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2015年6月30日 (火)

勉強も同じだな。

今日はレッスンはお休みだったので、このところすこぶる不調が続いている体をどうにかしようと、今回は「上部頸椎」を整えるという整体に行ってきました。

そこで先生が話してくださったことを聞いていると、勉強も同じだなぁと思いました。
というのは、一般的な整体やマッサージなどは、痛みがある部分や凝りがある部分に直接アプローチすることが多く、一時的に痛みや凝りが緩和されることはあっても、その痛みの原因が別のところにある場合は、また元に戻ってしまうと。

先生のお話によると、首には多くの神経なども集まっていて、頸椎がずれることで体の色々なバランスが崩れ、その結果それが腰痛になったり、内臓の働きが鈍くなったり、肩こりになったり、様々な症状になって表れることがあるのだとか。
もちろん、頸椎がきちんと整っているのに腰が痛いとかの場合は腰にアプローチすれば治るということなのだと思いますが、頸椎にズレがあるままでほかのズレを整えても、根本的解決にならないというようなお話でした。
もう少し色々お話してくださったのですが、骨の模型を見せてくださりながらのお話は納得することも多く、施術を受けたら(あまりに全身が凝り固まってしまっていることに驚かれたので、一度で治るとはおっしゃいませんでしたが)、行く前に比べると随分楽になりました。

と、カイロプラクティックの話はこのあたりにするとして、お話を聞いていて、改めて大事なことを思い出しました。
正に勉強も、対処療法的に、今ある単元で躓いているからと、その単元を訓練して、なんとなくできるようになったように見えても、基礎の部分で抜けがあったり、考えず機械的な処理を繰り返しているだけでは、本当の意味でできるようにはならないのだと思います。

例えば、あまりのある割り算で苦労している子は、あまりのない割り算が曖昧なのかもしれませんし、それ以前の掛け算で躓いているのかもしれません。もしかすると、そこではなく、余りを出すときの引き算の部分の理解が十分ではないことだって考えられます。もちろん、それらが複合している場合もあるでしょうし、もっともっとさかのぼって、数の概念自体が曖昧な場合もあるでしょう。

その子が苦労していることの根本的原因がどこにあるのかを見極め、そこを整えることが結局は一番の近道である場合が少なからずあると思います。
反復訓練でそこだけをクリアしても、根本が整っていなければ、次に躓いたらまた反復訓練の繰り返しになりますから、子どもにとってもどんどん苦行になっていくはずですから。

どこに原因があるか見極めるのが難しい場合ももちろんあると思いますが、ある程度やってもなかなかスムーズに行かない場合は、その子がスラスラできるところまで戻るということが大事になってくると思います。

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2015年6月29日 (月)

オフでした。

なでしこ、勝ちましたね!
しかし、すごいなと思うのは、彼女たち、本番になるとしっかりピークを持ってきたというか、アルガルベ杯のときに見たのとは別のチーム?と思うぐらい、うまいし、気持ちも強いし、カッコいいですね。
次は7月2日に準決勝。楽しみです。
本日はこれにて。

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2015年6月28日 (日)

わかれば動き出す。

今日のレッスンで、いつも真面目に一所懸命取り組んでくれる子が、真剣に臨んでくれているようなのに見ているとどうも反応が鈍い気がしました。
眠いのかな?疲れてるのかな?と気になりつつ、何度か声をかけたものの、首を振るだけ。
子ども達の多くが、なぜかわかりませんが、明らかに眠いのだとわかるようなときでさえ、眠いかどうか尋ねても眠いと答えることがありません。ですから、その子も眠いけど我慢しているのかな?と思ったりもしていました。

ただ、普段のその子であればもっと反応よくすんなりできそうな問題なのに、あまりにゆるい反応なので、ちょっと気になって念のため「もしかして、私が何してたかよくわからなかった?」と、その問題をしてもらう前に私が一緒にしたことについて尋ねたところ、気を遣っているのか肯定も否定もしません。
そこで、もう一度その子の表情を見ながら、先ほどその子に見せたことと同じことをゆっくりとして見せたところ、心なしか顔が明るくなったような気がして、その途端、さっきまでとは別人のように問題にすんなり向き合って、次々に解き始めました。

普段よくできる子なので、このぐらいで大丈夫だろうと思ったことが、実はまだその子にはしっかり気づいて理解するところまではいっていなかったようです。
それで反応が鈍かったわけですから、眠いかと言われても眠いというはずはありませんね…。

気づけたからよかったですが、そして、普段も子ども達の様子は常に見ながらレッスンを進めているつもりですが、今回のことで、反応が鈍い場合、その子にとってまだ理解が十分でないという場合もあるのだと、改めて気づかされました。
説明し過ぎ、教え過ぎは絶対避けたいと思うもので、その子にとっての最小限を意識していると、今回のようにそれがまだほんの少し足りないという場合があるんだろうと思います。
普段に比べて反応が鈍い場合、あとほんの少しだけ手助けしてみるということも考えておかなければいけませんね。

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2015年6月27日 (土)

6月もあと少し。

このところ、四十肩(五十肩)と言われた両肩の状態が肩だけにとどまらずに腕や背中にも広がっていて、レッスン中はあまり気にせずにいられるものの、レッスン以外なかなかがんばりがきかず、そんなこんなのうちに6月も残り僅かになってしまいました。

今日はこんな更新で恐縮ですが、明日もどうぞよろしくお願い致します。

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2015年6月26日 (金)

小数倍はピンと来なくても。

小数の掛け算や割り算の中で、どんな場合に答えが元の数より大きくなるか、小さくなるかというようなことを考えさせる問題が出てくることがあります。
もちろん、言うまでもなく、掛け算の場合は1より大きな数を掛ければ元より大きくなりますし、1より小さな数を掛ければ元より小さくなります。そして、割り算の場合はその逆です。

計算をして確かめればそうなることはわかりますが、小数の掛け算・割り算はやや面倒でもあり、子ども達はイメージしづらく、点の位置を間違えたり、掛け算する際にそろえなくてもいい小数点の位置を揃えてみたり、色々混乱する単元でもあります。

まあ、中学校に行ってしまえば小数より分数がメインになりますので、小数の掛け算や割り算はそれほどは重要ではないとも思いますが、今日のレッスンである子に1より小さい数を掛けるとどうして小さくなるか納得してもらおうとある例を挙げたところ、「ああ~~、そういうことね!」と言ってもらえたことがあります。

23.4×0.1という式を見ただけでは「0.1倍?」と思う子は少なからずいると思いますが、0.1を1/10(10分の1)に書き換えると「23.4×1/10」となり、これは「23.4の10分の1」ということになります。

分数を量として考えられる子であれば、23.4の10分の1はもちろん元より小さくなるということはすぐにわかります。そういう子には掛ける数を分数に直してもらえば、なぜ元より小さくなるのか納得がいくのではないかと。

あともう一つよく使うのは、縦23.4センチ、横0.1センチのような長方形をかいて、23.4×1の長方形の面積と比較してもらうような方法です。

わかってしまえば何でもないことですし、わかった後は覚えてしまって機械的に処理をしても構わないと思いますが、一度きちんと納得することは大事なのではないかなと、そんな風に思います。

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2015年6月25日 (木)

戦い?

出勤の時電車に乗っていると、ある大手塾の広告の「熱戦い」(こう書いて、「たたかい」とルビをふってありました)という文字が目に入りました。
そういえば、受験戦争なんて言い方するなぁと思ったわけですが、昔も今も、私はどうもその感覚がわかりません。

もちろん、受験は定員を超えていれば全員が合格することはないでしょうし、受験に限らず、就職試験など、合否、採用不採用などが伴う試験の類は、自分が選ばれれば誰かが選に漏れているということはあるでしょう。
でも、自分が合格するために誰かを蹴落とすというのとは何か違う気がしますし、少なくとも「戦争」などでは決してないと思うのです。

仮に自分が行きたい学校があって、その学校に合格できるよう努力することは不可欠だと思いますが、自分なりに合格点を取れるよう努力することと、誰かに勝とうと努力することは何か違いますよね。
それに、自分が合格したから誰かができなかったとしても、それは自分が戦いに勝ったわけでも、ダメだった子が負けたわけでもないと思うのです。

きれいごとかもしれませんが、私はどこかで自分にとって進むべき道なら、きちんと努力すればよい結果が訪れるのではないかと思っています。
といっても、私は就職活動をしていたとき、何社も最終面接で不採用ということが続き、凹んだこともあります。ただ、不採用になった企業には是非ここで働きたいとまで思えたところはなかったのです。
そして、落ち込みながらも受けた企業で初めて、ここで働きたいと迷いなく思えたとき、嘘みたいに呆気なく採用が決まりました。

これは一つの例ですが、色々な場面でそういうことってあるのではないかなと思っています。
もし仮に自分がすごく行きたいと思っていた学校に縁がなかったとして、希望していた学校ではない学校で何か見つかるなんてこともあるかもしれませんし、その時の経験がのちの人生で大きな意味を持つことだってあるのではないかと思うのです。

誰かを「敵」と想定して、それに勝つという感覚はやはりどうも馴染めないのですが、世間に広く「受験戦争」という言葉が知られているのは、正にそうだと思っている方も少なくないということなのでしょうか。

なんとなく気になったので、ちょっと書かせて頂きました。

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2015年6月24日 (水)

どういうこと??

今日のレッスンでのこと。
昨年途中から来てくれるようになった高学年になった子がいるのですが、その子は算数にあまり自信がなく、また、学校や塾などでの勉強になれた子たちには少なからず見られる、答えを書いた後合っているかどうかこちらの反応を伺うという傾向がかなり強くみられる子でした。

答えを書いてはこちらを見る癖はなかなか抜けず、でも、そこを乗り越えてもらわなければ自分でじっくり考えられるようにならないので、根競べが続いています。

そして、今日のレッスンで重さの学習をしていた時、500gのかごにカボチャ10個を入れて重さをはかると8kgだった場合のカボチャ1個の重さを求める問題を、その子はどう考えるかなと思って横目で様子を伺っていると、動きが止まってこちらを見ているようだったので、書かれた式を見たところ、正直言って何をどう考えてそんな式になったの?と全く推測できないような、単位が違うものを足していたり、更には掛け算も使われていたりと、見た瞬間、出てきた数字をとりあえず並べてつないだような状態に悲しくなって、「それはどういう意味の式?」とだけ尋ねて、また少しの間ほかの子を見ていました。

するとしばらくして動きが止まったので見ると、計算式のところにはとてもシンプルに「7500÷10=750」と書かれ、答えには「750g」と書かれています。
先ほどの全く頓珍漢な式を書いた後、本当に私は全く何も助けておらず、ただ「それはどういう意味?」と尋ねただけなので、突然正しい答えが出てきていたことにびっくりしつつも、算数が苦手な子にとってはやや難しいと言えるこの問題をきちんと解くことができたことに感激もしました。

でも、じゃあなぜ最初の頓珍漢な式を書いたのだろうという疑問が…。
学校などで急かされて人目もあってとかならまだわからなくもないのですが、私は考えているときには急かすことはありませんし、考えずに書くほうが注意を受けるのもわかっているはずなんですが…。

本人にも「なんでそんなにちゃんと考えられるのに、さっきのはなんだったの?」と尋ねましたがかすかにはにかんだだけで何も答えてくれませんでした。

早くしなくてはという意識がそうさせているのだとしたら、本当に怖いし残念だなぁと思います。
でも、ある程度は考えられるんだということがわかって、それは嬉しい気付きでした。

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2015年6月23日 (火)

「足がつる」?「足をつる」?

普段、サッカーを中心にテレビでスポーツ観戦をよくするのですが、見ていて実況や解説の方の使う言葉に違和感を感じることがあります。
特にどうしても気になるのが「有効的」と「足をつる」で、これの関しては、特にサッカー界ではそう言わねばならないという決まりでもあるの?というぐらい、多くの方が使います。

つい先日はなでしこのワールドカップの試合で国営放送である局のアナウンサーらしき人までが使ったのにはショックを受けました。

まず「有効的」は「効果的」もしくは「有効」が正しいと思うのですが、「友好的」という音に耳馴れているせいなのか、間違っていることに気づいておられないんだろうなと。

で、つい先日もピッチに倒れこんだ選手に「足をつったようですね」と実況の方が言うのを聞いて、ああまたか…と思ったところだったのですが、今日、試験前で振替レッスンに来ていた中学生の一人が違う話の流れで「足つったことない」と言ったので、「それ、ちゃんと言ったらどういう?」と尋ねてみたところ、「え?足をつる?」との答えが…。

その子は数学も国語も結構よくできる子なだけに正直かなりショックでしたが、「どっちでもいいんちゃうん?」と。
ですが、足がつるときの「つる」は漢字を当てるなら「攣る」だと思いますし、つまり「痙攣する」というような意味であれば、「足を痙攣する」とは絶対言いませんよね。
どうしても「足を」にするのであれば、「選手が足を痙攣させ(てい)る」というような言い方になるのだろうと思います。

それでもどちらでもいいのではというその子にもっと納得のいくツッコミがないだろうかと考えていたところ、すごいことを思いつきました。
「じゃあ、足じゃなくて攣ったのが首やったらどうなるんよ!」

さすがにこれには大笑いしながら、私の意見を認めざるを得なくなったようです。
首はともかく、手や指などが攣る場合、「手をつる」といえば、恐らく10人が10人、骨折して三角巾で腕をつっているようなイメージを抱くのではないかと思いますし、「指をつる」とは言わないだろうとも思います。

一体どうして足についてそんなに当たり前に多くの方が「足をつる」と言うになってしまったのか、なんとも不思議でなりません。

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2015年6月22日 (月)

オフでした。

今日は更新お休みします。

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2015年6月21日 (日)

かなり和みました。

今日のレッスンでの出来事です。
その子にはちょっと可哀想なことをしてしまいましたが、めちゃくちゃほのぼのして、和んだ出来事がありました。
普段はお母様が送ってきてくださる1年生さんが、ひとりで入ってくると同時に「パパが5時に下に来るって。」と言いました。
お母様がご用か何かで代わりにお父様が送ってくださったんだなと思ったものの、彼女のレッスンは15時40分から16時40分までです。お迎えが17時になるということは、お父様も何かご用がある中時間を作って送ってきて下さったのかな?と思い、「パパも何かご用があってお迎えが遅くなるの?」と尋ねたところ「ううん。」とだけ返事が。

終わってから20分も教室で待っているようにという話であれば、普通は親御さんから何かご連絡があるか伝言があるはずなので、なんでだろうなと思いながらもひとまずレッスンを始めました。
ただ、レッスン中ずっと、少し元気がないような印象で、頑張ってはいるものの、眠いのかな?何か疲れているのかな?と気にしてもいました。

レッスンがそろそろ終わることになり、再度、本当に何も伝言されていないか尋ねたものの、何も言われてないとのことで、そうなると、例えばお母様がお父様にレッスンの終わりの時刻を伝えるときに勘違いでもされたのかしらと、なんだか不思議なんだけどなぁというようなことを話していました。

すると、え?なんか泣きそうになってる??な、なんで??

私があれこれ質問をしたので、怒られたと思ったのかなと、「怒ってないよ、泣くようなことないよ」と声をかけたものの、ついに涙がポロポロと。
慰めつつ涙が収まるのを待っていたところ、ようやく落ち着いた様子で、まだ17時になっていないのに「パパ遅いなぁ、早くこないかなぁ。」と窓から外を覗いています。
そして、突然の告白が!

「○○ちゃん(自分のこと)がパパに5時って言っちゃった。」

ああ、そういうことだったのね!!!(笑)
どうやら、まだ1年生の彼女が、送ってもらったときにパパに5時にお迎えにきてくれるよう伝えたようです。
そして、それを私に伝えたところ、時間を間違えていたことがわかり、きっと心の中で(うわぁ、どうしよう…)と、レッスン中も気になっていたのではないかと。
それでいつもより何か元気がなくて、終わってからも「告白」する決心がなかなかつかず、どうしようと思っていたら涙が…ということだったんだろうなと。

告白を終えた後はすっかり明るい顔になって、いつものその子に戻ってくれたのでひと安心。
でも、もっと早く分かっていれば、ご連絡差し上げてお迎えの時間を早めてもらうこともできたのに、さすがにまだ小さな彼女には、それより何より自分が間違ってしまったことで頭がいっぱいになってしまったんでしょうね。

苦しい思いをさせてしまって本当に気の毒なことをしてしまいましたが、あまりの可愛らしい告白にとても和ませてもらいました。

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2015年6月20日 (土)

読解問題

何人かの子たちとは国語も一緒にさせてもらっていますが、そのうちのひとりの子、がんばろうとする姿勢は少しずつ見えつつあるような気はするものの、高学年になってから来てくれた子で、それまでに塾などにも行っていたもののうまく対応できずということでご縁を頂いたということの影響もあるのか、なかなか自分でじっくり考えるということができません。

何文字で抜き出しなさいとか、何文字以内で書きなさいとか、そういう問題の解答がしばしば全くちんぷんかんぷんだったりします。
初めのうちはそこまで本当に全くわかっていないのだろうかと思ったりもしたのですが、どうやらそうではなく、これまでにしてきた「勉強」が悪影響を及ぼしているのかもしれないと気づきました。

少し前から、突拍子もない答えを書いているときに、文字数とか関係なく、どういうことかを自分の言葉でいいから説明しするよう促すと、結構正しく答えられるということに気づいたのです。

もしかするとこの子は、大手の塾などで時間に終われ、とにかくその文字数に合いそうなところを探す、意味も考えずとりあえず近くにある言葉を書いて埋める、そんなことを繰り返してきたのではないかと。

そう思うようになってから、おかしな答えを書いているときに何度か、「ひと言で説明して」とか、「どういうことかそれを知らない小さい子でもわかるように説明して」とか、「抜き出さなくていいから、どういうことが書いてあったか教えて」とか尋ねるようにしたところ、とてもよくできるとまでは言えませんが、読解問題の解答にマル付けしているときに受ける印象よりは遥かに本文の内容を理解していることがわかりました。

それに気づいてから、私にとっては希望が一気に膨らみましたし、その子自身もほんの少し、私が言い続けていることの意味が伝わったのかもしれないなという表情を見せてくれるようにもなりました。
小学生の間にどこまで変わっていくかはまだわかりませんが、これからも一緒に頑張りたいと思っています。

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2015年6月19日 (金)

昔は考えたことなかったけど。

これまで何度も告白している通り、自分が生徒、学生だった頃、算数や数学は公式を覚えて当てはめる、教えられたことをその通りにやるというのが主だったように思います。

算数であればまだ考えたら解ける部分もあったかと思いますが、高校の数学などはほぼ全て意味を考えず公式に当てはめて答えを出していたはず。

そんな私が教室を始め、どんな問題もなぜそうなるのかを考えるようになり、本来は幼児さんから中学生さんまでしか見せて頂いていないものの、思いがけず想定以上のスピードで進む子たちが何人も出るようになったことで、時々中学生と数Ⅰや数Aをする必要が出てきて、そうなると、公式に当てはめて解きなさいとは言えませんから、改めて問題の意味を考える必要に迫られました。

そうしている中で色々、昔は全く気付かずにいたことが、ああ、そういう意味だったのかと今更理解したり、公式を覚えなくてもこれは解けるなということが少なからずあったり、新鮮な気づきがあります。

そして、今中3の子と数Ⅰ範囲の二次関数をしていて、ああ、こんな風に使えるんだなぁと今頃になって感心したのが、周囲の長さが決まっているときに最大の面積にするには縦横何センチにすればよいかや、周の長さが1メートルのとき、グラウンドのトラックのような形の面積を最大にするには円の直径をどれだけにすればよいかなど、そういう問題を二次関数で解くことができるということでした。

きっと昔にも習ったというか、そういう問題を解いたことがあるのだと思いますが、考えずに解いていたので記憶に残ることもなく、でも、実際の生活にも関わるような場面に二次関数や三角関数などが使われているんだなという気付きは、人によっては数学への興味を掻き立てられるのでしょうし、そういう子は物理などにも惹かれるのかもしれませんよね。

興味があることが進んで学ぼうという気になりますし、面白いと感じれば記憶にも残りやすくなりますから、身の回りの事象で数学が使われているものがあると気づくことは、結構大事なことかもしれませんね。

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2015年6月18日 (木)

くるくる変わる

子ども達を見ていると、気持ちがあっという間にくるくる変わることにしばしば驚かされます。

例えば、問題が難しそうだと感じた途端、みるみる不機嫌な表情に変わったり、中には泣き出してしまったりするのに、のど元過ぎればではありませんが、気づけばあっという間に「え?そんなことあった?」ぐらいのノリで何事もなくケロッとしているようなことが少なからずあります。

こちらとしては、自分が怒ったからではないにしろ、問題が難しいと泣き出してしまった姿を見ると、ああ、泣かせてしまったなぁと気持ちが沈み、どうしたらよかったんだろうなと悩んだりもするのですが、子どもによっては、私の悩みは何だったんだろう?と思うようなことも少なくありません。

そうやって感情がくるくる変わるのが子どもなのかもしれませんね。
もちろん、だからといって泣かれるのはつらいですし、泣かせたくもありませんが、もしかするとそうやっていろんな感情を感じながら、それをコントロールできるようになっていくことも含めて成長ということなのかもしれませんね。

嫌なことはすぐに忘れて切り替えられるようなところは、私も見習いたいものだと思います。

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2015年6月17日 (水)

少しは伝わってるのかな。

1年ほど通ってくれている子で、毎回のように宿題の取り組み方について話をしているのに、なかなか響いている感じがなく、どうしてなんだろうと、その子とのレッスンの日には悲しい気分になってしまいそうになる子がいます。

それでも恐らく僅かながら変化しているところはあるのだと思うのですが、今回のレッスンで宿題を見ているときまた悲しい気持ちになることがありました。

宿題自体はある程度きちんと取り組んだようではありましたが、国語の問題に対するある解答を見た途端、ああ、これまたきっと…という思いが頭をよぎりました。

設問として傍線が引かれているところには「喜びと落胆を繰り返して」というような表現があり、そんな経験があれば書きなさいというところに、嬉しかったエピソードのみを書いていたので、「落胆」の意味がわからないまま書いたのではないかと。

そこで、「落胆ってどんなような意味?」と尋ねてみたところ、残念ながら予感的中。無言で固まってしまいました。
「喜びと落胆を繰り返した経験って聞かれてるのに、落胆の意味がわからなくてなんで答えが書けたの?」と言ってもだんまり。
次に私が言いたいことはもう耳にタコができているはずですから、「なんて言われるかわかるよね?」とだけ言うと「わからない言葉があったら、ママに聞いたり辞書で調べたりする…」と答えました。(私が「ママに聞きなさい」と言ったわけではありませんが。)

固まったその子の口からその言葉を聞いて、これまで繰り返し繰り返し言い続けていたことがただ聞き流されていたのではないんだなと、少しだけホッとしました。

子育てをしたことがない私にはぼんやりとしかわからないのですが、きっと一度言っただけでその通りにできる子はごくごく僅かなのでしょうね。
私がさせて頂いているのは子育てなんて言えるようなレベルでは全くありませんが、大事なことは何度も何度も諦めずに繰り返し言い続けることなのかもしれないなと思いました。

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2015年6月16日 (火)

なぜ考えさせるのか。

最近読了したものと、今読み始めたものとで、教育関連の本という共通点はあるものの、内容としては一方は数学塾をされている方が書かれた勉強法に関する本で、もう1冊は中学受験国語に関する本なので、全く違うものと思って購入したものなのに、どちらにも共通することがあり、大いに共感することがありました。
それは、自分で感じる、考えるということの重要性とも言えるでしょうか。

うちの教室では自分で考えて気づく、理解するということを極めて重視していて、教えられたことを使って算数を解くことに慣れてしまった子はしばらくの間とてもとても辛い時間を過ごさねばならない場合があります。

まだ小さい子であれば、考えようとせず、泣き出してしまうこともありますし、表情を見ていると、これは泣きそうだなとわかることもあります。
また、学年が上がってきても、考えずこちらの様子をチラチラ伺って、答えが合っているかどうか探ってくるような姿を見ることもあります。

自分で考えることが当たり前の子には何でもないことでも、一旦「教えられたことを使って解くのが勉強」と思ってしまった子や、あまり考えないうちに周囲が助けてくれて、自分で頭に「汗をかいて」答えを出せた快感をあまり経験したことのない子などには、切り替えられるまではきっととても辛く苦しい時間を過ごすことになるのだと思いますし、できることならそんな辛い思いはさせたくはありません。

小さい子に泣かれると、泣きそうな顔になったら助けたくもなります。
泣かれるぐらいなら教えてしまった方が私もその子も、少なくともその場では楽しくレッスンすることができるのだろうとも思います。

では、どうして私はそれでも心を鬼にしてそれをしないのか、当初は自分で考えることで子どもが明らかに教えられた場合と違う伸びを見せるということを何度も目の当たりにしてきたということや、学年が上がるにつれどんどん子ども達が楽になっていっているようだと感じたことなど、それが第1にあったような気がします。

でも、よく考えるときっとそれはほんの小さなことで、例えば算数という勉強を通して物事をじっくり考えるようになった子は、普段の生活で何か問題にぶち当たった時、自分なりに考えて解決の道を見つけ出すこともできるようになるかもしれませんし、見たこともない問題であっても、試行錯誤すれば答えが見つかるかもしれないと考えられるかもしれません。

そして何より、教えられたことに疑問を持たずそのままそれを使ってその通りにやることに慣れてしまうと、大きくなって何か怪しい話を持ち掛けられても、色々な角度から物事を考え、それは何かおかしいのでは?と判断したり、判断がつかない場合も誰かに相談したりというようなことがうまくできず騙されてしまったりというような目に遭う可能性が高まってしまうのではないかと。

大袈裟かもしれませんが、それでもあながち間違っているともいえない気がするのです。
算数を通してじっくり考えることを経験してもらうことで、もっともっと大事な何かを学び取ってもらいたいと、そんなことを思います。

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2015年6月15日 (月)

オフでした。

今日は更新お休みします。

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2015年6月14日 (日)

1週間終了

今日もみんなよくがんばってくれました。
そんな中、恐らくがんばって頭を使ったからだと思うのですが、ある1年生さんのレッスンの最後に不思議なことが起きました。

小さい子達はぐっと集中していると、40分、50分あたりで突然それまでできていたことができなくなったり、普段ならとても簡単にできるようなことがわからなくなったりということがしばしば起こります。

きっとそのパターンだったのだとは思うのですが、これがなんとも不思議で…。

レッスンの終わりに頭の体操的にやってもらっているものがあるのですが、その中に手とビー玉の絵が描かれていて、手で隠しているビー玉がいくつか答える、本来なら決して難しくはない問題がありました。
問題文に、ビー玉は全部で15個あって、いくつか手で隠しているということが書かれていたのですが、問題を読んで聞かせても反応が緩く、その後自分でもう一度読み直しているようだったので、自分できちんと読もうとするのはいいことだなと待っていました。
しかし、読み終わっても考え込んだままなので、何か勘違いでもしているのかなと思い、1つ目の絵を指して、「ビー玉いくつ見えてる?」と尋ねました。

見えているビー玉は10個だったのですが、少し考えて「15個」と答えました。
そこで、問題文を読んで何か勘違いしているんだなと思い、「この絵の手の周りに見えてるビー玉はいくつ?」ともう一度尋ねたのですが、じっと絵を見つめた後、なぜかまた「15個」と答えます。
そこで、その絵を私が更に隠して3つだけ見えるようにしてから「これならいくつ見えてる?」と尋ねても反応がないので、見えているビー玉の絵を1つずつ押さえて「これは3つ見えてるね」と言ったのですが、まだ「ああ!」というような反応になりません。

そこで、10個おはじきを使って、初めに10個あるのを確認してもらった後、7個隠していくつ見えているかを尋ねるとそこはすんなり「3個」と。見える数を違う数にして尋ねても、それはやはりすんなり答えてくれました。

「うん、そういうことよ?じゃあこれはいくつ見えてる?」と絵に戻ったところ「15個」と……。なんで?(苦笑)

もうレッスン時間の終わりになってもいたので、「また今度にしようか」とレッスンを終わりにしましたが、なかなか不思議な感じでした。

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2015年6月13日 (土)

数量感覚

自分自身の子どもの頃のことを振り返ると、少なくとも今教室で子ども達に求めているようにじっくり考えて自ら気づき、理解するというような勉強の仕方はしていなかったなぁと思うのですが(それは残念に思いますが)、子ども達とレッスンをする中で、色々なことに気づいたり、考えさせられたりします。

自分が小学生だった頃、小数の掛け算や割り算はどうやって小数点の位置を決めるのか習ってその通りに解いていただけだったように思いますし、割り算の余りは元の位置に点を付けねばならないと習ったからそうしていたのではないかと思います。(もう遠い昔のことなので実際どうだったのかはわかりませんが。)

子ども達とレッスンをする際、極力やり方を教えることはしないようにしていますので、小数点の位置を動かして解けばよいというような説明の仕方は基本的にしません。
そんな中、自分で式を見ていると、例えば、今日のレッスンで「0.08÷0.04」という問題の答えを「0.2」と書いていた子がいたのですが、割り算の意味を考えれば、「0.08を0.04ずつ分ける」とすれば、当然答えは「2」です。
小学生の頃の自分はそんな発想はしていなかったと思いますが、数量感覚がある子なら、教えられなくても0.04が2個で0.08だと気づいたり、数直線で0と0.08の真ん中が0.04というようなものがイメージされたりするのかもしれません。

感覚がない子は言われたように小数点を動かして「8÷4」に直すのだと思いますが、ここに気づくかどうかはもしかすると大きな差になってくるのではないかなという気もします。

分数の割/り算でも、「分数÷整数」の場合、割る数を分母に掛けることになりますが、そう習った子だと、仮に「9分の8÷4」(8/9÷4)のようなものでも、「36分の8」と考えてから約分をするような子が少なからずいます。
ですが、やり方を教えられず、また、分数を量として捉えることができる子であれば、何も言わなくても8個を4で割るのだからという発想で「9分の2」と答えます。

こういうところも結局、数量感覚があるかどうか、イメージを伴っているかどうかという差なんだろうなと。
そして、その差が積もり積もって、学年が上がるにつれ大きな差になっていくのだろうなと、そんなことを感じます。

だとすればやはり、小さいうちは時間をかけてじっくりと、具体物に触れながら、イメージを伴った学習をすることが大事なのだろうと思います。

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2015年6月12日 (金)

工作好きは算数好き?

今日のレッスンで、ある子が色画用紙で小さな「ハリセン」を作ってきてくれました。
きっかけは、その子が一緒にレッスンをしている学年が随分上の男の子が、見事なまでに毎時間、レッスン中に眠たくなり、レッスン時間の半分以上は睡魔との戦いと言ってもいいほどで、もちろん冗談ではありますが、私が「目が覚めるように大きなハリセンでも作ろうか?」と何度か口にしていたことでした。

でも、もちろん私はこれまでそれを実行に移すことはなく、かといって何年たってもその子の睡魔との闘いは終わることもなく、すっかりその男の子にも慣れた小学生さんは、レッスン中眠そうな姿を目撃すると「あ、また寝てる?」などとツッコミを入れるようにもなってしまいました。(苦笑)(一応中学生の名誉のために言うと、そんなに眠そうではあるものの、数学はかなりよくできていて、「眠くならなかったらもうびっくりするぐらいできるんやろうにね。」などとよく言っています。)

そして、今日のレッスンに中学生の子より先にやってきたその子はなんだか嬉しそうに笑っていて、どうしたんだろうなと思ったら「ハリセン作ってきた!」と。

それもまた色違いで3つも!(笑)
作り方もよく考えられていて、小さいながらも机を叩くとかなりの音がします。
まあ、その後はもちろん許可なく突然叩いたりなんてことはしませんでしたし、中学生の子も含め、なんだかとても楽しくレッスンを終えることができましたが、ハリセンを作ってきてくれた子は、女の子ですが算数のセンスがかなりあり、よく感心させられる子なのです。

そして、ふと思い出したのが、過去に工作が大好きだった子が何人かいて、そういう子はみんな算数が得意だったなぁと。この場合の工作というのは、何かを見ながら真似をして作るにとどまらず、自分で考えて何も見ずに何かを作ってしまうとかでしたが、考えてみれば、自分で工夫して立体の何かを作ることができるというのは、やはり空間認知などの能力にも関係しているということなのでしょう。そういう子たちが算数の図形問題などが得意であるのはある意味当然なのかもしれませんね。

もちろん、それだけではなく、紙などを使って何かを形作る中で実体験として気づくことも色々あるでしょうから、そういうことで更に能力が伸びるということもあるのでしょう。

因みに、ハリセンって、すごい音の割にはちっとも痛くないものなのですね。音からしたらビンタされるぐらい痛そうなのに、全くそんなことはなくて、それもびっくりでした。
彼女のお蔭でなかなか貴重で楽しい体験ができました。

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2015年6月11日 (木)

点つなぎ

去年から来てくれている子で、来てくれた当初、算数で苦戦しつつあったため、まずは点つなぎがしっかりできるようにとある程度続けて取り組んでもらいました。
その後、少しずつ変化が見え始め、ゆっくりながらも自分で考えるようになってきたなと感じていたのですが、最近になってまたなぜか来てくれた頃に逆戻りしたような印象で、答えを書きながらこちらをチラチラ見てきたり、見てもマルをしなければ、たとえその答えが合っていても間違っているんだなと消して書き直したり、どうも良くない傾向が感じられました。

何があったんだろうと思いながらも、そういえばある程度できるようになったので最近はやってもらっていなかったなと、また点つなぎをしてみてもらったところ、かなりできなくなっていました。
時間をかけて注意深く見ているようなのに、てんで違うところに線を引いたり、何度も書き直しているのに全く間違いに気づいていなかったり。

ああ…何が原因かはわからないけど、この状態に戻っていたのか…と、そんな気持ちになりました。
書きながらもチラチラこちらを見てくるのは変わらず、これはまたしばらく点つなぎをしてもらわなくちゃいけないなと。

1つ仕上げるのにかなり悪戦苦闘していましたが、その後のレッスンはこのところのその子と比べると、まだ集中できていたようにも感じ、改めて点つなぎの大事さを感じました。
そして、一度できるようになっても、しばらくたまにしかしない状態が続くとここまでできなくなることもあるのだなとわかりました。

点つなぎがしっかりできても算数で苦戦する子も中にはいますが、この子はある程度リンクしているようなので、またしっかり取り組んでもらって様子を見ようと思います。

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2015年6月10日 (水)

性格なのかな。

これまでにも書いたかもしれませんが、レッスンに来てくれる子たちの中には国語も一緒にさせてもらっている子たちがいます。

その子たちが時々、宿題に出した範囲の中に出てきている言葉の意味がわからないままレッスンに来て、レッスンの場で質問してくるのはまだよい方で、できていない問題を一緒に解こうと思って、なんでこれがわからなかったのかな?と思いつつ設問の中や本文の中の言葉の意味を、こちらとしてはわかっているものだと思って尋ねてみると、そこで黙り込んだり、あっけらかんと「わかりません」と言ったりする子もいます。

宿題をやらなかったのとは違い、ある程度取り組んでいる場合でも、その言葉の意味がわからなければこの問題が解けるはずないのに…と思うような言葉を意味が分からぬまま宿題に取り組み、そのままレッスンにやってくる。
そういうことが決して珍しいことではないということに、私はちょっと戸惑ってしまいます。

今はすっかり便利な時代になってしまったので、辞書を引かなくてもパソコンやスマホなどですぐに調べられてしまうのは、忙しい大人などにとってはいいことなのかもしれませんが、子ども達はそれによって失っているものがあるような気がします。
また、今のようにネット環境が整っていない頃であれば、家庭で大人も辞書を引く機会は少なからずあったはずです。

お父さんやお母さんなど、身近な人が辞書を引いている姿を目にする機会があれば、わからないことがあれば辞書を見てみようと思う子もいるでしょうし、大人の側もそれが当たり前であれば、わからない言葉があれば辞書を見てみるよう促すこともあったのではないかと思います。

私自身を振り返ってみると、小さい頃、母親がよく辞書を引く姿を見ていたので、母親の年季の入った辞書を引くのがなんだか大人に近づいたような気がして、調べるものがなくても時々辞書を開いて、書かれていることを読んだりしていたことを覚えています。
また、何か知らない言葉があると気になって、調べるか誰かに尋ねるかしてしまうような性格でもあったとは思います。

ですから、宿題をする際に問われていることの中に意味の分からない言葉があったり、本文の中でそのあたりが答えに関係していそうなところとわかっていて、そこに知らない言葉があったりするのに、自分から何のアクションも起こさずそのままレッスンに臨める感覚がよくわからないのです。

もちろん、宿題が面倒でちょっと手抜きをしたというような場合は、喜ばしくはないもののその感覚は理解できます。
ただ、自分なりに一所懸命やったといえる状態で出してねと言っても、何度も「~~の意味がわかりませんでした」と、調べずに持ってくる子もいるのです。

これは性格にも関わっているということなのでしょうか。
そういう子には根気よく言い続けるのがいいのか、本人が困るまで放っておく方がいいのか、ちょっと悩ましいところです。

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2015年6月 9日 (火)

まず手を付けること

この頃、自分の不精さに磨きがかかっていて、一度座ってしまうと動く気になれず、一度パソコンやスマホを触り始めるとなかなか離れられず、やらなくてはいけないと思っていることも後回し、後回しに…。

そんな毎日に自己嫌悪を感じつつ、子ども達が家ではなかなか宿題をきちんとやれない気持ちもわかるなぁと思うのですが、これまでに読んだ本などにも書かれていた、「まず手を付けること」がとにかく大事なんだろうなと感じます。

とっかかりが一番パワーがいるというか、やらなくちゃなぁ、やらなくちゃなぁと思っているうちはなかなか腰が上がらないものの、いざやり始めると案外すんなり進んだり、思ったより長時間続けられたりということは少なくありません。

私自身も、なかなかやる気にならない片付けや物の整理なども、いざ手を付ければある程度はやり続けられますし、やる気がなくなった場合も何か違うことをしてまた戻れば、再度続けられたりもします。
とにかく最初のとっかかりが一番大変でハードルが高いんですよね。

というわけで、今日はレッスンがお休みだったのと、久しぶりにスイッチが入ったので、家の掃除や物の整理、処分などがちょっと捗りました。
明日からまたしっかりレッスンを頑張りたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。

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2015年6月 8日 (月)

オフでしたので。

更新お休みします。
明日からしばらくは雨のようですね。

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2015年6月 7日 (日)

「5」というまとまり

大人になるまで意識したことがなかったのですが、というか、教室を始める前までは気づいていなかったことですが、普段の生活で十進法に慣れ親しんでいる私たちも、実は10で繰り上がるという感覚の前段階で5でひとまとまりと感じているのだなと、色々な場面で実感することがあります。

それを最も顕著に感じるのは、子ども達とレッスンをしていて、まずは5までの数の理解ができるようにならないと、10までの数はなかなか理解できるようになりませんし、また、5までの数の理解がしっかりできれば、10までの数はすんなり理解できることが多いように感じます。

それを実感する出来事が今週のレッスンでもありました。
ある1年生さんと20までのたす・ひくを学習しているのですが、かなりできるようになってきたものの、レッスンが終盤になって疲れてくると、数を思い浮かべるパワーが足りなくなってくるのか、難しい顔をすることがありました。
そんなとき、例えば、「7+8」なら、片方の手で「7」もう片方で「8」を出して見せると、見た瞬間に「あ、15!」と答えるのです。

7を表すと言っても指は5本しかありませんから、「2」の指と同じです。
ただ、曲げている部分が「5」を表しているということが感覚的にわかっているので、立っている指の「2」と「3」を合わせて瞬時に「15」と答えられるのです。

恐らく5までの数の理解、10までの数の理解がしっかりできていない場合は、指を見せても1本ずつ数えたりするのだと思います。(まだそういう段階の幼児さんもいます。)

5と5で10というのがすんなりわかるのは、きっと指が全部で10本だからなんだろうなと。更には、人が何かを数えるために指を折る最初の段階は片方の手の「1、2、3、4、5」がひとまとまりだから「5」がまとまりという感覚が身についているんだろうなと。

そう考えると、もし指の数が全部で6本とか12本とかであれば、十進法ではない進法が定番になっていたかもしれませんね。

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2015年6月 6日 (土)

考えたらわかるという経験

教室に来てくれる子たちの中には小さいうちにまだ「お勉強」ということをしたことがないぐらいの状態で来てくれる子たちと、既に学校や何かの習い事などでお勉強を経験してから来てくれる子がいます。
後者の中には算数で苦戦し始めて、うちを見つけて尋ねてきてくれたという子たちがいますが、その中には自分でじっくり考えるという経験も、考えてわかったという経験もあまりする機会がなかったんだろうなと感じる子たちが少なからずいます。

そんな子たちにはとにかく、まず自分で考え、その結果ちゃんとわかったという経験を積み重ねてもらう必要があるのですが、その切り替えがスムーズにいく子もいれば、なかなか思うようにいかない子もいます。

そんな中、最初はどうなることかと心配していたものの、ようやく少しずつ変化が見られるようになってきた3年生さんとレッスンをしていた時のこと、その子とはあまりのない割り算は既に学習を終えていたのですが、あまりのある割り算をしてみようと、敢えて何も言わずにプリントを差し出しました。

見た目が過去にやったあまりのない割り算の導入のプリントと同じだったため、躊躇うことなく取り組み始めたのですが、同じようにすると最後に余りが出てしまいました。
どうするかなと思ってみていると、どこかで数え間違えたのではないかと自分がした作業を見直し、何度も数を確かめ、それでも合っているので少し戸惑っています。
ただ、最初の問題を読まずに始めたようだったので、そこでまずは「問題ちゃんと読んでね」と声をかけてみました。

すると、返ってきた言葉は、「ああ、このセリフ久しぶりに聞いたなぁ」というものでした。

「これ、習ってないからわかりません。」

うちに通ってくれている子たちでこのセリフを言う子はかなり限られていますが、教えられたことをその通りにやるということが当たり前になっている子たちはしばしばこれを口にします。
とはいえ、その子は来てくれるようになってぼちぼち1年になりますし、教えなくても考えられるはずのことをやってもらっていたので、「ほんとにわからない?その絵よく見て考えてみて。」と言って、もう少し言葉をかけました。

すると、少し頼りなげだった目がほどなくしっかりした眼差しに変わり、ゆっくりながらも正解に辿り着きました。
そこで「ちゃんとできたやん。それが考えるってことよ。」と声をかけ、次の問題を考えてもらったところ、一度自分で考えて答えに辿り着いただけあって、次の問題になると少しスムーズになり、その次には自信が感じられ始め、次に少し違った内容のプリントに移っても落ち着いて考え続けられました。

まだ波があり、集中できるときとできないとき、線がつながるときとつながらないときのムラが大きい子ではありますが、しっかり考えられているときの表情は本当に美しいのです。
そのときの感覚をその子自身がしっかり感じてくれるといいなと思っています。

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2015年6月 5日 (金)

ほのぼの

今日ではありませんが、今週のレッスンでちょっとほのぼのした出来事を思い出しました。

先日から一緒にレッスンさせてもらっている幼児さんとのレッスンでのこと。
ほぼ全く真っ白の状態から一緒にさせて頂くことになったので、今はまだ5までの数の学習で、今週初めて5までの数の足し算を一緒に学習しました。

その子には上にお姉ちゃんがいるようなのですが、自慢のお姉ちゃんなのか、お姉ちゃんがとてもよくお勉強ができるということをニコニコ話して聞かせてくれます。
そんな和やかムードでレッスンが進み、足し算の学習になったとき、その子にとっては初めて自分で書く足し算の符号や式にちょっとワクワクしている様子が伝わってきていました。

順調に取り組んでくれていたその子が突然

「これ、小学校になるまで覚えてたらよかった。」

と言いました。

へ?(笑)

「覚えとこう」ではなく、「覚えてたらよかった」と過去形なのはなぜ?と思いつつ、意表を突かれて一瞬言葉を返すのが遅くなったところ、続けて

「だって、こういうの小学校でやるでしょ?」

と。

まだ小さいので言葉の使い方を間違えただけなのだろうと思いますが、まだ未来のことについて、既に後悔しているような発言がおかしくて、ひとりで妙にほのぼのしてしまいました。

これからも次々に「小学校でやること」を学習していくその子が、これからどんな風に成長していくのか、とっても楽しみです。

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2015年6月 4日 (木)

分かれなくてごめんね…。

今日はちょっと自己嫌悪に陥っています。

レッスンをしていると時々そういうことがありますが、子どもがいい加減にやっているわけではないのに、なぜそうなるのかがどうしてもわからず、そうなると楽しくレッスンをすることもできず、雰囲気が重くなり、更に子どもは煮詰まってしまって、子どもも私もどんよりした気持ちでレッスンを終えてしまうようなとき、終わった後、ああ、やっちゃったなぁ、申し訳ないなぁ…と落ち込みます。

今回は、算数が苦手ということで来てくれるようになった高学年になった子とのレッスンでだったのですが、その子は一時ちょっといい感じになってきていたのに、このところまた答えを書いてはこちらをちらちら見て、私がマルをしようとしないと答えを書き直そうとするような、ちょっと困った状態に戻ってしまっています。
一度はその状態から抜け出しかけていただけに、どうして?という気持ちが出てしまい、それもいけないんだと思うのですが、やはり本人が自分で考え、わかったことで自信を持つ以外、その状態から抜け出すことはなかなか難しいですし、そのためには手とり足とりするわけにもいきませんから、私も苦しいところなのです。

その子とは前々回から重さの学習をしているのですが、前回秤の文字盤で相当苦戦し、今回はそのおさらいからのスタートでした。
すると、針が指している重さはきちんと答えが出せるのに、どうしてなのか秤のひと目盛りが何グラムかはことごとく間違うのです。
ひと目盛りが何グラムかわからないのに、どうして針が指している重さは出せるのか、それも取り組んでもらった6問全て、秤は500gから4㎏まで4種類の文字盤があるにも関わらず、針が指している重さは試行錯誤しているようではあるものの、全く助けなくても自力で正解しているのです。
にも関わらず、ひと目盛りは全問間違い。それでもどうにかこうにか4問目までは間違いを直すことができたのですが、最後の問題、ひと目盛りが5グラムで、針が指しているのが375グラムという問題の、375グラムは少し考えて正解できているというのに、いつまで経っても、何を尋ねても、どうしてもひと目盛り5グラムに答えには辿り着きません。

前回、目盛りが全部で100個あるということも確認し、その後、「全体の重さ÷100」でひと目盛りの重さを計算したりもしたので、「前回、目盛りが100個あるからって、あなた計算していたよ?」と声をかけてもダメ。
「使える数は100と500しかないんだから、それを足すか引くか掛けるか割るのどれかをするのよね?」とも声をかけました。
それでも動き出さないので、「じゃあ全部やってみたら?」というと、計算用紙にかかれたものは「100+500、100×500、100÷500」の3つでした。
ここまで完全に前回したことも忘れており、更には足し算、掛け算、割り算がどういうものなのかも少なくともその時には考えられなくなっており、もうどうにもこうにも…な状態のようです。

でも、それならなぜ「375グラム」がわかったのか尋ねると、今度はそれすらもうわからなくなっていて、説明してもらうこともできませんでした…。

秤全般が苦手だった子、文字盤の類が全て苦手だった子というのはいますが、そういう子たちは針が指している重さもわからないのが普通です。今回のその子はそれは全部わかるのですから、どういう状態なのか推測できず、本人にも最後は謝ったのですが、さすがに私がどんなふうに思って謝ったかはわからないだろうなぁと…。

子ども達が煮詰まっているとき、頭の中が見られたらどんなにいいだろうと思うことがよくあります。
能力の高い指導者の方々は、そういうときもきちんと状況判断して対処していかれるのかなぁと思うと、自分の力不足に落ち込みます…。

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2015年6月 3日 (水)

どこまで指導すべきなのか

子ども達とレッスンをしていて、しばしば悩むことがあります。
どう考えたのか全く推測ができないときや、これができるのになんでこれが全くできないのか想像できないときなどはもちろんですが、どこまで手助けをするか、どこまで教えるかなど、ひとりひとりの子にとって一番いいのはどのぐらいまでなのか、その判断は本当に難しく、時には自己嫌悪に陥ることもありますし、子どもが帰った後申し訳なくなることもあります。

それでも、これまで何度も書いているように、手助けをし過ぎて子どもの力を押し込めるとか奪うとかいうようなことだけはしたくないので、敢えて遠回り、敢えて不便、そういうことも経験してもらう方がいいのではと思ってはいます。

そんな中、算数で苦戦をしているある子のことでまた悩んでしまいました。
当初は宿題も明らかにいい加減、でも、実際算数の初歩の初歩あたりからの理解がかなり厳しい状態でもあったので、その状態で宿題を自分でやるのは確かに辛いだろうと思え、やむを得ないなと思っていた時期がありました。
それでも、少しずつできることが増え、きちんと取り組んだときといい加減にやったときとでは明らかに宿題の出来が違っていて、見ただけでそれがわかるようにもなり、いい加減にやってきたものを教室でやり直してもらうと、ある程度まではできるようになってきていました。

その子と先日図形の学習をしたのですが、色々な図形の名前や部分の名称(頂点、辺、角、直角など)が出てきて、もちろん一度で覚えられるはずはありませんから、名前を書き込んだプリントを見てもよいということでその日のレッスンを終え、宿題にも図形の名前を書くものが出ていました。

しっかり取り組んできてねと念を押し、更にレッスンに来てくれたときに私に見せる前にきちんとやったかどうか自分で見直して、やっていたら出してねと言ったところ、いい加減なところがあったようで、出す前に何枚かのプリントに何かを書いている様子でした。
その後プリントの束を差し出してきたので、もう大丈夫なんだなと思って見たところ、図形の名前を書くプリントの答えの欄が半分ほどしか埋まっておらず、おまけに書いてあるところの名称もめちゃくちゃ。合っているものは2つほどしかありませんでした。

レッスンで全ての名前を書いたプリントを持ち帰り、その回の宿題として出されたものなのですから、わからなければそのプリントを見直せばよいはずです。
少なくともその子とレッスンをしていたとき、計算ではかなり苦戦するものの、図形の感覚はまずまずありそうだなと感じられたほど、同じ仲間になるのはどれかなどもすんなり選んでいましたので、名前を書いたプリントを見直しさえすれば、少なくとも7、8割は正しい答えが書けたはずです。

でも、その子はそうしなかったわけです。
その時点で私はこれがその子の精一杯なのかとがっかりしてしまい、一度で全部覚えられる人なんてまずいないのだから、わからなければこの前やったプリントを見ればよかったんじゃないの?と言ったものの、気持ちの中ではなんでそれすらせずに、ちゃんとやったと提出してきたんだろうと(宿題がいい加減でやり直してもらうことがこれまで何度も繰り返されていて、ああまたか…と思ってしまったのもありますが…。)悲しい気持ちになってしまいました。

ですが、その子が帰り、レッスンも全部終わって片付けをしていたときに、ふと、もしかしてあの子は宿題をテストのように何も見ずに自力で解けるところだけ解くものだと思っていたりするんだろうか?と疑問が湧いてきました。

教室で出す宿題は基本的にその日にレッスンでした内容のおさらいが中心です。一度やっただけではすぐ忘れてしまいがちですから、おうちでもおさらいをしてもらうわけで、忘れていたりわからなかったりすることは、レッスンでしたことを思い出したり、見直したりするのは当然のことだと思っていたのですが、もしかして、そういうことも「当たり前」ではない子もいるのでしょうか。

周りの大人が親切のつもりで何もかも助けてしまうことは子どもの成長にとってマイナスになることの方が多いので、それは極力したくないのですが、これに関しては助ける助けないとは別の、常識だと思っていること、当たり前だと思っていることが、実は子どもにとっては当たり前ではないのかもしれないということですから、もしそうなのであれば、指導する必要があるんだろうと思います。

次回その子がどんな状態で宿題を持ってくれるかわかりませんが、一度宿題についてどう取り組むものと考えているのか尋ねてみようと思います。

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2015年6月 2日 (火)

もう6月。

今日もレッスンはお休みでしたが、少し出勤して教材作りなどをしてきました。
もう6月ですね。
ぐずぐずのろのろし過ぎているツケか、単なる加齢のせいか、このところ今ひとつコンディションが整わず、土曜は健診を受けに内科へ、今日は数年サボっていたある検診を受けに別のお医者へ。
四十肩(五十肩)で整形外科に行ってから、ちょっとお医者づいてしまっています…。

運動もしないといけないんだけどと思うだけ思ってもう長い長い月日が流れ去ったわけですが、脳の衰えを見てもやはりいい加減何かしないといけませんね…。

と、こんな話題でスタートしてしまった6月ですが、明日からまたどうぞよろしくお願いいたします。

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2015年6月 1日 (月)

オフでしたので。

今日は更新お休みします。

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