それを見ると安心すること
教室の子たちとレッスンをしていると、私が何を教えたでもないのに、当たり前にいろんな工夫をして(きっと本人は工夫という意識すらない場合も少なからずあるのだろうけど)問題を解いている姿を見ると、とても嬉しくなる。
そして、それを見て安心することがある。
そのうちのひとつをつい先日、4年生スーパーちゃんもまた当たり前にやっているのを目にした。
小数の掛け算の文章問題で、1mの重さが280グラムの針金2.5mの重さは?というような問題にメモされているものを見ると、そこには普通なら多くの子がそう教わってやるであろう「280×2.5」という計算式はなく、「560」という数のあとは答えが書かれていた。
その問題はたまたま勘違いをしたらしく、どうやって考えたのかをちょうど確かめることもできた。
メモされている「560」を「これ2mの重さなんやんね?」と尋ねると、こくりとうなずく。そして、「じゃあ勘違いしたんやね?」というと、あ!という表情になって、あと140グラムを足した答えに書き直した。
何も言わなくても、数を見ただけで「2mとあと1mの半分」と考えたのだ。
その後も、小数の筆算を書くことはなく、整数部分の答えをまず出し、小数部分は先ほどの「0.5」のような単純なものでなくても、「0.1あたり」を考えて、それを何倍かするという考え方で問題を解いていく。
もちろん、当たり前のようにそれができる子たちはみんな、小数や分数を感覚的につかんでいて、「0.1あたり」が知りたければ10個に分ければいいとかいうことを、当然のこととして理解している。
ただ、それは教えられたものではないからこそ、確かな力になるのだと思う。
そして、余計なことを教えなければ、むしろこういう風に解くことの方が自然なのかもしれないと思ったりもする。
というのも、基本的には掛け算をすれば数は大きくなるのに、小数や分数を掛けると数が小さくなってしまう場合がある。
掛けるのに小さくなるという感覚は(同じく小数や分数の割り算で、割るのに大きくなるという感覚も)なんとなく不自然なようでしっくりこないのではないだろうか。
先の問題も確かに、「280×2.5」を計算すれば答えは出るのだけれど、子どもの頭に1mの針金のイメージと、それと比較した2.5mの針金のイメージがあれば、2mと半分という出し方をすることの方が自然なのだろう。
こういう感覚がついている子たちは、ほぼ例外なく、割合の問題だろうといとも容易く理解していく。
だから私は、上述のような解き方をしている子を見ると嬉しくなるし、安心する。
「ああ、この子は大丈夫だ」と。
まあ…私自身かなりの無精者なので、できることなら小数の掛け算の筆算なんてやりたくないし、筆算を書かずに解くには自然と半分にしたり倍にしたり、0.1あたりを考えたりということをしているので、「あ、仲間だ!」と思って嬉しいところもあるのかもしれないけれど…。(汗)
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