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2015年3月31日 (火)

今年度もあと1日。

今日はレッスンはありませんでしたが、出勤して事務仕事などをしていました。
もう日付が変わっていますが、今年度もあと1日。
もう4月になりますね。

新しい時間割は、今年度と同じ曜日・お時間の方もおられますが、新たな曜日・お時間になる方もおられ、新しい組み合わせの子ども達のレッスンというのもいくつかできます。
年長さんが1年生になったり、小6さんが中1になったりということもあります。
学年が上がるので、時間を増やしたり、教科を増やしたりというお子さんも。

みんな新しい気持ちでしっかりがんばってくれることと思います。
そのためには、まずは私自身がもっとしっかりがんばらなくてはいけませんね。

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2015年3月30日 (月)

オフでした。

土曜帰宅後から、録画しておいた世界フィギュアを見て、続きでマイアミ・オープンを見て、最終回だった朝ドラも録画で見て、その後、土曜未明にあったスペインのユーロ予選の試合を流し見して、LIVEで別のユーロ予選を見ていたら寝落ちていて…。

起きてからも、録画してあったサッカーの試合を流し見しつつダラダラ。晩は世界フィギュアのエキシビションを見てから実家に行き、帰宅後はU-22のオリンピックアジア予選?を後半だけ見て、ユーロ予選のドイツの試合を見て…。

と書いているうち(いえ、書かなくても実は気付いていますが…)、さすがにこれはちょっと見過ぎだなと…。(反省)
で、ちょっと本でも読まなくちゃと読み始めた新書に書かれていた言葉に感動し、でももうこんな時間…という例によってかなり非生産的休日でした。

明日は午後から出勤しますので、生産的活動をしたいと思います。

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2015年3月29日 (日)

新年度の時間割

最近、やらなくてはと思うこともなかなかエンジンがかからず、こんなことではいけないんだけどと自己嫌悪に陥る日々ですが、新年度の時間割がほぼ決まりました。
曜日や時間のご希望に幅を持たせてくださった方が何人かおられたこともあり、皆さんほぼご希望通りに組むことができそうです。
本当にありがたいことです。

あと何方かご希望の確認をさせて頂いていますので、そのお返事が頂けたら、週明けには皆さんにご案内できるかと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。

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2015年3月28日 (土)

不思議。

少し前から分数の学習をしている子がいます。
その子は一所懸命ではあるものの、算数はどちらかというとちょっと苦戦気味。それでも、小さい頃からじっくり考えることは習慣になっているので、学校では困ってはいないんだろうなという、そんな子です。

折り紙などを使ったり、色を塗ったりしながら分数を体感し、その後問題に進んだのですが、なぜか前回、大きさ比べをするときに何が何だか全く…というお手上げ状態になってしまい、一所懸命考えている様子なのに、これだと前回までにやった大きさを感じるというあたりのことが全く身についていないということなんだろうか、そこからおさらいしないといけないんだろうかと、あれこれ考えていました。

しかし、今回のレッスンでとりあえず問題を考えてもらって、その様子を見て判断しようと思っていたところ、ほかの子たちでもちょっと迷うような問題も穏やかな表情で考えた後答えを書いていきます。
たまたま?と思ってしばらく見ていても、ほとんど正解。
間違えたものの「このうち2つ違うのがあるよ」と言って見直してもらったところ、きちんと気づいて直すことができました。

おうちでおさらいをしたということではないようなので、どうやら前回のレッスンはどこかにはまり込んでいたということなのでしょうけれど、その子はもう3年生、今度は4年生になるのに、まだそこまで日によって違うんだなと、ちょっと不思議な気持ちになりました。

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2015年3月27日 (金)

日本語って難しい。

今日の幼児さんとのレッスンでのこと。
今日はレッスンが始まる前に少しぐずっている感じだったので、これはもしかしたら調子が出ないかもしれないなと心配していました。
そのせいなのか、単にこちらの想像以上にその子にとって難しいことだったのか、それは次回まで判断がつきませんが、ちょっと不思議なことが。

前回までは20までのたす・ひくなどを学習していたのですが、それもある程度できるようになったので、今回は100までの数の学習に進むことになりました。
教具を並べていくつかを尋ねると、初めのうちはなんだか嬉しそうにニコニコと数を答えてくれていました。

しかし、教具を並べてから、「10が何本と1が何個?」と(例えば教具を使って「52」を見せた場合、「10が5本と1が2個」ということになります。)尋ねたところ、突然何かおかしくなりました。

最初のうちは意味が分かっていないのだろうと思い、何度か教具を並べた後に私の方で「10が3本と1が5個」とかいうように言ってみせて、そのあと尋ねると、答えてはくれるようになったのですが、何度尋ねても「10」も「本」ではなく「個」と言ってしまいます。

まだ小さい子なので、知らないのかもしれないと、「1個、2個というのは、飴とかおはじきとかボールとか、ころんとしたものを数える数え方で、細長いものを数えるときは1本、2本っていうのよ。鉛筆は1個、2個じゃなくて、1本、2本でしょ?」というと、ひとまずこくり。

そこで、鉛筆を並べながら「1本、2本・・・」と10本まで声に出して数えてもらいました。
途中、なぜか8本のつぎが10本になったり、7本のつぎが9本になったりということはあったものの、ひとまず数えられていたので、教具に戻って、それも端から「1本、2本…」と数えてもらいました。

そして、また問題に戻って、「~~は10が何本と1が何個?」と先ほどと同じように尋ねたのですが、なぜか再び「10が5個と…」と「個」に戻ってしまいました。

何度も何度もやり取りをしたのですが、どうしてか、「個」になるとき「本」と言えるとき、そのどちらもつかず数だけを言うときと、答えるたびにバラバラになるのです。

何が原因なのか判明せぬまま、ただ、レッスン終盤にはもしかしたらわかったのかな?と思う瞬間もありましたので、次回のお楽しみ(?)となりました。

でも、以前にも書いた気がしますが、日本語は確かにややこしいですよね。
ものを数えるときの単位が数えきれないほどあって、例えば四足の動物に限ったとしても、大きさによって「匹」だったり「頭」だったり、ウサギに至っては「羽」だったり…。(まあ、ウサギは匹でもいいのだと思いますが。)

更には、今日その子が苦戦した鉛筆などの数え方である「本」でも、前に来る数によって「ほん」「ぼん」「ぽん」と3通りの言い方をしなくてはなりません。

そう考えると、覚えなければならないことは膨大なのだと思いますが、子ども達は最初、耳に入ってくる言葉を頼りに覚えていくという場合が多いだろうと思います。
とすれば、普段から周囲の大人が意識的にそういう言葉を使っていくということも大事になってくるのかもしれませんね。

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2015年3月26日 (木)

変わらないってすごいこと。

今日は教室の1期生で、この春から大学生になる子が合格の報告に(といっても、なぜか高校入学後少しの間だけ一緒に勉強させてもらったりもしましたが、通ってくれていたのが小6までなのに。)わざわざ来てくれました。

レッスン前の時間に来てもらったのですが、先日私の母校でもある高校に合格が決まった子が3月の残りのレッスンのために時間より少し早く到着し、学年は3学年離れているものの、その2人は子どもの頃からの知り合い。
おまけに、合格報告に来てくれた子も私の母校の卒業生。

そこで、ふと入学時に出される宿題のことであることを思い出し、尋ねてみました。
いつからなのかわかりませんが、「自由と規律」という新書を入学前に読んで感想文を書くという宿題が出されていて、私たちの頃にもその後もずっと続いているようでしたので、もしや今も?と思って尋ねてみたのです。
すると、今春大学生になる子も、今春高校に入学する子も「ああ、ありました。」「あります。」と。

気になって、子ども達が帰った後、検索してみたところ、私が生まれるよりもっと前に出版された本のようです。
高校時代は、ちょっと読んだもののちっとも面白いと思えず、ところどころ読んで適当な感想でお茶を濁してしまったような記憶があり、内容もパブリックスクールの話だったよなぁ、たしか…ぐらいにしか覚えていません。

そんな話をしたところ、大学生になる子は面白くなかったということに共感しつつ、友達とかは検索して適当に内容をコピーして提出したりしていると言っていました。
高校生になる子はまだ読んでいる途中のようで、最終的にどんな感想を持つのかはわかりませんが、大学生になる子の話を聞いて、そうか、長い間同じ課題を出し続けるということは、今の時代なら検索してそれっぽい感想を写して提出することもできるんだなぁ、時代だなぁと、ある意味感心しつつ、それでも、何十年も変わらずそれを課題として出し続けるのは、母校として入学してくる生徒たちに何か感じ取ってもらいたいものがあの本には書かれていたんだろうなと。

検索したときに某ネット書店のレビューを見ていると、もしかすると母校の先輩なのかもと思う方が読む気にならずしばらく放っておいたけど、読んでみたら面白かったというようなことを書いておられたりもして、そもそも、タイトルの「自由と規律」というそれ自体、母校が伝えたいことそのものだったのかもしれないなと、そんなことを思いました。

個人的にはあの本が自分が読んだ初めての岩波新書で、それ以来、岩波新書は難しくて私にはちょっと…という印象を刷り込んでしまったような記憶もあるのですが、近いうちに読んでみようかなと思ったりしています。

今の時代、色々なことがどんどん変わっていく中で、その宿題もそうですし、母校の制服のデザインは仕様などの部分でマイナーチェンジ(?)はあったものの、実は、母校の前身である県一高女の頃から変わっていないのです。
自分が高校生の時、バスの中で年配の女性の方たちが制服姿の私たちを見て、「その制服懐かしいわ」と話しかけてくださったとき、その女性たちが高校生の頃からこの制服だったのか!と驚きつつ、当時はとってもハイカラだったんだろうなと思ったりもしたのを思い出します。

うまく言えませんが、今の時代だからこそ、「変わらないよさ」というものもあるのかもしれないなと、なんだかそんなことを感じた時間でした。

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2015年3月25日 (水)

なんでだろうな。

子ども達の中に時々、真面目な性格っぽいのに、そして、レッスンにも真剣に取り組んでいるように感じられるのに、問題をきちんと読まない子がいます。

算数はかなり得意なのに国語の問題になると適当にしか読まない子というのは少なからずいますが(恐らく、算数についてはじっくり問題を読み込む必要があるものはまだごく限られているので、問題を見たら感覚的に何を問われているのかわかるのではないかと。その調子で国語もこんな感じのことを聞かれているのかなぁというようなスタンスで取り組んでしまっているような印象を受ける子に、過去何人も出会いました。)、そういう感じではなく、真面目なのに算数でも国語でも問題をきちんと読んでいない印象を受ける子について、なんでなんだろう?と思い続けています。

いい加減な性格の子、真面目に取り組まない子が問題をいい加減に読んでいても、それはあまり不思議ではありません。
算数がかなり得意な子のパターンについては、過去何人もそういう子たちに出会っているので、なんとなく理解はできますし、対処もある程度できるようになりました。

ですが、真面目なのに問題をきちんと読んでおらず、再度集中して読むよう促すとようやく問題の意味を理解するという様子の子については、どうしたらいいのかまだ今一つ対処の方法がわからずにいます。

目の前にいれば、その子なら本来わかるはずだと思うものについては再度読み直すよう促しますし、その結果大半は理解して問題を解くことができるのですが、それだといつまでも私が目の前にいなければなりません。
実際、そういう状態が長く続いている子がいて、もどかしい思いでいます。

もちろん、私も問題をうっかり勘違いしてミスをすることはありましたし、家で宿題をするときには教室のレッスンほど集中しづらいというようなことがあるのかもということもわかります。
ただ、私は根が無精者でめんどくさがりですので、いい加減に問題を読んで間違い、再度解き直す手間を考えると、最初にきちんと読むほうがいいように思うのですが、問題を読み違えて読み直しさせられるということを何度も繰り返してもなかなか直らない子はめんどくさがりではないということなのかもしれませんね。

低学年ぐらいまでであれば、問題を声に出して読ませるなどもできるのですが、高学年になってくるとそれもどうかと思いますし、何かいい対処法はないものかと考えつつも、まだ答えが見つからずにいます。

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2015年3月24日 (火)

答えのない問題

先日、高校数学の範囲である順列・組み合わせに関する問題を考えていた時のこと。
その問題自体は中学受験などでも出てくることがあるようなものなので、解法が特に難しいわけではなく、きちんと考えられれば恐らく小学生でも解けるようなものなのですが、解答解説を読んだところ、自分が思った考え方と違っており、また、考え方が違っていても答えに納得がいけばそれでよいのですが、答え自体が違っている気がしました。

そのあたりは高校時代にも苦手できちんと理解したことがなかったので、どうも違う気はすると思うものの、自信が持てません。
「DもEも通らずに行く」という表現はD・E両方通る場合のほか、DかEどちらか一方を通ってもダメなはずなのに、答えではD・E両方通る場合のみを全体から除いていて、この日本語はそう読むべきなんだろうか?と、無理矢理解答解説に合わせようかとも思ってしまいました。

それでも、その問題を子どもと一緒にしなければならないので、いい加減なことをするわけにもいかず、高校数学がご専門のお知り合いの先生にお尋ねしてみました。

その結果、私の考え方で正しいと言って頂けてひと安心したものの、もし教えを乞うことのできる方がいなかった場合、こういう問いの場合は私の理解とは違う読み方をしなければならないのだなと無理矢理納得してしまったかもしれません。

以前にも思ったことがあるのですが、問題は解くより作る方が遥かに難しいように思います。
というのは、問題を解く側は答えを確かめることができますが、作る側は答え自体を自ら出さねばならず、それが正しいかどうか確かめるのも基本的には自分自身ということになるからです。

もちろん、きちんとした出版物などであれば、問題を実際に作った方だけでなく、校正の方などがおられてチェックが入るのだと思いますが、それでもやはりこれまでにも解答が間違っている問題集などには少なからず出合いましたので、問題を作って正しい答えを確実に出すということは、ただ解くより遥かに難しいのだろうなと。
そもそも、自分が作った問題を自分が解いた場合、合っていると思っている分、更にミスや勘違いに気づきにくくなってしまうのだろうとも思います。

そもそも、普段の生活や、大人になって社会に出てからなど、答えが用意されていない問題の方が遥かに多いわけですから、そういうものにどう向き合っていけばよいかを学ぶ機会が子どもの頃の学校生活にあると考えるのであれば、子ども達には答えがある問題ばかりを与えていてはいけないのかもしれないなと。

算数の問題を解くにしても、例えば答えを与えられない状態で難しい問題をみんなで考え、出てきた答えをすり合わせ、どの答えが正しそうかを詰めていくような、そんな学びも大事なのかもしれませんし、自分で作った問題を別の人に解いてもらうというようなことをお互いにするような経験も意味があるかもしれません。
そんな経験を通して、答えがある問題をたくさんこなしても身につくことがない大事な力を育んでいけるのかもしれないなと、ふとそんなことを考えました。

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2015年3月23日 (月)

オフでした。

土曜のブログ、更新していたのですが、ボタンを押し間違えて公開設定になっていませんでした…。

日曜は例によってスポーツ観戦三昧、パズルゲーム三昧な感じのぐだぐだな1日になってしまいました。
明日からまた寒さが戻ってくるとか…。ちょっと憂鬱です。
でも、これが三寒四温ってやつなんでしょうかね。

皆さまにご協力頂き、新年度のアンケートの回答が出揃いました。
これから調整させて頂きますので、どうぞよろしくお願いいたします。

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2015年3月21日 (土)

久しぶりに思い出しました。

先日、順列・組み合わせのあたりの予習をしていて、久しぶりに自分が中学、高校生だった頃の感覚を思い出しました。
そして、そのお蔭で、算数があまり好きではない子たちの思考をちょっと実感できた気がしました。

私は自分が生徒、学生だった頃には、教わったことを覚えて使うというのが勉強だと思っていたようなところがあり(まあ、学校でしか勉強をしておらず、学校では先生が生徒に教え、生徒はそれを覚えるというのが一般的ですので…。)、それに対して疑問も持たなかったように思います。

その結果、中学ぐらいまでは公式を覚えて当てはめていてもなんとかなったわけですが、高校の数学となってくると、公式なども相当増えますし、どの場合にどれを使えばよいかの判断力が必要にもなり、更に、単純に公式に当てはめれば解けるレベルの問題は限られていて、そのレベルの問題では目指す大学には行けないというようなことも起きてきました。

物事をあれこれ考えることは嫌いではありませんでしたし、国語の読解などはさほど苦労したこともありませんでしたので、考える力がなかったわけではないと思いますが、少なくとも算数・数学については公式などを覚えて当てはめるのが勉強と思っていたようなところがあります。

ですので、高校生になると、その量が多くなり、授業のスピードも速くなるにつれ、ますます考える余裕もなく、こなすだけになっていきました。
そこに来て、順列・組み合わせのあたりは、色々なパターンがあり、順番が関係する場合、しない場合、円になっている場合、同じものが含まれている場合など、様々な場合にどれをどう使えばいいのか、これに関しては公式を覚えただけではどうにもならないところがありました。
その結果、苦手意識を持ったまま、きちんとマスターすることもなく通り過ぎたのです。

そして、最近またそのあたりを勉強する必要があって問題を解いていたとき、もちろん最近はきちんと意味を考え、自分なりに理解して進むようにしているので、意味も分からず公式に入れて答えだけ出すということはしませんが、何問も解かねばならず、「C」だの「P」だの「!」だの、色々な公式が登場し、物覚えの悪くなった頭では、どれがどれだっけ?とすぐわからなくなる始末。
そのとき、無意識に書かれている例題を見て、そこに書かれているのを真似て答えを出してしまいました。

その瞬間、「あ!」と思ったわけです。
ああ、そういうことか!と。

私は算数・数学は好きな方ですし、普段は小中学校レベルの問題しか解くことがありませんから、きちんと考えて理解することはよほどの難問でなければ可能です。更には、それらがきちんと理解できなければ、子ども達に対応することもできませんので、いい加減なことはできません。
ですが、高校数学になると、それをレッスンする機会は滅多になく、必要なときだけ学び直すという状態のため、しっかりマスターするところまでは至りません。また、それをしっかり覚えておく必要性もあまりないわけです。

そんなこともあり、もともとの苦手意識もあり、無意識にやり方を読んで真似るという手に出てしまったわけです。
そのときの自分の気持ちは「考えるのめんどくさい…」だったのです。

今とりあえずクリアすれば、今後は必要ないかもしれないし、とりあえず解けたらいいや…そんな心境をはっきりと思い出したのです。
子ども達の中でも、算数が好きな子たちは好きだから、楽しいからと、進んで考えようとするでしょう。
ですが、嫌いな子、苦手な子たちは、考えること自体が苦痛だったりするわけです。面白いと感じられなければ、面倒だなぁ、とりあえず答えが出たらいいか…と思ってしまうのは全く何も不思議なことではないのですね。

ただ、そこで、私の場合はもうこの先もっと進んだ高等数学が必要になることはないだろうと思いますので、その場だけやり過ごしたとしてもさほど困ることはないだろうと思います。
ですが、例えば、ある子が面倒だからと三角形の面積の公式を意味も考えずにとりあえず当てはめて答えを出したとしましょう。
その場ではマルをもらえますから、それで済むかもしれません。ですが、意味を考えずとりあえず当てはめただけであれば、次に問題に出合った時に、2で割るのを忘れるかもしれません。そして、また見直しをし、覚えられるまでそれを何度も繰り返すわけです。

例えば、デシリットルであるとか、アール・ヘクタールであるとか、滅多に出てこないものであればその場だけやり過ごすのもありでしょう。
ですが、その後もずっと使う必要がある単位や公式などは、早い段階でしっかり意味を考えて身につけてしまうことで、その後、もしかすると膨大な量の時間短縮ができるかもしれません。
だからこそ、最初は面倒だと感じてもその時に時間をかける意味があるのではないかと思うのです。

これまた何を今更という話なのですが、私自身が長らく忘れていた感覚をはっきりと思い出したことで、苦手な子の思考や気持ちがこうなのではないかと、強く共感できたのです。

楽しいと感じてもらえることの大事さであったり、考えるのを面倒がる子に対する対応の仕方であったりを改めて考えるきっかけになりました。

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2015年3月20日 (金)

図形感覚を磨く

子ども達というか、人はみんなそれぞれ違っていて、同じことを同じようにやっても同じ結果は出ないことはよくわかっているのですが、今日レッスンをしていて改めて、空間認知の能力に関して、多分持って生まれた能力というのがあるんだろうなと感じました。

何を今更という話かもしれませんが、小さい子たちを見ていても、誰かに何かを教えられたからできるとかそういうのは関係なく、図形の感覚などが優れている子というのは存在していて、その一方で、具体物を使って考えたとしても、なかなかうまくいかない子というのも存在するわけです。

例えば、パッと見ただけで直角かどうかであるとか、どちらが長いかであるとかを瞬時に判断できる子たちというのは、やはり何か持って生まれた能力があるのだと思います。
そういう子たちは立体の展開図だろうと切断面だろうと、あまり苦労することなく頭の中でイメージでき、それを操作したりもできるのではないかと思います。

一方で、どう見ても直角には見えないようなものでも、三角定規などをあててみないと、直角かどうか判断がつかないような子は、少なくとも図形の類は全般に苦手な場合が多いように感じます。

私自身、空間図形は苦手ですので、苦手な子の気持ちはある程度わかりますし、得意な子の頭の中を一度でいいから見てみたい、自分で経験してみたいと思ったところで、それは叶わないことですから、空間図形に関しては努力でカバーできるところまではカバーして、どうにかクリアしているわけです。

で、子ども達を見ていると、そういう能力が高いかどうかはかなり早い段階である程度判断できるような気がしています。
そこで思うのは、得意な子、能力が備わっていそうな子はそれでいいのですが、そうではない場合、小さいうちから積極的に積み木や折り紙、切り紙、ブロックなど、図形感覚を磨けるような遊びを取り入れたりすることで、ある程度までその力を伸ばせるのではないかということです。

私などはほぼ大人になってからの努力でしたが、それでもある程度は改善されましたから、小さいうちから働きかけることでもっと効果が出るのではないかと思うのです。

もちろん、人によって得意不得意は異なりますし、空間認知の能力が高くない分、何か他の能力が高いというようなこともあるかもしれませんから、何が何でもその能力を高めたほうがいいというわけではないと思いますが、例えば、あるものがその箱に入るかどうか、ある量の荷物がこの紙袋に入るかどうかなど、そういう判断ができるかどうかなどにも関わってくる能力なのではないかと思いますし、そういう能力があまりに欠けている場合、日常生活でも何かと不自由がありそうにも思えます。

であれば、この子はそういうのが少し苦手そうだなと感じた時点で、遊びを通して図形感覚を磨くというのは、意味があるのではないかと思います。

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2015年3月19日 (木)

嬉しい知らせ

今日は神戸の公立高校の合格発表の日でしたね。
うちの教室はご存知の通り、小学生がメインで、教科も算数・数学と国語のみということもあって、中学生になっても通い続けてくれる子は限られています。
特に高校受験がある子達だと、他教科のこともありますし、週1回だけでは不安もありますので、私の方からも一般的(?)な塾をお勧めすることもあります。
ですので、高校受験をする子に関わっていない年もありますし、関わらせてもらっている年でもごくごく限られた人数です。

そんなごく限られた子のひとりが、めでたく志望校に合格したとのお知らせをおうちの方が早々にくださいました。
その子はお姉ちゃんが教室の1期生。お姉ちゃんも小1から中3まで週1回だけ通ってきてくれて、塾には行かず、公立の難関学科に合格したのですが、妹さんは年長後半からこれまで週1回、やはり勉強に関してはうちにだけ通って、ハードな運動部にも入り、学級委員などもしながら、私の母校でもある高校の後輩になることになりました。

1期生の子達は今年大学受験だったのですが、お知らせを頂いて近況がわかった3人はみんなそれぞれにきちんと自分のやりたいことや目標が定まっていて、そのためにどこを目指すかという進路選びをしたようです。
それは私にとってとてもとても嬉しいことです。

というのも、大学時代、私は教員になりたいと思って大学の教育学部に進学したのですが、同じ学部の中には少なからず、教員になる気はないものの、うちの大学の中では教育学部は偏差値が低い方だからという理由で受験した人がおり、それを聞いて驚きもし、またなんだか悲しい気持ちになったのです。

更に、後輩やその後こういう仕事をするようになって関わった子達のその後の話などを聞いていると、中には学部もバラバラ、手当たり次第的に受けているような子もいて、そんな風に受験して、どこかに合格しても、その子は何のために大学に入るんだろう?興味もない勉強を更に4年もするの?と不思議でなりませんでした。

もちろん、そういう子達の中にはその先の就職に少しでも有利になるようになどということを考えていた子達がいるようですから、何も考えていないわけではないのですし、むしろ、私よりずっと将来のことをしっかり考えていたということなのかもしれません。
それでもなんとなく、う~ん、なんか違う気がするんだよなぁ…とずっと感じていました。

ですから、自分が一緒に学ばせてもらった子達が、それぞれに自分の進みたい道をしっかり考え、それに沿って進路を選び、そこに向かって努力する話を聞くと、やはりとても嬉しく感じるのです。
なんというか、こういうのも、小さい頃からしっかり考えるということを積み重ねてきた結果の表れなのかもしれないなと。

これで一応今年度の私が関わった受験生の子達の受験は終了です。

その子がここを見るわけではありませんが、志望校合格、本当におめでとう。

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2015年3月18日 (水)

ちょっとした悩み

教室の子ども達は、その日のコンディションなどにもよりますが、ほとんどみんなその子なりに一所懸命レッスンに取り組んでくれます。
集中して取り組んでくれる子の中には私が怖いからという理由の子もいるのではないかと思いますが、少なくとも、見ていてくれる、行き詰まっていると何か手を差し伸べてくれる、そういう状況であり、また自分の私物などがない分、気が散るものも少ないなどの理由もあるのだろうと思います。

算数で苦戦している子がだんだんと集中できるようになり、考えられることが増えてきて、そんな姿を嬉しく眺めていることもレッスンの中ではありますが、特にそういう子たちのおうちでの取り組みについてがちょっとした悩みです。

うちのレッスンは週1回しかないので、1週間の間にその週のレッスンで学習した内容に関連した宿題が出ます。
もちろん、中にはそれをやらなくてもしっかり身についているような子もいなくはありませんが、多くの子は1週間やらなければ新しく学習したことなどは大半が頭から消えてしまいます。
でも、おうちだと誘惑がいっぱいあり、また、見ていてくれる私のような「他人」はおらず、おうちの方などが見ていてくださる場合でも、おうちの方だと甘えが出たり、反抗してしまったりと、やはり色々難しい面もあるのかもしれません。

そうなると、宿題への取り組みがいい加減になり(もしくは、その子なりに取り組んだものの忘れてしまって思い出せなくなっている場合もあるかもしれませんが)、次に来たときにはまた前回やったことをおさらいし直さねばならなかったり、大量の宿題の直しをしなければならなくなったりということが起きてしまうのです。

どうすれば、算数が苦手な子などでも、おうちでの取り組みをもっとしっかりしてもらうことができるか、何かいい考えがないかなと思う今日この頃です。

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2015年3月17日 (火)

ほぼ非生産的1日でした・・・。

今日は結局、かろうじて少し読書と家のことをした以外は限りなく非生産的1日になってしまいました…。
明日からまた1週間、どうぞよろしくお願いいたします。

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2015年3月16日 (月)

今日は更新お休みします。

日曜日。
例によって土曜の夜からスポーツ観戦三昧で、気づいたら寝落ちており、起きて録画で続きを見て…と、いつものかなり非生産的休日でした。

3月も明日で折り返しですね。
早くあったかくなってほしいものです。

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2015年3月15日 (日)

残念なこと

就学前から通ってくれていたのですが、ほかの習い事などの兼ね合いで高学年になってからはこちらの時間が合うときだけ不定期で続けている高学年の子がいます。
その子は毎週来てくれていた頃にはしばしば、ほぉ~、すごいなと感心させられることがあったり、こちらが何も言わなくても問題はじっくり考えるのが当たり前という感じになっていました。

しかし、高学年になって学校の授業のペースもこれまでより早くなったぐらいから月に1.5回ぐらいの頻度でしかレッスンをさせてもらえなくなり、そのせいなのかどうなのかはわかりませんが、以前なら考えられなかったような間違いをしたり、じっくり考える前に解いて間違うか、まだじっくり考えていないのに分からないと諦めるか、そういうことが増えてしまいました。

今回のレッスンでも18分の5時間が何分何秒かを求める問題で、分に直そうとして出てきた分数がどういう意味なのかぴんときていない様子だったので、「何秒まで答えるってことは、絶対秒の単位まで行くんやから、秒に直してみたら?」とだけ言ってみました。

すると、少し考えて1時間が3600秒だということはわかったようなのですが、見ていると、18分の5に3600分の1を掛けようとしているのです。(3600で割ろうとしているということです。)

教室の子達には、言わなくてもできている子は別として、それをきちんと意識してくれるまで口酸っぱく式の意味、式の順番の大事さを言い続けているので、何秒かを求めるのであれば当然3600から始まる式にならなくてはいけません。

3600と18分の5を足したり引いたりしても解けそうにないことはわかるはずですから、あとは掛けるか割るしかない。仮にどちらか迷ったとしても、答えは1時間より短くなるのですから、その意識さえあれば間違えて計算してしまっても気付くことができるはずです。

しかし、その子は何の疑問も感じずにそのまま計算しようとしているので、「なんで18分の5時間が1秒より遥かに短くなるの?」と言ったのですが、まだぴんときていない様子です。
その様子を見ていると、その子にはまだじっくり考えることが当たり前というところまでは身についていなかったのか、学校などで公式を教えられ、それに当てはめて解くことや、スピードを求められることに影響されてしまったのか、はっきりとした理由はわからないものの、なんだか少し悲しい気持ちになりました。

もちろん、それでも学校の算数には困ってはいないようですし、恐らく平均以上にできているのだと思いますから、心配しなくてもいいのかもしれませんが、その子が持っている本来の力が押し込められてしまっているように感じて、やはり残念に感じてしまいます。

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2015年3月14日 (土)

もう一息か?

先日から分数の学習をしている子がいるのですが、教室では具体物を使って分数を体感するところからスタートするので、例えば大きさ比べをするときなども、まだ通分を知らないようなときにすることになります。
子ども達の中には図を描いたり、それをしなくても感覚的に気づく子がいる一方で、なかなかそれが理解できない子もいます。

もちろん、通分や約分については、どちらも同じ数で割るとか、同じ数になるようにかけるとか、言葉で説明して「処理」できるようにさせることはある程度可能だと思うのですが、それは急いでする必要はないと思っており、むしろ、そのテクニック的なことは最後の最後、どうしてもわからない子や、わかっているようではあるけれど、答えを出すのにとても時間がかかるような場合など、必要に応じて教えるというぐらいに考えています。

で、その、分数の学習をしている子は、普段算数はある程度以上できる子なのですが、前々回も前回もあれこれ切り口を変えて、これならどうだろう?これが無理ならこれならわかるかな?と考えられるものを提示して行っているのですが、どうもまだピンとこない様子で、表情が不安げなまま。

分数は抽象概念でもあるだけに、その辺りで混乱しているのかもしれないのですが、なかなか手ごわい。
ですが、そういう子がスッキリした顔を見せてくれることが私の喜びでもあるので、根気強く次回も、その子がスッキリするまであれこれ考え続けてみようと思います。

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2015年3月13日 (金)

今日の気づき。

そこそこ長くこんな仕事していますが、空間図形は未だ苦手分野。
わからないところは実際にモノを使って切り取ったり、広げたり、色々な方法で理解するよう努めてきたので、自分が小中学生だった頃に比べると、これでも随分わかるようになったこともあるのですが、頭の中でパッとイメージできる子の感覚には全く近づくことができません…。
こればかりは努力だけではどうにもならないところも結構多いのがツライところです…。

そんな私が今日またひとつ賢くなったことが。
数学がかなり得意な中学生くんが正四面体の一部を切り取った名前のない立体の体積を求める問題を考えていたのですが、止まっているようだったので「2つに切り分けて考えられへん?」とだけ声をかけてみたところ、予想とは違う切り分け方をしました。

それは、三角錐とピサの斜塔のイメージで斜めに傾いた状態の三角柱の2つで、確かにその方が解答解説に出ているような切り分け方より考えやすいものの、斜めになってる柱も数学で「三角柱」って呼んでいいんだっけ?とのかなり初歩的な疑問にぶつかりました。

私はこれまでそんな柱には教科書でも問題集でも出合ったことなかったもので、数学的にそれを三角柱と呼んでいいのかわからなかったものの、ここは体積が出せればよいので、その斜めになった柱の底面積と高ささえはっきりすれば解けるんだなと。

ただ、ふと、斜めになったものの高さはどうなるのかわからなくなりました。
変わらないような気もするものの、身長計に斜めに立ったら実際の高さより低くなるよね?と。実際の高さより低くなってしまうのであれば、通常の三角柱の体積の求め方では求められないことになってしまいますし、その子も自信を持ってそれで解けると思っているわけではなく、更には解答解説にはその発想は全く出てこないとなると、何かで確めることができなければ、せっかくその子が思いついた、解答解説より考えやすそうな方法を使ってはダメと言うしかなくなります。

間違っているならともかく、合っている気がするだけに、これはどうにか確めねば…と。
そこで、普段教室で立方体の展開図の学習用に数枚重ねて置いてある、マグネットのプレートを斜めにずらしてみました。

「あ!高さは変わらないのか!」

そのときのスッキリしたことったらありません。(といいつつも、人間の背の高さが変わるのになんでかその辺はまだスッキリしてないのですが…。)

ということで、解けるはずなのに、その子はなかなか正しい答えに辿り着きません。
理屈じゃできるはずなので、その方法で自分でも解いてみたところ、解き方は違ってもきちんと正解になりました。

教えないことによって、前もって準備しているのではない反応がかえってきたらこんな風に戸惑うこともありますが、そのお蔭で新たに気づくことも、自分自身が学ぶこともできるので、こういう瞬間は本当に貴重だなぁと思います。

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2015年3月12日 (木)

苦手になってしまった子たち。

うちに教室は、まだ算数はほぼ真っ白の状態のときから来てくれる子たちが多いものの、既に学校などで算数が苦手になってしまってから来てくれる子ももちろんいます。

真っ白の状態で来てくれる子たちも、もちろん一人ひとり能力差、好き嫌いの差などがありますから、同じように頑張ったら同じような成果が出るというものではありませんが、苦手になってしまってから来てくれる子たちを見ていると、もっと早く出会いたかったと思ってしまいます。

学校などで「覚えなさい」と言われて覚えて、繰り返し使ってきたことは、ある程度身についてしまっていますから、それを変えるのはなかなか難しいということもありますし、早い段階からきちんと意味を考えてやっていれば、こうはならずに済んだのではと思ってしまうということもあります。

単位換算などで、なんとなくこんな感じかなぁと答えを書いて、間違っていたらまた書き直して、とりあえずマルになったからその場はそれで乗り切って…みたいなことを繰り返してきたんだろうなぁというようなことを感じると、しみじみ、ああ、もっと早く会いたかった…と感じます。

今日のレッスンでも、小数の学習で色々な単位換算をする問題があったのですが、その子にはこれまで「キロは1000っていう意味だから、キログラムは1000グラム、キロメートルは1000メートル、キロリットルは1000リットル。」というようなことを繰り返し言っているのですが、未だにそれがいい加減。
尋ねると「100メートル?」とか言って、私が反応しなければ「1000?」と尋ねてきたりします。
そして、2km80mが280mに直されたかと思えば、そのすぐ下で4095mが4.095kmに正しく直されていたりもします。

とにかくめちゃくちゃなので、1問ごとに「628mは1キロより長いか短いか、よく考えて1回だけ答えて。」といった感じでチャンスが1回だけということを念押しし、まず考えさせるようにしたところ、ほぼ正しく答えられました。
その子は以前に比べると随分考えられるようになり、進んで絵なども描くようになったのですが、学校で授業を受けてくると、どうもまた元に戻ってしまうところがあるような印象なのです。

学校では周りの友達が速くやるから自分も速くしなくては!と焦ってしまうのが習慣になっているのかもしれません。そのせいでなのか、焦らず考えてほしいときまでなかなかそれができないようです。

少しずつでも変わってはきているので、諦めずに働きかけ続けようと思いますが、この子ももう少し早くここに来てくれていたら、もっと早く変わっていったかもしれないと思うと、少し気の毒に思えます。

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2015年3月11日 (水)

まず問題を眺める。

子ども達の中には見ていてこちらが驚くぐらい、「え?なんでそれにパッと気づくの?」というようなセンスのある子もいますが、最初からそういう子はそう多くはないので、普通は問題をじっくり考え、イメージしたり、試行錯誤したりしながら、実感する、気づくということを積み重ねる中で、だんだんとそういうセンスが育まれていきます。

そういう意味でも、子どもに問題に取り組んでもらう際、ただぽんと子どもに渡して考えさせ、答えが出たらそれでよしとするのではなく、子どもの考え方を見ておくことも大事になってくるだろうと思います。

で、今日のレッスンで感じたこと。
真面目で一所懸命取り組んでくれるものの、閃きとかセンスとかいう部分ではかなり苦労している高学年の子がある問題を解いていた時のことなのですが、その子が、3gと7gのおもりを、それぞれ1つ以上使って90gにする場合の組み合わせは何通りあるかというものを考えていました。

どうやって解くのかなと思っていると、問題を読み終えるとほどなく、紙に3g、7gと書いて、3gのところに「1」と書き、引き算やら割り算やらをして7gの個数を考え、次に2と書いて、また同じように7gの個数を考えと、見ていると、とにかくひたすらに3gを1個ずつ増やし、その都度計算して答えを出そうとしています。

どこかで気づくかもしれないしと、まずは黙って見ていたのですが、工夫をしようというふうもなく、ただひたすらに最後までそれで解き切りました。

答えは合っていたものの、当然相当時間がかかりました。
そこで、「それ、3gを1個から順番に増やしていくより、もっといい方法はないの?」と声をかけたのですが、ひらめかない様子なので、「もし7gのおもりをできるだけたくさん使おうと思ったらいくつなら使えるの?」と尋ねると、計算をして「12個まで。」と答えました。

「だったら、7gが12個なら、3gは何個なん?」と尋ねると「2個です。」と。
その後もう少しやりとりをしましたが、12個から減らすのであれば、地道に全部確かめたとしても12通りで済みます。3gを1個から順に増やしていくのであれば、30通り近く計算せねばならないわけですから(実際その子はしていましたし…。)倍以上の時間がかかることになります。

算数があまり得意ではない子たちは、少しでも早くしなくてはと、問題を読んだらとにかく思いついた方法で手を付け始めることがあります。
中学生の子であっても、規則を見つけようとするより、ひたすらに書き並べて解こうとするような子もいます。

書ける程度の範囲の問題であれば、場合によってはその方が確実に正解が出せるということもありますが、試験などになると制限時間もありますので、やはりどこかで工夫をする、規則を見つけるなどの作業をする必要が出てくる場合がほとんどです。

苦手だから工夫や決まりを思いつかないという意見もあるかと思いますが、そういうことを小さい頃から意識させることで、「苦手だったけど少しできるようになってきた。」とか「苦手だったけど、算数が好きになった。」とかそんな変化も少なからず起こっています。

先の例でいえば、問題を読み終えた後、いきなり1から順に書き始めるのではなく、問題を眺めて、どう考えたら手間が少なくて済むかなとか、どんな工夫ができるかなとか、そういうことを考える時間を取るかどうかが、長い目で見ると力の差になっていくような気もするのです。

得意な子であれば、問題を見てパッと気づき、放っておいても工夫したり、決まりを見つけたりしてしまうこともありますが、そうでない子にも働きかけ、意識させることで、少しずつ変わっていく可能性は大きいのです。

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2015年3月10日 (火)

今ならわかる。

以前通ってくれていた子がまた戻ってきてくれることになりました。
もう中学生のその子は、数学や国語はかなり力があるようですが、国語でも漢字や文法、英語だと単語をあまり覚えないのだとか。
それは無精者の私には大いに共感できることでもあり、気持ちはわかるのですが、特に英語は単語の意味がわからなければ何も始まりませんし、国語の力が結構あるその子であれば、単語の意味が断片的にわかりさえすれば、それを日本語として意味が通じるようにすることなどはある程度できるのではとも思います。

となると、イヤでも面倒でも、まずは単語をある程度覚えることが必須になるわけで、そうなると、ご褒美方式かプレッシャーをかけるか、何らかの外的な要因が必要になりそうです。
そこで、小学生の頃、私のことをかなり恐れていたその子には後者の方法かしら?とおうちの方ともお話をし、まあ、それは冗談ではありますが、単語用の教材をちょっと見に行ってみました。

塾用教材などで目にするものはいわゆる単語ばかり一覧になっていて、それがメーカーによって少しずつ工夫を凝らされている感じの印象です。
そこで、まず大きな書店に行ってみたところ、2つ3つ、短い例文の中に大事な単語が含まれていて、文章ごと覚えるようなものがありました。

今であれば、1つ1つの単語を何度も繰り返し書いて覚えたりするより、こういうものの方が効果が出やすいということはよくわかります。
英語は離れて久しいので、中学生レベルのものさえ満足にできない可能性も多々ありますが、単語を1つ1つ覚えるより、文を読んで、その意味ごと覚える方が、恐らく覚えやすいのは確かだろうと思いますし、思い出す際にも思い出す手掛かりになるものが前者と比べれば圧倒的に多いように思うのです。

ということで、その子には少しの間その方法で覚えてみることを勧めようと思っています。
今、もう一度小学生とか中学生とかに戻れたら、あの頃とは全く違う勉強の仕方ができそうなんだけどなぁ。(苦笑)

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2015年3月 9日 (月)

オフでしたので。

本日は更新お休みします。
明日は通常レッスンはお休みですが、出勤して仕事をする予定です。

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2015年3月 8日 (日)

覚えることと覚えなくてもいいこと

自分が生徒、学生の頃にはあまり意識したこともありませんでしたし、算数や数学の公式は覚えて使うものだとさえ思っていたところもありますので、もしあの頃からそういう意識があったら、その後の人生(?)はかなり違ったものになっていたのかもしれないとも思いますし、そういう指導をしてくれる方にどこかで出会っていたら、大きな影響を受けたかもしれないなとも思います。

私自身、もともとかなりの無精者なので、コツコツ努力する必要のある教科はほとんど好きではありませんでした。
英語や社会、生物や地学系の理科などはとにかく覚えなくちゃ始まらないという感じがした上、覚える方法も機械的な暗記しかほぼ知らなかったので、これらの教科を楽しいと思ったことはなかったようにも思います。

そして、自分でこういう仕事を始めてからも、独立するまでは公式をいかにして覚えやすくするかなど、覚える方法に工夫を凝らすなどの努力はしましたが、公式そのものを覚えなくてもいいという指導はしたことがありませんでした。

ですが、色々なことを「まず考える」という学習を勧めるようになって以来、自分自身が色々考えるようになった結果、公式と呼ばれているものの中に覚える必要のないものが大量にあることに気付きました。
そして、教室の子どもたちにも「これ覚えてね」というようなことをいう機会がどんどん減っていきました。

もちろん、覚えることが苦にならない子や、努力しているにも関わらず、算数の成果がなかなかあがらない子などはまずは覚えて当てはめるということもひとつの方法だとは思います。
でも、やはりそれを最初に勧めることはしたくないなと、今は思っています。

でも、もちろん、最低限覚えねばならないことはありますし(例えば、図形の名称や算数・数学特有の用語、単位などは覚えなければどうにもなりませんし)、そういうことは「これは覚えるしかないから」と言いますし、習ってもその後滅多にお目にかかることのない単位(デシリットルやアール・ヘクタールなど)は忘れてしまってもあまり困らないと思うというようなことも話します。

そんな中、数少ない、絶対覚えてねということのひとつに「1立方センチメートル=1ミリリットル」というものがあります。
体積と嵩の換算は時々問題として出てくるものの、体積の単位も嵩の単位もそれぞれいくつもあるので、それぞれの換算を覚えようとすると、かなり煩雑な上、頻繁に出てくる単位でもないので忘れてしまいがちです。

1立方センチメートルは1センチ角のサイコロ大ですから、それが何ミリリットルかを考えるとなると、500ミリリットルのペットボトルをイメージすれば、多少量感のある子であれば、さすがにあの量が1センチ角のサイコロ5個や50個とは思わないのではないかと思いますし、1対1の対応で覚えやすいから覚えてと言っているので、忘れてしまってもなんとか考えて思い出せるのではないかと。

もちろん、それ以外に「1リットル=10デシリットル=1000ミリリットル」の関係と、1立方センチメートルは1センチ角、1立方メートルは1メートル角のサイコロ大ということは理解していないといけませんが、それらがわかっていれば、例えば「1立方メートルは何リットルか」という問題があったとしても、1立方メートルは「100×100×100」で「100万立方センチメートル」、それはつまり「100万ミリリットル」。「1000ミリリットル=1リットル」だから「1000L」のように、多少まどろっこしくても、答えを出すことはできます。

公式などを提示する際に、覚える必要があるのかは、忘れたら考えて導く方法があるのかを意識しておくことが大事なのではないかなと思っています。

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2015年3月 7日 (土)

驚きの連続

じっくり集中することが苦手なものの、算数のセンスはかなり感じられる子とのレッスンでのことでした。
今回のレッスンは比較的すんなりとレッスンに入ってくれたので、これはいい感じでいけるかもと思ったのですが、予想以上に頭がしっかり働いていたようで、普段も集中できているときはすごいなと思うことが少なくないその子は、今回は何度も感心させてくれたり、驚かせてくれたりしました。

今回は円が関係する問題をやっていたのですが、算数が得意な子でも結構考え込むことが多いような問題でも感覚的に何かわかっているようで、パッと答えに気づいたり、辺の長さや直角かどうかなど、パッと見だけでは多少迷うようなものでも全く迷うことなく自信を持って、同じか違うかが判断できていたり。

すごいなぁと思っていたところに、更にびっくりが。
定規とコンパスを使って正三角形を描く問題が出てきたのですが、いきなりコンパスを使おうとするので、「いきなりコンパスだと描けないんじゃない?コンパスどこに合わせるの?」と声をかけたところ、「え~、描けないかなぁ。ぼくが考えたのは…」とか言いながら手を動かすので、そうなった場合に途中で遮るとかえって後のレッスンに響く可能性が高いのと、やってみて無理だったら話を聞いてくれるだろうというのとで、とりあえずどうするつもりなのか見ていました。

すると、まずぐるっと1周円を描いたので、それでどうするんだ?と黙ってみていると、今度は円周上に1点、それは適当に印をつけ、そこから円を描いた半径で円周上にもう1点印をつけ、くる、くるっと弧を2つ描いたかと思えば、本当に正三角形を描いてしまいました。
もちろん、そういう描き方はできるのですが、教えたわけではなく、本人が考えてやってしまったのでびっくり!

かと思えば、二等辺三角形を描く時には、底辺を引いた後コンパス2回の描き方はした後で、「ぼくが考えたのは…」といって、底辺の長さを計り、その中点に印をし、そこに垂線を引いて…と、中学校で垂直二等分線を習ったら使うような方法で描こうとするではありませんか!!

垂直二等分線を描く時に定規1本だけで描いてしまったので、その描き方のことだけは後から言い添えたものの、本当にびっくりして、感心して、すごいね!!を連発してしまいました。

この子のこれからもなかなか楽しみです。

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2015年3月 6日 (金)

色んな差

子ども達とレッスンをしていると、それぞれみんな得意なこと苦手なこと、好きなこと嫌いなことが違っているのはよく感じます。
私が同じものを使って同じようにレッスンをしても、反応は本当にそれぞれですし、それは個性なので当然といえばy当然なのだろうと思います。
ただ、それぞれの子を見ても、これまた色んな差があるのを感じることが少なくありません。

私が中学生ぐらいの頃は、国語は好きだけど英語は嫌い。数学なら計算はある程度できるけど、図形、特に空間図形は超苦手。社会は地理と歴史は苦手だけど公民だけは得意。そんな生徒だった記憶があります。

教室に来てくれている子たちの中で普段、算数が結構得意に思える子達の中にも、単元によって反応がかなり違うことがあります。
それは問題が難しいから反応が鈍いとかいうのとは違い、むしろ私にとってはそのほうが難しいと思うけど…と思うようなものを見た途端にパッと理解してしまったり、え?あなたの力からするとそんなの簡単なのでは?と思うようなものでうんうん唸っていたり、そういう姿を見ると、しみじみ奥が深いなぁと感じます。

今日のレッスンでも、前回まではこの子の力からしたらなんでこんな問題でそんなに悩んでいるんだろう?と思うようなことが何度か続いていて、今日のレッスンの前半もまだそんな感じを引きずっていたというのに、多くの子が結構苦労する問題に進んだ途端、え?そんな軽々解くの?というぐらいスイスイ問題をクリアしていくのです。
すごいなぁ、これは簡単なのか~と思ってみていると、同じような問題なのに、なぜかある問題でまた考え込んでしまって、私から見ると、さっきまで順調すぎるぐらい順調に解いていたものと今悩んでいるものにどう違いがあるのかわからず、やっぱり面白いし不思議だなぁと。

ただ、何人もの子が詰まってしまうことがある問題については、その場ですぐ対処できるようにしたいと思っていますし、そもそもは詰まることのないステップで教材を提示できるのが一番いいだろうとも思っていますので、地道に進めている教材作りをもっと加速させなくてはなと思います。

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2015年3月 5日 (木)

不安を取り除く

子ども達とレッスンをしていると、自信のない問題などに臨むとき、不安そうな顔をする子がいます。
そして、そういう表情になってしまった場合、本来のその子の力ならできるだろうと思うことでも、考えられなくなってしまうこともあります。

私自身、いつでもそれができるわけではないので、まだまだ努力しなくてはならないのですが、そういうとき、色々な方法でその不安を解消することに努めます。

今日は前回時間の学習でとても不安そうにしていた子とのレッスンがあったので、問題に対して既に何か身構えてしまっているその子をどうすればもう少し楽に問題に向き合ってもらえるか考えました。

時間計算は苦手な子が少なくないところで、大人であっても面倒なのは間違いないと思います。
特に、日、時、分、秒が混ざると、頭がごちゃごちゃになってきて、そのうちできることまでできなくなってしまう場合もあったりします。

前回どうしてそこまで抵抗を感じているのかわからなかったものの、とにかく苦労しているのはわかったので、今回は最初に積極的に声をかけました。

まずは時間の足し算や引き算。
前回は繰り上げたり繰り下げたりするときに、10進法と間違えたり、かと思えば、24と60とがごちゃごちゃになり、1日なのに60時間と換算しようとしたりということがあったので、まず出てきていた繰り下がりがある引き算の暗算の問題を指して「引けるときはこっち(左の式)の下に引いたのを書いて、引けないときはどれだけ引けないかこっち(右の式)の下に書いてくれる?」と声をかけました。

何を言っているかというと、例えば「11時23分-5時49分」のような式であれば、この式の下に、左には11時から5時を引いた6時を、右には23分から49分は「26分」引けないので、その26分を下のように書いてもらうということです。

   11時23分-5時49分
    6時       26分

すると、6時から26分を取ればよいだけになり、見た目がかなり簡単そうになります。
それを見たその子の顔から不安そうな顔がほぼ消えました。

足し算の問題では、「まずはとにかくそのまま足した答えを式の下に書いてみて。」と声をかけました。
これは例えば、「15時38分45秒+8時40分35秒」などの式を繰り上がりは考えずにまずは「23時78分80秒」と書いてしまうということです。

そんな風に書き終えたのを見届けてから、繰り上げる必要があるところについてひとつひとつ考えてもらうようにしたところ、少しずつ表情が明るくなってきました。

とにかく、その子の中にできている時間の問題に対する壁のようなものを、壊すまではいかずとも高さをできるだけ低くするところから始めようと思い、そういう働きかけをしてみたところ、そういう考え方を何度か繰り返し、きちんと正解ができるようになるにつれ、いちいち書いたものを改めて直さなくても、頭の中で換算できるところも少しずつ増え始め、前回とは打って変わって明るい表情でレッスンを終えてくれました。

元々その子の普段の様子からすればある程度できるはずのものだったにも関わらず、不安で自信がないという心の状態が、できるものまでできなくしてしまっていたように思います。

それとは別に、時間計算はよほど得意な子でなければ、まずそのまま足した答えを書いて、答えを2段書きにしてもOKとするなど、学校でもそういう配慮があれば、苦手意識が薄らぐ子たちもいるのではないかなとも思います。

教室を始めるときお世話になった先生は、部分部分に細かく分解することは能力を低くとどめてしまうからダメだと教えてくださいました。
その言葉の意味はわからなくはないのですが、あくまでもそれは元々ある程度算数の能力が高い子に対してのことのような気がすることもあります。

がんばっているのになかなか思うように算数ができるようにならない子たちにまで、部分に分解せずまるまる与えて、さあ考えましょうでは、不安な気持ちのままいつまで経っても苦労の割に身につかないということにもなってしまうように思うので、その子その子に合わせて、必要であれば必要なところまで分解して与えるということも大事なのではないかなと思っています。

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2015年3月 4日 (水)

どういう変化なんだろう。

今日のレッスンでなんだか嬉しいことがありました。
算数でかなり苦労していて、来てくれた当初は目にも力がなく、宿題を出してもいい加減で、真剣にやってもできないのか、単に手を抜いているのかわからないなぁという感じでした。

直接算数とは関係ないように見えるある課題がとても苦手だったので、まずはそれがある程度きちんとできるように練習を繰り返してもらいましたが、それがある程度できるようになってきたのと同時に少しずつではあるものの、きちんと考えられているようだと感じることが増えてきました。

そして、これまで宿題に出したものの間違い直しは、以前のものはかなりたくさん直しがあり、毎回少しずつ直しをしてきていたのですが、今日のレッスンで、今日の課題に取り組んでいたとき、突然その子が

「宿題の直し、全部したい。」

そう言いました。
自分から直しをしたいと言ったことはこれまでありませんでしたし、今日のレッスンの課題で苦労して、そこから逃避するためという感じも全くなく、ただ純粋に発せられた言葉だったように感じました。

さすがに全部するにはまだかなりの時間を要することもあり、そのまま希望に沿うことはできませんでしたが、それでも自分から直しをしたいと言ったことがなんだか嬉しく、その子の中で何の変化があったんだろうと気になりました。

少しずつ「わかった!」が増えてきていて、表情も随分柔らかになってきているので、この調子で是非がんばってもらいたいなと思います。

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2015年3月 3日 (火)

抽象概念の理解

子ども達とレッスンをしていて、時々、「これがわからないとなると、どう言ったらいいのかな?」と悩むことがあります。
そのひとつが分数でもあるのですが、私自身、あまり意識したことがなかったものの、例えば、「2分の1」は「0.5」と同じなどというような説明があり、それはある面では正しいと思います。
ですが、「2分の1」には「二等分・半分」という意味もありますから、4個の2分の1なら2個ですし、3メートルの2分の1なら1.5メートルまたは2分の3メートルです。

また、この「2分の3メートル」というのも、1メートルを3つに分けた2つ分と考えることもできますが、2メートルを3つに分けた1つ分と考えることもできます。

更には、通分や約分などをする場合に必要になってくる、同じ大きさの分数というものについても、もとになるものを同じとして考えるというのが暗黙の了解になっているようなところもあります。
そして、2分の1は「1÷2」を表してもいますし、違う見方をすれば「1:2」を表してもいます。

まあ、そもそも「1、2、3・・・」というもの自体が抽象概念なわけで、元が抽象概念であれば、それを集めようが分けようが変わらないというのは当たり前なのでしょうけれど、少なくともこういう仕事をするようになるまで、そんなことを意識したことがありませんでした。

抽象的であるということは、具体的に説明することが難しく、何か具体的に説明する場合はあくまでもひとつの例、ひとつの考え方として提示する必要があって、全てそれが当てはまると思ってしまうことのないようにしなくてはなりません。

と、書いていることが全体的に正に抽象的なので言いたいことが伝わりにくいかもしれませんね…。(汗)

ただ、そういう「どうすればわかってもらえるかな??」という場面に出合うたび、私も新たな学びになりますし、そのたび新鮮な気持ちにもなります。
この頃は新たに蓄積しているものよりこぼれていっているものの方が多いような気もしなくはありませんが、ひとつでも多くのこと、ひとりでも多くの子にうまく対応できるよう、もっとがんばらなくてはいけませんね。

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2015年3月 2日 (月)

雨降り。

3月初日、日曜でも仕事に出る予定だったのですが、起きたら雨。
結局家の片付けやら掃除やらをした後はぐずぐずしてしまって、何もしない休日になってしまいました。
明日は出勤して今日の分までがんばらなくては。

今年度もあとひと月になりました。
3月もどうぞよろしくお願いいたします。

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2015年3月 1日 (日)

2月も終わりました。

レッスンは概ね平穏に終わり、その後教材を作っていたのですが、2月最終日にもまた原因不明の事態に無駄に時間を費やしてしまいました…。

多分、機械に詳しい方には、そんなこと言いながら何かしたんだよと言われてしまうんだろうと思うのですが、前日に作って上書き保存し、印刷したときには問題なく印刷できていて、その続きを同じように作って続きの部分を印刷したら、前日には写っていなかった枠線が薄く印刷されていることに気付きました。

で、おかしいなぁともう一度印刷してもダメ。前日と今日の違いがわからず、ためしに前日の部分を印刷し直したら!!なんと!!!そちらまで全部おかしくなっているではありませんか!!

簡単に言えば、エクセルで作った表のようなものをワードに貼りつけたのですが、前日には写っていなかった枠線が今日は何をしても写るという…。
インターネットで検索してみたものの解決策も原因も見つけられず、結局前日とは違う方法で前日の部分から貼り直し…。
というわけで、結局時間はめちゃくちゃかかったのに、思ったようには全く捗らず…。
機械オンチの私に次々と襲いかかるトラップ…。(泣)

3月はなんとか順調に捗るといいなと思いつつ、2月最終日は土曜なのにすっかり遅くなって帰路につきました。

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