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2009年6月30日 (火)

前代未聞・・・(汗)

先日、児童文学の「バッテリー」にはまってしまったことは書いたような気がするのですが、先日、他にも注文するものがあったので、バッテリーの文庫本の2巻と3巻も注文しました。

今朝、注文していた本が届き、初めは別の本を少し見ていたのですが、ちょっとトイレに…と思い、文庫本で手軽な「バッテリーⅡ」を持ってトイレに立ちました。

トイレには時計がなく、結構読んでしまったなぁと、ほんの一瞬、まさか出勤時間を過ぎていたりしないよね?という不安が頭をよぎりましたが、さすがにそれはないわなぁ~と呑気にトイレを出ました。

すると・・・。

!!!どうやら1時間半近くトイレにこもっていたようです!!!(大汗)

これはあまりのんびりはしていられない時刻です。(幸い、まだ遅刻の危機!とまではなっていませんでした。)
少し急いで支度をし、家を出ました。

水曜は最初のレッスンの子達が大抵20分以上前に到着するので、その子達より先に到着するのはちょっと無理かも・・・という時刻になっていましたが、3人一緒だし、5年生と4年生なので、まあ、近くをお散歩しているか、ドアの前で待ってくれているか、大丈夫だろうと、とりあえずは15分前ぐらいに着けるはずの電車に乗りました。

そして、おもむろに文庫本を取り出して続きを読み始めました。

自宅から教室は電車で2駅。電車に乗っているのはほんの5分足らず。
本を読みながら、1駅目に到着したのをぼんやり把握し、次降りなきゃなと思いつつ、続きを読んでいました。

で、ほどなく次の駅に到着。
さて、降りなきゃ。そう思って顔を上げると、視界に入った風景がいつもと違っています。

え?!な、なんで??

一瞬、本当に自分でも訳がわかりませんでした。頭が真っ白になりかけましたが、とにかく降りなきゃ!と気づき、慌てて下車。

・・・・・・。

気づけば1駅乗り過ごしていました・・・・・・。(が~~~~ん)

この時刻だと、どう考えても折り返しの電車を待っていては遅刻。
焦って駅を出て、タクシーに飛び乗りました。

レッスン開始4分前・・・。(大汗)

予想通り、ドアの前で子どもたちが3人待っていたので、謝って、大慌てで体勢を整えて、なんとか時間までにはレッスン開始できました。不幸中の幸い・・・。(一応レッスンの準備は前日に全てして帰っているので、体さえくればなんとかなるんですが・・・。)
ホント、ごめんね、不安にさせて・・・。(反省)

それにしても、独立してから出勤時に電車を乗り過ごしたことは記憶にないし、そもそも、これまでの人生で電車で寝過ごしたとか、気づかず乗り過ごしたという経験自体、まだ会社員時代に飲み会の帰り、次で降りなきゃというところで一瞬意識喪失、気づけば隣の駅でドアが閉まるとことだったという経験1回しかないのです。
それなのに・・・・・・。

バッテリー恐るべし・・・。

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2009年6月28日 (日)

違和感を感じる。

一昨日、ネットであるニュースが目に留まった。
奈良県で、車椅子の女の子が地元の公立中学に進学を希望したが、それが叶わず、入学許可を求める訴訟を起こし、入学許可を仮に義務付ける決定が出されたというもの。

その女の子がどういう障害を持っておられるのかは書かれておらず、小学校は地元の公立小学校に通っていたということが書かれている程度だったので、詳しいことはわからないのだけれど、そのニュースに取り上げられていたこのひと言がなんだか妙に引っかかった。

町教委の就学指導委員会は「中学には階段が多く、命の保証ができない」として、県立養護学校への進学を答申。

「命の保証」って言葉…。
本当にそういう表現だったのかどうかはわからないけれど、なんだか違和感を感じた。

車椅子だったら命の保証はしてもらえないけれど、そうじゃない子たちは中学校に命を「保証」してもらえるということなんだろうか?

確かに学校には階段は多いだろうし、中学となれば小学校以上に教室移動などもあるかもしれない。
でも、入学を許可できない理由が「階段が多い」から「命の保証ができない」ってのはなんだかおかしくないか?

詳しい状況がわからないので、あまりいい加減なことは言えないけれど、「命の保証」っていうのはどうも何かひっかかる…。

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2009年6月27日 (土)

恐れていたひと言・・・。(小ネタ系)

すみません…。今日はレッスン自体は普段の土曜よりは少し楽だったはずなのですが、暑くなっているせいか、歳のせいか、疲れが…。
というわけで、金曜のレッスンでのひとコマで更新に代えさせて頂きたいと思います。(汗)

水曜に思いがけずお花を頂いて、とても感激したのですが、これまでにも何度かお祝いやお祝いとかに関係なく「お庭に咲いたから」などと言って美しいお花を頂いたことがありました。

ただ、うちの教室をご存知の方はお分かりかと思いますが、うちはとにかく小さな教室なので、優雅にお花を飾れるようなスペースがありません…。
で、空いているからと言って、使っていない机の上に花を飾るのは、見ようによっては……と、なるべくそういうイメージを抱かれないで済むような場所に(といってもごくごく限られているのですが…)飾らせて頂いていました。

今回頂いたお花はかなり立派なアレンジだったので、教室の一番奥の方に置いてある移動できるサイドテーブルのようなものの上に飾らせてもらうことにしました。
それでも、やはりそのテーブルの中央にでんと飾ると、なんとなくイメージが…と、気を遣ってやや端に寄せて、パッと見てもそういう発想が浮かばないように気をつけたつもりでした。
実際、水曜、木曜の子たちは、お花に気づいても「あれどうしたん?」とか「きれい!」とかいうぐらいだったので、安心していました。
そして金曜日。

2つ目のレッスンを開始してほどなく、高学年の女の子が言いました。

「誰か死んだん?」

…………。(汗)
それだけは言われないで済むようにと思っていたのに…。(泣)

まあ、幸い(?)ほかの子たちが「なに言っとん!」だの「なんでよ~!」だのと笑いながらつっこんでくれたのでいいんですけど…。

こうなったら床に置くか?(違)

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2009年6月26日 (金)

子どもたちが教えてくれる。

ぐうたらして、作業がなかなか進んでいないのですが、今年はちょっと本気で教材を作ろうと思っています。(一応新年の誓いだったのですが、既に半年過ぎようとしていることに愕然とする今日この頃です…。(汗))

大きなテーマは「自分がやりたいと思えるもの」、「子どもたちが穏やかな表情で取り組めるもの」そんなところなのですが、頭ではあれこれずっと考えてはいるものの、作業自体はなかなか進みません…。

でも、何かのきっかけを子どもたちがくれることがよくあります。

今日も、今日のは直接「教材を作る」というとこをには関係ないかもしれませんが、ああ、そうだよね、こういうことが大事なんだよね…と気づかせてもらったことがあります。

今使っている教材の中で、立方体の展開図の問題があり、その中の1枚のプリントに、こういう場合は立方体ができないという例をまとめて書いてあるものがあります。
簡単に内容を言えば、面の数が6ではないもの、組み立てると重なる面があるもの、4枚が田の形に並んでいるものという風にまとめられ、いくつか図が描かれています。

そのプリントの扱いは「読むプリント」だったのですが、教室にはマグネット式で実際に展開図のように並べて組み立てられる教具を用意してあるので、それを見た一人の子が、「よし、ためしてみよ!」と、ニコニコくっつけ始めました。
(プリントのものは全部できないのに…)と思い、2つほど確かめたところで声をかけたのですが、あまりにもニコニコ楽しそうにしているし、どうも私の言っていること(プリントに書いてあること)が通じていないようで、ひとつ組み立ててみては「あぁ~、だめや!」とか「あれ~、これもだめや~」とか言っているその子を見ていると、そうか、これが本当の学びなんだよなと改めて感じました。

プリントに書いてあるのを読んだって、実感は何もありません。
大人からすれば、一見時間の無駄に思えるようなその作業を、自分の手で一つ一つ確かめることで、きっと確かな理解をしていくんだろうと思うのです。

現に(まあ、男の子で、展開図にあまり抵抗がないタイプの子だったということもあると思いますが)、ひと通り全部確かめ終わった後、立方体ができるものに○をつけなさいという問題のプリントを渡すと、その子は驚くようなペースで正解してしまったのでした。

まだまだいくらでもレッスンに改善すべきところがあるんだなと、子どもたちがいつも私に教えてくれます。

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2009年6月25日 (木)

目からウロコ

私は普段ほとんど小説の類を読まないのだけれど(時間の使い方は限りなく下手なくせして、多分「合理的」であるとか、何かに役に立つとか、そういうことを優先してしまうので、小説読む時間があるんだったら、仕事に関係した本を読むべきだろ…と思っているようなところがあるような気が…(汗))、何かにきっかけでたまに小説などを読むことがある。

最近は、ある本で紹介されていた子どもたちにお勧めの本を何冊か注文したついでに、どんな内容なんだろう?と軽い気持ちで読んでみたら自分がはまってしまったなんてこともあるのだが、そんなうちの1冊を読んでいて、ひとりですごく感動してしまったことがある。

その本は、本来は子ども向けではないと思うが、以前映画にもなり、書店でその本のタイトルを目にしては、気になりつつも購入することなく今に至っていた。
いずれ読書のブログでもご紹介する予定だけれど、その本のタイトルは「博士の愛した数式」。

子ども時代にこんな先生との出会いが本当にあったら、その子は算数や数学がすごく好きになるかもなぁとかあれこれ思いつつ、こんな作品が書ける作家さんのことをしみじみすごいなと思った。

その中で、はぁ~!そういうことだったのね!!とひとりで本当に感心、目からウロコになったこと。
それは「三角数」の話。

ワークブックなどでそれに似たような問題を目にすることはあったけれど、その問題がどういう意図で出されているのかよく理解していなかったし、また、たとえば、1から10までや50から100までなど、連続した数の和を求める問題などは、既に解き方を知ってしまってもおり、また、私が理解している小学生の解き方は例えば1から100までであれば、

1、  2、  3・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・98、99、100
100、99、98・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  3、 2、 1
―――――――――――――――――――――――――――――――――
101、101、101・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・101、101、101

このように考えると、101が100個並ぶことになり、101×100の半分が答えというようなものだ。

言葉で説明されてももちろん理解はできるのだけれど、その本の中に出てきた「三角数」の説明には、「黒豆」が上から1、2、3・・・とピラミッド状に積まれていて、そのピラミッド状の黒豆の個数を求めるための図が描かれていた。

とてもシンプルななんでもない図なのだけれど、それを見て、はぁ~!そういうことなのね!と心から納得した。

小説から学ぶこともあるんだなと。

もし、まだ子どもの頃に、今の私が感じたような感動を経験した子どもは、きっと算数が好きになるだろう。興味を持って、色々なことを考えるようになるのではないかなと思う。

また素敵な本に出会えた。そんな気分。

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2009年6月24日 (水)

サプライズ

今日のレッスン中、インターホンが鳴り、出てみると何かお届けもののよう。
名前を確認され、目の前に出されたのはこれでした。(困ったことに、どうしても携帯で撮るとぶれるんですよね…。手が震えてるんでしょうか…。いや、きっと、箸より重いものを持ったことがないから、筋力がないんですね。(大嘘))

Flower

いつも大変お世話になっている方からのサプライズな贈り物でした。
本当にびっくり。
居合わせた子どもたちには「なんで花~?」「誰からきたん?」とつっこまれまくりました。(笑)

なぜ「お花」なのかは秘密にさせて頂くとして(なんで?)、お花ってすごいですよね。
見ただけでなんだかとても幸せな、豊かな気持ちになりませんか?
数日間は幸せな気持ちで過ごさせて頂けそうです。子どもたちにも優しくなるかも。

ただ…ひとつだけ問題なのは…レッスン中は私の視界に入らない場所にしか飾れないということでしょうか…。(やっぱり優しくはならないってことだな…。(汗))

贈り主さま、本当に本当にありがとうございました!

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2009年6月23日 (火)

新鮮だ!

基本的にうちの教室は最低限のことしか教えない不親切な教室で、ただ、「最低限」というのがひとりひとりの子の現在の能力や得手不得手、性格なども考慮して判断するので、誰かにとっては「最低限」でも、別の子にとってはヒント出し過ぎ、教え過ぎと感じられることもあると思う。

逆に、(自分にはそこまで教えてくれなかったのに…。)と内心感じている子もいるかもしれないが、まあ、これまでのところ、そういう苦情はほとんど出たこともないし、稀に出た場合は「だって、ちゃんとできとったやん!」とでも言えば、大抵の場合は「そうやったっけ?」となって収まる。

と、前置きが長くなったけれど、というわけで、この子は多分できそうだなと判断した場合、なんの説明もなくプリントを渡し、「できると思うから、とりあえずやってみて。もしわからんかったらなんか言うわ。」となんとも乱暴な言葉をかけておく。

そのお蔭で、しばしば私も新鮮な気付きを得ることができる。

今日もそんなひとコマがあった。(まあ、本人には言ってないので、私が勝手に、そっか~、そうだよね~と思っただけなわけだけれど。)

算数の能力が高いと感じる4年生の男の子に、小数の割り算の筆算の問題が書かれたプリントを渡した時のこと。
それまでのその子の様子を見ている限り、多分言わなくてもできるだろうと、プリントを渡して様子を見ていた。
すると、全く問題なく解き始めたのだけれど、ふと見ると、筆算で2段書きして余りを出していくところに、小数点のついた数が書かれている。(正確な問題を忘れてしまったのだけれど、例えば、0.6が4回なら2.4になるわけで、筆算でもその小数点をきちんと書いていたということ。)

ああ、感覚がある子、きちんと理解している子にとっては、何も言わなければこう書くのが普通なんだな、きっと…。

そう思って感心した。
そして、そう書くことさえできれば、小数の割り算の筆算で余りの小数点の位置を打ち間違えるなんてことはそもそもないはずだ。

計算をし終えた後、それは完璧なのだけれど、筆算のときには計算の途中の小数点は基本的に書かないので、学校で習ったときにはそれに合わせてねということは一応話したが、本来、これだけきちんと理解している子が、仮に筆算の途中の計算に小数点をつけていようがいまいが、そのこと自体は何も問題にならないようにも思う。

今日のは小数だったけれど、整数の割り算の筆算をしているときでも、数の感覚のある子、きちんと理解して計算をしている子は、黙っているとやはりちょっと違った書き方をする。

例えば、352÷80を筆算に書いたとして、普通なら、まず答えの十の位のところに「4」を書いて、「35(百の位と十の位のところ)」の下に「32」と書くわけだけれど、数の感覚がきちんと身についている子たちに自分でやらせてみると、「352」の下に「320」と書いて引き算をする。
そう書くことができれば、その方が余りがどれだけあるか、すんなり理解できると思う。

まあ、これについても、「普通はここに0は書かないから、学校で習ったら…」とかなんとか一応言っておくことになるのだけれど、きちんと理解している子たちに「0は書くな」とか「小数点は打つな」とか言う方が、かえって難しく感じられたりするのかもなぁと思わないではない。
もちろん、そういうのにも対応できる能力がある子たちのようだから、問題はないのかもしれないけれど。

最初に説明しないことで、自分でも気づかなかったようなことを子どもが気付かせてくれたりする。
そんなときは、改めて子どもたちってすごいなぁと思う。

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2009年6月22日 (月)

連休。

今週は連休。
昨日は例によってかなりだらだらしてしまったので、今日はちゃんと活動しようと思っていたのですが、出かけようかなぁと思った頃に曇り始め、雨が…。
結局、郵便局と銀行に行っただけで、街にも出ず、出勤もせず…。

読書熱もやや冷め、今日はまだ50ページほど読書しただけ。昨日と合わせても100ページ読んでないなぁ、多分。

と、だらだらしていた休日、書くことないなぁと思っていたところ、SZK先生がトラックバックしてくださった記事のコメント欄を見て、ふむ、そうなの?と思ったことが。

ちょうど土曜に書いた記事に関連していたのでトラバしてくださったのかな?と思いつつ…。
確かに掛け算はかける数とかけられる数を入れ替えても答えは同じだし、コメントに書かれている、長方形の面積を「横×縦」にしてもバツにするというのはさすがにどうよ?と思いますが、少なくとも小学生のうちは、やはり式の意味を意識しておく方が、後々にメリットが大きいと私は思います。

SZK先生のブログのコメント欄にある「蜜柑を4人に3個ずつ」だと、やはり蜜柑3個セットが4人分あるということを意識してもらいたいなと思います。

式に単位をつけると…「3個×4人分=12個」というのはすんなり理解できますが、「4人×3個分」という式は、式自体の意味が私にはイマイチぴんときません。(この場合、答えはやはり「12人」ということになるんでしょうか?)

というか、文章を読みながら、蜜柑3個と言われれば、「3個の蜜柑」がイメージされ、4人と言われれば、「人が4人」イメージされるのであれば、悩むまでもなく、自然と「3×4」の式を立てられるような気がします。

この「イメージできる」というところが最も重要なんだと思いますので、ちゃんとイメージできている子が式を逆に書いたとしても、それ自体はそう目くじらを立てることではないのかもしれません。
ただ、頭の中は見ることができないので、逆の式を書いた場合はやはり確認することになるのです。

恥ずかしながら、私は高校で理系の数学に挫折したため、高等数学はほぼ全くわかりません。(文系の数学も既に忘却の彼方ですし…。)
ですから、中学、高校やそれ以降で掛け算は逆にしても何ら問題がないのだとしても(というか、中学以降は「×」の符号を書くこと自体がほとんどなくなるでしょうから、順序を意識することすらないのかもしれませんが…。)、やはり小学生のある時期に、きちんと式の意味を意識する機会はあった方がいいと考えています。

もちろん、面積やら距離やら、どちらを先に書いても意味は同じような場合にまで、公式の順が縦×横だからとか速さ×時間だからという理由で間違いだというのはナンセンスだろうと思います。

単位を意識しないまま計算してしまう子が少なからずいるので(特に文章題が苦手な子などは…)、単位を意識させるひとつのきっかけとして、やはり式の順序はおさえておきたいと考えています。

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2009年6月21日 (日)

知らないことだらけ。

まあ、もちろん、どんなに博識な方だって、世の中のあらゆることを知り尽くすなんてことは不可能だろうし、知れば知るほど知らないことも増えていくような気もするし、でも、私の場合、恥ずかしながら、本当にかなりの「もの知らず」なのは間違いない。

昔から、興味のないことに関しては全く努力をしないようなヤツだったので、地理や歴史は子どもの頃から興味を持つことのないまま、テストだけは一夜漬けで乗り切って、今に至ってしまった。

先日読み終えた本に書かれていたことを読みながら、ああ、こんな風に学べば、もっと興味が持てたかもなぁなんて思ったりもしたけれど、とりあえず今のところ、地理、歴史はかなり苦手科目のままだ。

で、そういいつつも話は休日ネタ系なのだけれど、私が子どもの頃、なぜだったのか父親は中国物産店で烏龍茶やジャスミン茶の茶葉を買い、私たちは普通に緑茶や麦茶を飲んでいても、父はその頃からずっとたいてい中国茶を飲んでいた。(あ、ちなみに日本人ですけど。)
そのお店に、冷凍の「竜眼」が売られていて、父は時々それを買ってきて、家族で食べたりしていたのを覚えている。

「竜眼」と呼んでいたことは覚えているが、いつ頃から父がそれを買ってくることはなくなり(売ってなくなったのかもしれないけれど…)、そのまま長らく記憶から消えていた。

先日、ネットのDMで「台湾産生ライチ」の予約販売の案内があり、それを見て、ああ、なんかこれ懐かしい気がする…と、父も懐かしがってくれるかな?ととりあえずネットで予約しておいた。
それがなんと偶然にも今日、父の日に届いたので、晩にはそれを持って実家に行ってきた。

ただ、届いたものを見ると、子どもの頃食べたものよりふた回りぐらい大きい印象で、あれ?と思ってネットで調べてみた。
私が勝手に「竜眼」と同じものだと思い込んだだけで、「ライチ」は「ライチ」で、それとは別にちゃんと「竜眼」と呼ばれる果実があることを知った。(先に調べろよって感じ…。)

まあ、それでも父は喜んでくれたのでいいのだけれど、その「生ライチ」。台湾からの空輸で、1年に1回だけこの時期にしか輸入されないものらしい。

そうか…これ、台湾からわざわざ飛行機で日本にやってきたのか…と、なんだか改めてすごいなぁと感じた。

さて、私がそれを持って実家に行ったところ、実家には叔母から山形産のさくらんぼが届いていた。
それとは別に、お知り合いが持ってきてくれたんだけどね…とパックに入ったさくらんぼを見せ、「笑い話なんよ」という母。
なんだろう?と思ったら、お知り合いの方が山形から送ってきたって持ってきてくれたんだけど、パックに「チリ産チェリー」って書いてあったというのだ。

う~ん…。チリ産?
見た目は完全に日本の「さくらんぼ」である。
これがわざわざチリで作られ空輸されたというのはイメージしづらい…。しかし、私は何しろもの知らずだから、とりあえず帰って調べてみるわと言って帰宅した。

で、ネットで調べてみたところ、チリでは確かにチェリーはとれるようだったけれど、それはいわゆる「アメリカンチェリー」と呼ばれている、赤黒いチェリーのようだった。
きっと、それが入っていたパックを使いまわししたんじゃない?と母に伝えた。

子どもに興味を持たせる方法として、野菜や果物などの産地を意識させ、家でそれを調べてみるなどの方法を提案しておられる方がおられるけれど、それってこういうことなんだなぁと、なんだか今頃自分でしみじみ納得した。

私はしたことないけれど、それこそ、何かを個人輸入とかしてみる経験をすれば、外国を身近に感じられるのかもしれないし、珍しい野菜や果物について調べてみることで、日本や世界の地理に興味を持つきっかけになるのかもしれない。

今更ながら、そんなことを感じた日曜日。

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2009年6月20日 (土)

「羽が9枚」のちょうちょ

以前にも書いたことがあると思うけれど(もしかしたら何度も書いているのではと思うけれど…)、気づいたときには何度でも書いてしまう私をお許しください。(汗)

私自身、教室を始めたときにはまだぴんと来ていなかったということも過去に告白ずみだけれど、教室で子どもたちとレッスンをしていても、うちで一緒に掛け算をするより先に、学校やよその塾などで掛け算を既に習っている子たちの中に、少なからず、過去の私のように、式の意味を意識していない子がいる。

今日のレッスンでも、掛け算を使う文章題のプリントをしていた子が何人かいたのだけれど、その中に、その式じゃいかんだろ?という式を書いて、指摘されても全くピンとこない子がいた。

文章題を読んで、数が出てくる順に掛け算の式を書く。
意識しないと、大抵の子がそういう風に式を書いているように感じる。

例えば、「さくらの花びらは5まいです。さくらの花が4つあれば、花びらは全部で何まいですか」と問われれば、「5×4」と書くけれど、もし仮にこれが「さくらの花が4つあります。ひとつの花に花びらは5まいあれば、花びらは全部で何まいですか」と問われれば「4×5」と書いてしまうような感じだ。

もちろん、掛け算は左右を入れ替えても答えは同じなので、文章題の答えとしては正解だ。
しかし、上述の問題であれば、前者が正しい式で、後者は間違った式ということになる。
というのは、花びらを集めれば花びらになるし、花を集めれば花になるからだ。

今日、「ちょうが9ひきいます。はねの数は全部で何枚でしょう」という問題を「9×4=36」と書いている子がいた。
中にはうっかり間違う子もいるので、そういうのを見つけると、とりあえず遠まわしにツッコミを入れてみる。

「そんな気持ち悪いちょう、嫌やわ…。」

けれど、その子はきょとんとしている。
なので、更にもうひと段階ツッコミを入れてみる。

「だって、羽9枚あるんやろ?」

そこで「ああ!」とかいう反応をする子は、式の意味を一応わかっている、意識している子たちだ。
しかし、それでもぴんとこない子ももちろん少なからずいるのだ。そういう場合は更につづけて

「羽の数聞かれたら、羽の数を集めな、羽の枚数にならへんよ?9匹を集めたら36匹になるやん?」

などというと、そこで「え?そうなん?」という子もいるし、「へぇ~、知らんかった」という子もいる。
まあ、中には「いっしょやん!」とかつっこんでくる子もいるわけだけれど、ここは残念ながら譲るわけにはいかない。
答えは同じなので、暗算するときに逆さにしようがそれは構わないけれど、答案に書く式としては間違いは間違いとして必ず指摘する。

なぜそれにこだわるかというと、掛け算の段階で式や単位をしっかり意識しておけば、割り算や、その先で学ぶ、少なくない子たちが苦戦する、速さや割合などの問題での苦労が減ると思うからだ。

答えなければならないものを集めたり分けたりするということを意識していれば、割り算になって、どっちをどっちで割るのか迷うことはなくなる。
答えが整数の範囲に限られている間は、よくわからないままでも大きい数を小さい数で割ればいいということで乗り切れてしまうが、答えが小数や分数の範囲に広がってくると、どちらをどちらで割るか、きちんと意味を理解していなければ間違ってしまう。
そんな場合にも、単位に意識があれば、迷うことが少なくなると思う。(実際、低学年から一緒に勉強してきて高学年になった子たちで、速さや割合で苦戦した子はほぼ記憶にない。)

小さなことだけれど、掛け算の学習の段階でお子さんの書く式が正しいかどうか、きちんと確かめておかれることをお勧めしたい。

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2009年6月19日 (金)

まだうまくまとまらないけど…。

昨日の新聞で近大のボクシング部の学生2人が何件もの強盗を重ねていたニュースを目にした。
その日のうちに近大ボクシング部は廃部が決定したようだけれど、事件を起こした学生2人は高校時代に立派な戦績を残し、スポーツ推薦で入学していた子たちのようだ。
京教大の体育会系の学生たちがニュースになったのもまだ記憶に新しい。

きっと普通は「大学生にもなって、そんなことも判断できないのか…」というような反応になるんだろうと思う。

ただ、上述の2つの事件以外にも大学生や中高生、時には小学生までもが、耳を疑うような事件を起こす。
もちろん、少年犯罪が増えているという意見に反論があるのも知っているし、メディアの発達に伴って、昔より頻繁にそういうニュースを見聞きする機会が増えているということもあるだろう。
それに、そもそもニュースになるということは、少なくともそれが「特異なこと」であるからで、世間に当たり前に思われていることであれば、ニュースにさえなりようもないということだろう。

だから、少年犯罪がどうこうとか、近頃の若者はどうこうとか、そういうことが言いたいわけではなくって、私たち大人がもっともっと真剣に、子どもたちを取り巻く環境のことを考えなくてはいけないんじゃないかと思うのだ。

つい先日、男子高校生が別の男子高校生を撲殺した事件が起きた。
その加害者である生徒は「殺すしかないと思った」と答えたとの報道がなされていた。

昨日の近大生たちだって、ほんの少し考えれば、その行為がばれたらどうなるかということぐらいわかったはずだ。自分たちのことは当然だけれど、大学や他の部員達にも確実に迷惑がかかることぐらい、普通なら小学生だってわかりそうなものだ。

それでも、きっとどこかで分かっていなかったんだろうと思う。考えること自体を放棄していたのかもしれない。

最近やたらとお名前を挙げさせて頂いているが、糸山先生が著書などで書いておられたことに、幼少期に残虐な映像などを見せてはいけないということがあった。
たとえニュースであっても、小さい子ども達には善悪の判断なしに、その映像だけがダイレクトに入ると。
戦争だろうと、殺人事件だろうと、たとえそれがいけないことだと取り上げていても、「いけないこと」という部分は「判断」の部分で、映像とは別物ということなのだろう。

小さい頃から敵を殴るとか撃つとか、そんなゲームをやっている場合も、同様に善悪の判断が伴わぬまま、映像とそのときの高揚感のようなものだけが子どもたちに残るのだろう。

先生は先日の講演の中でも「判断力」というのは「育つもの」で、それも12歳頃まででおしまいになるというようなことをおっしゃっていたように思う。
とすれば、12歳頃までの多感な時期に正しい判断力を育てられることのなかった子どもたちが大きくなり、仮に上述のような事件を起こしたとして、「なんでそんなこともわからないんだ?」と言ったところで、その子たちには本当にどう悪いのか「わからない」のかもしれない。

私たちが子どもだったころと比べ、世の中は恐ろしいスピードで変化した。
私が大人になったときでさえ、まだ携帯電話はほとんど普及していなくて、会社員たちでさえ、急な呼び出しにはポケベルだった。
パソコンなんて高級品で1台が100万ぐらいした時代も決して遠い昔ではない。
IT関連の技術の発達は目を見張る速さで進み、いつの間にか小学生でも携帯を持っている子が珍しくなくなり、パソコンだって、特に若い世代や子どものいる家庭では一家に一台はほぼ当たり前、一人一台にさえ近づきつつあるのかもしれない。
子どもがいる家庭でゲーム機がないというところを探す方が難しくもなってきているんだろう。

昔は固定電話と公衆電話しかなく、親や周囲の大人の目があり、その中で子どもたちは何らかの意識を持っていただろう。
間違っているときには叱られたりもして、反発しながらも何かを考えるきっかけになってもいただろうと思う。

極端な話、親に隠れてこそこそしなくてはならないと本人が意識した時点で、それが「よくないこと」「悪いこと」だという意識はすることになる。
仮に自分ではそう思っていなかったとしても、指摘されることでそういう意識が芽生えるだろう。

しかし、今の環境では、子どもが携帯を使うことに対して、大人が管理しきるのはほぼ不可能になっているだろう。
固定電話だってコードレスやら子機やらで、親に隠れて会話することだって可能だ。
テレビだってパソコンだって、自分の部屋にあれば、危険な目に遭う可能性を秘めていることを気づかずにやってしまう子がいてもなんら不思議なことではないし、それが悪いことだという自覚のないまま、してはいけないことをしてしまうこともあるだろう。

また、脳が9歳なり、12歳なりである程度完成してしまうと言われてもおり、糸山先生の言葉をお借りすれば、判断力が12歳までしか育てられないのだとしたら、それまでの期間に大人が意識しなければならないことがより明確に見えてくるような気がする。

感情を犠牲にし、判断力の養成を妨げてまで、さまざまなことを犠牲にして勉強を詰め込んだとして、中学受験が終わったときには既に12歳だ。
糸山先生が危機感を募らせ、私たちに伝えようとしておられることの意味を改めて痛感する。

とりあえず色んなことを犠牲にして、まずは「いい学校」に入ることや、学校での狭い意味での勉強ができるようになることを優先するということが本当に正しいのかどうか…。

何度も言っているように、私自身、中学受験全てを否定する気は毛頭ない。
ただ、そのための勉強の仕方(というよりは「させ方」の方が正しいか?)に対して、疑問を感じることが多い。

「いい学校」に子どもを入れたいと考える親御さんのほとんどが、きっと我が子の幸せを願っているはずだ。
しかし、もし仮に(もちろん完全な仮定の話だけれど)、詰め込み学習を3年なり4年なり(場合によっては更に長期に渡って)させることで、正しい判断力を育てる機会を失い、テストの点は取れるけれど、自分でものを考えられず、それこそ、「そんなことぐらい考えたらわかるでしょ?」というような事件を起こしてしまったら、そのときどう感じるだろう。
それでもやはり、様々なことを犠牲にして「いい学校」に入れることが子どもの幸せだと思われる方がどれだけおられるだろう。

私の尊敬する多くの先生方が、幼少期の詰め込みの学習を否定しておられる。
その理由はさまざまだけれど、とにかく第一は子どもの人間性への影響なんだと思う。

同じように勉強しても、それを苦にしない子もいるだろうし、詰め込みの学習をしても、のびのび育つ子もきっといるんだろう。
ただ、少なくない子たちが何らかの悪影響を受けるということは恐らく否定できないだろう。

人を傷つけても何も感じないけれど、学業成績はいい。
そんな風に子どもたちに育ってもらいたいと願う大人はいないだろう。

もちろん、人の価値観はさまざまなので、成績が悪いより性格が悪いほうがいいと考える方もおられるのかもしれないし、何よりステイタスが最優先だという方もおられるかもしれない。
それは人それぞれの価値観なので、私がどうこう言えることではないと思っている。

ただ、私は嫌だ。
私が関わる子どもたちは、きちんと善悪の判断のできる子に育ってほしいし、自分の頭でものを考え、判断できる子どもに育ってほしい。
学業成績とそれらと、どちらが大事かと聞かれれば、私にとっては迷うことなく後者だ。

私がこの教室を始めるきっかけとなった出会いがある。
その頃その方は、「勉強しに来るんだから、できるようになるのは当然ですけど、人間性も育てなきゃ意味がありません」とおっしゃっていた。
人間性をゆがめずに賢くなるとすれば、それは正に理想だろう。
目指すのはもちろんそういう教室だけれど、子どもの得意不得意はそれぞれだし、能力も十人いれば十人みんな違う。
同じ教材で同じように学習したからといって、結果は確実に異なる。
無理をさせることで、その子の持つよさが失われてしまうとすれば、恐らく私はその子のよさを潰さないことに重きを置くだろう。

最近は、凶悪犯罪を犯した犯人に反省の色がないというような例も少なからず伝えられるが、そんな中には少なからず、反省しようにも自分がやったことが悪いことだという認識がない人がいるのではないかと思う。
悪いと感じられなければ、反省のしようもない。

正しい判断力を育てるべきときに、何らかの事情でそれが妨げられ、善悪の判断が伴わないまま体だけ成長してしまって大人になれば、反省しろと言われてもどうすればいいのかさえわからないなんてこともあるのかもしれない。

どうもまだうまくまとまらないままに書き始めてしまったので、なんだかえらいことになっているけれど、これからもずっと考えていかねばならないことなんだろうと思う。

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2009年6月18日 (木)

う~ん・・・。

レッスンが終わっていたので、教室で仕事を中断してリアルタイムで見ました。

しかし・・・う~ん・・・なんか、なんだかなぁ・・・。
糸山先生登場短すぎ・・・。

それに、文章題として取り上げられていた問題、もろ糸山先生のどんぐり問題でしたよね?
なのに、なんで一般の塾さんで取り上げられて、糸山先生との関連には何も触れられずなんでしょう?う~ん・・・。

NHKだから、何か特定の教育法やらを取り上げることができないのかもしれませんが、なんとも消化不良な感じ・・・。
そう感じたのは私だけでしょうか・・・。

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お知らせ

既にご存知の方も多いかと思いますが、おまけに紹介しておきながら、私はリアルタイムで見られるかどうかわかりませんが、本日19時30分からNHKに糸山先生のどんぐり倶楽部が取り上げられるそうです。

2009.06/18(木)午後7:30~NHK(深夜にBSで再放送)...オススメで~す。
「クローズアップ現代」

“10歳の壁”を乗り越えろ~考える力をどう育てるか~

それと、先日の大阪講演が21日まで無料視聴可能になっています。
大阪講演無料動画視聴ページ(2009年6/17-21(日)期間限定)

番組についてのご案内が遅くなってしまったので、ブログをご覧くださったときには既に終了しているという可能性があるなとちょっと後悔…。
ご興味のある方はどうぞ。

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2009年6月17日 (水)

どうやら古い人間らしい・・・。

最近、しばしば感じることなのだけれど、どうやら私はかなり古い人間らしい…。

つい先日、ある保護者の方にもお話したことなのだけれど、うちではレッスン中にお茶やお水を飲んでいいことにはしていない。
もちろん、来てすぐだったり、体調があまりよくなさそうだったり、何らかの事情があるときには、その事情によりOKすることはあるけれど、レッスン中に「のど渇いた!」とか言って、当たり前のようにお茶などを飲もうとする子がいると、まず止める。

お勉強中だから、我慢できない?と尋ねるときもあるし、学校でも授業中にそうやってお茶飲んでも何も言われない?と尋ねるときもある。
レッスンが長時間にわたるのであればともかく、のどが渇いているならレッスン前に飲んでおき、あとは終わるまで我慢してもらうのがひとつのけじめではないかと考えている。

ただ、時々、学校で授業中に飲んでも何も言われないと答える子どもがいる。
そして、もしかすると、その可能性は決して低くないのかもしれないとも思う。

そもそも、昔は例えば会議や講演会の席で、講演をする方以外がお茶やお水を飲むということはまず考えられなかったように思うけれど、ペットボトルが普及したからなのか、一体どこでどう変化したのか、今では会議や講演会の席でお茶などを飲んでいる姿は全く珍しいものではなくなっている。

お茶に限った話ではなく、昔は誰かとの話の途中に電話に出るとか、メールを見るとか、そういうのは相手に失礼になるという感覚があったように思うし、やむを得ない場合は断ってから電話を受けたり、メールを見たりするのが当然のことだったように思うのだけれど、このあたりも、人によっては携帯は鳴ったら出るのが当然というのに近い感覚を持っているように思うし、それは年代が下がれば下がるほどそんな感覚になっているのかもなと感じたりもする。

授業中にトイレに行くのも、昔はトイレは休み時間に行くもので、授業中に行くのはよほどのとき…というような感覚があったように思うのだけれど、どうもその辺の感覚も変わってきているように感じる。

もちろん、何もかも頭ごなしに我慢させるべきだとは思わないし、本当にトイレに行きたいのに我慢するのは体に悪いだろう。
体調が悪くてお水が飲みたいのに無理して我慢させるのも間違っているとも思う。

ただ、なんとなく、子どもたちが何かを「我慢する」機会というのがどんどんなくなっているようにも感じる。
そして、どうもそれがいいことだとは思えない…。

でも、そう思うこと自体、きっと私が古い人間ってことなんだろうなと最近思う。

以前から思っていることなのだけれど、私たちが子どもの頃は、シャツはズボンやスカートの中にちゃんと入れなければだらしないと注意を受けた。
それがいつの間にか、「シャツインはダサい」というのが一般的な感覚になり、今時の子どもたちは、シャツが中に入っていると「シャツが入っているよ(かっこ悪いから出しなさい)」と注意を受けたりもするようだ。

昔は髪を染めたら不良だなんて言われていたけれど(まあ、今でも中高生などは校則で禁止のところが大半だろうけど)、今じゃ染めていない女性の方が少ないのではないかと思う。(私は天邪鬼だから、そうなれば尚更染めないけど。)

それに気づいたとき、いつの間にか「常識」って変わっていくんだよなぁと、改めて感じた。

とすると、私にとっての常識は今の多くの大人にとっては常識ではないのかもしれない。
家でも学校でも注意を受けないことを私だけが注意したら、子どもも戸惑うか、腹を立てるかするだろう。

そのうち「化石」とか呼ばれるようになるかもしれない……。(汗)

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2009年6月16日 (火)

なんだか違った方向へ・・・(汗)

ここ数日、読書熱が高まっているのは既に書かせてもらっていますが、先日読んだ(ご紹介はまだできていませんが)「頭のよい子が育つ本棚」という本で紹介されていた子ども向けなどのお勧め本を何冊か注文しました。

今回はほとんどが文庫本だったので6冊頼んでも昨日頼んだ1冊より安かったのですが、朝自宅に届き開封。
その中の「夏の庭」という小説を読み始めてみました。

子ども向けと言っても文字もかなり小さいし、漢字にもほとんどルビがありませんから、読めるとしても高学年以上、それも読むのが好きな子でないとつらいかなという印象。
でも、本棚に立てる前に読んでみようかなと読み始めたところ……なんだかはまりました…。

内容は小学生の男の子たちと老人が登場するのですが、なんだか素敵なお話でした。
思わずほろっと来たりもして…。(汗)

今日は比較的まともな時間に起きたのですが、結局午前中はそれを読破…。(う~ん…。)
で、次どうしようかなと、昨日読み始めた勉強法に関する本を読みかけたのですが、なぜだか面白いと感じられず…。
おかしい…。昨日読み始めたときは結構面白かったのに…。小説を読んだら何か調子が…。

というわけで、更にもう1冊、こちらはかなりの有名どころですよね、きっと。
書店でその本が小学生向けの棚に並んでいるのは何度も目にしていたのですが、シリーズもののようでしたし、高学年向けみたいでしたので、結局これまで買うことなく来ていました。

でも、文庫になっていたんですね…。
とりあえず1冊だけと思って注文してみたのです。あさのあつこさんの「バッテリー」。

い、いかん……。はまりました…。
出勤前に読み始め、今日は20時半までレッスンだったのですが、終わってちょっとひと息と座ったら……1時間読んでしまいました!!!!
まだこれから掃除して片付けなきゃいけないのに!!!(大汗)

けど、面白いです、これ。
「バッテリー」が最初に世に出たときには既に大人になっていた私は、あさのあつこさんのお名前は存じ上げているものの、彼女の作品は何も読んだことがありませんでした。
しかし、これ、ほんとに子ども向けなんですか??漢字もかなり使ってある上、結構難しい漢字まで出てきて、最初にはルビはふってあったりするものの、最初だけ。
これって、文庫本だからなんでしょうか?

あと20ページで読み終わりますが、私の中では続きを購入することが既に決定…。
う~ん…。なんだか違った方向へ行っている気がしてならない…。(汗)
って、今日も2冊読破確実ですね。(今日は450ページ余り。)

それにしても、児童文学侮れません。

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2009年6月15日 (月)

雑感。

今日は(も?)イマイチ書くことがまとまらないので、ど~でもいい雑感をつらつらと。

最近ちょっと本を読む時間が増えていると書いたところですが、今ある著者の本をやや集中して読んでいます。
ただ、結構古い本で、字がちっちゃくって分厚いものが多く、読みたい気持ちとは裏腹に、なかなか進まず…。
また、かなりの数の著書があるので、全部は読めないしと、比較的手ごろなものやどうしても読んでみたいものを先に購入していたのですが、やはりこれを読まねばならない気がする…と。

というわけで、500ページ余りで税込4500円強という、私にとっては色んな意味でキツイ1冊をとうとう本日注文…。
何冊もまとめて買って、気づけば5000円、8000円…なんてことはしばしばあるのですが、1冊で4500円強。おまけに500ページ余り。それも、ちっちゃな字でびっちり書いてあるのは確認済みなので、行間たっぷり系の本で言えば、それこそ1000ページ分ぐらいあるのではと…。(そういう意味では良心的価格なのかも…。(苦笑))

しかし、いくら興味があるとはいえ、その1冊を読破するには長い道のりが待っている気がします…。(汗)

そして、話は激しく変わりますが、おまけに全く関係なさすぎの話ですが、31歳の方が千葉市長に当選されましたね。
31歳ですよ、31歳!

それも、村長とか町長とかではなく、市長、それも政令指定都市の!!
どんな方なのか全く知りませんが、31歳で市長選に立候補されたこと自体も私からすれば信じられない!凄すぎる!!って感じですし、また、前副市長も出ておられ、60歳を超える方お二人と31歳の方の中で、有権者が31歳の方に投票したということは、とにかく何か変えてほしいってことの表れなのかなと思ったり。

横浜市の中田市長や宮崎の東国原知事などを見ていると、トップが代わればこんなに変えられることがあるんだな…と感じることも多いですが、それにしても31歳。千葉市の今後がちょっと楽しみでもありますね。

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2009年6月14日 (日)

読書デー

日曜は仕事を離れてぐーたらだらだらしてもいいことにしようと思っているので(といいつつ、最近は休日じゃなくてもかなりだらだらしているのが問題だけれども…(汗))、今日は基本のんびりの予定で、昨晩は眠くなるまで起きていたら朝5時…。
で、目覚ましかけずに寝て、11時頃起床。

ただ、昨日の夜更かしもネットで延々遊んでいたというわけではなく、珍しくかなりの時間は読書していた。
そして、今日起きてからも結構な時間を読書していた。
私は速読とかできないので、普通に読むしかできないわけで、それでも昨日の晩から今日にかけて、300ページちょいの本と200ページちょいの本2冊ほぼ読破。(あと10ページほどで読了。)
これって私にはかなり珍しいこと。

まあ、どっちも仕事には全然関係ない本なんだけど、ネット書店で気になって注文してみたもの。

そういえば…最近だらだらしてしまって明らかに仕事量が減ってるなぁという自覚はあるけど、一時期より本は読めてるんだなと。
かなり手抜きの紹介に変えてしまったけれど、週に2冊の本を紹介するペースに戻して2か月余りになりますが、まだご紹介が追い付かないままですので。(紹介するまでもない、単なる自分の趣味みたいなものも読んだりしていますから、数だけはそれなりに読んでいそうです。)

今日は2冊を読了して、お布団で3冊目を読み始めるか、あと50ページほど残っている読みかけの本を読むか…。
さて、どうしようかな。

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2009年6月13日 (土)

素直であること

色々な先生が、素直な子どもは伸びるとか、素直さがないと伸びないとか(まあ同じ意味だけれど)言っておられる。
この場合の「素直」というのが何を指しておられるのか厳密なところはわからないけれど、少なくとも大人に対して従順であればいいとか、なんでも言うことを聞けばいいとかいう意味ではないだろうと思う。

人の話をよく考えもせず何でも賛成するような子どもが「賢い子」であるとは言えないだろうし、同様に、相手が大人だからといって、自分が納得できなくてもそれに従うような子どももやはり「賢い」とは言わないような気がするからだ。

ただ、その意見に賛成であろうと反対であろうと、まず相手の話をきちんと聞くであるとか、自分が間違ったことをしてしまってそれを指摘された場合には素直に非を認めるであるとか、そういう意味での「素直さ」は確かにあった方が色々な面でプラスになるようにも思う。

でも、かくいう私自身、物心ついて以降ずっと、「可愛くない」とか「素直じゃない」とか言われてきた人間なので、自分ができていないことを子どもたちに強制する気もない。
しかし、子どもの頃であれば、ごめんなさいと言えばそれで済むのに意地を張って、言えなかったばっかりに母親に1日中口を聞いてもらえなかったり、ちょっと大きくなってからは素直に人に甘えたり頼ったりできなくて、色んなことを無理して頑張ったり、そんなことは数えきれないぐらいある。
もう少し素直で可愛げがあれば、きっとかなり違った人生だっただろうなと思わなくもない。

それでも私は、ある時期以降は自覚があって、その上で、素直にならなければこういうしんどい思いをするんだということも織り込み済みで意地を張ったりなんてこともあったわけだし、だから、それも仕方ないと思える。
けれど、子どもたちはまだそんなことに気づいていない子がほとんどだろうから、知らない子にはその事実を知らせてあげるべきなのかもと思ったりする。

人の話を素直に聞かないのも自由。間違っているのにそれを認めず屁理屈をこねるのも自由。
ただ、そうすることで友達をなくしたり、人からかまってもらえなくなったりする可能性があるということを知っているのならご自由にと、私は思う。

ほとんど誰もが、きちんと話を聞いてくれる相手に対して好感をもつだろうし、間違いをきちんと認め、謝れる人に敬意を抱く人はいても、愚かだと思う人はまずいないだろう。
それは大人でも子どもでも同じなのではないだろうか。

であれば、そうできる人は周囲の人から可愛がられ、大事にされる可能性が高くなるだろうし、そうできない人は当然その逆の可能性が高まるだろう。

教室の子たちを見ていても、変な意地を張って、(ああ、損してるよなぁ…)と思う子がちらほらいる。
そういうところも汲み取って、優しく対応するのが大人なのかもしれないけれど、もしその子の周囲の大人がみんなそうしてしまったら、その子はずっと気付かないまま、大きくなっていくかもしれない。

だから私は時々、わかっているけどわざと態度に出してみる。
謝るべきときに謝らなかったことでその日1日居心地が悪かったとしても、その経験は無意味ではないのではと思うから。(もちろん、多少の葛藤はある。大人げないとか、その子のその日のレッスンが台無しになってしまうかもとか…。それに何より、私自身がまだまだ未熟なので、その判断がいいのかどうかも迷いがないわけではない。)

人の話をきちんと聞く。
いけないことをしたらきちんと謝る。

簡単そうで難しいことだけれど、すごく大切なことなんだろうなと思う。

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2009年6月12日 (金)

予感的中です、先生…。(汗)

昨日の帰り、ふと、当たり前すぎることに今頃気づきました…。

新年度、小学校の授業時間が増えた影響で、これまで来られる子がいた早い時間帯のレッスンが不可能になり、更に、昨年度1年間幼児さんを募集しなかったことで幼児さんのレッスンもほぼなくなり、今年はほかにしなくちゃいけないことがあるから、授業が減ったらそれはそれでいいか…と思っていたのです。

しかし、新年度が始まる前にある先生にそのことをお話したとき、先生がひとこと…。

「それ、危険ですねぇ…。」

と。
危険?危険ですか??とそのときは思っていましたが…さすが前世双子の兄。(と勝手に言っているだけですが…。)全てお見通しだったようです…。

レッスンが減って空いた時間、結局大半をだらだら過ごしてしまっていることに昨日今更ながら気づきました…。
レッスンが終わってからは多少は仕事はしていますが、どう考えても昨年度より遥かに労働時間短縮中…。ダメじゃん…。

昨日過去のブログを読み返していたとき、1日5レッスンは普通の感覚になっていた時期があることに愕然…。
楽になればどんどん楽な方に流されるという自分がどれだけ無精で怠惰なのか、再び痛感したのでした…。

というわけで、反省はしたのですが、明日はもともと朝からフルレッスンの日。
結局週明けからとか言っていたら、またずるずる行ってしまいそうな…。(汗)
心優しい皆様、時々「ちゃんと働いてる?」ってツッコミ入れて頂けると幸いです。(をい)

それにしても…さすがです、兄上。(苦笑)

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2009年6月11日 (木)

久しぶりにこれ。

すみません。今日は比較的早く帰宅もし、食事も済ませたのですが、どうも書くことがまとまりません…。
随分以前に何度か、過去の記事をピックアップさせて頂いてきましたが、また長らく止まっていました。
というわけで、久しぶりに、過去にご紹介した続きを2007年2月半ばの分までピックアップしてみました。

あくまでも勝手な基準で、お子さんがおられる方に何か参考にして頂けるかなと思うようなものをピックアップさせて頂いています。(けど、本当にあくまでも自分の勝手な基準ですが…。(汗))

過去の記事はあまりご存知ない方でご興味を持って頂ける方がおられましたら、どうぞ。
皆さまのためにというより、ついつい忘れがちになることを思い出すためにやっているようなところもあるのですが。(苦笑)

できないことに目を向けると・・・
確かな成長
その言葉が意味するところ
文章題を読んで笑える子
「ばってんのやつ」
最高の幼児教室と最高の指導者 
(今回は2007年2月16日までの分)

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2009年6月10日 (水)

「生き抜く力」

またまた糸山先生の講演会での話ですが、糸山先生がお話しされた中で、確かこんな言葉がありました。

私たちが(親がとおっしゃったかもしれませんが)すべきことは子どもたちに「生きる力」、「生き抜く力」をつけさせることです。

自分の中でずっと前からぼやんとしていて、なんとなくまとまってはいたけれど、どう表現すればいいか、表現を間違えば誰かにご不快な思いをさせてしまうかもしれなないし…とまとめきれずにいたことが、たったひと言ですっきり言い表されたような気がしました。

と、このあと書いていたらどんどん長くなり、どんどん収拾がつかなくなり、ややデリケートな話題にも関わってき、じっくり考えてまとめてからでないと、公開すべきではないなという状況に陥ってしまいました…。

というわけで、今日のところはこれでUPさせて頂きます。(汗)

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2009年6月 9日 (火)

すとんと腑に落ちたこと。

糸山先生の講演会での「工夫」ということについて、書こう書こうと思いながら、1週間経ってしまった。
そして、どんぐり倶楽部のサイトに糸山先生が色々なまとめをしてくださってもいて、私が書くまでのこともなさそうになってきたのだけれど…。
ちなみに、「工夫」に関連したまとめはこちらに。http://homepage.mac.com/donguriclub/sum_up_01.html

あとはこちら。(引用させて頂きました。)

●これまでの学習は
 思考力に関係なくやればできた。

 逆に言えば、
 やっても思考力は養成できていなかった。

 思考力とは関係のない部分の評価しか
 してこなかったので、
 思考力養成もしていなかった。

 今までは
 遊びや日常生活の中にあった工夫する機会が
 思考回路養成の役割を果たしてきたが
 今はその大事な機会が失われている。

 意識的に作るにしても
 非常に困難な時代となっている。

 すると、
 今まで思考回路養成をしてこなかった勉強での
 思考回路養成をせざるを得なくなった。

 ところが、今までは、誰も、
 勉強での思考回路養成をしたことがなかった(理論も確かな手法も持っていなかった)ので
 偶然に期待するしかなかった。偶然教育と勘違い学習が全国に広まっている。

私は教室を始めて間もない頃に糸山先生の「絶対学力」を読んで衝撃を受け、すごいなぁと思ったものの、これを忠実に実行できる親御さんはきっと限られているだろうなとも感じた。
それと、どんぐりのサイトはあまりにも情報が多くて、無精者の私は本なら読むのはそう苦にはならないものの、あのサイトを隅々まで読むのは…と、斜め読みしかしていないままなので、こういうところはどうお考えなんだろう?とか、こういう単元はどう学習するんだろう?とか、疑問も持ったままになっているところもある。(きっと、お尋ねすれば、全て完璧な答えが返ってきそうな予感はするのだけれど。)

ただ、その中でも結構大きなひとつが、今回自分の中でとてもすっきりした。

というのも、糸山先生は計算ドリルや漢字ドリルなどの宿題さえもやらせてはいけないとおっしゃっていて、(そのぐらいなら私たちが子どもの頃だってやってたのにな、つまらないから嫌いだったけど…。)という思いをずっと持っていた。

外遊びの機会が減ってしまったとか、自分たちで何かを作ったりする機会が出来合いのおもちゃやゲーム機に取って代わられてしまったとかいうことが関係していそうだということはぼんやり考えてはいたが、その明確な答えが「工夫する機会」という言葉に集約され、すとんと腑に落ちた。

そうか、そうなんだな…と。

私たちが子どもの頃は、確かに計算ドリルも漢字ドリルも百字帳も計算カードも、反復学習のようなものはたくさんあった。
ただ、塾に行っている子はまだそう多くはなかったし、子どもたちだけで外で遊ぶことはまだ十分にできた。
子どもだけで遊ぶから、ルールも自分たちで決める。大人の目が届かないから、時には危ない目に遭ったり、大怪我をしたりなんてこともあったけれど、だからこそ、危険に対する感覚や痛みについての感覚などもきちんと身についていたように思う。

そして、おもちゃといっても、出来合いのおもちゃを次々買い与えてもらえる家庭はそうなかっただろうし、段ボールや牛乳パック、輪ゴムや割りばし、そんな身近な色々なものを使って工作したりすること自体が一種の遊びだった。
ゲームといえば、テレビゲームなんてまだほとんどなくて、トランプやボードゲームなど、誰かと一緒に遊ぶのが「ゲーム」だった。
テレビも見たい時に見たいだけ見られるわけではなく、ビデオ録画なんてのもまだ全く一般的ではなかった。
時間を持て余したら、自分たちで何か「楽しいこと」を見つけ出していたんだろうと思う。

確かに、生活のありとあらゆる場面で「工夫すること」が要求された。
それは強制ではなく、当たり前のこととして。

それと比べて今の子どもたちを取り巻く環境は…。
田畑や森や林、野原などが身近にあるような地域に住んでいる子どもたちは恵まれているのかもしれない。
少なくとも、このあたりで子どもたちだけで自由に遊びまわれる、大人の手の入っていない空き地や森、林なんてのはほとんど思い当たらないし、牛乳パックや割りばしで工作することが遊びだと感じる子どもはきっととてもとても少ないだろう。
仮に何かを作るのでさえ、既にキットになったものや、何かの作り方の本を見ながらとか、そんな風になりがちな気がする。

そんな環境にいる子どもたちを守るには、私たちが子どもの頃やっていた勉強さえも制限せねばとおっしゃる糸山先生のお話は、ああ、そういう意味だったんだ!と感じた。

「工夫する機会」
それは子どもたちにとってとてもとても大切なんだと思う。

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2009年6月 8日 (月)

髪を切りに行ってきた。

といっても、多分、誰にも気づかれない程度に…。(汗)

実は、社会に出てからこっち、ずっと同じ美容師さんに髪を切ったりパーマをあてたりしてもらってきた。
その方がちょうどスタイリストになりたてのときにお店を訪れ、指名するにも誰も知らない状態だったので、偶然担当してくれたのが1つ年上の女性だった。

なんとなく、その方の雰囲気が気に入り、また、初めてパーマをあててもらったのがその方だったということや、変化が苦手ということなどもあって、結局その後、その方がお店を移ろうとも、独立しようとも、ずっとついて回ってきた。

ただ、ここ数年、私はお休みが日曜だけか日月かで、月曜は美容院がお休み、おまけにその方の予約は前日でも既に取れない状態になってしまい(下手すると1週間前でも希望の時間は取れないなんてことも…)、さすがに1週間も前から予約してまで美容院に行くほどの気合いも入らず、もともとも半年スパンぐらいだったのが更に延びてしまっていた。

実はゴールデンウィーク前から行こうとしていたのだけれど、どうにもタイミングがうまく合わず、どうしたものかと考えていた。
困ったことに、私の髪はパーマがあたりにくいらしく、最低3時間、下手すると4時間は見ておかないといけないので、仕事前に予約するのは危険なため、結局日曜しか行くことができない。

しかし、ここ数年はお店もすっかり大きくなり、その方はカットはしてくれるものの、それ以外のところは全てアシスタントがやって、最後のチェックだけその方がしてくれるような状態になっており、髪質を知ってくれていることと、お任せでも安心していられること以外の魅力はやや薄らいできてもいた。

で、ふと、新しいお店を探してみようと思い立った。
わざわざ電車に乗って元町まで行かなくたって、自宅近くや仕事場近くでもっと便利なところがあるかもしれないと。

思い立って、昨日ネットであれこれ調べていたら、美容院はネットに出ているだけでもものすごい数あって、自宅近くにも仕事場近くにもそれはそれはたくさん見つかった。
その中で、自宅の徒歩圏に月曜がお休みではないお店を2軒見つけた。

そして、ものは試しに、今日の仕事の帰り(今日は振替だけだったので17時には教室を出たので)、そのうちの1軒に行ってみた。
さすがに初めてのお店だし、どんな雰囲気なのか知るために行ったので、とりあえずカットとトリートメントをお願いした。

担当してくれた女の子は恐らくひと回り以上年下だろうと思われる可愛らしい子で、対応もカットの仕上がりも、別に何の不満もなかった。
ただ…うまく説明のつかない部分で、この先ずっと通いたいお店ではないなとも感じた。

ずっとひとりの美容師さんにお願いしてきたのは、感覚的に何か落ち着くものを感じたからだったなと改めて思い出した。

今日のお店に何か具体的な不満があるわけではない。
だけど、きっと例えばどうしても月曜に急いで美容院に行かなきゃ!とかいうことがない限り、もう行かないんだろうなと思う。

美容院って街中を見回せば、びっくりするほどたくさんある。
ということは当然、美容師さんもびっくりするほどたくさんいるということだろう。

そして、それぞれの美容院にそれぞれの売りなどがあり、料金、立地条件、サロンの雰囲気、サービス、技術その他の色々なものを考慮して、多くの方は美容院を選ぶのだろう。(中には全く決めていなくて、思い立ったときに適当に行くという方もおられるのだろうけど。)

サロンの雰囲気や美容師さんの印象、技術などは、実際にお店に足を運び、カットなりをしてもらって初めて感じることができる。
ネットの情報やお店の外観などでわかるのはごくごく一部のことだ。

数え切れないほどある美容院の中で、更に星の数ほどいる美容師さんの中から、自分に合うと感じる美容師さんと出会える確率はもしかしたら奇跡のようなものかもしれない。
どうやらもうしばらく、美容院については悩むことになりそうだ。

で、今回こうして美容院をネットであれこれ見て回りながら、そこに書かれている宣伝文句はどのお店でも当然いいことしか書いていないわけで、得られる情報といえば、お店の外観や内装、メニューや料金、営業時間や定休日、あとはせいぜいスタイリストの顔といったところ。
全く参考にならないとまでは言わないけれど、本当に知りたいところは足を運ぶ以外に知る方法はないだろう。

そんなことを感じながら、塾選びもどこか似ているのかもしれないなと、ぼんやり思った。
実際に入ってみないと分からないが(美容院よりは多少は口コミなどの情報も得られるかもしれないが)、最初のとっかかりはチラシやネット検索なんかになるんだろう。
道を歩いていてたまたま目に留まったからといって、問い合わせに来てくださるということはそんなにあることではないのではないだろうか。

仮にどんなに評判のいいところでも、子ども自身がどう感じるかは、やはり実際に授業を受けてみないとわからないことだろう。

塾も塾講師も、大学生の講師なども入れれば、きっとかなりの数の講師がいて、その中でその子が本当に合う講師と出会えるのはやはり奇跡のようなものなのかもしれない。
(まあ、それは塾講師に限らず、学校の先生や様々な習い事の先生などでも同じことが言えるのかもしれないけれど。)

学校と違って、塾や教室は、私が美容院を変えようと考えたように、合わなかったり、使い勝手が悪かったりすれば、ほかに変えるという選択肢がある。
人にはやはり相性というものがあるから、いくらがんばっても、合わないと感じる子だっているだろう。

ただ、今回私がほかの美容院を探そうとしたきっかけは、単に、彼女のお店がどんどん大きくなり、忙しくなり、以前のように予約が取れなくなったというようなことだ。
美容師さん自身への不満ではないし、むしろ美容師さんを変えたくないのに、やむを得ないという方が近いと思う。
それでもほかの選択肢がたくさんあれば、とりあえずほかを探してみようかなとなってしまったわけだ。

うちなんて、全然大きくもないのだけれど、やはり初めの頃と比べると融通を利かせたくても利かせられなくなってしまったこともあるし、少ないとはいえ、一度に見る人数も昔よりは増えた。
まあ、昔は2人同時に見るので本当に精一杯だったし、今はたとえ3人でもその頃よりきちんと対応できるようになった部分もあるとは思っているが、昔がよかったな…と思われないよう、日々精進していかねばなんてことを思った。

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2009年6月 7日 (日)

なくて七癖。(ど~でもいい話)

自分の癖には自分では気付きにくいもののようですが、先日ふと、もしかしてこれって一般的な感覚からするとちょっと変わってるのか?と思い当ったことが。

私は自分ではもともとあまり物欲が強くなくて、女だけど高級ブランドとかにはあまり興味もなくて、服は好きだけど高いものは無理して買おうなんて思わなくて、所有欲とか収集癖とかそういうのあんまりないと思っていました。(まあ、実際そうなんですけど。)

ただ、もしかしてこれも一種の収集癖なんだろうか?と思うことが…。

それに気づいたのは、この春、昨年試しに買ってみて結構お役立ちになりそうだったユ○クロのブ○トップが、デザインもカラーもバリエーション豊富になり、素材やディテールもよりいい感じになって店頭に並び始め、とりあえず1枚買ったあと、病みつき…。結局現時点で色やデザインは異なるものの、既に持っていたものと合わせると10枚以上になっており、我ながらこれってどうなんだ…と思ったのがきっかけだったわけですが…。

もちろん、リーズナブルなものだからできることなわけですが、実は…思い返せばもう10年以上前から、そんな傾向があったような気がするのです…。

ある年、イタリアのカジュアルブランドの定番ニットを気に入り、結局3年ぐらいに渡り、まったく同じデザインのものを色違いで5、6枚購入。
ここ数年は、ユ○クロのタートルの長袖カットソーを毎年色違いで買い足し、多分……全部並べたら15色はあるのではと……。(汗)
ちなみに、定番のタートルセーターも10色以上になっているような…。(大汗)

いえ、もちろん、全部単価の安いものですし、だからこそやってしまうわけですが、使い勝手がよくて手頃な価格だからって、一般の方はもしかしたらここまで同じものばかり買い揃えたりはしないのかも…と。

というわけで、この週末、でかでかと限定価格になっていたブ○トップをこれ以上買ってしまわないよう、今日は晩まで家にこもっていたという…。

もうちょっと「大人」にならねばと思ったのでした…。

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2009年6月 6日 (土)

今日もなんとか終了。

今日は授業参観やら、運動会やらで、お休みの人が結構いて、でも、その分インフルエンザ休校期間やらの振替の人もいて、トータルではまあいつもよりほんのちょい人数少なめぐらいの土曜日でした。

夜更かし、朝寝坊モード全開で、日々反省中の私ですが、土曜だけは何とか起きられます。(といっても、余裕はほぼ全くなしですが…。)
で、振り返ってみると、既に物心ついた頃から、学校には遅刻はしないけど、いつもギリギリに登校しているような子どもで、学校に行く時間から逆算して、寝ていられるぎりぎりまで寝ているというような毎日だったように思います。

さすがに高校は登校時、電車、バス、バスと乗り換えが2回あり、乗り継ぎの関係でぎりぎりにということも難しく、学校には少し早目にはついていましたが、やはり登校前はいつもバタバタと、最低限のことをする時間しかない状態でした。
そのまま大人になり、会社員時代もまさにそんな感じ…。

ずっとそんな生活なので、変に早起きしてしまうと、何をしていいやら…という状態になるというか…。(苦笑)

その後、塾に勤め始め、結局はどうなったかというと……塾の勤務時間に間に合う時間に起きて、そこから逆算して7~8時間前に寝る生活になったわけです………。

独立してからはその頃よりはレッスン開始時間が早くなったことや、さすがにもう少しだけ人間らしい生活をせねば…と思って、朝4時や5時に寝る生活ではなくなったものの、8時に起きればとっても早起き!という感覚は明らかに一般的な大人の方の生活とはずれまくっていることでしょう…。

こうなったら、毎朝9時頃からどこかにバイトにでも行くしかないでしょうか?(違)

始業時間に間に合うように起きるという生活にはかなり年季が入っていますので、そう簡単には変わらないのかもしれません…。
仕事はいっぱいあるんですけど……。
誰か、お尻に毎日火をつけてくれないでしょうか…。(をい)

と、土曜で既にかなり疲れてもおり、おまけにいつ以来かわからないぐらい久しぶりに家で缶カクテルを1本飲んでいるので、甚だしくどうでもいい話でスミマセン…。
「工夫」については忘れないうちに書かねばと思っています。今しばらくお待ちください…。

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2009年6月 5日 (金)

今日は…。

実は既に0時を回っておりまして、まだしなきゃなことが少しあり、明日に備えて早寝もせねばなりません故、手抜き更新で…。

講演会のもうひとつのキーワードは「工夫」。
そらまめさんのブログで既にかなり書いてくださっているようですので、覗いてみてください。
私は、先生の「工夫」という言葉で、これまで自分の中でぼんやり意識していたことがすとんと納得できた感じがありました。

またちゃんと書かせて頂こうと思っています。

もうひとつ、極めてど~~でもいい話で、自分の癖なのかも?と気づいたことがあるのですが、それは覚えていたらまた、ど~でもいい休日ネタにでも…。(もしやこれも収集癖??って話で。)

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2009年6月 4日 (木)

不思議なもんだな。

年長さんから来てくれていて、その頃からとても落ち着きがあって、本当によくできる子がいます。
幼児の間は主にほかの先生が担当していたので、1年生になってその子と一緒にレッスンするようになり、やはりすごくよくできてびっくりするのですが、算数をやっていて、すっと答えが出ないと、私の感覚からすれば、まだ全く詰まったうちに入らないよ??っていうぐらいのタイミングでポロポロ泣いてしまうことが二、三度続きました。

さすがに1年生の子を泣かせるのは(それも難しいと感じて…)私としてもつらいので、その子のことがもう少しつかめるまでは、表情をより一層観察して、やばそう!と思ったら、即何かフォローしなくちゃ…と思っていたある日のこと。

その日は算数はとりあえずつつがなく乗り切り、残り10分ぐらいでパズル問題に取り組んでもらうことにしました。
で、ある問題を渡したら、一度やってみてうまくいかず、消しゴムで消し、もう一度やってみたけど、またうまくいかず、更に消しゴムで消し…。

その姿を見ていて、(うわ、やばい?泣いちゃう??)とハラハラし、ちょっとヒントを出そうかと思って何か言いかけた私に、その子はきっぱりと「待って、考えてるから」と言うではありませんか。

結局、その後何度も何度も試行錯誤し(1年生には結構難しい問題だったので)、すごく頑張ったけどレッスン時間終了。
それでもまだ頑張って考えていて、「どうする?預かろうか?持って帰る?」と声をかけてようやく、少し考えてから「預かって。」とプリントを差し出しました。
その子の顔を見ても、全く泣きそうな気配なし。

別の機会にも、やはりパズルだと、どれだけ試行錯誤しても、その子は悲しくならないようだということがわかりました。

考えるという意味では同じことだし、ある意味、今やっている程度の計算より遥かに頭を使っているはずなのに、見た目が「勉強」でなければ大丈夫なんだなということがなんだか不思議で。

もしかすると、勉強ができないとダメだとかバカだとか、そういう強迫観念のようなものでもあるのかもしれませんが、まあしばらくは様子を見ることにしようと思います。
すっとわからなければ、どんなことに対してもいらいらしたり、悲しくなったりする場合は、さすがに心配にもなりますが、どうやらこの子は大丈夫みたいですから。

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2009年6月 3日 (水)

真剣に話せば。

引き続き、糸山先生のお話から。

先生がエピソードとしてお話されたことで、いろんな意味ですごいなぁと思ったこと。
以前、先生のところに、機械的反復学習などを経てやってきた高学年の子がいたそうです。(5年生とおっしゃったか、6年生とおっしゃったか…(汗))

その子、どんぐりの文章題を前に、「絵を描いて」と言っても、全く何にも書けない状態が6ヶ月続いたのだと。

その「6ヶ月」というのを聞いて、まず一番すごいと思ったのは、それでも先生と子どもを信じて待ち続けたのであろう親御さん。
ただの1枚も絵を描けない状態の我が子を、半年間通わせ続けられたというだけでも、私は本当に驚きました。

そして、もちろん、そんな状況でもじっと待ち続けられた先生もすごいと思いましたし、諦めなかったその子も本当によくがんばったなと思いながら聞いていました。

そのお話の続きで先生がおっしゃったのですが、「子どもたちは真剣に話せばちゃんと話、通じますよ。」と。
「考えられない頭」になってしまっている状態からやり直すには小学校の間、12歳までの間しかないということ、その間に本気でやり直す努力をするか、諦めて一生、人の指示で動く人間になるか、どっちがいいかというようなことを真剣に話せば、子どもたちはわかると。

それはすごくすごく納得のいく言葉でした。

過去、私も先生と似たようなことを書いたことがあるかもしれませんが、私にとっては相手が子どもだからこそ、尚更、嘘や小手先のテクニックは見透かされる気がしています。
だから、私の場合、相手が幼稚園の子だろうと、低学年の子だろうと、使う言葉は子どもにわかりやすい言葉を選ぶとしても、駆け引きやその場しのぎのことは言いません。

そして、うちにも数年前、高学年になってから来てくれて、どんぐりの文章題の問題に合った絵を描くということがなかなかできなかった子がいました。
その子はもう本当に何度も何度も泣きましたが、そのたび、真剣に思いを伝えていました。
多分、その「真剣さ」に彼は、何度泣こうとも諦めず、必死でこたえてくれたんだろうと思います。時間はかかりましたが、彼もしっかり変わりました。

昨日の話ともかぶりますが、子どもたちは感受性が強い分、大人が真剣なのかどうか、本気なのかどうか、そういうのを敏感に感じ取る気がしてなりません。

(あ、今日は手を抜いてるな・・・)とか思われないよう、いつもしっかり気合い入れていかなければいけませんね。がんばります。

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2009年6月 2日 (火)

子どもに関わる大人の方へ

昨日、後で書くと言っておきながら、結局寝落ちしてしまい、申し訳ありません…。
今回、糸山先生の講演会で印象に残ったこと、気付きを得たこと、色々あるのですが、そのうちひとつ、ほんとにそうだよね、うん、絶対そうだ!と思ったことがあります。(あ、そう思ったことはこのひとつだけではありませんが。)

どんぐり倶楽部の糸山先生は、とにかく12歳頃までは機械的大量反復学習、高速学習などは絶対禁止!とおっしゃっていますが、その先生がこんなことをおっしゃいました。

子どもにさせる5倍の量をお母さんはやってください。本当は1ヶ月ぐらいやってほしいですけど、最低でも1週間ぐらいはやってください。」

先生は言葉を続けられました。

「子どもは感受性が強いとか言いますよね?だから、大人がそれと同じように感じるには5倍やらなくちゃわからないんです。」

(ちょっと表現などが違っているかもしれませんが、お許しください。(ご指摘くだされば訂正致します。))

本当にそうだなぁと思いました。
少なくとも、小学校の算数であれば(特に低学年期などは)、大人からすればとても容易いことで、その基準で計っていいはずがないと思います。

私なんて、もともと極めて無精者ですし、過去にも告白している通り、糸山先生が推奨されるより時代を遥かに先取りして、計算ドリルとかは飛び飛びに何問かピックアップして解き、それがきちんと解けていたら後は答えを写すなんてことをやっていた人間ですから、今教室の子達にプリントを渡すときにも、計算問題ばかり何枚も続いたら私なら絶対嫌だし、かといって、文章題ばかりずっと続くのも嫌。

時々気分転換ができなければ、やる気はどんどん低下して、集中力も当然落ちる自信があります。(それって、自信っていうのか?(汗))

私の場合、かなり自信を持って(それも自信か??(苦笑))、自分は絶対3年(もしくは4年)間も「一般的な」中学受験の勉強は到底やれないと思います。
同じようにさえやれないのに、5倍どころか、仮に2倍と言われたってできません…。(苦笑)

私がこの教室を始めたのは、初めて今使っている教材に出会ったとき、「こんなのだったら自分でもやりたかった!」と思えたからです。
自分でやりたいと思えないことを、私は子どもたちに強いることなど到底できません。

今のうちに苦労しておけばあとが楽になるとかいうご意見があるのもわかりますが、あとで本当に「楽」になるんでしょうか?
そして、本当に、貴重な小学生の3年間を受験のために費やしてまで、あとで「楽」をする必要があるのでしょうか?

そこが私にはどうしてもピンと来ないのです…。

もちろん、現在の学校の状態などによっては、公立の中学校に進ませたくないから…という理由で受験をされる方もおられるだろうと思います。
また、子ども自身が何か目標があって、その中学にどうしても行きたいと思う場合もあると思います。
それに、勉強が好きな子、受験塾でのハードな勉強も苦にならない子もきっといるのだろうとも思います。

ですから、一概に否定する気はありませんが、少なくとも、私が子どもだったら3年や4年もの間色んなことを犠牲にして勉強に打ち込むなんてのは絶対無理です…。

大人になってしまえば、3年なんてあっという間ですし、極端な話、大学に6年いようが、8年いようが、そのあたりの年齢になってくれば、長い人生のほんの数年と言えなくもないでしょう。

ただ、10歳や12歳までの1年はそういう「大人」の1年とは全く重みが違うはずです。
それは単に思い出作りがどうのこうのというようなことではなく、人間の発達という面から見ても間違いなくそうだと思うのです。

子どもにやらせるとどういう影響が出るか、子どもはどんな風に感じているか、それを大人が体感するには「まず5倍やってみる」という糸山先生のお話は、すごくすごく大事なことを教えてくださっていると思います。

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まだひっぱるんかいっ!

はまりにはまったBGT。
優勝はダイバーシティ、準優勝はスーザン・ボイルさんでしたが、ほかの方の順位はどうだったんだろうなぁと思っていて見つけました!
私に付き合って、一緒にはまってくださった方がおられたらどうぞ。(をい)

The Final

Act
                           % of vote in SF

Diversity                     24.9%
Susan Boyle               20.2%
Julian Smith                16.4%
Stavros Flatley           16.3%
Aidan Davis                 6.5%
Hollie Steel                  3.9%
Shaheen Jafargholi      3.8%
Flawless                      3.6%
Shaun Smith                3.4%
2 Grand                        1%

おぉぉ~!!ジュリアンさんが3位だったのですね!!
そして、なんとなんと!!ジュリアンさんとわずか0.1%差でスタボロスフラットリーの親子が!!(驚)
けど、やはりかなり割れていますよね、投票。優勝者でも25%弱ですもんね。

あ、スーザンさん、疲労困憊でファイナルの翌日救急車で病院に運ばれ、2、3日入院、静養というニュースが出ていましたね。
小さな村で猫と一緒にひっそり暮らしていた女性が予選出場後、あっという間に全世界に知られ、取材が殺到。
確かに、すごいストレスになるでしょうね。ようやくファイナルも終わり、ホッとされたのでしょう。ゆっくり休んで元気になってくださるといいですね。

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2009年6月 1日 (月)

講演会に行ってきました。

昨日、大阪まで講演を聴きに行ってきました。
どんぐり倶楽部の糸山先生のです。

以前からお目にかかってみたいと思っていたのですが、そして、先生にも多分もう2年前とかにいつか福岡まで伺いたいとお伝えしたっきり今に至っていたのですが、大阪に来られるとのことで、まずは自分の目で直接、どんな方なのか見てみたいと、参加者のほとんどがお子さんがおられるお母さんという中、厚かましくも参加させて頂きました。

結果は、ひと言で言えば「行ってよかった」です。

糸山先生の印象、先生のお話から感じたことはたくさんあり、また追々書かせて頂こうと思っていますが、参加させて頂くことが決まったときに、主催者の方から「お会いしたいと言っておられます」とお知らせを頂いていたそらまめ先生とのご対面を果たし、それとは別に、全く予期せぬ出会いもあり、感激しました。

ただ……どうしても理解できないのが……予期せぬ出会いとなったyoshiさんが、奥様が私の大ファンだと言ってくださるし、そらまめさんもなんか異様に(スミマセン)喜んでくださるし、一体なんで??(苦笑)

皆さん、これまで全く面識がなかったので、ブログを読んでくださってということのようなのですが、このブログ………、書いている本人がこう言ってはなんですが、多分、5割ぐらいがど~でもいいくだらない話で、1割ぐらいが多分後で読み返すと恥ずかしくなるような青臭い話、3割ぐらいは子どもたちがすごい!って話で、残り1割ぐらいがもしかしたら小学生のお子さんがおられる親御さんなどにお役に立つかもっていう話。そんなぐらいの構成なんじゃ?と思うわけです。

つまり、多分1割ぐらいしかお役立ちじゃないであろうブログなわけです…。(大汗)

ブログを読んでくださる方の中には、くだらない話が好きと言ってくださる方も稀におられ、そう言って頂くと自分としてはまあ納得も行くのですが、yoshiさんの奥様…一体どの辺を気に入ってくださっているのでしょう?(苦笑)

でも、ネットやブログって、本当にすごいなぁと思います。
もちろん、使い方を間違えると危険なことも色々あるでしょうし、私の場合、ネットで無駄に時間を費やしているところは否めませんが、こうしてブログを書いていなければ、恐らく絶対お知り合いになれなかったであろう方たちとこうしてたくさんのご縁を頂いていること、本当にありがたいなぁと思っています。

そう思いながらも、今後もくだらない内容がかなりの部分を占める状態はかわらなそうですが…。(をい)

ど~でもいい話になってしまいましたので、後ほどショートでひとつ、講演会で先生が話されていたことで特に印象に残ったうちのひとつについて書かせて頂こうかなと思います。

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