時間の余裕があるうちに
子ども達とレッスンをしていていつも思うことは、とにかく時間の余裕があるうちにじっくりたっぷり考える機会を持つことがどれだけ大事かということです。
学校だけに限らず「習い事」もほぼ全て、教える側と教わる側という関係があり、じっくり考える時間を与えられることなくやり方を教わって、その通りに再現できるようになるまで繰り返すという場合も少なくないのではないかと思います。
習うことがすべて悪いという気はもちろんありませんし、習わなければわからないこともあるのかもしれません。
また、学びの始まりは「真似び」と、真似をすることから始まったとも言われていますから、それも必要なのだとは思います。
ただ、子どものうちからたくさんの習い事をし、自分の自由になる時間、ぼ~っとできる時間が限られてしまえば、毎日忙しく大人から教えられることをできるように訓練するような生活になってしまう危険もあるように思います。
子どもだけで自由に駆け回って遊んでも心配がない場所が限られてきてしまったことも、今の子供たちにとっては不幸だと思いますが、大人が教えるのではなく、子ども自身が考え、試行錯誤し、何かを学び取っていく機会は意識して作らなければならない時代なのかもしれません。
小中学校の算数・数学では中学入試の難問などでなければ、さすがにほとんど解き方がわからなくて困ることはありませんが、高校数学は私自身学び直しているようなものなので、何か公式が出てくるたび、公式を覚えなくても解けはしないかを考えてみるようにしています。
それで、公式に当てはめなくても自分の持てる知識で解けるようなら、公式は忘れてもいい、敢えて覚えなくてもいいと判断します。
でも、これが中学生、高校生で日々の授業や部活動、定期試験などに追われている生活になってしまうと、1問1問にゆっくり時間をかけて考えることはできなくなりがちです。そうなると、公式を暗記してやっつけるしかなくなってしまう子もいるでしょう。その年齢になってからいきなり、ゆっくりじっくり考えなさい、覚えるべき公式かどうか判断しなさいと言っても、それまでにそういうことを積み重ねてきていない子には、物理的にほぼ不可能だろうと思うのです。
今の時期、たくさんの塾のチラシが折り込まれているのを見て、早期教育、先取り教育などという文字を目にするたび、早くから先取りして、「どんな学びをさせるか」ということが何より大事なんだけどなと思います。
簡単に言えば、幼児さんが九九を丸暗記して掛け算の問題が解けるようになったとしても、それは長い目で見たときほとんど役に立たないということです。「2×3」は2が3回分という意味を知って、おはじきなどを2こ、3セット用意して、「ああ、2×3は6か」と、そんな風に学ぶのであれば、それには意味があるのかもしれません。(幼児の時期にそういう学びをさせるより大事なことがあるのではという気もしますので、これはあくまでも比較の例ということで。)
ひとりでも多くの子どもが、「ぼ~っとできる時間」を与えられ、心行くまで考える機会を持てることを願っています。
| 固定リンク
コメント