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2017年3月31日 (金)

講演会に行ってきました。

今日は植松努さんの講演会に行ってきました。
雨の降る中でしたが、大きな会場に3000人近くの人が集まられたようです。
そして、本当に本当に聞かせて頂けて良かったと思うお話でした。

子育てをしておられる方、子どもに関わるお仕事をしておられる方にひとりでも多く聞いて頂きたいと思うお話でもあり、また、みんなと同じようにできないことで悩んでいる子、学校というシステムになじめない子、いじめられて苦しんでいる子、将来に悩みを抱えている子など、多くの子ども達にも聞いてもらいたいと思うお話でもありました。

聞くのに一所懸命でほとんどメモは取らなかったのですが、そして、お話のある程度の部分はインターネットで公開されているTEDで植松さんがお話されたこととも重なっているのですが、印象に残った短い言葉をいくつか書き留めました。

講演会のお話の流れもありますので、短い言葉だけではよくわからないものもあるかと思いますが、書き留めてきたものをいくつかご紹介します。


・不安の向こうに喜びがある (不安を恐れなくていい。不安を乗り越えて初めて喜びが感じられるのだと。)
・人は足りないからこそ助け合える。
・自分で考え 自分でためす 新しいことは誰も教えてくれない
・「普通」と値切られる 「ちがう」と必要とされる
・「ちがう」は「おかしい」は弱い社会(生物は自分と異なるものを作ることで生き延びてきた。みんな同じだと、ひとつの病気で全滅してしまうかもしれない。だから、違うことはいいことだと。)
・いやなことを我慢しないで なんでいやだと思うのかを考えたら 人を助ける発明になる
・考えるためには 心を伝える美しい言葉が必要
・考える力は教えられて身につくものじゃない
・何かになりたいと思ったら なぜだろうと考える(例えば医者になりたいと思ったとして、そのためには頭がよくなくてはいけない、お金がかかるなどと、できない理由が色々出てくるかもしれない。でも、なぜ医者になりたいかを考えて、「人を助けたいから」だということがわかれば、お医者さまが使う機械を作ったり、消防や救急の仕事をしたり、人を助ける仕事はいくらでもあるというようなお話。)


本当に大切なことを色々言っておられたなと思います。
メモはしなかったのですが、ちょっと目から鱗だったのが、たとえ東大に行ったって、教えてもらえるのは「過去」のことで、まだ誰もやったことがないことは教えてもらえないのだということ。
そういわれれば確かにそうだなと、改めて感じました。初めて出合うことに対しては誰も答えを教えてくれない、自分で考えるしかない。当たり前のことなのに、大学での学問ということでは、そんな風に考えたことがなかったなぁと思いました。

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2017年3月30日 (木)

懸念事項3つ片付く

やらなくてはいけないことがいっぱいあり過ぎて、いつまで経っても追いついていないのですが、今日はそのうち教室のことで気になっていたことが2つ、家のことで気になっていたことが1つ片付いて、結構スッキリしました。
とはいっても、まだまだスッキリさせなくてはいけないことが山積しているんですけどね。(苦笑)

明日は以前ブログでもお知らせしました、植松努さんの講演会に行ってきます。
楽しみです!

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2017年3月29日 (水)

とっかかり

今日も通常レッスンはお休みでしたが、新高1くんと入学準備のレッスンをして、その後は新年度の準備をしていました。

やらなくてはと思っていてもお尻に火がつかないとなかなか動き出せない上に、年々一層無精にもなっていて、気になっているけど急を要さないことは色々と先延ばしになっています。

ですが、そのいくつかは新年度を迎えるというひとつのキリでやらなくては!と手をつけました。
やり始めると思っていたほど嫌ではなかったり、面倒ではなかったり、結構集中できたりというのはよくあることなので、どうしてそれがわかっているのに、とりあえず手をつけようと思えないんだろうなと、我ながら不思議になったりもします。

結局はやらなくてはいけないのであれば、やらなくちゃなぁ、気が重いなぁと思って過ごす時間と、嫌だけどとりあえず手をつけて、終わらせた後自由になる時間とでは、当然圧倒的に後者の方が有意義で楽しく過ごせそうですから、それがわかっていて、更にかなりいい歳をした大人でも私はできないというわけです。

で、そう考えると、宿題を嫌がる子達の中には、やったらそんなに嫌じゃなかったと感じる子もいるのだろうなと。
だとすれば、最初の5分か10分、おうちの方が一緒に宿題をしてあげて、「ちょっとしなくちゃいけないことあるから、がんばってやっておいてね。」とか言って、きっかけだけ作ってあげれば、やらなくちゃな、嫌だなとモヤモヤした気持ちで先延ばしする不毛な時間を、終わってスッキリ心置きなく自由にできる時間に変えられる子もいるのかもしれません。

もちろん、子どもはみんなそれぞれに違った個性を持っていますし、日によってうまく行ったり行かなかったりするものだと思いますが、宿題やしなくてはいけないことになかなか手をつけないお子さんがいたら、試してみられてはいかがでしょう。

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2017年3月28日 (火)

春休み

子ども達は春休みになり、保護者の方は普段より忙しくされていることと思います。
一般的な塾などはこの時期は春期講習などしておられるのだと思いますが、教室を始めてからずっと「講習」というものをしたことがないので、3月最終週は通常レッスンはお休みです。

元々出不精でほとんどどこにも行かず引きこもっているのですが、もう何年も遠出してないなぁと、今年はどこかに行こうかしらと思ったりしていたのですが、早くから予定を立てるのも、何かを予約するのも、いちいち苦手なことばかりで、もたもたしているうちに子ども達、学生さん達の春休みになってしまい、これはもうどこに行っても人がいっぱいよねと思うと、結局どこにも行けずに終わりそうな予感がします。

例年3月最終週は数日レッスンがお休みになることが多いので、その間に新年度の準備や教室の整理などをするのですが、年々腰の重さが増しているので、4月になっても何も変わり映えしない新年度になってしまうかもしれません。

で、この時期毎年密かに苦労するのが、子ども達が使う椅子のシートクッション探し。
子どもはごそごそするので、椅子に括り付けられるかゴムがついているタイプであるのが第1条件なのですが、ゴムつきのいわゆる学校椅子用なのだろうなと思われるものはなんだか色が派手だったり、くくれるものでも教室のほかのものとの色のバランスがちょっとなぁというものだったり、かといって、相手は子どもなので、買ったばかりの新しいシートクッションに、もちろんわざとではないのですが、初日から鉛筆で線が描かれたりなんてことも珍しくないのであまり高いものは躊躇われ…。
何年か前には作ってみたのですが、それもまたなかなか手間で、今年もこの時期になったのですが、例によってまた思うようなものに出合えていなくて困り中です。(苦笑)

以前読んだ勉強法か何かの本に、勉強するときの椅子はあまり座り心地がよくなく、硬いぐらいの方がいいと書かれていたので、いっそシートクッションなしの方がいいのかしらと思ったりもしますが、新年度までにまあこれならいいかなと思えるものに出合えるかどうか、些か不安な年度末です。
(レッスンがないとどうもどうでもいい話になってしまって恐縮です・・・。)

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2017年3月27日 (月)

新年度カレンダー

遅くなりましたが、本日新年度の年間カレンダーを完成させ、新年度のレッスンのお時間案内とともに皆さまに郵送させて頂きました。
といっても、夜遅い時間だったので、明後日以降にお手元に届くことになるかと思います。
チェックしたつもりでも、印刷するたびどこか抜けていたり、色の違いが判り辛かったりと、何度も何度も手直しをしまして、例年やっていることなのに、さすがにちょっとこれはまずいのでは…と自分のことがまた不安になりました。

3月もあっという間に残り数日となりました。
新年度もどうぞよろしくお願いいたします。

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2017年3月26日 (日)

オフでした。

今日は更新お休みします。

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2017年3月25日 (土)

今年度最終レッスン

今年度の通常レッスンは今日で終了しました。
来週は振替のレッスンなどが少しありますが、次の通常レッスンは4月1日になります。
そのときにはもうみんな学年がひとつ上がっているのですね。

今日は高校進学が決まった中3くん(小6まで通ってくれて、中学の一時期戻ってきてくれていた子なのですが)と数Ⅰを入学準備ということでさせてもらったのですが、因数分解の「たすき掛け」というのが、私は未だにどうもしっくりこなくて、たすき掛けを使って解くんだなと思った問題は先に( x    )( x    )というように括弧を書いてしまってから、その括弧を見ながら考える方が簡単に感じるのです。

で、今日のその子にも私がしている方法とたすき掛けとどっちでもやりやすい方でやればいいし、学校ではたすき掛けを習うと思うと伝え、たすき掛けの説明も読んでもらったのですが、「なんかよ~わからん。こっち(私のやり方)の方がいいわ。」と。
実は過去に数Ⅰを一緒にさせてもらったほかの子もその方が簡単だと言った子がいるので、一般的には本当にたすき掛けの方が簡単なんだろうか?という疑問がわいてきました。(苦笑)

さて、今週中に新年度の年間カレンダーを作ってお送りするつもりだったのですが、なんだかんだと今日も土曜だというのに22時半ぐらいになってしまい、完成させられずに帰宅してしまいました。
週明けにはお送りできるようにしますのでどうぞよろしくお願いいたします。

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2017年3月24日 (金)

「できる」と「わかる」の違い

これまでにも何度も同じようなことを書いていますが、「できる」と「わかる」は違うということを、もしかするとうまく伝えられていないのかもと思い、また書かせて頂くことにしました。

先日のレッスンで、1年生さんが100までの繰り下がりのある引き算を考えていました。
その子は現時点ではまだあまり算数が得意ではなく、20までの引き算もぱぱっと答えが出るところまではいっていません。
でも、まだ1年生ですし、小さい子達はスピードよりきちんと考えて理解することが大事だとわかっているので、ゆっくりであってもできていますし、ゆっくりながら100までの範囲に進んでいました。

教具を使ってなら随分スムーズに考えられるようになり、絵が描かれたプリントもきちんとできるようになって、計算式だけの問題になっても、わからないときは絵を描いたら考えられるようになっていました。
そこで、わからないときは書いていいからねと伝えておいたのですが、おうちで宿題をする際にわからなくなったようで、おうちの方が一緒にしてくださったことがプリントを見てわかりました。

おうちの方が一緒にしてくださった仕方は恐らく多くの小学校で普通に教えられる方法なので、何も間違ってはいません。そして、その仕方がその子にわかりやすく、きちんと理解できているのであれば、もちろんそれで問題はありません。
そこで、教室でしたやり方でも、おうちで教えてもらったやり方でも、やりやすい方でやっていいよと伝え、様子を見ていました。

すると、引かれる数を2つに分け、引く数も2つに分け始めました。(それは教室で一緒にしている仕方ではありません。)
例えば、72-25であれば、72は60と12に分け、25は20と5に分けて、それぞれから引いてから合わせるという考え方のようで、宿題のプリントにはそれがびっしり書かれていました。
その仕方で理解できたならそれでもいいかと思って見ていると、初めにその子が書いたのは72であれば、70と12のように分けて書くような、それ、分けたんじゃないやん?という数字でした。

「ねえ、それ、なんかおかしくない?」と声を掛けると、少し考えて書き直したものの、顔を見る限りどうしてそう分けているのかぴんと来ていないような気がしました。
「ねえ、なんでそうやって分けるの?」と尋ねると、「わからん。」と。

もちろん、きっとおうちではそれも説明されただろうと思います。でも、自分が納得できたこと以外はどれだけ説明しても子どもは「わからない」のもまた事実だろうと思います。
ただ、ここで気をつけなくては、勘違いしてしまうことがあります。

その子はおうちで習った方法で数を2つに分けてそれぞれから引く考え方で答えを出すことは、自分が何をしているのかきちんと理解していなくてもできるようになるわけです。
大人にとっては当たり前のことでも、子どもが本当の意味で理解しなければ、テクニックを覚えて答えを出しているだけになってしまうことがあります。

簡単な例でいえば、まだ小さい子にかけ算の九九を暗唱させる幼稚園などもあるようで、九九を暗唱することができる子は「六七」といえば「42」と答えることはできるでしょう。
でも、ただ暗唱させているだけだと、六七は6が7回分、6の7倍という意味も知らず、覚え間違えたら答えは永遠にわからぬまま。九九を全部暗唱できるということと、九九を理解しているということは別物なわけです。

算数と数学の大きな違いは算数は具象の世界、実際に確かめられるような世界の学習だというようなことが言われるように、実際にものを使って確かめてみたり、絵を描いて考えてみたりできる教科なのだと思います。
その算数を、それもまだ小さいうちから、テクニックを覚えさせて答えを出させることにはあまり価値はないように思います。

結局その子には、そのやり方でやってもいいけど、何でそうしているのかわからないのであれば、答えが合っていても嬉しくないだろうし、忘れてしまったらできなくなる。でも、自分で絵を描いたらちゃんと考えられるし、意味もわかるし、できたら「やった、できた!」と思うよね?というような話をして、描かなくてもわかるようになるまではいくら描いてもいいからと伝えました。

小さい子の勉強の多くは大人にとっては簡単なため、つい、そんなのこうすれば簡単だとやり方を教えてしまいがちですが、できるだけ子どもが本当に納得しているかどうか、何をしているのかわかっているかどうかを意識して頂けたらなと思います。

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2017年3月23日 (木)

寂しいけど嬉しい

この時期は卒業や中学受験に向けて受験塾への転塾やでお別れする子がいる、寂しい時期です。
今日もひとり、これまでは受験塾と掛け持ちしながらも通い続けてくれていた5年生さんとお別れ。その子はとても可愛らしい子なのですが、タイプとしては男の子っぽいところがあり、改まってご挨拶とかそういうことは照れてしまってとても苦手な子です。

年長から6年も通ってくれた子なので、寂しさもひとしおだったのですが、その子が思いがけずお手紙を書いてきてくれたと。レッスンが終わりに近づいた頃、手紙が入っていることを教えてくれたのですが、それがもうなんというか、小さな男の子が好きな子に告白するときみたいで、もう可愛くて可愛くて。

目を逸らしながら、字が汚くて読めないかもしれないなんて言ったかと思えば、でもできるだけ綺麗に書いたんだけどと言い、それなのにまた、周りに色々絵を描いたから、ごちゃごちゃして読めないかもしれないと。(笑)

彼女の性格は結構わかっているつもりなだけに、もう本当にその時点で結構胸に来るものがあったのですが、お礼を言って、「絶対読めるって、読めなかったら聞くわ」と伝えました。

彼女が帰った後、封を開けると、こんなに丁寧に綺麗に書かれた彼女の字は見たことがないかもしれないというほど綺麗に書かれていて、それを見たらもう涙が止まらなくなりました。

学習教室ですから、どうしたっていつかお別れの時は来ます。それも、中学受験に対応していない教室でもありますので、ほんの数年でお別れする子も少なからずいます。
そのたび寂しい気持ちになるのですが、照れ屋の彼女がくれた手紙は私の宝物の一つになりました。

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2017年3月22日 (水)

「本当にわかっている」ってこういうことなんだな

中1の子のレッスンでのこと。

その子は小学生の頃から来てくれていて、算数はかなりよくできていたのですが、本人曰く勉強は全部キライだそうで、解けても嬉しそうにするところはほとんど見たことがありません。
それは中学生になっても変わらず、時にはなんでそこまでぶーたれた顔になるんだ?とこっちまでなんだか腹が立ってくるほど、全身から嫌々オーラを放ちながら問題に取り組んでいることもあります。
で、そんなに嫌そうなのにも関わらず、結構難しい問題でも考えて解くことはできるので、これもまた、好きじゃなかったら考える気にならない、できないという一般的な傾向とはかなり異なっています。

嫌々取り組んでいる割には理解は早い方なので、無理させたわけではなく、既に中2の内容の半分ほどは終わっていて、もっと嫌がるかと思った三角形の合同の証明なども、最初から全部を書くタイプの証明問題でさえ、結構しっかり解いてしまってびっくりさせられたりもしました。

今回は一次関数だったのですが、考えてわかることを先にこちらが説明したりすることは避けたいので、どの子にも言葉の説明など以外は、先に問題に取り組んでもらうようにしています。
そんな中で変域を求める問題が出てきました。変域自体は比例などを習ったときに言葉は習っていますから、とりあえず考えてもらうことにしたところ、不等号の向きなど、一旦書いて見直して、もう一度考えて向きを直すなど、何も言わなくても正解していきました。
そして、直線の式を求める問題でも、紙に図を描いたり、与えられた2点をラフに書いた座標軸に対して書き込んで、私はひと言も何も言わなくても、次々と解いていきました。

解き終えた後、必要があればもっと簡単に考えられる方法を提示したり、学校などではこういう解き方を教わると思うよということを付け加えたりはしますが、きちんと考えて理解しながら進んできた子達は、何も言わなくてもこうやって解いてしまうんだなぁと、改めて感じました。

もちろんそれも個人差があり、この子はよくできる子ということもありますが、それでも、自分が何をしているのか理解しながら積み上がていくことがどの子にとっても大きな力になるということは間違いないと思います。

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2017年3月21日 (火)

春休み

卒業式、終業式のシーズンですね。公立の学校はあと数日でしょうか。
春休みは宿題がないという学校も結構あるようですね。

今日レッスンに来てくれたひとりの子は、どんな問題でも早くしなくてはと思ってしまっている感じのある子で、今、少しずつ変わっていってもらえるよう働きかけているのですが、春休みに宿題がないということで、とにかく勉強したくないと言っていると伺いました。
まだ1年生なのに、そこまで勉強を嫌だと感じてしまっていることが、本当に気の毒で、そんな状態になっていることを学校の先生はわかってくれているのかしらと思ってしまいます。

もちろん、そんなことに文句を言っても始まりませんので、お母さまにお伝えしました。
もしそんなに嫌がるなら「勉強」はさせなくてもいいですよと。そして、その代わりに、算数系のパズル本をご紹介しました。

どの子にもお勧めするわけではありませんが、まだ小さいうちから早くしなくてはというプレッシャーを感じ、じっくり考えることが苦手になってしまっている子や、間違うことを極端に嫌う子、一度書いたものを消してやり直すことに抵抗がある子、自分で考えてわかったときの気持ちよさ、達成感などをあまり感じる機会がなかった子、そんな子達にはお勧めできるのが算数系や論理系のパズル本です。

パズルやクイズ形式だと勉強だと感じないですし、点数をつけて評価されるようなものではないので、答えを教えてほしいとは普通は思いません。迷路などでは間違ったら消すということに抵抗を感じる子もそうそういません。
小さい子にいきなり数独のようなマスの多いものはちょっと大変ですが、数独の優しいものという感じのパズルなどは、どこかだけを見ていたらいつまで経っても完成しませんから、縦を見て横を見て、更にはかこまれた枠の中も見るというように、色々な見方をすることに慣れることができます。一度でできなくても何度もトライすることで試行錯誤する練習にもなります。やり方を教わってその通りにやるわけではありませんから、自分で考えるしかありません。自分で考えてできると「やった!」というような嬉しい気持ち、快い感情を抱くことができます。
その他にも、たくさんのメリットがあります。

単純計算のドリルなどを繰り返しさせるより遥かに頭の色々なところを使うこともでき、子どもも楽しく取り組むことができるだろうと思います。

春休みに宿題がない、少ないなどの理由で、何かさせようかとお考えの方がおられましたら、特に低学年のお子さんであればパズルの問題集などがお勧めです。

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2017年3月20日 (月)

苦手なことは人それぞれ

私は子どもの頃は結構なんでもそつなくこなす要領のいいタイプの子どもで、親からも先生などからもあまり怒られることがなかったような気がします。(もちろん怒られることはありましたが、頻度としては少なかったのではと。)
でも、あまり表に出ないところで苦手なことは色々あって、未だに変わらないものもあります。

一番厄介だなと思うのは、電話をかけることが苦手というもので、かかってくる電話に応対することは大丈夫ですし、かけてしまった後、話を始めたら大丈夫なのですが、とにかく子どもの頃から、こちらから電話をかけるということのハードルがやたらと高いのです。
そのせいで、昔は手紙などで済むことは手紙、今はメールで済むことはメール、どうしても電話しなくてはならない場合だけ覚悟を決めて電話するという感じになります。

恐らく、この感覚は理解できない方の方が圧倒的に多いのではと思いますし、自分でもなんでだろうと思いますが、苦手なものは苦手なわけで、なかなか厄介です。

ですが、こういう一般的にはあまり理解してもらえないのではないかと思うような苦手なことがあると、苦手なことは人それぞれなんだろうなと受け止めることができるという意味では役に立っているのかもしれないなと思います。
電話以外にもいくつか特に苦手だと感じることがありますが、そうでない人からすれば、ちょっとおかしいんじゃない?と思われるようなことだったりします。仮に、自分が何でも正しくて、そこから外れていることはおかしい、間違っているというタイプの方がいたら、私なんて「おかしい!」「間違ってる!」と言われっぱなしになるかもしれません。

幸か不幸か、子どもの頃や学生時代は表に見える部分はそれなりにこなしていたので、結構なんでもできる子だと思われていたものの、そんなことはなかったわけです。(単にテストなど成績として評価される部分にあまり影響しなかったというだけで。)

もちろん、世の中には本当になんでもよくできるという人もいるのかもしれませんが、ほとんどの人がアンバランスなのだろうと思います。好き嫌いも、得意不得意も人それぞれ。
なのに、相手が子どもだと、大人はつい、「なんでそんなこともわからないんだろう?」と思ってしまいがちです。そんなの簡単でしょ?というのは、大人が色々なことを経験してきたからであって、子ども達はそれをこれから経験していくわけですから、何でも最初から簡単とは限りません。

そして、子どもによってはぱっと理解する子もいるでしょうし、なかなか理解できない子もいるでしょう。
私が電話をかけるのが苦手なことを「なんでそんなことが苦手なの?」と言われてもうまく説明がつかないように、そのときそれが理解できない子に「なんで?」と言っても仕方ないことなのだろうと思います。
また、同じ学年のお子さんとの比較にも意味がないということだろうと思います。

今、目の前のその子が何が分かって何が分からないのか、何か苦手としていることがあれば、なぜそれが苦手なのか(理由がある場合もはっきりしない場合もあると思いますが)、「なぜ?」と子どもに向かって発するのではなく、どこで詰まっているんだろう?何に困っているんだろう?と、そこを考えることが大事なのだろうと思います。

まあ、個人的にはどうすれば電話をかけることへの抵抗が和らぐかは、何か方法があれば知りたいものですが…。(苦笑)

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2017年3月19日 (日)

オフでした。

今日は更新お休みします。

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2017年3月18日 (土)

なかなかすごい。

言葉に関して弱さがあるということを伺っている子と、算数と国語を一緒にさせてもらっています。
算数は問題の意味さえきちんと理解できれば、かなりセンスがあるのを感じるので、それで自信を持ってくれたらいいなと、算数に多めに時間を配分し、すごいなと思うときは言葉にして褒め、そうしていく中で、国語も初めに伺った話とは印象が随分変わってきたと感じられるようになりました。

いくつかの教材を終え、少し前から、主語・述語・修飾語などの文節がどのようにつながっているかを矢印で図示するような教材にも取り組んでもらい始めました。
その教材に取り組んでもらうより前に、主語・述語については何度も学習したはずなのですが、最初のうちは主語さえもめちゃくちゃで、何でそれとそれがつながっているの?というような言葉を矢印でつないだり、これはちょっとこの子にはまだ難しいんだろうか?と思うような状態でした。

それが、3週ほど過ぎたぐらいから、宿題として取り組んできたものの正解率がかなり上がり、間違っているものも「なんでそれがそれにつながるん?」というと、それがおかしいことにも気付くようになり、間違い直しは1回でほとんど完璧に直せるようになってきました。

この問題に関しては、国語が苦手な子は、どう考えてもそれはそれにつながらないよね?と思うようなものでもぴんと来ないこともあり、四苦八苦する子もいるので、元々言葉に関して困難を持っているというその子が、こんな短期間でここまですんなりできるようになったことに、また驚いています。
そして、レッスンを重ねるたびに変わっていく子の姿を見ていると、このぐらいできるのであれば、男の子としては多少国語が苦手な子という程度なんじゃないのかなぁと思えてきます。

この調子でますます色々なことに自信を持ってくれたらいいなぁと思っています。

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2017年3月17日 (金)

ジレンマ

最近通ってくれるようになった2年生さんとのレッスンがありました。
私立の小学校に通っていて、習ったことはきちんと覚えてやっている印象を受けたのですが、何か問題が難しく感じると途端に不安になるような印象があったり、どんな問題も目の前に出されたらとにかく早くやらなくてはと思っている印象があったりします。

教室では急がなくていいよということは伝えているものの、ここに来てくれるまで、受験のための教室に通っていた頃から含めると恐らく3年ぐらいは習ったことをきちんと素早くこなすということを繰り返してきたのだろうと思うので、一朝一夕に変わるものでもないのだろうと思います。

その子は真面目な子なので、言ったことはきちんと聞いてくれますし、もともと、習ってしまったことで困っていなければそれを無理に変えさせることもしませんので、この方が楽なのではないかなと思うことは提案はしても強制はしないようにしています。
それでも、少し難しい問題などは早くしようと思えば思うほど、きっとできなくなっていくものなので、辛そうな表情になるたび、急がなくていいよと声をかけ続けるというのは、その子に対してだけでなく、焦る子みんなにしていることでもあります。

しかし、お迎えに来られたお母さまが学校の算数のことを少し話してくださったのですが、その学校では低学年ではとにかく計算を早くするということを重視しているとのこと。それを聞いて、正直ちょっと切なくなりました。
低学年のうちに計算を早くさせることを重視することのメリットは一体何なのか、私には全くわかりません。放っておいても早くできる子は別として、そうではない子に早さを求めることは、考えないよう訓練するのと同じことになります。その状態を2年も3年も続けた後で、さあ、応用問題をじっくり考えなさい!と言っても、既にそれが困難になってしまっている子達が少なからずいるはずです。

知らないって怖いことだなと思います。少なくとも1、2年の間ぐらいは、その子その子のペースに合わせて、ゆっくりじっくりが絶対に大事です。(少なくとも、子どもを計算だけできる機械のようにしたいのでなければ。)

これを書くと反論されることもあるのですが、例えば、訓練しなくてもかなりのスピードで計算などをしてしまう子というのはいます。それは恐らくその子の頭の中で数などがイメージできていて、それを合わせたりのけたりすることで、見ていて驚くぐらいささっと答えを出してしまうのだろうと思います。
そうではなく、訓練によって早くなったという子の場合、少なくない割合で、その答えが本当に合っているかどうか自信がなかったり、全く楽しそうでなかったり、合っているかどうか指導者の反応を見てきたりします。
前者はスピードを求められても、イメージができているので恐らく大丈夫ですが、後者の状態でスピードを求め続けると、どんどん考えられなくなっていくのはほぼ間違いありません。

お子さんのタイプにもよりますが、そこをきちんと見極めておかないと、よかれと思ってやらせたことがかえって足を引っ張る結果になることがあります。
どうぞお子さんの様子をしっかり見てあげてください。楽しんでいるようなら心配はないかと思いますが、そうでない場合は、その勉強法がお子さんに合っているのかどうか、一度考えてあげてもらえたらと思います。

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2017年3月16日 (木)

今日とても気になった記事のご紹介

インターネットの世界では、何かが話題に上ると、色々なサイトで同じ情報が取り上げられるので、最初にこの漫画について紹介記事として取り上げたのがどこのサイトなのかわからないのですが、今日目にしたとても気になった記事をご紹介させて頂きます。

http://grapee.jp/308053

今は漫画家でらっしゃる方のようですが、その方が小1のとき、算数の初めの第一歩のような「1+1=2」が理解できず、それが原因で小学生なのに強迫神経症になり、精神科にかかられたというお話です。
かかった精神科のお医者さまが彼女を救い出してくれたことで、症状はそれ以上悪化せずに済んだのは本当によかったと思いますが、そして、その方にとっても子どもの頃の記憶なので、算数の初日にいきなり「1+1=2」を習うこともないはずですが、彼女が「1+1=2」がなぜそうなるのかわからないと言ったときに、教師なり親御さんなりが、彼女の「わからない」の意味を理解することができていたら、「そういう約束事なのよ。」とでも言ってあげられていたら、強迫神経症になることもなかったかもしれません。

そもそも、1+1=2 なのは、十進数の話で、例えば二進数の世界だと1+1=10と表されるわけですから、本当に「約束事」と理解するのがいいのだと思います。

小さい子が何か問題で苦戦するとき、大人から見たら「一体何が分からないのかがわからない」というような場面は少なくないかもしれません。でも、その苦戦の原因を突き止めて解消してあげることができたら、その後のその子の毎日は全く違ったものになる可能性もあるはずです。

私もまだまだ力不足で、子どもの「わからない」を全て理解することはできませんが、わかろうとし続ける努力はずっとずっと続けていこうと思います。

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2017年3月15日 (水)

宿題、どうしようかな。

今日のレッスンに来た1年生さんのお母さまからも、なかなか宿題をしたがらなくてというお話を伺いました。
こう続けてそういうお話を聞くということは、目に見えない存在が何かを知らせようとしているのかもと(といっても、私は何の信仰もなく、お寺にも神社にも行くし、クリスマスも祝う、よくいるタイプですが…。)思えてきました。
それも、これまで十数年使い続けてきた教材を新しいものに切り替えようとしているタイミングなので、本当にそうなのかもしれないなと。

宿題の目的は何なんだろうと考えたところ、教室を始めた際にお世話になった先生は、毎日1枚ずつ取り組んで、机に向かう習慣を身に着けさせるためもあるというようなことをおっしゃっていましたが、その先生のところは下はまだ幼稚園にさえ入園していない子達から対象にしておられたので、就学までの数年間、おうちで勉強の習慣を身に着けさせるという意味があったのかもしれません。

ですが、うちは主に小学生以上のお子さんしかいませんし、勉強の習慣をということなら、学校でも宿題が出ている子がほとんどではないかと思いますので、その上にうちの教室の宿題を「学習習慣をつけるため」という理由で必要なのかといえば何とも言えない気もします。
更に言えば、宿題に抵抗を示す子ほど、1日1枚コツコツとというのが難しいわけですから、結局まとめて一気にするということになりがちではないかとも思います。
であれば、学習習慣を身に着けさせるという目的での宿題はあってもなくてもいいのかもしれないなと。

また、やらなければ忘れてしまうからとか、習ったことのおさらいでとかいうのも、一般的に宿題を課す理由としては大きいのではと思いますが、これもまた、レッスンがあった日に帰って一気にしてしまう子もいれば、逆にギリギリまでしなくて直前にまとめてする子もいるようですから、そういう意味では「忘れないために」という理由も果たしてどうなんだろうとも思えます。

高学年や中学生にも宿題なしというのは、学校の進度などを考慮しても、それはさすがに不安がありますが、低学年の間は、宿題をさせるためにおうちでお子さんとの間に険悪な空気が生まれたり、おうちの方がへとへとになられたりするぐらいなら、宿題はなし、もしくは極々限られた量にするなどしてもいいのかもと、ちょっとそんな気もしています。

新年度は宿題に関して、低学年のお子さんの保護者の方にはアンケートを取らせて頂くなどするかもしれませんが、その際はご協力頂けましたら幸いです。

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2017年3月14日 (火)

慌てずゆっくり

今日のレッスンでのこと。
幼稚園の頃から、園でお勉強をし、今通っている学校も進度が早いらしい子が問題に取り組んでいる姿を見ていました。
今は、一緒にレッスンさせてもらえるようになるまでに、既に習ってしまっていることのおさらいが中心なので、最低限必要なことは先に言うものの、どんな風に取り組むかを見ていることも多いです。
体験のときの様子からして、数のイメージがあまり伴っていないようだったので、教具を使って確認などするのですが、これまで習ったことが邪魔をして、プリントの数字だけを見て、やり方を思い出して解こうとしている様子が感じられることも少なくありません。
この子は何にも悪くない。そういう指導を受けて、その通りにしようとしているのだから、この子を責めることはできない。それはよくわかっていますが、見ていると悲しい気持ちになるのも事実です。
もちろん、まだ小さい子なので、これから少しずつ変わっていくと思いますが、一番気になるのが、私は一切急かしていないにも関わらず、焦って答えを出そうとして間違えるということです。
計算などは、過去の指導が邪魔をするのはわからないでもないので、少しずつだなと思っていますが、恐らくこれまでしたことないはずの課題でさえも、早くしようと焦ってゴチャゴチャになってしまうことがあるのです。
今日は積み木を3方向から見た図を描く課題がよくわからない様子だったので、まずは図に描かれているのと同じように積み木を積んでもらうことにしました。
図では斜めから見たように描かれているのですが、それと同じに形を作ったことを見届けてから、指定された面が前になるように積み木を45度ほど向きを変えてもらうことにしました。
もちろん、角度を指示したわけではなく、前と書かれているところを前に向けてねと伝えたのですが、二度、三度と繰り返しても形がズレたり、違った形なのに直そうとしなかったり、なかなか正しく置けません。
形が苦手な子もいるので、この子もそういうタイプなのかもとは思いましたが、どうも慌てている気もするし、向きを変えた後はお手本と見比べている様子もありません。
どうにも気になったので、ひと言その子に言いました。
「学校とかではどうかわからないけど、私はここで、早くしなさいって言ったことないよね?慌てなくていいから、落ち着いて、きちんとお手本を見てやってみてくれる?」
すると、次にトライしたらあっという間にお手本通りの形で前を向けることができました。
あまりの呆気なさに私の方が驚いたのですが、つまりこの子は焦ってしまって、何も見えておらず、何も聞こえておらずだったのかもしれないなと。
そして、それはこれまでの教室や学校などで時間をかけてそうされてしまったんだろうなと。
この子を見ていても、意味を理解していない段階で急がせること、焦らせることの弊害がどれほど大きいかを改めて感じます。
理解のスピードには個人差がありますから、みんな同じスピードで進むこと自体が無理なのです。学校などでは全員に合わせることは難しいとは思いますが、お子さんの様子をご家庭で見て、なんだか焦っているな、考えていないなと感じられるときは、急がなくていいと言ってあげてもらえたらなと思います。

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2017年3月13日 (月)

宿題

このところ、宿題のことでご家庭でお母さまがご苦労されているというお話を何度か伺いました。
最近の自分は、今日こそは帰ったらここまで仕事を終わらせて…と思いながら帰っても、それが予定通りできたためしがなく、そのたび自己嫌悪にも陥り、自信を喪失しながら出勤するということを、何度も繰り返しているため、教室でがとてもがんばっている子でも、家に帰ると宿題ががんばれない気持ちは結構理解できるという、いいのかどうかわからない心境なのですが、そもそも、宿題は本当にしなくてはいけないものなのだろうかと、根本的な疑問を感じ始めました。

もちろん、宿題を喜んでやる子はそれでいいと思うのですが、そして、人間はすぐに忘れる生き物だから、習ったことをおさらいせずに数日過ごすと、忘れてしまって次のときにはまた0に戻ってしまうというようなこともあり得るとも思うのですが、別の研究では、嫌々やったものはなかなか脳に定着しない、覚えられないとも言われていて、それは実際あるだろうなというのも経験上感じるわけです。

だとすれば、お母さまなどがおうちで苦労されて、怒りたくもないのに怒ったりすることさえあって、そんな状態で気乗りしないのに嫌々宿題をした場合と、嫌だったからしなかった場合と、次のときにどれだけ差があるのかというのもちょっと気になるなぁと。

そして、そもそもうちの教室では機械的に覚えさせることはありませんから、宿題をしなかったからといって、真っ白になるということがあるのだろうかと(過去の経験では、かけ算やわり算の筆算などの場合に書き方のルールを忘れてしまって、それでも答えは出せるというようなことはありましたが)、それも気になり始めました。

もちろん、皆さんの大事なお子さんで実験をしてみることはできないのですが、嫌々形だけやる宿題であれば、やらないのとさほど差はないのではと思えてきました。
この春から少しずつ、小さい子達の教材を変更していくことになるので、宿題についてもどんな形にするのがいいか、ちょっと考えてみようと思いますが、少なくともご家庭で親子関係が険悪になるぐらいなら、うちの教室の宿題はさせなくても、そのしなかったものをそのままお子さんに持たせて頂けば、こちらでお子さんとお話させてもらいますので、どうぞよろしくお願いいたします。

あと、気乗りしないときには、子どもに限らず大人でも、最初に取り掛かるのが最もエネルギーが必要だそうですから、プリント1枚ではなく、プリントの最初の1問だけやってみるよう促してもらって、本当に嫌だったら1問でやめてもいいというようにしてみると、やってみたらもうちょっとやってもいいかなとハードルが下がる場合もあるかもしれません。(それも実際、そういう研究もあるようですし、自分の経験上も言えるような気がします。)

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2017年3月12日 (日)

オフでしたので。

今日は更新お休みします。

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2017年3月11日 (土)

雑感

この頃は映像授業や衛星授業などと言われるような、目の前には生身の先生がいないような授業形態がどんどん広がっていますね。
もちろん、あの方法が合う子どももいるのだろうとは思いますが、個人的にずっとうまく言葉にできないものの、何か引っかかるものを感じていました。

それが、ふと、ああ違和感はこれだったのかもと思ったことがありました。
このところ、教材を作っていて悩むことのひとつが、どこまで説明するかということなのですが、参考書や問題集などで読んで理解させようとすると、丁寧な説明が必要になってきます。
その場合、つい、どうしてそうするのか、それは何をしているのかということより、どうすれば解けるのかの方法を説明してしまいそうになることがあるのです。

私が作っている教材は子どもが独学することは想定しておらず、目の前で私が子どもを見ながら使っていくつもりで作ってはいるのですが、私でなくても、親御さんがご家庭でお子さんと一緒に取り組めるなら、それはそれでいいなとも思っているので、ところどころ説明などが入っています。
しかし、子どもが考えたり試行錯誤したりする前に説明してしまうと、言わなくてもわかる子に対しては、考えるきっかけを奪ってしまうことになりかねません。

それもあって、何かを説明する際にも、「どう思いますか?」「なぜだと思いますか?」と、わかってもわからなくても、子ども自身にまず考えてみてもらうようにし、その後説明するような形に、なるべくしています。
一度自分の頭を通してから説明を聞くのと、頭を通す前にいきなり説明されるのとでは、説明に対しての理解の深まり方、定着度が変わってくると思うからです。

もちろん、実際に目の前に子どもがいれば、それが必要なさそうな子には説明のプリントは見せないで考えておらうとか、最低限の説明だけするとか、その子その子に合わせて調整することができるわけですが、映像授業、通信授業、小学生向けにも広がっているタブレットなどでの問題演習などでは、その子がどこまで考えられるかなど加減することは、ほぼ不可能だろうと思います。(もちろん、コンピュータや映像の業界の進歩のスピードはものすごいものがありますから、今後変わっていくこともあるかもしれませんが。)

高校生や予備校生などが映像授業を活用するというのは、自分に必要なものを取捨選択して、苦手なところは繰り返し見たりすることもできるようですから、メリットもあるだろうと思いますが、少なくとも小さい子ども達に対して、目の前に生身の指導者がいるかどうかはかなり大きな差になるように思います。
例えば、それなりに力のある子であれば、説明を自分で読んで理解してどんどん進めていくことができるというのはひとつのメリットかもしれませんが、説明を読んで、それを真似てできるようになっただけであれば、この前も書いたように、生きた力にはなり辛いだろうと思います。

小さい子に教材などを与える際には、そういった面も意識して、子どもがただ受け身に内容を覚えて真似て解くという勉強になってしまわないよう気を付けて頂けたらなと思います。
自ら考えるということは、本当に本当に大切で、それを小さいうちにしっかり身に着けさせる(というより、本来どの子も持っている力なので、周囲が邪魔をしなければいいだけなのかもしれませんが)ことは、もしかすると何にも代えがたいギフトなのかもしれないと思います。

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2017年3月10日 (金)

漫才のような。

子ども達とレッスンをしていると、しばしば新鮮な気分になったり、しみじみ感心したり、感動したりすることも多いのですが、思いがけない反応に大笑いしてしまうこともあります。

今日のあるレッスンでは、このところ誰かが代わる代わる不調だった子達が、久しぶりにみんな結構いい感じでレッスンが進み、終盤になって、前回絶不調だった子がそのときには直しをするのも嫌がってどうにもならなかったので保留にした問題を再度一緒にすることにしました。

それは国語の問題だったのですが、読点の位置で文の意味が変わるということを理解する問題で、3つの絵に対して、それぞれどこに読点を打てば正しく意味が通じるかを問うものでした。
その絵というのが、私と妹とお母さんがいて、花模様のバッグがあり、妹とお母さんに私がバッグをあげているものと、お母さんに私と妹があげているもの、また、その花模様のバッグは花模様が大きいものとバッグ自体が大きいものとがありました。

「私は妹とお母さんに」のどこに読点を打つかが1つ、「大きな花模様のバッグ」のどこに読点を打つかがもうひとつという問題だったわけですが、バッグの方の読点についてなんだかめちゃくちゃに適当に打とうとするので、「待って待って、この絵とこの絵は何が違うの?こっちは何が大きくて、こっちは何が大きいの?」と尋ねたところ、「え?こっちはバッグが大きい。こっちは小さい。」と答えます。
「問題の中に「小さい」はないでしょ?こっちはバッグが大きいのよね?じゃあこっちは何が大きいの?」と花模様が大きい方のバッグを指して尋ねても、また迷いなく「バッグが小さい!」との答えが。

「ねえ、待ってよ。小さいって書いてある?何かが大きいのよ?」と言っていると、同じ学年で隣でレッスンをしていた子が問題を見てきたので、「じゃあ一緒に見てくれる?こっちはバッグが大きいのよね?で、こっちは何が大きい?」と、隣の子が救い出してくれるかも…と思って尋ねた瞬間、2人して躊躇うことなく、「バッグが小さい!」

漫才か!!(笑)

もうレッスンも終わりに近かったのでお迎えに来られていた保護者の方が、私と子ども達とのやり取りを聞いて、最後のとどめの2人して「バッグが小さい!」と言った瞬間、くすっと笑われたほどでした。

この子達に限らず、何か思い込んでしまうと、そこからなかなか離れられなくなることは小さい子達には結構よくあることですが、本当にみんなが色々新しい経験をさせてくれるので、幸せなことだなぁと思います。

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2017年3月 9日 (木)

高校生の子を見ていて。

小6まで通ってくれて、中学の間は家の近所の塾に通い、高校入学が決まってから思いがけず戻ってきてくれた高1の子。
元々小さい頃から英語が好きで、高校も人気の高い国際科に通っているので、高2からはもう数学は取らないと決めています。つまり、学年末試験が終わったら、センター試験で数学が必要にならない限りは、その子はもう数学は勉強しないのかもしれません。

1学期、2学期は何をしているのか、どう考えたらいいのかをできるだけ考えてもらうようにしていたものの、中学の間に習ったことを覚えて使うという勉強に随分と慣らされてしまったことや、高校では教科も増え、英語などもかなり難しくなっていることや、部活その他で忙しいことなど、色々な理由で、あまり数学に時間情熱(?)を注いではくれなくなっており、週1回だけで数Ⅰと数A両方を学校の進度に後れを取らず、かつしっかり考えてもらいながら進めるというのがなかなか難しくもなっていました。
それもあって、最後の最後学年末試験は、限られた時間の中、考えてわかることは考えてもらうとしても、覚えるしかないこと、覚えて試験だけ乗り切ることにしてもまあいいだろうと思うことは、解説などをしっかり読んで、覚えるべきことは覚えてもらい、試験に臨んでもらいました。

その後、春休みの課題の発表があったとのことで、3月は課題のチャート式を一緒にやっていくことになったのですが、その姿を見ていて改めて気づきました。
高校時代の私は目の前のこの子みたいな勉強をしていたなぁと。

チャート式はかなり解答解説が詳しく、例題があって、その解法がしっかり書かれており、その類題が続きにありますので、類題を解く際にも上に書かれた例題の解法を見ながら、同じようにすれば多くの問題を解くことができます。(純粋な類題ではなく、同じ方法では解けないものもありますが、割合としては少ないです。)

高校入学と同時に数学で大きく躓き、落ちこぼれた私は、必死でチャート式の解答解説を読み、答えを書きうつし、それを繰り返していくうちに数学が「できる」ようになり、理系の数学では再び挫折はしたものの、文系の数学は得意科目と言えるほどになりました。実際、いわゆるセンター試験では数学は満点も取りました。
でも、今にして思えば、私は数学はろくに理解していませんでした。

目の前のその子が宿題をどう解けばいいか思いつかず、例題に書かれた説明を読んで、それを真似て解いているのを見て、そうすれば確かに答えは出せるけど、何をしているのか、それをすれば何が求められるのか、意味は何も理解していないよなと。そして、私もきっとこんな状態だったんだよなと。

中には私が何を言っているのかよくわからないという人もいるかもしれません。
例えば、その子が解いていた問題で、ある公式が書かれており、その公式に与えられた数値を代入して問題を解いていっていたので、「ねえ、今それ何してるかわかってる?」と尋ねてみたところ、「平均値求めてます」というので、「平均値って何?」と更に尋ねると、一瞬きょとんとしてから、「これとこれと・・・の平均?」と。更に、困っているようだったのでそれは何をしているのかわかっているか尋ねると、今度は「分散?求めてます」との答えが。
しかし、「分散って何のこと?」と尋ねても、それはわかっていません。偏差や相関係数や、なんだか難し気な言葉が色々一度に出てくる単元だったこともあり、意味も考えずただ言葉と公式を丸暗記するのは、恐らくかなり難しいことだろうと思います。

実際のところ、今思えば私は意味はよくわからないけど、やり方を覚えたら解けるというものの限界が微分積分や数列をし始めた辺りで訪れたのだろうと思います。機械的に覚えるにはあまりにも複雑で、体が拒否反応を示すようになってしまったのだろうなと。

やり方を覚えて答えを出すことはできるという状態は、とりあえず目先の試験を乗り切るだけというような場合にはそれでも何とかなるかもしれません。(実際私はなんとかなりましたし…。)
ですが、自分の力になっているか、それが何かに応用できるか、本当の意味で理解しているかとなると、決してそうは言えないでしょう。

どの子も必ずそうなるとは言えませんが、幼い頃からしっかり考えて、本当の意味で理解するということを積み重ねている子は、覚えるべきことが何で覚える必要のないことは何かの判断ができたり、そもそも数学などは覚えようとする前に自分なりに解いてみて解けたらそれでよしとしたりすることもできたりします。
何を学んでいるのか、何を求めているのか、そういうことを意識しながら学んでいけば、新しい内容も、ほとんど説明されなくてもある程度できるものがあったりもします。
そうやって進んでいけば、結果的に機械的に覚えることは最小限で済むようになりますし、しっかり理解しているので定着度も全く変わります。過去の学びと関連付けさせたり、応用したりということも、自分でできるようになっていけば、内容が難しくなればなるほど大きな力になっていくはずです。

恥ずかしながら、私は数Ⅰや数Aについては、現役高校生の頃より今の方が明らかに理解が深まっています。
中学までの内容をきちんと考えて理解した後に考えたら、ああ、こういうことだったのか、こういう意味だったのかと気づいたことがたくさんありました。
残念ながら最近はただ覚えたことはすぐ忘れてしまうので、一度やったやり方を覚えておくことはほぼ不可能ですが、覚えなくてもある程度は解けるという自信もあります。(あくまでも数Ⅰ・数Aぐらいまでですが。)

それを自ら実感するからこそ尚更、小さいうちにじっくりしっかり考えることのメリットや、反対にやり方を教え込むことのデメリットやをしみじみ感じています。

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2017年3月 8日 (水)

花粉症の季節

幸い今のところ私は花粉症を発症していませんが、最近はまだ小さい子でも花粉症の子が少なくありませんね。
昔は今のように街中にたくさん杉がなかったとか、杉などの花粉だけでなく、排気ガスなど空気の汚れも相まって、都市部で花粉症が多いとか、色々な話を聞きますが、原因の一つに、世の中が何もかも綺麗になり過ぎたことがあるとも言われていますよね。

もちろん一概には言えませんし、大事な子ども達のことを守りたい気持ちも当然のことだと思いますが、CMなどでやたらと除菌、殺菌などという言葉が使われ、昔は極めて当たり前だったカレーを温め直して2日目、3日目が美味しいなんて話さえも、カレーの温め直しは何か熱に強い菌が一晩でもかなり増えるので、容器に移して冷蔵庫に…なんてことが言われたりもしていますよね。
カレーのことでも、そういう情報を見聞きしてしまったら、やはり気になる方も多いのではと。そうして、これまで特に体に影響を与えていなかったような菌にまで神経質になり、どんどんどんどん体に雑菌などが入る機会が減って、ちょっとした異物に対してもアレルギー反応が出てしまうなんてこともないとは言えないよなぁと思う今日この頃です。

まあ、それは本題ではないのですが、花粉症の季節になると、何度も何度も鼻をかむ子や眼を痒そうにこすっている子が増えてきて、その子達はやはりなかなか集中することも難しくなります。
色々なお薬や治療法も研究、開発されているようですから、子ども達が大きくなる頃には花粉症で苦しむことはなくなっているかもしれませんが、それでも、何か大事な試験などのときに集中できないなどということになると気の毒ですから、小さいうちにもし何か菌に対する抵抗力をつけるような方法があるのであれば、試してみられるのもいいのかもしれないなと(もちろん、安全性などの不安があることは試すべきではないと思いますが。)、そんなことを思ったりしています。

いずれにせよ、花粉症の方がみんな、早く悩まずに済むようになればいいですね。

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2017年3月 7日 (火)

何ができるだろう

教室に来てくれている子達には、自分がいいと思う、自分ができる精一杯のことをして向き合いたいと思っていますが、それと同時に、私は直接ご縁を頂くことができない子ども達のことが気になっています。

これまでに何度もこの話は書いている気がしますが、元々私は教員志望で教育学部を卒業し、教員免許も取りました。色々思うところあって、最終的には教員採用試験は受けることなく、学校というところで子ども達と向き合うことは選びませんでしたが、子ども達にとっていいと思うことは、たとえ教室に来てくれていない親子さんであっても、少しでも何か届けばいいなと思い、ブログも書いてきました。

教室に来てくれる子の中には、算数が好きでとか、小学校に上がるのでとか、そういう理由で来てくれる子がいる一方で、何かお困りごとがあってご縁を頂く子も少なくありません。
単に算数が苦手だとか、わからなくて困っているとかなら、少しずつ一緒にがんばっていけばいいわけですが、時々すごくすごく申し訳ないような、気の毒なような、何とも言えない気持ちになることがあるのです。

それは、子ども自身は恐らく一所懸命、指導者のいうことを守ってがんばった結果、考えられなくなっている子どもと出会うときです。
例えば、小学校に上がる前から、お勉強をさせる幼稚園やプリント反復をさせるような教室などで、先生の言うことを守り、よく意味も分からぬまま、一所懸命やり方を覚えて、その通りにする「訓練」を重ねてきたような子は、たとえ算数であっても、やり方を教えてもらってその通りにやるものだと思ってしまっている場合があるのです。

そうなっている子どもは、自分自身の頭で考えているわけではなく、こうしなさい、こうしたら答えが出せますよと言われたことをその通り真似ているので、自分が出した答えが合っているのかどうかわかっていないことも少なくありません。そういう子は、答えを書いてから、ちらちらと先生や親御さんの方を見て、表情で合っているかどうかを読み取ろうとしたりします。その表情は何かに怯えるように見えるときさえあります。
もちろん、その状態でマルをもらっても、せいぜいホッとするぐらいで、本当の意味での喜びは感じられないわけです。当然、そんな勉強は面白くないので、内容が難しくなればなるほどキライになっていくことも少なくないでしょう。

なぜこんなことになってしまうのか。それは、多くの大人、多くの指導者が、よかれと思って教えていることが、子どもの力を奪っている場合があるという事実に気づいていないからなのだろうと思うのです。

これも過去に何度も書いていますが、その昔、私がまだ塾講師だった頃、私は子ども達にいかにわかりやすく説明するか、いかに覚えやすく提示するかなどを常に意識し、一所懸命努力していました。その結果、数学が苦手だという中学生達が、学校の先生よりわかりすい、よくわかると言ってもくれました。
でも、どれだけわかりやすく教えても、苦手な子に限らず、数学が得意な子達でさえ、前回の授業の内容をきれいに忘れているようなことさえありました。
どうしてなのか、その頃の私には何が間違っているのかわからず、何かないか、もっと何か子どもにとっていい方法は…と探し続けていました。

そして、塾講師という仕事を辞める決心をしたきっかけとなる出会いがあったわけですが、「わかりやすく教えていたこと」が間違いだったと気づいたときのあの感覚は、絶望感にも似たものがあり、これまでよかれと思ってがんばっていたことが、子ども達の力を奪っていたと知ったときの罪悪感は、知らなかったこととはいえ、本当に取り返しのつかないことをしてしまったのではと、やり直せるものなら時間を巻き戻してもう一度あの子達と…と、叶わぬことを考えたりもしました。

わかりやすく教えることが子ども達の邪魔になる場合があるということは、教育学部で教員になる為の勉強をした私でさえ誰からも教えられることなかったわけですから、世の多くの大人が知らなくても何の不思議もありません。
ですが、その後、半信半疑ながらも、教えない、説明しない、子ども自身に考えさせる、気づかせる、そういうことを意識してレッスンをするようになったところ、目の前の子ども達はこれまで見てきた子ども達と全く違う反応を示すようになりました。楽しそうだったり、安心していそうだったり、自信にあふれていたり、そんな美しい、素晴らしい表情を何度も何度も目にするようになりました。
教えられたものを覚えたわけではないので、その後の定着度も、教材を進めていくスピードも塾にいた頃では想像もつかなかったほどです。

私自身は、過去の子ども達へのせめてもの償いに、教室を始めてから関わった子ども達の考える力を奪うこと、邪魔することは絶対にしないと決め、これまでそれを守ってきたつもりですが、今も日本のあちこちで多くの子ども達が、先生から教わったことを一所懸命覚えて、それを「再現」するという努力をしていることを思うと、何かできないものかと思ってしまいます。

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2017年3月 6日 (月)

きっかけ

今日はレッスンがなかったので、遅れがちな教材作成をしていました。
今作っているのは、桁の多い掛け算の筆算や、割り算の筆算あたりなのですが、作る際に気をつけていることのひとつに、文章問題はその単元で習ったことだけ使えば解けるようなものにはしないということと、その時点では少し難しくて解けないかもしれないものも少しだけ入れてみるということがあります。

何を言っているかというと、学校などでは、例えばかけ算の学習をしたら、まとめテストはかけ算すれば解ける問題ばかりというのがよくあるパターンではないかと思います。
問題を作るようになって気づいたのですが、その単元の問題を作っていて、その流れで文章問題を考えると、ついついそれを使って解く問題ばかりを考えてしまいがちになります。
ですので、学校などのまとめテストも敢えてそうしているわけではないのかもしれませんが、習ったことだけを使えば解けるということは、例えば問題の内容を理解していなくても、かけ算の学習をした後なら、出てきた数をかけ算すれば大抵正解になる、わり算を習った後なら割り算をすれば…というような状態だと、実はきちんと理解できていないのにテストでは高得点を取り、先生も親御さんも、できている、わかっていると思ってしまう場合があるわけです。

ですので、足し算しか習っていないときには足し算の問題しか作れないとしても、引き算も習ったら、足し算と引き算の問題を両方混ぜる、更に掛け算も習ったら、足し算か引き算か掛け算かは問題をきちんと読まなければ間違えてしまうような作りに、なるべくしています。

で、今回作った文章問題も、掛け算をしたり、わり算をしたり、時にはただの引き算だったり、何度かいくつかの計算をしなくてはいけなかったりと、色々なものを作ったのですが、その中で、2桁同士の掛け算をした後、その答えを何かで割って・・・という流れで問題を作っていたとき、クラスの人数を決め、それをもとに全校生の人数を求め、そのうち4年生の人数を更に求めるという流れの問題を考えました。

ひとクラスは40人以下で少し計算が面倒そうな数…と思い、37人に設定。小さくも大きくもないぐらいの規模ということで、1学年平均3.5クラスぐらいにするかなぁと、3.5の6倍で21という数を決め、37人の21倍が全校生の数という設定にしました。
適当に決めた数だったのと、いろいろ問題を作っているのとで、ひとつひとつ手計算をすると時間もかかるし、間違えることもあるので、とりあえずそのまま電卓でその掛け算をしてみたところ、「え?」と、答えに目が釘付けに。
再度計算し直しても合っていたので、ちょっとびっくりしつつなんだかハッピーな気分に。(笑)

ここは同じ気分を味わって頂けるかもしれませんので計算の答えは書きませんが、ご興味があれば是非、紙に書いて計算するのではなく、敢えて何も考えず電卓で計算してみてください。(数の感覚に長けた方なら見てすぐ答えがわかってしまうのかもしれませんが…。)

そして思ったのです。そんな答えになるなんて思いもしない答えがパッと出たとき、「うわぁ、おもしろい!」と思えたら、それがきっかけで数に興味を持ち、どんな数を掛けたらどんな答えになるだろう?とか、わり算できれいな数字になる計算はどんなのがあるだろう?とかいうように、数や計算への興味が広がっていくかもしれないなぁと。

子ども達とレッスンをしていると、少なくない子どもが、計算で出てきた数に対して、この答えが一番大きいとか、どれとどれが同じ答えだとか、プリントの中で一番多い答えはどれだとか、そういうことに興味を示すことがあります。
例えば20までのたす・ひくの計算をしているようなときに、何問か同じ答えが並んだら、次も同じ答えになるかな?と楽しそうにしたり、答えの中で5はいくつ、8はいくつ、9はいくつ…7が一番多いから7の勝ち!と、なぜか勝負になったりというようなことがあるわけです。
そんな風に、数を見て、大きいなとか同じ数だなとか感じることができる子達なら尚更、ただの計算問題でも「面白い」答えになることで、よりやる気が出るというようなこともあるんだろうなと。

そんなことも意識しながら、問題を作っていきたいと思っています。

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2017年3月 5日 (日)

オフでした。

今日は更新お休みします。

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2017年3月 4日 (土)

嬉しい変化

昨日も嬉しいことがあったのですが、今日もまた、算数が超苦手という新人さんと、算数がキライという新人さんとのレッスンで、それぞれの子から大きな変化を感じました。

ひとりの子は、何かあると固まってしまい、困っていそうだからと声をかけても泣きそうになるぐらいのアレルギー反応が出ていたのですが、ほんの1週間で何があったんだろというぐらい、前回とは別人かのように、わからないことはしっかり質問をしてきて、それに答えると、「ああ、そういうこと!」と笑顔。
おさらいの内容とはいえ、穏やかに、時には少し笑顔まで見せながら、問題に取り組んでくれて、正直ちょっとびっくりしました。

もうひとりの子は、きっとイヤなんだろうなと思う問題になると、苦しそうな呼吸になり、思わず「ちゃんと息してね。」と言って肩のあたりをさすったりしてしまうほどだったのですが、今日は何度も笑顔が漏れ、時には笑い声まで出て、最初の関門をもうクリアした印象を受けました。
嫌々取り組んでいる間はなかなか身につきませんし、身につかないから何度もしなくてはいけなくなり、尚更ストレスを感じて嫌になっていくというのは往々にしてあることですので、まずは問題に取り組みながら、たとえ直接問題に関してのことで笑ったのでなくても、笑顔が出たり、笑い声が出たりというのは間違いなくその子にはいい傾向だと思うのです。

まさかこんな短期間で昨日今日合わせて3人の子が変化を見せてくれるとは思ってもみなかったので、本当に嬉しくなりました。
3月はこの調子で、子ども達の笑顔がたくさん見られるといいなぁ。

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2017年3月 3日 (金)

あっという間の変化

今日はレッスン2回目の新人さんとのレッスンがありました。
小学校受験をして私立の小学校に通っている2年生さん。算数で困っているというほどではないものの、どうも分かっているのかわかっていないのかアヤシイ感じというようなお話で体験レッスンをさせて頂いたのですが、真面目そうな子で、習ったことをその通りきちんとこなすことに努めている感じは伝わってきました。
ただ、小学校受験をする際に通っておられた教室を伺ったところ、恐らくじっくり考える学びをさせてもらったのではないのだろうな。
習ったことのやり方はある程度以上覚えていて、それなりに使えている感じはあるものの、数量感覚は今ひとつ伴っていなさそうだなという印象だったので、おさらいを兼ねて、教具を使って考えてもらったり、図が描かれているようなプリントを主にやってもらうなどして、ただの計算練習のようなものは最低限にして様子を見ることにしました。

前回は主に100までのたし算のおさらいだったのですが、見ていると、既に筆算も習っているので、下の位から答えを書いています。引き算になってもまだそういう感じが伝わってきていました。
しかし、今日のレッスンでは教具を使って何度かやり取りした後、問題を解く様子を見ていると、何も言っていないのに、引き算の答えを上の位からすんなり書いているのです。

初めは2桁-1桁の繰り下がりからおさらいしたのですが、2桁-2桁の繰り下がりになっても、一度理解した後は何も言わなくてもやはり上の位から答えを書いていて、それも、体験のときのちょっと不安げな感じが全くなくなっていました。

たった2回のレッスンでここまで反応が変わる子はそう多くないので、なかなか新鮮な気持ちになると共に、これはもしかすると算数がかなり得意になる可能性もあるなと、楽しみになってきました。

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2017年3月 2日 (木)

頭の中

小さい子達とレッスンをしていると、時々どこかにはまり込んでおかしくなってしまう状態に遭遇します。

今日のレッスンでは100までの繰り下がりのあるひき算の学習をしていた子が、どこかにはまり込んで抜け出せなくなってしまいました。
数の学習をする際、10をあらわす教具は細長いので1本、2本と数えるのですが、この学習の途中で、例えば「10が5本でいくつ?」と尋ねると「50本」と答えてしまうようなことがあります。
1本で10、2本で20と再度確認をすれば、すんなり答えられるようになる子もいますが、どこかにはまり込むと色んなことがごちゃごちゃになる子もいます。

今日の子は最初のうちは大丈夫だったのですが、途中、問題も少し難しくなり、脳も疲れてきていたのか、10が4本で「40本」と答えたので、「4本なのに40本?4本でいくつ?」と尋ねても抜け出せなくなり、そのとき考えてもらっていた問題は73-33だったのですが、どんどん迷走し始めました。

教具を見せたときにはすんなり考えられていたので、どうすれば抜け出せるかなとあれこれアプローチをしたものの、なかなか手ごわい状態。そこで、一旦数の教具から離れて、鉛筆7本と消しゴム3個を机に出して、そこから鉛筆3本と消しゴム3個取ったらどうなるかを尋ねました。

すると、おかしくなっているので、それすらすんなりとはいかなかったものの、なんとか「鉛筆3本になる」と答えてくれたので、「そうよね?3本よね?鉛筆4本取ったら30本にはならないよね?」と、これで「ああ!」と言ってもらえるかと思って、そう言ったのですが、「鉛筆40本?」と、なぜか鉛筆の数が変わりました!!

一所懸命に何かを考えているようだということは伝わってきていたので、その子の頭の中で一体どんな思考がなされているのか、本当に見てみたいと思いましたが、最終的には何とか抜け出すことができ、ホッとしました。

次回のレッスンはどうなるか、ドキドキしますが、楽しみでもあります。

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2017年3月 1日 (水)

描けばわかる。

今日のレッスンでのひとこまです。
小さい頃から通ってくれていて、今は5年生になる子と、先日来、分数のかけ算や割り算の文章問題などをしています。
その子は小さい頃から来てくれていることもあって、やり方を覚えてとりあえず答えを出すということはせず、スピードはややゆっくりながらも、きちんと理解してしっかり進んできました。
ですから、問題を考えている様子を見ていても安心感があるのですが、そんな子でも家で宿題をするとなると、やはり集中しづらいんだなぁと感じたことがありました。

分数のわり算は大人でも何をしているのか今ひとつイメージしづらいところもあり、とりあえず分数のわり算はひっくり返して掛ければいいのよねという感じで覚えている方もおられるのではないかと思います。
ある程度大きくなれば、そういう間違いをすることはほぼなくなりますが、この「ひっくり返して掛ける」というのが、なぜそうするのかを理解できていないと、割られる数(式の前側の数)までひっくり返してしまう子や、割られる数だけをひっくり返してしまう子、分数のかけ算を習った後にするので、ひっくり返すのを忘れてかけ算したのと同じ答えを書いてしまう子というのが、少なからず出てきます。

もちろん、そうじゃないよ、元々の大きさが勝手に変わったらおかしいよね?というようなことを言ったり、何度か練習しているうちに身についてくるわけですが、それでも、分数のわり算に関しては自分が何をしているのかイメージしづらいのは事実だろうと思います。

今回その子は、宿題としてしてきた問題の中に、教室でしたときにはそんな間違いはしていなかったのに…というぐらい、ひっくり返すのを忘れたり、割られる数がひっくり返ったりと、色々ミスを多発していました。
もちろん、そうではないよと言って計算し直させるのは簡単なわけですが、分数のわり算を使う問題の多くは、問題を図に表すことができる子にとっては、図を見れば分数で掛けたり割ったりしなくても、普通に整数で掛けたり割ったりするだけで答えを出すことができるのです。

そこで、その子にも「問題はどういうこと言ってるのか、絵(この場合は線分図のようなもの)描いてくれる?」と言うと、間違えている問題全て、きちんと図に表すことができ、求めたいものがその図のどの部分なのかも見て理解でき、後は何の助けも必要なく、間違いを直すことができました。

この先、学校で分数のわり算を習ったとしても、わからないときは図に表せば考えやすくなる、簡単に計算できるということがわかっていれば、それは大きな力になるに違いありません。
やり方を覚えさせることも、時には必要かもしれませんが、どう考えれば答えが出せるかを理解することの方がより大事なのではないかなと思います。

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