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2016年11月30日 (水)

興味がないと考えない

子ども達を見ていると、自分が興味がある内容、好きな内容だと、多少難しくても問題に向かっていってくれる一方で、興味がない内容や、苦手だと感じている内容だと、とりあえず答えを書いてみる、違っていたらまた答えを変えてみる…というようなことをする子は少なからずいます。

もちろん、それは自分自身に置き換えてみても同じことで、好きなことなら時間を忘れて取り組めますが、嫌いなことは、それがやったらすぐに終わるとわかっているようなことでも、なかなか取り掛かることができないということはしょっちゅうです。
もちろん、そんな自分を情けなく思ったり、自己嫌悪に陥ったりもするので、嫌いなこと、苦手なことにひとりで取り組もうとすることは、なかなかいいところが見い出せないようにも思います。(取り掛かる前にも憂鬱で、取り掛かれないことで自己嫌悪を感じ、やっと取り掛かってやり終えてもあまり喜びもないという…。)

子ども達が見るからに嫌々取り組んでいる姿は、見ていると気持ちの良いものではないので、つい厳しくなってしまうことがありますが、よく考えると、そういうときこそ励ましや、ちょっとでも頑張ったら褒めるなど、何らかの喜びを与えることが大事なのかもしれません。

嫌なことでも、頑張ったら褒められたとなれば、少しはいい記憶になるかもしれませんし、重い腰が上がらないときに励まされたら、ひとりでは頑張れなくてもちょっとはやる気が出るかもしれません。

興味が持てないものに興味を持たせることはなかなか難しいことだと思うので、フォローできる部分はもっと気を配っていかなくてはいけないなと思います。

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2016年11月29日 (火)

何十年も経って

小学校3年のとき、定年間近の年配の女の先生が担任でした。
その先生は、今の時代なら大問題になっていただろうと思いますが、子どもが見てもはっきりわかるあからさまなえこひいきをし、体罰などもされました。
お蔭で小学校6年間の中でも印象に残る出来事がいくつもあった年でもありますが、その先生が教えてくださったことのひとつに、長さの学習をする際みんなに配られた30cmの竹製のものを「これは物差しと言います。」と。
そして、子ども達が筆箱に入れているような15cm程度のもののことを定規というのだと説明を付け加えられました。

そのとき、へぇ~そうなんだ~と思ったものの、私の中では30cm以上のものを物差し、それより短いものを定規というのだという解釈をして、そのまま長い長い歳月が過ぎていきました。

で、たまたま今日、友人がSNSで関西人か関東人かを判断する簡易テストのようなものをシェアしていたので見てみると、その選択肢のひとつに竹製の定規の画像があり、それを「ものさし」と呼ぶか「定規」と呼ぶかの2択がありました。

この選択肢で関西・関東を区別するのだとしたら、恐らく「ものさし」が関西で「定規」が関東と言いたいんだろうなと思ったものの、どちらも方言とかではなく、きちんと辞書にも載っている言葉ですから、なんだか違和感を感じました。
そして、遠い記憶が蘇り、素材や長さで決まっている呼び名ではないのかも…と今頃になって気づきました。
(ちなみに、その簡易テストの選択肢的には、おそらく関西圏とかではものさしや定規のことを「さし」と呼ぶことがあるように思いますので、それが言いたかったのではと。)

で、改めて物差しと定規の意味を調べてみたところ、完全なる間違いではない上に、どちらで呼んでも間違いではないものも少なくないようだとわかりましたが、一般には定規は作図などをするための道具で、物差しは長さを測るための道具なのだと、今頃になって知りました。

もし、3年生のときに先生から説明を受けていなければ、どこか別の段階で疑問を持って、何が違うんだろう?と調べたかもしれませんが、最初に教えられ、少し勘違いをしたまま覚えこんでしまったため、改めて疑問を持つ機会もなく過ごしてきてしまったのだと思います。

特に、小さい子は、自分のわかる範囲で物事を解釈しますから、大人が言っていることとは違う理解をしている可能性も少なくないかもしれません。
だからこそ、言葉で説明してしまって「わかった気にさせる」ことには、気をつけなくてはいけないなと、改めて感じました。

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2016年11月28日 (月)

考えさせることの意味

私は教室で子ども達と算数や国語を通してしか一緒に学ぶことはありませんが、考えることが大事だと言い続けているのは、何も算数や国語ができるようになるためだけではありません。というより、元々、子ども達が学ぶのは、よく生きる、幸せに生きるためなのではないかと思っていますので、考えたり、想像したり、推測したり、試行錯誤したり、そういう全てのことが、生きる力になっていくのではないかという思いがあります。

先日、あるテレビのドキュメンタリー番組で、天才発明家の方が出ておられたのですが、その方は小学校で教科書をもらうと初めのうちに自分で全部目を通して理解してしまい、学校で学ぶ意味が分からなくなったということで、確か5年生と言っておられたか、そこから学校に通うのをやめて、自ら様々なことを学び、様々な経験を積まれたそうです。
しかし、もう大人になって、必要だと感じるあれを学び、これを学びとしていくうち、はたと気づいたのは、自分が学ぶ必要があるとリストアップしたものは、学校の授業と同じだということだったそうです。(多少記憶が怪しいところがありますので、間違っていたら申し訳ありません。)

また、以前中学の同級生の子が言っていたことなのですが、その子は小中学生の頃かなりやんちゃで一歩間違えたら警察のお世話になっていたかもというような子だったので、本人曰く、勉強はろくにしておらず、大人になった今でも分数の計算などもあやしいのだとか。その彼が、学校での勉強なんて何のためにするんだと思っていたけど、大人になって社会に出て、色んな壁にぶつかって、これはどうしたらいいんだろうと考えるための予行演習みたいなもんだったのではないかと言ったのも、とても印象に残っています。

実際のところ、難しい数学などができるようになっても、それが直接役に立つ人はごく僅かだろうと思います。歴史にしろ、物理にしろ、それが直接仕事などに活かせる人は限られているでしょう。でも、それをみんなに学ばせることには何らかの意味があるはずです。
その意味は人によって少しずつ違うかもしれませんが、それでもやはり詰まるところは「よい人生を生きるため」に学ぶのではないかと。

この頃、街で、自分にとってはあり得ないと思うようなことを平気でしているような子を見かけることも少なくありません。人に迷惑を掛けるということ以前に、本人の命の危険すらあるのでは?と思うようなことなのに、全く考えもしないのかしらと、他人事ながら心配になることもあるのです。

でも、それってもしかしたら、小さい頃から当たり前のように大人から習うことを覚え、繰り返し練習する、教えられたことを真似る、そういうことを繰り返し、自ら考えるという機会が減っていることにも関係があるのかもしれないと思ったりするのです。
遊びひとつとってみても、折り紙や積み木など自分で工夫することでどんどん広がっていくような遊びをする機会は減って、あらかじめルールが決まっているゲームなどに取って代わられて行っているのだとすれば、そこでも自らルールを考えたり、工夫したり、試行錯誤したりする機会は失われてしまっているのかもしれません。

だとすれば尚のこと、機会を見つけて意識的に考えさせる必要があるのではないかと思うのです。
なんでだろう?どうしてかな?どうしたらできそうかな?これがダメならあの方法だったらどうだろう?
大人が与えるのではなく、子ども自身にできるだけあれこれ考える機会を与えることで、成績も上がるかもしれませんが、それより何より、自分の身を守ったり、人の気持ちを想像したり、問題にぶつかっても簡単には折れなくなったり、もっと色々なことに影響があるのではないかなと、そう思うのです。

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2016年11月27日 (日)

オフでした

雨の降る中、古くからの友人たちとまた卓球をしに行ってきました。
自分たちがやっていた頃とはルールなども相当変わったので、真剣にやるとなるとそこから学び直さねばなりませんが、今はとりあえずお楽しみという感じで。
それにしても、本当に動けなくてびっくりするやら、笑えるやら…。(苦笑)
明日はまた筋肉痛になるかもしれません。

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2016年11月26日 (土)

すごいなぁ。

1年生から通ってくれて今は2年生になった子と、今日は時間の問題のおさらいと、日・時・分・秒の換算の問題などをしました。
換算の問題の中には結構面倒なものもあって、計算用紙も渡し、何か書きながら考えてもいいからねと声をかけておきました。
しかし、何も書かずに結構スイスイと解いていくので、感心してみていたのですが、最後の1問が760分を何時間何分に書き換えるもので、既にかけ算では3桁×1桁までは学習したものの、学年を考えると、何も書かずに考えるのは大変だろうなと。

「さすがにそれは書かないと大変じゃない?」と声をかけたものの、何か考えているようだったので、とりあえず待っておきました。すると、しばらくして12時間と書き、そこでまた少しだけ間があって40分と書きました。
暗算で解いてしまったので、「すごいね、どうやって考えたの?60、120って考えていったの?」と尋ねたところ

「ううん、10時間は600分やから、そこから考えた。」

そう答えが返ってきました!!
もちろん私はどんな風に考えなさいとか言いませんから、その子自身が760という数を見て、60の10回分より多いなと気づき、それよりどれだけ多いのかを考えたわけです。

やり方を教えない、考え方を教えないことで、こんな風に子ども自身が工夫したりするということは珍しくありませんが、真面目にコツコツ取り組むタイプの子なので、いつの間にかそんな風にもかんがえられる用意なっていたんだなということに驚くやら嬉しいやら。

子ども達の力って本当に素晴らしいですね。

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2016年11月25日 (金)

考える・わかる

子ども達とのレッスンでは、基本的に解き方を教えるということはありません。
そのため、意味も分からず、とりあえず答えを出す方法だけを知っているという状態になることは、少なくとも教室でのレッスンではあり得ません。

こちらで一緒に学ぶより先に学校などで習ってしまったとか、苦労をしている様子を見て、おうちの方が「簡単に計算できる方法」を教えられたとかいうような場合や、こちらでやったときにはきちんと考えていたのに、学校などで筆算を習った結果、考えるという意識が薄れ、機械的に計算をしてしまうというような場合に、何をどう考えたらそんな答えになるの?というような答えを書いて、ケロッとしていることがあります。

過去にきちんと考えて答えを出したことがあれば、答えがおかしいことを指摘すると気づいてくれることもありますが、初めから習って覚えて処理をしていたような場合は、また習ったことをし直すだけで、違う答えが出たら、それが答えなのかなとまた書いてみる。それでも違うと言われたら、また計算をし直す…と、その子にとって何の意味があるんだろうという無駄な作業を繰り返す子もいます。

教室で子ども達とレッスンをしているとき、例えばかけ算を学習するときには、教具を使いながら、数を足したり引いたりして、かけ算の答えを考えていきます。
九九を教えないままに1桁の掛け算を全て学習したら、その流れで2桁×1桁のかけ算に進むのですが、かけ算の意味を理解しているので、やり方がわからないという反応が返ってくることはありません。

ただ、子ども達の多くは、地道にたし算を繰り返すことが多いのです。
例えば54×6のようなものであっても、54+54=108として、子どもによっては1回ずつ6回足す子もいますし、2回で108だから4回は108+108で216、そこに108を足したら6回で…というような工夫をする子もいますが、50と4を分けて、それぞれ6回ずつという考え方をする子はなかなかいません。

教具を見せて考えてもらっているときには、答えを出してもらった後で一応「50も4も6回ずつやね」とか、「50が6回、4が6回やね」とかいうように、そういう風に考えた方が簡単だと気づいてもらえるよう声掛けをし、ほとんどの子が、ああ、その方が簡単だなと感じているような顔をするのですが、実際に問題を解いてもらうと、その考え方を使う子はごく少数です。

何度か声かけをすることで、十の位と一の位を分けて考える子も現れますが、どうやら子ども達にとっては、面倒かどうかより、自分が考えやすいかどうかのほうが大事ということなのかなと感じます。

それが自然なのであれば、自分でじっくり考えることなしに筆算を教えた場合、位の数の位置がずれて全く違う答えになっても、気づかないのも不思議ではないなと思います。
また、たし算を繰り返すことで答えを出す方法は、確かに面倒で時間もかかりますが、その過程を経ることで、筆算をする際に、自分がしている計算はたし算を繰り返していた、あの計算なんだと気づくことができるかもしれませんし、自ら気づけなかったとしても、こちらが何か声掛けをすることで、「ああ、筆算のここに書いている数は十がいくつかを表しているのか!」など、計算の意味に気づきやすくなるようにも思います。

小さい子達が、大人から見たらめんどくさい方法、まどろっこしい方法で答えを出していると、大変そうだな、時間がかかり過ぎているななどと思って、親切のつもりでテクニックを教えてしまうということは少なくないのではないかと思いますが、子ども達にとっては、そのめんどくささ、まどろっこしさが、本当の力につながっていくのではないかと思っています。

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2016年11月24日 (木)

経験を積むこと

あまり深く考えたことはありませんでしたが、生まれたばかりの赤ちゃんが色々なことを学んで身に着けていく過程で、働きかけによってできることにどのぐらい差が出るのか、能力差は持って生まれたものによる部分はどのぐらいあるのか、今の段階では研究でも明らかになっていないのかもしれませんし、今後も全て解明されるということはないのかもしれませんが、この頃ぼんやり色々考えます。

算数に限って見ると、生まれ持った能力、才能というのはあるんだろうなと感じることはしばしばありますが、生まれてから私がその子に出会うまでの何年間かの間にその子にどんな働きかけをされたか、どんな環境で育ったかなどによる影響がどのぐらいあるのかはわかりません。

教室に来てくれている子達を見ていても、図形に関しては概ね男子のほうが得意で女子のほうが苦手。でも、女子も小さい頃から具体物を使って多くの経験をすることである程度までその力を伸ばせるように感じることもあります。
ですが、例えば、いわゆる「女脳」の子に経験を積ませて空間認知などの能力をある程度伸ばした場合、その能力が伸びた代わりに、元々の脳の傾向のうち何かが抑え込まれたりするようなことはないのかも気になります。

簡単な例でいえば、一般的に女の子は物語文などを読むのが得意で、登場人物の心情などを想像すること、答えがはっきりしない部分を感じ取ることが得意だという子も少なくないかと思います。
そして、一般的な男の子はそういうぼんやりした捉えどころのないものは苦手だったり、嫌いだったりする代わりに、説明文など筋が通った文章を読み取ることは苦にならないというようなことがあったりします。
それも脳の傾向の一つのようですが、小さい頃から理詰めで考えることが当たり前になった女の子の中には、曖昧なものが苦手、国語の物語文などで心情を問われるような問題は嫌いという子がいました。といっても、国語もできていたので、元々の能力が押し込められてしまったわけではないのかもしれませんが、好きなものの傾向が変わった可能性はあります。

ひとりひとりの子がそれぞれ違うように、その子にとって何がいいことなのか、それもまた答えがありません。

今日のレッスンで、どうも問題の意味を読み取る力がまだ弱いらしい子とのレッスンがあったのですが、何かが弱い代わりに何か強みを持っているのかもしれず、また、読み取る力が弱いというのは、単にまだ成長のペースが伴なっていない可能性や、経験が少ない可能性もあります。

ゾウを見たことがない子にいくら言葉で説明しても、実際のゾウに近いものをイメージできるかどうかはわかりません。子どもによっては全く違うものを想像することだってあるでしょう。
例えば、「大きい」という言葉も、サイズの比較だけでなく、背が高い場合や数が多い場合などにも使いますから、「2と5は5が『大きい』」という表現も、どこかの段階で学んで身に着けているのだろうと思います。

子ども達には色々な経験をさせることはよいことだと思います。
何かが理解できていない場合は、なるべく具体物を使ったり、生活の中で経験させたりしながら、本当の意味での学びをしてもらいたいとも思います。
それでも、これが正解だという答えがないだけに、何年経っても試行錯誤と反省は続きます。

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2016年11月23日 (水)

勤労感謝の日

今日は祝日でしたが、年間予定ではレッスンがある日でした。
しかし、珍しく皆さんが別の日に振替をご希望だったもので、レッスンはお休みになり、それもあって心置きなくサッカーのチャンピオンズリーグの試合を超夜更かしで見たため、なんともぐだぐだのうちに1日が終わってしまいました。

もう11月もあと1週間で、気づけば年末になっているんだろうなと思うと、ちょっと恐ろしいものがあります。
そして、今月の教材作りもなかなか捗らぬまま、あと1週間余りになったので、がんばらなくては。

明日はからまた通常レッスンですので、どうぞよろしくお願いいたします。

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2016年11月22日 (火)

見えるって羨ましい

これまでにも書いたことがあると思いますが、空間認知の能力はかなりの部分、持って生まれたものがあるように思います。
一昔前にベストセラーになった「地図が読めない女、話を聞かない男」の中で書かれた「男脳・女脳」というもののうち、主に男脳の持ち主は、地図を読むことが得意、空間認知能力に長けていて、その代わり言語に関する能力などは女脳に劣るというような内容ですが、それは確かにあるように感じます。

私はそのとき本についていた簡易テストのようなものではニュートラル(男脳と女脳の中間タイプ)だったので、女にしては空間認知が全くダメとまではいかないものの、やはりその能力が高い人と比べると全然だなと感じることがしばしばありました。

で、私は子どもの頃から展開図などの問題が苦手だったわけですが、教室で子ども達とレッスンをしていると、できる子はさも当たり前のように、恐らく頭の中で映像が浮かんで、それが組み立てられたり開かれたりしているんだなと感じることがしばしばあります。

今日のレッスンでも、普段はまだかなり幼さを残す1年生の子が、レッスンが始まってからもなんだか調子が出ず、今日はダメな日かなぁと思いかけていたところ、展開図の問題になった途端、顔つきが穏やかになり、すっと問題に集中し始めたかと思えば、サイコロが作れる展開図がどれか、作れないものはなぜ作れないのか(枚数が足りないとか、組み立てるとどこかの面が重なってしまうとか)の理由までも答えられました。

ついさっきまで、私から見ればもっと簡単に思える問題でふにゃふにゃ言っていた子とは思えない、素晴らしい出来で、改めて、やはりこの能力は持って生まれたものによる面がかなり大きいのだなと、そして、その能力がある子にとっては展開図の問題が難しいという人の気持ちはよくわからないだろうなと(見えてしまう子にとって、なぜそれが見えないのかは理解できないでしょうし…)思いました。

いつも思いますが、見えるって本当に羨ましいなぁと思います。
どんな感覚なのか、一度でいいから自分でも体験してみたいものです。

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2016年11月21日 (月)

興味が持てるかどうか

子ども達とレッスンをしていると、改めて強く感じるのは、何かができるようになるかどうかは、かなりの部分、それに対して興味が持てるかどうか、好きかどうかにかかっているのではないかと思います。
もちろん、持って生まれたと思える能力差などもありますので、好きだからといって誰も好きなことに対してずば抜けてできるようになるということはないとは思いますが、好きでなければ、興味がなければ、なかなかできるようにならないのではないかと思います。

もちろんこれは勉強に限ったことではなく、スポーツでも芸術でも、そのほかあらゆることに対して言えることだと思います。
好きであれば一度やってうまくいかなくても何度でもチャレンジし続けられるかもしれませんが、嫌いなことを何度もやってみようと思う人はまずいません。嫌いなのに何度もするというのは、何らかの強制力が働いているかような場合が多いのではと思いますが、そういう場合、努力に比べて成果があまり出ませんから、尚更やりたくなくなるということが往々にしてあるだろうとも思います。

今日は振替で中学生の子とのレッスンがあったのですが、試験前で作図が試験範囲になるとのこと。おさらいを兼ねて問題をやってもらったのですが、元々図形があまり好きではないその子は、過去に教室で一緒にして、その後学校でも最近習い、再度ここでやっているというのに、当てずっぽうでコンパスを使い、なんか違いそうだなと思ったら別の方法、見た感じ合っていそうなら(それが間違っていても)それでOK…そんな状態でした。
ほんの数分前似たような問題があり、そこでどうしてそれをするか確認したものでも、また全然違うことをしようとしたりします。

でも、この子は数学が苦手なわけではなく、単元によってはかなりよくできますし、中間試験でも、苦手な子が多いと思われる応用問題などもしっかり得点していて、むしろ女の子としてはかなり数学ができると言っていい子なのです。
それがこと図形になると、明らかにモチベーションが低下し、どういうものを描かねばならないのかをろくに考えず、自分の作図でどういうものが描けるのかにも興味がなく、とりあえずそれっぽいものが描けたらいいやと思っているんだろうなということが伝わってくるのです。

中1の作図は、垂線、垂直二等分線、角の二等分線ぐらいしかなく、後はそれをどう使うかだけですから、与えられた問題でどこにどんな感じの線を引きたいのか、どの辺に中心がくるはずかなどをまず考え、この辺りだったらその3つのうちこれを使えば描けそうだなと見当をつける。
それでかなりの問題は解けるはずなので、もしその子が多少なりとも図形に興味があり、ちょっと考えてみようと自ら思ってさえくれれば、絶対もっとできるはずなのです。

どうすれば興味を持ってもらえるか、子どもに興味を持たせることができれば、それについて学ばせることなどとても容易いことだろうと思います。
私自身、好きな教科や単元はできるけど、嫌いなものは最低限しかできないという(最低限の努力しかしなかったので…。)子ども時代、学生時代を過ごしたので、嫌いなもの、興味のないものに対して、どうすれば興味が持てるのか、何かいい方法があるなら是非知りたいと思っていますが、その一方で、恐らく子どもだけでなく大人でも、結局は自分が好きなこと、得意なことなら頑張れるというのは同じですから、もっともっと、その子その子の得意を伸ばす、好きなことを伸ばす、そういう教育が一般的になっていけばいいのになと、そんな風にも思います。

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2016年11月20日 (日)

オフ

今日は更新お休みします。

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2016年11月19日 (土)

賢いというのはどういうことなんだろう

これまでに、発達上の困難を持った子達とレッスンをさせてもらう機会が何度もありました。
診断名がついている子も、グレーゾーンの子もいましたが、教室で一緒にレッスンさせてもらった子達は、みんなそれぞれ違っていて、ある面では困難を抱えていても、別の面では秀でているというようなことも珍しくありませんでした。

簡単な例で言えば、忘れ物王で、自分のものにも人のものにも執着がないのか、何かをなくしても気に留めていないふうで、また、忘れたからと消しゴムや筆記具を貸すとそのまま持って帰ってしまっても気づかないというような子で、算数のセンスが抜群によかった子。
ぐっと集中し始めると、無意識のうちに椅子から立ち上がってしまう子。
理解には平均的な子の何倍も、時には何十倍も時間がかかるものの、一度理解するとその定着度が驚異的だった子。
そんな色々な子達がいました。

そういう子達を見ながら、天才といわれる人の多くはどこかアンバランスなのではないかなと思うようになりました。ある意味、だからこそ天才たり得ているのではないかなと。

で、最近も、見る限り軽度のような気はするものの、ある発達障害の診断を受けた子とレッスンさせてもらっているのですが、その子は問題文の意味を理解する、話を聞いて理解するというようなことが不得手のようです。
ですから、自分で問題を読んで考えてもらうと、突拍子もない答えを書いたりすることも少なくありません。宿題などは私が見ているわけではないので、ひとりでやったものは相当間違っていることも珍しくありません。

そういう子は、例えば学校という場や筆記試験の場などでは、なかなか評価してもらえないのかもしれません。
私も初めのうちは問題の理解力が乏しいことはひしひしと感じたので、これはちょっと学校などでは大変なのではないかなと感じていたのですが、この頃気づいたのは、少なくとも算数は、問われていることをきちんと理解することができれば、かなりの能力を持っているようだということです。
仮に問題を読み取る力が平均的であれば、この子は間違いなく「算数がよくできる子」と評価されているだろうと思います。

人間にはみんな得意不得意があります。その子は文章を読み取る力、言葉を理解する力が弱いかもしれませんが、算数のセンスは平均以上のものを持っているように思うのです。でも、今の学校のシステム、今の試験のシステムだと、この子はなかなか評価してもらえないかもしれないとも思うのです。

そんなことを思いながら、「賢い」というのはどういうことなんだろうと思います。
ペーパーテストができるというのも「賢い」というものの一面ではあると思いますが、その子の持っている算数のセンスは明らかに「賢い」と言われるもののように感じます。

社会が、アンバランスな発達の子達にももっと暮らしやすく、評価されやすくなればいいのになと、そんなことを思います。

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2016年11月18日 (金)

再度のご案内

私がうっかり忘れそうになっていましたが、先日ご紹介した世界算数が開催されています。
Facebookの世界算数の案内のところには19日23時までと書かれているのですが、実際のサイトを見ると、20日日曜23時までとなっていて、どちらが正しいのかやや不安ですが、ご興味のあれば(お子さんがやってみたいと興味を示されるようなら)お子さんにチャレンジしてもらってみてください。
パズル好き、算数好きな子なら楽しいのではないかなと思います。

世界算数
https://www.global-math.com/

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2016年11月17日 (木)

子ども達に教えるべきなのは

今日はレッスンとは全く関係のないお話。
先日来ずっと感じていることを少し書かせて頂こうかと。

このところ頻繁に耳にするようになった「いじめ撲滅」「いじめをなくす」などのスローガン。国としても取り組みを強化するとか、学校ごとに対策を考えるとか、そういう話はいろいろ聞きますし、もちろんしないよりした方がいいのだろうとも思います。
でも、ぶっちゃけてしまえば、いじめがなくなる日なんて永遠に来ないのではないかとも思うのです。

私は子どもの頃からいじめは大嫌いでした。
女子がグループを作って、自分が所属していないグループの子達をいじめたり、グループ内でも気に入らない子がいたら陰口を言ったり、仲間はずれにしたりというような、そういうこと全てがとても嫌いでした。
ですから、小学生の頃からどちらかというと男子とのほうが気楽で、外を走り回って男子と一緒に遊んでいることが多いような子どもでした。
数少ない女友達はみんなさっぱりした性格で、やはりいじめには縁がないようなタイプの子達でした。

ただ、自分はいじめなくても、目立っているとかよくわからない理由でいじめにあったことは何度もあります。
1対1では何も言えないくせに、何人かのグループで悪口を言ったり、無視したり、そんなことをしてこられたことが何度もあります。

時代が違うので、今ほど陰湿でも、残酷でもなかったと思いますし、命の危険というようなことは自分も、友人たちも経験したことがないと思います。

でも、結局いつの時代もいじめはあります。
そもそも、大人の世界にだって、むしろ子どもの世界より遥かに多くの「いじめ」が存在するのではないでしょうか。
自ら命を絶ってしまった電通に勤めていた女性の件でも、あれは残業がきつかったというのは一因で、それ以上に彼女の心を蝕んだのはパワハラやセクハラだったのではないかという気もします。

大人の世界に当たり前にあるものを、子ども達にはしてはいけないと言ったところで、全く説得力がありません。
大人はいいんだなんてこと、少なくともいじめに関してはそんな都合のいい話はありません。

大人の側が子ども達にいじめをなくさせようと働きかければ働きかけるほど、いじめが水面下に潜って、もっと陰湿に、もっと巧妙になっていく危険があるのではないかと思います。

ですから、いじめをなくそうとするより先に、いじめはなくなれば素晴らしいけどきっとなうならない。おまけに、いじめには理由なんてないこともある。だから、いじめられて辛いと思えば、そこから逃げ出していいんだということを小さいうちから子ども達にしっかり教えることの方が大事なのではないかと思うのです。

子ども達の世界はまだまだ狭いのが普通です。学校が全て、学校にいられなくなったらすべてを失う。そんな風に感じることだってあるかもしれません。
そうなると、嫌でも辛くても我慢して学校に行く。親にも話せず我慢して我慢して、あるとき限界が来てしまう。

でも、実際は世界は広いし、仮に小学校や中学校に通わなくたって、高校や大学に行く方法はいくらでもある。今の小学校、中学校に通わなくても、ほかにも学校は数えきれないほどある。
いじめを1人で解決しようと思ったり、いじめが収まるまで黙って我慢しようと思ったりしなくていいんだということを、しっかり大人達が知らせることが、子ども達を救うことになるのではないかなと。

いじめの対象は立場が弱いものとは限りません。
優等生であるがゆえにターゲットになるような場合もあるわけです。

ですから、お子さん達に自分がいじめる側には決してなるなということと同時に、もしもターゲットになってしまったら、立ち向かおうとせず、我慢しようとせずに、逃げ出していいんだということを伝えてあげてほしいと思うのです。
もちろん、そう言われても立ち向かう子もいるかもしれません。でも、親や自分の知っている大人が逃げていいと言ってくれていれば、隠さなければいけないと思い詰めずに済むかもしれませんし、心が折れる前に助けを求めることができるかもしれません。

もちろん、それは全て仮定の話ですから、それでも我慢して心が折れてしまう子どももいるかもしれませんが、とにかく、いじめをなくすための働きかけより先に、子ども達にいじめからは逃げていいということを伝えてあげることが大事に思えてなりません。

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2016年11月16日 (水)

眠そうな子多発

私自身も最近やたらと寝てしまうのですが、それはいわゆる更年期の一症状なのかなぐらいに思ったりしています。
しかし、気温の変化などの影響なのか、どうしてかわからないものの、今日はレッスンで眠そうな子が多発しました。

最初のレッスンの子が不調だと、その日は不調な子が多発したり、その逆もあったりというのは珍しくないので、今日は眠気の伝染が起こったのかもしれませんが、どの時間にも眠そうな子が。

眠いと、本来なら簡単なはずのことが全くできなくなったりしますし、小さい子だと眠さとわからなさがあいまって悲しくなったりもします。
眠そうにしていたら立ち上がって体を動かしてもらったりするのですが、それでもなかなか目覚めない子も。

眠気を短時間でスッキリ覚ますいい方法はないものでしょうか。
過去に色々検索したりもしてみましたが、まだ「これだ!」というものには出合えずです。

明日はみんなスッキリばっちり取り組んでくれますように。

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2016年11月15日 (火)

記憶に残っている言葉

教室を始めるきっかけになった教材と、その教材を作られた先生。
先方のご都合で、直接お世話になることはできなくなりましたが、初めの頃に伺ったお話の中でずっと印象に残っていることがあります。

それは、本当にできる子は、それができても当たり前だと思うので自慢しない、自慢するのは能力が低い子がすることだということです。

簡単な例で言えば、仮にほかの子より早く歩けるようになった子がいたとして、まだ歩くことができない子に対して「僕もう歩けるねん、すごいやろ」なんてことを言ったとしたら、それを聞いた大人は思わず笑ってしまうか呆れるかするのではないかと思います。

人より早くかけ算を覚えた子が掛け算ができることを自慢するというような類のことは、恐らくしばしば目にするのではないかと思いますが、それにしたって、結局のところ、ほかの子より先に覚えたというだけで、やれば殆どみんなできるようになるのですから、先んじたことをわざわざ自慢するのは賢い子のすることではないと言われれば、納得がいくのではないでしょうか。

ここでお断りしておきたいのは、例えばその子なりに一所懸命努力をして、何かできるようになったときに、そのことを「○○ができるようになったよ!」と喜ぶことと、それができない他者に向かって自分はこんなことができるのだと自慢することとは別物だということです。

ここでいう自慢は、他者を低く見るようなニュアンスを含むものということなので、本当の自信がある子はわざわざ他者を低く見る必要がありませんから、当然自慢をする必要もないのだろうと思います。
また、簡単なことができても、それをわざわざ自慢はしないでしょうから、そういう意味でも、さほどすごいことでもないのにそれを自慢するということは、自分の能力だとそれはすごいことなのだと思っているということでもあるわけで、そういう意味でもやはりその子の能力は高いとは言えないのかもしれません。

初めてそのお話を伺ったとき、そういうことを意識したことがなかったなと思いながら、本当かなぁ?と思ったものですが、その後教室を始め、色々な子と接する中で、先生が言っておられたことは概ね正しいのではないかと感じるようになりました。

本当の意味で賢い子、本当に理解している子達は、何か周りの子より先にできるようになったことがあっても、「俺はもうこれできるねん。(お前はまだできないのに。)」というような言動をできない子に対してする姿を見たことがありません。
もちろん、本人にとって難しい問題が解けたときなどには喜ぶことはありますが、こちらがすごいな、よくできたなと思うようなものでも、「え?何が?」ぐらいにしれっとしているような子も珍しくありません。

例えば、人から褒められるときに、自分にとって簡単なことをして褒められても大して嬉しくないですし、場合によってはバカにされているような気にさえなるのではないかと思います。
つまり自分にとって簡単なことは当然自慢などしようという気にはなりません。また、自分にとって難しいものができたときには嬉しいと感じることはあっても、それを自慢しようとするかどうかはまた別物です。自分が嬉しくて、満たされていれば、わざわざ他者を低く見る必要はありませんから。

幼い子が何かを自慢するのは見ていて微笑ましい場合もあると思いますし、全ての自慢がよくないとは思いません。
ただ、学校や塾などでの教科学習の内容などで、人より先にできるようになったことをできない子に対して自慢するという行為は、自分の能力は低いのだと認めているに等しい場合があるということ。もしくは、そうして他者を低く見なくてはやってられないような満たされなさやストレスを感じている場合があるということ。これは事実なのではないかと思います。

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2016年11月14日 (月)

やっと解決しました。

先日来お知らせしておりました、教室のホームページのお引越しの件。
ちゃんと設定して、書かれている通りに手続きもし、アップロードもできたはずなのに、いっこうに表示されず、そもそもパソコン全般によくわかっていないので、もしかしたら10日でサービス終了になってから表示されるのかしらと思ったりもしていたのですが、そんなことはなく、恐らく2日はホームページがない状態になっていたかと思います。

何とかせねばと、色々調べ、検索し、あれこれトライもしたのですが、いっこうにうまくいかず、プロバイダのサポートに電話するしかないかな、でも、これプロバイダさんには関係ないような気もするし…と思いつつ、更に細々書かれている項目を隅々まで読んでいたところ、ファイルの形式の拡張子?ファイルの種類を表すアルファベットの表示が「htm」になっていたら「html」が優先されるというのが目に留まり、そもそも自分で形式を指定した記憶すらない上、これまではそれで表示されていたものの、念のため…と見たところ、自分のファイルは「htm」になっており、そこに1文字「l」をつけたしてアップロードし直したところ、たったその1文字で全てのホームページが元通り表示されるようになりました。

わかってないってほんと不便だなぁと改めて思いつつ、どっちも同じ種類のファイルを表すのに、なんで2つの表示があるのかもわからず、おまけに自分で設定したわけでもないのにと、色々スッキリしない気持ちのままですが、解決してよかったです。
もしかすると気づいていないだけで何か不具合が起きているかもしれませんが…。

それでは、今週もどうぞよろしくお願いいたします。

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2016年11月13日 (日)

オフ

今日は更新お休みします。

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2016年11月12日 (土)

嬉しい出来事

前々回あたりからいい感じでレッスンができるようになってきた3年生さん。
今日もそうなるといいなと思いながらレッスンを始めました。

これまで、何度も声をかけてもまるで聞こえていないかのように全く聞いてもらえず、そのためなかなかレッスンが前に進まず、ちょっとレッスン時間を割いて本人としっかり話をしてみたところ、その子なりに聞こうと努力してくれるようになり、それだけで格段にレッスンが進むようになったのがここ2回ほど。

今日はそれ以上に、ほとんど当たり前のようにこちらの声掛けに反応し、それによって勘違いしている場合もすぐに抜け出すことができて、こちらもすぐに聞いてくれるため穏やかな気持ちのまま向き合うことができ、色々なことがいい方に向いたこともあるのか、その子が本来持っている算数の力がどんどん出てきました。

センスはあると感じてはいたものの、とにかく問題を読み間違えたり、そもそもちゃんと読んでいなかったりということが多く、更には新しいことを何か説明してもほとんど聞いていなかったりということもあって、センスがあると感じたのも勘違いだったのかなと思いかけていたのですが、やはりなかなかのセンスを持っているということを再認識させてもらえる場面が何度もありました。

びっくりしたり感動したりで、何度も「すごいね」とか「よくできるね」とか声をかけることもでき、その子も嬉しそうでした。

「ちゃんと聞こうとしてくれたら、どんどん進むようになったよ。すごいね、よくできるね。」

そういうと、

「国語もちゃんと話聞いて、ちゃんと読んだらもっとできてたかな?」

そういう言葉がその子の口から出ました。
言語に関して弱いということは教室に来てくれるようになったときにおうちの方からお話を伺っていましたので、その子自身も自分が国語が苦手、話を聞くのが苦手、そういったことは自覚があるのでしょう。その子が自ら、がんばったら国語もできるかな?と思えたことは本当に素敵なことだなと思います。

自信って本当に大事だなと思いますし、苦手なことを克服するより、まず得意なことに磨きをかける方がいいというのは確かにそう思います。

これからのこの子の変化がますます楽しみです。

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2016年11月11日 (金)

???→!!!

今日のあるレッスンでのこと。
なかなか算数のセンスもよく、今日のレッスンも順調に終えた1年生さんに、最後にある問題をしてもらっていました。
普段その子がしている問題からすると簡単すぎるぐらいの問題だったので、「読めないところがあったら言ってね」とだけ言って、問題を考えてもらっていました。

すると、ある問題ができたというので見たところ、全く想定外の答えが書かれていました。
Photo


問題はこれだったのですが、左から順に2,3,6,5,4,1と書かれていました。

へ???
それを見て、あまりにも意表をつかれたのと、その子は時々とてもユニークな発想をすることがあるのとで、咄嗟に「自分の好きな順に書くとかじゃないよ?」と言ってしまったのですが、「うん、そんなんしてないで。」としれっと答えます。
表情を見る限り、ちゃんと考えた答えのようです。

どういうこと??と頭の中であれこれ考えつつ、そういえば先日も別の1年生さんがその問題で不思議な答えを書いたことがあったなと思い出しました。その子が書いた答えは覚えていなかったものの、その子とは何度か実際にものを使ってやり取りした結果、ちゃんと答えられたので、何か勘違いしていたんだろうなと思っていました。

しかし、2人目ですから、どう考えたのか気になります。
とりあえずは意味を勘違いしているのかもと、本を何冊か重ねて一番上の本を指さしてもらったりしたところ、それは全く迷いません。
そこで、類題としてもう1問、色の異なる紙テープが重なっている絵を見て同じように順番を書く問題をやってみてもらったところ、なぜかこちらは全く問題なくすんなり解きました。

むむむ…一体なんだ?と思ったときふと1と書かれた形が飛び出していることに気づき、図を見直すと…。

!!!!!

「もしかして、上に飛び出てる順に書いた?」

「うん、そやで。」(きっぱり。)

隣にいたお姉ちゃんも一緒に大笑いしてしまいましたが、そうか、そういう勘違いだったのかとスッキリしました。

そして、そういえば以前思ったことがあるなと、思い出したことがあります。
幼児さん向けの教材の中に、2つの絵を見くらべて、どちらが大きいかとかどちらが長いかとかを選ぶようなものがあるのですが、その2つの絵が、例えば片方は黒髪でおかっぱ頭の女の子の肩から上あたりが描かれていて、もう片方は金髪でロングヘアの女の子の肩から上あたりが描かれているものを見比べ「どちらが長いか」と問われて、金髪の方を選ぶというようなものがあるのです。

ほかの条件が全く同じで(例えば、黒髪のおかっぱで同じ服装の女の子の髪がそのまま長くなったような2つの絵というような感じで)比較するのであれば、違うのは髪の長さだけですから、迷うことはないと思うのですが、ほかに何も条件を与えず、ただ「どちらが長いか」と問い、描かれている女の子は違う女の子、着ているものも違うものとなれば、子どもによっては何を比較するのかわからなかったり、目の長さや鼻の長さなどを比べようとしたりしてしまうことはないのかなと。

一緒にレッスンをさせてもらった子達でその類の問題で困った子はいなかったのですが、例えば発達上の困難があるような子で、何か一つのことが気になるとそこにばかり視線が行ってしまったり、ほかの人はあまり気がつかないようなことに目が向いたりしがちな子にとっては、とても難しい問題だったりするのかもしれないなと。

上述の問題も、文章の表現を変えれば、今日の子のような勘違いをせずに済む方法はあるかもしれませんが、紙を重ねた状態で「上から」と言われれば、書かれていなくても「重なっているものの上から」という意味だと読み取る力は必要になってきます。
でも、そういう力はどんな風にして育っていくものなんだろうなと、ふと気になった出来事でした。


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2016年11月10日 (木)

ホントにみんなそれぞれ違うなぁ

今更改めていうことでもないのですが、子ども達はホントにみんなそれぞれ違うなぁと感じます。
大人の常識(というのもまた曖昧ではありますが)からすると、当然そんなの簡単でしょ?と思うようなことでも、とても難しく思う子もいますし、どんな問題でも最初の理解に時間がかかる代わりに、きちんと理解すれば定着度はかなり高いというような子がいたり、ほとんど何も言っていないのに、なんでそんなことまでわかるの?と驚かされるような子がいたりします。

算数が苦手な子であっても、その「苦手」に色々あって、数量感覚が伴っていないと感じる子がいたり、図形だけが極端に苦手な子がいたり、図形はかなりできるのに計算になると苦戦するような子がいたり、これまたそれぞれ違います。

そんな、みんな違うそれぞれの子達に、できるだけ本当に「わかった」と感じてもらえるように、いつもあれこれ試行錯誤をするのですが、後になって反省することがあるのは、このぐらいは誰でもわかるだろうと思うものに対して、想定外の突拍子もないような答えが返ってきたときに、「え?なんで?!」と驚いてしまうことで、子どもによっては責められていると感じることもあるだろうなと。

今日のレッスンでも、算数が今のところ全般に苦戦気味の低学年さんが、その子なりに一所懸命やっているのだとは思うのですが、図に描かれた線(正方形の左下の頂点から上の辺の中点に向かって線が引かれていたのですが)と同じ線が、与えられた図の中にあるか尋ねたところ、頂点から出てもおらず、位置だけではなく、線の長さも傾き具合もかなり違う線を指して、これだと言いました。
それを見て、さすがにそれは一緒には見えないだろうとの驚きがあったため、「え?それとこれ同じ長さに見える?」と言ってしまったのですが、数量感覚が乏しい子、身に付きづらい子などの中には、見た目での長さなどの比較自体が難しい子もいるのかもしれないと、言ってしまった後で気づきました。

実際、お手本に合うように積み木や色板を置いてみましょうというような問題をやってもらうと、子どもによっては最初のうち、どう見てもそれは絶対そこには合わないでしょ…と思うような形を置こうとする子もいますし、一度置いてダメだったのに、そこにまた二度、三度と同じものを置いてしまうような子もいます。
角の大きさだけは合っていても、辺の長さなどが合っておらず、それを置いてしまうとほかがうまく置けそうにないと見ただけでわかるようなものでも、苦手な子の中にはそれに気づくことができない子がいます。(もちろん、そういう子達も、繰り返すことでだんだんできるように、気づけるようになっていくのですが。)

長年教室をしてきて、子どもがする勘違いやどういうことが苦手かなど、それなりに理解はしているとは思いますが、それでも未だに予想外の反応をする子はいますし、その子にとっては全く「当たり前」の感覚ではないことがあるということを、いつもしっかり肝に銘じておかないとなと思います。

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2016年11月 9日 (水)

感動する瞬間

子ども達とレッスンをしていると、しばしば感動したり、驚かされたりすることがあります。
感動にも色々あって、できなかったことができるようになった瞬間を見たときや、苦手に感じて嫌々取り組んでいた子が笑顔を見せたとき、自分にはなかった発想を子どもが見せてくれたときなど、挙げればきりがありません。

今日のレッスンでも、小さいながらも感動の瞬間がありました。
小さい頃から通ってくれていて、しっかりじっくり考えることはできるものの、瞬発力というか、ぱっと閃くようなことはあまり多くない女の子が割合の問題を考えていたときのことでした。

そんなに説明せずとも結構よく考えられていて、それだけでも感心していたのですが、ある数値に100%と書いた後、与えられた別の数値に25%と書いたので、どうしようかな、それが何分の1か尋ねようかな…と思いかけたとき、その子が小さな声で「あ、4分の1。」と言って、すんなり問題を解いてしまったのです。

100分の25は4分の1だと覚えるように言ったこともなければ、割合の問題を考えるときに分数を使うよう強く勧めたこともなく、そもそも、割合の中の百分率のところをしたのは前回が初めてで、それなのに、100%と25%という数字を見た瞬間、4分の1のことだと気づいたことに、本当に感動しました。

もちろん、小さい頃から図を描いたり、具体物を使ったりしながら考えてきたので、図などに表す際の等分する力などは持っている子ではあるのですが、こういう力がちゃんとついているんだなと、嬉しく感じました。
きっと、本人にしたらなんでもないことなんでしょうけどね。

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2016年11月 8日 (火)

子どもって面白い

今日の1年生さんとのレッスンでのこと。
算数のレッスンではあるのですが、漢数字を学習するところがあったので、学校でどこまで習ったか確認したところ、十までは習ったけど、百はまだ習っていないとの答えが。

これまでそれを一緒に学習した子達の中に、同じように百はまだ習っていないものの、白の字は習ったという子がいたので、確認のため言ってみました。

「ここ、白って字だけど、白はもう習った?」

するときっぱりと「習ってない。」との答えが。
習っていないならいいよと言ってから、百の「白」の部分をくるっと囲むようにして、ここは白っていう漢字なのだということをもう一度伝えました。

それからひと呼吸ほどあって、その子の口から思いがけない言葉が出ました。

「あ、百って、ここが一でここが白って字や!」

自分で発見したのだという表情で、ちょっと自慢気な感じさえ漂わせながら言うその子に驚きつつ、「いや、だから今、ここは白って字だって言ったよね?」というと、そんなこと言ったっけというような表情。「そしたら、習ってないって言ったよね?」と尋ねると、「言ってない。」と。

その時、次のレッスンの中学生が早目に来て、問題を解き始めていたので、「今聞いてた?」と尋ねると、笑いながら「うん、習ってないって言ってた。」と。

そう言われてもなんだか納得いかない様子の1年生さん。
そして、更にその子が言ったのは、「学校ではまだ習ってないもん。」という言葉。

そうか、私が習った?と聞いたのは、学校で習ったかどうかだと思ったんだなということはわかりましたが、それはそうだとしても、ここは白っていう字だと言った私の言葉は一体どこに行ってしまったんだろうと、なんとも不思議な気持ちになりました。

でも、その子の表情を見ていたら、きっと私が話しかけていたときには、私はその子を見ていたものの、その子の頭の中では何か違うことを考えていたということなんだろうなと。
マンツーマンの状態でこっちを向いているからと言って聞いているとは限らないということを、改めて気づかされた出来事にもなりました。

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2016年11月 7日 (月)

もしかすると・・・。

9月に一度書かせて頂いたかと思いますが、これまで利用していたニフティのホームページサービスが終了することになり、移行を申し込んだものの、どうやら自分で何か作業をし直さねばならないようで、機械に疎いのと無精なのと電話を掛けるのが苦手なのとで、なかなかことが進まずにいました。

でも、私のように困っている人や、もうホームーページを利用していないので放置している人が少なからずいたのでしょうか、サービス終了の期限が1ヶ月半ほど延長になり、その終了予定日が11月10日。
いよいよ目の前に迫ってきたので、新しいパソコンにソフトをインストールし直し、わからないなりにあれこれ設定して、多分これで行けたはず!というところまで来たというのに、ダメでした…。

データはパソコンには保存できているので、何もかもなくなってしまうことはありませんが、10日以降、ホームページが表示されなくなるかもしれません。
その場合も、恐らくブログに直接アクセスすることはできますので、念のため(復旧できるまで?)、ブログは見て頂けるように、URLを載せておきます。
「日々の思い」で検索して頂いても見つかるかもしれませんが、似たようなタイトルのブログがかなりあるのではと思いますので。

http://willseeds.txt-nifty.com/omoi/

お知らせでした。

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2016年11月 6日 (日)

ご興味があればいかがでしょう?

昨年もご案内したかもしれませんが、ソニー・グローバルエデュケーションというところが毎年開催していて、今回が4回目になる、「世界算数」の大会が11月17日から19日に開催されます。

私は2回目から無料のオープンコースに挑戦していますが、問題は小1さんから大人までレベルが分かれていて、登録には住所や電話番号、氏名などの個人情報は必要ありません。(有料のコースだと料金が発生するので登録の必要があるのかもしれませんが。)

たしか、1台のパソコンでも複数人が受験できるようなことが書かれていたような気がしますので、ご家族でそれぞれのコースに挑戦ということもできるのではないかと思います。

ご興味があれば一度ご覧になってみてください。


世界算数
 

大会について 

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2016年11月 5日 (土)

少しずつだけど

ある発達上の困難を持っているためか、文章理解の力が弱かったり、自分に向かって話しかけられていてもちゃんと聞けないことがしばしばあったりする子が、前回のレッスンでその子なりにがんばって聞こうとしてくれたということがあり、それをとても嬉しく感じたのですが、今週のレッスンでも、レッスンが始まる前に、この前は聞こうとしてくれてレッスンがいつもよりずっとよく進んだということを話し、私もがんばるから、今回も話すことを聞こうとがんばってほしいということを伝えてからレッスンを始めました。

すると、もしかしたらこれまでで一番いい感じにやりとりができたのではないかというぐらい、声をかけたら聞こうと努力してくれて、聞くことができたらすんなり問題を理解できる場面が増え、それさえできれば、元々算数のセンスは平均以上にありそうな印象のある子なので、きちんと正解を出せることが明らかに増えました。

勘違いしても、こちらがいうことを聞いてくれれば、そこから抜け出すのもこれまでよりずっと短い時間で済んで、達成感や満足感の感じられるレッスンになったように感じました。
終わったときにも、その子は感情があまり大きく顔に出ないのですが、それでもなんだか嬉しそうな感じが伝わってきて、私も嬉しくなりました。

きっと、こうして小さな自信をちょっとずつ積み重ねることで、確かな自信につながっていくのではないかなと思います。
その子の方を見て、その子に向ってゆっくり話しかけても全く聞いてもらえないと、私もついついイライラしてしまったりもして、そうなると悪循環にしかならず、どういえば聞きやすいのかを本人に尋ねたりしながら試行錯誤しているのですが、やっと少し、お互いにこうしたらいいのかなというのがわかってきたのかもしれません。
私もまだまだ勉強しなくてはならないことがいっぱいですが、なんとなく、この子に関してはこれからじわじわ変わっていってくれるような予感がするので、楽しみになってきました。

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2016年11月 4日 (金)

ミラクル?

今日のレッスンでのこと。

わり算の学習をしていた子に、レッスン終盤に学年を考えるとなかなか骨のある文章問題を考えてもらっていました。
3000円出して鉛筆15本を買ったら700円お釣りがあった。鉛筆1本の値段はというものだったのですが、その子はまだ学校で九九を学習しているかどうかぐらいの段階で、まだ九九はほとんど暗記もしていない状態ですので、決して簡単な問題ではありません。

それもレッスン終盤でかなり頭も使ってくたびれた頃ですから、尚更難しく感じるかもと思い、式はひとつでなくてもいいし、筆算を書いたりしてもいいということは伝えておきました。
しかし、いつまで経っても何も書こうとしないので、「3000円出して、お釣りが750円あったってことは、鉛筆15本でいくらだったってこと?」と尋ねたのですが、なぜか反応がなく、しばらくしてからぽつりと「150円?」と言ったのです。

え????

「それ、何のこと?鉛筆15本?鉛筆1本?」と尋ねたところ、「1本」と言ったときに頷きました。

え?えええ???

「何にも書かずに、頭で考えてたん?どうやって考えたの?」

子ども達は時々、思いがけない考え方で答えを見つけることもありますし、じ~っと黙っていた間に、もしかしたら1本100円だったら…とかあれこれ考えていたのかもしれません。
ですから、どうやって考えたのかを教えてもらおうと尋ねたところ

「え、時計で考えた。」

え?時計で???????

その後、なんとか説明してもらおうとするも、どうにも説明がわからず、本人もどう説明していいやらわからない様子で、結局それがたまたま言った答えが当たってしまったのか、本当に何らかの方法で考えた結果辿り着いたのかさえはっきりせぬままでした。

かろうじて説明してくれたのが「3は15だから、3000だから、0つけたら150・・・」というようなことだったのですが、3が15というのは恐らく時計の3のところは15分ということに関係しているのだと思うものの、その後の説明は全く意味が分からず、あてずっぽうの可能性もあるとは思いながらも、その子は普段もかなりじっくり考える子で、とりあえず答えを書いて合っていたらいいやというタイプではないこともあり、何かこちらが全く思いもよらないようなことを考えていた可能性もあるなぁと。

何とももやっと感が残ったままで、今日のレッスンは終了となりましたが、まるで神の声でも聞こえたかのような反応にびっくりしてしまいました。

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2016年11月 3日 (木)

きちんとわかるまで

算数で苦戦して、うちに来てくれるようになり、その子なりに本当によくがんばってくれている1年生さんとのレッスンでのことでした。
その子なりにできることも増え、がんばっていることもひしひしと伝わってくるものの、まだまだ何か思いがけないところで行き詰ったり、推測がつかないような間違いをしたり、予想外の反応をしたりということが時々起こります。

今日はレッスンの終盤に頭の体操系の問題を考えてもらうとしたときに、私にとっては想像の域を超えたことが起こりました。

問題は、6つの形のカードが重なっている絵を見て、上から順に番号を書くというもので、例えば、星形の上に円が少しのっていて、その上に正方形がのっていて・・・というように6つの形が一部分ずつ重なっている絵を見て、上から順に1、2、…とかいていくというだけの問題でした。

一番上の形は何も重なっていないので全部見えていますから、さすがにこれまで一番上を間違えた子は記憶になく、問題を一緒に読んでから、確認のつもりで「一番上にのってるのはどの形?指で押さえてくれる?」と言ったところ、上から3番目の形を押さえました。

ん?どういうことだ??と思いながらも、もう一度問題を確認し、全部でいくつの形が重なっているかも確認した上で、今度は「じゃあ、上から順に1、2、3、4、5、6って押さえてくれる?」と言ってみたのですが、やはり一番上のものを最初には押さえてくれません。

何をどう勘違いしているのかわからなくて、色の違う折り紙を5枚、少しずつ重ねた状態にしてから(重ねる順を見せないようにして)、机にのせて「一番上の紙を押さえてくれる?」と言ったところ、なぜかそれも一番上ではないものを押さえました。

??????????

そこで、本を3冊、ずらさずにぴったり重ねた状態で、「3冊本があるけど、これの一番上はどの本?」と尋ねたところ、ぴったり重なっているので、それは迷わず一番上の本を押さえてくれました。
そこで、3冊の本の順を入れ替え、本を少しずつずらした状態で再度見せてから、「これの一番上はどの本?」というと、またちゃんと一番上の本を押さえてくれました。

そこで、「うん、そうそう。じゃあ、この折り紙はどれが一番上?」と先ほどおかしな反応を見せた折り紙にもう一度戻ったところ、今度は一番上の折り紙を押さえてくれました。
そこで、5枚の折り紙を上から順に1、2、3、4、5と押さえてもらったところ、それもきちんとできました。

そこまでして、もう一度問題に戻ったところ、「ああ、そういうこと?!」と言って、すいすい問題を解き始めました。

本人に聞いてもどう勘違いしていたのかうまく説明できないようだったので、私もその子が何をどう勘違いしていたのかわからないままではありますが、きちんと意味が通じて問題を解いてもらうことができ、ひと安心しました。

子ども達とレッスンをしていると、時々このように、全く想定外の反応が返ってくることがあります。たまたま何かおかしいスイッチが入っているだけということもありますが、問題を何か勘違いしていることもありますし、当然わかっているだろうと思っている言葉の意味がわかっていないような場合もあります。

ですから、そういうときに「とにかくこれはこうなの!」というように押し切ることはせず、その子がちゃんとわかるまで、きちんと最後まで向き合うよう、心がけています。

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2016年11月 2日 (水)

目の付けどころ

問題を返してしまったので、やや記憶が不確かですが、今日は高1の子とのレッスンがあり、その子が中間試験の数学の答案を持ってきていました。
数Aの問題の中で、ほかは何かしら解いているものの、その子が手を付けられなかった様子の問題があり、問題を読んでみたところ、確率などの問題が決して得意ではない私も、一瞬、ん?と身構えてしまいました。

その問題はたしか、機械Aとそれ以外の機械があり、機械Aでは全製品の60%を、そのほかの機械で残りの製品を作る。機械Aで作った製品に含まれる不良品の割合は4%で、そのほかの機械で作った製品に含まれる不良品の割合は7%(不良品多すぎますけど。(笑))。この条件で作ったに、1個の製品を取り出したときにそれが不良品である確率を求めるというものでした。

う~ん、めんどくさそう…と思ったのですが、あれ?もしかしてこれ、小学生でも解けるのでは?と思い、思いついた方法で解いてみました。

パーセント表示なので、考えやすいように100個の製品を作ったとして、機械Aでは60個、そのほかの機械で40個を作り、60個中4%は2.4個。40個中7%は2.8個。
100個中5.2個の不良品ができるので、全体の5.2%が不良品。確率は0.052。分数なら52/1000で、約分して「13/250」

その子に解答を見せてもらったところ、確率は「13/250」となっていました。

更に、1こ取り出した製品が不良品だった場合、それが機械Aで作られたものである確率はという問題が続いていたのですが、不良品が5.2個あったら、そのうち2.4個がAの機械で作られたものなので、24/52を約分して「8/13」と解いたところ、それも合っていました。

数Aだと思って身構えてしまいましたが、少なくともこの問題を解くには小中学校の知識だけで十分解くことができました。
その子にもそれを見せると、「うわぁ、ほんとだ。」と驚いていましたが、目の付け所で同じ問題が難しくなったり簡単になったりすることは珍しくありません。
そういう意味でも、小さいうちから自分の頭であれこれ考えるということはとても大事なのではないかなと思います。

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2016年11月 1日 (火)

嬉しい出来事

今日、まだ家にいるときにスマホが鳴り、見るとそこには3年近く前にお別れした子の名前が表示されていました。
たまに、携帯などに番号を登録していて、間違えてかけてしまわれる方がおられるので、何度かコールを聞いてから電話に出たところ、懐かしいお母さまの声。

小6まで通ってくれて、中学に上がるタイミングで自宅から歩いて通える塾にかわられたので、お話しするのは久しぶりです。お子さんはその子が下のお子さんだったので、小学生さんがいてということはなさそうですし、なんだろうなと思ったところ、今も塾に通ってがんばっているのだけど、受験に向けて数学だけもう少しがんばりたいということになり、今の塾で時間を増やすなども考えたそうですが、お子さんとお話をして、私のところはどうかということになったそうです。

それも、お電話で伺ったお話だと、今日学校に行くときにその子が、今日のお母さんの仕事は私のところに電話をすることだというようなことを言って出かけて行ったと。
3年近く経って、それも男の子が、そんな風に思い出してくれて、また行こうかなと思ってもらえたことが何とも嬉しく、幸せな気持ちになりました。

今日の今日だったものの、お互い都合がよかったので晩に早速教室に来て頂いたのですが、お別れしたときにはまだ私より小さかった子がすっかり大きくなって、もう170㎝を超えていたのも驚きましたが、いい感じに育っているなというのも感じられ、久しぶりにお母様とお話もさせて頂き、楽しい時間を頂きました。

受験までどのぐらい私がお役に立てるかわかりませんが、これから数か月、思いがけずまた一緒にレッスンさせてもらえることになって、本当に嬉しく思います。
彼が志望校に合格できるよう、微力ながら私もがんばります。

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