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2014年6月30日 (月)

3日坊主にならずに済んでいます。

もともと今年度はスタートした際、レッスンの空き時間が結構あって、本来ならどうにかして募集をかけるなりなんなりすべきだとは思ったのですが、せっかく空き時間があるのだから、これまで何年もやろうと思いながらも先延ばししてきたことを本腰入れてやろうと決め、1年である程度のところまで形にするぞ!と思っていました。

ですが、ありがたいことに募集も何もしていなかったというのに、5月から6月にかけてパタパタと立て続けにお問い合わせを頂き、幼児さんから中学生さんまで、それぞれに可愛くて個性豊かなお子さんたちと新たなご縁を頂くことになりまして、そのお子さんたちのレッスンの準備や、お互い慣れてペースがつかめるまでは私も普段のレッスン以上にパワーが必要なこともあり、当初思っていたより時間が取れなくなっています。

ですので、1年でどこまで辿り着けるかわかりませんが、それでも友人のお子さんに協力をお願いしたこともあって、今で3ヶ月、当初の目標をとりあえず継続できています。
慣れないパソコン作業も地道に継続していると、低レベルながらそれなりにできることも少しずつ増え、4月よりは随分作業のペースは上がったように思います。

6月はワールドカップの影響で更にペースが落ちたものの、それもあと1週間ほどで終わりますし、ゲーム数も減りましたから、7月は更に加速せねばと思っています。

と、ここまで曖昧にしか書かずにいましたが、お分かりの方もおられると思います。
何年もずっと言うだけで、もう正に「オオカミ少年化」していた教材作成を地道に始めました。作ってみて初めて気づくことも色々あり、まだまだ試作、試行錯誤の段階ではありますが、そして、出来上がった結果、結局は既に世に存在する教材に叶わない自己満足のものになってしまうかもしれませんが、がんばってみようと思います。

さて、明日から7月。今年ももう折り返しですね。
明日からまた1週間、どうぞよろしくお願いいたします。

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2014年6月29日 (日)

完全にオフの話題。

そして、今日というか真夜中、日付変わって1時からはW杯決勝トーナメントがスタートしました。
トーナメント初戦はまたも開催国ブラジルが登場し、今大会好調のチリと本当に好ゲームを繰り広げ、PK戦の末勝敗が決しましたね。(といっても、睡魔に勝てず、前半途中で意識がなくなり、気づいたら延長戦に入る直前で、しかしまた終わらぬうちに寝入ってしまい、気づいたらPK戦が始まっていたというなんともはや…な状態でしたが…。)

今大会、日本代表は選手ご自身が悔いの残る試合だったようで、それはとても残念でしたが、中でも香川選手と本田選手はリーグ戦でコンスタントに使ってもらえず調子を落としたといわれていました。

そして、そういうこともあるんだろうなと思っていたのですが、今日はブラジル代表ゴールキーパーのジュリオ・セザールのインタビューを見て、感動しました。
彼はまだ第一線でやれる状態ながらインテルから去らねばならなくなり、移籍した先では契約上の問題か何かで試合に出ることができず、冬に、こういっては語弊があるかもしれませんが、およそブラジル代表の選手が移籍するところではないようなチームに、出場機会を求めて移籍。
こんな状態で果たしてブラジルの正ゴールキーパーとして出場できるのか、大好きな選手の一人だったので気になっていたのですが、PK戦で1番手、2番手のPKを見事連続でセーブするという見事な活躍を見せてくれました。(もちろん、予選の段階から試合中も見事なセーブが何度もありましたし。)

もちろん、フィールドプレーヤーとゴールキーパーとでは練習もかなり違うでしょうし、同じように比較することはできませんが、ジュリオは試合に出られなかった間、ひとりで公園で練習をしていたそうです。世界一流のプロ選手がひとりで公園で練習と聞いただけで、彼が母国開催のこの大会にどれだけかけていたのか、その思いに涙が出ました。(もちろん、本田選手はご本人は認めておられませんが、病気をして手術をされ、それが原因でかなり厳しいコンディションだったはずだという話をあちこちで目にしていますので、その状態であそこまでやれたことは本当に素晴らしいと思っています。)

世界のトッププレイヤーでさえ、自分の夢のために人知れず涙ぐましい努力を重ねているんだなと。いや、むしろ、そういうことができるからこそ、トッププレイヤーになれたということなのかもしれませんね。
そんな素晴らしい選手たちの半分すらがんばっていない自分をちょっと反省しました。

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2014年6月28日 (土)

実感せずにやり方を覚えると…。

ほかにも習い事をしながら、年長さんのときに月1、2回の変則でレッスンをさせてもらって、小学校に上がってからも他の習い事などが忙しいということで月2回という変則でレッスンをお受けしていた子がいます。
最近は他の塾などとの掛け持ちという子はほとんどいなくなっていて、特に低学年ではその子ぐらいだったのですが、他の習い事で先に計算の仕方などを習ってしまい、忙しいのに無理をしてまで来て頂く必要があるのか気になっていました。

結局は進学した学校がかなりハードなようで、宿題なども多く、一旦習い事をリセットするとのことで私もお別れすることになったのですが、やはり、幼児・低学年の間だけでも、ほかの算数・計算などのお勉強の習い事との掛け持ちはしないでくださいと初めにきちんとお伝えすべきなんだろうなと、その子を見ていて改めて感じました。

何年か前まではそういう子が複数いて、どちらかにして頂く方がいいと思うとお話し、うちをお辞めになった方もおられますし、結局かけ持ちを続け、今ひとつ成果が出ないままだったということも。
ですが、最近あまりそういう子がいなかったので、忘れかけていたのです。

その子と掛け算の学習をしていたときのこと。2ケタ×1ケタの暗算をしていて、82×7の答えに「70」(8×7と2×7の和)と書いても平気。「なんで82が7回なのに82より小さい答えになるの?」と言っても「あ!」という反応がありません。
再度考え直すと答えは出せるのですが、何問かやるとまた同じように位を間違えてそのまま足し算をした答えを書きます。

少なくとも、真っ白の状態で一緒にレッスンをさせてもらった子達は、テクニックを教えられませんから、少なくともそういう「明らかにおかしい答え」を書くことはまずありません。
この場合、難しそうにしている子などには80が7回と2が7回で考えるよう、ドットを見せたりしながら促すのですが、テクニックを知らない子達は、87を2回足して、それをまた2回足して…みたいに計算する子や、コツコツ1回ずつ足していく子などもいる変わりに、桁の違う答えを出してくるとはよほどのことがない限りないのです。

なんの計算をしているのか、たとえ回りくどい方法であっても、理解した上で答えを出し、苦労したから何かもっと簡単な方法はないかな?と考えたり、考えつかないにしても、その苦労の後に筆算をすれば、ああ、こういう計算はこのぐらいの数になったなという記憶がどこかに残っていたり、おおよその見当がついたりすることも十分あり得ます。

機械的に計算をするのは最終的に速さが必要になってからでも十分だと思うのです。
あれはほとんどの子が訓練すればできるようになるわけですから。

小さいうちはゆっくりじっくり実感しながら。
やはりそれは、長い目で見てもとてもとても大事なことなのだと思います。

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2014年6月27日 (金)

数の大小

あるレッスンでまた初めての経験をさせてもらいました。
少し前から通ってくれている、少し発達上の困難があるかもしれないという子とレッスンをしていたときのことでした。
来てくれるようになった当初から本当に一所懸命取り組んでくれているのが伝わってきて、レッスンではいつもとても幸せな気持ちにしてもらえるのですが、その子のよいところのひとつは、わかったふりをせず、わからないときにはそれをきちんと意思表示してくれるというところでもあります。

で、最初に10までの数から一緒にし始め、ゆっくりじっくりながらも着実に進み、宿題もいつも一所懸命やってきてくれているのですが、時々全く手付かずのプリントが混じっていることがあります。
わからなかったときにはそう言ってくれることが多いので、これはやり忘れたのかな、時間がなかったのかなと思いながらもう一度渡したものが、2回続けて手付かずで持ってこられました。

あれ?前にレッスンで似たようなものしたときは普通にできていた気がしたんだけど、勘違いだったかな?と思って尋ねてみると、やはりわからないとのこと。
その問題というのは「49より16大きい数は?」や「51より8小さい数は?」というような、足し算や引き算を言葉にしたようなものでした。
ですが、これまでに足し算引き算は随分しっかりできるようになりましたし、どちらが多いかやいくつ多いかなども特に困ったことはありません。
この問題の何がわからないんだろう?と不思議に思いながら、「49より16大きいって言ったら、49引く16か49足す16かどっちのことかわかる?」と尋ねてもきょとんとしています。
そこで、「3より2大きい数はいくつかわかる?」と指を3本見せながら尋ねたのですが、それでも表情が曇ったままです。
更に3のドットを置いて、手には2のドットを持ち、「3より2大きい数よ?いくつかわからない?」と言ってもずっと困った表情のままなのです。

これまで多くの子達とレッスンをさせてもらいましたが、足し算引き算ができるようになっている子でここでこんな風に立ち止まった子は誰もいなかったもので、何がどうわからないのか私自身かなり頭をフル回転させつつ、どうしたらわかってもらえるか考えたのですが、まずは大小2つの箱の絵を描いて「大きい方」を尋ね、次に背の高い子と背の低い子の絵を描いて「大きい方」を尋ね、次に飴を1個と3個描いて「多い方」を尋ね、それらの意味はきちんと理解していることを確認。
そうしているうちに、そういえば、「数字」は記号であって、見た目で大きい小さいが決まるわけではないのだから、ある意味抽象概念が必要になるということなのかも…と初めて気付きました。

大きく書いた1と小さく書いた5とでどちらが大きいか尋ねたら、数の概念がない子どもであれば恐らく迷わず1だと答えるのではないでしょうか。
同じ大きさで書かれていたら、まだ意味を理解していない子はもしかすると同じというかもしれません。

要するに私達は当たり前のように「大きい」とか「小さい」とか言っているのは、数や量、嵩などが多いものを「大きい」ともいうということを知っており、更に具体物などと数字とがしっかり結びついていてこそのことなのではないかと。

しかし、とりあえず問題を解かせるために「大きいは多いと同じ」というような説明をしてしまうと、別の機会でまたわからなくなってしまうかもしれません。
さて、どうしたものか…と一瞬悩んだのですが、その子はこれまで何度も積み木の数の問題をやったことがあるのを思い出し、更に先ほど背の高い子の方を「大きい」と言って選ぶことができたので、立方体の積み木を縦に3つ重ねた絵と1つだけの絵を描いて、まずはそれぞれいくつなのかを尋ね、積み木の絵の横に「3」「1」と書いた後、「どっちが大きい?」と背比べの感じで尋ねてみると、3の積み木の方を選んでくれたので、「3の方がいくつ大きい?」と尋ねると「2」との答えが。

そこで、「うん、そうそう。じゃあ3は1より2大きいね。」などと言っていると、突然「あ!わかった!」と表情が晴れ、そこからは多少間違ったりしながらも、本当にようやく意味が分かった様子で明るい表情でそれらの問題に取り組んでくれました。

この子に限らず、自分には当たり前に思えることやほとんどの子がひっかからないこと、そういうことにひっかかる子もいて、そういう場面に出くわすたび、自分の小さな引き出しが1つ増えるような気がします。
ありがたいことだなぁと思います。

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2014年6月26日 (木)

不思議だけど不思議じゃないのかもしれない

小学校5年になるぐらいまで通ってくれて、受験のため転塾した後、中学入学前にまた戻ってきてくれた子がいます。
一緒にレッスンさせてもらっていたときは結構算数ができる子だったのですが、大手受験塾に移って、とにかく算数で苦労したとのお話を伺っていました。
で、受験も終わってホッとして戻ってきてくれたその子とレッスンをしてみると、え?算数で苦戦してたってどういうこと?という感じで、それは全く想像できないぐらい、ちゃんと考えられており、実際よくできていました。

難関校ではないものの、私立の中高一貫の男子校ですから、授業の進度が公立からすると考えられない速さなのですが、それでも結局1年間、特に数学は好成績をキープし続けたそうで、2年になる際に理系のより難しい数学をするクラスに移ったとのことでした。

しかし、レッスンに来るその子は相変わらずマイペースで、宿題もろくにやってこず、授業と部活とで疲れるのか、レッスン中もしばしば眠そうにしていることも…。
すっきり起きているときは、すごいなぁと感じるぐらいできるのですが、週1回1時間あまりのレッスンで学校の進度に後れを取らずに進んでいくのはかなりハード。なのに宿題を…という感じで、理系クラスに移ったとなると、どうなるか少し心配もしていました。

ですが、おうちの方に伺ったところ、2つにわかれている数学の片方はこの前の定期考査で学年1番、もうひとつも10番だったとか。(本人が10番は今ひとつよくないという風に捉えているところもすごいなと思いましたが。)
学年1番はやはり相当立派です。それだけできる子が受験塾ではずっと算数が…と言われ、実際に試験でも足を引っ張ったというのですから、訳がわかりません。

ただ、そこで考えられるのは、本来考える力のある子に考える余裕がないほどの量の問題を課して、やらなければ居残りなどもさせるというそこのやり方が、とにかくその子には全く合っていなかったということなのかもしれないなと。
まあ、あのやり方に毒されずに済んだと思えば不幸中の幸いだったかもしれませんが…。

あのやり方はどうしても算数が苦手で自分で考えることができない子であればやむを得ないかもしれませんが、そうでない場合悪影響が出る場合が少なくありません。
受験のためには塾に行っていないといけない、それも大手じゃないと情報や指導力が…みたいに思ってしまわれる方が多いのはわからないではありませんが、お子さんの性格や得手不得手などを考慮して、場合によっては怒られても宿題は最低限しかやらせないとか、大量の演習を強要しない塾を探すなど考えられた方が、お子さんにとっても、そして中学受験の結果にもよい場合があるのではないかと思います。

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2014年6月25日 (水)

スミマセン…。

正直なところ、もうこの日は来なくてもいいんだけど…という心境になって久しいのですが、今日はまたひとつ歳をとってしまい、平日で普段通り仕事ということもあり、何の予定もなく帰宅したのですが、ささやかに(?)ちょっと記念日っぽくオシャレなお惣菜やケーキやらを買って帰宅し、平日飲むことは滅多にないのですが、ちょっとお酒も頂いた結果、酔ったのかいつも以上に頭が回らず、何を書いたらよいやら…。

というわけで、オフでもないのにこんな更新で大変恐縮ですが、本日はこれにて…。

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音読み・訓読み

今日は期末テスト期間ということで、普段は晩に来ている中学生さん達が早い時間に来てのレッスンになりました。

この子達とは普段、主に数学をしつつ、国語も少し一緒にしていることもあり、テスト前は範囲の問題を確認のため解いてもらうのですが、今回の範囲には音読み・訓読み、重箱読み・湯桶読みのあたりが入っており、問題として出されるものは当然判断に迷うものが中心になるわけです。

で、様子を見ていると、ひとりの子は間違いを連発しているので、どう読むのか尋ねると読むことすらできておらず、そりゃそんな状態で問題が解けるわけないよね?と。
習っていない漢字が突然試験範囲で出題されることは、中学校の国語の定期テストではまずありませんので、もし仮に熟語として出てきていなくても、使われている漢字のそれぞれの読みはどこかで既に学習しているはずです。

また、音読み訓読みは確かに判断が難しいものも少なからずあり、そうなってくると、いかにたくさんの言葉を知っているかで正解できる確率が変わってきます。

今日出ていた問題では、例えば「荷物」は訓+音なのですが、「に」はひらがなひと文字で送り仮名をつけることもないので、音読みだと思ってしまうことが少なくないのではと思います。
このときに、迷って、ほかに「に」と読む、この文字を使った言葉をどれだけ思い浮かべられるかによって状況は変わってきます。

「荷台」「荷車」「重荷」「荷が重い」…などを思いつけば、それらの言葉は日本で古くから使われているイメージだなと、特に「荷が重い」が思い浮かべられれば、「ああ、これはきっと訓読みだな」と思えるのではという気がします。

しかし、その子は読めない熟語がいくつもあるだけでなく、同じ漢字を使った別の言葉もなかなか出てこず、意味を知らない言葉もたった1枚のプリントの中にいくつもある状態でした。
試験直前にその状態だと、ここに関しては運がよければ正解するぐらいの気持ちでやるしかないと話をし、普段から知らない言葉に出合ったらどんな意味なのか積極的に調べ、多くの言葉を身につける必要があるとも話しました。

もちろん、きちんと読めれば、それが音読みか訓読みかがわからなくても、そういう学習のとき以外はそう困ることはありませんから、必死になって習ったもの全てを覚えようとする必要はないと思いますが、語彙を増やす努力はした方がいいのは、国語の学習に限らず大事なことだと思います。

真面目な子なので、これまで気づいていなかった私もいけないのですが、この状態だと読解問題もそりゃ「え?」と思うような間違いをすることがあるのも不思議ではないなと。

これからはもっと辞書を引くようにするとは言ってくれましたが、毎日授業や部活、宿題などでも忙しいでしょうから、どこまでがんばってくれるか、時々声かけをしなければと思いました。

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2014年6月23日 (月)

考えるのは時間がかかる

子ども達を見ていても考えるのには時間がかかるし、集中力も必要だとはよく感じますが、自分の仕事でも単純作業や簡単な事務仕事などは大して考えずにできますし、予習などする際にも頻繁に目にしているものや、内容的に簡単なものなどはあまり考えずに進めていくことができるものの、アイディアを形にするとか文章にするとか、そういう場合はぐっと詰めて集中しないと考えがまとまらないというのはよく感じます。
更に、寝不足だったり何か気になることがあったりすると、やはり考えているつもりでもなかなかいい考えが浮かばなかったりということも。

ただ、その一方で、これまで本などで何度か読んだことがあるのですが、脳は一度考え始めたことは自分では意識していなくてもずっと考え続けているので、何かの拍子に(例えば散歩したり、トイレに行ったりした拍子にとか)アイディアが浮かんだり、まとまったりというようなことが起こるとか。
それもなんとなくそんな気がしたりします。

もちろん、最近はちょっとしたことでもすぐに忘れてしまうので、そういう意味ではちょっと自信もなくなりますが、教材のことなどを何かいい方法はないかなぁと考えていて、気づいたらもう他のことを考え始めていても、なんとなく頭のどこか奥の方でそのことがひっかかっているような気がすることがあるのです。

とはいっても、その状態は何かをぐっと集中して考えて、それでも考えがまとまらなかったような場合に有効になるのではないかという感じで、ぼんやりと頭に浮かんでいたようなことだとその効果はあまり望めないようにも思います。

なんだかとても抽象的でどうでもいいことを書いているなぁと思いますが、文章にすることで自分でなんとなく納得しているという感じでしょうか。

実は多分もう何年も前から、掛け算の筆算や割り算の筆算をもっと実感しながら導入する、それも、算数があまり得意でない子でも何をしているからこう書くのかがわかるような方法がないだろうかと考えていて、とりあえず掛け算の筆算でもかける数が1ケタであれば、こういう感じでいけるかも…というのは思い浮かんでいるのですが、2ケタや3ケタになってくると、どうもいいアイディアが浮かばぬまま早数年。
ここでもうひと段階ぐっと集中して詰めて考えたら何か浮かぶのかもしれないのですが、これまでは途中で他のことに考えが移ってしまって…。

筆算は、そもそもが簡単に答えを出すためのテクニックなわけですから、機械的作業になってしまうのは仕方ないのかもしれませんが、作業になる前に何をしているか理解しているかどうかでやはり差ができると思うだけに、そろそろ何とか時間を取ってぐっと考えを詰めてみなければと思っています。

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2014年6月22日 (日)

オフでした

ワールドカップでサッカー観戦三昧の休日でした。
明日はお仕事します。
本日はこれにて。

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2014年6月20日 (金)

キロは千

実は恥ずかしながら、教室を始めるまではもしかしたらきちんと意識したことがなかったのではないかと思うことのひとつに、「キロ」は「1000倍」を表すということがあります。同時に「ミリ」は「1000分の1」という意味であることも、そう書かれているものを読むまで意識したことがなかったのではないかと思います。

更に細かく言えば、「デシ」「センチ」や「ヘクト」などにも10分の1や100分の1、100倍などの意味があるそうですが、そういうことをきちんと小学生の時に習った記憶は全くなく(覚えていない可能性も若干はありますが…)、新しい単位が出てくるたび、1kmは1000m、1mは100cm、1kgは1000g…というように、ただただ覚えていたように思います。

しかし、「キロ=1000」ということさえ覚えれば、「1キログラム」はつまり「1千グラム」ですし、「1キロメートル=1千メートル」、小学校では使わない「1キロリットル」や「1キロバイト」など、どんな単位でも「キロ」を「千」に置き換えれば元になる単位との換算は一瞬で終わります。

同じように「ミリ=1000分の1」ということを覚えれば、こちらも同じで「1ミリリットル=1000分の1リットル」「1ミリメートル=1000分の1メートル」といった具合に、やはり苦もなく換算ができてしまいます。

小学生の子達の中にはしばしば1kmが何mか忘れてしまい、「100m?」と聞いてくるようなことがあるかと思います。そして新たに重さの単位を習ったら、また1kgは「100g?」なんてことになったりもします。
もちろん、何度も使っていればだんだん覚える場合がほとんどではありますが、最初に「キロ=千」「ミリ=千分の1」などの意味をきちんと覚えてしまえば、あとはその後ろに長さであればm、重さであればg、嵩であればLというような単位がついているだけですから、それぞれの単元で長さの単位、重さの単位、嵩の単位などで1つ元になる単位をきちんと覚えればよいことになるのではないでしょうか。

いっそ単位に「k」という文字が出てきたらその「k」を「千」という漢字に書き変えるようにしてもいいかもしれません。
そんな風に学校で教えてもらっていたら、覚えることがもう少し少なく済んで、換算でも迷うことが減っていたんだろうなという気がしますし、それは今の子達にも言えることではないかと思います。

もしおうちで宿題などをしていてお子さんが迷っているようなときには、そういうふうに助言してあげるのもいいかもしれませんね。

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2014年6月19日 (木)

子どもに言いながら・・・。

レッスンをしていて、子どもには当たり前のように言いながら、自分はそうしてなかったよなぁと思うことがしばしばあります。

例えば、なぜその公式に当てはめたら解けるのかを考えるというようなことは、少なくとも中学生以降考えようとしたことはなかったのではないかと思いますし、三角形の辺の二等分線はそれぞれ重心で2:1に分けられるというようなことも、恐らく習ったときには証明などもしたのだと思いますが、「とりあえずここは2:1になるんだな」とそこだけ覚えて使っており、塾講師時代にはもしかすると、証明させるにしても、最終的には「2:1って覚えてね」なんてことも言っていたのではないかと思います。

そういう記憶はあるので、公式に当てはめて解こうとしている子に対しては自分もそうだったけど…と思いつつも、「なんでそれに当てはめたら解けるの?」というようなツッコミを入れるようにしています。
もちろん、勝手な話ではありますが、振り返ってみれば、自分もそうやってきちんと考えていたら、恐らくもっと数学が得意になっていたのではないかと思えるだけに、同じ轍を踏ませたくないと思うのです。

で、実は中学時代も塾講師時代も、「定義」と「定理」の意味の違いが、説明を読んでもどうも今一つわからず、なんとなくぼんやりした理解で留まっていました。
ですが、証明できること、誰かが発見したこと、そういうものが定理で、例えば「3辺の長さが等しい三角形を正三角形と名付けよう」というように、誰かが決めたもの(なぜそれを正三角形というのかは「証明」はできませんので)は定義なのだなと、自分で納得がいったのは教室を始めてからでした。(お恥ずかしい…。)

ということは、定義でないものは、たとえ定理や公式を忘れても、どうにかすれば考えられるということでもあります。
であれば、覚える必要のある公式というものも人によって変わってくるでしょうし、場合によっては何も覚えなくてもよいのかもしれません。

さすがに仕事柄頻繁に使うような公式は覚えていますが、例えば数Ⅰの3乗の因数分解の公式などは、いったん覚えても時間が経つと、またすぐ忘れてしまいます。
また、数Ⅰ範囲の二次関数などでも、頂点をどうやって求めるかなど覚えても時間が経つと、あれ?ここは符号が変わるんだっけ?変わらないんだっけ?というような感じで記憶に自信がなくなったりもします。
ただ、仮に忘れてしまっても、今は考えて解くことができます。

もちろん、覚えて当てはめる方がかかる時間は少なくて済むだろうと思いますが、忘れてしまってお手上げになるよりは時間がかかっても解けた方がいいのは間違いないかと思います。

それに、公式の場合、問題のレベルが上がれば上がるほど、ここの符号はプラスだっけ?マイナスだっけ?というようなことも増えてきて、その曖昧な記憶に頼って解くと、運が良ければ正解、悪ければ不正解というような状態になってしまいます。

もちろん、暗記が苦にならず、それも正確に覚えられるというような子であれば、時間短縮のために覚えればよいとは思いますが、忘れた場合どう対処するかというところがより大事になってくるのではないかとも思うのです。

今日レッスンをしていた中学生は、学校の数学の進度がとても速く、もし私が中学生ならこんなスピードではとてもついていけないのではというほどなのですが、ある問題で手が止まってしまったため、学校のテキストを見せ、「これまだやってない?」と尋ねました。(普段から順序が前後したり、飛ばしてほかを先にやったりするようなので…。)すると「あ、やった」というのですが、内容は思い出せない様子。
ただ、その問題を解くために使う定理は、その前に習っている定理の応用に過ぎず、実際私はそれを使わずに解いたので、「この問題ができるなら、これも考えることはできるはずやけど。」と言って、ほんの少しだけヒントを出して待っていました。
すると、無事解くことができたので、上述の「定理や公式は誰かが発見したものなんやから、忘れても何とか考えたら解けるってことやん?」と、昔の自分のことは棚に上げてその子に言いました。

実際、忘れていても解けたわけですから、本人も納得したはずです。

そういうやりとりをするたび、やはり小さいうちにしっかり考えて意味を理解するということが後々大きな力になるのは間違いないと、改めて思うのです。
中学、高校になってくると、定期テストや受験など、何かとリミットが設定されてしまいますから、たっぷり時間をかけることができる時期に、思う存分時間をかけて、頭をいっぱい使う学びをしてもらいたいなと心から思います。

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2014年6月18日 (水)

久しぶりでしたが…。

今日はあるご姉弟さんの体験レッスンをさせて頂きました。

高学年になったお姉ちゃんとまだ低学年の弟さんで、おうちの方からどういう状態なのか少しお話を伺った上での体験レッスンだったのですが、弟さんはこの感じだと、5を超えてくるとまだ数と具体物とがリンクしておらず、それで苦労しているのかなという印象で、本人がこの学習法でやってみようとさえ思ってくれれば、比較的早いうちに学校の進度に追いつけるのではないかなという印象でした。

おうちの方のお話だと弟さんの方が苦戦しているのかと思っていたので、なんだ、この感じならさほど心配いらないなと思ったのですが、一方のお姉ちゃんの方が、問題に出てきた数字を、適当に足したり引いたりしているような感じだったので、体験レッスンでありながら、いきなりちゃんと考えず、ただマルをもらえたらというお勉強は自分の役に立たないのだという話を少しして、慌てなくていいのでじっくり考えてと伝えました。

ですが、これまでやり方を教わってその通りにやるという勉強を積み重ねてきたからなんだろうなという感じで、その姿を見ていて、ああ、そういえば、こういう状態の子は世間一般にはちっとも珍しくないんだったなと、そんなことを思い出しました。

今でこそ、じっくり考えるのが当たり前、わからないのになんとなくマルになって先に進んでいくのは意味がない、そういうことが日常になっていますが、塾講師だった頃も教室を初めて数年の間にも、出てきた数字をとにかく適当に足したり引いたりかけたり割ったりする子は珍しくありませんでしたし、文章題になると、それまでスラスラ計算を解いていた子とは思えないぐらい完全にお手上げになってしまう子も何人も見ました。

そういう子達の多くが、小さい頃からやり方を教わってその通りに大量に反復してマルをもらうというような勉強をしており、「習ってないからわからない」と問題をろくに読まないうちから言ってしまったり、とにかく何か計算をしてみて、違うと言われればまた別の計算を、それも違えば更にまた別の計算を…ということをしてみたりという感じでした。

その状態の子達を自分の頭で考えるように変えるのは、学年が上がれば上がるほど時間がかかる感じで、おうちの方もよかれと思ってさせ、子どももコツコツ真面目に努力して、その結果が「考えない頭」になってしまう可能性が少なからずあることに悲しさと憤りを何度も感じたものでした。(とりあえず算数に限っての話ですが。)

今日のその子は2100円の本2冊と735円の本1冊を買って、1万円出したらお釣りはいくらかという問題を考えてもらったとき、内容としては学年を考えるとおさらいになるはずなのですが、「2100+2100=4200」の式の次に「4200-735=」と式を書いて計算し、それを答えに書こうとしました。
そこで、「その4200っていうのは何を表してるの?」と尋ねたところ、「2100円が2冊だから」とそこは答えられました。であればすぐ気付くのではと思ったのですが、なぜかその後が全く続きません。
そこで、買ったものの絵を描いてもらうことにしたところ、長方形を3つ、それぞれに「本」と書いて、その下にそれぞれ2100円、2100円、735円と何も言わなくてもちゃんと書いてくれました。
これが書けたなら自分の式がおかしいことに気づくと思ったのですが、「あ!」という反応が出ません。
そこで、絵を指しながら、4200円は2冊の本の値段、735円はもう1冊の本の値段、それを引いたらお釣りが出てくるのかを尋ねたところ「うん」と。

え?お釣りの意味を知らないの?と思い、「80円のもの買って100円払ったらお釣りがいくらかわかる?」と尋ねると「20円」とこれはすんなり。
ということは意味は分かっています。
数字が大きくなっているからぴんと来ないのかなと思い、駄菓子屋さんで10円の飴3個と30円のチョコレート1個買って100円払ったらお釣りはいくらかになるかを考えてもらうことにしました。

それでも初めは何かおかしな計算をしていましたが、どうにかお釣りが40円だとわかり、その後先ほどの問題に戻ったところ、ようやく本3冊分足し算をすることはできました。
そこからまた少しやりとりはありましたが、どうにか答えを出すことができました。

初めてで緊張していたこともあるのかもしれませんし、今日はたまたま疲れていたというようなことでも、普段できることが全くできなくなったりもしますので、この1回だけで判断はできませんが、もし普段からこんな状態なのであれば、高学年になっているだけに算数の授業がどんどん楽しくなくなっていくのではないかと、少し心配になりました。

ですが、やり方を教えてくれてその通りにしたらマルがもらえるという、あまり負荷がかからない勉強に慣れていると、じっくり考える学びは初めのうちはとても疲れるだろうと思います。
ですから、彼女は楽しかったとは感じていないだろうなと。

ということもあり、ご縁が頂けるかどうかはわかりませんが、もし一緒にがんばってみようと思ってもらえたら、私も一所懸命がんばりたいと思います。

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2014年6月17日 (火)

理由を尋ねる。説明させる。

選択肢がいくつかあり、そのうち正しいもの(もしくは間違っているもの)を選ぶというような問題があります。
特に国語などでは4つほどの選択肢の中から正しいものを選ぶというようなものはよくあるかと思います。
そのような問題では、よほど国語が苦手な子でなければ、4つのうち2つにしぼることは大抵の場合できるような選択肢になっていることも少なくありません。
その場合、自信を持ってどちらかを選べなければ、正解の可能性は五分五分。
また、子どもによっては1つ選んで違っていたら別のを選んで、それも更に違っていて…というようなことになる場合もあるかと思います。

選択肢が限られていると、何度か間違えると必然的に正解が決まってしまう場合があるわけですが、そんな場合、できるだけ心がけていることがあります。
それは、正解が決まってしまった後で、不正解の選択肢はどこが間違っているのか説明させるということです。

もともと、どこが不正解なのか見つけられていないから選べないわけで、最後に残ってしまった場合はもちろんですが、五分五分の確率でたまたま正解した場合なども、迷ったもうひとつの選択肢がどこが間違っているから答えにならないのかを確認することが大事なのではないかと思います。

もちろん、きちんと説明できない場合や間違った説明をする場合もあるでしょう。それでも、なんとなく選んでなんとなく合っていた、間違っていたを繰り返していては、いつまで経っても力はつきません。
たとえ間違えたとしても、そのたび、選択肢の答えにならないものはどこがおかしいのかきちんと考え、確認することで、選択問題はどう考えればよいのかということがだんだんわかってくるように思いますし、考えることが当たり前になれば、何となく合っていたではダメなのだと意識するようにもなるのではないかと思います。

選択問題に限らず、例えば既に説明をした語句などについて、分かっているのかあやしそうなときには子どもに尋ねて説明させれば、どの程度きちんと理解しているのかは大抵把握できます。(もちろん、うまく言葉にできないような場合でも、言おうとしていることが合っているかどうかの判断は大人であればある程度可能だと思いますので。)

せっかく時間をかけて問題を解くのであれば、たとえ時間がかかってまどろっこしく見えても、子どもにとってより身になる方法をできる限り選んでいきたいと思います。

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2014年6月16日 (月)

出勤するつもりが…。

サッカー観戦でなんだか変な時間に寝落ちて目覚め、また寝落ちてを繰り返してしまい、家の片付けや掃除などはしたものの、結局出勤はせず、家で予習をしたりしただけになってしまいました。

現在、数Ⅰの予習を進めていて、ついつい易きに流れる性格の自分に、数Ⅰのワークブックを毎週1単元(10ページ)は予習すると決めているのですが、とりあえず、決めてから今のところなんとかクリアしています。

しかし、今日出勤しなかったので、4月以来コツコツやっている方の仕事は手つかずになってしまったので、明日は早目に出勤して今日の分もやろうと思っています。

明日からまた1週間どうぞよろしくお願いいたします。

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2014年6月15日 (日)

オフでした。

そして今日はワールドカップの日本の初戦やら他にも好カードがずらり。
というわけで、サッカー観戦三昧で、家のことは洗濯と買い物ぐらいしかせず終わってしまいました。

夜は父の日のささやかなプレゼントを持って実家へ。
結局今日は全く仕事せずでしたので、明日は出勤して仕事する予定です。

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2014年6月14日 (土)

なんだか嬉しいな。

土曜のレッスンに来ている子達の中には一所懸命がんばっているのにどうもがんばりに釣り合った成果が出ていなくて可哀想だなと感じていた子や、本人が算数は好きじゃないし、じっくり考えてわかっても嬉しいとは思わない、やり方を教えてもらってその通りやるのがいいと言っていた子や、算数を楽しく学ぶという風にはいかない子達がいました。

それが、一体何があったのか、これまでのがんばりが花開いたのか、気になっていたその子達みんな、以前に比べて明らかに変わったよなぁと感じるようになりました。
特に、じっくり考えるのは面倒でイヤだと言っていた子は、こちらが何を言ったでもないのに、あるときとてもよく考えていた日があり、いつもと違う姿にびっくりして手放しに褒めたことがあるのですが、それ以降ずっと、もうずっと前からそうやって考えていたかのように、図を描いたり、あれこれ試行錯誤したりしながら、自ら問題に向き合うようになりました。
見ていても、明らかに表情が穏やかで時には楽しそうにさえ見えるのです。

そんな姿を見ながら、やはり子ども達の力はいつどんな風に花開くかわからないんだなと感じ、また、目に見えて伸びが感じられない時でも本人が諦めずがんばっていれば、どの子も今の自分より必ず成長し、賢く(「勉強」ができるというだけの意味ではなく)なっていくんだなとも感じます。

子ども達がみんながんばってくれて、なんだかほっこりした気分でよい週末を迎えられそうです。

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2014年6月13日 (金)

平日なのに仕事とは関係ない話ですが。

いよいよワールドカップが開幕しましたね。
今回のワールドカップ、開幕戦の審判団が日本の3人ということで、別の意味での注目もされていました。
実際の試合でのジャッジは、私は素人に毛が生えたぐらいなので知ったようなことは言えませんが、概ね公平に納得のいくジャッジがされていたのではないかと思います。

しかし、ただひとつだけ、PKの判定が世界中で物議を醸しているようですね。
確かにあれは私が見ても、あれ?今のはシュミレーションじゃないのかな?と思いましたし、スロー再生などされると、やはりその可能性は否定できないかとも思いましたので、もしかすると誤審なのかもしれません。
ただ、誰が見ても明らかな誤審というレベルではなかったと思いますし、少なくともスロー再生などされず、あの瞬間だけで判断するのであれば、ここまで大きく取り上げられることはなかったのだろうと思います。

ジャッジが正しかったかどうかということではなく、今回のことで改めて、審判、特に主審の方は精神的に相当タフでなければ務まらないだろうなと感じました。
人間ですから、おまけに選手も審判も動き回り、時にはすごいスピードで走る選手もいるような状況で、更に言えば誰がどこでファウルを犯すか決まっているわけではありませんから、どこかだけじっと見ていればいいわけでもなく、そんな状況で一瞬のうちに判断を下さなければならないというのは、途方もなく難しいことなのではないかと。

当然、どんなにがんばっても誤審は起きてしまうと思うのです。
もちろん、買収されてとか、意図的にどちらかに有利になるようにとか、そんなジャッジをするのは言語道断ですが、どれだけ誠実に真剣に取り組んでいても、それは起こってしまうものなのだと。

人の目で見て判断するという方法を選択しているのに、疑惑のシーンを何度もVTRで再生して見せたりするのは、よく考えるとなんだかおかしな話なのかもしれないなと、今回改めて思いました。

テニスなどでは判定機器を導入し、大きな大会では選手に「チャレンジ権」が与えられ、ジャッジに納得がいかない場合は機器を使っての判定を求めることができるようになっています。
そういう場合は、権利があるのですからVTRで再生してもいいと思いますが、現時点でサッカーのほとんどの試合ではそういうシステムはありません。

今回の大会ではゴールラインテクノロジーとかいう、ゴールに入ったかどうかを判定する機器が導入されることになったようですが、人間同士のファウルかファウルでないかの部分を判定できる機器は少なくとも今はまだ存在しないのですから、やはり審判のジャッジは尊重されるべきだという気がします。

でも、結局は何度もVTRで再生され、今回は完全に主審が悪者のような扱いになってしまっていて、さすがに日本では大丈夫でしょうけれど、熱狂的なサポーターのいる国などでは、場合によっては命の危険まで考えなければならないかもしれないなと…。

誤審(とも言い切れないジャッジ)でここまで吊るしあげられるのであれば、多分私ならとてもじゃないけど審判なんてやれない…と思うような気がします。

と、本当に全く仕事に関係ない話で恐縮ですが、今日は試合やその後の報道などを見て、そんなことを考えました。

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2014年6月12日 (木)

がんばらないとな。

ここ何年かはご兄弟関係以外は幼児さんのレッスンをお受けしていなかったのですが、このたび新たにご縁を頂いて幼児さんとレッスンをさせて頂けることになりました。
といっても就学前のお子さんとのレッスンのブランクは1年ほどなのですが、なぜだかものすごく久しぶりのような気がしています。
そして、その久しぶりのレッスンは、また初心に返る機会を頂けたり、更に精進せねばと思わせて頂けたり、なかなか新鮮です。

小さい子達は疲れていたり眠たかったりするとてきめんに集中できなくなりますが、それだけでなく、興味があることであれば眠くなくても、例えば見た瞬間面白くなさそうとか難しそうとか感じたときには途端に眠くなったりするんだったなぁと、そんなことも思い出させてもらいました。

これも成長に伴って自然と変わっていくので、小学生になればそこまで極端に集中力が低下したり、突然眠くなったりということはなくなってきます。そういうことも含めて、子どもは本当にぐんぐん成長していくんだなとも思います。

小さい子でもやる気が少しでも長く持続するレッスン。小さい子でも分かりやすい説明。(やり方を教えるということはしませんが、問題や言葉の意味などを説明せねばなりませんので。)そういうことを心がけていけば、それは小学生や中学生にも活かせることがあるはずですので、もっとがんばらないとなと思っています。

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2014年6月11日 (水)

少しペースが上がってきました。

4月からコツコツがんばっていることですが、なんでも三日坊主になりがちな私が今回は2ヶ月以上くじけることなく取り組み続けられています。
もちろん、自分の無精な性格はイヤというほどわかっているので、今回はまた別の「カッコ悪いところを見せるのが苦手」という性格を利用し、友人たちに宣言してしまって、サボりたくなってもなんとか続けられる環境を作ってしまったということもあるのですが…。

取り組んでいることの多くの部分でパソコン作業をせねばならないのですが、さすがに2ヶ月以上継続してやり続けていると、できないながらもだんだんペースが上がってきて、また、やっているうちに機能を見つけたり、友人が教えてくれたりと、考えてそれを書き起こすという部分は別として、単純なパソコンでの作業だけ見れば、当初の2倍か3倍ぐらいのペースで進められるようになってきた気がします。

当初、これだけ時間をかけてもこれだけしか進まないのであれば数年がかりになるなぁと、ちょっと気が遠くなりかけたのですが、そして、単純作業だけではない部分が少なからずあるため、またペースが落ちることもあるとは思いますが、1年続ければそれなりの達成感を得られるのではないかと、少し楽しみになってきました。
いや、それでもやはり数年はかかるのかも…。
とりあえず、先のことを考えても仕方ありませんので、ゴール目指して諦めずに続けていきたいと思います。いつか皆さまにご報告できる日が来るようがんばります。

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2014年6月10日 (火)

後悔先に立たず

このところまた必要に迫られて数Ⅰを少しずつ解いています。
といっても、数Ⅰに関しては断続的ながらこれで3回目か4回目ぐらい解いているところも多いので、覚えなければできないもの以外はある程度解くことができるものも増えてきました。

ただ、高校時代から苦手だった集合の単元などは高校時代に意味を理解しようとしなかったため、なんとなくやり過ごし、遠い記憶ではありますが、集合に関しては自分が受験した大学では入試問題にあまり関係していなかったのではないかという気もして、結局きちんと理解する必要に迫られることなく過ごしてきてしまいました。

教室を始めてからは自分がきちんと理解していなければ子どもに適切なヒントを出すことができないからと、曖昧な部分、自信がない部分は何かで調べたり、お知り合いの先生に教えて頂いたりするようにしていますが、いちいち細かいところでこれはこうでなければならないんだろうか?こっちの表現では間違いなんだろうか?この表現の使いわけには何か意味があるんだろうか?と疑問が生じます。

私が子どもの頃からきちんと考える学習を心がけていたら、今感じているのと同じ疑問を高校時代にも抱くことができたはずで、もしそうであれば高校時代に恩師や友人たちに質問することはいくらでもできたはずです。
しかし、あの頃の私は数学は公式を覚えて当てはめれば解けるから…と、今では後悔しまくってしまうような考えをしていましたから、疑問を抱くこともなく今に至ってしまったのです。
本当にもったいないことをしたなぁと、今はしみじみそう思います。

なんでだろう?どういう意味だろう?とひとつひとつこだわることは傍から見ていたら、時にはまどろっこしくて要領が悪く見えるかもしれません。
ですが、小さい頃からそれが当たり前になってしまえば、時間がかかるのは大抵最初のうちだけで、きちんと積み上げたものは確固たる基礎になりますし、そこから上に色々なものを積み上げるのは、ぐらぐらの不安定な基礎に積み上げるより遥かに効率よく確実にできるものです。

もちろん、成長してしまった後でも学び直すことは可能ですが、時間もかかりますし、得られる成果も子どもの頃に身につけるよりは小さい場合が少なくありません。
自分がした後悔を、自分が関わることができる子ども達には極力しないでもらえるようできる限りのことをしていきたいと思います。

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2014年6月 9日 (月)

どんな教材でも。

どんなにいい教材でも使い方を間違えると効果が出なかったり、むしろ悪影響が出ることもあります。
また、あまりいい教材でなくても、使い方によっては効果を上げることも可能です。

簡単な例でいえば、私も塾講師をしていた頃まではそれが当たり前だと思っていたのですが、学校で使うものにしろ塾で使うものにしろ、市販されている家庭で使えるようなものにしろ、算数のドリルやワークブックの類はまずその単元についての説明があり、次に例題が書かれ、更にはその例題の解法が書かれた次に、その例題と同じように解けば解けるような類題があり…という流れになっています。

練習問題だけのページに移ったとしても、少なくない数のものに欄外などに、やはりその通りにやれば解けそうなヒントが書かれていたりもします。

そういうものを子どもに与え、きちんと読んでやるように促すと、「考える学び」はほとんど期待できません。
その方法だと、多くの子が素直に書かれていることを読み、それを真似て類題を解き、更にその流れで練習問題を解いて、なんとなくできた気になってしまう場合はほとんどです。
教師など指導者がいて説明から入る場合もやはり同じようなことになる場合が多いように思います。

それはなぜかといえば、先にやり方を教えられてしまうと、なぜそうなるんだろう?とか、どうやったら解けるんだろう?とか考えるチャンスを奪われてしまうからです。

私が一目惚れした教材(学習法)は説明から入るのではなく、子ども自身が気づいて学びとることを促すというもので、そのために指導者は「教えてはいけない」と強く言われました。
初めはそんなことで本当に子ども達はできるんだろうか?と不安に思いましたが、蓋を開けてみると、それは全くの杞憂で、むしろそれが最善の方法なのだとしみじみ実感しました。

以来、とにかく説明は極力しない。ヒントもとにかくギリギリ最低限しか出さない。当然テクニック的なことやパターンを教え込むようなことは絶対しない。そう心がけてレッスンをしていますが、そうしていると、塾講師時代には想像もしなかったぐらい、子ども達は自ら吸収し、伸びていくのを目の当たりにし、今ではそれが私にとって当たり前になっています。

ですが、その教材も「教え込む方法」で使うことはいくらでも可能です。教具を見せて説明をし、プリントを渡してまた説明をし、先に進むために子どもがまだ考えている途中でもヒントを出し、やり方を教え…といくらでも子どもの邪魔をすることは可能なわけです。

そして一方で、例題や解説がついているワークブックしかなかったとしても、そのワークブックを使って「考える学び」をさせることも可能です。(実際教室では高学年の子達にはそういうワークブックを使っていますが、問題を考えてもらう際には例題や解法は隠すなどして読ませないようにします。)

どんな教材を使うかももちろん大事なことではあると思いますが、何より大事なのはどんな風に学ぶか(学ばせるか)というところなのではないかと思います。

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2014年6月 8日 (日)

悲しいニュース

今日、ネットで出合った悲しいニュースがありました。

暴言:被爆者に「死に損ない」 長崎修学旅行で横浜の中3
http://mainichi.jp/select/news/20140609k0000m040025000c.html

記事を読んで頂けば分かると思いますが、これを読んでなんとも悲しい気持ちになりました。
記事からではわからないことがほとんどではありますし、どうやら注意を受けた子ではない子が暴言を吐いたようですが、少なくとも中3の修学旅行で長崎に行っている時点で、多少の事前学習などはするでしょうし、いくら戦争や原爆投下について実感がないと言っても、それは私達でもある意味同じですから、言っていいことと悪いことというぐらいの判断はできて当然ではないかと…。

例えばですが、やんちゃな子が何かに腹を立てて、年長者などに向かって「うるせー、しね!」みたいなことを言うことはあるかもしれませんし、それはもちろんいいことではないにしてもまだ許されるような気はします。
でも、「死にぞこない」という言葉は絶対に違う。少なくとも、自分に何の非もなく、逃れようもない状況で突然被爆して、それから長い長い間、きっと筆舌に尽くしがたい思いをして生きていらしたであろう方に向かっては、たとえ冗談であっても言ってはいけないことだと思います。

私には子どもがいませんが、もし我が子がそんなことを言ったとわかったら、ボコボコにしてしまうかもしれません。
そして、謝って許されることではないとしても、その方のところに駆けつけて土下座でもなんでもするのではないかと…。
それに、もし私が教員でその場にいたら、それで自分が職を辞すことになったとしても、その場でその子をひっぱたいていたかもしれないなと…。そんなことも思いました。

ただ、そこでまた考えてしまうのです。もしそういう親や大人が身近にいたら、そんなことを言う子には育っていないのではないかと…。


もちろん、記事に書かれているのは極めて限定的な内容ですから、実際のところはどうなのかわかりませんが、とにかく色々悲しくて胸が痛いニュースでした。
森口さんが学校に手紙を書かれたことはご立派だと思いますし、そのことで少しでも、その暴言を吐いた子や騒いでいた子達が何か感じてくれることを祈らずにはいられません。

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2014年6月 7日 (土)

すみません!!

気づいたらブログ書いていないのに眠りこけておりました…。
とりあえず形だけの更新にて…。

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2014年6月 6日 (金)

必要は発明の母

必要は発明の母ということわざがありますが、正にそうだなぁと思うことがありますよね。

今回は発明とは違うのですが、4月初めから地道にコツコツとパソコンを使って慣れない作業をし続けていて、それまではパソコン関連の本を読んでみようとしたこともありますが、どうも拒否反応が出て、読んでもちっとも頭に入ってこず、今理解しなくても困らないし…と結局先延ばし。
そんな状態でもう長年、よくわからないなりにパソコンを使い、よくわからないなりにワードやエクセルでお手紙や表などを作ったりし続けてきました。

そして今回、やると決めてコツコツやり始めたのはいいのですが、何をするにもわかっていないので時間のかかるやりかたしかわからず、きっともっと便利な方法があるんだろうけど…と思いながらも本を見てもそれらしいことが見つけられず、検索して使えそうなことを試してみては、「ん?そんなの見つからないんだけど…」となったり、「あ!これはいける」となったりしながら、それはそれは亀の歩みではあるものの、どうにか止まらず前進し続けています。

すると、さすがに2ヶ月近くああではない、こうではないとあれこれし続けているので、偶然便利な方法を発見したり、これでこうできるんなら、もしかしたらこうすれば面倒なこの作業も簡単になるかも…と試してみてうまく行ったりと、ほんの僅かずつではありますが、できること、わかったことが増えてきています。

これは正に、必要だからこそどうにかして方法を見つけ出そうと思い、また、そのやり方だとあまりに時間がかかり過ぎるから何かもっと方法はないかと更に探したり、考えたりしているからこそで、もう十年以上知らなかったことをこの2ヶ月ほどでいくつも知りました。

こういうことはきっと「学び」にも当てはまるんだろうなと。
興味があること、必要に迫られたことを、自らの意思で学ぶとき、その学びは実り多いものになるのに対し、与えられたことを受け身で、興味もないけど嫌々…というような感じで「勉強」していると、いくら時間をかけてもなかなか身につかないのだろうなと。

もちろん、人それぞれ興味関心が異なるので、どの子にも算数を好きになってもらうことは難しいかもしれません。
ただ、私としては教科としては算数を子ども達と一緒に学んではいるものの、子ども達に何より身につけてほしいのは「自ら考える」ということですから、それに関しては算数が好きかどうか、算数の能力が高いか低いかに関わらず目指すことはできるはずです。

「考えるのは楽しい」と子ども達が感じてくれるよう、これからも努力していかねばと思います。

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2014年6月 5日 (木)

すごいペースだけど…。

5年生になるまで通ってくれていて、中学受験をして合格してからまた教室に戻ってきてくれた子がいます。
中高一貫の男子高だからなのだと思いますが、普通の公立高校からすると考えられないペースで授業が進んでいくようです。
中高一貫用のテキストを使っているので、公立中で使っている教科書とは単元の並びなどが違いますが、中2の6月現在、公立中で言えば中3の1学期終了かそれ以上のところまで進んでいますので、1年以上前倒しのスピードです。

ただ、彼の様子を見ていると、その進度でも特に苦にしている様子はなく、みんなそのペースで平気そうなのか尋ねると、「うん」との返事が。
でも、よく考えれば確かに、ある程度以上数学ができる子達ばかり集まっているのであれば、このペースで進んでもほとんどの子が問題なくやっていけるんだろうなと思いました。
そういう面では私立中学に通うことに大きなメリットがあるのかもしれませんね。

公立校ではどうしても学力のばらつきの幅が大きくなりますし、最近では数学は人数を少なくしたり、難易度別クラスにしたりという対応をしている学校もあるようですが、やはり入試でふるいにかけたわけではありませんから、私立のようにというのはなかなか難しいところなのではないかとも思います。(もちろん、学校の体制や先生の力量などにもよるのでしょうけど。)

ただ、ここが難しいところで、そのメリットを享受するためにしばしば多くの中学受験生が信じられないような過酷な勉強をしている現状を見ると、そのデメリットと天秤にかけるとどうなんだろう…と思ってしまうところもありますが。

もちろん、中にはそこまで徹底的な詰め込み学習をせずに受験して進学する子もいますから、やはりそれも個人の成長度合い、能力差などにも寄るのだろうと思います。だからこそ、余計判断が難しいのでしょうね。

何が言いたいのかよくわからなくなってきましたが、数学がある程度以上できる子、好きな子達にとっては公立より私立の環境の方が、少なくとも数学の学習に関しては快適なんだろうなと、そんなことを思いました。

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2014年6月 4日 (水)

やはり好奇心は重要なのかも。

教室を始めてから、色々な個性を持つ子達に出会いましたが、1年生から来てくれて、現在3年になったある子は就学前から算数にとても興味があり、自ら進んで学んでいたそうです。
実際、教室に来てくれてからも、これまで出会ったこの中でもトップ3に入るだろうと思うぐらい、問題を軽々とクリアし、うちに教室のメイン教材を平均的な進度の1.5倍ぐらいで終わらせてしまいました。

そんなその子とレッスンをしていて、これまでにも感じたことなのですが、今日のレッスンで改めて、やはりそうだな、これだから算数もよりよくできるんだろうなと感じたことがありました。

レッスンの初めに思考力系の問題を考えてもらっていたのですが、いくつか与えられた条件から6チームそれぞれがトーナメント表のどこにあたるのかを考えるというもので、条件を読みながら、その子が言ったのは「うわ、黄色やるなぁ。」「なんでこれしょぼいのに2回戦からなん?」「お、青も結構やるな。」そんなことでした。

ただ条件文を読んでいるのではなく、読みながらその子の頭の中では実際に試合が行われ、黄色があのチームにもこのチームにも勝って勝ち上がっていくところが思い浮かんでいるのかもしれません。
そうでないにしても、ただ読むだけでなく、あ、このチームはいっぱい勝っているから強いな、ここは最初に負けているのに1回戦がないなんてなんかおかしいなと、そういうことを考えているのです。

この子は普段もしばしばこんな感じで「うわ、すげ~な」とか「え、こんなに多いん?!」とか、「うわ、少なっ!」とか、答えを出すときに何か感情が動いているようです。
そして、思い出したのが、過去この子と同じくトップ3に入るのではと思った子にこの子と同じような反応をしながら問題を解いていた子がいたなということでした。

やはり好奇心旺盛で文を読みながら自然とイメージ化できる子達は算数が得意な場合が多いのかもしれないなと、昨日書いたところですが、改めて感じました。

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2014年6月 3日 (火)

興味があるかどうか

今日、ある4年生の子と小数の学習をしました。
その子は4年生から受験に対応した塾にも行き始め、上に兄弟もいるので、既に小数は知っているのではと思いつつ、最初のプリントを渡すと

「これ、何て読むの?」と指差しているのは正に「小数」の文字。
え?文字自体知らないってことは塾でもまだ習ってないってことよね?と思いつつ、「しょうすうって聞いたことない?」と尋ねると、「う~ん、聞いたことはある…。」と、「ない」と答えづらくてそう答えたのかもという躊躇いがありながらの答えが。
そして、本当に小数については白紙状態だったのです。

「ペットボトルとかで1.5リットルとか書いてあるの見たことない?」と尋ねると、「あ~、あるかも。」とやはりややぼやんとした感じの答えが。マラソンの距離の話もしてみたのですが、全て「ああ!」という反応はないままでした。

もちろん、まだ学習していないのですから、知らなくても問題はないのですが、特に上に兄弟がいるような場合、下の子は上の子の宿題や教科書や何かを目にする機会があったりして、何となく既に知っているとか、見たことがあるとかそういうことは少なくありません。

ですが、兄弟がいようといまいと、それに対して興味があるかどうかで目に入ってくるかどうか、仮に目に入っても「なんだろう?」と思うかどうかが変わってくるのだろうなと。

例えば、足し算や引き算をする際に、お買い物の例を出してみると、すぐにイメージできる子達は自分で何か買い物をした経験があったり、おうちの方と一緒に買い物に行ったときなどに興味を持って見ていたりするんだろうと思います。
そして、たとえ小さな金額の例を出したとしても、ほぼ全くぴんと来ない子もやはりいるのです。それは経験しているかどうかはもちろん、やはりお買い物やお金に興味があるかどうかも関係があるんだろうなと。

嫌なことを無理矢理させる必要はないと思いますが(特に小さいうちは)、経験があればそれは生きた知識になるのは間違いありません。
例えば、お買い物に行った際に100円分だけ子どもに買い物をさせてみるとか、少し大きくなった子であれば、いくつかの商品を見せて、「これ全部1000円で買えるかなぁ?」と尋ねてみるとか、そういうことを普段から意識的にさせてもらっている子達は恐らく多少大きな数の計算が出てきてもお金に置き換えて考えることができるようになるかもしれません。

小数にしても、コマーシャルで「3.1415・・・」と書いているのを見て「あれ、何て読むか知ってる?」とか、ペットボトルなどに書かれた小数を見せて1.5リットルというのはどういうことなのか一緒に考えてみたりとか、普段の生活の中でそういうチャンスがあれば意識させてもらえると、実際に小数の学習をするときにやはりスムーズに入っていけるのかもしれません。

放っておいても子どもが自ら興味を示す場合はよいのですが、そうでない場合はおうちでの働き掛けも算数好きにさせるには大事なことかもしれませんね。

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2014年6月 2日 (月)

まずまずの1日。

今日はレッスンはありませんでしたので、そうなるとなんだかんだとぐだぐだになってしまうことが多いのですが、今日は私としては予習も読書も、本を読んだ影響で(多分続かないとは思うのもの)ウオーキングを兼ねてうろうろお買い物に出て2時間半ほど休憩なしに歩いて、その後出勤して少し仕事をして…という1日でした。

ウオーキングでかなり疲れてしまい、本当はまだ仕事をするつもりだったのですが、パワーが途切れてしまったので切り上げて帰宅しました。
明日からまたレッスン。明日は6月最初のレッスンになります。
暑くなってきたので子ども達がバテていなければよいのですが。

今週もどうぞよろしくお願いいたします。

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2014年6月 1日 (日)

6月スタート。

でも今日はオフでしたので、のんびりというか、ダラダラというかぐだぐだというか、そんな感じで過ごしました。
まあ、家事やらなんやらでやろうと思っていたことはある程度やったので、それなりに有意義だったということにしておきます。(笑)

明日はレッスンはお休みですが、仕事もする予定です。
今月もどうぞよろしくお願いいたします。

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