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2016年9月19日 (月)

色々な意見がありますが。

このところ少し、作文、書くことなどについての教材や書籍を見ています。
これまで算数を中心に参考にさせて頂いている先生方の中には、書かせるのは後でいいというご意見の方もおられ、そのご意見は納得できるものでもあったので、特に算数が得意、好きだけど、国語は…というタイプの子には文章を書かせることは後からでいいのではないかと思ってきました。

ただ、私自身は子どもの頃から書くことが好きで、あのね帳や日記なども熱心に書いていましたし、作文の時間も好きで、読書感想文を嫌がる感覚もよくわからないという感じだったので、作文が苦手な子、書くことを嫌がる子との差は何なんだろうとも思ってきました。

で、書くのが苦手な子には、お手本となる文章を書き写させるとよいという意見や、毎日3分や5分といった短い時間でいいので何か書かせることを習慣にするのがいいという意見など、それぞれ一理あるなと思う意見にも出合いました。

とはいえ、なんかそれだけでは苦手な子が書くことが好きになるのは難しいのではないかしらという思いも消えなかったのですが、最近読み始めた本の中でちょっと目から鱗の気分になったことがありました。

それは学校での作文教育というのは、道徳教育の一面があるということ。
そう言われてみれば、学校で作文を書きなさいと言われたときに、褒めてもらえる、評価されるものといえば、大人が読んで「立派な子どもだ」、「優しいいい子だ」など、人間性に対する評価が高いものという傾向はあるような気がします。

自由に書いてもいいと言いながら、例えば友情についてや友達についてというようなテーマで作文を書かせ、その中で「友情なんて信じない」だの「友達なんていらない」だのと書いていたら、きっとその子は先生に呼ばれ、何か悩みがあるのか尋ねられたり、親に連絡をされたりするのではないかと。
もちろん、いじめにあっているとか何らかの理由があってそういう作文を書いているのであれば、子どもの気持ちを聞いてあげるなどの対応は必要だとは思いますが、例えば素直な気持ちでひとりでいるのが好きだと思っていてそう書いたとしても、その作文を高評価してくれる大人は少ないのではないかと思います。

自由に書いてよいといいながらも、結局は大人受けの良い内容を求められていることを子ども達は感じ取っているのかもしれません。
そして、それにぴったり合うような子ども、もしくはそういう作文を書くことを大人が望んでいるとわかって、それに対応できる子どもはまだいいのですが、そうでない子にとって作文の授業は苦痛なものになってしまうのかもしれないなと。

文章力をつけたいということであれば、作文に事実をありのまま書く必要はないはずです。
今読んでいる本では空想作文を書かせることを勧めているのですが、それを読んで、ああ、確かにそうだ、嘘を書いたらいけないなんて「作文教育」というのであれば、関係ないじゃないかと思いました。

論理的に正しい文が書けているのであれば、どれだけ脚色があろうと、全くの作り話であろうと、それはそれで構わないはずです。
しかし、少なくとも今の作文教育は少なからず道徳教育の延長になっているのではないかと。

空想作文であれば、作文が嫌いという男の子でも取り組みやすい気がしますし、それで書いた文をもっと面白くしてよと膨らませていくことは、楽しく取り組めるのではないかと。

その本の著者の先生は文を書くことで読解の力も、他教科に対してもいい影響があるというご意見で(それでもやはり作文については女子に比べて男子は成長を待つ必要があるとも書いておられますが)、少なくとも「空想」のお話を好きなように書くということなら、書くことに対するハードルも随分下がりそうな気がしますし、教室でも取り組めないか、ちょっと考えてみようかなと思っています。

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