3月最終日
早いもので、今日で3月もおしまい。
明日から新年度が始まります。
年が明けて、気持ちも新たに!と思ったはずなのに、結局この3か月、ちょっとがんばったかなと思えるのは最初の1月ぐらいのような気が…。
新年度に向け、今日は子どもたちの椅子の座布団を新しくしましたが、私自身も気持ちを新たにがんばらなくては。
新年度もどうぞよろしくお願いいたします。
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早いもので、今日で3月もおしまい。
明日から新年度が始まります。
年が明けて、気持ちも新たに!と思ったはずなのに、結局この3か月、ちょっとがんばったかなと思えるのは最初の1月ぐらいのような気が…。
新年度に向け、今日は子どもたちの椅子の座布団を新しくしましたが、私自身も気持ちを新たにがんばらなくては。
新年度もどうぞよろしくお願いいたします。
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この頃色々考えます。
どうなるのかわかりませんが、大学入試がかなり大きく変わると言われており、それも遠い先のことではありません。
方向としては、知識偏重を改めようという方向ですから、私としては大歓迎ですが、実際のところ、どこまでどういう改革がされるのか、蓋を開けたら結局は知識を詰め込んだ子が評価されるとかでなければいいんだけどと思っています。
それと同時に、ある程度長く生きてくると、自分は何が得意で何が苦手かある程度わかるようになります。
思い込みの部分も多少あるかもしれませんが、わかりやすい例で言えば、いくら頑張っても私は空間認知の能力はせいぜい平均的なレベルにしか届いていないと思いますし、これは年齢の影響もあるのかもしれませんが、問題に反応するスピードが要求されるようなもの(例えば、簡単な問題をパッと見てどちらが正解か瞬間的に選ぶようなものなど)も、問題の答えはすぐわかっても、それに反応するのに少しもたつくなど、そういうことはあるように感じます。
これは算数や数学に限ってのことですが、ほかに広げても、大勢の人の前で話すことが得意な人もいれば、そういうことは大の苦手という人もいますし、決められたことをきちんとこなすことが得意な人もいれば、ルーティーンは苦手だけど独創的な発想が得意という人もいるでしょう。
これからは、もちろん人に迷惑をかけないなどの常識は必要だとしても、まんべんなく色々な能力を伸ばそうとするより、自分の得意は何かを見極めて、そこをしっかり伸ばしていくことが、結局はみんなが幸せになるのではないのかなと、そんなふうに思います。(もちろん、学校などがそういう評価をしてくれるようになっていかなければ難しいと思いますが…。)
自分の得意なことは取り組むのも苦になりませんし、むしろ楽しいとも思えます。
自分の苦手としていることを得意とする人もいるはずです。
例えば私は一般的な接客業が苦手ですが、そういうお仕事がとても好きという方もおられます。
お客さんとして買い物をする際、苦手だなぁ、嫌だなぁと思いながらの私が接客するのと、そのお仕事が好きで楽しいと思っている方が接客するのとでは、恐らく後者の方がよい買い物ができるのではないかと思います。
掃除が苦手な人がどうにか一所懸命頑張って掃除をしたとしても、掃除が好きな人が楽しくやったことにはかなわないかもしれません。もしかなったとしても、嫌々やるのであれば、楽しくやれる人にしてもらう代わりに自分の得意な何かを提供できれば、お互い幸せかもしれません。
そんな風に思うと、苦手を克服するのに時間をかけるより、得意を伸ばすことに時間をかけるほうが、色々な意味でみんな幸せになれそうな気がするなと、そんなことを思います。
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私は理系に憧れつつも、空間認知その他の部分が「女脳」でもあり、努力だけではどうにもならないところもあって(といっても、学生時代にそこまで必死で努力したかどうかは微妙ですが…)、文系に進んだわけですが、子ども達を見ていても、友人たちと話をしていても、やはり主に理系に強いタイプと主に文系に強いタイプというタイプわけはある程度できるのかもしれないなと思います。
つい先日ある保護者の方とも話したところなのですが、例えば、理系に強く算数や数学のセンスがある子はしばしば物語文などで心情を読み取ることが苦手だったりします。
その逆で、物語文などで苦もなく心情などを読み取れるような子は、数学をあまり好まないということも珍しくないように思います。(どちらも得意という人もおられるかもしれませんが。)
で、国語が得意で数学がイマイチという子たちの中には、教科書や参考書などの説明の仕方を少し変えれば、それだけでもっと理解が進む子がいるのでないのだろうかと思うことがあるのです。
私自身が今高校数学を学び直していて、しばしば、説明を読んでいる段階で脳が拒否反応を示すことがあります。「理系脳」の人にはその方がすんなり入ってくるのかもしれないなとは思うのですが、もうちょっと書き方を変えてくれたら、これ難しくないやん!と思うことがあるのです。
それは何も、だらだら長く説明をすればよいというのとは違って、うまく言えないのですが、ほんのちょっとしたことだったりするのです。
実際、子ども達とレッスンをしていても、私が拒否反応を示したところは子ども達も読んですんなり理解できないことがあり、私が理解した例を挙げたり、ほんの少し表現を変えて説明したりするだけで、「ああ、そういうこと」と納得してくれることがあるのです。
数学の教科書や参考書を書いておられる方はほぼ皆さんバリバリの「理系脳」の方なのだと思いますから、文系脳の人間がなぜその表現で理解できないのかがおわかりにならないのかもしれないなと。
でも、何かもう少しどうにかしたら(そんなことが可能かどうかわかりませんが、理系脳の方の表現を文系脳にもわかるように「通訳」してくれるとか…)数学に苦手意識を持っている子たちの中にももう少し問題に向かっていける子が増えるのではないかなと思えてなりません。
私は結局まだ読んだことがありませんが、少し前に結構流行った「もしドラ」のように、難しい内容の本をわかりやすくカジュアルな切り口で提案することで敷居が下がり、若い子達でも「ちょっと読んでみようかな」と思えるようになるのと少し似ているのかもしれませんが。
と書いたところですぐに何ができるのかわかりませんが、少なくともうちで私と高校数学をすることになる子は、理系脳なら読んで自力で理解できるでしょうし、そうでなければ私が「通訳もどき」の立場になれるので、私が理解できる範囲はある程度は子どももわかってくれるかなと、そう思っています。(そろそろ自分の限界が近づいている気もしますが…。)
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スマホで先日から漢字検定のアプリに取り組んで(?)いますが、そのアプリを見つけたきっかけが、高校の同級生が紹介していた「MAKE10」という計算アプリでした。
それはとても単純で与えられた4つの数字を、+-×÷のどれを何度使ってもよいので10にするというものなのですが、問題数が550問ぐらいあり、簡単なものもあれば難しいものもあるのです。
気が向いたら少しずつ考えているのですが、時々どうしても思いつかないものがあり、今日も2問ばかりかなり苦戦。
仕方ないなととりあえず数字4つを紙に書き写して考えようとしたところ、1問は書いた途端に閃きました。
もう1問は書いてもかなりあれこれ考えましたが、2問目に関しては紙に書いてあれこれ考えたからこそ解けたような気がしました。
つまり、スマホ画面を眺めているのと手を使って書くのとでは、頭の働き方に違いが出るということなのだろうなと。
レッスンをしているとき、考え込んでいる子に書かせるとパッと気づくことはありますし、目で見えるようにすると簡単に考えられるようになるというのはわかっていましたが、スマホ画面に出ている数字をただ紙に書き写しただけで閃いたのには、自分でもちょっとびっくりしました。
見ているだけは視角だけですが、手を動かすことで違う刺激も受けるからなのでしょうか。
わからないときはとりあえず手を動かしてみるというのは、効果的な場合もありそうですね、やはり。
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真面目で一所懸命考え、考えることは嫌がることもなく、それでも問題を理解する力が弱く、自力で読んで解くことができない問題が少なからずある、高学年の子がいます。
もともと、学びに関して、みんなと同じようにこなしていくことが少し難しい面があると伺った上でこれまで何年か一緒にレッスンをさせてもらっています。
やる気にも多少波があるようで、宿題の取り組みがいいときとそうではないときがあり、お話を伺っても、うちの宿題に限らずそういうことがおありだとも伺いました。
低学年のうちはゆっくりでも着実に学んでいるので、その子のペースを見ながら進んできたのですが、一所懸命こつこつやっているのにも関わらず、スピードがいっこうにあがってこないのです。
高学年、中学生となっていけば、時間内に理解して解き切る力が必要になってきますし、少なくとも現時点ではそれができない子がよい成績をつけてもらえることはほぼないだろうとも思うのです。
ですので、少し前からスピードを意識すること、手を動かすことが必要になってくるよという話はしていますし、おうちの方もそんなお話をされているようですが、性格的なものもあるのか、ゆっくり、ゆったりマイペースは変わりません。
勉強できることが全てではありませんし、勉強といっても、現状ほとんどが、与えられた課題を時間内に適切に処理する能力が高いかどうかを評価するようなテストで成績の大半が決まることを思えば、人のごくごく一部の能力の評価でしかないのだと思いますが、この状態では授業に置いていかれてしまうのではないかとつい焦ってしまいます。
一所懸命考える姿を見ながら、この子はこの子なりに一所懸命学んでいるのに、スピードを上げないといけない
のかなと、なんとも複雑な気持ちになります。
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今日は、明日卒園式があるという子とそのお姉ちゃんがレッスンの振替でやってきました。
この子達はいつ頃からか急激に成長を感じたのですが(レッスンをしているときの顔つきが明らかにお姉さん、お兄さんになったなと感じることがあったほどに。)、それでもまだまだ小さい子達なので、波もあり、特にお姉ちゃんのほうは何かおかしなスイッチが入ってしまうと全くどうにもならなくなるようなこともあって、なんとなく、思うように先に進んでいないような気がしていました。
しかし、気づいてみると、今はまだ1年生のお姉ちゃんは目の前でしっかり考えながらかけ算を解いており、弟くんは3桁のたし算やひき算に取り組んだり、1万までの数を学んだりしていることに、改めて驚きました。
この子たちがすごいのは、これまで習ったことをしっかり身に着けて、それがきちんと積み上がっていることがはっきり感じられるということです。
これまで色々な子達を見てきましたが、きっとこれから一層加速していくのではないかなと思う2人なので、次の春にはどこまで進んでいるのか、今からちょっと楽しみです。
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うちに通ってくれる子たちはほとんどが中学受験をするので、公立中学から公立高校を受験する子達というのは限られていて、更に中3まで一緒に勉強させてもらえる子となると、もう本当に極々少数です。
ですので、お知らせを頂かないと、どこの高校に進学したかわからないことも珍しくありませんし、多くの子が受験した中学からそのまま高校に進学するので、私の母校である高校に進学する子というのは教室を始めて十数年になるものの、まだ片手で数えられるほどです。
今いる中3くんは中高一貫校なので高校受験はありませんでしたが、今日、小学生の頃通ってくれていたお嬢さんがこの春から母校の後輩になることがわかりました。それも一度に2人も!
私自身はどうしてもその高校に行きたかったわけではなく(というより、偏差値だのなんだのということを全くというほど理解しておらず、3年間着るならあの学校の制服は絶対嫌だし…と制服で志望校を決めていたような有様でしたので…。)、担任の先生に半ば強制的に志望校を決められ、運よく合格したという身なので、在校当時はそんなに愛着があったわけでもなく、そもそも思い出も中学3年間に比べたら極端に少ない3年間でしたが、離れてみると、いい学校だったなと思いますし、今も同級生たちの多くが尊敬できる生き方をしているのを見ても、尚更、自慢の学校に思えます。
春から2人も、あの制服を着てあの高校に通うのかと思うと、やはり嬉しいものです。
そして、その嬉しい知らせを聞いた今日、奇しくも母校の兄弟校とも言える長田高校が21世紀枠で甲子園に出場し、負けはしたものの健闘したというのも、なんだかとても嬉しく思いました。
母校の前身は神戸一中、兵庫高校が神戸二中、そして長田高校は神戸三中。公立のバリバリの進学校の野球部が、たとえ21世紀枠であっても甲子園に出場したというのは、誇らしい気持ちになりました。
兵庫県は学区制がなくなって、今後は母校の後輩になってくれる子が出る確率がこれまでより更に下がりそうですが、来年もまたその知らせが聞けることを楽しみにしようと思います。
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気づけば3月も残り1週間ほどになりました。
3月の5週目は通常レッスンがお休みになりますので、気づけば今年度のレッスンもあと数日になってしまいました。
受験のための転塾などで1月、2月にお別れした子もいましたが、3月は進学などに伴ってお別れになる子がいるので、また寂しい気持ちになります。
何年やっても子どもとのお別れは慣れません。
しかし…今年度があと僅かということは3月がカウントダウンに入ったということですね…。
今月中にしなくてはいけないことがまだいっぱいあるので、この1週間は気合を入れなくては。
新年度のレッスンのアンケート、ご回答の締め切りが26日になっていますので、まだご回答頂いていない保護者の皆様、どうぞよろしくお願いいたします。
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教材を作っていると、改めて、これまでそんなことも気にしたことなかったんだなぁと気づかされることがあります。
例えば、1kmというのは実際のところ歩いてどのぐらいの距離なんだろうかということや、自分の歩幅がどのぐらいなんだろうかということに始まり、まあ、これは長さに関する教材を作ろうとしてあれこれ調べてみたのですが、一般的な2階建ての家の高さや5階建てのビルの高さも、なんとなくこのぐらいかなぁと想像はしていても、調べてみたことはありませんでしたし、16両編成の東海道新幹線が400mぐらいの長さだということにもびっくり。
もちろん、それら全てのことを知らなくても暮らしていくのに困ることはありませんでしたから、改めて調べることもなかったわけですが、知りたいと思って調べると印象に残りやすくなるんだなということも感じました。
例えば、東京タワーの高さはきっと過去にも調べたり、何かで目にしたことはあったのではないかと思います。少なくともスカイツリーができた頃にはメディアでも取り上げられていたような気がしますから、その頃に目にしたんだろうと。
でも、結局忘れていました。333mという、なんとも覚えやすい高さにも関わらず!(汗)
ですが今回、東京タワー3本分でほぼ1kmになるんだなと意識したことで、過去になんとなく見たときより印象に残りました。そこまでしませんでしたが、教材を作るのに東京タワーの絵を3つ積み上げた絵でも描いたとしたら、より深く記憶に残ったかもしれません。
話はちょっと逸れますが、今回私は教材を作るためにそれらを調べてみたのですが、例えばご家庭でお子さんと一緒に、学校で長い長さの学習をするときに合わせて、色々なものの長さや高さを調べてみたり、まだ縮尺については習っていないとしても、地図を見て、地図上の1cmが実際には100mだったり、1kmだったりというのを説明して、自分の知っている場所から1km離れたところにはどんなところがあるか見てみたりすることで、中心から1km離れた距離を集めていくとそれが円になるということや、拡大・縮小、比などの学習の基礎を学ぶことができたりするのではないかなと思ったりもしました。
もちろん、教え込もうとする必要はなく、一緒にそういうことをする中で、「ああ、前にこういうことしたことあるな」というような、新しいことを学ぶ際の不安を和らげたり、すんなり理解が進んだりというような効果が望めるのではないかなと。
興味がないことをいくら見聞きしても、なかなか身につかないものだなと、自ら改めて感じますが、そういう意味でも子ども達にいかに興味を持ってもらうかというのも、とても大事なポイントなんだろうなと思います。
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年が明けて少し回復していた読書習慣がまた少し途絶えがちになっています。
と言いながらも、ネット書店をのぞいたら気になる本があったり、書店に立ち寄って目に留まった本を買ったりと、読むつもりの本が十数冊…。
新しい本を買っても、読みかけの本を先に読まなければと思ったりして、新しく買った本がまた積読に加わっていくのですが、ふと、本にも「旬」があるのではないかなと、そんなことに今さらながら気づきました。
もちろん、内容によっては1年、2年前のものは情報としてもう役に立たなくなるようなものもありますから、そういうものに関しては当然はっきりした「旬」があるのだろうと思いますが、書店で目に留まって興味を惹かれたそのときが正に、自分にとってその本の「旬」なのかもしれないなと。
というわけで、読みかけの本はあるものの、今回は買ったばかりの本をちょっと読み始めました。
パソコンやスマホでネットサーフィンをしている時間をもっと有効に使わなくてはと反省する今日この頃です。
立春を過ぎ、これからしばらくはだんだんと昼の時間が長くなっていきますね。
それはなんとなく嬉しいことです。
今週もどうぞよろしくお願いします。
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塾講師をしていた頃と比べて、大きく変わったことは沢山ありますし、子どもへのアプローチの仕方は真逆になったぐらい違っていますが、昔と比べて格段に口にしなくなったのは「覚えてね」という言葉と「わかった?」という言葉ではないかと思います。
「わかった?」という言葉に関しては、塾講師の頃は一度にもっと多くの子どもに授業形式で接していたということも多少影響していそうですが、ごく少人数で目の前の子どもをきちんと見られるようになってからは、そんなことは聞かなくてもほとんどの場合、表情や反応を見ているとわかるようになったからです。
仮に子どもに尋ねて「わかった」と答えたとしても、実際にはちゃんとわかってないよなというようなことも、ほとんどの子は見ていれば大体わかるので、聞く必要がなくなりました。
それとは別に「これは大事だから覚えてね」というようなことを言う機会も激減しました。
もちろん、用語など、覚えるしかないものは「これは覚えるしかないから覚えてね」と言うことはありますが、公式などを覚えるように言うことはまずありません。
覚えるのが得意であるとか、覚えたいとかなら覚えてもいいよとは言いますが、覚えなくても考えたら解けるものは覚えるようには言いません。
その代わりに、必要なことを忘れてしまった場合、どんなふうに思い出すか、どう考えるかというようなことは、可能な範囲で伝えるようにしています。
例えば、中1で習う作図に、角の二等分線、垂直二等分線、垂線、円の接線などがありますが、それらのうちどれを使って解けばいいのか判断がつかないような場合があったとします。
習った作図の仕方は覚えていて、どれを使ったらいいか判断ができないから問題が解けないという子に対して「これは○○を使えばいいのよ」と教えたとしたら、その場では解決しても、全く同じ問題にまた出合うとは限りませんし、初見の問題では自分で判断ができなければ結局解くことができなくなるかもしれません。
簡単な例で言えば、内接円の中心と外接円の中心の見つけ方は、どちらが角の二等分線を使って、どちらが垂直二等分線を使うのか忘れてしまったとしたら、両方やってみるのももちろんひとつの手ですし、レッスンでよくするのは、大体どの辺に中心がありそうかフリーハンドで描かせてみて、そのあたりの位置だとどちらの作図で見つけられそうか尋ねてみたりもします。
でも、自分で解決せねばならないとき(そもそも、私自身がど忘れすることも十分あり得ますし…)、どうすれば解くことができるか、それをできるだけアドバイスするようにしています。
忘れても考えられるというのは安心感にもつながるような気がしますし、「そうか、忘れたときには何か簡単な例を考えてみればいいんだな」とか「極端なバランスの図形で考えてみたらわかりやすいな」とかそういう経験を積むことで、自分でも試行できるようになっていくのではないかと思うのです。
公式などを「覚えてね」と言って覚えなければ、その子が悪いというような立場をとることもできるのかもしれませんが、それでは指導する側に何の経験もなくても構わないということになりますし、私自身、年々覚えることに自信がなくなっているので尚更、覚えずに済むことは覚えないで考える、忘れてしまったらどうすればいいかを考える、そんなことが普通になったのも大きいのかもしれません。
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これまで何度も書いていますが、私自身は塾などに行ったこともないので、勉強といえば学校で習うものと思っていて、当然のように算数や数学は公式を覚えて当てはめるような勉強が中心になっていました。
算数などであれば、問題を読んでイメージして、解いていて楽しいと感じたこともあるように思いますが、数学になると、抽象概念を操作するようなことも増え、より一層公式を覚えて処理するような勉強になっていったのではないかと思います。
ですから、高校数学になるともうほとんどが意味はよくわからないけど、公式に当てはめたら解けるからというような状態で「処理」をしていて、その公式が増え、複雑になるにつれ、覚えきれずギブアップしてしまったような気がします。
子ども達とレッスンをするようになり、私もこんな風に学んでいたら、高校の数学ももっと理解できていたんじゃないかなぁと思ったりもし、羨ましく見ていますが、わからないモヤモヤというか、じっくり考えてきちんと理解して積み上げてきた子たちが、わからないけどとりあえずこれで処理しておこうとするときの感情の疑似体験というか、そういうことを自らする機会が最近ありました。
このところ、必要に迫られて数Ⅰ、数Aを学んでいましたが、中高一貫校に通っている中3の子がそれが終わってしまい、数Ⅱ、数Bを少しやり進める必要が出てきました。
正直なところ、どちらも私自身が高校時代、途中で挫折した内容です。とりあえずちょっとはとっつきやすい数B の数列から手を付け始めたところ、初めのうちは意味も分かり、考えながら解くことができました。
しかし、程なく、数列の和を求める問題のある問題をどう考えたら答えが導けるのか思いつかないものが出てきました。
その問題に関しては、いくつか挙げられている公式の一つで、書かれている公式に当てはめれば答えは出るのはわかりますし、数ある公式のうち1つぐらい覚えて処理してもいいのかもとも思いますが、私の立場からして、どうしてその公式が導き出されたのかわからなければ、もし子どもが尋ねてきたとしても答えられません。
自分なりにしばらくあれこれ考えてはみたものの、なかなか難しそうで、さてどうしたものか…とりあえずこれは覚えて使った方が早いよということで済ませるか?と考えたりもしたのですが、そのときの自分の気持ちというのが、指導できないからどうしようというのとは別に、理解できない気持ち悪さがど~んと心の中を占めているように感じました。
その後、検索して、導く方法がありそうだとわかったので、導き方は最後までは読まず、後で改めて自分で考えてみようと。そう思った途端、先ほどまでの気持ち悪さが消えたのです。
これはきっと子ども達でもそうなんじゃないかなと。
問題が難しいから勉強が嫌になるというより、わからない状態のままにしておくから嫌いになる、本当の意味では理解できておらず、とりあえず答えを出す方法だけは知っている状態だから楽しいと思えない、そんなことが繰り返されて、どんどん算数や数学が楽しくなくなっていく、嫌いになっていくのではないかなと。
難しい問題でも考えることができている間は嫌いにはならない、少なくともイヤな気持ちにはならないのではないかなと。(もちろん、できるできないに関わらず、算数や数学が好きではない子もいるとは思いますが。)
自ら考えて、学び取ることを続けてきた子たちが適当な理解で次に進みたくないと感じるのは、こういう気持ち悪さが嫌だからということなのかもしれないなと、自ら実感しました。
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今年になって来てくれることになった、もう高学年になっている子とのレッスンでのこと。
これまでも詰め込みや機械的処理というような勉強の仕方はしていなかったようではあるものの、学校や塾ではさすがに、とりあえずまず考えてみてというようなことはまずありませんから、学年が上がっているとどうしても、公式などを覚えて、それに当てはめて解くことが当然のようになっている面は否めません。
また、何かに集中してしまうと周辺情報が目に入らないというか、なぜ気づかない?ともどかしくなるような面もあるので、この状態が変わっていくには、ある程度時間がかかりそうだなと思っています。
レッスンの初めに、線対称の問題で前回も答えに辿り着けず、もう一度家で考えてきてと言ってあったものを、結局正解できぬまま持ってきているのを見て、私からしたら、なぜ気づかないかな?と思ったものの、こういうのは口でいくら説明してもあんまり役に立たないということもよくわかっているので、まずはワークブックにかかれた図とは違う形のものを、折り紙を切って作り、本人に渡しました。
その問題は対称の軸が全部で何本あるかを考えるものだったのですが、宿題になっていたものは2つの正方形を45度ずらして2枚重ねたような図で、向かい合う頂点を結ぶ線はすべて軸になるので、全部で8本あるのですが、その子は初め4本と答え、どうしてもそれ以上見つけられないようだったので、もう一度考えて来てもらったのです。
それでも答えに辿り着けなかったようだったので、正三角形を2つ上下さかさまに組み合わせたような星形を作って渡してみたのです。
「折ってもいいから何本あるか考えて」と言って渡したところ、少し考えて、折っては開き、また折っては開きを繰り返しつつも、比較的すんなり6本と答えることができました。
そこでもう一度ワークブックに戻ってもらったのですが、まだピンとこない様子。そして、しばらくすると6本まで見つかったのですが、そこでストップ。
恐らくこの子は図形があまり強くない(女の子にはそういう子は少なくありませんが。)のかもしれないなと思いつつ、「対称」なのだから、そこに軸があるならここにもないとおかしいのになぁ…と心の中で思っていました。
でも、こればっかりは実感しないことにはぴんと来ないものだと自分の経験上思っているので、口で説明してもあまり身にならないだろうと、ワークブックにかかれているのと同じ形を折り紙で作って、それを折って確かめてもらうことにしました。
その結果、先ほどまでは見つけられなかった軸も最終的には見つけられたので、そこまでした後確認として、この位置に引けるのなら、むきを変えたらここも同じ位置関係になるからそこにもひけるはずよねというような確認はしました。
その作業をさせず、本人が気づかないままに説明をして答えが分かったとしても、よほど記憶力がいい子、覚えたものは忘れることがない子でなければ、記憶に残り続ける可能性はあまり高くないだろうと思います。
そもそも、図形があまり得意でない場合、頭の中でイメージすることが苦手ということも大いにあり得ますから、イメージできないものを考えることはできませんし、そうなると教わったことを暗記するだけで、理解したわけではないという状態で先に進むことになるかもしれません。
それは後々本人の力になることはほぼありませんから、たとえ時間がかかったとしても、実感すること、経験することがやはり欠かせないのではないかと。苦手であればあるほど、その作業が大事になってくるのではないかと思います。
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考えることと速く処理することとはほとんどの場合相反することで、それを両方求めるのはほぼ不可能だろうと思います。
随分以前に書いたことがあるかもしれませんが、わかりやすい例で言うと、大人でも、100枚の伝票の数字を合計してくださいと言われ、電卓を渡された場合、キーを見ないでも叩けるような人はその処理スピードはかなり速いだろうと思います。
ただ、その作業をしている間、その人は恐らくほぼ何も考えず、目に入った数字を指先に伝えキーを叩いている状態ではないかと思います。
その合算が合っているかどうかは、もう一度合算してみて同じ数字になるかで確かめるというようなことをするはずで、その合計が異なっていれば、もう一度入力し直して…と、考える作業はほぼしないように思います。
しかし、もし電卓ではなく、紙と鉛筆などアナログで合算してくださいと言われた場合、例えばですが、同じ金額のものを揃えるとか、合計したらきりのいい数字になるものを先に合わせていくとか、10枚ずつ筆算で合計して、更にそれを合計するとか、色々な方法を考えるだろうと思います。(中には順番通り1枚ずつひたすらに足していく方もいるかもしれませんが、それは「考えている」というよりは、機械的処理をしているような状態ではないかと思います。)
後者の作業をしている人は、電卓を使っているよりずっと頭を使っていますが、処理スピードは恐らく遅くなるはずです。
同じようなことは色々な場面で言えるのではないかと思います。
子どもに大量に計算問題を与えた場合、早く終わらせたければ、できるだけ考えず「処理」しようとするかもしれません。ですが、問題数をしぼる代わりに考えなければ解けないようなものを与えた場合には「処理」のしようがありませんから、やらないか考えるかしかなくなるでしょう。
考えることは初めのうちはほとんどの場合時間がかかります。ですから、年齢が上がり、学年が上がっていくにつれ、学校などのカリキュラムに追われて、じっくり時間をかけることはだんだん難しくなっていくことが多いでしょう。
ですが、まだ時間の余裕があるうちにじっくりたっぷり考え、色々な経験をしていれば、考えるスピードはだんだん速くなっていくということも事実だろうと、子ども達を見ていて思います。
そして、この蓄積こそが、後々大きなアドバンテージになるように思っています。
そもそも、私自身が、子どもの頃、学生の頃に算数や数学をじっくり考えて理解するということをあまりしてこなかったこともあり、教室を始めてから色々改めて気づいたり、なんだ簡単じゃない!と感じたりすることがよくあるので、尚更そう感じるのかもしれません。
今日のレッスンでも、小6の子と中1の方程式の利用の問題をしていたとき、12%の食塩水500gに8%の食塩水を混ぜたら10%の食塩水になった場合の8%の食塩水の量を問う問題が出てきたのですが、この問題は普段から考えて、数を意識して、更には食塩水というのが塩水で、しょっぱいほど濃いというようなことにも意識が及んだりする子であれば、方程式を作るまでもなく問題を見ただけで解けてしまうはずです。
仮にこれが9%とか11.2%とか、もう少しひねった数字になっていたら方程式を作る方が早いし簡単かもしれませんが、この問題の場合は12と8を平均したら10になるわけで、同じ量混ぜたとすぐにわかります。
こんな風に、パッと見てすぐ答えがわかってしまうような問題が少なからずあるということに、教室を始めてから気づくようになりました。(塾講師時代には気づいていませんでした…。)
考えることは本当に大切です。
人間は機械の処理能力と勝負するより、人間にしかできないことをもっと大事にしていくべきではないかなと、そう思います。
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去年の春頃から来てくれている年長さん。
いい意味でとても子どもらしく、可愛い、それでいて賢い子なのですが、この子はレッスンのたび、幼稚園でしたことや、幼稚園のお友達のことを少しお話してくれます。
そんな中で、いつも感心するのは、お友達の中にプリントで計算を反復させる教室に通っていて、もう100とかの計算もできる子がいるという話をしてくれるときに、「すごいんだよ!」と、必ずそのお友達のことを褒めるのです。
それでいて、自分に劣等感を感じている風でもないのもとてもいいなと感じるのですが、お友達もこんなところがすごい、自分はこんなことができるから自分もすごいと、そんな感じに思っているのかなぁと、その子を見ていると感じます。
もしそうだとしたら、本当に素晴らしいことです。
素直で朗らかで一所懸命、いい意味での子どもらしさがしっかりあり、おまけに手先も器用、それだけ揃っているだけでも本当にすごいのに、人の良いところを素直に認めて称賛できるだなんて、これからがますます楽しみだなぁと思っています。
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2年余り前から、極めてノロノロではあるものの、今回はようやく途中で挫折することなく、教材作りを続けています。
最近物忘れがひどくなっていて、何かアイディアを思いついても、すぐに書き留めるなどしないと忘れてしまったりということがあり、また、そのアイディアをそのまま教材作りに活かせるかどうかわからないようなこともあり…。
そんな中で、例えば学校や一斉指導の塾など、ある程度人数が集まっている環境だったら使えそうなのになと思ったり、ご家庭で親子でやってみてもらったら実感できるのではないかなと思ったりするようなものを思いつくこともあって、うちは少人数の上、進度もそれぞれの子で違っているため、使えそうにないなぁと残念に思うこともあります。
特に、時間がかかりそうなものは、レッスンでそれをするとレッスン時間がそれだけで終わってしまうとなぁということもあるのが、もどかしいところです。
前から考えているのですが、例えば、1kmが1000mだということがなかなか定着しないような子は、実感がないことが一番大きいのだと思うのです。
1mを体感することはメジャーやひもなどを使えば簡単ですが、1kmは目で見て実感することはまず不可能ですし(遥か遠くまで見渡せるような場所で抜群に視力がいい人などには可能なのかもしれませんが…)、となると、100mと言ってしまう子が少なくないのもわからないでもありません。(教室では「キロ」が「1000倍」を表しているということは説明しますが。)
でも、例えば、凧糸などを何巻か、1000m分用意して、それをひたすらにほどいてみるとか、10mや20mなどのメジャーを使って、10mのメジャーなら100回、20mのメジャーなら50回、全部引き出して巻き取り、また引き出して巻き取り、と1kmになるまでやってみるとか、可能なら、家からどこまで歩いたら1kmになるのか事前に地図などで調べておいて親子で歩いてみるとか、そのときについでにコンパスを出してきて、地図で自宅から1km離れたところはどんなところか色々な方向で確かめてみたり(kmの学習をする段階では、子ども達はまだ地図の縮尺や比などについての学習をしていませんが、親子でそういうことをすれば、それらの学習の予備知識にもなると思いますし。)、そうやって1kmを体感した子たちであれば、忘れても、そのときに実際にやってみたことがエピソード記憶になって、記憶に残りやすく、また記憶から引っ張り出しやすくなるのではないかと思うのです。
長さでなくても、1000や10000の学習をする際に、1000ぐらいまでなら、1円玉を1000枚、10円玉を100枚、100円玉を10枚、1000円札を1枚用意しておいて、まずは1円玉を1000枚数えながら並べさせてみて、その数を体感させ、でも、それだと持ち運びやお買い物にも不便だから両替をしようと、1円玉を10枚ずつまとめさせて、10枚と10円玉1枚とで交換をしていって、更に10円玉10枚と100円玉1枚とを交換していって…と、最後1000円札1枚になるまで両替をしてみるようなことを実際にすれば、繰り上がりの実感も、1000を量として感じることもできるだろうなと。(これを10000でやったらもっとすごいと思いますが、さすがに1円玉を10000枚用意するとなると、50枚1本のものが200本必要になるので、ちょっとこれは無理だろうなと。)
教室でできることはやってみたいと思いますし、教材として形にできるものはしようとも思ってますが、何かご家庭で参考にして頂けるようならと思い、覚書を兼ねてちょっと書かせて頂きました。
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自分がこういう仕事をしているから、余計そういう情報が目に留まるということはあるかもしれませんが、少子化のせいや、色々な情報を手軽に得られるようになったせいでしょうか、かなり早い時期、まだ乳児ぐらいの時期からの乳幼児教室などが増えてきて、そういうところに通われる親子さんも以前より増えたように思います。
塾なども少子化で子どもが思うように集まらなくなった分を、どんどん対象年齢を下げてというようなことをしているところが増えているから尚更そういう宣伝なども目にすることが増えたのでしょう。
私自身も色々な本を読んだり、話を聞いたりし、こうして教室をしてきた中で、確かに乳幼児の時期が「大事」だということは感じています。それでも、そういう塾や教室が増えていくのを見ていると、どこか不安を感じてもいました。
その不安が何なのかよくわからなかったのですが、今日、ぼんやりながらも少しだけ、こういうことかなぁと思うに至りました。
教室などで学ぶことももちろん意味がないとはいいません。でも、大人が関わって、答えが用意されているものを子どもが一所懸命考えて、その答えに辿り着いたとして、そういう勉強をたくさんさせたから、本当に自分で考えられる賢い子どもに育っていくのだろうかというところに引っかかっているのかもしれないなと。
うちの教室では算数を通して、自ら考えることで答えがわかるという感覚を実感してほしいと思っていますし、そのために、手助けは最低限しかせず、「教わって覚え、それを使いこなす」というような勉強ではなく、色々応用の利く本当の実力を育ててもらえたらと思っています。
そもそも、ほとんどの子が元々は自分であれこれ考えるということは当たり前であるにも関わらず、周囲の大人がよかれと思ってすぐに手助けをし続けてしまうことで、だんだんと、特に勉強に関しては考える意欲を失っていくと言った方が正しいのではないかなとも感じていますので、自分がすることは子どもが考えることを邪魔せず、必要な範囲でサポートすることだと、それができることが理想だと、そう思っています。
ですが、乳幼児の時期からの「お勉強」が過熱したら、週1回のお稽古ということでは済まなくなって、おうちでもおうちの方が熱心に指導されたり、問題に取り組ませたりというようなことになってしまわないだろうかと。
そして、もしそうなった場合、与える問題、課題には恐らく答えがあって、大人の側はそれを知っている、もしくは考えればわかるという状態のはずですから、子どもが考える問題には必ず正しい答えがあるというようなことになってしまうのではないだろうかと。
自分で考えることが大事だというのは、長い目で見て将来、何が正解か分からない、答えがない様々な問題にぶち当たった時に、自分なりに過去の経験と照らし合わせて考えたり、試行錯誤したりして、よりよい選択をしていく力を身につけられるようにというようなことがあるのではないかと思うので、物心つく前から答えが用意されている問題を一所懸命に考えるという経験をたくさん積ませるのは、もちろん程度問題ではありますが、どこか少し心配になってしまうのだろうなと。
子どもにとって、大人の目の届かないところで自分だけ、子ども達だけで、あれこれ考え、試行錯誤し、時には失敗をしたり、怪我をしたりもしながら、身に着けていく学びはとてもとても大事なものなのではないかと思いますので、そういう機会、そういう時間を、幼い子ども達に確保してもらえたらなと、そんなことを思いました。
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これまでいろいろな子たちとレッスンをさせて頂きました。
発達上の困難を抱えた子、発達障害の診断がついた子などともレッスンさせて頂く機会もありました。
そうでないにしても、子ども達は本当にひとりひとり、個性も興味も能力も違っていて、どの子にも合う学習法なんていうものはなく、ひとりひとりの子と向き合い、その子の反応を見ながら、手探りしていくものなのかもしれないなと思っています。(ですので、個人的には、宣伝などで誰でも伸びるとか、誰でも成績が上がるとか、そういう表現にはちょっと疑いを持ってもいます。もちろん、熱心な指導者がいて、ひとりひとりの子のことを見ているのであれば、現状より伸びるというのは確かだろうとは思いますが。)
今レッスンをさせてもらっている子の中に、とても真面目で考えることも厭わず、一所懸命問題に向き合ってくれる子がいます。ただ、元々学習に関してみんなと同じペースで進んでいくのがやや難しいところがあるというお話で、それを踏まえた上でその子のペースに合わせてこれまでレッスンをさせてもらってきました。
その子も学年が上がるにつれ、特に算数では、処理スピードがある程度必要な状況になっていきます。これが中学になったら尚更、時間内に試験の問題をどれだけ正確に解くことができるかによって成績のかなりの部分が決まってしまうのが現状です。
恐らく、そういう形式のテストだと、この子は高得点を取ることは難しいだろうと思います。でも、その子は本当にゆっくりながらも一所懸命考える子なのです。
学校でつけられる成績でその後の進路がある程度決められていく現状を見ると、なんとも複雑な気持ちになってしまいます。
もちろん、勉強ができるかどうかで人の価値が決まるのではないことはよくわかっていますし、そもそも、勉強といっても、時間内にペーパーテストで高得点を取れる能力が備わっている子が必ずしも勉強ができるとは言えないことだってあるだろうとも思います。
でも、今はまだ、子ども達はテストの出来不出来で優越感を持ったり劣等感を持ったりするような面があるのも事実でしょう。
そんなことを思うにつけ、学校というところでは評価されづらい子達にも、きっとそれぞれの強みがあるんだろうと思いますし、そういう面を伸ばしていくことで将来みんなが生きやすくなるのではないかとも思ったりします。
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現在、ほんの少しずつではありますが、何十年ぶりかに数Ⅱと数Bに手を付け始めていまして、といっても、まだ本当の触りなのですが、高校時代には意味を考えずに公式を覚えてどうにかやり過ごそうとしていたところを、どういう意味なのか考えつつ進んでいます。
等差数列や等比数列の項の和を求める公式が、あっさり紹介されているのを見て、もちろん公式ですから、それに当てはめれば答えは出るものの、覚えるということの方が大変になってきていることもあって、どうすれば求められるのか考えてみました。
そうすることで公式の意味がわかり、また、時間制限がないのであれば公式を覚える必要もなく、考えて答えを出すことができるなと納得、安心もします。
こうやって問題を考えて解くたび、考えるのは面白いなと思います。
まだ脳が元気だった学生時代にこうやってきちんと考えていたら、数学の教師になるという夢もかなったかもしれないなぁと思ったりもします。(といっても、学校の先生より今の仕事の方が自分にとっては幸せなのですが。)
更に思うのは、今後本当に入試が変わっていくのであれば、覚えた公式に当てはめるということはだんだん要求されなくなっていくのではないかという気もしますし、であれば尚のこと、なぜその公式で解くことができるのかを理解しておく必要があるだろうとも思います。
今後ますます考えることが重視されるようになっていくとしたら、それはやはり小さい頃からの習慣づけがとても大事になるのではないでしょうか。
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教室で使っているパソコンはWindows8.1なのですが、しばらく前からWindows10に無料アップグレードという案内がたびたび出ていました。
ただ、とりあえずアップグレードするつもりはなかったので、出るたびポップアップを閉じていたというのに、なぜか今日は今すぐアップグレードするというようなこれまでとは違う大きな画面が立ち上がり、選択肢を見ると、「しない」というものがなかったため、敢えて選択肢を選ばず、ポップアップ画面を閉じたのです。
しかし、レッスンをしていると、パソコンが動き出し、何か更新を始めています。見ても途中では止められなそうで(いえ、止められたのかもしれませんが、私にはよくわからず…)とにかく更新が終わるまで待っていたところ、アップグレードされてしまっていました。
どうしようかと思いましたが、自宅のパソコンが10になったので、じゃあまあいいか…と、そのまま設定を進めていったところ、8.1で使っていたメールアプリ?が見当たりません。
メールアプリらしきものをクリックすると、受信トレイに残してあったメールはそのまま見られるのですが、これまで受信してフォルダに振り分けていたものが全て見当たりません。
保護者の皆さんから頂いたメールや登録したメールアドレスなども全部見当たらないのです。
まあ、名簿を書いて頂いている方には何らかの形で連絡を取ってまたアドレスを聞くこともできますが、バックアップも何もしていなかったので、さすがに何か困ったことが起きるかもと。
そこで、ちょっと検索したところ、1か月以内であればダウングレードして元の状態に戻せるとわかり、祈る思いで8.1に戻しました。
見た目は慣れ親しんだ、数時間前までの姿に戻ったのでホッとしたのも束の間。今度はメールアプリをクリックしても全く立ち上がらなくなりました。
更に検索すると、10から8.1にダウングレードしたときにメールアプリなどが起動しなくなる不具合があるというのを見つけ、一度アンインストールしてインストールし直したらよいと書かれているのに従ってアンインストール。その後インストールしたのですが、クリックしたら今度はアプリを開けませんと……。
もうこの辺りで心の中で号泣、パソコンを壊してしまいたいぐらいの気持ちになっていましたが、あれこれ触っていると、さっきは表示されていなかった「インストールしています」の表示が。
再び祈るような思いでインストール完了の表示になるのを待ち、完了後クリックしたところ、ようやく全て元に戻ったようです。
自分がするつもりもないのに自動的にアップグレードされ、それによってメールが消え、戻したら戻したで再インストールが必要で…。
機械に強くない私は本当に泣きそうになりながら、無駄に時間を費やしました…。
私ほどパソコンのことをわかっていない方も少ないかもしれませんが、Windows10にアップグレードされる際には念のためメールのバックアップなどをしておかれるのがいいかもしれません。
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今日、数Aの問題を解いていたときのことです。
まだ数Aの最初の最初、内容としては決して難しいところではないのですが、問題の意味がわからず困りました。
集合の問題で、1から100までの整数のうち、条件を満たすものがいくつあるかというようなものだったので、小学校の算数レベルでも解ける問題です。
しかし、その3問目に「15と1以外に公約数を持たない数」がいくつかという問題が。ここに書いた通り、問いには読点などはなく、この表記通りです。
これを読んだとき、公約数が15と1だけ?どういう意味??と。15の約数は1と3と5と15だけど、どんな2数なら公約数が15と1だけになるの??と。
問題自体が理解できないので、解答を見たものの、文章に
よる説明はなく、3の倍数と5の倍数から15の倍数をのけて、それを100から引くという計算がのっています。
え?なんでこれで解けるの?と、ちっとも抜け出せません。
そこで問題文をそのまま検索してみたところ、1から1000までの数で同じことを問う問題の考え方を質問している某知恵袋を見つけ、その回答を読んでみたところ、やはり当たり前のように解答と同じ解き方をサラッとしているだけで何も解決せずです。
困ったなぁと思いながら、とりあえず数を減らして1から30までとして、答えになっている数がどんな数なのか書き出してみることにしました。
全部書き出してから約数を考えていて、ようやく意味が分かりました。
この問いは「15との公約数が1だけのもの」という意味なのですね。
であれば、解答も知恵袋の回答もなんてことはない、その通りです。
わかってから問題文を読むと、確かに算数や数学で、仮に「15と1」が公約数なのであれば、「1と15以外」の順で書くだろうなと思ったのですが、それは問題を理解できたからこそのこと…。
日本語って難しいなぁ、せめて「15と、1以外に」と読点を打ってくれるか「15とは1以外に」と「は」の字を入れてくれるとかだけで全然違うのになぁと思いつつも、普通の人は私みたいに勘違いしないのかなと、Facebookで友人たちにちょっと尋ねてみたところ、有名国立大の理系だった同級生は普通にそう読めると答えた後で、もし2数が1と15を公約数に持つのであれば、3と5も公約数になるからというコメントが。
これが純粋な理系、それもかなりハイレベルな理系の頭脳なのかなぁと感じました。
そして、更に言えば、高校の数学の問題を作成するような方は恐らくみなさんがそういう理系に強い頭脳をお持ちなのだろうと。だから、自分たち理系に強い人間には何の違和感もなく理解できる表現を使われることで、そうではない人間には難しかったり、意味が分からなかったりするのではないかなと。
これもあくまでも個人的意見ですが、高校数学などの問題文や解説などを読んでいると、なんでこう難しそうに書くんだろう?こう書いたらもっとわかりやすいのに…と思うようなことがしばしばあるのが、もしかしたら理系が得意な人と文系が得意な人とのギャップなのかもしれないなと。
数学が苦手と言っている人の中には問題文や解説の表現を変えるだけでもっと理解が進む人が少なからずいるような気がしないでもありません。
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小学生の間うちに来てくれて、中学に上がるところで物理的に通うのが難しくなってお別れした子が高校受験を無事終えて、春休みの間何度か、入学準備ということで来てくれることになりました。
またも数Ⅰや数Aを少しだけ一緒にさせてもらうことになったのですが、コンスタントにやっていないため、当然のごとく3乗の展開の公式などはうろ覚えになっています。(私自身が。)
1問実際に展開をして整理をし、ああ、こういうことだったなと確認してから予習を始めるようなことになるのですが、私の場合は試験などで時間制限があるわけではありませんから、それでも特に問題はありません。
ただ、自分の高校時代を振り返ってみると、乗法公式を出てくるもの全てひたすらに覚え、その後も因数分解の公式、三角関数、確率、数列…と、とにかく出てくるもの出てくるもの何とか覚えようと努力し、それを使って問題を解いていましたし、授業の進度が速く、じっくり時間をかけて考えるということも私には難しかったので、とにかく目の前のことをこなすことで精一杯、そんな毎日でした。
そんな勉強の仕方ですから、当然定着率は低く、勉強していても楽しいと感じることはほとんどなかったようにも思います。
暗記が得意な子、がんばってもどうしても数学が苦手でどうしようもない子などは、まずは公式を覚えてこなしていくという方法も悪くないのかもしれませんが、そうでなければ、覚えるものの数をできるだけしぼり、その代わり、最初にできるだけきちんと意味を理解する、忘れても導き出す方法を合わせて学習しておくなどのことを心がけることがより有効なのではないかと思います。
そこで、今回何回かだけでも一緒にレッスンさせてもらえることになった子にも、覚えるのが得意であれば全部覚えても構わないけどと伝えた上で、ひとつ覚えるならこの公式というように、覚えるべきものを極力しぼり、また、問題集にかかれている公式を見せる前に、まずは地道に展開して整理させ、そこから公式を導き出させるなども心がけました。
最初に「これは覚えないと解けないかな?」であるとか、「このうちどれが一番大事かな?」とか、ちょっと意識するだけでも、覚えるものを減らせる可能性がかなりあります。
教科によっては覚えなければ始まらない教科もありますから、そういう意味でも数学まで「暗記科目」にすると、負担がより大きくなるのではないかと思います。
このことは高校生でなくても、小学生、中学生にも言えることではないかと思いますので、「公式」として出てきたものは覚える必要があるのか、覚えなければ解けないのかを、小学生の頃から意識することは大事なことなのではないでしょうか。
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今日はレッスンはお休みで、結局仕事も捗らずの1日でした。
それにしても今日はあたたかかったですね。明日も引き続きあたたかいようですが、その後はまた寒くなるとか。
ますます体調を崩す子が出るのではとちょっと心配ですが、今週もどうぞよろしくお願いいたします。
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オフでしたので、例によってスポーツ観戦三昧ではあったのですが、今日は世界卓球が男女とも決勝戦、デビスカップは3日目の錦織選手とマレー選手の試合と、負けたら終わりの真剣勝負という試合が続き、サッカーのリーグ戦だとたくさんある中の1試合ということでやはり真剣みが違うというか、見ているこちらも感情移入しまくって、感動するわ、もらい泣きするわ、5時間に及ぶ熱戦で寝られないわ、なんだか熱いスポーツ観戦の1日でした。
小学生の頃サッカーをしていて面白かったので中学でもサッカー部に入るつもりが(何にもわかってない子どもだったので…)男子の部だから女子は入れないと言われて途方に暮れ、傷心の中声をかけてくれた卓球部に入った後、高校では部員不足で団体戦に出られなくなると先輩に頼まで引き続き卓球をしていた身なので、卓球はやはり見ていても面白いし、あのレベルの選手の凄さもほかのスポーツを見ているよりはわかる気がするのですが、日本の選手たち、本当に素晴らしいなと思いました。
卓球といえば中国という感じで、世界ランクトップ3は常に中国が占めているような状態で、更には自国では代表になれない選手たちが外国に行って代表権を得て、ヨーロッパなどでも明らかに中国名の選手が大勢いるような環境。
おまけに数年前に水谷選手が選手生命をかけてまで告発した補助剤の不正行為は未だに野放し状態のまま、不正をせず実力で努力を続け、世界ランクトップ10入りを何人も果たしている日本選手たちは本当に素晴らしいなと。
それに、さすがに決勝で中国に勝つのは無理だろうなと思っていた自分を恥ずかしく思うぐらい、最後まで真剣で、負けた後も全ての選手が心から悲しそうにし、悔しそうにしていた姿を見て、近い将来日本が金メダルを取る日が来るかもしれないと、そんなことを思いました。
と、ちょっと熱く語ってしまいましたが、明日はもうちょっとまともな生活をしようと思います。
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通ってくれるようになって1年ちょっとになるまだ小さな姉弟さん。
先になんだかすっかりお兄さんになったなと感じるようになったのは弟くんの方でしたが、ここに来てお姉ちゃんの方もめきめき力をつけていることを感じさせてくれる場面が何度も見られるようになってきました。
もちろん、小さい子たちのことなので、今できていたことが次のときにはできなくなったりということもあるのはわかっていますが、安定感が感じられるようになってきたので、これは本物かもと思っています。
実はお姉ちゃんの方は、どうも読み切れないスイッチがあって、私が怒ったでもなく、厳しく言ったわけでもないのに、むくれてしまって、もうどうにもこうにも先に進めないというようなことがある子でした。
小さい子たちが眠かったり、問題が難しそうに思えたりして泣き出すということには結構慣れた私ですが、それとはまた違ったパターンで、そうなってしまったときには何をどうしても引き戻すこともできず、自分の力不足を感じることが過去に何度かありました。
成長に伴って、そうなる頻度は下がってはいたのですが、先日かなり激しいふてくされ状態に陥り、何を尋ねても何も答えてくれず、レッスンの大半を全く何もできないまま終わってしまったことが。
教室におられたおうちの方もそれを見ておられ、声をかけたりもしてくれたのですが、その日だけはどうにもならずで、もしかしたら私のことが嫌いなのかもと、もしそうなら、嫌々レッスンを受けさせるのは彼女にとってもよくないなと、どうすることがいいのか考えていました。
その後、一旦帰られた後におうちでお話をしたとのことで、謝りに来てくれたのですが、それが彼女の意志なのか、おうちの方に行きなさいと言われてなのかもわからず、おまけにまた彼女は黙り込んでしまい・・・。
で、自分の力不足が情けなくなって、無理に謝らなくていいということ、私のことが嫌いなんだったら申し訳ないと思っていることなどを伝えていたところ、つい涙が溢れてきてしまいました。
子どもの前で泣くことは年に一度もないことですが(というか、数年に一度あるかどうかですが)、力不足で申し訳ないなと思ったらついぽろっと。
それを見た彼女が一瞬戸惑ったのがわかったのですが、見られてしまったものは仕方ありません。
それからほどなく、「失礼なことしてごめんなさい」と、消え入りそうな声で謝ってくれて、その日はお別れしました。
その日以来、今のところずっといい感じでのレッスンが続いています。
涙を武器にする気などもちろんありませんし、そもそも子どもの前で泣いてしまうなんてあり得ないと思っているので、見られてしまって反省もしているのですが、もしかすると、私が真剣であるということは伝わったのかもしれないなと。そうだったらいいんだけどなと思っています。
我が子を子育てする機会は持てませんでしたが、こうして教室の子ども達に私も育ててもらっているのかもしれないなと思います。
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私自身、子どもの頃からずっと、人前で失敗するのを見せるのが嫌で、できそうにないことには極力挑戦したくないと思って過ごしてきてしまいましたが、こういうのはやはり持って生まれた性格?のようなものも影響するんだろうなと、多くの子どもたちを見ていて感じます。
もちろん、子ども達はどんどん成長していきますから、変わっていくところもありますが、大胆な性格、慎重な性格、そういうばくっとしたところはなかなか大きくは変わらないのかもしれません。
例えば、初見の問題を見たとき、難しそうだと感じただけで泣き出してしまう小さな子たちはこれまで何人もいました。そういう子たちは概ねみんな慎重で、失敗したくないというようなタイプ。ですから、なんとなく気持ちは想像できますが、私自身その性格はあまりありがたくないなぁと思ってもいるので、この子もしんどい思いをするかもなぁなんてことも思ったりします。
一方で、間違いなんてへっちゃら、失敗しても気にしない!という感じでどんどんチャレンジしていけるタイプの子を見ると、ああ、羨ましいなぁと思ったりもするのですが、今日レッスンに来てくれた子が、その子にとっては初見の問題を見て、「こんなんやったことない!」と言ったので、あ、じゃあ一緒にした方がいいかなと思った次の瞬間、「でもやってみる!」と少し嬉しそうに言ったのです。
ああ、この子はそういう風に思える子なんだなと、見ていて頼もしく、とても嬉しく思いました。
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手書きをすることがめっきり減ってしまい、書かないもので、読むことはできても書こうと思うと漢字が咄嗟に出てこないことが増えてきました。
仕事柄、さすがにそれは問題ですし、どうしたものかなと思っていたところ、スマホのアプリで漢字検定対策用のアプリのようなものを見つけ、無料アプリであるにも関わらず、かなりのボリュームで練習できるので、これなら私でもちょっとずつ続けられるかもと(画面に漢字を手書きすることもできるので。)、先日から取り組み始めました。
小学校5年生相当というあたりから始まるので、さすがに初めのうちはスラスラでしたが、中学在学相当の漢字の部首というところで次々と難問が。
そもそも、試験などで部首を問われることはかなり限られていたこともあり、不精な私はあらゆる漢字の部首を意識するなどということもなく学校生活をやり過ごして大人になってしまった上、試験として選び出されるものとなると、イレギュラーっぽいものも多くなっているのだろうと。
そのため、正解率がじわじわと下がってきてしまいました。
で、その中でも「丹」の部首が「、(点)」であるとか、「巨」の部首が「工」であるとか、え?それが部首?と思うようなものも。
そういう問題に出合ったことで、部首ってどうやって決められたんだろう?「、」の部首にはどんな意味があるんだろう?と興味が湧いてきました。
だとすれば、小学校で部首の学習をしたときに、「え?なんでそれが部首なの?」と思うようなものから導入してくれていたら、もっと部首について興味を持って掘り下げることができたかもしれないなと。
そんな風に思うと尚更、最初にどんな風に学ぶかということはとてもとても重要なことなのかもしれないなと、そんなことを感じました。
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塾講師だった頃には気づかなかったことですが、公式に当てはめるのではなく、問題を読んでまず考えるということを私自身もかなりできるようになったことで、ちょっと戸惑っていることがあります。
中学で習う方程式の利用、連立方程式の利用などの文章問題の一般的な問題の多くは、わざわざXやYを使って立式しなくても、算数の知識だけで解けるのです。
問題によっては立式するほうがかえって手間だったり、難しかったりということもあります。
もちろん、高等数学につなげていくための基礎になるということもあるのだと思いますし、答えが2つ以上考えられ、場合分けが必要になるようなものも出てきますから、式を作らなくてもいいとはいいませんが、苦手な子が多い食塩水の問題なども、算数の知識で解けるものが多くありますし、数の問題などは問題を読んだだけで答えがわかるようなものもあるのです。
式を書きなさいという出題の場合は式を作らねばなりませんが、その指定がない場合、結局、それまでにしっかり考えて力を蓄えてきた子たちはあっという間に解いてしまう一方で、やり方を覚えて当てはめて解く訓練をしてきた子たちは、ここでもこういう問題はこういう式を作ってこうやって解くんだったなと、例えば、食塩水の問題であれば「100分の○」を使った式を作り、両辺を100倍し…というようにして解いていくことになるのでしょう。
その差は学年が上がり、問題が難しくなるほどに大きくなっていくのではないかと思います。
考えて理解することは初めは時間がかかりますが、そのうち加速し始めます。
今の時期、大量の塾の折り込み広告を目にするたび、意味のない先取り学習、場合によってはマイナスに働くような先取り学習をし始める子ども達がいるのかもしれないと思って、少し悲しい気持ちになります。
小さいうちは、あくまでも子どものペース優先でゆっくりじっくり。
それを心掛けていただけたら嬉しいです。
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2年前から少しずつ教材を作っているのですが、作る側になって初めて気づくことというのが色々あります。
元々、国語の指導では「~文字で答えなさい」「~文字以内で答えなさい」「~文字程度で答えなさい」という出題にはそれぞれどんな意味が込められているかなどは意識しなくてはいけないと言っていますし、それは一般的にも知られていることだと思います。
また、「記号も1字と数えます」とか「ない場合はなしと答えなさい」とかのように但し書きが書かれている場合も、敢えてそれを書くからには解答に記号が含まれるであるとか、「なし」と答えるものがあるとかいうのも、暗黙の了解のようなものだと思います。
それとは全く別で、今回問題を作っていて思ったのは、よく言われることですが、算数でまとめテストなどをすると、かけ算を習ったときは文章題でもかけ算の問題しか出てこないし、わり算ならわり算ばかり…というような話があります。
つまり、習った単元のまとめテストには、習ったことを使う問題しか出ない場合が多いので、よくわかっていなくても点数が取れてしまう場合があると。
なんでそんな風に問題を作ってしまうんだろうな~と思っていたのですが、自分で問題を作っていると、気を付けないと同じようにかけ算ならかけ算の文章題、わり算ならわり算の文章題だけを作ってしまいがちなのです。
新しく習ったことを使う文章題を考えなくては!という意識が働くので、そのほかのことを排除してしまいそうになるということに気づき、ああ、これはまずい…と。
文章の表現も、作る側になると色々、どう書けばわかりやすいか、どう書けば意味が通じるか、考えなければならないことが本当にたくさんあります。
それを思えば、解くほうが遥かに楽なんだなと思う今日この頃です。
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