「普通」の基準
先日、あるお母さんとお話をした。
子どもの学びについてその方がおっしゃっていることは、私からするととてもまともで、是非自信を持ってそうなさってくださいねというようなことだった。
しかし、その方が普段身を置かれている環境では、そういう考え方をする方がほとんどおられず、あれこれ思い悩んで、気持ちがいっぱいになってしまっておられたようだ。
そもそも、身を置く環境によって「普通」は違ってくる。
テレビ番組などで、外国を訪ね、奥地のなんとか族・・・みたいなところの方と一緒に過ごしたりする姿を見ることがあるが、その部族にとっては、何かの幼虫を食べるのは「普通」のことだったりするし、男女問わず、上半身は裸なんてことも「普通」のことだったりする。
それらは私達からすると、特異なことのように思えるが、私たちにとっての「普通」はほかの国の人などから見ると、やはり特異に見えることも少なくないのだろう。
周りのみんなが50メートル泳げる中に、10メートルも泳げない、水に顔をつけるので精一杯というような子がいたら、きっとその子が「特別」になってしまうけれど、水に親しむことの少ない地域で、泳げる子の方が珍しいなんてところに行けば、50メートル泳げる子が「特別」になるのだろう。
みんなが毎日何十枚ものプリントをこなす教室に身を置いていれば、それは普通のことになり、例えば、どんぐり倶楽部の文章題のように1問にたっぷり時間をかけて問題を解く教室に身を置けば、やはりそれが普通のことになるんだろう。
あらゆることで「普通」というのは極めて曖昧で相対的なことなんだろうと思う。
だからこそ、人は皆迷うし、何が正しいのか不安にもなる。
そもそも、「普通」というのは必ずしも正しいのかどうかさえ不確かなことだ。
こと、子どもの学びに関しては、尚更多くの親御さんたちが悩み、迷い、試行錯誤しながら進んでいかれるのだろう。
そして、やはり子どもたちは一人一人みんな違った個性、能力を持っているのだから、みんなにベストの方法なんてものは、そうそうあるものではないだろう。
それでも、迷ったときに一番見なければならないのは、目の前の子どもなんだと思う。
その子がどんな表情をしているか。
その子の目が輝いているか。
ただ言われるがままにやらされて、いつの間にか目に力がなくなってはいないか。
そんなことをしっかり見るべきなんだろうと思う。
もちろん、言葉で言うのは簡単だけれど…。
私の教室でやっていることは、恐らく世間一般の「普通」とは随分ずれているんだろうと思う。
でも、「普通」の基準が曖昧である以上、私は私がいいと信じるものを選んでいくしかないんだろうとも思う。
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