が安定すること。
初めは時間がかかっていても、じっくり考えることが習慣になった子達は、そのうち自然と考えるスピードも速くなっていくこと。だから、小さいうちから焦らなくっていいということ。

学ぶことは本当は楽しいこと。

楽しく学べる子どもがひとりでも多くなりますように。
そうすればきっと、陰湿ないじめなども減るような気がします。(なくなるとは思いませんが。)

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2017年6月 5日 (月)

今日はオフ。

昨日少し出勤したこともあり、今日は完全オフモードになってしまいました。
明日からまたどうぞよろしくお願いいたします。

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2017年6月 4日 (日)

日曜でしたが。

今日は日曜でしたが、イレギュラーでひとつレッスンがあり、日中出勤していました。
学校もお休みで疲れもないからか、レッスン自体が順調に捗ったのですが、元気が有り余っているせいか、いつもより少し羽目を外したりすることもあったりで、時間があれば最後にすることになっているパズルなどの「お楽しみ問題」はできずに終わりました。

ひとりの子はまだ就学前なので、多少は羽目を外してもいいかなと思っていますし、やる気にならないものを無理にさせるつもりもないのですが、きちんとやっていれば十分「お楽しみ問題」までやれたはずが、途中でふざけたりしていたことで時間が足りなくなり、できなかったという事実は残念な気持ちと一緒にちゃんと味わってもらう方がいいかなと思い、順を入れ変えたり、その問題のための時間延長をしたりはせず、もちろん怒るのではなく「途中でちょっと遊び過ぎたから時間なくなっちゃったね。」とだけ言いました。
もちろん、その時初めて言ったのではなく、途中、お楽しみ問題を見つけて「あ、それやりたい!」と言ったので、「順番ね。これやって、これやって、これだけできたらするからね。」というようなことは伝えておいて、途中お遊びが過ぎたなというときにも「時間なくなっちゃうよ」と声を掛けたりもしてのことです。

ご褒美で釣って勉強などをさせるというのは個人的にはあまり好きではありませんし、今回のような「ちゃんとやったら後でおたのしみがある」というのも、交換条件のような気もしてちょっと迷うところではありますが、その日にしようと思っているものがあり、その子であればこのぐらいは十分できるはずと思っているものを、レッスンとは全く関係ないことをして時間を使ってしまったときに最後までできなかった、自分がしたかったものまでできなかったという経験をしてもらうことも、一種の学びなのではと思います。

残念な気持ちをそのままで終わらせるのはよくないとも思うので、そういうときは本人に希望を聞いて、やりたかったものを宿題として渡すこともあります。今回も本人が宿題にしてほしいとのことだったので、それも宿題に着けて渡すとニコニコして、笑顔でレッスンを終えられました。

子ども達とのレッスンでは絶対の正解、この方法が誰にでもバッチリ合うというようなものがないだけに、小さなことでもひとつひとつ迷いながら、この場合はこれがいいのではと判断しつつ進んでいくのですが、教育というのは本当に奥深いものだなぁと思います。

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2017年6月 3日 (土)

ブレイクスルー

今日は教室の出来事ではないお話です。
このところ連日、世界卓球で日本代表選手たちが目を見張るような活躍を続けていて、海外サッカーはオフシーズンに入ったというのに、昼夜逆転生活は直らぬまま継続しています。

先日、平野美宇さんがアジア大会で優勝し、今大会では大いなる注目を浴びていましたが、新たなヒーローが生まれました。16歳、17歳でもすごいと思っていたのに、今度は13歳です。
それだけでなく、20代半ばの選手たちも本当にみんな素晴らしく、一体いつの間にこんなにも日本の卓球のレベルはあがっていたんだろうと驚くばかりです。

平野さんがアジアチャンピオンになった後、インタビューか何かで言っていたことがありました。
彼女はオリンピック代表になれず、その後猛練習をし、その間に中国のリーグにも挑戦したことで、中国選手も同じ人間なんだと思ったというような感想を持ったそうです。

きっと、それまでは中国選手はすごい、自分にはとても叶わないというような思いがあったのでしょう。しかし、実際に対戦をし、それを日常的に見たことで、同じ人間なんだ、勝てるかもしれないという気持ちが生まれた、そのことが優勝に大きな影響を与えたのではないかと思います。

ほかのスポーツなどを見ていても、例えばひと昔前は男子でも4回転は未知の世界だったはずですが、誰かが飛べるようになると、次々と飛べる人が現れ、今では4回転半や演技中に何種類もの4回転を飛ぶ選手も何人もいます。

短距離100mも、ついこの前、まだ高校生だった桐生くんが10秒を切るかも!と大注目を浴びたのが、今では日本にそんな選手が3、4人いるんですよね。

教室で子ども達とレッスンをしていても、例えば一般的な常識ではその年齢の子にそんなことできるはずないのでは?と思うようなことでも、私が先入観を持たず、きっとできるよと言って見守っていると本当にできるというようなこともよくあることです。

できないと思うとできない。そんな話を聞いたことがありますが、自分で思い込むにしろ、周囲から無理だと言われるにしろ、そんなことはできない、できるはずはないと自分で思ったことは、その多くができずに終わるのではないかと思います。
ということは、その反対にできると思えば少々難しそうなことでもできてしまうなんてこともあるのではないかと思いますし、スポーツなどでは普通の人間には無理だと思われていたようなことを誰かが目の前でやってみせてくれると、あ、できるのかもと思えて、実際に成功する人が次々出てくるというようなこともあるのかもしれませんね。

そう思えば、私たち大人は子ども達に対して、「そんなこと無理だからやめておきなさい」とか「そんなのできないよ」とかいうことを口にするときには、よくよく考えて、本当にそれをいう必要があるときだけ(それがどういう場合かちょっと思い浮かびませんが。)にとどめるようにしなくてはいけないのではないかと思います。

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2017年6月 2日 (金)

ハイテンション

このところ、好不調の波がちょっと大きい3年生さん。
今日は来たときからなんだかハイテンション。それなのに、運動会の練習でくたくただと。
ということは…突然パタッと頭が働かなくなる危険が…。と、ドキドキしながらレッスンを始めました。

しかし、その心配をよそに、今日は終始テンション高めで、何か尋ねてもはきはき答えてくれる。わからないことははきはき明るく尋ねてくる。そんな感じで結構順調に進んでいきました。
ただ、あまりに明るくあっけらかんと、自分で考えるべきことを聞いてきたり、問題を読みもしないでわからないと言ったりもして、せっかく明るく楽しくやっているのに、ここで「ちゃんと自分で読んで」と言ったら突然不調になったらどうしようと、どこまで助けるかのさじ加減に悩みました。

子ども達はそれぞれ性格が違いますし、その日のコンディションによっても反応が違ったりもしますので、あるときは普通に自分で読んで考えていたのに、あるときは全くそうしてくれなくなったり、困っていそうだから助け舟を出しているのに、全く耳を貸さず我が道を行く子がいたり、本当に色々です。
どの子にも合う方法なんてないというのはもちろんですが、あるときその子にバッチリ合った方法が次のときにもうまくいくかと言えばそうとは言えず、そこが子どもとの学習での難しいところなんだろうと思います。

今日のその子はとりあえずレッスン終盤までどうにか好調をキープしてがんばってくれたので、ホッとしました。
運動会も終わるので、次回からは体力的に少し余裕ができるかなと期待しています。

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2017年6月 1日 (木)

頭の中

子ども達とレッスンをしていると、時々、予想もしないような答えを出す子がいます。
単に勘違いだったり、疲れていておかしくなっていたりということもありますし、予想していなかったもののどう考えたのか推測できるようなものもありますが、中には今の私にはまだ推測できないような、だからといって何も考えずに適当に書いたという感じではなく、確かに何かを考えていたなと感じる答えを出されることもあるのです。

一番困るのはそういうとき。子どもは何かを考えていたようなのに、こちらは全く推測がつかないような答えが出てきて、その子がどう考えたのか説明できるならいいのですが、まだ幼い子の多くはその説明がうまくできないことも珍しくありません。
こういう場合、何か考え違いをしていることが考えられますので、違うよと言っても解決しませんし、かといって、どこで勘違いをしているのか推測できなければうまく言葉を掛けることもできません。

今日のレッスンで、ある低学年さんと1000より大きな数の学習をしていたときのことでした。最近は随分よく考えられるようになり、自分で図を描くこともかなりできるようになってきたのですが、今日は疲れていたのか、なぜか私が言っていることを聞いていない状態が何度もあったり、ある問題の図を描いてくれるように、ちゃんと問題を指し、赤鉛筆で印もして伝えたのに、なぜか全く違う、どの問題にも合わないような図を描いたりと、ちょっとどこかにはまりこんでしまいました。
その中に100が25枚とじ10が12本でいくつになるかという問題があり、なかなか正しい答えに辿り着けないようだったので、いつものように100は四角、10は棒で表す図を描いてねといいました。
しかし、なぜか四角を7つ描いて止まったのです。「これ、何を描いてくれたの?」と聞くと、100を25枚のところの絵だと。疲れもあって、100と10と枚数と色々がごちゃごちゃになっているんだろうなと、四角の1つを指して、「これ、100じゃなくて折り紙だったら、この絵は折り紙何枚?」と聞くと「7枚」と答えたので、「そうね、これは7枚。じゃあ折り紙を25枚描いて。」と言って、その後も何度かやり取りをして、なんとか答えに辿り着いたのですが、7枚で止まったときの図を見ると、初めに描いた2つの四角は少しだけ大きく、後に描いた5つの四角はそれより小さめだったのです。(僅かの差でしたが。)
つまり、その子は何かおかしなスイッチが入って、2枚と5枚だけど、少し大きい2枚は20枚、後の5枚が5枚というような風に思ってしまったようです。

でも、それは目の前で絵を描いてもらったから、頭の中が少し見えたわけで、それを見ていなければ気づけなかったかもしれません。

この子もそうでしたが、子ども達はまだうまく説明できないことも少なくないので、考えているようなのに何か頓珍漢な答えを出した場合、描けるものは絵に描かせるなどすれば、どう勘違いしたか推測できる場合があります。
おうちで親子で煮詰まってしまったというような場合、使えることもあるかもしれませんね。

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