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2016年5月31日 (火)

5月最終日

今月はいつもに増してがんばりがきかず、教材作りも、やるのが嫌なわけではないのに、なかなか手を付けられず、最終日、お尻に火がついても手遅れでしたが、ちょっとはがんばったかなという5月最終日になりました。

問題を作る側になってみると、次々と出くわす疑問。解決できるものもあれば、すっきり解決しないものもあり。
また、問題文も、大人であれば国語的に正しいかどうかなどを意識していればいいものの、小さい子どもでも読んでわかるようにとなれば、国語としては微妙でも、わかりやすいと思われる表現にしたり、わからない場合に説明を書き足したり。
でも、書き足し過ぎると今度は文が長くなるので、それはそれでわかりづらくなりそうで、中学生以上の子の問題であればなんてことないものでも、ただの問題文でさえ、あれこれ考えなくてはならないことに気付きます。

で、教科書や既存の問題集ではどんなふうに書いてあるんだろう?と確かめてみると、そこについてはなんとなくごまかしている感じのものがあったり、あら、こんな表現だったのか、これ、国語としては合ってるのかな?と思うようなものがあったり。

こういう発見も、長年そういうものに触れてきたはずなのに、作る側になってみて初めて気づいたことでした。
まだこれからもそういうことがいっぱいあるんだろうなと思いながら、なかなか進まない現状を反省もしつつ、6月はもう少しがんばれるといいなと思います。

来月もどうぞよろしくお願いいたします。

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2016年5月30日 (月)

雑感

今日は振替のレッスンがありました。
考える力は驚くものがあり、算数も好き。ただ、集中できる時間が限られており、問題を解いている途中でもすぐ気が散ってしまう。じっと静かに取り組むことも苦手というその子。

日によっては集中できる時間が長かったり、すっと取り組めることもあるのですが、今日はどうもそうはいかないようです。
声をかけても耳に入っていない様子で、どんどん時間が過ぎていきます。

ほとんど問題が進まず、声をかけても聞いてもらえず、だんだんこちらの気持ちも焦ってきます。
ですが、当の本人はそんなことは全く気にしていない様子で、どこまでもマイペースです。

でも、その姿を見ていて、もしここが教室でなく、時間の制限もないところなのであれば、その子がやりたいように、その子のペースでいくらでも横道にそれ、回り道をし、やっていることが分からなくなってまた初めに戻ったりしながらでも、誰に邪魔されることなく考えさせてあげられるかもしれないのになと。

特に何も困ることなく休まず学校に通い、先生の言うことはきちんと聞き、言われたことは守れるようなタイプの子どもだった自分は、どうしても学校というシステムにうまく順応できるように、はみ出さないようにと考えてしまいがちですし、そう考える大人の方は恐らく多いだろうと思います。

でも、ああいうシステムに順応できる子はともかく、順応できないけれど何か秀でたものがある子、限られたものに強い興味を示す子というのは、現在の学校のシステムに馴染まないだけで、その子たちに合った環境があれば、何かすごいことを成し遂げるのかもしれないなという気持ちもずっとあるのです。
そういう子たちを無理矢理、その子たちにとっては居心地が悪い環境に馴染めるようにすることが、本当によいことなのか、それはまだよくわかりません。

そんな中、つい先日ご紹介した植松努さんが新たに書かれたFacebookの文章を読んで、ふと思ったことが。

天才は変わり者が多いとか、偉人には発達障害があった人が結構いるとか、そういう話はよく聞きます。
そして、それは事実なんだろうと思うのですが、変わり者といわれるような人がすごい発明をしたり、世紀の発見をしたりできる理由の一つは、周りの余計な声に耳を貸さないということもあるのかもしれないなと。

植松さんが書いておられるように、子ども達が何か突飛なことを言い出すと、そんなの無理だからやめておきなさいという大人は少なくないのかもしれません。
夢を持って、それを話すたびに、無理だ無理だと言われ続けたら、普通は自分には無理だと思って諦めてしまうのかもしれませんが、聞く耳持たずマイペースな子であれば、そういうのを全部聞き流して、信じた道を進んでいけるというようなこともあるのかもなと。

そんなことをあれこれ考えました。

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2016年5月29日 (日)

オフでしたので。

今日は更新お休みします。

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2016年5月28日 (土)

考えてみれば…。

これまで、子ども達が計算などを紙に書かず、じ~っと頭で考えて答えを出す姿を見て、「紙に書いた方がわかりやすいよ?」とか、「書いた方が間違いにくいよ?」とか声をかけることがありました。
もちろん、計算が苦手な子、考える力が弱い子、既に高学年や中学生になっている子などには、そう勧めた方がいいというか、むしろ書かずに解こうとする子には書くことを習慣づけさせるかもしれません。
ただ、今日のレッスンで2年生の子のお母さんとお話をし、その親子を見送った後、あれ?と思ったことがありました。

その2年生の子は計算過程を紙に書くのがあまり好きではないようで、じ~っと頭で考えて、暗算でできそうなものは暗算で答えを出してしまいます。
多少時間はかかるものの、正解率もかなりのものです。
その子に対しても私は、書いたらいいのに、書いた方が楽よ?というようなことを声掛けしてきたのですが、果たしてそうなのか?と。

確かに脳を使うということでいえば、書いた方が脳の負担が減るのは恐らく正しいのだろうと思います。
おまけに、その方が間違いも少ない可能性は高いだろうとも思いますから、私の声掛け自体に嘘があったということではないかもしれませんが、まだ低学年であるその子に「楽であること」「ミスが減ること」を優先させる方が大事なのかどうかが気になったのです。

脳科学などでは、一般に子ども達の脳は成長に応じて何度か脳神経の刈り込みが行われ、小学生の間にほぼ脳が出来上がるというような(かなり大雑把な表現ですみません…。)ことが言われており、刈り込みが行われる際には、それまで使わなかった脳神経は不要だと見なされ、刈り込まれてしまうというようなことが言われています。(色々な説がありますし、いくつになっても脳は変わっていくとも言われていますが。)

もし、幼少期にしっかり使ったところの脳神経は刈り込まれず残るというのであれば、それまでの間は楽であることやミスを減らすことを進めるより、よりたくさん頭を使うことの方が大事なのかもしれないと。
もちろん、書かずに間違いまくるとかいうような場合は話は別かもしれませんが、ある程度以上正解していて、じっくり考えることもできている子には、まだ計算を紙に書くことは強制しなくてもいいのかもしれないと。

まあ、計算ごときで脳に負担をかけなくてもというご意見もあるのではとも思いますから、これまた何が正解なのか判断が難しいところではありますが、少なくとも「楽だから」「速く処理できるから」という理由であれば、低学年の間ぐらいはその子の気持ちの方を優先してあげてもいいのかなと、そんなことを思いました。(あ、もちろん、これまでも強制はしていませんが。)

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2016年5月27日 (金)

何かとても大事なことに思えるので…。

以前、この方がTEDで講演されたときの記事も読んだことがある気がするのですが、新たにとても気になる、私たち大人が考えなくてはいけないのかもしれない、そんなことをFacebookで書いておられるものを紹介してくれていた記事を見つけました。

Facebookのページは全体に公開されていましたので、植松さんの書かれたことをもしよろしければ読んでみてください。
教室にお子さんを通わせてくださっている保護者の皆さまには、直接は関係ないかもしれませんが、実際にそういう若者が増えてきているというのは事実なのではないかと思いますし、そういう若者がこれからの社会を背負っていくとすれば、私たち自身にも、また、大切なお子さん達にとっても、影響がないとは言えないかもしれません。(こんな例は挙げたくありませんが、私達にとっては考えられないようなことで腹を立て、無関係な人を傷つけたりするような事件は実際に起きていますし…。)

TEDの動画も見つけましたので、そちらもご紹介します。こちらもとてもとても素敵なお話です。(もうご存知の方も多いかと思いますが。)
Hope invites | Tsutomu Uematsu | TEDxSapporo

植松さんのFacebookのページで書かれた記事はこちら。

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2016年5月26日 (木)

小学生の間に

子ども達とレッスンをしていて時々感じることは、小さい時だからこそ先取りで字を覚えたり、計算問題を解いたりするよりもっと、長い目で見れば遥かにその子の力になることがたくさんあるのではないかなということです。

将来勉強に役立つからそれをすべきだというと、それも何か違うような気もしますが、例えば、小さい頃に折り紙を半分や4つやらに折って切り紙遊びをたっぷりしたことがあるような子は、線対称の問題などを簡単に理解できることが多いであるとか、昔ながらのすごろくなど、サイコロを転がすような遊びをたっぷりした子は、サイコロの目が1の反対には6があり、2の反対には5があり…ということをなんとなく経験として知っていたり、紙を細長く切って糊で貼ってつないだりする経験があれば、のりしろの問題は自分の経験をイメージできたり…そんなことが色々あるように思います。

で、最近感じるのは、中学、高校で出てくる、場合の数、順列・組み合わせなどの問題は、数学として学ぶ際、イメージしきれず難しく感じる子が少なからずいて、実際私自身もとても苦手としていました。
先日、円順列と数珠順列の問題を高校生の子と一緒にしていたとき、その子もやはりすんなりとは思い浮かべられず、公式に当てはめれば答えは出せるものの、イメージできているかといえばややあやしい感じでした。

だからといって、もう中3や高1になってから、実際にものを使って並べてみたり、色を塗ってみたりしながら確かめるというのは、時間の制約などもあって(ほかにもやらねばならないことが色々ありますし。)、なかなか難しいところもあるのだろうと。
また、実際にやってみるとしても、高校あたりで解く問題だと、膨大な数の組合せができるものもありますから、さすがにそれを全部書き出すなどというのは無理があるだろうとも思います。

でも、例えば、幼児や小学生の間に、ビーズなどを使って輪を作るとき、何種類のものが作れるかであるとか、四角いカードや丸いカードに描かれた形を色分けして塗っていくとき、違う塗り方のカードはどれだけ作れるかであるとか、数字が書かれたカードを用意して、どんな数を作ることができるか色々試してみるであるとか、そんな色々な経験をしていれば、その経験の中で何らかのルールに気づく子もいるかもしれませんし、仮にそこまで到達しなかったとしても、大きくなって同じような問題を考える際、自分でやったときの経験を頭の中でイメージすることができる分、問題の意味の理解や、実際の状況を想像する際の助けになるかもしれないなと。

並べ方、組み合わせ方を考えるというのは、ある面でパズル的な要素もあるように思いますし、子ども向けのそういう学びがあってもいいのかもしれないなと、そんなことを感じています。

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2016年5月25日 (水)

めんどくさがり

算数や数学ではめんどくさがりということが欠点だとは一概には言えないと言われることがあります。
例えば、ひたすらに同じようなことを繰り返すのが面倒なので、何か工夫できないかと考えるようなタイプのめんどくさがりは、むしろプラスに働くことも多いのではないかと思います。
しかし、その一方で考えることをめんどうがるというめんどくさがりはちょっと心配です。
例えば、規則性の問題などで、どういうルールで並んでいるのか気づいた後、気づいているにもかかわらず、どうしたらさっと解けるかなというほうに頭が行かず、もしくは、そういうふうに促してみても、ひたすらに聞かれているところまで書き続けるというような子がいるのですが、そういう子は工夫を考えるよりひたすら書くほうが簡単、楽と思うということなのかもしれません。
後者のような子の場合、算数の応用問題などにだんだんと苦労することが増えていく可能性も考えられます。
では、どうしたらいいのだろうと考えたとき、改めて思い出したことがあります。

もちろん、人の興味がそれぞれですので、どれだけいい方法があったとしても、それに合わない人、興味を示さない人がいるのは当然だと思いますが、少なくとも、子どもの頃にやっておくといい効果があるかもしれないなと思ったことは、色々な、ペンシルパズルを含むパズルなのではないかなと。
論理立てて考えねばならないような推理パズルのようなものもいいかもしれません。

とにかく、子どもの頃にああかな、こうかな、こうしたらできるかな、これはだめならこれはどうかなと、そういう試行錯誤する機会を自然と持てるひとつのものがパズルなのかなと。
もちろん、小さいうちには体を動かしたり、自然に触れたりと、もっと大事なことがいっぱいありますが、知育的なことをさせる場合、ドリルのようなものを先取りでやらせるよりは考える力、試行錯誤する力が必要になるものを経験させることの方がより子どもの力になるのではないかなと。

まあ、子どもによってはそういうものに興味を示さない子もいるかもしれませんので、一概には言えないものの、興味を示す子であれば、そういう機会を作ってあげると、成長に伴って、何か工夫できないかな?とか、これがダメならこうやったらどうかな?とか、そういう考え方が自然とできるようになる可能性が高まるのではないかなと、そんなことを思いました。


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2016年5月24日 (火)

付け焼き刃ではどうにもならない

今日は、高1の子と中間試験のために学校で習ったことの確認などをしていました。
明日は数Aの試験ということっで、今日は試験範囲の集合の基本的なところと順列のあたりを復習していました。
しかし、過去の自分を振り返っても、今日レッスンをしていたその子を見ていても、集合や順列・組み合わせなどの問題は、公式を覚えたり、類題をいくつか解いたりしただけでは、どうにもならないところが多分にあるように感じます。

というのは、与えられている条件がどういうことを言っているのかきちんと理解できなければならない。
その上で、その条件を満たすのはどういうものがあるかを漏れなく、重複なく、挙げられなければならない。
更に、それをどういう方法で解くのがミスが少ないか、時間が短くて済むかを判断できる力が必要。
そんな問題だらけだからです。

例えば、大人2人と子ども4人を円卓に座らせる場合、大人が向かい合う座り方と言われた場合、まず大人を決めるか子どもを決めるかで、すんなり解けるか、考えるべき条件が増えるかの差があったりします。
2つの箱に10色の玉を分けて入れる方法も、箱の方から考えるか、玉の方から考えるかで、考える手間がかなり変わります。
生徒をグループ分けするとき、グループに番号があるかないかで答えは変わりますし、また、こういう問題の中には小中学生が解くような樹形図や表を使って地道に解いていくことができるものがありますが、それをしていては、試験など時間が限られている場合には時間切れになってしまうかもしれません。

私は子どもの頃、算数・数学に関しては習ったことを覚えて、それを使って解いていくというのが当たり前だと思っていたため、高校の集合や順列・組み合わせはほぼお手上げに近い、とても苦手な単元でした。
今思えば、それは当然のことだなと思います。

これらの問題を解く場合、イメージできるかどうかもかなり重要になる場合も少なくありませんから、やはり一朝一夕にできるようになるものではないようにも思います。
ですから、小さい頃からしっかり考える、絵をかいたり、具体物を使ったりしながら、実際に目で見て確かめる、そういう経験をたくさんしておくことは、中学、高校と進んでいくと、より大きな力になっていくのではないかと感じています。

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2016年5月23日 (月)

得意を伸ばすか、苦手をなくすか

海外ではどうなのかわかりませんが、日本では、特に学校での勉強の関しては、通知表に1や2、がんばりましょうなどがつかないことが望ましいとされているのではないかなと思います。
例えばですが、高校などでは、いくつかの得意教科で好成績を取っていても、苦手強化で欠点、赤点がいくつかつくと留年してしまうなんてこともあるはずです。

もちろん、小学校で習うようなことは身に着けておく方が望ましいというようなことはあるかもしれませんが、高校などであれば、突出して得意な教科がある一方でいくつか興味が持てない、もしくは極端に苦手な教科があっても、それはそれでいいというような方へ、これから変わっていくことはあるのでしょうか。

考えてみれば、例えばめちゃくちゃ足が速かったり、飛びぬけて特定のスポーツが得意であったり、絵や楽器演奏などで突出した才能を持っていたりすれば、学校での成績が極めて悪かったとしても、非凡な才能を伸ばす方に注力する方がいいと考える大人は少なくないのではないでしょうか。
また、絵が抜群にうまい子が楽器演奏が下手だとしても、絵を描くより楽器演奏が人並みにできるよう練習をさせるということも、あまりないような気もします。

どうして国語・算数(数学)・理科・社会・英語などの教科に関しては、その子の興味、才能を伸ばすという方向になかなか向かないのでしょう。
今後少しずつそういう方に向いていくのかもしれませんが、好きな教科を極める方が、色々な面でいいことの方が多いような気もするのですが…。

嫌いなもの、苦手なものは一切しなくてもいいというのはどうかなとは思いますが、義務教育では最低限身に着けておくべきものを決めて、それに関してはみんなに学ばせ、それ以外は好きな教科を選択できたりすれば、もっと学びが深まるし、学ぶ楽しさも感じられるのではないかなと、なんかそんなことを思いました。

近い将来大学入試が大きく変わると言われていますが、もし本当に変わるのであれば、当然それまでの学校教育も変わっていかないとおかしいわけですし、それがどんな風に変わっていくのか、気になるところですね。

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2016年5月22日 (日)

オフでした。

主要な海外サッカーがシーズンオフに入ったと共に、今日からテニスの全仏オープンが始まります。
昨日は女子バレーがオリンピック出場を決めたようですが、そういえばバレーはあまり見ないなと気づきました。
そんなこんなでいつもと変わらないオフでした。
今日は更新お休みします。

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2016年5月21日 (土)

今なら少しわかる気が。

私は高校入学直後、数学で完全に落ちこぼれ、数か月間、このままでは赤点取って留年することになるのではという恐怖と戦っていました。(苦笑)
幸い、数か月でなんとか最低限のことはわかるようになり、文系で必要な数学は好きになったものの、理系に必要な数学で挫折し、文系に進んだ過去があります。

今でいう数Ⅱ、数Bは途中までしか学習しておらず、とにかくわからなかった、難しかったという記憶だけが残りました。
ですが、数年前、理系の学生たちを指導しておられる、ご自身も指折りの難関大学ご出身という方に、高校の数学の何が難しいんですか?という趣旨の質問をされたことがあります。
そのときは、そりゃこの方は理系のバリバリの方なのだから、私のわからなさは理解できないでしょうし、想像もできないに違いないと、適当に聞き流していたのですが、そして、それもある面では正しいようにも思いますが、その方が言おうとしたことが、今は少しわかる気がしています。

もちろん、高校時代は授業の進度も速く、他教科もやらねばならず、そのほか部活やらなんやらと常に時間に追われているような状態でもあり、元々小中学校時代にじっくり考える学びをしていなかった私には、高校時代挫折せずに乗り切ることはできなかった気もしますが、わからない、難しいと感じ始めたところで、それ以上、そこをクリアしようと努力しないまま辞めてしまったことで、自分にとっていつまでも難しくてできないものという記憶になってしまったような気がするのです。

昔は今のようにわからないことを簡単に検索して調べるということはできませんでしたが、今、改めて数Ⅱなどを学び直している中で、問題を見ただけでは意味が分からないことは参考書を見たり、インターネットで検索したりして意味がわかるまで調べる。
もちろんもう若くないので、覚えたことは繰り返さない限りあっという間に次々忘れてはいきますが、少なくとも今のところまだ、高校時代にはもう挫折していた範囲に差し掛かっても、意味を理解することができています。
このままずっと行けるかどうかは自信はないものの、わからないことをきちんと解決しようとしなかったから、わからなくて難しいと感じたまま終わってしまったんだなということは感じています。

自分が理解できるまできちんと調べたりすれば、それはもう難しいこと、わからないことではなくなります。
そういう意味で、そうやって学んできた方からすれば、一体何が分からないの?何が難しいの?と思われても不思議はないなと。

必要ないことはわからないままやり過ごしても構わないと思いますが、子ども達にも、わからない、難しいという気持ちのままそこを通り過ぎていくようなことはできるだけさせずに済むよう、一層心掛けていきたいと思います。

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2016年5月20日 (金)

まず考えてみる

以前何かの本で、本当の意味での学びには独学が一番だというようなことを読んだことがあります。
自ら興味を持って、自分なりにそれを深めていく。そういうことを学びというのだといえば、それは確かにそうなのだろうとも思います。
そういう意味では、「授業」で学べないのは当たり前なのかもしれませんし、何かを理解するために参考書やマニュアルを読んで、書いてあることをその通りにやってみるというのも学びではないのだろうと思います。

教室を始めて以来、とにかくまず考えるということを心がけてやってきましたが、最近は自分でも未知の領域である数Ⅱや数Bをやる機会があり、おまけに若い頃とは違って、新しいことを覚えておくこともかなり辛くなっているので、覚えずに済むことは極力覚えないというスタンスで取り組んでいることで、改めて、まずとりあえず考えてみるというのはとても大事なことなのではないかなと感じています。

特に数学は、これまで学習してきたことの延長線上にあるものが多いため、自分が既に知っている知識などを使って、とりあえずこうかな?と考えてみる。その後で答え合わせをし、答えが合っていればそれでよしとすることもありますし、実際にはどんな解き方をしているのかをその時点で解説などを見て確かめることもあります。
先に考えていますので、解説にかかれた方法が簡単だとか、その方が理解しやすいとかであれば、そちらに切り替えることもできますし、その方法がぴんと来なくても、こういう方法でも解けるよと、子どもに対して提示できるものがほかにもあると考えることもできます。
でも、最初から例題などの解法を読んでしまったら、その方法が自分に分かりづらいなどの不便がなければ、それを見てその通りに解いてしまって終わる可能性も少なくありませんから、自分の頭を使う範囲は限られますし、楽しさもありません。更に言えば定着する可能性も、自分で考えた場合より低くなるのも恐らく間違いないでしょう。

多くの子ども達が算数や数学で不必要な苦労をすることになる原因の一つが、その子の頭で考える前に説明が始まるということなのではないかと、そう思えてなりません。
もちろん、既に知っていることだけでは絶対に解けないであろう問題をいきなり考えなさいというのは無茶だと思いますが、過去に学んだことや、日常で経験していることなどから、何か考えられるのではと思うようなものは、まずちょっと考えてみさせる。それがほんの短い時間であったとしても、ただ一方的にやり方を教えるより遥かに有効なのではないかなと、そう思うのですが、いかがなものでしょう。

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2016年5月19日 (木)

模写

先日のレッスンでちょっと驚いたことが。
算数は結構よくできるものの、図形はあまり好きではないという子なのですが、そう言いながらもある程度以上問題も解くことができる子なので、これまであまり感じることもありませんでした。
しかし、あることをしてもらおうとしたところ、ちょっと驚きの出来事が。

中1になったその子と、立体図形の学習をしていて、与えられた図を見て、それを回転させるとどんな立体になるか見取り図を描くというものが出てきました。
初めは円柱ができるというものだったので、まあそれなりに描くことができました。
そして2問目。それは回転させると双円錐と言われる形になるものだったのですが、まずは四角錐を上下にくっつけた絵を描こうとしました。

「回すのよ?」と言ったものの、今ひとつピンと来ておらず、実際に棒に紙を切ったものをくっつけて、ぐるぐる回して見せました。
それで、どういう形になるかはなんとなく理解したようなのですが(ソロバンの玉をもっと縦に長くした感じという話が通じましたし。)、次に描き始めた絵は、なぜか全ての辺がふにゃふにゃの曲線になっているのです。
あまりに予想外だったので、思わず笑ってしまったものの、わからないものはしょうがないと、インターネットで検索してソロバンの玉の写真や双円錐の画像などを見せ、描いてもらいました。

ただの円錐であれば過去に描いたこともありますから、恐らくそれほど苦労せず描けたのではないかと思います。ただ、双円錐を描いたことがなく、もともと図形がそんなに得意ではないとなると、こんなことが起こる場合があるのだなと、正直ちょっと驚きました。

最近はインターネットなども普及し、小さい子達でも簡単にその画像などを見ることもできますし、知った気になっていることも多いのではないかと思います。
でも、見たことがあるのと、手で描いたことがあるというのは別物なのかもしれません。
小さいうちに色々な形を見て、それを真似て描いたり、お手本を真似て描いたりすることも、算数や数学にとって大事なことなのかもと、改めて感じました。

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2016年5月18日 (水)

眠い子続出

最近私は寝てもやたらと眠いことがあって、春だから?と思ったりしていたものの、早目にたっぷり寝てもやっぱり眠くなるので、ちょっと調べてみたところ、もしかしたら更年期障害のひとつなのかもと。やたらとお腹が空くなんて症状が出ることもあるらしく、更年期って成長期みたいだなと思ったりもしたものの、ちょっと困ったものだなと。

もちろん、子どもがいると体調悪いのも回復するような人間ですので、レッスンしている間は大丈夫なのですが、今日のレッスンは最初に来た子が「めちゃ眠い」とやってきて、レッスン中も確かに頭が回っていないような場面が何度もありました。
すると、その後にやってきた子達も、軒並み眠そうにしたり、極めて簡単な計算を間違えたり、普段なら確実に通じるようなことがなかなか通じなかったりと、不調な子が続出。

例によって、最初の子の眠くて不調だった「空気」が教室に残って伝線してしまったのかもしれませんが、ちょっと困った1日でした。

そんな中、新1年生になって一番疲れているかもしれない子は、レッスン時間の大半をしっかり集中して、しっかり考えて、本当にがんばってくれたのは、その子なりにもう幼稚園生じゃないんだ、小学生になったんだみたいな気持ちが表れてるのかなぁと、微笑ましく、頼もしく見ていました。

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2016年5月17日 (火)

すみません。

平日なのですが、ちょっと気分がすぐれず、今日は更新お休みさせて頂きます。

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2016年5月16日 (月)

問題文って難しい。

問題を作る側になってみて初めて、問題を作るというのはなかなかに難しいものだなと改めて感じることがあります。
また、子ども達とレッスンをしていると、この表現ではわかりにくいなとか、自分では、もしくは大人には当たり前のことでも、子どもにはわかりにくいこともあるんだなとか、そんなことを感じることもあります。

先日は、私自身が高校数学のも問題の1文の意味を勘違いし、その本当の意味に気づくまでにかなりの時間を要し、それでも、人によっては何の疑問も持たずすんなり理解したりもするということを経験しましたが、中学生の子などに見せたら私と同じ勘違いをしたということは、やはり、その人の持つ背景などによっても、文章の捉え方に差が出たりもするのだなと、そんな風にも思いました。

さて、今日は初めて一緒にレッスンさせてもらう子がいたのですが、「ゆみは、りえにおはじきを6こあげました。のこりを数えたら、9こありました。はじめに、何こ持っていたのでしょうか。」という問題の意味が通じませんでした。
もちろん、これを普通に読めばあげた残りを見たら9個だったのですから、あげた側のゆみの初めの数を答えるということに疑問を持つ大人はいないとは思います。

でも、その子は「3個」と答えました。初めは、あげたのを何か勘違いして「9-6」をした数を答えているのだと思ったのですが、単純な勘違いではなく、その子の頭の中では、どこかの時点で違った絵が思い浮んだようなのです。
ゆみから6個もらったりえのおはじきが9個と思い込んでしまったようで、「はじめ」というのはもらう前だから3個と考えていたようです。

その勘違いに気づいたのは、あれこれ自分とその子に置き換えたりしながらやり取りをしていく中で「ああ、そういうこと!」と言ったからなのですが、まだ低学年の子で、例えば文章を読むことにあまり慣れていなかったり、国語が好きではなかったりという子の場合、主語が最初にあるだけで途中には出てこないと、こんな勘違いや思い込みをしてしまうこともあるのだなと。

例えばですが、この問題に「のこりの数を数えたら」のところに「ゆみが自分のおはじきののこりの数を…」であるとか、文を分けずに、「ゆみがりえにおはじきを6個あげたら、残りが9個になりました」とか書いてあれば、勘違いする可能性が多少は下がったのかもなと。

ただ、何でもかんでもくどくど説明をするというのがよいとは限りませんし、この書きかたでも大半の子は正しく読み取って問題を解くだろうとも思いますので、そのあたりが何をどこまでわかりやすく書くか難しいところなんだろうなとも思います。

また、子どもが何か勘違いしている場合、例えば今回の問題で私が最初に考えた、あげる前なのに勘違いしてひき算したのかと思って説明を続けたとしても、子どもはずっと勘違いから抜け出せないかもしれません。
大人の想像を超えた勘違いをすることもあるということも頭の隅に置いておく必要があるんだなということも感じました。

いざ自分が作る側になったら、そういうところがどこまでわかりやすくできているのか、自分だけでは気づかない落とし穴とかがあるのかもしれませんから、別の人に見てもらう、事前に子ども達に読んでもらうということも必要なのかもしれませんね。

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2016年5月15日 (日)

解決しました。

2週続きで週末機械系のトラブルに見舞われることになろうとは思ってもみませんでしたが、色々進歩が速すぎて、特にこの頃、一番メジャーと思われるOS関係で、アップグレードやらアップデートやらされるたび、何か不具合が起きたり、トラブルに見舞われたりしているような…。

先週はパソコンではなく、屋外の基盤か何かの問題でしたが、今回はどうやらOSの自動アップデートによるトラブルだったようです。
サポートに電話をかけて、人につながるまで小一時間。繋がって状況を説明し、専門スタッフにお繋ぎしますと言われたものの、専門スタッフの方もかなり込み合っているのでこちらから折り返し電話させてもらうのでお待ちくださいとのことで一旦待機状態に。

しかし、待てど暮らせど電話はかかってこず、3時間。出かけることもできず、かといって再度サポートに電話をしてもつながるまでにどれだけ時間がかかるか…。

そこで、サポートの案内にあったサポートチャットというほうにアクセスしてみたところ、こちらは10分程度でコンタクトが取れ、購入後まだ3か月ほどなので「遠隔サポート」の保証期間で、サポートの方が私のパソコンにアクセスしてマウス操作をし(見ていると、勝手にカーソルが動いてクリックされて…とちょっとSFのようでした。)、ものの数秒で不具合が直りました!

お尋ねしたところ、やはり私が何かしたのではなく、自動更新の影響ではないかと思われるとのこと。
私と同じ症状ではないものの、ほかにも自動更新でメールの表示がおかしくなった方などがいたと。

そりゃ、自動更新同じ日に大勢の人が、自分の意志とはほぼ関係なくされてしまうので、それで一定数の方に不具合が起これば、サポートにつながらなくもなりますよね…。
でも、最初からチャットサポートの方にアクセスしておけば、恐らく少なくとも3、4時間は早く解決していたのではないかなと。

そんなこんなで今日も極めて非生産的1日を過ごしてしまいました。それも、自分が何かしたというわけではなく巻き込まれて…。はぁ…。
2週連続週末にトラブルとなると、来週末がちょっと怖いです。(苦笑)

明日からまた気を取り直してがんばります。

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2016年5月14日 (土)

トラブル続き…。

レッスンはお休みの子もおらず、ほぼ平穏に終了したのですが、帰宅後またパソコントラブルが…。
今回はインターネットは使えるのですが、2週続けて…とちょっと滅入っております。
明日またこれに時間を取られるのかと…。

申し訳ありませんが、今日はこれにて失礼いたします。

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2016年5月13日 (金)

久しぶりに目にする姿

今日はおひとり体験レッスンをさせて頂きました。
事前に保護者の方にお話を伺い、その子にちょうどよさそうなあたりの教材を用意してレッスンをさせてもらったのですが、その中で久しぶりに、ある姿を目にしました。

緊張もあるのか、割とおとなしい感じで、問題にも真面目に取り組もうとしてくれるのですが、年齢を考えると問題を読み取る力がやや弱いのか、もしくはきちんと読まずに問題に取り掛かる癖がついているのか、すぐに「どういうこと?」と問題についての説明を求めてくる印象が。

その時点でも、ああ、この感覚ちょっと久しぶりかも…と思ったのですが、問題を解いている途中、思考停止に陥りかけたようで、そのときに突然「わからない、わからない、これ、全然わからない」と、何度も何度もわからないという言葉を繰り返し出したのです。

子どもたちはみんなそれぞれに違っていて、どんな学習法でも合う子、合わない子がいたり、弊害が出やすいと言われる方法でも大丈夫な子もいれば、弊害が強く出る子もいますので、もちろん一概には言えないのですが、その「わからない、わからない!!」と言っているときは、目にも力がなく、喩えが適当かどうかわかりませんが、どこかロボットが故障したかのような印象を受けました。

幸いその子はそこで投げ出すことはなく、こちらからの問いかけに答えたりしていくうち、「あ、わかった!」と言ってくれたのですが、過去、大量反復学習を小さい頃から長期に渡ってやっていたというお子さんの中に、同じような反応をする子がいたなぁと。

うちに通ってくれている子たちの中でももちろん、わからないと感じると不安になって泣いてしまったり、不機嫌になってしまったりということはあるのですが、怒っている感じではなく、うまく言えないのですが、どこか機械的に「わからない」と繰り返すという子には、まず出会うことがありません。
ですが、大量反復学習をしていたという子たちで同じような反応を見せた子たちが過去に何人かいたなと。

もちろん、偶然かもしれませんし、大量反復の学習方法が合っている子もいるのかもしれませんから、一概には言えませんが、お子さんの反応を見ていて、何か気になるな、何かおかしいなと感じるようなことがあれば、その方法が合っていないのかもと、一度意識してみてもらえたらなと思います。

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2016年5月12日 (木)

待つこと

今日はレッスンの前に小学生のお子さんを持つお母さまとお話させて頂くことになりました。
私にとってはもう既に当たり前になってしまったことでもあり、過去、ブログにも何度も書いてきたことではあるのですが、お母さまとお話をしていて、まだ知らない方のほうが多いのかもしれないなと改めて思ったので、以前から読んでくださっている方には「またその話か」と思われるかもしれませんが、少し書かせて頂きます。

私が教室を始めたとき、そのときお世話になった先生に「教えてはダメ」と言われていたこともあり、子どもが考えている間はできるだけ待つことを心がけていました。
ただ、子どもが黙ったまま手も動かさず、じっとしているのを見ると、何も考えられていないのかな?と不安になり、それまでの習慣で何かヒントを出さないとダメかな、説明しないとダメかな…と内心あれこれ考えて、どうしよう、どうしようと思うことがありました。
それでも待てる限り待ってみようと思って、ああ、もう限界かな、何か言おうかなと思った瞬間、何事もなかったかのように子どもが答えを言ったり、書いたりするということがたびたび起こりました。

それを繰り返す中で気づいたのは、子どもが考えるのには、大人が想像するより遥かに長い時間がかかるのだということでした。
それでも、考えている間、子どもはとても穏やかですし、静かに待っていれば納得行くまで考えて、きちんと答えに辿り着き、時には満足そうな表情を見せることさえありました。

そのとき気づいたのは、自分自身、これまで何度も、考えている途中の子どもを邪魔していたのかもしれないということでした。
少なくとも、学校や塾などで、教室の子たちが考えるのに要した時間ぐらい、ただじっと待ってもらえるということはまずないことだろうとも思いますし、実際私も、子どもが止まっていると、困っているのだと思い、親切のつもりで手助けをしていたように思います。

そのことに気づいてから、子どもが考えている間は時間がかかろうとも待てる限り待つということを心がけてレッスンするようになり、その結果、初めはとても長い時間かかって考えていた子達が、いつの間にか驚くような加速を見せ、考えているのに大人でも追いつけないような反応を見せることさえ出てくるようになりました。

もちろんこれも個人差がありますし、その日のコンディションなどによってもできたりできなかったりということもありますが、それでも、自分で心行くまで考えられる経験を積み重ねた子たちは、ほぼみんなそれが当たり前になり、次第にスピードも上がっていったように思います。

しかし、その一方で、私もそれまでは知らなかったように、多くの大人が、子どもがじっと動かずにいると、わかっていないのではないかと思ってヒントを出したり、やり方を教えたりしてしまっているのは、今も変わっていないのではないかと思います。
それは困っているから助けてあげたいというような、その子を思う気持ちの表れだったりするわけですから、よかれと思ってしていることが、実はその子の妨げになっているとしたら、少なからずショックなのではないでしょうか。

今日もまた、お母さまにもお話したのですが、例えば、なぞなぞを考えていて、あとひと息で答えが出そうなところまで来ていたのに、横からヒントや答えを言われたら、がっかりしたり、なんでいらないことを言うんだと腹が立ったりするのではないかと思います。
なぞなぞやクイズなどであれば、口に出して文句を言うこともあるかもしれませんが、例えば勉強で、自分が考えている途中でヒントを出される、やり方を説明されるということが度重なれば、自然と「どうせまた途中で言うんでしょ?」という気になり、考えなくなったり、やる気を失ったりしていったとしても、決して不思議ではありません。

そうやって、気づけば、答えを書いて先生など、大人の表情を見、答えが違っていそうであれば消して書き直すというような行動を取るようになる場合もあるように思います。

指導する側が、そういう意図をもってそういう子どもにしたいのであれば構いませんが、恐らくそんなことを思っている指導者はまずいないだろうと思います。
それにも関わらず、知らないうちにそういう方向へ導いてしまっているかもしれないというのは、やはり怖いことだと思うのです。

小さい子たちが考えているときには、まずとにかく待つ。
そのことはいつも意識しておいて頂けたらなと思います。

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2016年5月11日 (水)

ちょっとびっくり。

春から1年生になった子とのレッスンがありました。
年長さんの間は私とマンツーマンのレッスンで、レッスン中、幼稚園であったことやお友達のこと、家族とお出かけしたことなど、いろいろなことを話して聞かせてくれました。
もちろん、お話ばかりしていたら進みませんので、ある程度のところで切り上げてレッスンに戻ってもらうようにしていましたが、まだ幼児さんですから、おしゃべりはダメとは言わずに来ました。

4月中はまだ学校が終わる時間も早いのでということで、それまでと同じ時間に来てもらっていたのですが、5月になり、学校の終わる時間が遅くなったので、いよいよほかのお子さんと一緒にレッスンをするということに。

事前にお母さまにはお話しており、また、その子には少し歳の離れたお姉ちゃんがいることもあり、大丈夫ですと言って頂いていました。
また、一緒にレッスンをすることになる子も、これまで低学年の子と一緒にレッスンをしていたので、こちらも大丈夫だろうと。その子の普段の様子からすると、1年生さんがちょっとぐらいおしゃべりをしても大丈夫ではないかとも思っていたので、あまりにもおしゃべりが過ぎるようならやんわり言わないとダメかなぁと思っていました。

そして、いよいよその子にとって初めて、別の、それもちょっと歳の離れた子と一緒のレッスンが始まりました。
すると、私は何も言っておらず、また、年上の子は普通に会話もしているのに、その子はひたすらに黙々と問題に取り組んでいます。
どこかでお話しする機会を探しているのかな?と思っていましたが、そのままずっとレッスンが進み、とうとう終わり近くまで来ました。
あと10分ほどになった頃にお母さまが戻ってこられたのですが、全くおしゃべりもせず、ひたすらに集中し続けたため、その子はもうへとへと。
戻ってこられたお母さまに、緊張していたのか、今日は全くおしゃべりされずにがんばっていたので、もうくたくたみたいですと言って、本人にも「くくたくたやねぇ?」と言うと、静かにこくりと頷きました。

小さいながらも、緊張していたのか、気を遣ったのか、小学生になったからなのか、それはまだわかりませんが、何にも言わなくても自分でおしゃべりしたらダメだと思ったのであろうその子がなんとも愛おしく、また、ちょっとびっくりもしました。

いつまでそんな状態が続くのか、慣れてきたらまた少しずつお話してくれるようになるのか、それはまだわかりませんが、小さい子達も自分なりに色々感じて、考えているんだなと、そんなことを感じた出来事でした。

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2016年5月10日 (火)

イメージできること

今日、ある子と体積や容積の学習をしました。
今回は立方メートルの大きな体積や、体積と嵩(L・mL)との関係などを学習したのですが、1立方メートルというのは結構大きいので、教室で実際にその大きさのものを見せることが難しく、過去に見せた1平方メートルの広さで高さが1mの立方体の大きさだとはいうものの、それが何リットルぐらいかというのはなかなか想像がつきません。

教科書などではさらっと1立方メートルは1000Lと書かれていたりするのですが、普段あまり使うこともない上にイメージしづらいとなると、100Lだったかな?1000L?10000Lだったかな?となっても不思議はありません。

教室では1立方メートルが1mLと同じということは覚えるように言いますが(もちろん、ただ覚えなさいと言うわけではなく、1立方センチメートルの大きさの積み木を見せて、それが何ミリリットルと思うか尋ねた後に話すのですが。)、あとは1Lが1000mLであるということを覚えていれば、1立方メートルが1000Lだということは忘れても考えられるよという話をします。

そんな流れで、その子にも1立方メートルは1000Lで、1000Lと言ったら、おうちのお風呂いっぱいにお湯を入れたより多いと思うよ(その子のおうちのお風呂の大きさがわかりませんので…。)と言ったものの、今ひとつ、ふ~ん、そうなのか~ぐらいの表情をしていました。

ですが、1000Lといえば、お水の2Lのペットボトル500本だからと言った瞬間、「え?」と驚いたような表情になり、「すごいよね?500本って、並べたらお部屋いっぱいになるよね。」というと、うんうんと力強くうなずきました。

要するにこれが、この子にとって1000Lの多さがある程度イメージできた瞬間だったということなのでしょう。
1立方メートルが何リットルだったかな?と考えるとき、頭に部屋中に並んだ大量のペットボトルが浮かべば、100Lとは思わずに済むかもしれません。

何であればイメージできるかは人それぞれだと思いますが、そういう瞬間を少しでも増やしていけたらなと思います。

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2016年5月 9日 (月)

広い視野

教室を始めるときにお世話になった先生が視野を広くすることは、比喩表現だけでなく、実際に大事なことだというお話を聞かせてくださいました。
例えば、子ども達が取り組む問題でよくある、4つか5つ描かれた絵の中から同じものを2つ選んだり、同数のものを2つ選んだりというようなものを考えるような場合、ひとつずつ見ていくより、描かれた絵を全て視野に入れて見比べる方がわかりやすいというようなことです。
それまであまり意識したことがありませんでしたが、そのお話を聞いて、言われてみれば確かにそうだなと再認識したのを覚えています。

子ども達とレッスンをするときには、そういう問題の場合、最初に声をかけたりして、なるべく広い範囲を視野に入れることを意識してもらうのですが、最近改めて自分でも、ああ、こういうことにもつながっているのかもなと感じたことがありました。

実は、昔からパズル系のものが好きで、ジグソーパズルなどの実際のパズルはもちろん、数独やイラストロジックその他のペンシルパズル、最近はスマホなどでも簡単にゲームができるようになってしまったこともあって、スマホでパズルゲームなどにもついついはまりがちなのですが、最近、友人から教えてもらった脳トレアプリがあって、実際の効果はわかりませんが、その中に暗算系のゲームが2種類あるのです。

そのうちひとつは上下に簡単な計算式が出てきて、答えが大きい方を選ぶ、同じ場合は同じというところをタッチするという、ルールはとても簡単なものです。
それをしていると、式が複雑になってつい上の式に集中し、一所懸命計算をしてから下の式を見ると、上の計算を必死にしなくてもすぐに大小比較できたなと思うものがあったり、大小さえわかればよいのであれば、両方を眺めて出てきている数字と使われている演算の種類だけで判断できるものがあったりするのです。

制限時間内にどれだけ正解できるかでトレーニングの成果があがっているかどうか判断するようなものなので、気が焦るとついつい全体を見る、俯瞰で考えるということを忘れてしまうのですが、そういうときこそ、まず全体を見て、必要であれば部分を見るという考え方がより効果的なんだなと、改めて実感しました。

これは暮らしの中の色々な場面でも言えることなのかもしれませんし、少なくとも子ども達が数学などで問題に取り組む際にはとても大事なことなのではないかなと。
まず問題を俯瞰して、必要に応じて細部を見ていくということができているか、意識して見てみようと思います。

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2016年5月 8日 (日)

解決しました。(かなりどうでもいい話ですみません。)

昨日はお休みや時間変更もあり、イレギュラーがいろいろありましたが、来てくれた子たちはみんなそれぞれにがんばってくれました。(若干1名、途中でどこかにはまり込んでしまった子はいましたが。)

仕事を終えて帰宅し、いつものようにパソコンを立ち上げたところ、インターネット接続がありませんというエラーが。
普段家ではスマホはWifiなのですが、それもつながらず。
何かおかしいなとパソコンやスマホを再起動するも直らず、モデムがおかしくなっているのかなと、そちらも一旦電源を抜いて挿し直してみたもののダメ。

しかし、もうインターネット検索ができるのが当たり前の環境に慣れ過ぎており、更には何かトラブルがあってもその解決自体、インターネット検索によって対応する以外、深夜にはほぼどうすることもできないのも事実で、さてどうしたものかと。

その時点で電話サポートは時間外。スマホのちっちゃな画面で調べられることを調べ、あれこれ試したもののどうにもならず。
ふと光フレッツを契約したときに必然的に切り替えられてしまった光電話が気になり、受話器を上げたところ無音。
とにかく、モデムが壊れたか、外の何かのエラーか、自分ではどうしようもなさそうだということが分かった時点で既に3時間以上が経過していました。

時間外でもとりあえずサポートに連絡だけしておこうと、これまたちっちゃなスマホで苦労しつつ状況を説明する長文を打って、住所入力の際、郵便番号から住所を検索するボタンを押すよう書いてあったため、それを押したらエラーが出て、入力が全部真っ白に…。
くじけそうになりながらもう一度がんばったのに、もう一度同じことに……。

今日は諦めて明日電話するかと思ったものの、時間外は録音で応対すると書かれていたので、ためしにかけたところ、連絡先とトラブルの状況などを録音するようアナウンスがあり、それをし終えたら既に0時。

やっと食事の支度をし始めたところ、不覚にもスマホが消音になっていたようで、気づかぬうちにサポートから電話がかかってきていました!!
0時でも折り返してくれることにびっくりしつつも、再度かけ直したらまた録音が対応し始めたので、朝また連絡をくれるという留守電に従うことに。

すると、電話がつながらないとかいうトラブルは急を要するので夜勤の方がいて対応しているということなのでしょうか、晩遅くに留守番電話にメッセージをくれた方が朝7時45分に「朝早くから申し訳ありません」とお電話をくれました。

で、今日の14時以降に修理の方が来てくれることになったのですが、その間にあちらで調べたところ、夕方4時(私は仕事で家にはいませんでした。)に通信が途絶えているので、私の側の機器の故障とかいうことではなさそうだとのこと。

そこでちょっと嫌な予感がして、サポートの方に大規模修繕で何か影響が出る可能性があるかお尋ねしたところ、あり得るとのこと…。
更に、今日修理に来られた方にもそのお話をすると、原因は外だと思うという答えの後、同じマンションでもうお一人同じ状態でご連絡を頂いていると…。

ああ……。
大規模修繕で何を触ってしまったのかわからないけど、私の昨日の3時間を返して…。

というわけで、修理のお兄さんが外で2時間ぐらい作業をされて、何かの基盤を交換したとのこと。
家の中は何もいじらずともすんなり電話もパソコンも元通り。

しかし、ほんの半日ちょっとインターネットや固定電話が繋がらないだけで、こんなに不便を感じたり、不安になったりする自分にちょっと驚きました。

一昔前にはインターネットは従量制で、電話回線を使って繋いだりしていましたし、常にインターネットにつながっているなんてことは考えられなかったというのに、今はパソコンがあればインターネットにつながっているのが普通になっていますものね。時代の変化は本当に速くて驚きますね。

そんなこんなで昨日はブログを書くところではなく、落ち着かない夜を過ごしておりました。
とりあえず解決してほっとしました。

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2016年5月 7日 (土)

トラブル発生中

インターネットが使えないので、ひとまずスマホから形だけの更新で失礼します。

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2016年5月 6日 (金)

しみじみ感心

じっとしていることや、ひとつのことに集中するのが苦手な、でも、そういう子にしばしば見られる天才的センスを感じる子とのレッスンでのこと。

天才系の人には珍しくないことなのでしょうけれど、興味があることに対しての理解や集中は素晴らしいものがあり、かといって、ほんの今集中していたはずなのに、一瞬にして気が逸れていたりもして、とにかくつかめないところがいっぱいあるものの、この子とレッスンをしていると、しばしば、すごいなぁと感心させられることがあります。

今日もそんなひとこまが。
体積の学習をしていたときのこと。初めて習うという容積について、何を容積というのかを簡単に説明した後、実際に問題を解いてもらおうとしたときでした。

あまり意識したことがなかったのですが、容積の問題では、最初に空っぽの水槽の縦横高さが与えられているようなものが出てきて、その後、内法を考えさせるものへという流れが多いように思います。
その子の色々なことに気づく力、考える力はかなりのものなので、敢えて何も言わずに問題を考えてみてもらおうとして、ただの直方体の図に縦横高さが書かれているものを見た途端、その子が言いました。

「あ~、これは厚さがないんやな?」

因みに、内法の話はまだしておらず、容積というのは空っぽのコップがあったら、その中にどれだけのお水やジュースが入れられるか、空っぽの入れ物にものを詰めたら、どれだけのものが詰められるかというようなことを話しただけで問題を見てもらった最初の言葉がそれだったのです。

そういう感覚がある子にとっては、板の厚みが書かれていて内法を考えるものの方が恐らく「自然」なのかもしれないなと、やっぱりすごいなぁと感心しました。

そう思えば、算数や数学は、あり得ないような設定での問題というものも少なくなくて(もちろん、実生活のそのままのことを考えるとなると、小中学生にはまだ難しすぎることなどが色々あるからなのだと思いますが。)、歩く速さが常に一定だったり、板の厚みがなかったり、床と物との間に摩擦が起こらなかったり…と、普段の生活で色々なことに関心を持ち、色々なことに気づいている子にとっては、その「あり得ない設定」の部分で違和感を感じたり、あり得ないから解けないと思ってしまったりするようなこともあるのかもしれないな。
そんなことも思いました。

いずれにせよ、この子がこの先、どんな風に大きくなっていくのか、なんとも楽しみです。

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2016年5月 5日 (木)

連休最終日

まあ、お休みになる前からそうなるだろうと予想していた通り、特に何かするでもなく、ダラダラとしているうちにお休みが終わりました…。
最後の最後、何もしなかった、仕事もしなかった反省で、申し訳程度に数Bをちょっと解いたりしましたが、やったら多少は続くのに、手を付けるまでがどうしてこうも時間がかかるのだろうと、わかっていながらも毎度同じような後悔、反省をしております。
明日からまた通常に戻りますので、どうぞよろしくお願いいたします。

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2016年5月 4日 (水)

「努力に勝る天才なし」

連休ですが、相変わらずどこに出かけるでもなく、何かに打ち込むでもなく、漫然と時間を過ごしてしまっておりますが、この連休中、改めて感じたのがタイトルの「努力に勝る天才なし」。

もちろん、努力だけではどうにもならないものもありますが、持って生まれた優れた才能を持つ人を、それほどの才能には恵まれないながらも努力し、情熱を傾け続けられる人が越えていくということはあるのではないかなと。

それを思ったのは、今回一般のニュースなどでもかなり取り上げられたようですからご存知の方も多いかと思いますが、イングランドのプレミアリーグで絶対に優勝するとは思われなかったチームが優勝したことがきっかけです。

一番話題にあがっているフォワードのヴァーディー選手は10代の頃プロを目指したもののどこからも声がかからず、最初にプレーしたのは8部。その頃の週休は5000円ほどだったとか。
それでも諦めず努力を続け、5部、その後2部だったレスターへとステップアップ。そして、レスターが1部に昇格。
それだけでなく、今季は11試合連続得点でプレミア記録を更新し、イングランド代表に初招集、そして優勝。
ドラマより遥かにドラマティックな展開ではありますが、きっと彼はずっとサッカーを愛し、自分の才能を信じ、努力を続けてきたんだろうと思います。

また、レスターにあっては経歴がエリートと言われてしまう日本代表の岡崎選手も、高校を卒業してJリーグの清水エスパルスに入ったときはフォワードの8番手だったそうです。
それでも監督の求めるものを理解し、努力をし続け、最後には監督から「俺が教えることはない」とまで言われるに至ったとか。
それでも岡崎選手は今でもずっと、自分はうまくない、泥臭いプレーが自分らしいというようなことを言い続け、ひたすらに努力を続けています。

すごいなぁと思っていたところに、そういえば長友選手も子どもの頃クラブチームのセレクションに不合格。スポーツ推薦とかではなく明治大学に進み、努力を重ねてJリーガーに。その後セリエAのチェゼーナを経てインテルに移籍したものの、監督が代わるたび控えに回され、それでも腐ることなく努力を続け、結局どの監督にも認められて、レギュラーポジションを勝ち取り続けています。
いつの間にかインテルの現所属選手の中で一番の古株になり、去年の夏戦力外と言われ放出候補にあがっていた彼が、3年の契約延長をするに至りました。

そういえば、ミランの本田選手も足が遅く、小さい頃から秀でた才能があったという選手ではなかったようですし、野球では、イチロー選手もオリックスで才能を見出されるまではここまですごい選手になるとは思われていなかったのではと。

自己啓発などの本で、なりたい自分を鮮明にイメージするとそれを引き寄せる、それに近づくことができるというような話を目にしますが、そういう意味でも、自分の目標やなりたい姿を明確にイメージし、それに向かって迷いなく努力を続けられる人が一番強いのかもしれないなとそんなことを感じました。

もちろん、持って生まれた素晴らしい才能があり、それに驕ることなく、情熱を持ち続け、努力をし続けられるような人がいたら、ものすごいことになるのかもしれません。

と、どうでもいい話ではありますが、諦めないこと、努力を続けること、何になりたいのか、何がしたいのかをはっきりさせること、そういうことがとても大事なんだなと、改めて考えた休日でした。

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2016年5月 3日 (火)

更新お休みします。

今日は結局何も生産的なことをせぬまま過ぎてしまいましたので、更新お休みします。

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2016年5月 2日 (月)

久しぶりの再会

今日はレッスンはお休みでしたが、他県で塾をされている、お世話になっている先生がこちらにご旅行に来られたとのことで、何年ぶりかにお目にかかれることに。
教室に来て頂いて近況をお互いあれこれお話したのですが、話し始めると話が止まらず、あっという間に4時間近く経ってしまっていました。
お連れの方とのお食事の時間などもあり、まだまだ話したりない感じで後ろ髪を引かれつつもお別れしました。

このところ、以前にもまして引きこもっていて、人の話を聞く機会も限られてしまっているのですが、頑張っている方のお話を聞くのは大事だなと改めて感じました。
刺激を頂き、私ももうちょっとしっかりしないとなぁと思った次第ですが、明日からまた連休なので、どうなりますことやら…。

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2016年5月 1日 (日)

休日らしい休日

普段、お休みといってもダラダラしているうちに終わってしまうのですが、今日はダラダラはしたものの、夕方から帰省してきていた友人に会い、美味しいご飯も食べ、最後はうちで一緒にサッカー観戦までして、休日らしい休日を過ごしました。というわけで、仕事は全くはかどらずでしたが…。

明日はがんばらなくては。

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