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2016年6月30日 (木)

考えないことの怖さ

小さい頃から通ってくれていて、算数のセンスのいい子が受験のために4年生からは塾と並行して通ってくれています。
気を付けてはいるものの、受験塾のスピードは速く、学習順も学校などとはかなり違うので、分数同士のわり算はこちらではほとんど一緒にできないうちに、塾で習ってしまいました。
でも、よくわからないと言っていたので、その後こちらでも復習したのですが、うちの教室ではきちんと自ら考え、理解して、納得して次に進むということが当たり前になっていたのに、先にやり方を教わり、それを覚えて練習するということをした影響が思いのほか大きく、「ひっくり返してかける」という部分だけが強くインプットされてしまったようです。

もちろん、教室ではそんな風にやり方だけを説明することはありませんが、今日のレッスンでちょっと久しぶりに分数のわり算を使う必要がある問題が出てきました。
初めは勘違いして、2つの数をかけたようでしたが、それは自分でもう一度式を見直して気づいたようで、何も言わなくても計算をし直し始めました。
なら大丈夫かなと思っていると、本来は「10」になるはずの答えが「1/10」になりました。

そもそも、円錐の底面の半径と母線との関係を考えるようなもので、底面の半径が母線より長くなるはずがないのですが、今日は眠かったそうで、そのことにも気付いていないようです。
それにしても、10分の1という答えになったということは、逆の計算をしたんだろうか?と手元の式を見ると、計算用紙にはちゃんと「12÷6/5」という式が書かれています。
あれ?と思ってその次にどんな計算をしているのか目をやると、そこには「1/12×6/5」と書かれていました。
なぜか割られる数がひっくり返り、割る数はそのまま掛けられています。

びっくりしてしまって、「なんで最初の数が突然小さくなるの?」と声をかけたのですが、眠いのか何なのか反応がほとんどなく、わかっていないような、眠そうな顔をしてるだけです。

もちろん、子ども達はその日のコンディションによって、普段できることができなくなることもあるので、今日たまたまだったのかもしれませんが、「ひっくり返してかける」という部分だけが頭にインプットされてしまっているんだなということを改めて感じ、どうすればそこを抜け出せるのか、こうなってしまうと、勘違いしないところまで反復訓練するしかないんだろうかと、ちょっと気の毒なような、申し訳ないような気持ちになりました。

ちょっと考えれば、12を分けるはずなのに、いきなりそれが12分の1を分けるということになるのはいくらなんでもおかしいと気づきそうなものなのに、説明から入る指導は、力がある子でさえこんな風になってしまうことがあるのだなと、改めて怖さを感じます。
子ども達にはそれぞれ考える力があるので、できるだけそれを存分に発揮してもらえるよう、努めていきたいと思います。

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2016年6月29日 (水)

しっかり考えられなければ

今日は高校生の子とのレッスンがありました。
数Aで順列・組合せなどをやっていて、近々試験があるということだったので、学校の問題集のわからないところなどを一緒にすることになりました。

高校時代、私はこの辺りが極めて苦手だったのですが、今思えばそんなのは当然で、むしろ、あんな勉強の仕方で順列・組合せがある程度以上できるという方が奇跡だっただろうと思います。

順列・組合せの問題の難しさは、計算式などを覚えただけではどうにもならないというところではないかと思います。
1つ1つの問題で、問われているのがどういうことか理解し、どの方法で考えるのが簡単か判断する。もちろん、それはほかの問題でも同じではありますが、問われているのがどういうことかを正しく理解し、更に、それを考えるにはどういう方法がわかりやすいか更に考え、漏れなく、だぶりなく、正しい答えを、できるだけ面倒ではない方法で導き出すということを求められる場面がとても多いように思うのです。

幸か不幸か、順列・組合せに関しては、実生活の中で出合うことのある場面がほとんどです。ですから、公式などを知らなくても、もしかすると小学生でも解ける可能性があるということなのかもしれません。
実際、簡単なものであれば、表や樹形図などを書いて小中学生も解きますから、その延長線上にあると考えれば、ひたすら地道に書き出してみるなどすれば、多くのものを解くことはできるのだろうと思います。

ただ、その書き出す作業をする際にも、どう書き出せばミスが少ないかの判断が求められたり、当然ながら高校の数学ですから、全部書き出していてはいくら時間があっても足りないというようなものが多いわけで、となると、最初いくつか書き出してみることによって、こうすれば計算で出せそうだという判断をする必要があったりするのでしょう。

こう考えたらわかるなと気づいたときや、考え方がしっかり理解できたときには、やはりほかの単元と同じようにすっきり感、満足感は感じられるのだなということもわかり、要するに、高校生だった私は、しっかり考えずに公式などをこねくりまわそうとしていたから、全く楽しいと思えなかったのだなと感じました。(もちろん、今でも得意ではありませんが…。)

小中学生の間に、覚えて反復するというような勉強の仕方をし続けた子たちの多くは、かなりの確率でこの分野で躓くんだろうなと、そんな気がします。
いつもいつも同じことを言っていますが、じっくりしっかり考えるというのは、本当に大切なことなのだと思います。

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2016年6月28日 (火)

よく考える子でも

今日のレッスンでのこと。
通ってくれるようになってまだ日の浅い1年生さんとのレッスンがありました。
その子は初めからしっかりじっくり考えることができていて、感心しているのですが、今日のレッスンも、楽しそうに終盤までよくがんばってくれていました。

レッスンの最後に見た目はちょっとお遊びっぽくも見える、算数の思考力系の問題をやってもらうのですが、これまではそれもしっかり取り組んでくれていました。
しかし、なぜか今日の1問目、その子ならわかりそうな気がするのに、4択のうち1つは答えではない理由も説明できたものの、あと3つは詰めて考えようとしません。
ひとつ答えを書いては「これかなぁ」と言い、私が反応しないと「こっちかなぁ」と答えを書き替え…。全く考えていないのがまるわかりです。
その子のそういう姿を見るのは初めてだったので、ある意味新鮮だったのですが、レッスンも終わりに近づき、今日もしっかり頭を使った後だったので、考えないのであれば今日その問題をしなくてもいいから、ほかのことをしようと話しました。

まだ小さい子で、そういう姿も初めてのことでしたから、当然私は怒ることもなく、普通の口調で、それでも考えずにマルをもらっても何のプラスにもならないから、それなら無理にやらなくっていいんだということを話して、「怒ってないよ?」と確認すると「うん、わかってる」と。
それでも問題を飛ばすということが躊躇われたのか、決めかねている様子だったので、「じゃあ、こっちやってみて」と違う問題を指してみたところ、それはすんなり意味が分かったようで、楽しそうに解き始めました。

多少似た問題だったのですが、その2つにはその子にとっては大きな違いがあったということなんだろうなと思いつつ、普段しっかり考えることが普通にできる子でも、時には考えず適当に済ませようとすることもあるのだなと、ちょっと新鮮な気持ちにもなりました。

まあ、確かにじっと集中して考え続けるのは結構消耗することでもありますから、小さい子であればそんなことがあっても不思議ではないのでしょうね。
この子はよく考える子、この子は考えるのが嫌いな子というように自分の中で勝手にイメージを作ってしまわないよう(まあ、いいイメージは作ってもいいのかもしれませんが。)、よりしっかりと一人ひとりの子を見て行けたらなと思います。

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2016年6月27日 (月)

自分で考えることの重要性

昨日の記事にも関係しますが、最近、本当に悲しくなるほど、人を騙して儲けるというような犯罪や、犯罪すれすれの勧誘などが、毎日のようにニュースに取り上げられ、実際身の回りでもそういうことが少なからず起こっているのではないかと思います。

詐欺の手口はどんどん巧妙化し、例えば、インターネットで個人情報が大量に流出したというようなニュースでも、悪意を持ったメール送信者からのメールはどんどん疑いを持たないようなものになっていっているようだといいます。

SNSなどを利用していても、自分の知らないうちにアカウントを乗っ取られて勝手にメールを送られたり、友達申請を送られたりというようなこ被害に遭った友人や知人も何人もいます。

振り込め詐欺などは本当に卑劣で、我が子を思う親心に付け込んでというわけですから、特に女親であれば、気が動転して冷静な判断がつかなくなることもあるのだろうと思いますが、それ以外の詐欺商法、詐欺まがいの勧誘などは、普段から色々なことをきちんと考え、学んでいるかどうかということも大事になってくるのではないかと思えます。

例えば、スパムメールなどは、文面をきちんと読んでみると、例えば大手の銀行や企業名を名乗っているにしては不自然な日本語、稚拙な表現などが見て取れることがしばしばあります。
簡単な例で言えば、企業が文書でお詫びをするのに「本当にすみません」とはまず使わないだろうと思います。
そういう小さな違和感を感じられるかどうかは、普段から色々なことに意識を向け、考えておく、学んでおくということにかかっている部分もあるのではないでしょうか。

また、昨日のような勧誘も、普通に考えれば、安くなるよという話をわざわざ営業マンが1軒1軒訪問して勧誘するということ自体、かなり不自然なわけです。
企業というのは利益を上げなければ成り立ちませんから、本当に営業マンの言うように「何も変わらない」のであれば、私を勧誘しても企業側はこれまで入ってきていた金額が月々1000円以上少なくなるわけですから、契約すればするほど損をすることになるはずです。
それでも勧誘するということは、どこで利益を上げられるのか、場合によっては契約を取れば他企業などからペイバックなどがあるということもあるかもしれませんが、とにかく、そこを考える必要があると思うのです。

ものを安く売るという場合は、賞味期限が近いとか、外装が傷んでいるとか、新製品でお試しのため儲けを考えずにとか、色々な理由が考えられますが、何も理由が思い当たらないような場合、その理由を尋ねてみるとかするだけでも、被害に遭う可能性を減らすことができるのではないかと思います。

今、大学入試を変えようと国が動き出していますが、少なくともこれまで一般的だった受験勉強では、与えられたものをよく考えることなくこなし、意味もよくわからないままとりあえず答えを書いて…というような「訓練」に近いものと言わざるを得ない面も少なくないのではないでしょうか。
そういうことを繰り返していると、いつの間にか考えることができなくなっていく危険があります。
これは何も勉強に限ったことではないのです。

勉強では考えずにただこなすけど、生活の中では何でもよく考えているよというような子どもは恐らくそうそういるものではないだろうと思います。
大袈裟かもしれませんが、自分を悪意を持った他人から守るためにも、自分でしっかり考えるということを小さい頃からじっくり時間をかけて身につけることは、本当に大事なことなのではないかと思います。

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2016年6月26日 (日)

うんざりしますが…。

今日はオフで家でダラダラと過ごしていたのですが、夕方インターホンが鳴り、「今度こちらのマンションの通信管理を依頼されましたなんとか(社名を忘れました…)と申します。通信基盤の件でご案内があり、説明の紙をお渡ししたらすぐ帰りますので、オートロックの開錠だけお願いします。」と。

ちょっと気になったものの、小さいマンションで過去にも管理会社が変わったりして、ポストの鍵交換などのときに手渡しで上がってこられたこともあったので、開錠し、ドアも開けました。
しかし、開けるとそこには男性が2人。紙を渡したら帰ると言ったのに、あこれこ質問をし、説明が始まりました。
こういってはなんですが、説明をしている男性はどうも胡散臭い。どうも勧誘のような気がする…。
説明としては、N○Tさんがソフト○ンク光と提携?をしたので、手続きなしに月々の利用料金が1,000円以上安くなるというものだったのですが、どうしても違和感が。
おまけに、名前を書くだけと言っていたのに、タブレットを取り出してN○Tのサイトの何か手続きをするページを見せられ、そこに名前と電話番号だったかを入力するように言われました。

「これは今ここで申し込むのではなく、紙をお預かりして検討するということはできないのですか?」と尋ねると、「僕の説明のどこがわかりにくいですか?」となんだか答えをそらします。

「説明が分かりにくいとかではなく、勧誘に来られたら、その場で契約はしないようにしているので、もし今契約しなければ、今のまま高い料金のままということであれば、それでも仕方ないかなと思ってます。」
そう伝えた途端、元々胡散臭かったのですが、一瞬にして目がものすごく恐ろしい目になり、
「わかりました。じゃあ、高いまま使い続けてください。」と吐き捨てて去って行かれました。

すごく嫌な気持ちになりつつ、ちょっと検索してみたところ、全く同じ手口で契約寸前まで行かれた方のブログが。
更に検索すると、とにかく悪評が続々と…。
ブログにも書かれていますが、かなり巧妙な説明(だましているわけですが…)をしてくるので、一応ご参考までにブログのURLをのせさせていただきます。

http://blog.odoruinu.net/2016/04/08/alert-for-softbank-hikari/

それにしても、こういう手口、うんざりします…。

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2016年6月25日 (土)

子どもって不思議

これまでにも何人か、問題が難しそうだと(実際にはちゃんとできるようなものでも)それだけで泣いてしまうという子がいましたが、最近も賢いのに、問題の好き嫌いの差が激しく、パッと見で嫌だと思ったら、それはもう見事なまでに瞬時にスイッチオフになる子がいます。
スイッチオフになると、こちらが手助けのために声をかけてもろくに聞いてくれませんし、考えていないのが体中からにじみ出ている感じで、ふてくされるを絵にかいたような姿にこちらも、ああ…また…という気分になります。

この子の場合、考える気にさえなれば、結構力がある子なのと、考えずに「わからない」「できない」と言っていれば、小出しにヒントがもらえたり、やり方を教えてもらえたりするということもわかっているような気配もあるので、ふてくされられるのも、泣かれるのももちろんツライものの、そこをぐっと堪えて、ちょっとでも考えてくれるよう働きかけるということがしばしばあります。

その子はちょっと面倒なものは全てキライなようで、これまで何度も学習し、それなりにできるようになっていた時間計算のおさらいをしてみてもらったら、もうあり得ないような答えを書いては消し、書いては消し。
その答えがおかしい理由を説明したりするものの聞く耳持たず。
時計を使ってもいいので考えるよう、教具を渡したものの、それすらもまともに使おうとせず、一体これは何のための攻防なんだろうと思いながらも、どうにかこうにか粘りに粘って、時計を使いながら、何度も答えを書き直しつつも、最後は自分で答えを出したという状況でその日のレッスンを終えました。

当然途中で涙がポロリ。終わったときもどんよりした表情で、力なく「さようなら」と言って帰っていきました。
こんなことが続いたら、せっかく能力があるのに、算数が嫌いになってしまうのではないかと不安になりつつ、また泣かれてしまったこともあって、おうちの方にお知らせのメールをしたのです。

すると、その返信に思いがけないことが書かれていました。
その子はおうちに帰るなり、教室ではできたからできるかも、やってみる!と自ら時間計算のプリントを取り出して、考え始めたそうなのです。(その後にオチもついていましたが。)

あんなに全身から超いやいやオーラを出し、ぽろりと涙もこぼし、手助けのためにかけている私の言葉もほぼ無視し、それでも何度も何度も声をかけ、時計の教具を回して確かめてもらって何とか答えにたどり着き…。
しかし、できても微塵も嬉しそうにしていなかったというのに、そのメールを見て、心底びっくりしてしまいました。

子どもって不思議ですね。
でも、あの姿でも、ここではできたからできるかもと、そう思ってもらえたことは、とても嬉しいお知らせでした。

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2016年6月24日 (金)

がんばらないとな。

子どもによって、苦手なこと、わかりづらいことはそれぞれ違っていて、多くの子が難しく感じるようなものもある一方で「多くの子が」ということは、それを難しく感じない子もいるわけですし、また、ほとんどの子が問題なく解けるようなものも、やはり例外があるわけです。

先日から通ってくれている子は、お互いのことがまだ十分にわかっていない状態なので、おまけに結構賢い印象の子なので、できるだろうと思って考えてもらった問題が、そもそも問題文の意味を勘違いしていたり、理解していなかったりということがあります。
意味が分かれば結構考えられるようなのですが、今の印象では問題文自体を読み取る力が弱い、国語などでも苦労しているのではないかと考えられる、そういう感じがしています。
こういう子の場合、教室では問題文をかみ砕いて意味を理解させることができますが、学校やテストなどではそうしてもらうことはなかなか難しいだろうと思います。
せっかく考える力はあっても、そもそものスタートで勘違いをしていては答えは間違ってしまうでしょう。

色々なタイプの子に出会うたび、そういう子にはどういう対応をさせてもらうのがその子にとってよいのか、いつも色々考えます。
今回の新人さんは、どうして少なくない頻度で問題の勘違い、読み違いが起きているのかを、この先探り当てていかねばと思っています。
語彙が少ないとか、問題文をきちんと辿れていないとか、何か原因が見つかるかもしれませんし、どういう問題に勘違いが多いかなどの傾向も見えてくるかもしれません。

そういう新しく対応を考える場面の出会うたび、私の引き出しが増えていくのは、ありがたいことだなと思っています。
もっともっとがんばらないとなと思っています。

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2016年6月23日 (木)

どうするのがいいのでしょう?

子ども達とレッスンをしていると、時々、勉強をしないと怒られるとか、テストの結果が悪いと怒られるとかいう子がいます。
私は自分の記憶にある限り、小4か小5あたりで母親に、勉強しないで困るのは自分だし、宿題をやらずに怒られるのも自分だから、勉強のことに口出しをしないでほしいというようなことをお願いし(とにかく天邪鬼なので、やりなさいと言われると激しくモチベーションが低下してしまうし、性格上、宿題などをやらずに人前で怒られるのとかは絶対恥ずかしいからイヤだと思っていたので、とりあえず黙って見ていてほしいと思いまして…。)、実際その後母は勉強に関してはとやかく言わないでいてくれたように思います。

中学に行ってテストで順位が出たりするときに、結果が良ければ褒めてくれることはありましたが、悪かったときでも「どうしたの?」とか「(テスト前に勉強もせずに)よく寝てたもんね」とかいうぐらいで、怒られたという記憶がありません。それは高校で追試を受けるような成績を取っても変わりませんでした。

ですので、宿題をやらなくて怒られるとか、テストの結果が悪くて怒られるとかいうことをほぼ未経験の上、残念ながら子育ても未経験で、テストの結果が悪くて怒るというのは、どういう心理なのかなと、ちょっと知りたいなと思っています。

もちろん、親御さんにとっては、大事な我が子が中学、高校の時期にしっかり勉強をしておかなければ、将来困るのではないかという親心なんだろうなとは思うのですが、「怒られるのが嫌だから」という理由で勉強に取り組むと、結局のところ成果はあまり望めないような気もするのです。

当たり前のことですが、勉強に限らず、嫌々やることはなかなか身につきませんし、そこに来て、自ら必要を感じていない状態で、怒られるのを回避するために勉強するというのは、時間をかけても結果につながりづらい気がして、ますます勉強に対するモチベーションが低下していきはしないだろうかと気になっています。

でも、これもまた何とも難しく、知人のお子さんは毎朝お母さんが必死で起こして、お尻を叩いて学校に送り出していたそうですが、しぶしぶでも学校に行ったことで、結果的に本人がやりたいことを見つけられたそうですから、怒ってでもやらせることに意味がないとも言えないのかもしれません…。

教育や子育てに絶対はないと思っているので、やはりそこはお子さんの性格や興味のあるなしなどによって、怒ってでもやらせるのがいい子と怒ったら私のように頑なにやらない子とがいるということなのかもしれませんね…。
なんだか結局まとまらずで申し訳ありません…。(汗)

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2016年6月22日 (水)

二次方程式

教室に来てくれている子の中に、帰国子女で、その子にとっては生まれてから海外で生活していた期間の方が長いので、英語の方がわかりやすい状態という子がいます。
帰ってきてからもインターナショナルスクールに通っているため、数学の解き方や書き方など、ところどころ違っていたりして、新鮮な気持ちになることがあります。

その子と最近二次方程式をやっているのですが、日本の中学だと、ばくっと言えば、因数分解で解くか解の公式で解くかのどちらかという感じではないかと思います。
一応学校などで習う平方完成を使って解く解き方は、日本の学校ではあまり使われることがありません。(苦手に感じる子も少なからずいます。)
ですが、帰国子女のその子を見ていると、因数分解できないものは、解の公式を使うより平方完成で解く方がいいようで、黙っていると解の公式はほとんど使わず、平方完成で解いていきます。

それも面白い違いだなぁと思ったのですが、本来、解の公式を暗記させるより、平方完成をきちんとできるようにすることの方が優先されるべきなんだろうなとも思うのです。
というのも、高校に行って二次関数などを学ぶ際、結局は平方完成が使えないと不便ですし、また、平方完成については、丸暗記をする必要はありませんから、解の公式と違って、忘れても考えたら解ける可能性があるのです。
そして、平方完成が考えられる子は、解の公式を覚える必要もないとも言えなくもありません。(係数が複雑なものなどを解く場合、時間短縮などのために覚えておくと便利だろうとは思いますが。)

同じ数学というものを取ってみても、国によって違うのだなと、日本のことしか知らない私には新鮮ですが、平方完成をきちんと使えるようにするというのは、いいことのように思いました。

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2016年6月21日 (火)

改めて思ったのですが

今日はある保護者の方が、お子さんのことでお話したいとのことで時間を取らせて頂きました。
その中で色々なことをお話したのですが、学校の話題になったときに、改めて思ったことがあります。
そもそも、一度に30人や40人の子どもを、どの子にもきちんと目を配り、それぞれの子の理解のペースに合わせて授業を進めるということは不可能ですし、それは人数を10人に減らしたとしても、よほど学力や考え方の癖などが似通った子達でなければ、難しいだろうと思います。

また、熱心な先生が万全の準備をして授業に臨んだとしても、最近は小さい子でも塾やそろばん、計算プリントをするような教室に行っている子も少なくありませんから、いざ授業をしようとする単元を、みんなが真っ白の状態始められるということもまずあり得ないでしょう。

更には、小さい子であればあるほど、わかったら答えを我先に言いたがるという子は少なからずいますし、計画通りに授業を進めていくためには、先生も全員が考え終わるのを待つこともできません。

その結果、既に知っている子がいても、とりあえず新しい学習内容について、どう考えるのか、どうやって解くのかを先生の側から提示するということが多くなってしまうのはやむを得ないのだろうと思うのです。

ですが、その結果、子ども達はまず真っ白の状態で自分の頭で考えるというチャンスを奪われ続けます。
塾などで先取り学習をしている子達も、結局は大半が学校と同じような形式で、教えられたことを覚えて使うというような形になりがちなのも事実でしょう。

つまり、学校でしか勉強をしていない子も、塾や教室などに行ってやり方を教わって先取りで勉強している子も、結局のところ、まず自分の頭で考えてみるという機会はなかなかないのではないかと。

どんぐり倶楽部の糸山先生は子ども自身が絵を描いて考えるということをとても大事にしておられますし、教室を始める際にお世話になった先生も、教えるのではなく子ども自身に学び取らせることが大事なのだと言っておられました。
そして、それは確かにその通りなのだと思うのです。

指導者の説明から入るような先取り学習であれば、早くから取り組ませても、子どもの本当の力になるかどうかという意味ではあやしい部分もあるのではないかと。
今日お話している中でお伝えしたのですが、例えば、分数×分数の学習をする際、子どもはかけ算は既に知っていますし、分数についての学習もしていますから、まず1問、式を指して「これ、答えはどうなると思う?」と尋ねてみたとします。

分数×分数ですから、ほとんどの場合が、ちょっと迷いながらも分母同士、分子同士を掛けた答えを書きます。
時々、分母同士、分子同士を足した答えを書く子もいます。
もちろん、間違えるのが怖い子などで、何も書かず止まってしまう子もいなくはありませんが、とにかくまず考えさせるのです。

自分で「こうじゃないかな」と予想して、それが合っていれば、あと何問かやってみてもらう。同じようにできていれば、やり方の説明はいりません。
間違っていれば、どう考えたのか尋ねてみて、仮に「分母同士、分子同士を足した」などのように答えてくれたら、「かけ算なのに?」とでも聞けば、ほとんどの場合、次に出す答えは正解です。

ここで大事なのは、正しい答えが出せるかどうかではなく、まず自分なりに考えてみる、自分の頭を一度通してみるということなのです。
その上で、自分の考えが合っていれば嬉しく感じる子もいるでしょうし、考えが合っていたのですから、そのままやっていけばいいわけです。
また、間違った子も、こう考えたけど違ってたか~などと、ただ一方的に説明をされるのとは違う受け止めができるはずです。

ですから、特に算数は、やり方を教わってから忘れないよう何度も復習するよりは、教科書などを読む予習ではなく、新しく習うところの問題を、真っ白な状態でまず考えてみるというような予習をして、自分なりの考えを持ってから授業に臨むという方が、より学習効果を高められるのではないかなと、結果的に子どもにとって本当の力になっていくのではないかなと、そう思っています。

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2016年6月20日 (月)

漢字学習

教室で国語を一緒にさせてもらうことは限られている上に、漢字テストなどはしないので、漢字を覚えなさいというようなことを言う機会はまずないのですが、中学生の試験前などにたまに一緒に漢字学習をすることがあります。

最近はあらゆることで検索が簡単になり、また、手書きで字を書く機会も大人だとかなり減ってしまっているのではと思いますし、私もレッスンではマルつけや、式や絵を描くというようなことはあっても、ある程度の量の文字を書くという機会は激減しました。
このブログもキーボードを打っているわけで、こうなってくると漢字を思い出す能力よりは、どの場合にはどの漢字を使うかというようなことが判断できるかどうか(まあ、それすらも、わからなければそのままパソコンで検索してしまえるわけですが…。)の力や、漢字が読めるということが重要になってくるのかなと思います。

それもあって、子ども達も読めないのは困るけど、「読めるけど書けない漢字がある」というような場合は、必死で覚えなさいというようなことは言いません。
そんな感じですので、普段漢字学習についてあまりあれこれ考えることはないのですが、今回ある中学生の子の試験範囲に漢字の部首に関わる内容があり、元々国語があまり好きではないらしいその子は、部首もかなりメジャーなものしか知らない様子です。更には、それを覚えようという気もあまりなさそうな雰囲気です。(苦笑)

まあ、テストで漢字の部首を問われるとか、漢字を書かせるとかいう問題は割合で考えると決して配点は大きくないでしょうし、テスト範囲が限られて、今回のように漢字の部首が範囲に入っているような場合には多少ボリュームが増えるとしても、入試などの試験の場では部首の問題は捨てる、わかれば儲けものというぐらいに割り切ってしまっても(その分ほかの勉強に時間を振り分けるというのであれば)、ひとつの方法かなとも思います。

ですので、どうやって覚えさせようかという話ではなく、今日そういうあたりを一緒に学習していて感じたことを少し書かせてもらおうと思います。

今日やった問題の中に「『聞』の部首はもんがまえ」の正誤判断がありました。
漢字には、例えば「胸」の「月」と「服」の「月」は違う部首だったり、「間」の部首はもんがまえなのに、「聞」の部首はもんがまえではないなど、成り立ちなどを知らなければ、え?なんで?と思うようなものが少なからずあります。

私自身、そういうものを全て知っているわけではないのですが、元々、象形文字や指事文字などのように、物の形や棒と石などの置き方などから考えられたものではなく、会意文字、形声文字のように漢字と漢字を組み合わせたり、意味をあらわす部分と読みをあらわす部分とを組み合わせたりしてできてるものについて、部首の意味などを小さい頃からきちんと学習していくことで、漢字を覚える作業が楽になる面があるように思います。

特に、形声文字は一般に意味をあらわす部分が部首になりますので、先ほどの「聞」であれば、意味があるのは「耳」で、読みは「もん」になるというわけです。
ただ、形声文字か会意文字かの判断は全て覚えられるものではないと思いますし、部首を全て正しく判断できる必要もあまりあるとは思えません。ですが、漢字の学習が始まり、象形文字、指事文字の範囲を超えて、会意文字、形声文字が登場した段階で、部首にはどういうものがあり、どういう意味があるかなどを少しずつ学習していけば、体の部分を表す漢字はにくづきが付くものが多いなとか、ころもへんは着るものに関係あるんだなとか、そういうことが蓄積されていくことで、漢字を覚えやすくなったり、忘れたときに思い出す手掛かりになったりするように思います。

つまり、結局は算数で何も考えずに公式を覚えて解くのではなく、きちんと意味を理解することが大事だと言っているのと同じようなことなのだなと。
象形文字などは書き方を覚えるしかありませんし、ある程度の基本的な漢字の蓄積は必要ですが、ある程度貯まった段階からは、どこが部首かな、これは意味を組み合わせているのかなとかいうことを意識しながら学習していくことで、定着の度合いも確実に変わっていくのではないかなと思います。

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2016年6月19日 (日)

昨日の続き

昨日、小数の計算のことを書きましたが、それに関連して思うことがあります。

例えば、分数と小数が混じった計算では小数を分数に直して計算しましょうという指導がなされるのが一般的だと思います。
私も基本的にはそう説明しますが、このあたりは、小数や分数がどういうものか、掛け算や割り算がどういうものかきちんと理解しているかどうかで、答えを出すスピードに差が出てくる場合があるように思います。

仮に「0.6×1/3」という式があったとします。
この式を見て、機械的に小数は分数に直すんだなと思った場合、「6/10×1/3」を約分して1/5と答えることになるだろうと思います。
ですが、この式を「0.6の3分の1」と読むことができれば、そして、3分の1というのがどういうことかわかってさえいれば、すぐに「0.2」という答えが出せるはずです。

これはたまたまわかりやすい数字で例を挙げましたが、仮に「0.72×1/5」というような式があったとしても、これを一旦分数に直して約分するよりは、0.72の5分の1と読んで、そのまま5で割るほうが恐らく簡単で早く済むだろうと思います。

式を見たときに機械的に処理をしようとするか、一呼吸おいて、どういう意味か考え、簡単に計算する方法がないかちょっと考えてみることができるかで、結果的に時間の短縮やミスを減らすことにつなげられるのではないかなと思います。

これまでに何度か、受験のために受験塾と併用されているようなお子さんの保護者の方から、計算スピードが遅いから計算練習をさせてくださいと言われるというようなことを伺うことがありました。
でも、上述のような判断は機械的に計算練習をして処理スピードを上げるのとは違いますから、量をこなしたからと言って身につく可能性は低いだろうと思います。

そういう意味でも、まだ時間に余裕のある小さいうちにこそ、機械的な訓練ではなく、意味を考える、実感する、本当の意味で理解するということを大事にして頂けたらなと思います。

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2016年6月18日 (土)

小数の計算

小学校の学習の中で、私自身も面倒だよな、これ本当に必要なのかな…と思う、そして、やはり難しいとか面倒だとか感じる子も多い単元のひとつが小数の掛け算・割り算です。
もちろん、小数というものがどういうものなのかを理解しておく必要はあると思いますし、小数×整数や小数÷整数ぐらいのものはできた方がいいと思いますが、小数×小数や小数÷小数は、中学以降ではほとんど使うことがなくなりますから、そこに力を入れるぐらいであれば、分数同士の掛け算や割り算をしっかり身に着けさせればよいのではと思えてなりません。

実際のところ、小数で表せない分数というものもありますし、それは計算してみないとわからない場合もあります。
計算してみて割り切れないから分数で表すというのは二度手間でもありますし、中学では小数で答えるより分数で答える方を推奨されるようにも思います。

例えばですが、「0.375×0.25」というような計算があったとして、小数のまま計算するとすれば、普通は筆算をして「375×25」の答えの小数点の位置を5つ動かすようなことをするのだろうと思います。
ですが、これが分数の感覚とつながっている子であれば、「3/8×1/4」ですぐに「3/32」とわかります。
仮にすぐにわからなかったとしても、「375/1000×25/100」と書いて、約分すれば同じことになります。
また、もしこれを小数で答えるとしても、0.375の4分の1が答えだとわかれば「0.375÷4」で答えが出せるということにもなります。

小数を分数で表すことは練習を積む価値はあるように思いますが、小数同士の計算をそのまま計算するよりは分数に置き換えられる力があれば、時間短縮にも、ミスを減らすのにも役立つように思います。

同じように「0.375÷0.25」であれば、分数の学習がしっかり身についていれば、例えば一旦「0.375/0.25」と考えて、分数を表すのに小数は使えないので、「375/250」として約分していけば、筆算する必要はありません。

小数同士の掛け算や割り算に抵抗を示す子には、無理にそれをさせるより、小数を分数に置き換える力、分数の掛け算・割り算はしっかり解ける力を身に着けさせれば良いのではと思うのですが、何かそれでは困ることがあるのでしょうか。

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2016年6月17日 (金)

すみません・・・。

金曜更新せぬまま、サッカーのユーロの試合を見ていてうとうとし、そのまま寝入ってしまい、しかし、朝二度寝してしまって、更新する時間のないまま土曜のレッスンに突入したため、書くことを思い出せないまま…。
というわけで、平日だというのに、今日の更新は形だけで失礼致します。

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2016年6月16日 (木)

「思い出す」「考える」

子ども達とレッスンをしていると、小さい頃から来てくれている子ではあまりそういう場面に出くわすことがない一方で、ある程度学年が上がってから来てくれた子や、受験などで一旦お別れして、また戻ってきてくれた子達だと、少なからず出くわす場面があります。

それは、自分で考えようとしているのではなく、習ったことを思い出そうとするということです。
もちろん、言葉やその意味、覚えておく必要のあるきまりなど、忘れてしまってはどうにもならないようなものは「思い出す」必要があるわけですが、本来考えれば解けるのはずのものを公式などとして教えられ、また、その公式がどうして導き出されたのか、どうしてその公式で答えが出せるのかをつっこんで考える機会もないままに、とりあえず公式に当てはめて解いて、その場ではできた気になってしまう。
そういう場合、公式を忘れても、考えれば解ける可能性があるにも関わらず、忘れたから解けないと思ってしまったり、また、教えられたことを思い出そうとするため、意味を考えるという方に意識が向かず、この数は2倍するんだったかな?このときはマイナスになるんだったかな?といった具合に、うろ覚えのままとりあえず答えを書いてみるというようなことをしてしまったり、そういう場面に出くわすことがあるのです。

学校や一般的な塾などでは、そこで「それは2倍でしょ?」などと再確認をして、忘れないよう繰り返し練習しなさいなどという方向に行くこともあるのだろうと思いますが、その対応をしている限り、なかなか身につかず、符号間違いや2倍、2乗などの間違いをし、しかし、「ああ、符号だけ間違った」と、ちょっとしたミスのように済ませてしまう、そういうことは少なくないのかもしれません。

もちろん、うちの教室では、考えればわかることは覚えなさいとは言いませんし、上述のように、曖昧な記憶を呼び起こし、こうだったかな?いや、こっちだったかな?と迷っているような場面に出くわしたら、答えを教えることなく、どうすれば確かめられるかを考えさせる。それでもわからないようであれば、判断の仕方などを助言する。そういう対応をして、とにかく考えさせます。

覚えることが全く苦にならないとか、記憶力にめちゃくちゃ自信があるとか、そういう子であれば、覚えることもいいのかもしれませんが、少なくとも色々な科目の中で覚える必要があるものが一番少ないのではないかと思われる算数や数学まで覚える科目として取り組んでしまうと、考える機会をみすみす失うことにもなりますし、学年が上がり、内容が難しくなるほど、太刀打ちできなくなっていくように思うのです。

「思い出す」も頭を使って考えていると言えなくもないかもしれませんが、受け身で聞いて覚えたことを思い出すという作業の中には自分の脳に「汗をかく」ような場面はないのではないでしょうか。
覚えるにしても、なぜこの公式で答えが出せるのか能動的に考え、理解した上で覚えるのであれば、考えて理解したことを思い出すわけで、それはただ暗記したものを引っ張り出すのとは違うでしょう。

とにかく、覚えるときに考えるか、覚える以前に覚えなくてもいいものではないかと考えるか、そもそも公式なんてものを見る前に自分で問題を解いてみて解けるかどうか考えてみるか、どこかの段階で必ず、自分自身の頭を使って考える機会を、自分自身のために作ってもらいたいと思っています。

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2016年6月15日 (水)

見せると気づく

20までの足し算・引き算の学習の終盤に、3つの数を足したり引いたりする式の計算問題が出てきます。
それまでに2数の足し算・引き算はできるようになっていますし、足し算・引き算がどういうことかも理解しているので、3つの数の計算になっても、ほとんどの子が助けなくても解くことができます。

教材によっては3つの数の足す・引くは前から順にしましょうと指導するものもあるようですし、もちろんそれで問題ないのですが、問題によっては、気づくことでもっと簡単に解くことができるものもあるわけです。

例えば、「17-9-3」のように二度引き算をするのであれば、引く数をまとめてしまって、引き算を一度だけにする方が簡単な場合も少なくありません。
また、「7+8-6」のような問題であれば、前から順にすると、足し算で一旦繰り上がり、引き算で再び繰り下がることになりますが、7か8から先に6を引いてしまえば、繰り上がりも繰り下がりもなく計算することができます。
「6+7+4」なども、式全体を見渡すと、6と4を先に足してしまう方がすっきり簡単に計算できるというようなこともあります。

これらは、やり方を指導するような塾や教室では、こういう場合はこう考えて、こういう場合はこうして…と様々な場合分けをして提示せねばなりませんし、そうなると、指導する手間もかかり、子どもによっては混乱してしまうというようなことも考えられるでしょうから、結局は「前から順に」というような指導に落ち着いてしまうというようなこともあるのかもしれません。

ですが、例えば、「7+8-6」であれば、式を見せておいてから、机に積み木を7個と8個離して置き、「ここから6取るとどうなる?」と尋ねてみたとしましょう。
恐らくほとんどの子が、まず7と8をがしゃっと合わせてみたりはしないでしょう。
7個か8個のどちらかから6個を先にとって、残った数を答えるはずです。

「6+7+4」なども、それぞれの数を固めて積み木を置き、合わせていくつになるか尋ねれば、ある程度数量感覚のある子なら、先に6と7を合わせようとはせず、6と4で10になることに気づくこともあるでしょう。

また、積み木を見せてもそういうことに全く気付かず、前から順にしようとする子がいたら、何か工夫できないか声掛けなどしてみて、それでも難しそうであれば、その時点ではその子には前から順にするのが一番簡単ということなのかもしれませんから、それでOKにすればよいのではないかなとも思います。

具体物を見せて考えさせることで、こちらがやり方を説明しなくても、子ども自身が工夫に気づいたり、計算の順を入れ替えても答えが変わらないということを体感したりできるように思いますので、特にお子さんが小さいうちは積極的に取り入れて頂けたらなと思います。

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2016年6月14日 (火)

できることなら

今日は教室でのお話ではなく、ちょっと思ったことを。
最近通ってくれ始めた1年生さんとレッスンをしていて、改めて思ったことなのですが、特に就学前の小さい子達に何かを学ばせる際、具体物を使ったり、絵を描かせたりしながら、実際に自分の目と手で、場合によっては体も使ったりして、本当の意味で理解するような学びでなければ、先取りで学ばせてもほとんど意味がないのではないかと、そんな気がしています。

そのお子さん自体はじっくりしっかり考えることができているので何も問題ないのですが、積み木の数を考えるような問題を過去にやったことがあるというので、どんな積み木を使って考えていたのか尋ねたところ、積み木は使っておらず、絵を見て考えただけだと。

もちろん、もっと簡単な問題だったとのことですし、また、小さい子の記憶なのでもしかしたら使っていた、もしくは使っていいと言われたけれど、簡単なのでその子が使わなかっただけのことかもしれません。
そして、これは積み木の数の問題の話ですので、得意な子は積み木の絵を見ただけで考えることもできるのだろうとも思います。

ただ、そこからたし算やひき算に進んでいく場合、訓練のように、もしくは指を折って数えて、そんな風に計算ができるようになっても、それは決して「豊かな学び」ではありませんし、そこからどんどん学びが広がっていくということはあまり望めないのではないかという気がします。

少なくとも、算数は暮らしの中で経験できる範囲の学習です。
だからこそ、小さいうちは特に、積み木の数を考えるのであれば、まずは実際に積み木に触れて数を確かめてみる。
たし算やひき算であれば、ペーパーで問題を解く前に、おはじきや積み木、タイル、シール、飴玉、色々な身近なものを使って、合わせたり取ったりしながら数を確かめていく。
そういう経験をすることが、大事になってくるのではないかなと思います。

スピードも量も気にせず、心行くまで数を感じる、量を感じる、そういう経験が、後に必ず確かな力となって生きてくるのではないかなと思っています。

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2016年6月13日 (月)

苦手意識

最近自分で高校の数学をやり直していますが、新しい単元に進むたび、思わず身構えてしまいます。
今度の単元こそはもう理解できないかも…という不安を抱きながら取り組み始める状態なのですが、それでも今のところは何とか理解できて前に進んでいます。

単元によっては、なんでこれが難しいと思ったんだろう?と高校時代の自分のことが不思議になったりすることもあるぐらいなのですが、それでも、昔に難しかった、理解できなかったと思った記憶は残っていて、学習しようとするたびに、いちいちその記憶が蘇るという感じです。

幸か不幸か、今は必要に迫られてやっているのと、問題の意味を考えて、きちんと理解することに努めて進んできたのとで、身構えたり、不安になったりしながらも前進できているわけですが、どうせなら真っ白な気持ちで新しいことを学ぶんだと、前向きに取り組めたらいいのにと感じるところはあります。

ほかにも、勉強に限らず、昔やったことがあるもののその時にはうまくできなかったということは、なかなかもう一度やってみようと思えません。これは性格によるところもあるかもしれませんが、それでも、一度やってうまくできなかっただけなのに、そこをきちんと乗り越えずにやり過ごしたせいで、うまくできなかったという記憶だけが残ってしまっているように思います。

そう思うたび、子ども達にはできるだけ、苦手意識を持ってもらいたくないなと思うのですが、難しいと感じる基準は人それぞれであり、また、子ども達はその日のコンディションによってもできるできないがかなり左右されることもあるので、そんなつもりはないのに「難しい!こんなのできない!」と感じさせてしまっていることはあるかもしれません。
できればそう感じさせないように努めたいのですが、もしそう感じさせてしまったときには、しっかり理解し、できるという自信が持てるところまで上書きしてしまわないと、私のようにいつまでも苦手意識だけが残る可能性があるのだろうと思います。

加減がなかなか難しいところですが、これからも努力していこうと思います。

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2016年6月12日 (日)

オフ

今日は更新お休みします。外は夜になってすごい雨と風です…。

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2016年6月11日 (土)

嬉しいお知らせ

高学年になってから来てくれはじめて半年余りになる子がいます。
おうちの方のお話だと、パソコンで言えばワーキングメモリがやや限られているようで、応用が苦手な感じがするというようなお話でした。
そして、一緒にレッスンをさせてもらうようになって感じたのは、真面目で一所懸命取り組むものの、確かにちょっとそんな感じかなと。
一所懸命考えている割には、さっき考えていたことと今考えていることをうまくつなげられなかったり、それに気づいたのであればもうわかるだろうと思って待っていたら、どこかにさまよいこんでいつまで経っても答えにたどり着けないとか、何かもどかしい感じがしました。
でも、これまでは習ったことを覚えて使うという勉強の仕方が主だったようで、そういう子が自ら考えられるようになるには多少の時間がかかるのは、高学年になってから来てくれた子であればよくあることなので、ちょっとずつかなと思っていました。

その子がこのところちょっと感じが変わってきたような気がしていたので、おうちの方にお尋ねしてみたところ、最近学校で円の面積のあたりテストがあったそうで、円の中にひし形が入っているようなものの面積を求める問題で、その子はひし形の面積の公式を忘れてしまって、どうしようと思ったのだと。でも、落ち着いて考えてみたら、公式を使わなくても面積を出す方法を見つけられたとお母さんに話したそうです。

確かに教室では私はほとんど何の公式も覚えるように言いませんし(確認としてちらっと触れることはありますが。)、覚えなくても解けるように持っていきます。
その後学校では公式を覚えるように言われるでしょうから、その時に必要だと思えば覚えればいいよという感じにしています。

ですから、その子も公式を覚えていなくても正方形や長方形の面積の出し方さえ忘れなければ考えることはできるはずでした。
でも、元々その場に応じて臨機応変に切り替えるというようなことがあまり得意ではないようにも聞いていたので、テスト中にそんな風に考えて、自ら答えを導き出せたというのは、とてもとても大きな変化なのかもしれません。

とにかく、その子がそうやって解けたことを嬉しそうに話したということを聞いて、自分で考えてわかったという喜び、快感を感じられたんだろうなと、そう思うと本当に嬉しくなりました。
これから少しずつそういう場面が増えていくといいなと思います。

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2016年6月10日 (金)

不思議に思えるけど

このところ、嵩の学習をしている子がいます。
学年より先の内容で、おまけに大人でも結構面倒に感じるぐらいの換算が必要なものまで出てくるので、難しいのは確かで、そのため、教室でも実際に計量カップを見せたりしながら考えてもらい、おうちでもかなりしっかり取り組んでくれているようなのですが、どうもまだスイッチがつながったり切れたりを繰り返しており、残念ながら切れていることの方が多いような印象です。

でも、最近はわかっていないのとはどうも違うような気がしていて、毎回今日こそはいけるのではと思いながらプリントを渡すのですが、なかなか思うようにいかず、最初に詰まると途端にスイッチオフになってしまうという感じで、もどかしく感じていました。

そして、今週のレッスンでも、嵩の計算のプリントを前に、式に下にあれこれ換算を書いているのですが、どうしてなのか、一番小さい単位が10mLの問題の答えのおしまいが12mLになっています。
換算を書いている部分は合っているようなのに、どこでおかしくなっているのか、ここは2になるのはおかしいよね?というようなことを声掛けしても、気づいてくれません。

これまでの感じからすると、ここで更に「だって、式にどこにも2mLとか8mLとかないよね?」とか声をかけたとしても、どんどん深みにはまり込んでいく危険が…。
そこで、「わかった。一旦これ消すから、これ、どれだけ使ってもいいから式に書いてある分だけ机に出して。で、考えて。」とたくさんある計量カップをその子に渡しました。

すると、最初だけは少し時間がかかっていたものの、放っておいてもカップを出したりのけたりしながら、答えに辿り着きました。
そして、そのままあと3問自分で解いてもらってから、カップを使わず解いてみてと言ったところ、それもまた結構面倒な問題だったというのにあっさり正解。
やはり、わかっていなかったわけではないようですが、カップを使うということを始めにしたことでイメージしやすくなったということなのかもしれません。

わかっているつもりでしたが、子どもが反応がおかしかったり、難しそうにしていたりしたら、こうして具体物を使って手を動かしてもらうということが大事なんだということを改めて感じました。

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2016年6月 9日 (木)

「わかったつもり」ではなく。

小学生の頃しばらく通ってくれて、その後中学受験のため転塾した子が中学生になって、最近また戻ってきてくれました。
少しブランクがあったのですが、その子なら大丈夫だろうと思っていたものの、実際はそうではなかったようで、中間テストでいくつか、その子にとっては驚くほどできなかった教科があったとのこと。
それについて、おうちの方がその子に学校の授業を理解できているのか尋ねたところ、「わかっている」と言ったそうです。

その言葉を聞いて、そうなんだろうなと。
多分その子は嘘を言っているわけではなく、学校で授業を受けている間、先生が言っていることなどは理解しているのではないかなと思うのです。
ノートもきちんととっているようですし、授業で習ったことをその場でやったらきっと、それもある程度以上できているのではないかな想像しました。
もしそうであれば、わかっているのか尋ねられたらわかっていると答えるでしょうし、その言葉に嘘はないのです。

これはその子に限ったことではなく、恐らくかなり多くの子達に見られることで、学校や塾などで説明を受け、説明は理解でき、その通りやってみたところ問題も解けた。だから、自分はわかっている、その問題はできると思ってしまう。

でも、受け身で説明を聞き、それを使って問題を解いても、その多くはあっという間に記憶から消えていくのです。
例えば、先生の話に興味を持って、積極的に聞いたことであれば記憶に残る度合いも多少は違うでしょう。また、自分が好きな教科や学習内容であれば、吸収の度合いもまた変わってくるのかもしれません。

それでも、自ら学び取ったことでなければ、なかなか身にはつかないのではないかなと、これまで色々な子ども達を見ながら感じています。
受け身の勉強を定着させるには、忘れないよう何度も何度も反復するなどの努力が必要です。それをしなければ、忘れるのは当たり前で、わかっていると思っていたことがテストではできないなんてことになったりするのだろうと思います。

私はコツコツ努力をする、同じことを何度も何度も繰り返し演習するというようなことが苦手なので、なるべく覚えずに済む方法はないかなと考えるようになりましたし、その方がやっていても楽しいと感じられます。
私のようなタイプの子には自ら学び取ることをお勧めしたいと思っています。

もちろん、算数や数学に全く興味がもてないとか、コツコツ努力するのが全く苦にならないとか、そういう子であれば、算数や数学に関しては暗記や機械的処理と割り切って、とにかくやっつけるみたいな選択肢もあるのかもしれませんし、それが向いている子がいる可能性は否定はしません。(楽しくはないだろうと思いますが…。)

それでも、自分が関わらせてもらえる子達には、まずはとにかく自分で考えて学び取ることを経験してもらい、そうすることで、それが自分の力になるということを感じてもらえるように努めていきたいなと思っています。

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2016年6月 8日 (水)

子どもってホントに面白い。

今日のレッスンでまた、なかなか興味深いことがありました。
レッスンの終わりに、ちょっと頭の体操のような問題を考えてもらったときのことです。
1年生さんで、しっかり考えることができる子なのですが、レッスン終盤で疲れていたせいもあるのか、不思議なことが起こりました。

その問題はちょっと見づらい画像ですが、このように、切られたピザがあり、元々は何枚のピザがあったか考えるものでした。
Fullsizerender

右上にある2つの4分の1は、欠けた部分にそれぞれ合わせて2枚分になるということはすぐにわかったようなのですが、そこから先に進めません。
何度かやりとりしたものの、どうにもぴんと来ない様子です。
紙の上だけで考えさせる方法はなくはありませんが(パーツを4つずつマルで囲ませるとか、1から4の数をパーツに書かせて、1から4を何度書いたか確かめてもらうとか、考えられることはいくつもありますが)そうやって無理矢理答えを出させても、本人はスッキリしないままになってしまうので、それはしたくありません。

そこで、円形折り紙を取り出し、3枚分を、何枚あるか見せないまま4等分にバラバラにした後、「これを元に戻してみてくれる。何枚分かな?」というと、すんなり円形に並べ始め、「3枚」と答えました。

「うん、そういうことなんだけど、じゃあこれは?」と問題に戻ったのですが、まだ動き出しません。
そこで、更に円形折り紙を4等分してから、画像の絵と同じように並べてみてもらいました。
絵と同じように並べられたのを確認した後、動かしていいので何枚分か確かめてみてと言ったのですが、右上の4分の1の部分はすんなりはめられたものの、再びそこでストップ。

え???と思ったのですが、どうやら4分の3の状態のものはそれぞれまとまりがあるため、それをばらしてはいけないと思い込んでしまっているようです。
そこで、目の前に並んでいる4等分された紙をがさっと机の真ん中に集めて「じゃあ、これは何枚分か確かめてみてくれる?」というと、今度はすんなり並べて、5枚だと答えてくれました。
そこでもう一度それを画像のように並べ直したのですが、どうもすっきりしない様子。(苦笑)

最後は解決したものの、切られているのにまとまりがあると感じられるものは動かしてはいけないと思ってしまうことがあるんだなというのは新しい発見でした。
子どもは本当に色々な反応を見せてくれて、何年やっても新鮮な驚きを感じさせてくれますね。

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2016年6月 7日 (火)

色々な考え方

よその教室に通っておられ、小学生になるタイミングでうちに来てくれることになった子とのレッスンでのことでした。
通っていたという教室で既に20ぐらいまでの足し算、引き算はできるようになっているという話で、体験レッスンをさせてもらったときにも、まだスラスラではないものの、よく考えているし、大丈夫そうだなと感じたのですが、体験から少し時間が空いていたので、おさらいから始めることにしました。

やはりよく考えているようで、今の時点ではスピードはないけど、これなら安心だなと思っていたところ、9に何かを足す足し算で2回連続答えを間違えました。
考えているときにぶつぶつと考え方を口に出していたので聞いていると、9との足し算なのに、5といくつに分解し、5と5を集めた後に残りの数を集めているようでした。

例えば、「6+7」であれば、「5と1」と「5と2」なので、「10と3」で「13」というような感じで考えるのですが、そして、20までであれば、全てその考え方でももちろん解けるのですが、その考え方しか習わなかったのかな?と思いつつ、声をかけてみました。

「9でも、そのやり方しか習わなかった?それがわかりやすかったらそれでいいんやけど、ちょっと違うやり方でもやってみるから、いい?」

そのあと、9のほうに1移動させるというのを、教具で玉を使うので「こっちに1個ころがしたら、いくつになる?じゃあ、こっちはいくつになった?」と尋ねました。

「9+8」であれば、9の方に1移動させて「10」を作り、8からは1移動したので「7」になるということを口に出してもらえば「10」「7」と言った時点で「17」と気づく子もいますし、そうでなくても「10と7で17」というのは、ほとんどの子がすんなりわかります。

その考え方で1問すんなり解けた後、あと二度ほどその方法で考えてもらったところ、9と何かを足すとき、8と何かを足すときは、9や8を10にする方が簡単だと感じたようです。

以前通っていた教室では、考え方を一つにして指導した方が混乱しないとか、効率的だとか、何か理由があったのかもしれません。
でも、こんな考え方もこんな考え方もあるよ、このときはこっちの方が簡単かもねと、そういう提示の仕方をして、子どもが取捨選択すればいいように思いますし、また、賢い子なら色々な考え方を知っていることで使い分けることもできるだろうとも思います。

これは算数に限ったことではないのかもしれないなと。
簡単であるというのは、共通の基準があるわけではありませんから、多くの人が簡単と思う考え方でも、それを難しいと感じる人もいるかもしれません。であれば、いくつか考え方を提示することで、自分に合うものを選べる方がよりよいはずです。
また、考え方はひとつではなく、いくつもあるのだと思えることは、色々な場面でプラスに働くような気もします。

このやり方じゃないとダメということは極力言わず、できるだけ色々な考え方に触れてもらえるよう、より気を付けていきたいと思います。

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2016年6月 6日 (月)

言葉を並び替える

うちの教室では、特にご希望がなければ、基本的に算数・数学のみを一緒にさせて頂くのですが、時々国語もご希望頂くことがあり、その場合は国語も一緒にさせて頂きます。
ただ、低学年さんと国語を一緒にさせて頂く機会はあまり多くはなく、またひとつ発見がありました。

学校の国語では、あまり文法的なことに重きを置かず、教科書を読んで、それに関する問題をかんがえて…というようなことが中心になっているように思いますが、国語が好きな子、得意な子はそれでもいいとして、国語が苦手、算数などのように理詰めで考えていけば答えが出るというようなものが好き、そういう子達には、そういう授業が中心だと、ずっと国語は苦手なまま、あまり興味が持てないままにならないとも言えません。

それもあって、教室では学校ではあまりきちんとやらなくなってしまった、主語・述語をはじめとした文法事項を意識させ、どの言葉がどの言葉につながっているか、どの言葉がどの言葉を詳しくしているかなど、そういうことをしっかり学んでもらうことを意識しています。

そのための教材のひとつは、2年ほど前から使っているので、1年生や2年生と、その教材を一緒にやる機会はまだありませんでした。
3年生以上になると、言葉を並び替えて文を作るということも、ある意味当たり前にできるものだと思ってしまっていて(実際、よほど難しいものでなければ、これまで一緒にした子はみんなできていましたし。)、あくまでもつながりを意識しつつ、漢字を書く練習にもなるという位置づけで考えていた問題を、今年度はある2年生さんと一緒にすることになりました。

そして、いざ一緒にやってみると、まだ低学年であるその子は、語彙自体がまだ決して多くなく、また、てんでバラバラになっている言葉をどう並べると意味の通じる文になるのかと考える場合も、文法事項はまだほんの少ししか知らず、これまでの経験で、この並び方は聞いたことがある気がするとか、こういう言葉は何かで読んだことがある気がするとかいう感じで、手探りしつつ考えていかねばならないことに気づきました。

また、簡単な文であれば、主語・述語などの位置を指定されていても答えがひとつではないようなものもあり、そのどちらがよりよい文なのかの判断は、まだ低学年ではなかなか難しい面もあるだろうなということにも気付きました。

今回あったうちの1問は、並び替えると次の2通りの文が作れました。

「けがをした二人がチームにふっ帰した。」
「チームにふっ帰した二人がけがをした。」

前後のつながりがないので、文法上はこのどちらも正しい文ですし、あり得ないとも言えません。
問題を作った方は前者の文を想定しておられるでしょうし、「復帰」ですから、怪我をしてチームを離れていた2人が復帰したというのが自然ではあると思いますが、サッカーなどでいえば、どこかよそのチームに期限付きで移籍していた2人がチームに復帰したら怪我をしたという状況も考えられなくはありません。

これを、低学年の子に前者の方が自然でしょ?と言っても、「え?何が?」となっても不思議ではなく、むしろすんなり理解できる子は自分がチームスポーツをしているとか、スポーツ観戦をよくするとか、何か経験上納得できることがある場合なんだろうなと。

そう思えば、小さい子達に言葉を並べ替えて文を作らせるというのは、作文などをさせる以前に十分やっておくとよいのではないかと思いますし、それとは別に、いくらたくさん問題を解かせても、経験していないことはなかなか理解できないというのも否定できないん事実なんだろうなと。

そういう意味でも、もし子どもに国語が得意になってほしいと思うのであれば、小さいうちにたくさん机上での勉強をさせるより、色々な経験をさせる、色々な本を読む、そういうことの方が遥かに後々役に立つのではないかなと、そんなことを感じました。

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2016年6月 5日 (日)

オフでした。

今日は更新お休みします。

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2016年6月 4日 (土)

算数のことばって難しい…。

今日のレッスンで、わり算の「いくつ分」と「1あたり」という言葉が出てきました。

わかっておられる方には何でもないことなのだろうとは思うのですが、私はこの言葉がどうも苦手です。
大人の私でさえ苦手なぐらいですから、子ども達が苦手に感じるとしてもそれは不思議ではありません。

ほかにも、それよりは簡単ですが、「かける数とかけられる数」や「割る数と割られる数」などの言葉も、教室で普通にレッスンをしている分には使うことはなく、また、そんな言葉を使わなくても子ども達はすいすい問題を解いていくのですが、どうして教科書などではほぼ必ず、その表現が出てくるのでしょう。

もちろん、わり算には2通りの考え方があるということは理解しておく方がよいでしょうし、問題を考える際にはそのことを意識させる必要はあると思います。
等分除と包含除という表現になるのだと思いますが、例えば、10個の飴があって、それを2個ずつ分けるとしたら、問題で問われるのは「何人に分けることができますか」というように「何人分か」を考えることになりますが、2人で分けるとすれば「ひとり分は何個ですか」というように「1人あたり何個か」を考えることになります。

これはどちらも、式としては「10÷2=5」になるものの、前者は「10個÷2個=5(単位なし)」で、後者は「10個÷2=5個」ということになります。

「いくつ分」というのは、決まった数ずつ分けたら、「5人分」とか「5回分」とか、そういうことになり、「1あたり」というのは、「1人あたり」とか「1匹あたり」とか「1パックあたり」とか、そういうことになるわけですが、考える中で「1あたり」であれば「ひとり分はいくつっですか」というような言い方もできるので、え?どっちがどっちだっけ?と混乱してしまうことがあるのです…。
もちろん、考えればわかるのですが、子どもであれば、私以上に混乱する子もいるのではないかなと、ずっと思っています。

等分除といえば、言葉の通り、「等しく分けるわり算」、包含除の方は言葉からすると微妙な気もしますが、包含というのは包み込むということで、分ける際に決まった数ずつマルで囲むイメージともいえるのかもしれません。
個人的には言葉の意味を説明して、その2種類があると言われた方が分かりやすいような気がしなくもないのですが、一般的にはそんなことはないのでしょうか?

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2016年6月 3日 (金)

不思議だなぁ。

まだ小さいからといえばそれもあるとは思うのですが、算数の能力的にはいいものを持っていそうで、本人がその気になった時にはセンスを感じる子の、スイッチの入るときと切れるときの差があまりにも激しく、また、そのオンオフの切り替わり方もこれまた瞬時だったりして、なかなか不思議な子がいます。

最近のレッスンでは、かなり桁数が多く、途中に0が入るような、繰り下がりも複雑な引き算の筆算などを、苦も無くスイスイ解いていたのですが、おまけに、文章問題も興味を持っている場合は多少難しくてもあっさりバッチリ解いてしまったりもするのですが、今日のレッスンではさっきまで順調だったスイッチが突然オフになり、千円札11枚、100円玉35枚、50円玉4枚、10円玉435枚をあわせると何円になるか考える問題で、いきなり計算用紙に

11+35=46 46+4=

と書き始めました。
「何を聞かれてるの?」と尋ねると、問題を読み直して「全部で何円か」と答えてくれたので、気づくかと思ったのに、そのまま突き進んでいきます。

「ねえ、全部で何枚ですかじゃないよね?何円ですかよね?」
そう声をかけ直したものの、全くピンとくる様子がありません。

そこで、その子は絵を描くのは好きなので、「絵に描いてみたらいいんじゃない?」と言って、とりあえず千円札と100円玉の部分を描くのを見ていました。

すると、千円札は10枚を囲んで「10000」と書き、100円玉も10枚ずつ囲んでそれぞれに「1000」と書いているので、大丈夫そうだなと様子を見ていたところ、なぜか合計が「41500」に。
何も助けなくても10ずつ囲んで、それぞれにきちんと数を書いているので、「これで10000なんでしょ?なのに、なんでこれ全部で4万とかになる?」と言ったところ、またもスイッチオフに。

とにかくその後も、スイッチがオンになった途端、え?なんでそれすぐわかったの?とこちらが驚くのに、次の瞬間にはまたオフに…というのを繰り返し、その1問を解くのにとにかく悪戦苦闘。

目の前で絵を描いているというのに、どこか考えることを面倒がっている感じもあって、でも、できないことは不快に感じているようでもあって、なかなか新しいタイプの反応だなぁと思っています。
まだ小さい子なので、成長と共にどんな変化を見せるのか、ちょっとドキドキします。

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2016年6月 2日 (木)

考える力ってほんとに大事だなと。

もう何度も何度も書きすぎて、またか…と思われそうですが、考える力というのは本当に大事なんだなと、身をもって感じることがあります。

今日は、高1になった子と、数B のベクトルのあたりを一緒にすることになっていて、事前に予習をしていたのですが、ベクトルの内分・外分の公式のようなものが出てきました。
あまりにもサラッと書かれていて、当然ながら、それに当てはめれば答えは出せます。でも、それだと、なぜそれで答えが出るのかはわかっていないわけですから、今の自分の立場としては、それで済ませることはできません。

そこで、位置ベクトルが座標上に表されるとして、グラフ用紙に描いてみて、内分する位置ベクトルを座標から考えてみたところ、ああ、確かにそうなりそうだなと。
この時点ではまだややもやっと感が。で、そうなりそうだなと思ったときに、私は中学受験用の算数はあまり詳しくないものの、大手受験塾などでは食塩水の問題を解くときなどに「天秤法」という考え方で解かせることを思い出し、あ、これ、天秤法に似てる?と。
その後しばらく考えていると、似ているというより、考え方は同じなのかなというところに至り、ひとまずほぼ消化。

しかし、外分になると天秤法とは違うなぁ、う~ん、どうする?と思ったときに、あ、外分って言っても、ベクトルが3つあったら、同じように内分するベクトルを求めて変形したらできるんじゃないの?と、先ほど理解した内分の考え方を使って、それを変形してみたところ、外分の公式として書かれている式になりました。
ああ、そうか、外分の方は覚えなくても、内分の方のわかっているところに当てはめて変形すればいいかと自分なりに納得。とりあえず、内分、外分に関しては質問されても対応できそうで一安心。

昔は今のように簡単に何でも検索できるような時代ではありませんでしたから、そういう面で単純比較はできませんが、習って覚えて使うという勉強の仕方をしていた、学生時代の私だったら、多分こういう発想はできなかっただろうと思います。

既に知っていることを使って、新しい問題に向き合ってみる。特に数学は、これまでやってきたことの延長上にあるものが多いので、過去に学習したことを、きちんと自分の頭を使って考え、きちんと理解しておけば、それを応用することで初見の問題でも解ける場合があるように思います。

今後ますます、「たくさんの知識を記憶していること」や「覚えた知識で処理すること」などはあまり重要ではなくなっていくのだろうと思いますから、受験のためだけの勉強というものを、本当に見直していく必要があるのではないかなと、そう思えてなりません。
何より、考える力を養うために一番大事かもしれない小学生の期間のうち2年も3年もを、受験のための知識偏重の勉強をすることは、長い目で見ると子どものためになるのかどうか、立ち止まって考えなくてはいけない時期に来ているのかもしれません。
そういう勉強では測れないような試験をしてくれる中学校が増えてくれるといいのですが…。

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2016年6月 1日 (水)

模写させる

今日のレッスンでまた感じたのですが、子ども達に形を模写する経験をさせることは大事なのかもしれません。
特に、図形の問題が苦手な子の中に、空間図形を描くことに苦戦する子がいます。

その昔、教室を始めた頃に、抽象的な点つなぎ問題がきちんとできない子は、算数の能力を伸ばすことが難しいので、きちんと点つなぎができるよう練習させる必要があるということを知り、驚いたのですが、それと同時に、大量反復などで計算だけをこなし、機械的処理ばかりしてきたような子は、空間図形を模写させると、全く形にならないことがあるということも目の当たりにし、それもまた驚きました。

ですが、そういう子でも、点つなぎをしっかり練習させて、計算なども処理ではなく、きちんと考えるよう働きかけていくうちに、図形を書く能力も自然と高まったということもあり、人の脳というのは奥深いものだなぁと思ったものです。

ただ、点つなぎはできる、また、立方体や直方体などはそれなりに描けるような子でも、これまで描いたことがないような図形になると、途端に、思わず笑ってしまいそうな図を描いてしまうことがある、そんな場面に何度か出くわし、あれ?と思いました。

でも、そういう子に、お手本を描いてみせると、その後はそれなりに描けるようになるので、要するに、まだその子が実生活で見たことがないような形や、見ていても意識したことのない形、お手本を模写したことがないような形は、言葉で説明されてもイメージできないので、うまく形にできないということなのかもしれないなと。

今回は、回転体で、円柱の中心をくりぬいた、ドーナツ状の柱の見取図を描く問題があったのですが、円柱の底面部分は目のような、両端が少しとがったような形になり、そこにドーナツの穴を描こうとすると、穴は中心に開いているはずなのに、どう見ても激しく前に寄った位置に描かれたりと、とにかく苦戦の連続。
でも、上から見たらきれいに二重の円になることは理解しているのです。

そこで、普通はこんな感じに描くのよと、ひとつ描いて見せたところ、次の問題は、円柱の半分ぐらいまでだけ円柱がドーナツ状にくりぬかれた回転体の見取り図だったのですが、先ほどと比べると遥かにうまく描けました。
きっと、この子は図形問題が好きではないので、普段もあまり興味を持つことがなく、もちろん、そんな形を模写したこともなかったため、どんなふうに描いたらいいかわからなかったのだろうなと。
でも、一度目にしたことで、それを真似ることはちゃんとできたということなのではないかと。

ということは、後に数学で出てきそうな形や、身の回りの物の形を模写する機会を小学生の間にしっかり持っておけば、図形に苦手意識がある子でも、もう少しスムーズに描けるようになるということもあるのではないかなと。
そんなお手本も、作れたらいいなと思っているところです。

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