« 2016年8月 | トップページ | 2016年10月 »

2016年9月30日 (金)

計算力について

ブログをご覧くださった方からメールを頂き、その中で計算力についてのご質問を頂きました。
このことについては、これまでにも保護者の方から色々なお話を伺うことがあったり、私としてもあれこれ考えることもあり、ブログに書かせて頂こうと思います。

もう今は高校生になった、年長さんぐらいから4年生になるまで通ってくれていた、算数が大好きな子がいました。
その子には何度も何度も驚かされたというぐらい算数のセンスが抜群で、超難関中学を目指すということで受験塾へ転塾して行かれました。
その後も受験が終わるまでおうちの方が時々近況をお知らせくださっていたのですが、受験塾で何度も、考える力はあるけど計算が遅いから計算練習をさせてくださいと言われると聞かせてくださいました。

それでも、その方は単純計算のスピードを上げるための訓練にはあまり意味がないと割り切られ、計算練習は特にさせなかったように伺いました。

勉強法でも何でも、これが絶対正しいというものはないと思っていますし、その方法が合う子もいれば合わない子もいるでしょうし、また、例えばどういう学校を目指すのか、もっと長い目で見てどういう進路に進みたいのかなどによっても努力すべきことは変わってくると思いますので、あくまでも私の個人的意見ということでご理解頂けたらと思いますが、私は少なくとも低学年のうちに、本人が喜んでやりたがるのでなければ、計算スピードを上げるための訓練をする必要はないと思っています。
また、「喜んでやる」という中には、そういう教室や塾などに通っていて、級が上がることが嬉しいとか、テストに合格したら何か賞がもらえるとか、そういう二次的なもののために喜んでやるというのは、ちょっと気をつける必要があるだろうとも思っています。

そして、なぜ小さいうちに訓練する必要がないと思っているかといえば、いつも言っているように小さい子たちが考えるには想像以上の時間とパワーが必要であり、そのための時間の方が遥かに大事で有意義なものだからです。

教室に来てくれている子達、来てくれていた子達の中には、訓練せずともかなりのスピードで計算できる子はいました。そういう子達は訓練したわけではなく、数の感覚が身についている、計算の意味を理解しているなど、別の能力であっさり答えを出しているような印象でした。
そういう子であれば、必要であればスピードを求めてもいいかもしれませんが、ほとんどの場合、楽しいからやる、好きだからやるというタイプの子達ですから、ただの訓練になると成果が上がらない可能性もあるように思います。であれば、受験などでスピードが必要だという状況になってから短期間で訓練しても、そのタイプの子はできるのではないかとも思います。(もちろん、例外はあるとも思いますが。)

他方、算数のセンスは平均的、もしくはやや苦手というタイプの子であれば、尚のこと考えることに時間がかかりますから、そこで計算の訓練まで並行してやらせた場合、考えることを諦める、考えなくなるという可能性が少なからずあるように思います。
苦手意識がある子であれば、より一層、たっぷり時間をかけて考え、本当に理解するということを積み重ねていくことがその子の力になっていくのだと思います。

学習障害など、何らかの困難がある子であれば、その子にあった方法をその都度それぞれ考えていく必要があると思いますので、ここでは一般的なお話ということにさせてください。

また、中学受験をする場合でも、一部の学校では計算重視というところもあるようですが、時代の流れからしても、また、難易度が高い学校ほど、単純計算のスピードより、考える力、気づく力、ひらめく力など、一朝一夕には
身につかない力が求められるのではないかと思います。
中学入試は最終目標でないのは間違いありませんし、今の時代、難関大学を出たからといって、その後の人生が安泰かと言えば、そうともいえないのではないかと。

例えば、大学などでは計算は計算機を持ち込んでもいいというような試験もあると思いますし、単純な計算は計算機やコンピュータにやってもらった方が速くて正確である場合がほとんどでしょう。
機械にできることを訓練しても、今の時代はあまり重宝されることはないでしょう。

もちろん、コンピュータなどにはバグなどがあり、時にはおかしな答えをはじき出すことがあるかもしれませんが、その時に大事になるのは、例えば、その答えはおかしいのではないかと気づく力、これだとこのぐらいの答えになるのではないかと概算する力などではないでしょうか。

それもまた、小さいうちに計算スピードを速めるための訓練をすることがあまり重要に思えない理由の一つです。

そして、それとは別に、例えばですが、小学生の間は小数同士の掛け算や割り算をさせられることがあります。
受験塾の問題集などではそういう問題の見るだけでもうんざりしそうな計算練習がぎっしり出ているようなものもあるようですが、中学以降では小数のままの計算はあまり使われることはなくなりますし、であれば、小数計算が速くなるように訓練する必要はほぼ中学受験のためだけという感じになるのではないかと思います。

これはあくまでもひとつの例ですが、例えば「0.625×0.75」という式があったとします。
計算の訓練をしてきたような子は、見たらすぐに筆算を書くなどして計算を始めるのかもしれません。
ですが、センスのある子、気づく力のある子は「0.625=5/8」「0.75=3/4」と気づけるかもしれません。
それに気づけば、答えは「15/32」です。小数なら「0.46875」になるようですが、小数で答えなさいとされていなければ「15/32」で終わりですし、小数に直す必要があるのであれば、「15÷32」の割り算をすれば、小数点の位置を間違える可能性は低いですし、扱う数字が整数でどちらも2桁ですから、見た目も簡単そうです。

また、例えば「368×18」のような式があったとして、計算の意味をきちんと理解していれば、この答えは「736×9」と同じですから、「7360-736」だというような計算もできるかもしれません。(この例だとそのまま368の20倍から368の2倍を引くというのも簡単かもしれませんね。)
こういう工夫や気づく力は、スピードを求める訓練の中ではなかなか育まれるものではないように思います。

何より小さいうちに計算を速くするための訓練する必要がないと思う一番の理由は、教室の子達を見ていると、しっかり数量感を身に着け、考えられるようになった子達のほとんどは放っておいても大抵計算も速くなるからというものです。

先ほども書きましたが、もし受験などでどうしてももっとスピードが必要だということになれば、高学年になってから訓練すればよいのではないかと、私は今のところそう考えています。(何度もしつこくてすみませんが、あくまでも一般的なお話ですので、お子さんの状況によっては、訓練して計算できるようになることで少しでも自信を持たせる方が望ましいなどの場合もあるとは思います。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月29日 (木)

信頼されること

子ども達とレッスンをしていると感じることがあります。
残念ながら私は器用ではありませんし、子どもの感性はとても豊かで鋭いとも思っていますので、口先だけで褒めたりおだてたりということができません。
ですから、子どもが私のことを好きになってくれるかどうかは、真剣に向き合っている私を受け入れてくれるかどうかに尽きるのだと思います。(つまり、私のことがキライな子もいるだろうということも覚悟しています。)

こんな風に真剣に向き合っていると、時々、そこまでなんでも言うこと聞いていいの?と思うぐらい、素直に話を聞いてくれる子がいます。
誰にでも従順とか、私が怖いからという子とは違って、この子は私が言うことは本当だと思ってくれてるんだなと感じる子に時々出会うのです。

最近も、ああ、この子は私が言うことは本当だと思ってくれてるんだろうなと感じる子に出会いました。
まだ小さなその子は、算数に苦手意識を持ってここに来てくれました。そして、ごく短期間で変化が見え始め、レッスンでは笑顔が見られることが増えました。
すると、直接算数に関係することではなくても、こうしたらもっと賢くなるよとか、直せるなら直した方がいいと思うよとかいうようなことを、もちろん無理強いもしませんし、怒って言うこともありませんが、普通に話すだけで、すぐにそれを守ろうとしてくれるのです。

最近は鉛筆を持つときに親指が上に反り上がるような持ち方をする子が少なからずいます。
ただ、長い目で見れば早いうちに直す方がよいのはほぼ確かです。(持ち方がおかしいと長時間書くことに耐えられなかったりということがあるようですから。)
直せるなら直した方がいいよと話をしてから、慣れないから書きにくそうにしつつも、すぐに変えようとしてくれて、忘れていても親指を指さすなどするだけですぐに直そうとしてくれます。
それはきっと、算数がよくわからなくて不安だったり、苦痛だったりしたところから、私のいう通りにしたら抜け出せた、よい方向に進んでいると感じられたということがあるのではないかと思います。

それは私にとっても本当に幸せなことですが、その子の気持ちを裏切らないよう、これからも正直に、まっすぐに向き合っていかなくてはと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月28日 (水)

忘れないよう気をつけよう

今日はある1年生さんと時刻や時間の学習をしました。
学校でも何時、何時半というのだけは習ったとのことでしたが、今日は「~時過ぎ」「~時前」の学習が出てきます。

何か新しく学習する際、教室でのレッスンはきっちり教科書順というわけではないことや、レッスンを始めた時期、ご家庭などで何かの折にお子さんに教えられたなどで、こちらで一緒にレッスンするまでに既に知っている場合もあるため、まず子どもに知っているかどうか尋ねるようにしているのですが、今日の子は「~時前」や「~時過ぎ」について知らないとのことだったので、時計の教具を見せながら、これは2時を通り過ぎてるから2時過ぎ、これは4時になる前だから4時前…などのように、何度も繰り返し見せました。

しかし、今日はレッスンに来る前から学校で疲れたとのことで、ちゃんと見てくれているにしてはどうも反応が鈍い様子です。
普通ならこのぐらい見せたらほとんどの子がわかってくれるんだけどな、普段のこの子ならもうわかってもよさそうなのにななどと思いながらも、表情が晴れないので、更にまだ見せ続けました。
しばらくすると、時計を見せて、それは「~時前」なのか「~時過ぎ」なのか尋ねると、かなり正確に答えられるようになりました。
そして程なく、きちんと答えられるようになったので、プリントに進んだところ、あっという間に次々正しい答えを書いていきます。

子どもがなかなかわかってくれないと、つい言葉での説明を増やしてしまいがちですが、そういえば、説明よりも子どもが気づくまで、納得するまで、ただ見せることのほうが大事だったなと思い出しました。
忘れないよう気をつけようと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月27日 (火)

ゲーム

今日、いつもなら元気に登場してくれる子が、なんとなくいつもと違う感じで教室に入ってきました。
レッスンを始めるときも、普段なら元気に何かおしゃべりしながら宿題を出してくれるのですが、宿題を出すことなく静かにパズルのプリントをやり始め、途中で思い出して宿題のファイルを出しました。

鼻をぐずぐずいわせていたので、風邪気味なのか、何かのアレルギーなのかと気になりつつ、ティッシュを渡し、いつもより静かな感じでレッスンが進んでいました。
しかし、どうも今ひとつ集中できていないような気がして(おしゃべりをするでもなく、ふざけているでもないのですが、ぐっと集中して考えられていないような感じで)、更には、普段のその子ならしないようなミスも多発し、どうしたのかなぁと思いつつレッスンが進んでいきました。

結局はそれなりにはやってくれたのですが、普段のその子なら少なくともあと2、3割多く課題に取り組めたのではという印象があり、お迎えに来られたおうちの方とお話をしたところ、教室に来る前におうちの方にかなり怒られたのだと。
その子がそんなに怒られるのは珍しいなと思って更にお尋ねしたところ、ゲームを止めなかったことが原因だったとか。そして、その子の言い分としては、そんなに長い時間やっていないし、いいところでやめさせられた、あと少しで終わるところだったと。

怒られた上に、ちょうど佳境でやめさせられて、色々心穏やかではなかったから、今日のレッスンでは何かいつもと違ったのだなと納得はしましたが、考えることが楽しそうなこの子でも、ゲームが原因でこんな風になるんだなとも思いました。

その子に、ゲームを途中でやめたくない気持ちはよくわかるという話をし、大人でも(私自身も…)ついついやめられずにやってしまって、おうちのことが後回しになったりということがあるということも話し、小さいうちはもっといろいろなことに頭を使った方がもっともっと賢くなるということなども話しました。

もちろん、そんな話をしたぐらいで、すぐに切り替えられるものでもないとは思いますが、おうちの方が話すよりは少しは耳を貸してくれるかもしれないと思って話しました。

ゲームについては恐らく多くのご家庭で悩んだり迷ったり、親子喧嘩をしたりしながらというようなことがおありではないかと思います。
そんなとき、もし第三者がお子さんにお話しすることで多少でも何か感じてもらえるかもということがあれば、私でよければいつでもお話させて頂きますので、遠慮なくお知らせください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月26日 (月)

気を利かさない

今日は久しぶりに「私ゴミ箱じゃないよ~」と子どもに言いました。
個人的には子ども達にかしこまった口調でしゃべってほしいなどとは思っていませんし、常に国語的に正しい言葉遣いをしなさいなんてことも言いません。
レッスン中は私自身も、敢えて子どもと距離を近づけるために砕けた言葉を使うことも少なからずありますが、時々わざと「いじわるババア」のようなことを言うことがあります。

小さい子達で時々あるのが、ゴミを捨てたくて、ゴミ箱を取ってもらいたいようなときに「先生、ゴミ箱」まで言って止めてしまうということ。ゴミ箱に限らず、消しゴムや鉛筆、定規などの場合もありますが、取ってほしいとか貸してほしいとかいうようなときに、述語を言わずに終わらせるというようなことは少なからずあります。

個人的には私に向かって「取ってください」とまで言わせたいとは思っていませんが、「取って」という言葉は言ってもらいたい。そういうことを意識させることで主語や述語を意識することにつながっていくようにも思いますので、子どもが言いたいことはわかっていても、敢えてたまに「私はゴミ箱じゃないよ」だの「鉛筆がどうしたの?」だのと答えます。

今回も、その子は私にそう言われたのが初めてだったこともあり、笑いながら、「そうじゃない。(私がゴミ箱だという意味ではない。)ゴミ。」と小さなゴミを見せてきます。でも、そこではまだゴミ箱を差し出してはいけないのだと思います。
できることならそこで、「うん、ゴミやねぇ。」ぐらいにとぼけて、なんで通じないのよ~!ぐらいの気持ちになってもらうのがいいのだろうと。

子どもの言うことは、多くの場合、述語がなかったとしても、国語的に何か間違っていたとしても、大抵大人は察することができます。
わかっているのに答えてあげないのは意地悪をしているような気持ちにもなりますし、ご家庭では忙しいときなど、さっさと必要なものを取って渡した方が時間短縮もできるのかもしれません。
でも、子どもに対しては必要以上に察したり、気を利かせたりせず、自分の言いたいことをきちんと言わせる機会を作ってほしいと思います。
そういう積み重ねも国語の力を伸ばすためには大事なのではないかと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月25日 (日)

オフ

今日は更新お休みします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月24日 (土)

いい表情

子ども達の変化は驚くほど速く現れることもあります。
夏に来てくれたときは、どこか自信なげに、答えが合っているかどうかいちいち確かめてきたり、ちょっとのことで不快な表情や辛そうな表情を浮かべたりしていた子がいます。

その子はみるみるうちに変化し始めたのですが、20までの数の学習になって再び、少し自信なげな様子が見えかけました。
しかし、今週のレッスンでは、おうちでがんばって練習をしたのかと思ったほど、すごい進歩を見せてくれて、考えている間もなんだか嬉しそうにしています。

自信がないとこっそり机の下で指を折って数えたりすることもあったのですが、指を折って数えるのは10ぐらいまでならいいかもしれませんが、数が多くなるほど間違えることも多くなりますし、早く答えを出してほしいわけでもありませんので、なるべく数えるのはやめてほしいと、数えようとする子には伝えます。
その子にも何度か話をしたことがあるのですが、今回のレッスンでは、ちゃんと考えていることが見て取れるにも関わらず「数えてないよ~」とちょっと自慢気に報告してくれました。

できるようになるというのはこんなにも嬉しいことなんだなと、その子の表情を見ていてしみじみ感じます。
困っている子、自信をなくしている子を、ひとりでも多くこんな表情に変えるお手伝いができたらいいなと、そういう表情を見るたび思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月23日 (金)

子どもってすごい

教室を始めてから干支一回り以上になりますが、それでもまだ子ども達は目から鱗のような発想をして驚かせてくれます。
今日のレッスンでは、1年生さんと時刻や時間の学習をしていたのですが、学習も進んで、今日は24時制についての学習が出てきました。
とはいっても、内容自体は単に午前や午後を使って表されているものを、15時や23時のような表現に直すものと、その逆に24時制で表されているものを午前、午後を使って表し直すというものなので、大人にとっては簡単なものです。

ただ、それでも子ども達は初めて学ぶことでもあり、更には大抵が1年生か2年生の早い段階で学習するので、足したり引いたりにもまだ多少時間がかかったりもしますし、そもそも時間を意識するようになってからまだ日も浅いなど、色々難しく感じるところもあるようです。

で、その問題の中に24時制で表された「12時5分」を午前・午後を使って表し直すものがあるのですが、その問題はこれまでノーヒントで解けた子には出会ったことがありません。
12時というところを見て、ちょうど真ん中だから午前か午後か迷うというのが最初の段階。それに関しては自分で気づく子もいるにはいますが、ノーヒントで気づかなくても「12時5分」なのでちょうど真ん中よりは後ということに気づけば「午後」なのはすんなり理解できる子がほとんどです。

しかし、多くの子は「午後12時5分」と書いてしまうのです。
午前は0時から12時まで、午後も0時から12時までですから、「午後0時5分」と答えねばなりませんが、私たち大人でも「0時」という表現を使うことはあまりありませんし、特に子どもと話すようなときに12時を0時ということはまずないように思います。
つまり、普段の生活の中では「0時」という表現は小さい子どもにはほとんど触れる機会がないものなのだと思います。

ですので、これまで大半の子は「午後12時5分」と書いて、それではマルではないと言われ、そこでなんとか気づくか、もう少し手助けが必要か、そんな感じで正解に辿り着いていくのが一般的でした。
そして、今日の子はまだ1年生ですから、きっと助けが必要だろうなと思っていたのです。

そして、教具を裏返して置いてから、いつものように「真ん中ここよね」と言いかけた途端

「あ、わかったで!午後や!だってな、12時5分やからもう12時過ぎてるもん!」

自信満々でそう説明してくれました。すごいなぁと思ったので、きちんと褒めて「もうひとつ気づかないといけないことがあるんやけど、これ何にも言わずにできたらほんまにすごい、びっくりするよ。」と言うと、次にその子が言ったのが

「5分だけ?」

というものでした。どういう意味かなと思い、「ん?午後5分ってこと?」と尋ね返すと「うん、そう。」と。
すごくないですか?この「午後5分」という発想!!
そこで「え?それは時間のところがないってこと?」と聞き返すと「うん」と答えたので、ああ、子どもってすごいなぁ、面白いなぁとなんだか嬉しくなっていると

「あ、0時!午後0時5分?」

と、正解に気づきました。(もちろん褒めました。)
それが解けたこともすごいのですが、時間のところを空欄にしておくという発想が、大人には絶対出てこないだろうなと、感動してしまいました。

何年経ってもまだまだ子ども達には色々なことを気づかせてもらっています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月22日 (木)

かなり古い記事ですが。

ブログを書くのもさぼりがちになって数年になりますが、これでも書き始めてから11年目になったようで、最近は全くチェックしていなかったアクセスをちょっと見てみましたところ、アクセス数はごくごく僅かではあるものの、「文章題 苦手」という検索ワードで辿り着いてくださった方がおられたようです。

教室を始めて、私自身は計算はできるのに文章題だけが壊滅的、文章題だけは苦手というような子に出会うことがなくなり、また、通い始めの頃は考えずに答えを出そうと焦る子もいるにはいますが、そういう子達もだんだん変わっていくのが当たり前のようになっていて、すっかり忘れていましたが、これまでにも何度かその検索ワードを目にしたことがあり、今も文章題が苦手というお子さんのことで、何か手がないかとお思いの親御さんがいらっしゃるんだなと、少し新鮮な気持ちになりました。

で、その記事を久しぶりに読んでみましょうかねと思いましたところ、まだ時間をかけて、情熱をもって(?)書いていた頃でもあり、文が長い!!(汗)
おまけに続くと書いておきながら、すぐには続いておらず、どこに続きがあるねん?と自分でも思う始末。(苦笑)

教室に通ってくれている子にはあまり必要のない記事ではありますが、10年余り前のまだ若かった(笑)私が書いた文章題に関する記事のリンクを一覧でこちらにまとめさせて頂きます。
今読むとなんか恥ずかしくなるような文章ではありますが、内容的には今でも言えることですので、もしお時間があればご覧ください。

算数の文章題ができないのは「国語力」のせいじゃない。

算数の文章題ができないのは「国語力」のせいじゃない。(つづき)

算数の文章題ができないのは「国語力」のせいじゃない。(更につづき)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月21日 (水)

小学生のうちに押さえておきたいこと

今日、高校生の子とレッスンをしていたとき、二重根号で表された式を普通の根号の式に直す、1学期のおさらいの問題が出てきました。
課題テストの直しをしていた中のひとつだったのですが、根号の中にある根号を「2√」の形に変形するには、分数の形に直さねばならないものがありました。
過去にやった記憶がおぼろげに残っていたようで、黙って見ていると、2分の…と変形をし始めたのですが、よく見ると、根号の中にあるはずの分母の2がいつの間にか根号から外に出ていました。

それは気をつけないといけないことでしょ?と声をかけても、初めはミスに気づかない様子でした。
その後解決はしたものの、この子に限らず、またこの問題に限らず、中高生がよくやってしまうミスに、両辺がないのに勝手に10倍など、計算しやすく直して解いてしまうだとか、もっと初歩的なものでは、何かの式を解いて、その答えに更に何かの計算を続けて書き、等号の左右が等しくなくなってしまうだとか、きちんと意味を考えていればしないはずのミスがあります。

方程式などでは、式の中に小数や分数が出てきた場合、解きやすくするために両辺におなじ数を掛けて、整数の式に直すというようなことをしますが、方程式ではない、ただの文字式を整理するだけの問題などで、勝手に小数を整数に直してしまうというようなことをする子は決して珍しくありません。

また、両辺に何かを掛けたり割ったりする際に、どこかには掛け忘れ、割り忘れをしたり、反対に掛けすぎたりなど、式の意味を考えていればするはずのないようなミスをする子も少なからずいます。

これらは、文字式などを扱うようになったときに、意味をよく考えぬままやり方を覚えるということをしてきたことが原因であることが多いように思いますが、遡ってみると、小学校の算数でも押さえておくべきことがあるのではないかと思うのです。

例えば、小学生の子がしばしばやってしまう例で、掛け算をして、その答えから何かを引くなど、式が2つ以上になるような問題で

8×3=24 24-11=13

このように書くべきところを

8×3=24-11=13

このようにつなげて書いてしまうことがあります。
もちろんこれは間違いなのですが、この間違いを指摘するときにきちんと「=」というものについて説明をするべきなのだと思います。

「=」はあくまでもそれを挟んだ右と左が等しいということを表しているわけですが、子ども達が最初に習うのは「1+2=3」のようなもので、そのときに等号の意味を説明することは恐らくありませんから、子ども達は計算の答えを書くための印というような意識でいるかもしれません。
であれば、8×3=24で、その24から11をひいたら13ですから、子どもとしては何がおかしいのかぴんと来ないという子もいるでしょう。
そんな子に「それは間違ってるから、2つに分けて書きなさい」というような指摘だけをしても、何がおかしいのかわからぬまま、なんとなくやり過ごしてしまう子もいるのではないでしょうか。

「=」の意味をきちんと理解していれば、8×3と24-11は同じではありませんから、そう書いてはいけないという意味がわかるはずです。

これはひとつの例ですが、このように、小学生の間にきちんと押さえておきたいポイントがいくつかあるように思います。
まあ、結局は小さい頃からしっかり考えて、意味を理解しながら進んでいくことが大事ということなのですが、算数と数学は違う教科とはいえ、数学の土台が算数なのは間違いありませんし、忙しくなってからではなかなかじっくり考える時間が取れなくもなっていきますので、算数では数をこなさせるのではなく、時間をかけてじっくり問題を味わうような、そんな学びをしてもらえたらいいなと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月20日 (火)

色々考えさせる

今日のあるレッスンで1年生さんと3つの数のたす・ひくをしました。
既に100までの繰り上がり・繰り下がりの計算ともかなりしっかりできるようになり、どんな問題も落ち着いてじっくり考えてくれる子なので、3つの数のたす・ひくももう少しつっこんで考えてみてもらうことにしました。

以前3つの数の計算をしたとき、「80-15-15=」のように、二度ひき算をするようなものは、こちらが何も言わなくても、その子自身がまとめて取るということに気づいていたので、それとは違うものについて、この子が気づくかどうか尋ねてみました。

「27+39-28」

この問題であれば、何も言わなければ27と39を足してから28を引くことになるので、足し算で繰り上がりがあり、引き算で繰り下がりがあると、面倒な計算をすることになります。
しかし、27と39があって、そこから28を取るのであれば、39から28を取って27と合わせるようにすれば、引き算は繰り下がりがなく、足し算も繰り上がりがなくて済みます。
更に、27から28を取ろうと思ったら1取れないと気づけば、39から1を取って「38」となります。
気づくことができれば、3つめの考え方が一番あっさり答えが出せるでしょう。

普通に前から順に計算をしてもいいのだという前置きをした上で、27と39を教具で見せて、ここから28を取るにはどうしたら簡単に出来そうか尋ねてみたところ、その子は「先に39から28を引いて、それを27にたす」と答えることができました。

次に「22-14+37」についても、教具を見せながら工夫できないか尋ねたところ、先に22と37を合わせて、それから14を引くとのこと。確かにこれは22から14を引くには繰り下がりになりますから、先に足し算をした方が簡単です。

更に「32-16+39」はどうか尋ねてみました。
これは形としては先ほどと同じですから、同じように言うかなと思い、「さっきと同じような式だけど、さっきと違う仕方できる?」と声掛けをして待っていると、「これは39から16引いて、それから32と23をたす」と、ちゃんと気づくことができました。

もちろん、全部前から順に計算をしても何も問題はありませんし、問題ごとに時間をかけて考えるぐらいなら、さっさと前からやればいいというご意見もあるかもしれません。
ただ、式全体を見渡し、ここの計算を先にした方が簡単そうだなというような感覚を養うことは、長い目で見ればとても大事なことだとも思うのです。

算数が苦手な子、あまり興味がない子などは無理をしなくてもいいと思いますが、算数が好きな子、量の感覚があるような子には、ただの計算式でもあれこれ考えてもらうことが、力をより高めるのに役立つのではないかと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月19日 (月)

色々な意見がありますが。

このところ少し、作文、書くことなどについての教材や書籍を見ています。
これまで算数を中心に参考にさせて頂いている先生方の中には、書かせるのは後でいいというご意見の方もおられ、そのご意見は納得できるものでもあったので、特に算数が得意、好きだけど、国語は…というタイプの子には文章を書かせることは後からでいいのではないかと思ってきました。

ただ、私自身は子どもの頃から書くことが好きで、あのね帳や日記なども熱心に書いていましたし、作文の時間も好きで、読書感想文を嫌がる感覚もよくわからないという感じだったので、作文が苦手な子、書くことを嫌がる子との差は何なんだろうとも思ってきました。

で、書くのが苦手な子には、お手本となる文章を書き写させるとよいという意見や、毎日3分や5分といった短い時間でいいので何か書かせることを習慣にするのがいいという意見など、それぞれ一理あるなと思う意見にも出合いました。

とはいえ、なんかそれだけでは苦手な子が書くことが好きになるのは難しいのではないかしらという思いも消えなかったのですが、最近読み始めた本の中でちょっと目から鱗の気分になったことがありました。

それは学校での作文教育というのは、道徳教育の一面があるということ。
そう言われてみれば、学校で作文を書きなさいと言われたときに、褒めてもらえる、評価されるものといえば、大人が読んで「立派な子どもだ」、「優しいいい子だ」など、人間性に対する評価が高いものという傾向はあるような気がします。

自由に書いてもいいと言いながら、例えば友情についてや友達についてというようなテーマで作文を書かせ、その中で「友情なんて信じない」だの「友達なんていらない」だのと書いていたら、きっとその子は先生に呼ばれ、何か悩みがあるのか尋ねられたり、親に連絡をされたりするのではないかと。
もちろん、いじめにあっているとか何らかの理由があってそういう作文を書いているのであれば、子どもの気持ちを聞いてあげるなどの対応は必要だとは思いますが、例えば素直な気持ちでひとりでいるのが好きだと思っていてそう書いたとしても、その作文を高評価してくれる大人は少ないのではないかと思います。

自由に書いてよいといいながらも、結局は大人受けの良い内容を求められていることを子ども達は感じ取っているのかもしれません。
そして、それにぴったり合うような子ども、もしくはそういう作文を書くことを大人が望んでいるとわかって、それに対応できる子どもはまだいいのですが、そうでない子にとって作文の授業は苦痛なものになってしまうのかもしれないなと。

文章力をつけたいということであれば、作文に事実をありのまま書く必要はないはずです。
今読んでいる本では空想作文を書かせることを勧めているのですが、それを読んで、ああ、確かにそうだ、嘘を書いたらいけないなんて「作文教育」というのであれば、関係ないじゃないかと思いました。

論理的に正しい文が書けているのであれば、どれだけ脚色があろうと、全くの作り話であろうと、それはそれで構わないはずです。
しかし、少なくとも今の作文教育は少なからず道徳教育の延長になっているのではないかと。

空想作文であれば、作文が嫌いという男の子でも取り組みやすい気がしますし、それで書いた文をもっと面白くしてよと膨らませていくことは、楽しく取り組めるのではないかと。

その本の著者の先生は文を書くことで読解の力も、他教科に対してもいい影響があるというご意見で(それでもやはり作文については女子に比べて男子は成長を待つ必要があるとも書いておられますが)、少なくとも「空想」のお話を好きなように書くということなら、書くことに対するハードルも随分下がりそうな気がしますし、教室でも取り組めないか、ちょっと考えてみようかなと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月18日 (日)

オフでした

世の中は3連休の方もおられるのですね。
あいにくのお天気ですが、よい休日を。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月17日 (土)

最初にきちんと理解させる

今日のレッスンで、ある子と計算のきまりや工夫を学習しました。
まだ3年生なので、学校では結合法則とか分配法則とかいう言葉を習うことはありませんが、計算の工夫として、結合法則が出てきました。

プリントに例として

34×18+66×18=(34+66)×18

このような式が出てきたのですが、これは学年が上がって分配法則・結合法則を習うときにも普通に出てくる式ではないかと思います。
計算の意味を理解している子であれば、この式を見ただけで、「ああ、そうか」と思うこともあるかもしれませんが、多くの場合は書かれているものを見て、真似て問題を解くことになるように思います。

これを3年生や4年生で初めて一緒にするときに説明を読んでまずやってみてもらうと、プリントの式は見たものの、例えば下のような問題があったとして

17×8+33×8=(17+33)×□

この□に「64」や「16」と書いてしまう子が少なからずいます。
ここで、「そうじゃないでしょ、さっきちゃんと読んだ?」などと見直しをさせることもできると思いますし、「ちゃんと覚えなさい」とただ覚えさせることもできるかもしれません。
でも、式の意味に気付けていない子達にそれをさせても、あまり意味がないように思いますので、教室ではそうは言いません。

たとえ面倒でも、こういう場合は紙を渡して、上の例であれば17と33をそれぞれ8回ずつ書いてもらいます。
それから、「これ(式の左辺)はこのことよね?」と今書いてもらった17と33各8回分を指します。
それまでも掛け算の意味はきちんと理解していますから、それに関してはほぼみんなすんなり頷きます。
その後、17と33各1個を線でつなぐかぐるっとマルで囲むかして、「17+33」はそのことだということも確認します。

そこまですれば、ほぼみんな間違いに気づいて正しい答えを書くことができますが、まだピンとこない子には17と33のペアを作っていってもらい、ペアがいくつできるか確認すれば気づいてくれます。

回りくどい作業のように思われるかもしれませんが、目で見て、実際に意味を理解してもらうことで、その後そういう問題が出てきたときに、自信をもって答えられるようになることが多いです。

何もかも最初にきちんと理解させるのは難しい場合もありますが、可能な限り、ただ機械的に覚えさせることはせず、最初に意味を理解させるようにすると、それは子ども達にとって記憶にも残りやすく、本当の力にもなるのではないかと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月16日 (金)

主語・述語

教室では小さい子とは主に算数をさせてもらうので、1年生や2年生と国語をさせてもらう機会は限られているのですが、それでも、どうやら子ども達の多くはその時期に主語・述語などについてきちんと学ぶ機会がないようだということはここ何年も感じています。

今日のレッスンでも、年長さんの頃から某プリント反復系の教室に行き始め、うちに来てくれるようになっても国語だけは続けていると伺っていた2年生さんが、主語・述語のことがよくわかっていませんでした。
夏から一緒に国語をさせてもらうようになったのですが、そして、夏にやった問題の中にも出てきていたのですが、なんとなく解いていただけだったようで、主語なのに「~に」であるとか「~を」であるとか、なんだかめちゃくちゃなものを選んだり、述語が主語より前のものだったりと、とにかく「全然わかっていないようだ」ということがわかる状態でした。

今の学校で1年生の国語の授業がどんな風に進められているのかわかりませんが、プリント反復の教室に1年以上通っていても主語・述語を把握しておらず、それでもプリントは進んでいっているんだなと思うと、それはまたちょっとした驚きでもありました。

文を書く際、最も大事なのが主語・述語です。
仮に1年生や2年生の段階で「主語」や「述語」という言葉を出すのはちょっと…というようなことがあるのだとしても、文を書くときに最も大事なものであるということを指導し、文例にたくさん触れさせることで、低学年であってもある程度は主語・述語を理解することはできるだろうと思います。

もちろん、書かせることはあとで、まずは読むことを重視するということであれば、それもありだと思いますが、それならその時期は子ども達に、基本的に日記や作文などを書かせないということになっているのかというのも気になります。

もちろん、主語がない文というものは少なからずありますし、ものによっては述語が省略されているものもありますが、初期の段階で述語が省略された文を子どもに書かせる必要はないでしょうし、国語として指導するのであれば、主語がない文章には主語を付け加えさせるという指導も必要かもしれません。

主語・述語がつかめないのに文章の大事なところをつかむのは難しいことですし、正しく意味の通る文を作ることも難しいかもしれません。

小さい子には説明が難しいということで、主語の説明には「~は」や「~が」になってるものが主語だというような説明が書かれていることがありますが、「~も」が主語の場合もありますし、「~こそ」が主語の場合もあります。
また、「~は」となっていてもそれが主語ではない場合もあります。(例えば、「今日は僕が給食当番です。」の「今日は」は主語ではありません。)

ですから、低学年のうちにはたくさんの文を見せて、それぞれの文の主語・述語を見つけるという練習を重ねていくのが有効なのではないかなと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月15日 (木)

かなりの変化

どうも考える力が弱い気がするということや、その他にも気にかかることがおありとのことで、5年生の終わり頃から来てくれた、今は6年生になる子がいます。
当初、確かにこれはちょっと心配されるかもしれないなと思うほど、本人としては一所懸命考えているようなのに全く見当違いのことを延々考えていたり、あることに気づいて1問解けたら、普通はその後スムーズに解けるようなパターンの問題でも、全くスタートに戻った感じでお手上げになったり、その他にも、がんばっているのに可哀想だなと感じてしまうような「ピンとくる」感じをなかなか体感できない印象の子でした。

数ヶ月の間、考えているようだから待っていたら全く違うことを考えていたり、これができたのだからこれもできるはずと思うものが全くできなかったり、これまでの自分の経験からしてもちょっと予想外の反応をすることが少なくなく、なかなか思うように進まず、がんばっているのに申し訳ない気持ちにもなっていました。

ただ、一般には高学年になってから来てくれた子で、やり方を教わってその通りにやるということが身についてしまっているような場合、じっくり考えられるようになるまでには結構な時間がかかることが多いので、本人も根気強く頑張り続けてくれましたから、私も考えられる範囲であれこれアプローチをしつつやってきました。

半年ほどで色々変わり始めた感じは受けていましたが、今で9か月ほどになるその子は、当初と比べると、かなりできることが増え、考える方向もかなり的を得てきており、わからないときにもフリーズするのではなく、絵を描いたり、実際に紙などで問題に合うよう作ってみたものを見ながら考えたりというようなことが自らできるようになりました。
レッスンをしているときの表情も随分和らぎ、笑顔も多く出るようになりました。

当初の状態を思えば、高学年になってから9か月ほど、それも週1回だけのレッスンでよくここまで変化が出てきたなと、本当にがんばったんだなと、しみじみ感心します。
これにはおうちの方のご協力によるところも大きいと思っています。

小学生の間にしっかりたっぷり頭を使って、わからないときにはどうやって考えればよいかも学んで、更に大きく力を伸ばしていってくれるのが楽しみです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月14日 (水)

びっくりしました

ある高校生の課題テストを見てかなりびっくりしたことが。

その子は、夏休みに1学期の学習内容の課題が出て、それはきちんとやっていましたし、こちらでもおさらいもしたのですが、まるで最近の私かのように、「え?そんなことまで忘れちゃったの??」というほどに、基本中の基本のようなことまで怪しく、これは課題テストの結果が怖いなぁと思っていました。

で、問題と解答を見せてもらったところ、やはりかなりのバツが。
これはちょっとキビシイなと思いつつ、念のためにと平均点を尋ねたところ、なんと平均点が3割ぐらいしかなかったとのこと!!

因みに公立の上位か中堅と言われるレベルの高校で、学年全体の平均点がです。
試験の問題を見る限り、そんなに難しいものはなく、課題をきちんとやって復習をしていればそれなりに解けそうな感じだったというのに、平均点が3割。1学期の学習した基本的内容の理解度が学年で延べたら3割程度ということですから、これはちょっと危機的状況なのではないでしょうか。

高校で、ほとんどの子が進学する学校ですから、学校内で平均点があったからいいとかいう話ではないはずです。高1の1学期の段階でこの状態だと、受験には数学を使わないと早々に決めてしまっている子達が大勢いるということなのかもしれませんが、それはあまりにジャッジが早すぎるようにも思います。(少なくともセンター試験レベルの数学はできた方が選択の幅は確実に広がりますし…。)

その高校の先生はこの試験結果に対してどうお感じなのか、それも気になるところです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月13日 (火)

言ってくれると安心

これも性格によるところもあるのだろうと思いますし、シャイな子などはちゃんとわかっていても声を出すということが恥ずかしかったりして、誰でもしてくれるわけではありませんが、子ども達の中には、レッスンをしているときに自分の考えていることをブツブツ声に出してくれる子がいます。

今日のレッスンでも、繰り下がりのひき算を考えていた1年生さんが、「えっと、これ引いたら33やろ。そっから7引くから、あと4やから…」というように、ブツブツ声に出しながら考えていました。
その子が言っている考え方はバッチリだったので、時間がかかることがあっても、わかっていないのかな?と不安になることなく待つことができました。
何より、考え方を説明できるというのは、きちんと理解できている証でもありますので、こちらとしても安心します。

レッスンをしていて、何か考えていたようなのに答えが違っている場合などにも、どう考えたのか説明してもらうと、本人が勘違いに気づくこともありますし、気づけなくてもこちらがどう声掛けをすればよいか判断しやすくもなります。

自分の考え方をきちんと言葉にできるというのもひとつの能力だと思いますが、それができるといい面がたくさんありますので、全ての問題でなくて構いませんので、おうちで取り組む際にもポイントになりそうな問題や、何か勘違いしていそうな問題などは、どう考えたのか尋ねてみるということも有効かもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月12日 (月)

難しいテーマなのだと思いますが

今日はお仕事には直接関係ないお話。

もう何十年と夏の終り頃になると某民放局が24時間でチャリティー番組をします。
で、今年、そのチャリティー番組の裏側で某国営テレビのとある番組が障害のある方を使って感動話のようなものに仕立て、それを見て多くの人が涙を流すということについて取り上げ、問題提起(といっても、番組内容的にはパロディーぽい仕立てだったり、笑えるぐらいの皮肉を込めていたりという感じで、改まった小難しい話ではなかったようですが。)したことも話題になりました。

そして、恐らく4年後の東京パラに向けて、パラに対する認知度を高める狙いがあるのだろうと思いますが、今大会は初めて、パラの競技がかなりのボリュームで見られるようになりました。

で、その映像を提供しているのは某国営テレビ。
しかし、競技部分以外の映像構成や選手へのインタビューなどを見ていると、オリンピック選手に対するものとはどこか違う、表現が難しいものの、何か違和感を感じることがあります。
体のどこかに障害がおありだと、確かに日常生活におけるご苦労は体が健常である人に比べたら多くなるだろうとは思います。
でも、パラリンピック日本代表に選ばれる方ですから、オリンピック代表の方々が皆さんそれぞれ想像をはるかに超えるような努力をしておられるのと同じように(もしくはそれ以上に)様々な努力をしてこられたのは間違いないでしょうし、そのことに対して素直な尊敬の念や感動を抱くのは自然だとしても、なんとなく、言葉の端に、「障害があって大変だろうにがんばってえらいね」というような、どこか上から目線に感じることがあるのです。

ヒトというのは一般に、自分より立場が弱いもの、立場が下のものを見つけて、安心感を得たいという感情を持っている生き物なのだというようなことも言われていますし、そういう面は多かれ少なかれほとんどの人にあるのではないかという気はしますが、少なくとも体のどこかに障害をお持ちの方は何か不自由を感じることが健常者に比べて多いかもしれないというだけで、人として立場が上とか下とかいうこととは直接関係ないようにも思います。

書きながら、自分でも考えはまとまりませんが、4年後、日本でパラリンピックを開催するということは、海外から多くの選手が来られるということですし、そういう国が「感動ポルノ」と表現されるような、障がい者を使って感動させるというような番組を作っていてはいけないのではないかとか、色々なことをあれこれ考えたりします。

まあ、はっきり言えるのは、パラの日本代表選手の皆さんはぐーたらしてやるべきこともなかなか頑張れない私など足元にも及ばないぐらい素晴らしく、尊敬すべき方々だということですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月11日 (日)

オフでしたので

今日は更新お休みします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月10日 (土)

日々の暮らしを通して

子ども達とレッスンをしていると感じることの一つに、話し言葉と書き言葉の区別の難しさがあります。
私が子どもの頃は母がそういうことにこだわる人だったので、最後まできちんと言わないと聞いてもらえなかったり、言い間違いやくだけた言葉遣いなどにも結構注意を受けていた記憶があります。

自分の子どもに対して家の中でまでそんな…という意見もあるだろうと思いますし、私も子どもの頃は、何をしてほしいかわかっているのに意地悪だなとか、友達だって同じような言葉遣いしているのにいいじゃないとか思ったものですが、子どもの頃にそうしてもらったことで、少なくとも言葉に対する意識や正しい言葉遣いというものが、ある程度身に着いたようにも思います。

子ども達とレッスンをしていて難しいと感じるのは、小さいうちは周囲の大人やテレビなどから耳に入る言葉を吸収して、しゃべれるようになっていくというのが一般的なのだと思います。
となると、その会話の中で間違った言葉が使われていても、小さい子にとってはそれを判断することは困難です。

近年かなり気になっている「有効的」という表現なども、効果があることは「効果的」、もしくは「有効」で、「有効的」というのは正しくないはずにもかかわらず、スポーツ解説などで広がる一方です。
そのようなものはほかにもいくらでもあり、それを当たり前に耳にしていると、子ども達はそれが間違っているということに気付きづらいのも当然でしょう。

また、多くあるのは「ら抜き言葉」などの、話し言葉だとついつい省略しがちな言葉だと、大人でも判断に迷うものもあるでしょうから、小さい子たちが判断できないのは当然のことでしょう。

でも、そういうものを国語のレッスンで何度か言われたぐらいでは、なかなか身につくものではありません。
やはり、小さいうちは正しい言葉遣いをご家庭で意識させてもらうこと。家の中であまりに改まった言葉遣いだと大人も肩がこるというようなこともあるかもしれませんが、であれば、くだけた言い回しを使っても構わないけれど、正しくはこういう風に言うのよというように、正しい表現も合わせて教えるなど、日々の暮らしを通して、正しい表現を子ども達に教えてあげてもらえたらなと、そう思います。

小さい間は許されても、学年が上がるにつれ、作文や記述問題などで国語的に正しくない表現を使っていたら、減点されたりバツになったりするので、そうなってから意識させるとなるとお互い一層大変ですし、普段から少し心掛けてもらうといいのではないかと感じます。(もちろん、きちんとした言葉遣いをお子さんにも心掛けさせておられるご家庭もたくさんおありなのは感じています。あくまで一般的なお話として書かせて頂きました。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月 9日 (金)

興味のないことはがんばれない

教室に来てくれる子達で、できるできないは別として、算数が好きだと思っている子とレッスンさせてもらうのはある意味で楽なことなのですが(もちろん、それでも色々試行錯誤の日々ですが…。)、算数が好きではない子、興味がもてない子とレッスンをさせてもらうのは、やはりなかなか難しいものがあります。

私は理系の難しい数学についていけずに文系受験をしましたが、算数や数学は「主要教科」と言われるものの中では一番好きかもしれません。
そんな私でも、自分にとって難しく感じる問題や、苦手な分野などの問題に取り組まねばならないようなときは、なかなかエンジンがかかりませんし、問題を読んでいても頭が拒否してなかなか問題自体が入ってこないなんてこともあります。

大の大人である私でさえそうなのですから、子どもであれば尚のこと、興味がもてない単元や難しく感じる、苦手だと思っている内容などに取り組むときには、自ら「さあやるぞ!」と思えないのは当然でしょう。
例えば、教室でも筆算の学習をすることがありますが、単純計算が続くのを嫌がる子の気持ちはよ~くわかりますので、それは量を調節したり、「イヤな気持ちはわかるけど、なんとかがんばって!」と励ましたり、何らかの対応をします。
でも、苦手だから、嫌がるからと言って、何でもかんでも手助けすると、その子の力はつかないので、イヤなんだろうなと思っても、必要であろうことはやってもらうよう働きかけることになります。

でも、それはもしかすると、今の日本の学校制度、受験制度のせいで必要になっているだけで、長い目で見たら本当に必要なのかどうか、それはやや微妙なのではと思ったりもしています。

これまでにも何度も書いていますが、これからの社会はますます、単純労働は機械などに取って代わられ、あまり技術や知識を必要としないようなことは人件費が安いところへ持って行かれるのが当たり前になるでしょう。
以前はゼネラリストが重宝されていたのだと思いますし、そもそも、学校という制度ができたのは、高度成長期に工場などで働く「コマ」がたくさん必要だったからというような、外国人の著書を読んだことがあり、ああ、そうかと納得もしました。

文字が読めて、簡単な計算もできる。簡単な指示をきちんと理解して、言われた通りのことができる。
そういう人材がたくさん必要だった時期があり、そういう人材を育てるには、確かに学校制度というのは優れているように思います。
でも、時代は変わり、経済成長が頭打ちになって久しく、ますます「簡単なことしかできない人材」の必要性はどんどん薄れているのだと思います。

もちろん、最低限の読み書きができるということは暮らしていく上で必要だと思いますが、小学校高学年か中学生ぐらいからは、いい意味で「バランスが悪い」子どもがたくさんいた方がいいようにも思えるのです。
ほかはからきしダメだけど、数学は抜群にできるとか、ほかには興味がもてないけど歴史は研究者になれるぐらい学んでいるとか、主要教科は全部嫌いだけど絵を描くことはずば抜けて得意だとか、そういう子達がもっともっと評価されるような制度、社会になれば、子ども達はもっと生き易くなり、社会はよりよくなっていくのではないかなと、そんな気がします。

制度がそういう方向に変わって行くのであれば、算数が嫌いな子に無理して難しい算数をさせなくてもいいのかもしれませんが、今はまだそうはいかないので、その子が興味がもてない内容に行き当ったとき、どんな風に働きかけるのがよいのか、どうすれば少しでも楽しさを感じたり、達成感を感じたりしてもらえるのか、もっともっと考えていかないといけないなと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月 8日 (木)

わからないのはイヤなこと

子ども達を見ていると改めてしみじみ感じますが、よくわからない状態にあることは多くの人にとって不快なことなんだろうなと思います。
大人であっても、何か難しい問題を前にし、それがどうにも理解できないにも拘わらず、どうしてもそれを解く必要があるというようなことになれば、恐らく大抵の方は大きなストレスを感じるのではないでしょうか。

私などは元々無精者ですし、難しいものは嫌いですから、機械関係で何か解決せねばならず、検索したりあれこれ頑張って調べたりしてもいっこうに解決の糸口がつかめないようなときには、機械を投げ付けてしまいたいぐらいの気持ちになることもありますし、解決しない間はとにかく気持ち悪い。

それと同じようなことは当然子どもにもあるんだなと感じます。
これまでやったことがないような問題で、それもその子にとっては少し難しく、ぐっと集中して考える必要があるようなものだと、コンディションによっては集中できず、しかしできない状況は不快なので、ほとんどの子はぶすっと不機嫌になったり、時には泣き出したりしてしまうこともあります。

その状態になった子にはあれこれ声をかけても聞いてもらえないこともありますし、なぜか間違った方向へ考えが暴走(?)し始めるようなこともあります。
でも、そこをきちんと乗り越えて、本当に意味が分かった瞬間、ぱぁっと表情が明るくなるのです。

人間にはミラーニューロンとかいうものがあるそうで、相手の表情や感情に影響を受けてしまい、自分までイヤな気持ちになるということがあるそうですが、うまくできなくてぶすっと不機嫌そうにしている顔を見ると、ついついこちらまで不機嫌になってしまったりもします。
でも、不機嫌そうにしているからといって、そこで助け舟を出して無理矢理解決してしまうと、子ども達は「ああ、そうか!」というあの快感を味わえぬまま終わってしまい、結果的に、それは本当の力にはならない場合が多いです。

多くの子ども達にとって「わからないのはイヤなこと」なのだと思いますから、その「イヤ」な感覚を心から「そうか、わかった!」という快の感覚になれるところまで辿り着くお手伝いがもっとうまくできるようになりたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月 7日 (水)

雑感

冗談抜きに思うことなのですが、もし私が今の時代に中学生、高校生だったら、きっと受験に失敗して、志望校には行けなかっただろうなと。
私たちが子どもの頃には番組を録画するということすらまだ考えられないようなことでしたし、当然ながらパソコンや携帯電話なんてものは一般には普及しておらず、高校、大学時代にようやく少しそういうものが身近になってきたかなというような感じでした。

番組録画は手軽にできるようになり、またDVDレンタル、もしくは借りに行くことすらしなくても家にいながらにして映画などを見られるような仕組みもできてきましたし、一家に一台テレビがあるのに近いぐらいの状態でパソコンが普及し、子どもでも携帯電話を持っていたり、中学生、高校生になると、スマホを持っている子も増えてきて…と、そこに加えてゲーム機の普及となると、それらの誘惑を断ち切って、勉強などに集中するというのは、私たちが受験生だった頃に比べて遥かに強い意志が必要になるだろうなと思うのです。

実際、私もパソコンを使うようになってから本を読む量が減り、スマホを持つようになってからは目も当てられないほどの読書量の落ち込みを反省するも、仕事以外の時間はつい手元にあると見てしまうという有様です。
スマホで簡単にゲームもできるようになって、同級生なども思った以上にゲームをしている子達がいることに驚きもしました。
いい歳をした大人でさえこんな風なのですから、子ども達であれば尚更、気が進まない勉強をするためにスマホなどから離れるというのは大変だろうなと。

小さい子にゲーム機を与えないとお友達との会話についていけなくなるとか、仲間はずれになるとか、そういうお悩みも伺うことがありますし、実際、そういうこともあるのかもしれません。
でも、ゲーム機に限らず、スマホやミュージックプレーヤーその他、子どもにとって魅力あるものを与えてしまった後、時間を決めて使いなさいとかいうことは、多分大人であってもなかなか大変なことではないかと思うのです。

そう思うたび、今の子たちは誘惑が多くて大変だなぁと、そして、その時代にお子さんを育てている保護者の方たちには本当に頭が下がるなぁと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月 6日 (火)

ホントおもしろい。

子ども達とレッスンをしているとしばしば、たった今できていたことができなくなる瞬間を目にすることがあります。
それは疲れによるものだったり、たまたま何かよくわからないスイッチが入ってしまう(原因不明の)ものだったりしますが、今日のレッスンでも不思議なことが。

100までの繰り下がりのある引き算を学習し始めて3回目ぐらいの1年生さんとのレッスンだったのですが、2ケタ同士の繰り下がりも随分しっかり考えられるようになったなぁと感心しながら見ていました。

計算式だけのプリントもほとんど間違えることなくきちんと解いていたので、文章問題をすることにしました。
すると、なぜか1問だけ、きちんと式は書けているのに、色々声掛けをしてもどうにもこうにも正解に辿り着けなくなりました。

そこで「ちょっとそれは置いといて、先に下の問題やってくれる?」と促すと、その問題は難なくクリア。
先ほど詰まっていた問題は一旦保留にしたまま、別のプリントをもう1枚やり、更に別の文章問題のプリントへ。
その中にも2ケタ同士の繰り下がり引き算を使うものが出てきたので、どうなるかなと黙って見ていると、あっという間に正解。

「ねえ、それ、どうやって考えたの?」と尋ねると、考え方まできちんと説明してくれます。
そこで先ほどどこかにはまり込んでしまった問題に戻ろうとすると

「うわぁ、これ難しいんよな…」とかなんとかつぶやく声が聞こえます。

「難しくないって!さっきのことは忘れて。だって、今これパッと解いたやん?どうやって解いたっけ?」と再度尋ねた後、先ほどの式を見てもらったところ、今度はほどなく正しい答えが。

自分でもなぜさっきはあんなにできなかったのかわからない様子でしたが、小さい子達には珍しくないんですよね、こういうこと。

ですので、例えばおうちで何か算数の問題をやっていて、これまでできていたものがパタッとできなくなったというようなことがあれば、一旦保留にしてほかの問題をやったり、ちょっと休憩してリフレッシュしたりしてから、再度考えてもらうというのは結構効果的ではないかと思います。
ご参考までに。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月 5日 (月)

気になる記事は色々ありますが。

インターネットにはあらゆる情報が溢れかえっていて、読んでいるときりがないですし、あまりにたくさんあるもので、読んでもすぐに忘れてしまったりもしますが、ちょっといい記事を見つけましたので、ご紹介を。
といっても、今日はレッスンはお休みでオフモードでしたので、サッカー関連の記事ですみません。
でも、サッカーに限らず、子どもにとって大事なこと、共感できることが書かれていたもので、よろしければどうぞ。

「サッカーやめていいぞ」元日本代表ボランチ福西崇史が子どもを突き放す理由とは

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月 4日 (日)

オフ

今日は更新お休みします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月 3日 (土)

あれこれ思う。

近年、発達障害を持つ人が増えていて、それに関する情報も数多く目にするようになりました。
発達障害、もしくはそういう傾向がある1クラスに2~3人いるぐらいの割合とも言われており、実際、教室にも何らかの困難を抱えているというお子さん達が来てくれたことも少なからずあります。

ただ、何らかの困難を持つ方は過去の偉人と呼ばれる方の中にも少なからずおられたようですし、社会的に成功している方の中にもそういう方がおられるとも言われています。

教室で色々な子ども達と接する中で色々なことを考えますが、例えば、人の話を聞くのが苦手だったり、自分の興味があることにはとことん集中して、周囲に合わせることができなかったりというのは、確かに学校生活などを送る上では「障害」になるのかもしれません。
でも、興味があることなら、それこそ何時間でも時間を忘れて集中できる。周りから何を言われても気にせずマイペースを貫ける。それはある意味で、ものすごい才能なのかもしれないとも思うのです。
そういう傾向のある人が大人になって成功するとしても、それは納得できるようにも思います。

子ども達の多くは、親や先生、周りの大人の言うことを聞き、教わったことを真似て、色々なことを覚えていくのだろうと思います。
でも、その傾向が強くなりすぎると、自分では考えられない、誰かからの指示を待つような大人に成長していってしまうこともあるでしょう。
ですが、周りから何を言われてもマイペースを貫ける、自分の好きなことは徹底的にやる、そういう傾向は、考えようによっては成功者の条件でもあるかもしれません。

日本ではまだまだ子どもは学校に通って、先生の話をきちんと聞き、お友達とも仲良くして、その中で色々なことを学んでいくことをよしとする価値観があるのだと思います。
私自身も、学校や集団での学びは、友だちを作る、社会性を育む、協力して何かを成し遂げるなど、色々なよいところがあるとは思います。
ただ、そのシステムに馴染めない子には、もっと他の選択肢があってもいいのではないかなと思ったりするのです。

エジソンは発達障害だったそうですが、教師から学校に来るなと言われ、小学校をやめさせられたという話は有名です。その後、お母さんがエジソンが学べる環境を与え、その結果、何度の失敗にもくじけることなく研究を続け、数々の発明を成し遂げたわけです。
障害があったからこその成功だったのかもしれません。

発達上の困難を抱え、そのことで子ども自身が何か不便や不都合を感じていたりする場合は何らかの対処が必要なのだと思いますが、例えば落ち着きがないとか、何かに集中し出したら人の言うことを聞かないとか、そういうのは「障害」ではなく、「個性」、もしくは「能力」なのかもしれないなと、そして、その「能力」を存分に発揮できるような環境がそれぞれの子にあればいいのになと、そんなことを思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月 2日 (金)

念のためお知らせです。

教室を始めて間もなく、わからないなりに悪戦苦闘して作った教室のホームページがあるのですが、全く0からのスタートでもあり、業者に頼むとか、ドメインでしたっけ?独自のアドレスを取得して作るとか、そういうことはできず、元々プロバイダ契約をしていたところで利用できるホームページサービスを使って作ることになりました。

その後、パソコンが壊れて買い替えたり、ブログを書くのさえ滞りがちになったりしてホームページ自体の更新はほとんどすることがなくなって、その存在を自分でも忘れかけていました。

しかし、しばらく前から何度かホームページ利用者に対する案内が来ていて、なぜかブログの方にしか頭がいかず自分には関係ないと思い込んでいたところ、とうとうハガキでまでお知らせが。
よく読んでみると、これまで使っていたホームページは9月末には使えなくなるということのようで、移行できるサービスの案内が書かれていました。

手続きはできたと思うのですが、うまく移行できるのかどうかまだわからず、ある日突然ホームページやブログが表示されなくなる可能性も・・・。

というわけで、一応お知らせしておきます。
9月下旬にホームページやブログをご覧頂く機会があったら、もしかしたら見られなくなっているかもしれません。
確認するようにしますが、いかんせん機械やそれにまつわる諸々のことがよくわかっていないため、もしうまく移行できなかった場合、すぐに対処できるかどうかがかなり不安です…。

ブログはそのまま使えるようですので、その場合はブログだけを残すなどの方向で考えることになるかもしれませんが、その際はまたご案内させて頂きます。
どうぞよろしくお願いいたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月 1日 (木)

指示待ち

今日、ちょっと気になったこと。
最近の若者たちは「指示待ち」の子が多いというような話を耳にすることがあります。社会に出てさえも、上司などからの指示がなければ自ら動かない、マニュアルがなければ何もできない、そういう若者が増えているというようなことのようです。

もちろん、そうではない若い方もたくさんおられるでしょうし、最近ではなく昔から、指示がないと動けないという人はいるのだろうとも思いますが、傾向としてはそういうこともあるのではないかという気がしていました。
そういうためにも、自ら考える力が大事なのだとも思っていました。

そんな中、小学生の頃何年間か通ってくれた後、中学時代はおうちに近い集団塾に通って、高校入学が決まってから戻ってきてくれた子とレッスンをしていると、小学生の頃はそんなことは感じなかったのですが、やり方を覚えようとする傾向がかなり出てきており、また、覚える際にどうしてそうなるかということにはあまり興味がなさそうだなという印象も受けました。

もともとこの子は英語が好きで、高校もそういう方を目指して努力し、志望の学科に合格したという子なので、算数・数学にはそれほど興味はなかったのだとは思います。
ですが、今日、明日実力テストがあるということで、1学期の内容を確認しようとしたところ、高校で新たに習う因数分解の代表的公式のようなものさえ忘れています。

1学期に一緒に学習し、もちろん学校でも授業があり、定期テストもあり、更には夏休みの課題もちゃんと解いているのを見たのにこの状態であることに少し驚きつつ、さすがにそれだとどれだけ時間があっても足りないから、明日の試験に向けては、覚えるべき公式などを見直すことに時間を割く方がいいと思うという話をしました。

これは性格的なものなのかもしれませんが、本当にびっくりするほど忘れている状態なのに、「ああ、やばい」と笑って言えるのはなかなかすごいなと思いつつ、心配して、こうしたほうがいいと思うよ、ああしたらどうかなとアドバイスすることが、長い目で見てこの子のためになるのかどうか、ちょっとわからなくなりました。

で、この子の話ではないのですが、「指示待ち」ということについて、最近はお子さんの数も減り、小さいうちから色々な習い事をしている子も珍しくないので、子どもの中には、物心つくかどうかの頃から、大人から教わってその通りにやるということが習慣のようになってしまう子がいるのかもしれないなと思いました。

子ども達同士で集まって、自分たちでルールを決めて遊ぶのではなく、あらかじめ決められたルールでうまくできるように練習する。新しい何かを学ぶ際に、ああかな、こうかなと試行錯誤するまでもなく、大人からやり方を教えられ、それを真似して解決する。そういう機会が増えれば増えるほど、どうしたらいいかわからないことを、自分であれこれ試行錯誤して解決するという力は削がれていくような気がします。

もちろん、これはあくまでも一般論ですから、どんなことにも例外がありますし、大人が教えてもその通りにやらない子、大人が影響しなくても自らはなかなか何もしようとしない子などもいるとは思いますが、これだけ世の中が便利になり、単純労働はどんどん機械や人件費の安い国に任されるようになっていく中で、大事になってくるのは指示通りに動けることよりも、自ら考えて動けることなのではないかと思います。

であれば、勉強の習い事に限らず、そのほかの習い事も含め、それが本当にその子にとってプラスなのかどうかを考えることも大事なのかもしれません。また、習い事を減らす分、子ども自らが考えてやり遂げる機会、もしくは、「暇な時間」(それはゲームをしたりテレビを見たりなどすることもできない、何をするか自ら考えるところから始まるような・・・)を与えることが大事になってくるのかもしれませんね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年8月 | トップページ | 2016年10月 »