昨日の新聞で近大のボクシング部の学生2人が何件もの強盗を重ねていたニュースを目にした。
その日のうちに近大ボクシング部は廃部が決定したようだけれど、事件を起こした学生2人は高校時代に立派な戦績を残し、スポーツ推薦で入学していた子たちのようだ。
京教大の体育会系の学生たちがニュースになったのもまだ記憶に新しい。
きっと普通は「大学生にもなって、そんなことも判断できないのか…」というような反応になるんだろうと思う。
ただ、上述の2つの事件以外にも大学生や中高生、時には小学生までもが、耳を疑うような事件を起こす。
もちろん、少年犯罪が増えているという意見に反論があるのも知っているし、メディアの発達に伴って、昔より頻繁にそういうニュースを見聞きする機会が増えているということもあるだろう。
それに、そもそもニュースになるということは、少なくともそれが「特異なこと」であるからで、世間に当たり前に思われていることであれば、ニュースにさえなりようもないということだろう。
だから、少年犯罪がどうこうとか、近頃の若者はどうこうとか、そういうことが言いたいわけではなくって、私たち大人がもっともっと真剣に、子どもたちを取り巻く環境のことを考えなくてはいけないんじゃないかと思うのだ。
つい先日、男子高校生が別の男子高校生を撲殺した事件が起きた。
その加害者である生徒は「殺すしかないと思った」と答えたとの報道がなされていた。
昨日の近大生たちだって、ほんの少し考えれば、その行為がばれたらどうなるかということぐらいわかったはずだ。自分たちのことは当然だけれど、大学や他の部員達にも確実に迷惑がかかることぐらい、普通なら小学生だってわかりそうなものだ。
それでも、きっとどこかで分かっていなかったんだろうと思う。考えること自体を放棄していたのかもしれない。
最近やたらとお名前を挙げさせて頂いているが、糸山先生が著書などで書いておられたことに、幼少期に残虐な映像などを見せてはいけないということがあった。
たとえニュースであっても、小さい子ども達には善悪の判断なしに、その映像だけがダイレクトに入ると。
戦争だろうと、殺人事件だろうと、たとえそれがいけないことだと取り上げていても、「いけないこと」という部分は「判断」の部分で、映像とは別物ということなのだろう。
小さい頃から敵を殴るとか撃つとか、そんなゲームをやっている場合も、同様に善悪の判断が伴わぬまま、映像とそのときの高揚感のようなものだけが子どもたちに残るのだろう。
先生は先日の講演の中でも「判断力」というのは「育つもの」で、それも12歳頃まででおしまいになるというようなことをおっしゃっていたように思う。
とすれば、12歳頃までの多感な時期に正しい判断力を育てられることのなかった子どもたちが大きくなり、仮に上述のような事件を起こしたとして、「なんでそんなこともわからないんだ?」と言ったところで、その子たちには本当にどう悪いのか「わからない」のかもしれない。
私たちが子どもだったころと比べ、世の中は恐ろしいスピードで変化した。
私が大人になったときでさえ、まだ携帯電話はほとんど普及していなくて、会社員たちでさえ、急な呼び出しにはポケベルだった。
パソコンなんて高級品で1台が100万ぐらいした時代も決して遠い昔ではない。
IT関連の技術の発達は目を見張る速さで進み、いつの間にか小学生でも携帯を持っている子が珍しくなくなり、パソコンだって、特に若い世代や子どものいる家庭では一家に一台はほぼ当たり前、一人一台にさえ近づきつつあるのかもしれない。
子どもがいる家庭でゲーム機がないというところを探す方が難しくもなってきているんだろう。
昔は固定電話と公衆電話しかなく、親や周囲の大人の目があり、その中で子どもたちは何らかの意識を持っていただろう。
間違っているときには叱られたりもして、反発しながらも何かを考えるきっかけになってもいただろうと思う。
極端な話、親に隠れてこそこそしなくてはならないと本人が意識した時点で、それが「よくないこと」「悪いこと」だという意識はすることになる。
仮に自分ではそう思っていなかったとしても、指摘されることでそういう意識が芽生えるだろう。
しかし、今の環境では、子どもが携帯を使うことに対して、大人が管理しきるのはほぼ不可能になっているだろう。
固定電話だってコードレスやら子機やらで、親に隠れて会話することだって可能だ。
テレビだってパソコンだって、自分の部屋にあれば、危険な目に遭う可能性を秘めていることを気づかずにやってしまう子がいてもなんら不思議なことではないし、それが悪いことだという自覚のないまま、してはいけないことをしてしまうこともあるだろう。
また、脳が9歳なり、12歳なりである程度完成してしまうと言われてもおり、糸山先生の言葉をお借りすれば、判断力が12歳までしか育てられないのだとしたら、それまでの期間に大人が意識しなければならないことがより明確に見えてくるような気がする。
感情を犠牲にし、判断力の養成を妨げてまで、さまざまなことを犠牲にして勉強を詰め込んだとして、中学受験が終わったときには既に12歳だ。
糸山先生が危機感を募らせ、私たちに伝えようとしておられることの意味を改めて痛感する。
とりあえず色んなことを犠牲にして、まずは「いい学校」に入ることや、学校での狭い意味での勉強ができるようになることを優先するということが本当に正しいのかどうか…。
何度も言っているように、私自身、中学受験全てを否定する気は毛頭ない。
ただ、そのための勉強の仕方(というよりは「させ方」の方が正しいか?)に対して、疑問を感じることが多い。
「いい学校」に子どもを入れたいと考える親御さんのほとんどが、きっと我が子の幸せを願っているはずだ。
しかし、もし仮に(もちろん完全な仮定の話だけれど)、詰め込み学習を3年なり4年なり(場合によっては更に長期に渡って)させることで、正しい判断力を育てる機会を失い、テストの点は取れるけれど、自分でものを考えられず、それこそ、「そんなことぐらい考えたらわかるでしょ?」というような事件を起こしてしまったら、そのときどう感じるだろう。
それでもやはり、様々なことを犠牲にして「いい学校」に入れることが子どもの幸せだと思われる方がどれだけおられるだろう。
私の尊敬する多くの先生方が、幼少期の詰め込みの学習を否定しておられる。
その理由はさまざまだけれど、とにかく第一は子どもの人間性への影響なんだと思う。
同じように勉強しても、それを苦にしない子もいるだろうし、詰め込みの学習をしても、のびのび育つ子もきっといるんだろう。
ただ、少なくない子たちが何らかの悪影響を受けるということは恐らく否定できないだろう。
人を傷つけても何も感じないけれど、学業成績はいい。
そんな風に子どもたちに育ってもらいたいと願う大人はいないだろう。
もちろん、人の価値観はさまざまなので、成績が悪いより性格が悪いほうがいいと考える方もおられるのかもしれないし、何よりステイタスが最優先だという方もおられるかもしれない。
それは人それぞれの価値観なので、私がどうこう言えることではないと思っている。
ただ、私は嫌だ。
私が関わる子どもたちは、きちんと善悪の判断のできる子に育ってほしいし、自分の頭でものを考え、判断できる子どもに育ってほしい。
学業成績とそれらと、どちらが大事かと聞かれれば、私にとっては迷うことなく後者だ。
私がこの教室を始めるきっかけとなった出会いがある。
その頃その方は、「勉強しに来るんだから、できるようになるのは当然ですけど、人間性も育てなきゃ意味がありません」とおっしゃっていた。
人間性をゆがめずに賢くなるとすれば、それは正に理想だろう。
目指すのはもちろんそういう教室だけれど、子どもの得意不得意はそれぞれだし、能力も十人いれば十人みんな違う。
同じ教材で同じように学習したからといって、結果は確実に異なる。
無理をさせることで、その子の持つよさが失われてしまうとすれば、恐らく私はその子のよさを潰さないことに重きを置くだろう。
最近は、凶悪犯罪を犯した犯人に反省の色がないというような例も少なからず伝えられるが、そんな中には少なからず、反省しようにも自分がやったことが悪いことだという認識がない人がいるのではないかと思う。
悪いと感じられなければ、反省のしようもない。
正しい判断力を育てるべきときに、何らかの事情でそれが妨げられ、善悪の判断が伴わないまま体だけ成長してしまって大人になれば、反省しろと言われてもどうすればいいのかさえわからないなんてこともあるのかもしれない。
どうもまだうまくまとまらないままに書き始めてしまったので、なんだかえらいことになっているけれど、これからもずっと考えていかねばならないことなんだろうと思う。
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