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2015年8月19日 (水)

夏休み後半のレッスンが始まりました。

連休明けで頭がついていけるかどうか少し不安でしたが、そんなことに不安を感じている余裕すらないほど、13時半にレッスンが始まったら、ノンストップで20時50分まで。
おまけに、宿題への取り組みがいい加減な子が何人もいたり、さすがにそれがわからないというのはちょっと…というようなものがわからなかったと普通に言ってくる子がいたりで、心穏やかにレッスンを終えることもかなわず…。

今日また強く感じたのが子どもの国語力の差はどこで大きくなるのかという疑問。
もちろん、興味関心にもよるでしょうし、元々の能力さなどもあるのだとは思いますが、例えば、文のねじれに気づくかどうかなどは、正しい表現に触れた機会の差などにもよるのではないかなと思ったりします。

簡単な例でいえば、その子の周囲の大人が日常的に使っている言葉が国語的に正しくないものであったり、単語での会話が主であったりすれば、子どもにとってもそれが言葉のベースになってしまうのは自然なのだろうと思います。
外を歩いていると時々、小さい子に向かってかなり乱暴な言葉遣いをしている親御さんを見かけることがありますが、日常的にそういう言葉遣いをする親御さんの元で育つ子は、最初に身に着ける言葉がその乱暴な言葉だったりするのかもしれませんし、文法だの、言葉の正誤だの、そんなことは小さい子にはまだ判断がつかないでしょう。
もちろん、ある程度成長し、本人の意思で学ぶことはできるとしても、スタート時点で「国語」という面だけで見ると、その子にとってはハンデになるかもしれません。

ほんの一例ではありますが、自分が子どもの頃、うちの母親はいわゆる「係り受け」に結構うるさい人で、今はもうどちらでもよくなってしまったようにも思いますが、昔は「全然」と「全く」は同じように使える言葉ではなく、「全然~ない」というように、全然の場合は打消しを伴う使い方をせねばならなかったと思います。
つまり、「全然いい」というのは国語的に間違いというようなことになるわけですが、「全然」を使っておきながら否定語を伴っていないと、母は必ず指摘してきました。テレビなどで間違った使い方をしていても、「あれはおかしい」と言わずにはいられないような人でもありましたので、子どもの頃からそういうことを意識する環境はあったような気がします。

そう言いながらも私はあまり難しい言葉を知らないので、えらそうなことは言えませんが、少なくとも小中学生ぐらいまでの子ども達の国語の力は、日常生活の影響もかなり大きいのではないかと思えてなりません。

接続詞を選ぶ問題がとても苦手な子がいて、4択を3回外すようなこともあったりすると、全く理解できていないということなのではないかと不安になります。
ただ、それを週1回とそれに伴う宿題だけでフォローできることは限られていて、もどかしさを感じています。

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