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2016年7月31日 (日)

7月最終日

オフでしたので、今日は更新お休みします。
錦織選手の決勝戦が楽しみです。

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2016年7月30日 (土)

もう7月もおしまい。

気づけば今日で7月のレッスンもおしまい。
カレンダーを見て、もう今年が7か月終わってしまったのかと思うと、ちょっと恐ろしくなりました。

夏休み中は土曜のレッスンの方が平日に変更になったりして、今日のレッスンは1コマだけで、レッスン後は教材作りなどしていました。

毎日暑いせいか、レッスン中に眠くなる子が続出していますが、眠気を覚ますいい方法がないものかしらと。
椅子から立って背伸びしてもらったり、小さい子はちょっと歩いてもらったり、その場でジャンプしてもらったりと、あれこれしてもらっていますが、何かもっとパチッと目覚める方法があればなぁと。

8月もどうぞよろしくお願いいたします。

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2016年7月29日 (金)

こつこつ積み上げる

教室を始めてからずっと、算数については小さい頃からじっくり考え、感じながら、よい意味で「こつこつ積み上げる」ことが大事だと感じていますが、私自身、子どもの頃に国語で苦労した記憶がないため、どうすれば国語ができるようになるのかということに関しては、まだ今ひとつよくわからないままです。

昔から数学が得意な人、頭の中で展開図を組み立てたり広げたり、立体を切断したりというようなことを苦も無くイメージできる人は、算数や数学が苦手な人、展開図で苦戦する人が「何がわからないのかがわからない」というようなことは少なからずありますが、国語の場合、ある意味で母国語ですから、日本で生まれ育って、国語が全くできないという子どもはまずいませんし、ある程度はできるものであるため、できないところはどうすればできるようになるのかが、他の教科に比べて、これだというものが見つかりにくいのかもしれません。

国語の読解に関するような本も過去に色々読んだものの、ああこれだ!とまで思えるものにはまだ出合ったことがありませんし、読解が苦手な子、作文が苦手な子などに、どういうアプローチをするのがより効果的なのかも、まだ手探りです。

ですが、やはり小さい頃に特に大事なのは、正しい言葉を使う、文法的に正しい言葉でしゃべらせる(大人の側もしゃべる)ということなのかもしれないと感じることがあります。
もちろん、家庭で常に国語的に正しい言葉でしゃべるのは、なんだか落ち着かない、くつろげないと感じるかもしれません。ですが、常に砕けた言葉でしゃべっていると、子どもにとってはそれが正しい表現なのか間違っているのか判断することは難しいだろうと思います。
小さい頃に当たり前に使ってきた言葉を、国語を習い始めて「それは国語では間違っているのよ」と突然言われても、「え?そうなの?!」と思うかもしれません。

てにをはの使い方がおかしいのに、指摘されることなく会話し続けていたら、小さい子どもはそれがおかしいと気づくことはないかもしれません。
そんなときに「おうちやお友達とお話しするときはそれでもわかってもらえるかもしれないけど、本当はそれはおかしいのよ。正しくは~というのよ。」などと言ってあげることで「へぇ~、そうなんだ!」とか「ああ、そうなのか」とか思うきっかけをもらえるのではないかという気もします。

また、国語が苦手という小学生の子達の多くは文の主語述語のつながりがおかしくても気づけないというようなこともあります。
例えば「お姉さんの自由研究は星を観察します。」がおかしいので正しく直すように言っても、「自由研究は」の主語に対して「観察します。」の述語はおかしいと理解できなかったりするのです。

普段の生活の中で、意識的に主語述語のある文をしゃべらせる。(常にではなくても、ゲーム的に「今から5分は主語述語のある文でしかしゃべったらダメ」というようなことをしたりしてもいいかもしれません。)
その際、主語述語のつながりがおかしければ指摘する。
そんなことを日々の暮らしの中でで意識的にしてみるということは、国語の力を伸ばすことにつながるのかもしれないなと思います。

後はもちろんですが、語彙が豊富であるということも、読解にはとても大事な要素なのだろうと思います。
そして、これについては、子ども番組や絵本、漫画などを読んでいるだけでは、なかなか広がっていかないのではないかと思います。大人が話すときに、なんでも子どもにもわかるような簡単な表現にしてしまうのではなく、敢えて知らないだろうと思う言葉を使ってみたり、ニュースなどで子どもが知らないであろう言葉が出てきたら、「どういう意味か知ってる?」(知ってるも国語的には「知っている?」が正しいわけですが…。)と尋ね、知らなければ一緒に調べてみるなどする。そんな積み重ねも大事なのかもしれません。

国語は特に勉強しなくてもある程度できて当然という感覚があるだけに、苦手な子はどうすればいいのかがなかなか難しいところではありますが、英語でも単語の意味が分からなければどうにもならないことが多いように、国語も知っている言葉の量というのはやはり大事な要素になるのではないかと思います。

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2016年7月28日 (木)

小さい子の変化には驚く

ごく最近一緒にレッスンをさせてもらい始めた1年生さんとのレッスンがありました。
算数で困り始めておられるとのことでご縁を頂いたのですが、体験レッスンのときには、ああ、確かのこの様子だと学校でも困っていただろうなと感じるところがいくつもありました。

しかし、体験レッスンの1時間のうちにも少し変化が見られるようになり、楽しかったと感じられたことで気持ちも変わったのか、自らおうちでも算数に取り組むようになったようで、それから2週間、体験の時から比べると、できることが一気に増え、反応の速さもかなり変わってきました。

小さい子はほんの少しのことがきっかけで一気に変わるということも珍しくなく、そういうきっかけになれると、私もとても嬉しく感じます。

教室を始めた当初、やはりその頃1年生だった友人の娘さんが、10までのたし算、ひき算で既に困っていて、プリント反復の教室に通い始めたもののどうもわかっていないようだとの相談を受けたことがありました。
まだ私自身も「1年生の初め」でしたが、体験に来てもらってレッスンをしたところ、最初のレッスンの段階から、スピードは速くはないものの、たし算もひき算もちゃんとできていました。

「え?できなくて困ってたの?」と本人に尋ねても、まだ1年生なのではっきりしないお返事が。
たった1回のレッスンで、それまで何かつっかえていたのであろうことが解決したのだと思うのですが、その後は学校の算数で困ることは一度もなく、その子は最終的には高校は理系の難関の学科に進みました。

もちろん、どの子も1回で変わるとは限りませんし、また、困ることなくすんなりと進んでいく子もいますから、うちでのレッスンがどの子にも必ず有効だなどとはとても言えないものの、特に小さい子の場合、躓いている原因によっては、いとも簡単に解決し、何もなかったかのように進んでいくようになることもあるので、そういう意味でも最初のうちにお子さんの様子をよく見ておき、困っていそうであれば早目に何らかの方法を試してみるというようなことは大事なのだろうなと思います。

ご相談頂けば、考えられる限りのことはさせて頂きますので、もし算数でお困りのお子さんがおられましたら、お気軽にご相談ください。

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2016年7月27日 (水)

式による説明

中学生の子の学習内容の中に、「式による説明」というものが出てきます。
例えば、2つの偶数を足したものに1を足したら必ず奇数になるとか、ある2ケタの数とその十の位と一の位を入れ替えた数の和は11の倍数になるとかいうようなことを、式と言葉を使って説明するようなものです。

その学習は多くの子が楽しくない、キライというところでもありますが(そして、その気持ちはわかりますが…)、その後、図形の証明、その他、高校に進んでも色々な場面で式を使って説明や証明をしなくてはならない場面が出てきますから、基本的な問題の段階で自分は何をしているのか、何をしなくてはいけないのかを、きちんと理解することは大事なのではないかと思います。

市外から通ってくれていた子が中学生になってほどなく部活が忙しくなり、しばらく自宅でがんばってみるということになったのですが、中2の夏休みに期間限定で戻ってくることになりました。
元々、国語がやや苦手な子だったので、式による説明はあやしいのではないかなと思い、夏休みの宿題の中のその類の問題を考えてみてもらうことにしました。

最初の問題は2つの偶数の和に1を足したら奇数になることを説明するもので、その問題の隣には2つの偶数の和は偶数になることを説明する例題(穴埋めになっているもの)が出ていました。
例題を見て、それを真似てやれば、恐らくほぼ答えに近いものが書けるので、そんな感じでなんとなくやり過ごしている子は少なからずいるのではないかと思いますが、せっかく期間限定で戻ってきてくれたのですから、しっかり頭を使ってもらわねばなりません。

初めに「整数をあらわす文字m、nを使って2つの偶数を表しなさい。」という問題があって、それは少し考えてから「2m、2n」と書いたので、「2m、2nって何?」と尋ねたところ、「え、2つの偶数です。」と答えました。
そこで更に、「それ、2mと2mじゃダメなん?」と尋ねると、少し考えて、うまく説明はできないものの、同じ文字だと同じ偶数を表すことになるからダメだという意味のことを言っていました。
そこで更に、「なんで同じ偶数やったらあかんの?」と畳みかけます。また、どう説明したらいいかかなり困っていましたが、それだとおなじ数同士のことしか説明できないからという理解はできたようでした。
しかしまだ畳みかけます。
「じゃあ、2mと2m+2じゃあかんの?2mと2m+2は違う偶数やんね?」と尋ねると、う~んと考え込んでいます。
そこで「2mと2m+2ってどんな数なの?」と尋ねると、「1、2、3、4とかだと、2より2大きい数…」というような答えだったので、「偶数で言ったら?」と更に尋ね、「ひとつ大きい偶数」と。(本当なら連続する2つの偶数という答えがほしかったところですが。)
「で、じゃあ、なんで2mと2m+2だったらダメなん?」ともう一度尋ね、もう少し助け舟を出して、隣同士の偶数の場合だけを説明したのではどんなときでもなるとは言えないからだということを確認しました。
そんなやりとりをしばらくした後で「じゃあ、mとnって何?」ともう一度尋ねると、「2つの違う整数」という答えが返ってきたので、「違わないといけないの?」と尋ね、「はい」というので、「じゃあ、同じ偶数どうしを足したときはダメなの?」と。どこまでいけずなんやと思われそうなぐらい畳みかけました。

最終的にm、nは整数であれば何でもよく、その整数であれば何を当てはめてもよいmとnを使って2m、2nと表した偶数は、偶数であれば何でもよいということになりますから、その2つの和に1を足して奇数になることが説明できれば、全ての場合を説明したことになるのだということを確認しました。

ほんの1問、ほんの1回のやり取りだけですから、それでどこまで理解が深まったかはわかりませんが、少なくとも書かれている型を真似て答えを書き、テストなどでもその型を思い出しながらなんとなく答えを書くというようなことをしているよりは、何をしているのか、何をしなくてはならないのかを彼自身が考えたのではないかと思います。

こういう問題に限らず、必要に応じて「なんでそうなるの?」と説明を求めることは、子どもの理解を深めるのにとても大事なことなのではないかなと思います。

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2016年7月26日 (火)

また言われた…(苦笑)

まあ、事実なので仕方ないといえば仕方ないのですが、今日また、ある子が私のことを「コワイ」と言っていたと知りました。

小さい子相手でもご機嫌を取ったり、思ってないのに口先だけで褒めたりというようなことはせず、基本ヒト対ヒトの真剣勝負的な接し方をさせてもらっているので、場合によっては「極めて厳しい」と言われることもあると思いますし、「怒るとコワイ」という表現も過去にも何度もされていますが、それが単なる怯えや恐れになって委縮させてしまうのは避けたいので、それぞれの子が感じる「コワイ」がどんな感情なのかは気になるところです。

因みに、コワイと言われるとぱっと思い出すエピソードがあります。
もう10年ぐらい前になるのかと思いますが、国語にコンプレックスを持った高学年の男の子が算数と国語の2教科で通ってくれることになりました。
体験レッスンの時に頑張ると言ったので、じゃあ一緒に頑張ろうねと言って迎えた初回のレッスン。
なぜか自分のレッスンより1時間以上前にやってきたので、まだこの人たちのレッスンの時間だから待っててねと声をかけて待っておいてもらうことにしました。
次までにやってきてねと渡しておいたものがあったので、「持ってきた?」と声をかけると、なぜか何も持たずにやってきたようです。
レッスン中でゆっくり話もできず、ただ、家に取りに帰っても自分のレッスン時間までには十分間に合う時間だったので、「何も持ってきてないの?取りに帰ったら?」と声をかけて、またレッスンをしていました。
ですが、取りに帰る様子がないので、何度か「取りに帰らないの?」とか「何もなかったらレッスンできないよね?どうするの?」とか、本当に普通に声をかけました。

それでもなぜか黙ったままで、とうとうその子のレッスンの時間になってしまいました。
その子と一緒にレッスンするはずの子もやってきたものの、手ぶら、取りにも帰らないままで、さてどうしたものかと、その子に話をしました。
がんばると言ったから、一緒にがんばろうって思ったこと。時間があるから取りに帰るよう促したのに取りに帰ろうとしなかったこと。やりたくないのに無理矢理させたくはないこと。何もないままレッスン時間になって、今から何をするつもりなのかということ。それらを、怒った口調にならないよう気をつけて、話しました。
でも、ずっと黙ったままで、レッスンに来た別の子も不思議そうにその子を見ていました。
何も持っていない、何もしゃべらない、それでは何もすることができないから、もう帰る?と声をかけてもずっとだんまり。隣の子は気になってチラチラ様子を伺いつつも、なんとか問題に取り組み続けてくれたのですが、レッスンは始まってだんまりのまま45分ぐらい経った頃、突然無言で立ち上がり、教室を出て行ってしまいました。

呆気にとられていると、隣にいた子も「え?帰ったん?何なん?あの子。」とびっくり。
ですが、万一家に帰らなかったら大変なので、すぐにおうちに電話をして状況を伝え、ご連絡を待つことに。
すると寄り道もせず帰ったようで、程なくお電話をくださったものの、電話の向こうでギャーギャー大きな声を出しているのが聞こえていました。
聞こえてきたのは「もうやめる!」という言葉。

あれだけは今も本当に何が何だかさっぱりわからないのですが(私は実際怒ることもありますし、怒るとめちゃくちゃ怖いのは事実ですから、それは否定しませんが、その子に対しては本当に声を荒げさえしませんでしたので…。)、「ああ、初回で辞められてしまった。最短記録だな…」と思いながら、少しお母さまとお話をして電話を切りました。

しかし、翌日、本人から電話があり、「昨日はごめんなさい。やめません。」と。

それ以来その子はめちゃくちゃ素直で可愛らしい子になったのですが、理由は本当にわからずにいました。
ですが、それからしばらく経った頃、その親子とお知り合いの方が思いがけないことを聞かせてくださったのです。

「みどり先生、怒ったらめちゃくちゃ怖いから、二度と怒らせたくないわ。でもな、みどり先生はボクのこと、自分の子どもやと思ってるから怒るねん。」

そんなようなことをその子が話したというのです。

いや、そもそも怒ってないやん、あなたには…。(汗)
結構本気でそんな気分ではありましたが、私が真剣であることは伝わったということなんだろうなと。

こっちが本気かどうか、真剣かどうかというのは、子どもにはちゃんとわかるのではないかなと、これまで何度もそう感じることがありました。
だからこそ、口先だけでご機嫌を取ったり、適当に褒めたりというようなことはできないので、そういう意味でも、特に小さい子達にとっては「コワイ大人」なのかもしれませんね…。

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2016年7月25日 (月)

夏休みのレッスン予定

この夏は通常通り、もしくは変更可能ならという形でご回答頂いた方ばかりで、予定を組むにもとてもありがたかったというのに、なかなか詰めのところでエンジンがかかり切らず、結局今日の晩にほぼ皆さんの予定を組み上げ、変更がある方にはご連絡を差し上げました。

まだいくつか微調整が必要になりそうですし、追加のご希望を頂いている方などはまだご相談させて頂くことになりますが、どうぞよろしくお願いいたします。

神戸の公立の子たちは明日がようやく終業式。明後日からは通ってくれている子達全員夏休みです。
暑さに負けず元気にがんばってくれますように。

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2016年7月24日 (日)

ポケモンGO

日本でのリリース以前からニュースでも連日取り上げられていて、おまけに私は極度の運動不足、休日は家でじっと引きこもりなものですから、もし少しでも歩くようになればそれもいいかなと、どんなものかダウンロードしてみました。

ただ、ダウンロードの段階から、グーグルアカウントで使うかポケモントレーナークラブ(でしたっけ?)に登録するかという選択があり、なるべく個人情報に紐づけしたくないなとトレーナークラブとかいう方で登録しようとしたところ、リリースから2日は混み合っているとかで登録できず。
何が何でもすぐに始めたかったわけではないので、登録できるようになるまで様子を見ていました。

ですが、それまでに始めておられる方も大勢おられ、そのうちどのぐらいの方かはわかりませんが、グーグルのアカウントでゲームを始められているのだろうと思います。
また、ゲームをするためには位置情報をONにせねばならず、機械に疎いので何とも言えませんが、要するにゲーム会社なりグーグルなりに自分の位置を把握される可能性があるということなのだろうと。

とすれば、グーグルアカウントと紐づけした時点で個人の特定がよりしやすくなるのかもしれません。
更には、悪意を持った人が意識的に人の流れを操作したり、個人情報を収集したりというようなことも可能なのかもしれないなと。

実際、そういう懸念に関する記事もいくつも目にしました。
今のところ海外の話だそうですが、そして、まだゲームをよく理解していないのではっきりわからないのですが、悪意を持ったユーザーが人通りが少ない場所にスポット?と設定して待ち伏せし、強盗働いたという記事を目にしました。確かにそういうことも可能なのかもしれないと。

これが強盗だけでなく、場合によっては相手が子どもであれば誘拐、若い女の子であれば…と、悪用する人がいたらと考えると恐ろしくなります。

もちろん、そんなことを考え始めたら、このゲームに限らずほかにもそういう風に悪用できるようなものがいくらでもあるのだろうと思いますから、考えても仕方がないのかもしれません。
ただ、ポケモンというのは子ども達にもなじみがあり、また、ポケモンを集めるというだけなら何も難しいルールもないようですから、親御さんがお子さんにさせるというようなこともあるかもしれません。
そういうときに、こういう危険を想定しているかどうかで、例えば家にいるときは位置情報を切るとか、小さい子だけで使わせないとか、事前に考えることもできるのではないかとも思うのです。

そして、ニュースでも街を歩いていても、社会現象のように(まあ、一過性のものだと思いますが)大人も子どももスマホ画面を見て、公共施設などにわらわらと人が集まっているなどの姿を見ると、やはり少し怖いような気もします。

配信前からある程度予想はされていたと思いますが、日本でも連日、運転しながらゲームをしていて検挙、逮捕のニュースや、徒歩で高速道路に迷い込んだ(?)ニュースなどを目にしています。
外を歩いているのにそこまで没入できることもすごいとは思いますが、運転などの場合は人の命にかかわることです。ちょっと考えたらわかることも、ゲームに夢中になって判断できなくなる人がいるということなんでしょう。

そんなニュースを目にするたび、話はちょっと大きくなりますが、やはり教育というのはとても大事なんだろうなと思います。それも机上の勉強、テストで点を取るための勉強ではなく、色々なことをきちんと考え、判断する能力、公共の場でのルールやマナーなどを身に着けることは生きていく上で、場合によっては自分の身を守るためにもとてもとても大事なのではないかと思います。

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2016年7月23日 (土)

数の認識

昨日は結構しっかり書いた文がエラーで全部消え、書き直すパワーが出ずそのままになってしまいました。
多少内容が変わるかと思いますが改めて…。

教室を始めてしばらくは年少さん、年中さんともレッスンさせて頂くことがあり、やっぱりそうなんだなと実感する機会が結構あったのですが、その後主に年長さん以上を対象とさせて頂くようになり、しばらくそれをしみじみ実感する機会がなかった「3までの数」「5までの数」の認識の段階を、ここ最近改めて実感させてもらう機会がありました。

1年生さんで、学校の算数で困り始めておられるというお子さんが体験レッスンに来てくれました。
1年生ですが、初めての体験レッスンですし、お困りとのことだったので、5までの数が認識できているか、目視ですぐ5までの数がとらえられるかを確かめさせてもらいました。

サイコロや積み木などをパッと見せて答えてもらったのですが、4までははっきり答えられるのに、5になると途端に声が小さくなり、「4?5?」とこちらの顔を見てきます。
この状態で10までの計算や20までの数の学習が入ってくると、それは困り始めるだろうなと、体験では5までが認識できるよう教具を使って色々させてもらいました。

その後、1回レッスンをさせてもらったのですが、体験の1回で既に変化が見え始めたと伺っていて、実際にレッスンをしても、明らかに反応が変わってきていました。
こんなにあっという間に変わるということは、これまで5までを意識する機会がなかったというだけのことなのだろうと思います。
それでも、そこがきちんと体感できなければ、そこから先は訓練で身に着けるような状態になってしまうこともありますから、早目のタイミングで来てくれてよかったなと思っています。

更に、先日、お勉強は何もしていないという状態の年中さんと体験レッスンをさせてもらったのですが、こんどは3まで把握できていても、4になると答えられない。
その差はとてもはっきりしていて、1、2、3はニコニコ大きな声で答えられるのに、4になるとピタッと止まり、3より1多いというとらえ方もまだできず、「1、2、3、4」と1つずつ数えて確かめるということを繰り返します。
5ももちろんまだとらえられません。
大人になってしまうとそんなこと意識もしなくなりますし、3も5も10も同じようなものでしょ?と思いがちですが、数の把握にはまずは3まで、次に5まで、そこから10までという段階があるというのは間違いないようです。

もちろん、それを把握できるまでの個人差はあると思いますが、その段階を経ずに大きな数を把握できるようになるということはないのかもしれません。

昔々、数を数えるというときに、1、2、3の次は「いっぱい」だったというような話を聞いたことがありますし、漢数字でも1から3までは棒の数なのに、その先は文字が複雑になります。
ローマ数字も1から3は棒の数なのに、4は5より1少ないというような表し方をするようですから、4よりは5の方が把握しやすいということなのかもしれません。

小さい子に算数などを学ばせたいと思われるときには、まずは3まで、それがパッと把握できるようになってから5まで、そして10までと、段階をしっかり経て取り組むことが大事なのではないかと思います。

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2016年7月22日 (金)

ついつい忘れがちですが。

というタイトルで記事を打ったのですが、なぜか保存するを押したらよくわからないエラー表示が出て、戻ったら全て消えていました…。
私の頭からも消えかかっているので、また思い出せたら後ほど書かせて頂きます…。
子ども達の数の認識には3まで、5まで、10まで…という段階があるというお話だったのですが…。

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2016年7月21日 (木)

一概に比較はできないと思いますが

夏休みを迎えるにあたって、何人かの保護者の方から、お子さんが夏休みに「暇で、何もすることがないので、何かさせようと思っている」というようなお話を伺いました。
特に保護者の方が日中お仕事をされていて、ご兄弟がおられなかったり、上のお子さんは部活や塾などで家にいる時間が限られていたりするような状況だと、お子さんだけひとり家に置いておくのは心配というのは、親になった経験はないものの、わかるような気はします。

これが一昔前であったり、地方でご近所付き合いが当たり前、普段家には鍵がかかっていませんというような地域であれば、お子さんひとりで家に残しておかなければならないような状況にはならずに済むのかもしれませんが、この辺りにお住まいだとご近所に預けるとかご近所の子供同士で外で勝手に遊ぶとかいうこともなかなか難しいところもあるのだろうなと。

おまけに、最近は自分たちが子どもだった頃と比べても色々なことが格段に便利になっていて、昔ならビデオに録画するということさえできず、もちろんDVDなどをレンタルするようなこともできず、テレビや映画はリアルタイムでその時に見るしかできませんでしたし、子どもが自由に見たいだけテレビを見るということもなかなか難しかったように思います。
更にはおもちゃやゲームなども昔の素朴なものからすると、様々に進化?して、電子化されたり、種類も多様化し、その上昔より手軽に安価で手に入ったりもするわけです。

また、一番の変化はどの家庭にもパソコンやスマホなど通信機器が当たり前のようにあって、子ども達も小さい頃からスマホを使えたりもするということかもしれません。

そんな、ものが溢れ、何でも便利になった今の時代の子ども達は、自分で遊びを作り出す、退屈な時間を工夫して何か楽しみを見つける、そういう機会がなかなかなくなってしまっているのかもしれないなと。
もちろんこれも一般論ですので、どの子もみんなそうだとは思いませんが、状況的に何もないようなところから自ら工夫し手遊びを生み出すという機会は減っているのはほぼ間違いなさそうです。

折り紙、切り紙、塗り絵、おはじき、あやとり、お手玉、けん玉、こま、めんこ、新聞紙や段ボールを使った工作、トランプ、すごろく…まだいくらでも挙げられそうですが、そんな昔ながらの遊びの多くは、指先を使ったり、自ら工夫しなくてはいけなかったり、人数や子どもの年齢などによって臨機応変にルールを変えたりという余地がたくさんあったように思います。
少なくともルールが決まっているゲーム機などでは使わない脳の領域もあちこち色々使う必要があったのではないかなと。

今の時代、ゲームをさせないとか、スマホやコンピュータに触れさせないとかいうことは、それはそれで何か支障が出そうな気もしますし、何でもかんでも昔がよかったなどとも思いませんが、子どもの頃には「暇な時間」と「退屈さ」を与えることも、もしかするととても大事なことなのかもしれないなと、そんなことをちょっと考えました。

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2016年7月20日 (水)

自分で並べてもらう

教室を始めて長年、数を実感してもらうためのドットの教具については、始める前に教えられた通り、自分で台紙に並べて見せていたのですが、並べて見せて数が言えるようになっても、例えば細長い10のドットを「1本」と言えず「10本」と言ってしまって混乱する子や、教具を見ていたときにはすんなりできていたのに、それが言葉に置き換えられるとちょっと詰まってしまう子がいたりしました。

もちろん、大人である私が並べる方が速いですし、レッスンもスムーズに進むのですが、最近は初めのうちだけ私が並べて見せたら、途中からは子ども自身に並べてもらうということをするようになりました。
「実感する」というのは、目で見るだけより、自分の手を使って並べて確かめた方がよりしっかりと「実感」できるはずです。
また、並べるときに自然と細長いドットは30なら3本、70なら7本数えて取ったりしますから、目で見ているだけよりもっと「何本」の実感もできるはずです。

そのように、少しでもよりよく理解してもらえるよう、変えられるところは変えていきたいと思っています。
それは問題作りについても言えることですので、少しでも子ども達が楽しくスムーズに取り組めるようなものにできたらと思いながら、コツコツ作り続けています。

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2016年7月19日 (火)

面白ければ進んでやる

先日体験に来てくれたお子さんのお話。
来てくれるまでは、学校で習い始めた算数がよくわからず困っていたそうで、どのあたりで困っているのかを体験で見させて頂き、わかっているところとわかっていないところの境い目あたりのことを一緒にレッスンさせてもらいました。

体験レッスン後にその子が楽しすぎて頭がいっぱいになったと話してくれたそうなのですが、それとは別に、その後書店でその子自身が算数の問題集を買ってほしいと言って、おうちでそれをやり始めたのだというお話も聞かせてくださいました。
そして、その子が選んだのが単なる計算ドリルのようなものではなく、文章問題なのだとか。おまけに、それが結構できているのですとのお話でした。

教室に来てくれるまでは10までの足す・引くで困っていたそうなのですが、レッスンの何がどう働いたのかははっきりしないものの、どこかうまくつながっていなかったものがその子の中でつながったのでしょう。
わかった!という快感が、自ら算数の問題集を買ってもらうという行為につながり、更には誰に強制されることなく自ら進んで問題を解いているというのは、本当に嬉しいお知らせでした。

子ども達を見ていても、好きなこと、楽しいと思えることは、こちらが働きかけなくても勝手に向き合ってくれます。
何かを好きだと思わせる、楽しいと思わせるというのは、なかなか難しいことですし、結局はそれが個人差になるのでしょうし、それで得手不得手がそれぞれ違ってくるのだとは思いますが、教室に来てもらうからには、少しでも算数が楽しいと思ってもらえる場面を、できるだけ多く提供できたらなと、そう思います。

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2016年7月18日 (月)

オフでした。

3連休の方も多かったのではと思いますが、私は土日は仕事でしたので、今日のみのお休み。
今日は久しぶりにちょっとだけ遠出して、友人たちと会ってきました。
高校時代の同級生たちだったのですが、教員をしている子や理学療法士をしている子、そのほかにも子ども達の教育に関わっている子などもいて、楽しくて有意義な時間を過ごしてきました。

明日からまたどうぞよろしくお願いいたします。

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2016年7月17日 (日)

帰り際の「バイバイ」

子ども達とのレッスンは大好きで、いつも色々な発見があったり、驚きがあったりしますが、体験レッスンに来てくれた初めての子とレッスンをさせてもらった後、時々とても幸せな気持ちにさせてもらえることがあります。

小さい子達で、特にまだ初めのうちは、挨拶をするのが恥ずかしくてもじもじしてしまうということがよくあります。
もちろん、おうちの方や幼稚園などできちんと挨拶することが習慣づけられているようなお子さんも時々いますが、個人的には恥ずかしくてもじもじしている姿は可愛くて好きです。

そして、来たときは恥ずかしがって目も合わせてくれないような子達が、レッスンを終えて帰るとき、楽しかったとか、何らかの快の感情を抱いたように感じられる子が、親御さんに促されたからではなく、自ら「バイバイ」と手を振ってくれることがあるのです。

小さい子達にとっての帰り際のお別れの挨拶は「バイバイ」が自然なのだろうと思うのです。
その挨拶を、誰に促されることなく自らしてくれる瞬間が何とも愛おしくて幸せな気持ちになります。

今日は体験レッスンがあったのですが、来てくれた時は超もじもじでなかなか目も合わせてくれず、声もなかなか聞けぬまま、お母さんにぴったりくっついて、体はお母さんの方を向きながらのスタートだった子が、帰り際、ドアを出るときにバイバイをしてくれて、久しぶりにまた幸せだなぁと思いました。

世の中は連休中ですが、素敵な時間を過ごさせて頂きました。

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2016年7月16日 (土)

新しいことを学ぶのは楽しいこと

大人になると忘れてしまいがちなのかもしれませんし、特に私などは新しいことに挑戦するのが苦手な上にかなりの無精者ですので、新しいことに挑戦する機会、学ぶ機会というのは限られていますが、それでも、高校時代に挫折した数Ⅱや数Bを学び直して、ああ、こういうことだったのかと感じるときはやはり楽しいし、気持ちのよいものです。

ですから、それがまだ小さい子達であれば尚更、新しいことを学ぶときに、見ていてわかるぐらいのワクワク感が伝わってきたり、嬉しそうに問題に向き合ってくれる姿を見てこちらまで嬉しくなったりということがしばしばあります。
今日はある2年生さんとかけ算の学習を始めたのですが、「今日はかけ算をします」と言ったときの表情が、何ともいえないいい表情でした。

ワクワクしながら問題に向き合えると、理解も進みますし、問題をやり進めるスピードも速かったりします。
もちろん、常にちょうどいい感じの難易度で問題を提示し続けることは私にはまだまだ難しく、また、その日のコンディションによって普段なら何でもない問題ができないというようなこともあるので、常にそのいい表情を見続けることはなかなかできませんが、プラスの感情が働いているときは身につきやすく、効果が上がりやすいのは間違いありませんので、少しでも多くの時間をそうやって取り組んでもらえるよう、がんばらなくてはと思います。

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2016年7月15日 (金)

あっという間に7月も半ば

がんばったといえる日がほとんどないままに気づけばもう7月半ば。
夏休みまであと10日ほどになってしまいましたね。

最近は暑さのせいかレッスン中に眠くなる子が増えてきました。この時期はプールも始まりますし、おまけにこのところ天候も不順で暑かったり、じめじめ蒸したり、眠くなる要素がいっぱいですね…。

今日はレッスン後少し教材作りを進めていたのですが、一度調べてなんとか使えた機能も、きちんと控えておかないと、そのたび「あれ?どうやったんだったっけ?」という有様で、本当に思うように進みません…。
この忘れっぷりは何とかならないものかと思いますが、そりゃ、衰え行く脳細胞なのに一度やっただけで覚えられるんなら、まだぴちぴちの子たちが1回レッスンしたらばっちりマスターできますよね…。ちゃんと控えるようにしないとと反省しました。

夏休み中は今の感触では通常よりレッスンが増えそうですが、教材作りや読書もしないとなと思っています。
この夏、いかに生産的で達成感を感じられる夏にできるか、レッスン以外のことに関してどうすればやる気が持続できるか、ちょっと考えてみなくては。

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2016年7月14日 (木)

想像する・置き換える

今日のレッスンでの一場面。
算数のセンスがある子ながら、今日考えてもらっていたある問題がどうもピンと来ていない様子でした。
いわゆる「差集め算」とか言われる類の問題だったのですが、そういう言葉は使わず、過去にそういう問題を解いたことがあったので、考えてもらおうとしたのですが、「う~ん、え~っと」と言いながらも頭が働いていない様子。

そこで、「自分が配り係になったと思って想像してみてよ。何人いるか分からんけど、そこにいる子達に4個ずつ配ったら7個余ったから、じゃああと2個ずつ配ろうと思ったら17個足りなかったんでしょ?」と声をかけると、「想像してみてよ」と言った時点で目を閉じて、自分がみかんを配っているところを思い浮かべているようでした。

すると、さっきまで働いていなかった頭が働き始め、私が尋ね終わって程なく、「えっと、24個だから、2個ずつで…12人!」と明るい表情で答えました。
それは正に、頭の中で配っていくイメージをした上でスッキリ答えがわかりましたよという表情に見えました。

配る問題は余る、まだ余るでも、足りない、まだ足りないでもちゃんと考えられたので、次は4ページずつ読むのと6ページずつ読むのとでは読み終わるのに15日差ができたというものを考えてもらうことにしました。

すると、これはまたイメージができない様子。そこで、「みかんを1日4個ずつ食べるのと6個ずつ食べるのとでは6個ずつ食べたほうが15日早く食べ終わるって問題でも、考え方は同じよ?」と言ってみたところ、先ほどよりはイメージできているようではありましたが、まだピンとこないようでした。

そこで、そういえばこの類の問題が思考力系の問題集の中にあったなと思い出し、それはパズルやクイズっぽく見せるつくりの問題集なのですが、「この問題とおんなじ感じなんやけどね」と見せたところ、俄然やる気になったようで(むしろ、思考力系の問題集の方が数字が大きく、ページ数が多くなる、より難しい問題だったのですが)「そっちやる!」と言って考え始めました。

その結果、多少の手助けはしましたが、無事に解くことができ、先ほどの問題に戻ったときには「えっと、こっちを漱石にして、こっちを鴎外と…」と自分で置き換えながら考え始めました。

この様子を見ていると、想像することの大事さ、難しい問題でも何か考えやすい数や例に置き換える大事さをしみじみ感じました。
難しい問題でも何か簡単な数字に置き換えることで考えかたを思いつくということはよくあることですが、それを子ども自身ができるような力を育むことも、大切なのではないかなと思います。

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2016年7月13日 (水)

遅くなりましたが…。

あまり早くお配りしても、夏休みのご予定もはっきりしておられないのではと思っているうちに、すっかりぎりぎりになってしまいましたが、今日から夏期のレッスンに関してのアンケートをお配りしています。
ご回答期間が短いため、レッスンが金曜以降になる方には郵送させて頂きましたので、どうぞよろしくお願い致します。

例年通り、学校の夏休み中も夏期講習などは特にございませんが、回数を増やしたいであるとか、時間を延長したいというようなご希望がございましたらお知らせください。
また、普段遅めの時間帯のレッスンの方はお昼早めの時間へのご変更などもご希望がございましたら合わせてお知らせください。

また、何人かお尋ね頂いておりますが、ご兄弟などの夏休み中だけのレッスンのご希望にもお時間が合うようでしたら対応させて頂きますので、お気軽にお尋ねください。
どうぞよろしくお願い致します。

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2016年7月12日 (火)

最後は自分の選択

教室では子ども達に、とにかく考えることを求めます。
もちろん、子ども達は一人ひとりみんな違うので、どこまで助けるかもそれぞれ違ってきますし、その加減はなかなか難しく、何年やってもまだまだだなぁと思うわけですが、それでも、とにかく粘れるところまで粘って、子ども達に考えることを求め続けています。

これはとにかく最初が肝心で、放っておいても喜んで問題に向き合ってくれる子は別として、とりあえず答えを書いて大人の反応を伺ってくるような癖がつき始めているような子には、ちょっと困っていそうだからとすぐに手助けをするのではなく、この人助けてくれないなと諦めて考え始めるまでとにかく心を鬼にして手助けしないようにします。

試行錯誤をしつつ、大人の様子を伺ってくるようなことは無反応を貫いたりもしながら、少しずつ考えてわかるということがどういうことなのか体感してもらうのですが、それも突き詰めると最後はその子自身の選択なんだろうとも思っています。

実際教室でも、とにかく公式などを覚えて、それで解けたらいいというタイプの子もいました。そういう子には考えることがなぜ大事なのかを話したりもしますが、それでもどうしても考えるより覚えて処理するほうがいいというのであれば、我慢してうちに通わなくてもいいのよというような話をしたこともあります。
選択肢を提示した上で、その子がいいと思う方を選んでもらえばいいと、本当に思っています。

で、今日のレッスンで、高校生の子と数Ⅱをしていたときのこと。普段は結構よく考える子で、公式をとりあえず覚えるというタイプではないのですが、ある問題でさっさと答えを出したので、見ると公式に当てはめて解いていました。

私自身はその公式が今ひとつぴんと来ず、また、頻繁に使う公式などでなければすぐに忘れてしまう自信(?!)もあるため、ぴんと来ないものは、まず公式など関係なしに解くことができないか考えてみるようにしていて、その問題に関しては公式を覚えなくても解くことができたため、あっさり公式に当てはめて解いた姿を見て、その子に「ねえ、その公式に当てはめたらなんで解けるん?」と、理解しているなら教えてもらおうと思って尋ねてみました。

しかし、珍しくそれは意味は分からないけど当てはめただけだったようで、そこでその子に言いました。

「もし、それを忘れず覚えておく自信があるんだったらそれはそれでいいと思うよ。当てはめたほうが速く解けるしね。でも、この前正弦定理とか余弦定理とか忘れてたよね?あれはこの公式よりもっと重要やと思うけど、それでも忘れてたってことは、意味も分からず今これを覚えて使っても、忘れるんじゃない?だったら、忘れたときにどうする?公式使わなくても解けるかどうか考えてみたら?それで解けたら忘れたって大丈夫やし、覚えてたら使ったらいいやん?」

小学生はともかく、中学高校と上がるにつれ、教科も増え、テストにも追われるようになり、何でもじっくり考えて解くには段々時間が足りなくなってくるのも事実だろうと思います。
ですから、覚えておける自信があるのであれば、覚えて使うというのも一つの手だろうとも思うのです。ただ、人は忘れる動物ともいわれるように、頻繁に使うものでなければ、自然と忘れてしまう可能性は高いでしょう。
で、忘れてしまったときにどうするか、そこを考えておく必要があると思うのです。

忘れても違う方法で解くことができるのであれば、最初から覚えないという選択もできます。もしくは覚えておくけど忘れたら違う解き方で解けると確認しておけば安心感が持てます。
そのほかにも、覚える段階で自分でその公式を導けるようなところまできちんと理解しておくという方法もあるかもしれません。
そして、最後は忘れたら諦めるという選択もあるのかもしれません。

いずれにせよ、最後の選択は自分でするわけですが、そういう選択肢を提示する、知らせるというのが私の仕事の一つなのかなと思ったりもしました。
ただ、そういう選択肢があることすら気づかぬままの子ども達は世の中には少なくないのかもしれないという気もします。知っているかどうかで学習への取り組み方が変わる気がしますので、ひとりでも多くの子に気づいてもらえたらなと思います。

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2016年7月11日 (月)

大きな違い

教室で小さい頃から一緒にレッスンさせてもらっている場合は、公式を覚えて当てはめるような学びはしませんし、意味も考えずに覚えなさいというような指導も一切しませんが、教室以外での学びの場では、子ども達は多かれ少なかれ公式を使って解くという場面に出合うだろうと思います。

ただ、その「公式を覚えていて、きちんと解くことができる」という状態には大きく分けて2つの場合があるように思います。
私自身、学校で勉強をしていた頃は、その2つの場合のうち望ましくない方にバッチリ当てはまっていたと思うのですが、どういう2つかというと、ひとつはあまり何も考えず、ただ公式を正しく覚え、その公式を使うべきものを見分けて正解することができるというもの。そしてもうひとつは、なぜその公式に当てはめれば解けるのかきちんと自分の頭で考え、納得した上で、覚えて当てはめれば時間短縮にもなるしという感じで公式を使って解くというものです。

もちろん、かなりばくっとした分けかたですので、細かく見ればもっといろいろなパターンがあるのだろうと思いますが、意味も考えずただ公式を丸暗記して問題が解けるという子は、本当の意味では何もわかっていないに等しいということに子ども自身が気づいているかどうか、それが心配になることがあります。

中学受験などで一般的な受験塾では膨大な量の問題を解かねばなりませんから、それはそれは驚くほどの公式やパターンがあり、それら覚えて機械的に処理していくというような感じの「勉強」をせねばならない子たちが少なからずいるのではないかと思います。
でも、それをただ機械的に暗記して問題をこなしているだけだと、長い目で見ればそれはその子にとってほとんど何の力にもならないのだということを知っておいてほしいのです。
それを知った上で、受験という目標をクリアするために一時的に時間短縮のために…というような非常手段としてそういう勉強法を選択するのであれば、それも時には必要なのかもしれませんが、心配なのは、勉強というのはそういうものだ(よく考えず、覚えて機械的に処理するのだ)と思ってしまう場合です。

最近よく書きますが、私は最近数Ⅱや数Bの問題に取り組んでいて、高校時代に既に挫折した内容に差し掛かっているため、ほぼ真っ白の状態から学び直しをしています。
例題や解説を読んで、同じようにやってみれば、そこに書かれている類題や演習問題は解くことができても、それは「理解した」とは違うのだなと、改めてしみじみ感じるのです。

本当の意味で「理解する」「わかる」というのは、どうしてそうすれば解けるのか、その公式はどうやって導かれるのか、その疑問をきちんとクリアにできたということなのではないかと。
そして、それ以外の、例えば「解き方はわかる」というような」状態は、その問題を理解しているというのとは全く違うのだと思うのです。

全ての問題、全ての教科をきちんと考えて理解しながら進めていくというのは、物理的に無理な場合もあるかもしれません。
それでも、意味も分からず問題を解き続けても、もしかすると全く何も自分の力にならないかもしれません。
時間の許す限りはしっかり自分の頭を通し、意味を考える、なぜ?どうして?と考えることを習慣にできたら、それはいずれその子にとって大きな力になるのではないかなと思います。

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2016年7月10日 (日)

オフでしたので

今日は更新お休みします。

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2016年7月 9日 (土)

「ママが教えてくれたやり方」

子ども達とレッスンをしていると、時々子どもの口から出る言葉があります。
それは、「ママが教えてくれた」とか「パパがこうやりなさいって言った」というような、お父さんやお母さんがやり方を教えてくれたというものなのですが、今日のレッスンで久しぶりにその言葉を聞きました。

そして、そういう言葉を口にする場合、大きく分けて2つのパターンがあり、ひとつは教室ではそういうやり方はしていない、もしくはお勧めしない方法を子どもがしている様子が見受けられたようなときに、「誰かに教わった?」とか「学校かどこかでそうしなさいって言われた?」と尋ねたときに前述のような答えが返ってくるというもので、これはまあ、おうちでお子さんが詰まっていたり、悩んでいるように見えたりして、おうちの方が知っている方法を教えてあげるという感じなのでしょうから、まあそういうこともあるだろうなと。

しかし、そうではないもうひとつのパターンがあるのです。
それは、その方法は既に教室で一緒にレッスンをした内容で、つまり、私と一緒にその方法で学習し、実際教室でできるようになっていたような子が、そんな記憶は全部消し去られたかのように前述のような発言をするというものです。

今回、算数のセンスはあるのに、面倒なことがとにかくキライで、難しそうに見えたら考えようとしないというタイプの子が、かけ算のレッスンで、教具を見せながら考えてもらっているときに、「×9」を考えるにあたって、先に「×10」の教具を見せ、答えを言ってもらった後で、そこから1本教具をのけて、「×9」の答えを考えてもらおうとしているのに、ひたすらに1から教具を数えているようなことがあり、ちゃんと教具を見るよう促し、「×10」と「×9」では何が違うかも確認し、「×10」の答えから1本分のけると考えやすいということを確認しました。
それも一度だけでなく、かけ算の全ての段で教具を見せる際には「×10」を見せてから「×9」を見せるようにし、何度もやり取りをしました。

しかし、今週のレッスンで「×9」の問題をえらく長い時間考えていることがあったので、もしや面倒でまた1から指を折って数えているのだろうかと(実際そうしているときもあるので…。)「どうやって考えたの?」と尋ねたところ

「え?ママが教えてくれたやりかたで…。」

そう答えたので、なんだろう?どうせいずれ覚えるのだからと九九の唱え方を先に教えられたのかしら?と思ったりしながら「なんて教えてくれたの?」と尋ねたところ

「10置いたところから1こ取るって。」

……。
その子にとっては、その考え方は私と一緒にレッスンをしたことではなく、ママに教えてもらったことなんだなぁと、ちょっぴり切ないような複雑な気持ちになりました。(苦笑)

でも、子ども達を見ていると、子ども達は本当にパパやママが大好きなんだなぁと思うことがしばしばあります。
私とやったことだろうが、大好きなママが教えてくれたことだろうが、その子がその考え方をきちんと理解できて使えるのなら、どちらでもいいんですよね、きっと。
とはいえ、そんなに印象が薄いレッスンをしているのだとしたら、それは反省しないといけませんね。

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2016年7月 8日 (金)

考えたことがなかった…。

まだ1年生ながら、もう10000までの足し算・引き算はできるようになっていて、この前までは嵩の学習をし、先日から長さの学習をしている子がいます。

いくらよくできるとはいえまだ1年生ですから、実生活の中での経験という意味ではまだまだ限られているでしょうし、100を超えるような数は、ある程度の年齢になってくればお金などをイメージして考えられるようになったりもしますが、1年生ではまだお買い物をする機会も限られており、更には千円札や一万円札を使うようなお買い物となるとほぼ経験がないでしょうから、やはり難しく感じるものなのだろうとは思います。

しかし、苦労しながらも最終的にはL・dL・mLもかなり理解が進み、そこで苦労した後のcm・mmは難なくクリア。その後にmが登場したわけですが、そこで、1mは100cmだと答えられるにも関わらず、問題を解くたび何度も何度も10cmを1mとして繰り上げてしまうということが起こりました。

巻き尺を実際に見ながら考えてもいいと言って、巻き尺ではきちんと答えにあたる長さを出し、じっとそこを見つめているにも関わらず、すんなり答えが書けないということが何度も何度も繰り返されました。

もちろん、疲れていたとか、たまたま調子が悪かったとかいう可能性もありますし、また、学び始めたところなので混乱したり苦戦したりすること自体は不思議ではありません。
ですが、実際に目で見ているところをそのまま書けばいいのに、なぜそこまで悩んでいるのかが不思議でした。

そして、なぜ悩んでいるのかを尋ねてみても、まだ1年生ですから、それを的確に説明できるわけもなく、恐らくその子もモヤモヤし、私もなんでだろうとモヤモヤし…。
でも、ふと思ったのです。「数は10で繰り上がる」というのが「普通」だという感覚があるせいなのかもしれないと。

ある程度成長してくれば、繰り上がりも色々あることを理解したり、そもそも「k」や「d」「m(ミリ)」が何を表しているのかを理解したりして、納得していくのだと思いますが、まだ小さい子達にとっては、1が10集まると繰り上がり、10が10集まるとまた繰り上がり…ということを最初に学んでいきます。
そして、その延長線上にあるからなのか、dLは10集まるとLに繰り上がることも学習しますし、長さも最初はmmが10集まるとcmに繰り上がるというところから始まります。

こんなにも10集まると大きな位へ繰り上がるという学習が重なると、53cmは5m3cmのように繰り上げてしまう気持ちもわからないではないなと。
因みに、子ども達が時間計算を難しく感じるひとつの理由は、時間は10進法になるところがなく、分と秒は60で繰り上がり、時間は24で日に繰り上がるという、慣れない繰り上がりが2種類も登場するからではないかと思います。
単位換算を難しく感じる子が少なくないのは、単位によって、10倍、10分の1の関係だけではないものが一般的に使われている上、一律ではないということがあるのではないかとも思います。

まあ、結局はその子がmとcmの関係で悩んでいるのはまだ幼いため経験が少ないというところが大きいとは思いますので、実際に長さを測ったり、目で確かめつつ、進めていくことが大事なのかなと思いますが、10進法の考え方が影響しているかもということはこれまで意識したことがなかったので、これからその点も意識してレッスンをしていこうと思います。

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2016年7月 7日 (木)

感覚があるかどうか

先週、眠さのせいなのか何なのか、絶不調だった子が、今週はスッキリはつらつとした表情で登場したかと思えば、普段の調子よさで、かなりのセンスを発揮しつつ、どんどん問題をクリアしていってくれました。
中学入試に向けて勉強をしている子なので、塾で習ってしまう前に、できる範囲でちょっとだけこちらでやっておこうということで、今回は錐体の表面積や体積に関する問題をやることになりました。

その中で円錐の展開図について、母線と底面の半径と中心角との関係を考えるようなものがありました。
母線と底面の半径との関係は360度と扇形の中心角の比に等しいのですが、一般的には「中心角/360度」を約分していくことになるだろうと思います。

60/360なら6分の1ですし、72/360なら5分の1です。約分をすればよいということであれば、大きさの感覚がない子でも計算練習、訓練をすれば、ある程度スピードを上げることはできるかもしれません。
ですが、図が与えられていて、中心角60度となっていたら、感覚がある子は「6分の1だな」と見ただけでわかったりします。

今日の問題の中に、中心角が216度というものがあったのですが、これも、公式で考えれば216/360を約分していくわけですが、パッと見て36で割れると気づく子はセンスが抜群にある子か、相当訓練を積んだ子だろうと思います。

ですが、ここで数量感覚がきちんと伴っている子であれば、180度より36度大きいとわかれば、全体の2分の1と10分の1を合わせたものだと暗算だけで気づき、10分の6だから5分の3だな…というような考え方をすることも可能です。
これは多少複雑ですが、90度が4分の1とわかっていて、感覚が伴なっている子は45度がその半分だとわかればすぐに8分の1だと気づきます。

もちろん、これぐらいのことは訓練でかかる時間を短縮することは可能かもしれませんが、このことに限らず、数量感覚が伴なっているかどうかは、色々な場面で自分を助ける大きな力になるのは確かだと思うのです。

うまくお伝えできていないかもしれませんが、約分をすることはできても、約分をした5分の3がどのぐらいの大きさなのかを全く意識しないまま、実感を伴わないままに答えだけを出しているということがあり得る、そして、それは決して珍しいことではないということです。

5年の冬頃から来てくれた子は、子の数ヶ月の間に、こちらが促さなくても自然と絵や図が描けるようになりました。そして、穏やかな表情で問題に向き合うことが増えてきました。

そういう力をしっかり育めるのは幼児、小学生の間だと思います。
お子さんが何かの問題で苦戦しているとき、解き方を教えて覚えさせるのではなく、何か具体物でそれを見せたり、絵を描かせたりして、本当の意味で理解できるよう持っていってあげることが、後に確かな力になっていくのではないかなと思います。

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2016年7月 6日 (水)

記事のご紹介

今日、インターネットで「さかなくん」とお母さまに関する記事を見つけました。
これまでにも、「さかなくん」のお母さまの子育てについて、目にすることがありましたが、これを読んで改めて感動しました。
http://www.asahi.com/articles/ASJ6W61RHJ6WUEHF01S.html

「さかなくん」はもしかすると、発達上少し偏りがある、もしくは困難があるお子さんだったのかもしれません。(以前テレビでそんなような話を耳にしたことがあるような気もします。)
少なくとも、幼いころのエピソードとしてお母さまが言っておられる、トラックの絵をタイヤの溝まで再現するというのは、「普通」の子どもの感覚とは少し異なっているのは確かだろうと。(「普通」というのは結局は相対的評価ですし、何を持って普通というか、また、普通がいいのかというのは一旦置いておいて頂いて…。)

学校でも授業中にまで絵ばかり描いていたら、恐らく保護者の方の99%ぐらいは授業中はやめなさいというようなことを言うのではないかと思いますし、もし私が親だったら、確実に言っているだろうと思います。
それでも、担任に対してさえも、勉強ができなくてもいい、好きな絵を好きなように書いてほしいと言えるお母さまは本当にすごいな、素晴らしいなと、思わず涙が出てしまいました。

我が子の個性を大事にし、我が子を信じ、その結果、小学校の時点で「勉強ができない」と言われていた「さかなくん」は大学で人に魚について教えられるまでの素晴らしい専門知識を身に着けられ、ほかにも様々な才能を開花させられたということなんだろうなと。
色々考えさせられる、本当に感動的なお話でした。

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2016年7月 5日 (火)

ちょっとした疑問

教室では主に算数・数学を一緒にさせてもらっていますが、国語を一緒にする機会もあり、その際はいわゆる長文切りとり系の読解問題よりは文法事項など、学校の国語であまりやらないような部分の方を主にさせてもらいます。
そのため、中学生とは文法の学習をする機会が時々あるのですが、文法の問題集などを見ていると、感じる疑問があるのです。

というのは、これまで目にした文法の問題集はみんな、最初に文・文節・単語などの語句とその意味などの説明から始まり、品詞の説明、自立語・付属語の区別などの説明へと移っていきます。
それ自体は、最初に文法についての決まり事や大枠、品詞の区別や品詞にはどういうものがあり、それぞれがどういう働きをするのかという基礎知識を知るという意味で異論はありません。
全体像をとらえてから細部を見ていくという方がいいということなのでしょう。

しかし、その流れでいきなり、文を単語に区切らせた後、その単語の品詞を問ったりするということが少なくないのです。
例えば、形容詞と形容動詞はどちらも自立語で活用があり、ほかの言葉を修飾する働きがあるとなれば、その区別は、更につっこんで言いきりの形が「~い」になるか「~だ」になるかというようなところを学ばなければ判断できなくても不思議はないはずです。
更にそれが助詞・助動詞の区別になれば、それぞれについて詳しく学んだ後でも中には判断が難しくて迷うものもあるぐらいですから、最初のとっかかりでその判断をさせるのはかなり無理があるように思います。

それは以前から感じているのですが、なぜか文法の問題集は多少の程度の差はあっても、ずっとそんな形式のままのようで、どうしてなのかなと不思議に思います。
品詞にはどういうものがあり、それぞれどのような働きがあるかや、自立語か付属語かの判断ぐらいはできるかなと思いますし、品詞を問うものでも、問題によっては判断できるものもあるかもしれませんが、曖昧な理解の段階でいきなり判断が難しい問題に取り組ませると、文法って難しい!という意識の方が先立ってしまうような気がして、そういう意味でもなんとかならないものかなと思ってしまいます。

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2016年7月 4日 (月)

ワンクッションはさむ

なかなか思うように進まないながらも、少しずつ教材を作り進めて2年余りになります。
当初の予定よりは遥かに遅いペースながらも、どうにか作り進めることができていますが、作る上で意識していることがあります。

市販されているものであれ、塾用のものであれ、中には学校用の問題集などでさえも、問題集やワークブックなどは大半が、単元の初めに語句の説明などがあり、続いて例題が。その下には例題の解き方が書かれており、例題の解き方を理解した後に類題を解き、その流れで問題演習へ進むというような流れで作られているのではないかと思います。
時には問題演習のページにさえ、解き方のヒントのようなものが書かれていて、そこに書かれたことを手掛かりにすれば、大して考えることなく答えを出せるというようなものさえもあります。

また、教科書であっても、結局は新しい単元の学習について、それを読めば理解できるようにということを意識して作られているわけですから、導入を読み、例題などを見、その流れで問題演習をするという意味では、やはり同じような作り、同じような流れになることも少なからずあるのかもしれません。

もちろん、教科書は書かれていることが限られていますから、それをもとにどんな授業をするかはそれぞれの先生の裁量による部分もありますので、説明から入らず、子ども達に考えさせることから始められるという先生もおられるだろうと思いますし、そういう先生がたくさんいらしたら素敵だなとも思います。

さて、話を戻しますが、そういう一般的な教材を使っていると(本来そんなつもりではなかったのだろうと思いますが)、子ども達は知らず知らずのうちに考えるチャンスを奪われている場合が少なからずあるように感じています。

例題の解き方を最初に教われば、わかったつもりになって、同じようにやってみたら問題が解ける。
厄介なのは、そうして解けたものは「わかっている」と思ってしまって、何か疑問を持ったり、意識的に考えてみたりということをせぬまま通り過ぎてしまう場合が少なくないということです。
初めに解き方を見てしまうと、「どうやって解くんだろう?」という頭の使い方は一度もする機会がありません。
書かれていることを読んで意味や方法が理解できたら、「わかった」と思うのは自然だろうと思いますし、「わかった」ので、それに倣ってやってみたら別の問題も解けたとなると、その学習については「できる」と思う子がほとんどでしょう。
しかし、少し時間が経ってやってみるとすっかり忘れていたり、全くできなくなっていたりということは、決して珍しくないはずです。

自分で作る側になると、仮にひとりで読んで問題をやり進めるという設定にした場合でも使えるようにと考えると、ついつい説明を書いてしまったりということをしがちになります。
もちろん、説明をせねばならないことはあるのですが、そういうとき、できる範囲でワンクッションはさんだ提示をするよう気をつけています。

例えばですが、小数のたし算の学習で「0.2+0.5」という問題があったとして、見ただけで0.7だと「感じる」子はそれでいいと思うのです。(足し算というのはどういう計算かを理解しており、0.2、0.5というのはどういう数かを理解していれば、0.1が7つ分になると「気づく(考える)」ことができるだろうと思います。)

ですが、そういう感覚が乏しかったり、促されなければ考えないような子に「0.2+0.5は0.7になります。」というように、仮にこの理由として、数直線を使った説明や、0.1何個分になるかの説明などがされたとしても、答えを提示し、その理由を説明するという流れで進めた場合、この間、子どもは自ら考えるチャンスはありません。
説明を聞いて「ああ、そうなのか」と理解するか、理解できないかのどちらかになるのがほとんどだろうと。

でも、仮にそういう子に「0.2+0.5の答えは何になると思いますか?」と提示すれば、多くの子が何らかの答えをまず考えるのではないかと思うのです。
この例は簡単なので、正解できる子が多いのではないかと思いますが、自ら考えて「0.7じゃないかな」と思ってから、「答えは0.7です。合っていましたか?」となれば、合っていた子は「やった、合ってた!」と思ったり、「こんなの簡単やん」と思ったりするはずです。
間違っていた子は「ああ、間違ってた。じゃあどう考えたらよかったんだろう?」とか「あれ?なんで0.7になるんだろう?」とか、自分でこうじゃないかなと思った後ですから、なぜ違ったのか、どう考えたらよかったのか、やはり自分の頭を使って意識的に説明を聞くようになる可能性が高くなるはずです。

「はず」という書き方をしているのは、どんなことにも例外があり、特に子ども達は本当にみんな違った個性を持っているので、私の推測に当てはまらない子がきっといるだろうと思うからで、多くの子はこの推測に当てはまるのはほぼ間違いないのではないかと思います。

このようにワンクッションはさむだけで、理解の度合いや説明を聞くときの集中度が変わってくるのはほぼ確実ではないかと思うのです。
ですから、教材を作る上で、「どう思いますか?」「なぜそうなると思いますか?」というような問いかけをできるだけはさみこむよう心掛けています。

家庭学習などでも参考にして頂けることがあるかもしれませんので、ちょっと書かせて頂きました。

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2016年7月 3日 (日)

オフでした。

今日は3歳の頃からの付き合いの幼馴染が、7月下旬に引っ越して実家近くに戻ってくるとのことで、もうひとり、小学校からの友人と3人で彼女の新居の採寸がてらお邪魔してきました。
幼い頃は実家同士が徒歩5分ぐらいで、社会に出てから彼女が神戸を離れ、その後私も実家からは少し離れましたが、再び徒歩10分圏内ぐらいに住むことになりそうで、嬉しいなと思います。

と、全く仕事に関係のない話題で失礼いたしました。
もう7月も5日。暑さや更年期やもろもろでなかなかがんばりが利きませんが(元々の性格の問題もありますが…。)今週もどうぞよろしくお願いいたします。

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2016年7月 2日 (土)

見た目は大きいのかも。

子ども達とレッスンをしていると、パッと見の印象というのも結構大きいのかもしれないと思うことがあります。
以前、ある塾の塾長さんが、大学入試などの難しい問題でも、大きく書けば簡単そうに思えるというようなことをブログに書いておられたことがあるのですが、実際それも一理あるなと思います。

例えば、問題数も何もかも全く同じ計算問題でも、小さい字で書かれているものと大きな字で書かれているものを見ると、小さい字で書かれている方が難しそうに感じる気がします。(中にはそうでない方もおられるかもしれませんが。)
また、子ども達にやってもらっている問題集の中に、クイズやパズル感覚でイラストたっぷり、A4の1ページに問題は2問というような作りのものがあるのですが、内容は思考力を要するそこそこ骨のある問題中心というものがあるのですが、それを見せて、いきなり身構える子はこれまで出会ったことがありません。

もっとわかりやすい例で言えば、私は新書などでも小さな文字で行間もほとんどなくびっしり書かれているものは、開いた瞬間、まだ読みもしないうちに難しそうと思ってしまいますが、同じような内容を行間に余裕を持たせ、少し大きめの文字で書いてくれたら、恐らく随分とっつ
きやすくなるのではないかという気がします。

そういう意味でも、子ども達に最初に問題に取り組んでもらう際、見た目の印象というのもかなりやる気を左右する可能性があるのではないかなと。
簡単な例でいえば(まだ試してみたことはありませんが)、紙の節約とかそういうことは一旦置いておくとして、子どもに計算問題を20問させたいときに、小さい文字で1枚のプリントにぎっしり書いてあるものと、1枚のプリントには4、5問ずつに分けたものを用意した場合、取り組むときのハードルは後者の方が低く、終わった後の達成感は(特に子どもにとっては、問題数が何問かということより、プリントの枚数がいっぱいできたという方が「よくできた」と感じる子が多い気がしますし。)後者の方が高いのではないかなという気がします。

既存の教材ではなかなか難しい面もありますが、できる範囲でそういうことも意識して試してみる必要もあるかもしれないなと思います。

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2016年7月 1日 (金)

邪道なのかな。

今日も試験前ということで高校生の子の振替レッスンがありました。
学校の問題集のわからないところや間違えたところを一緒にするということになっていたのですが、数Ⅰの試験範囲に二次関数が入っていて、その問題を見ていてふと思いました。

確か、y=(x-2)(2x+1)という式について、最大値や最小値を考えるようなものだったのですが、その子は当たり前のように式を展開してから平方完成して、頂点を見つけて…という流れで問題を解いていました。
もちろんそれで構いませんし、学校などでもそのように指導しているようにも思いますし、その子が持っていた問題集の解答解説もそういうような解き方で統一されていた気がします。

自分が高校生の時の記憶は曖昧なので、絶対にそれを習っていないかどうかはわからないのですが、少なくとも、上述の式を与えられた場合は、式を見ただけでx軸との交点が「x=2、-1/2」だとわかりますから、軸はその2点の中点にあたる「x=3/4」で、そのときの最大値はx=3/4を代入すれば解けます。

しかし、展開して平方完成をするとなると、これに比べてかなり手間がかかりますし、手間がかかるということはミスする可能性も増えるということではないかと思います。

もちろん、問題によっては展開して平方完成するほうが簡単なもの、そう解く方が望ましいものもあるのだろうと思うのですが、上述のような問題をこんな方法で解くのは邪道なのでしょうか。
少なくとも、解き方はひとつではないということを普段から意識していることで、ひとつの方法を忘れても別のアプローチができるかもと考えられるように思いますし、指導者が簡単だと思う方法を難しく感じ、難しいと考える方法を簡単だと感じるような子がいる可能性もあります。そういう意味でも、指導者側が色々な解き方、考え方を認め、提示していってもらえたらなと、そんなことを思ったりします。

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