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2008年9月30日 (火)

今日のひとコマ

今日、ある4年生の子が面積の問題を考えているとき、2けた×2けたの筆算をしようとして、訳の分からない答えを書いた。
縦横、15センチ×16センチという部分の面積を出したいらしいのだが、筆算の仕方を忘れて答えが2けたになっている。

そのすぐそばに縦横8センチ×10センチの面積を「80」とメモしているのを指して、「ここで80やのに、こっちがそんなに小さいわけないやん?」というと、「あぁ~!けど、筆算の仕方忘れた・・・」と答える。

筆算の仕方を教えるのはもちろん簡単だけれど、筆算でなくてもこの子は解けるはずだと、15センチ×16センチの図の16センチの方を10センチと6センチに分ける線を引いた。

「こうやって考えたら解けるんちゃう?」と聞くと、「ああ」と答えて、15×10と15×6を合わせて正解に辿り着いた。

その後も結局2けた同士の筆算の仕方は思い出せないようだったけれど、自分で17センチ×23センチは17×2の10倍と17×3の答えを合わしたりしながら、他の問題もきちんと正解を出していった。

2けたや3けた×1けたの筆算はみんな比較的すんなりできるようになるのだが、かける数が2けたや3けたになると途端に難しく感じる子が多い。
けれど、そういう子の少なからずは、今日の彼女のように分解すれば(2けた×何十と2けた×1けたの和で出す方法)解ける。
少なくない子どもたちにとって、筆算の方がピンとこないのだ。

筆算の方が難しいというのは、普通に考えたらおかしなことかもしれないけれど、筆算せずに考えられる力があることの方が私にとっては嬉しい。
筆算についてはいずれ学校でうんと練習させられるのだろうから、そのときにまた覚えてもらえばいいと思っている。

今日の子の姿を見ながら、2けた×2けたや3けた×2けたの掛け算は、まず面積の学習をさせてから考えさせたら、もっとスムーズに行くのかもなと、ちょっとそんなことも考えた。

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2008年9月29日 (月)

今考えても仕方ないことだけど・・・。

今日は体験レッスンがひとつだけだったので、まあほぼお休みのような日。
お天気も悪くて、どうもやる気がイマイチでませんでしたが、届いていた棚を組み立て、設置完了。
しかし、棚を組み立てながら、ふと頭をよぎったことが・・・。

教室を始めたとき、本当に0からのスタートだったし、小さい小さい教室だったので(今も十分小さいけど、今の半分ぐらいの教室だったので・・・)置けるものも本当に必要最低限のものだけにしていました。

おまけに、お引っ越しは隣のビルに移っただけなので、実は引っ越し屋さんに頼まず、えっちらおっちら自分で階段を持っており、持って上がりを何度も何度も繰り返し、どうしても人手が必要だったスチールラックや長机などだけはお知り合いに手伝ってもらってのお引っ越しでした。

今の教室に越してきて、もう3年余りになるんだと思いますが、その間にじわじわとモノが増え続け、もう限界に近づきつつあります。
これ以上スペースの有効活用は無理では?というところまで近づいているので、これ以上モノが増えるとどうにもならなくなりそうです。

しかし・・・今日新たに6段のフリーラックを組み立てながら、ふと頭をよぎったことが・・・。
今度もしもここを引っ越すことになったら、引っ越しが大変だなと・・・。
前回の引っ越しを1とすれば、今回引っ越すことになれば、多分4か5ぐらいにハードになっている気がします・・・。さすがに自力では無理。というか、できるかもしれないけど、考えたくない・・・。(苦笑)

まあ、引っ越しは考えていないので、当面は問題ないと思いますが、もし引越し屋さんに頼んだら、「よくこれだけ荷物入れましたね・・・」と言われそう・・・。(苦笑)

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2008年9月28日 (日)

困ったなぁ。。。

今日はOFF。
なので、かなりど~でもいい内容の更新です…。

明日は出勤なので、今日はのんびりするつもりだったのですが、お洗濯や買い物、なんとなく手をつけてしまったシンクの下の収納の整理などもして、それなりにまともに過ごした休日だったかと。

しかし…。
幸か不幸か熱っぽいとか、体の節々が痛いとか、そういう症状は全くないものの、喉の状態は治らず、鼻もずるずる…。
たまに喉がムズムズしだすと、咳がゴホゴホ出て、そうなると声がガラガラに…。(苦笑)

明日は今のところレッスンは1つだけだから、なんとか明日のうちに快方に向かってくれることを祈るばかり…。
ただ、ちょっと気になるのは、喉の痛みはほとんどなくなっているということ…。以前検査してもらったところ、原因が特定されぬままに終わってしまったアレルギー検査でしたが、ここ何年か、どうも春と秋のみんなとは若干ずれた時期にアレルギー症状が出ているような気配のある私としては、もしかしたら風邪じゃないのかな??と。
まあ、風邪じゃない方が、人に移す心配がなくていいわけですけど。

さて、9月もあと2日。
急にすっかり冷え込んでしまいましたので、皆様もお風邪などひかれませんよう、くれぐれもお気を付けくださいませ。

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2008年9月27日 (土)

毎日が本当に早い…。

ついこの前、ああ、今年がもう3分の2終わってしまった!!と焦ったのに、もう9月が終わろうとしていて、4月に始まった新年度が半分終わってしまうことに改めてびっくりする。

しなくちゃいけないこと、したいことはいっぱいあって、だけど遅くまでの居残り仕事は5月の半ば以来しなくなってしまって、やらなきゃやらなきゃって気持ちばかりが空回りしている感じ・・・。

目の前の子どもたちはどんどんと成長していくのに、頑張らないと私は置いていかれてしまうな。

けど、子どもたちは見ていて本当に頼もしい。
静かにじっと問題を考えているときの、まばゆいばかりの顔が本当に大好きだ。

問題に集中しているときは、どの子も例外なく、とても穏やかで美しい表情になる。
普段じっとしていられないほど落ち着きのない子でも、そのときは別人のようないい表情になるのだ。

学生時代、家庭教師をしていたときも、社会人になってから塾講師をしていたときも、子どもたちがこんなにいい表情をするのを見たことはなかった気がする。
今思えば、「わかりやすく教える」ということに一所懸命で、理解したかどうかの表情を見ることには努めていたつもりだけれど、子ども自身に気付かせる、そして、子ども自身が考えて答えに辿り着く、その過程を見ることはあまりなかったんだろうなと。

もしも、子どもの教育、学習に関わっておられる方で(先生だけでなく、親御さんでも、他の大人の方でも…)、集中して考えているときの美しい子どもの表情をあまり見たことがないなという方がおられたら(過去の私は実際そうだったので…。)、子どもが考える時間を邪魔せず待ってみられるのはいかがだろう。
子どものその表情を見られる大人も幸せな気持ちになれるし、考える時間を邪魔されず、心行くまで考えられる子どもも幸せになれるんじゃないかと思うから。

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2008年9月26日 (金)

なんとなく思っていること。

しばらく前から、なんとなく思っていることがある。
まだきちんと考えがまとまったわけではないし、もちろん絶対にダメなことは存在するのだろうとも思うけれど、子どもの学びに対して「○○したらダメ!」という禁止語はできるだけ少なくしたいなと。

今使っている教材を使い始めた頃、たとえば積み木の数は数えてはダメとか、数は全体をとらえるのが大事だから絵を1つずつ数えるのはダメで、その癖をつけると能力が高まらないとか、色々な注意事項があって、初めの頃は子どもが積み木や描かれている絵を1つ1つ数えようとしたら、慌てて止めたりしていたこともある。

もちろん、数えなくてもこの子ならわかるはずという子に対しては、「1つ1つ数えないでやってみて」などという声かけは必要だとは思うのだけれど、数えなくてはわからない段階、数えなくては不安な段階というのがあるのではないかと思うようになった。

実際、サイコロ状の積木が積まれた絵を見て、何個の積み木が使われているかという問題は、教室を始めた当初、恐らく数ヶ月の間は、私自身、数えないとよくわからなかったのだ。
固まりを意識してと言われても、見えないところは一つ一つ数えないと、初めはよくわからなかった。
しかし、私の場合、誰かに数えたらダメと言われたわけではない。ただ、固まりを意識した方がいいということを知っていただけだ。
で、実際、しばらくは1つ1つ数えていたけれど、今はぱっと見である程度数をつかめるようになっている。

教具を見せすぎてはいけないということについても、明らかに個人差があって、少し見ればすぐ感覚がつかめる子もいれば、何度も繰り返さないとなかなか感覚がつかめない子もいる。
しかし、後者の子に対して、未消化なのに教具を見せるのをやめてしまったら、結局その子の身にはならない。

小さい子の学習に対して、大人の側がスピードを求めたり、量を求めたりするのは禁止という意見には異論はないが、これはこのやり方しかダメ、このやり方をさせてはダメ…というようなマニュアル的発想にはどうも違和感がある。

大人になると想像もつかなくなるけれど、小さい頃にはぱっと見て3や4が認識できない段階がある。
おはじきを1つや2つ見せたら、すぐに数を言える子でも、3つ出したら「1、2、3」と1から順に数える段階が大抵はある。3までがわかるようになった子でも、5まででまた大抵そんな段階がある。

とすれば、10までの数を1つ1つ数えてしまう子は、10までの数の感覚がまだ実感としてないということなのかもしれない。
それが20、100と増えていけば、当然小さい子の多くは実感がなくなっていくのだから、数えたらダメと言っても、実感を伴うまでは数えようとするだろうし、禁止しても意味がないように思う。

もちろん、こちらが状況に応じて対応することなしに、ただほったらかして好きにやらせるのは当然これまた違うとも思うけれど、「○○したらダメ!」という表現は極力使いたくないなと、そんなことを感じている。

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2008年9月25日 (木)

すみません・・・。

なぜか、日曜から3日連続、お布団に入らずうたた寝してしまい、水曜の明け方は寒さのあまり目が覚めました…。(帰宅後、換気のために窓を半分ほど開けて網戸にし、扇風機もまわしっぱなしで寝てしまったため…。)

で、目が覚めたら喉に痛みが…。あったかくして寝直したのですが、起きても症状は変わらず。
昨日はさすがにちゃんと寝なくてはと、うたた寝はしなかったのですが、症状は改善せず。
で、今日レッスンを終えたら、声がだんだんオッサンみたいになってきてしまいました…。
危険です…。(汗)

完全に自分の不注意なので、お恥ずかしい限りですが、最近は風邪をひくと長引くので、悪化すると厄介ですし、今日はなるべく早く休もうと思います。

書きたいことはぼんやりあるのですが、まとまらないので今日はこれにて…。

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2008年9月24日 (水)

あてずっぽうには答えない。

レッスンをする中で、いつも気をつけていることのひとつは、子どものあてずっぽうには答えないということ。

私との付き合いがある程度長くなってくると、そういう子はだんだんいなくなっていくし、性格的に初めっからそういうことを聞かない、言わない子もいるけれど、子どもたちの多くは自分にとって少し難しい問題にぶつかったとき、とりあえず何でもいいから答えてしまえ!というような、あてずっぽうの答えをすることがある。

たとえば、まだ1年生の子に、100が26個でいくつとか、350は10がいくつとか、そういう問題を考えてもらうと、「260」とか「2006」とか、「350個」とか「80個(30と50になってしまっていたりする…)」とか、そんな答えをこれじゃなきゃ、あれかな?的に、自信なげに答える子がしばしばいる。

また、もっとよくある例では、文章題で少し難しそうなものになると、よく考える前に「これって足すの?(引くの?)」と聞いてくるなんてこともある。

そういうとき、私は答えない。(もちろん、理解度に応じて教具などを見せたりということはあるけれど。)

「さあ、どうやろねぇ。」とか、「さぁ、わからんなぁ。まあ、思ったようにやってみて。」とか答えることはしょっちゅうだし、適当にあれこれ答えを言ううちにたまたま正解になった場合でも、その時点では反応しない。

きちんと理解して、よく考えた上で答えているときの子どもの表情は明らかに違う。
たとえ間違ったとしても、じっくり考えて答えるときと、訳が分からないからとりあえず思いついたものを答えとけ的なときとでは、見ていればその表情の違いがほぼ確実にわかる。

だから、たまたま正解になった答えにマルをしてしまったら、その問題はその子にとって未消化のまま過ぎていってしまうことになる。
もちろん、似たような問題をたくさんやらせるのなら、一つや二つ、そんな風に通り過ぎてもいいだろうけど、それでも、そのマルはその子にとって嬉しいマルではないはずだ。

相手が1年生だろうとなんだろうと、そういうことを繰り返す子には私は言う。

「適当に答えてマルになったらいいんやったら、全部答え教えてあげよか?」
「そんなんでマルもらっても、あなたは賢くならへんやん?そやったら、やらんでもいいよ。」

何を子ども相手に…と思われるかもなぁと思いながらも、そこはやはり譲れない。
私は簡単にヒントをくれない。適当に答えてもマルをくれない。いい加減にやったって自分のためにはならない。
そういうことを子ども自身が実感してくれれば、自然と変わり始める。

もし、他の塾などと掛け持ちしているのでもなく、学校やお家などで大量に問題を解いているのでもないのに、ここに半年、1年と通ってくれていて、そういう癖が抜けない子がいれば、それは私の力のなさだと思う。
学校やお家での様子までは見ることができないけれど、これまでのところ、ヒントを拒むようになる子はいても(それは喜ばしいこと)、ずっとあてずっぽうを続ける子はまずいない。

お家で勉強しているときなど、お子さんが「これ、足すの?」とか「これ、○○で合ってる?」とか尋ねてきたら、まずはお子さんに「どう思う?」と尋ね返してみられてはどうだろう。
答えればさっさと進めるし、ヒントを与えればペースは上がるだろう。ただ、それはそのときだけ時間が短縮できるということで、長期的に見ればマイナスに働くことの方がきっと多いはずだから。

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2008年9月23日 (火)

秋分の日。

今日は祝日でしたが、昨日はゆっくりしましたし、振替のレッスンが2つと、しなければならない仕事は多分やってもやっても終わらないぐらいあるのとで、出勤していました。
午前中から出ていましたが、暑いぐらいのお天気。行楽日和とでもいうのでしょうか。

振替のレッスンを2つ終えてもまだ14時過ぎ。
さて、張り切って仕事するぞ!と思い、実際、仕事に関係ないことはほとんどした記憶がないにも関わらず、何が進んだっけ?というぐらい進んだ感のないまま、気づけば20時過ぎ。

あるヒーラーの方のブログで、お彼岸の間に「酒風呂」に入ると、体に溜まっている悪いものが出て運気が上がると書かれていて、運気が上がればそれはそれで喜ばしいことですが、それを置いておいても、読んでいるとなんだかちょっとやってみたい気持ちがふつふつと。

けど、私の感覚からするとびっくりなぐらいの量が書かれているんですよね・・・。
お酒は紙パックのものとかでもいいので「5合」!!
それだけでもややびっくりなのに、そこにお塩を500グラム!!

もう、読んだだけで体温上昇、ドバッと発汗しそうじゃありませんか?
そうでもないですかね??

疲れている日にそれをやって、お風呂で酔っ払って(?)おぼれたら大変なので(をい)、今日やってみようかなとお酒とお塩(粗塩)を買ってきました。
しかし、やっぱりお塩がすごい量なんですけど・・・。(汗)

とりあえず、もう少しお腹が落ち着いたら、チャレンジしてみる予定です。

ただ…普段日本酒を飲むことはあまりなく、家でとなると本当に滅多にないので、たくさん残っても使わないしなぁと…。
今日行ったスーパーには紙パックは1升のものしかなくて、それじゃあまりにも余る…。かといって、少量のものは紙パックの1升分より高かったり…。(悩)
というわけで、ワンカップを3つ購入したため、6合分。全部入れるかどうか悩みます…。

どうでもよすぎる記事でお許しください…。(苦笑)

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2008年9月22日 (月)

ちなみに。

昨日、一昨日と書いた問題の、本で紹介されていた式は以下の通りです。
解説も付いていたので、実際にはもう少しわかりやすいのですが、それでもこの式…。私の頭ではちょっとついていけそうにありません…。(汗)

40:(30÷2)=40:15=8:3
(8+3)÷2=11/2
11/2-3=5/2
5/2÷5=1/2
1/2×40/60=1/3
8÷1/3=24         答え 24人

むぅぅ。

さて、昨日出勤でしたので、今日はお休みでした。
秋晴れの気持ちのよいお天気でしたね。

お洗濯のほかに、読書はしましたが、なんだか眠くて仕方ありません…。(汗)

ちなみに、昨日、個人的に妙にツボに入ってしまったひと言。
レッスンに来ていた低学年の男の子が私の顔を見ながら言いました。

「それ、サングラス?」

な、なんで…??
ちなみに、私のメガネのレンズは完全に透明です。アイシャドーをしていてレンズにその色が映っているとかいうこともありません。(アイシャドー使ってないし…(汗))

ホント子どもって思いもよらないことを突然言い出すから、面白いですよね。

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2008年9月21日 (日)

問題を解きながら気づいたこと(続き)

さて続き。

大きなグラウンドは初めに全員で40分、次に半分の人数で30分で完了。
ということは、もしずっと全員でやっていたら、40+30÷2(全員なら時間は半分)=55(分)。

とすると、半分の広さのグラウンドは全員なら、55÷2=27.5(分)で整地できる。
そこを半分の人数で30分、その後5人で60分ということは、まず全員でやっていれば、半分の人数で30分かかった広さは15分で完了する。
ということは、残っている広さを全員で整地したら12.5分で完了するはず。

全員なら12.5分で済むけど、5人なら60分かかっているので、60÷12.5=4.8と、4.8倍の時間がかかっているということは、人数は5×4.8=24(人)。

私はこの考え方が簡単だったし、恐らくうちの教室の子たちの多くもこの感覚でパパッとわかる子が多いのではという気がする。

でも、実際、セオリー通りの解き方や、本に書かれていた解き方の方がわかりやすい子だっているに違いないし、私が今回使った解き方はこの問題には使えても、条件などは変わってきたらこう簡単には解けないのかもしれない。

で、ああ・・・と思ったのだ。

要するに、受験塾などでパターン化して、公式のようなものにしてしまって覚えさせるのは、○○算なら公式1、△△算なら公式2、□□算なら公式3・・・・・・・・・とそのくくりに入る問題なら、実力があってもなくても、覚えてそれに当てはめれば解けますよということなんだろう。
必要になってくるのは、暗記力と問題を分類する力ということになってくるのかもしれない。(まあ、そこまで単純で楽なもんではないだろうと思うけれど・・・。)

ということは、センスのある子、その問題その問題でふさわしい解き方を考えられる子達にはほとんど必要ないものを「公式」のふりをして(本当に公式だというものもあると思うが・・・)覚えさせられるということもあるのだなと。

まあ、中学入試の問題に限らず、公立小学校の算数を取ってみても、かなり覚える必要のない公式を覚えるように言われ、かえって混乱しているケースも少なくない。(苦手な子が多い、速さや割合などはその最たるものなのではと思う・・・。)

つい先日、6年の男の子がこんなことを聞いてきた。

「先生、速さの公式って知ってる?」

因みに、この子とはとっくに速さの学習は終えていて、その際にも私は一切公式を覚えるように言わなかったし、公式なんて覚えなくても、彼はしっかり問題を解いていた。

「ん?なに、『みはじ』とか『はじき』とかってやつのこと?」

そう聞き返すと、

「そう!俺、初めて聞いたわ!」

「そやな、言ってへんもん。でも、覚えんでも解けたやろ?」

「うん。覚えろって言われたけど、もう忘れた・・・。えっと・・・・・・。(考え中)」

公式ってなんなんだろう・・・。

ただ、学校や一斉指導の塾などでは決められたカリキュラムを決められた期間でクリアしていかねばならないだろうし、特に学校では人数も多ければ、学力差もかなりあるはずだから、尚更、公式を教えて当てはめさせるという方法を取らざるを得ない面もあるんだろうとは思う。

けど、それを考えれば考えるほど、一斉授業で全ての子が「ああ!」って感じる授業なんて、ほぼ不可能ってことだなと。
それを思うと、現場の熱心な先生方のご苦労は、想像を絶するものがあるんだろうなと改めて思う。

うちの場合、少人数の上、完全個別対応なので、その子その子の顔を見ながら、更に付き合いがある程度長くなれば、この子ならこの発想ですぐ解くんじゃないかなとか、この子にはこれはもう少し詳しいヒントが必要かなとか、そんなことを予想しながら進めることができる。
もちろん、まだまだ至らないところは山のようにあるけれど、今の時点で少なくとも算数という科目については、異学年、異進度混在、少人数個別対応という今の形が子どもたちにとっても一番いいんじゃないかなと、そう感じた。

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2008年9月20日 (土)

問題を解きながら気づいたこと

先日、書こうと思っていた日にちょっと事件が発生し、結局1週間以上書けないまま今日に至ったのですが、今週ご紹介した本を読みながら、そこに出ている問題を自分でも解いてみたりしていて、ふと気づいたことがありました。

まあ、もしかしたらこれまでにも似たようなことを感じたり、気づいたりしていたのかもしれませんが、なんかその問題を解いたときに「ああ、そういうことなのね・・・」みたいに腑に落ちたというかなんというか。

その本の中に、おおよそこんな問題が出ていました。

広いグラウンドとその半分の広さのグラウンドがあり、まずは広い方を部員全員で40分、その後、部員半分で30分整地したら完了。半分の広さの方は半分の人数で30分、その後、5人で60分整地したら完了。部員は全員で何人いたか。

で、何度も言っている通り、私は自分自身中学受験の経験がないだけでなく、中学受験指導の経験もありません。
なので、「○○算」と呼ばれるものも、ここ数年で「初耳!」みたいなものも沢山あり(さすがに鶴亀算とか植木算とかぐらいは知っていましたが・・・)、それらの問題を方程式を使わずに解くということも、私にはほとんど未経験のことでした。

ただ、独立してからそういう問題を解くことも時々あって、解説を見てへぇ~、こんな風に教えるんだ~と感心したり、えぇ??そんな風に教えられたら難しくて分からん・・・と思ったりなんてことも。

前置きが長くなりましたが、で、上述の問題。
正統派の解き方は当然知りません。(苦笑)うちの教室の、受験をするわけでもない子達が考えたら解けるんじゃないかという解き方しか私には考え付きません。。。

受験指導がお手の物の先生方はパパッとこれをこう置いて、そしたらこれがこう表せるから、何分のいくつで・・・、みたいな解き方をされるのでしょうか?
実際、その本には分数の計算式(丁寧で分かりやすそうな式ではありましたが)が書かれていて、解き終わった後に読んだ私は、(ああ・・・読めば理解はできるけど、おバカな私には難しくってイマイチピンと来ない・・・。)という悲しいものでした。(苦笑)

さて、気が向いたら、皆さんはどんな風に解かれるのか、解いてみられて、簡単な方法があれば是非教えてください。(笑)

で、私はどう解いたかと言いますと・・・。

まず、ちょっと図を描いてみました。

大きなグラウンドと、その半分ぐらいのグラウンド。
その図の下に、条件を書き並べました。

で、どうもまだ長くなりそうですので、明日以降に続きます。(明日もちょっとお仕事なので・・・)

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2008年9月19日 (金)

今日は更新さぼります…。(をい)

今日は明日がハードなので、なるべく早く帰ろうと、一応22時前には帰宅したのですが、食事をしたらそんなに食べていないのにちょっと苦しくなって、落ち着くまで…と本を読んでいたら結局0時になってしまいました。

先週木曜に予期せぬ出来事が起き、今週は直接影響のある方々にお詫びとお知らせをして、それぞれの方のご判断を仰いでいるところです。
それが落ち着きましたら、まだご案内していない皆さまには改めてお知らせさせて頂きますので、宜しくお願い致します。

私自身は精神的にはもうすっかり落ち着いておりますので、ご心配頂いている皆様、ご安心ください。
お気持ち大変有難く、感謝しています。
ちょっと真剣に時間の使い方を考えなくては…という今日この頃です。

あっという間に9月も20日になろうとしていますよね…。
暑さも和らぎ、随分過ごしやすくなりましたから、ぐずぐず言ってないで頑張らなければ。

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2008年9月18日 (木)

なんだか・・・。

今日は仕事には関係ない話。

汚染米、事故米の事件、どんどん被害拡大していますね。
それでもまだ全然全貌は明らかになっていないようですし。

まあ、ここまで来ると、お米を使って作られているもの全て疑わしくなってくるわけで、個人的には、気にしても仕方ないんだろうとも思っています。

ただ、名前を公表された企業の中には、恐らく本当に全く知らなかったというところもあるのでしょうし、小さいところだったら、今回のことが原因で経営が立ち行かなくなってしまうことだってあるのかもしれません。
それを思うとなんともお気の毒で…。

これまで何十年と、検査とは呼べないような検査を続けてきたらしい農水省。
悪いことだと知りながらも何十年も転売を続けてきた三笠フーズ。

こんなことがあったって、当然農水省が「倒産」することなんてないわけですし、せいぜい誰かが責任を取って辞めるとか、そんなレベルで終わってしまうのでしょう。

なんだかなぁ…って気持ちになります。

汚染米の中には猛毒のカビがついたものも混じっていたそうですし、流通している多くが西日本だそうですから、もちろん多少の不安はあります。
ただ、今の時代に生きている私たちの多くは、日々大量の食品添加物、化学薬品その他、体に悪影響を及ぼすであろうものを取り続けているわけですから、基準の2倍とか5倍の農薬でも、それだけで一気に命にかかわるということも恐らくないのでしょう。(実際、もしそんなことがあるなら、もっと早くに明るみに出ていたでしょうし…。)

そういう意味では、もし口にしてしまっているならそれも運命かなと、個人的には思うのですが、この問題の責任の所在はどこにあるんだろう?と。
そして、きっとかなり大きな責任があるであろうところは大して痛い目に遭うこともなく、本当に知らずにそのお米を使っていた善良な方たちが生活の糧を失ってしまうかもしれないことが、どうもやり切れない気持ちになります。

ま、ホント、仕事とは全く関係ない話なんですけど…。

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2008年9月17日 (水)

「なんか簡単になってきた!」

今日のレッスンで、ある1年生の男の子が言った。

「あ、なんか簡単になってきた!」

その子は決してできない子ではないのに、なぜかちょっと問題が難しそうだと、急激に悲しそうな苦しそうな顔になり、最近はあまりにも苦しそうにするので、こちらが笑ってしまいそうになるほど・・・。

で、今日もレッスンの途中でその表情になり、そういうときは大抵、適当に投げやりな答えを次々と言って、間違えるたびにますます表情が悲壮になっていく。(苦笑)
ただ、基本的に、余程のことがない限り直接的に教えることはしないので、今日もしばらくはその表情で悩ませ、途中、教具を出して少しだけ助け、また様子を見ていた。
二、三、言葉はかけつつも、学年を考えると十二分に進んだ内容でもあり、待てる限り待っていると、悲しげな表情のまま1問を正解し、その後少しずつ表情が緩んできたかと思ったら、上述のセリフ。
もちろん顔はニコニコ。

それぞれの子で理解して消化するまでに一人一人のペースがある。
それを急かしてはいけないし、早くできる子を無理に待たせるのもいけないんだと思う。

そして、一番思うのは、「ああ!」と表情が明るくなる瞬間を迎えないまま、次へ次へと進んでいくことなんじゃないかと思う。

その表情に至るまで、個人差はあれ大抵の子が苦しそうな表情をしたり、イライラしたり、ときには泣いたりもする。
でも、ほとんどの場合、その子のペースに合わせていれば、「ああ!」という表情を見せてくれる。

それは本当になんとも言えずいい顔だ。
その顔を見るために、しっかりがんばらなきゃなと思う。

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2008年9月16日 (火)

今日のひとコマ

子どもたちはみんな本当にそれぞれに個性があって、得意なことも苦手なこともみんな違うし、こつこつやることが苦にならない子もいれば、感覚的にやってしまってこつこつは大の苦手なんていう子もいる。

今日のレッスンの子の中で、算数のセンスは抜群にあって、絶対かなりのスーパーなはずなのに、こつこつがかなり苦手で、ひらめきで突き進むタイプの低学年の子がいる。

まあ、なんとも可愛い子ではあるのだけれど、見た目が難しそうだともう本当に見ているこっちまでげんなりするほどぐったりになるし、できるはずの問題でも面倒だと思ったら極端にスピードが落ちたり、だらだらぐずぐず全身からイヤイヤオーラを漂わせたりもする。

そんなこともあり、昨年度までは別の同学年スーパーくんと同じぐらいのペースで進んでいたのに、今年度に入って水をあけられる一方になってしまった。

もちろん、競争させる気はないし、無理に早く進ませるつもりもない。
ただ、一人一人の子の精一杯はやってほしいと思っているし、そうしないとせっかく持っている能力も伸び止まってしまうようにも思う。
かといって、本当にやりたくないのであれば、無理にやる必要もないとも思っているので、嫌がる子に怒ってやらせるようなこともしたくはない。

能力はあるのにだらけている子の場合、そのあたりがせめぎ合いでもあるのだけれど、ここ数回、ちょっときびしめに接してみた。
そして今日、きびしめにしていながらも、「あなたなら簡単だと思うけど」とか「これは楽勝よね?」とか、プリントを渡す前に声をかけ、きちんとクリアしたらさらっと褒め、そんな風にレッスンを終えた。

今日は本当に久しぶりによく取り組んでいたし、見ていても今日は彼のほぼベストかなという感じだった。
すると、終わった途端、彼の口からこんな言葉が出た。

「なんか気持ちいいなぁ。」

思わず笑ってしまいそうになったけれど、結局はそうなのだ。
自分の頭をしっかり働かせて、よく考えたなぁという感覚は「気持ちいい」のだ。
その気持ちいい経験を重ねることで、どんどん彼らは伸びていくのだと思う。

まあ、小さい子達のことだから、毎回同じようにはいかないし、きっと今日の彼もまたふにゃふにゃのダメダメな姿を見せることもあるんだろうけど、今日の気持ちを覚えていてほしいなと思った。

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2008年9月15日 (月)

「起こることは全部いいこと」

先日読んだワタミの渡邉社長の本の中に書かれていた言葉。

「起こることは全部いいこと」

過去何度となく苦境に立たされ、それを後から振り返ると、そのことがあったからよかったと思えるというようなことが書かれていたのだけれど、その感覚は自分の中にもある。

このブログを読んでくださっている方の中にはご存知の方もおられると思うが、私は過去に、仕事に関して「全部失った」と思った時期がある。
それは単に無職になったというだけの意味ではなく、それまでに少しは積み上げていたはずの信頼も何もかも全部失ったと思った時期だった。

もちろん、実際にはそうではなくて、わかってくださる方はわかってくださっていたし、まるで自分のことのように親身になってくださった方もいた。
そういう方に支えられ、また少しずつ頑張れるようになったのだけれど、時が経って、そのときそういう状況に追い込まれたことに感謝した。

震災の時も、震災に遭ったから、新しい一歩を踏み出す決心ができた。

これまで自分に起きた、一般には「よくないこと」「悪いこと」と思える出来事のほとんど全てに感謝しているし(もちろん、自分がしてしまったことで後悔していることはあるけれど)、恨んでいる人も憎んでいる人もひとりもいない。

あのタイミングで仕事の全てをなくしていなければ、多分私は独立なんてできなかったと思う。
とすれば、今の私はいないということになる。
何でも決断に時間のかかる、新しいことを始めるのに尻込みしてしまう私には、そのぐらい荒療治が必要だったんだろうと思う。

実は、今回のことも、それに近い感覚を持っている。
だから、当然誰のことも恨んでいないし、憎んでもいない。
ただ、一部の方にご迷惑をおかけしてしまうかもしれないということだけが気になっているだけだ。

なんだか不思議だなと思うのだけど、ここしばらくは買っていなかった渡邉社長の本を買い、それと別に書店でなんだか気になって、東国原知事の本も買っていた。
そのどちらもが、今の私のために買った本だったような気がしている。

あとになって、「ああ、あのときがあったから今があるんだな」とまた心から思えるよう精進しなければと思う。

「起こることは全部いいこと」

とてもいい言葉だと思う。

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2008年9月14日 (日)

自分の足で立ってるか

ここ数日、そのことをずっと考えている。

もちろん、人は一人では生きていけないし、いつもたくさんの人に支えられ、励まされ、見守られ、ありがたいなぁと思っているけれど、そして、何もかも自分の力だけでやれるなんてことも全く思っていないけれど、今の私は本当に自分の足で、自分の力で立ってるのか、そのことをずっと考えている。

困ったことに私は頑固で、長いものに巻かれろ的な生き方がとても苦手で、当然寄らば大樹の…的な発想もやっぱり苦手で、自分のやり方がどれだけ非合理的であろうと、儲からなかろうと、お金のために信念を曲げることはできないし、誰かを利用することもできない。

今はまだ具体的なことは書けないけれど、そして、その決断をするのはもちろん不安もあるけれど、本当に自分の足で立ってるのか、確かめてみようと思う。

以前書いたけれど、今の日本という国は輸入がストップした途端に、食糧にしろエネルギーにしろ、あらゆるものがストップして、たちまち立ち行かなくなってしまう国だ。
そうならないためにどうすればいいのかは、あまりに話のスケールが大き過ぎてよくわからないけれど、私自身、どこかそんな「今の日本」と同じような状況にいるのかもしれないと思うのだ。

いや、正直言うと、そんなことはないはず…と思っているところもなくはないが、それはもしかしたら単なる自惚れで、気づけば裸の王様になっていたりするのかもと(まあ、「王様」にすら全然なっていないけど…(汗))そんなことを思ったりもする。

たとえ輸入がストップしたって自給自足できる力をつけたい。
自分の足で立って、しっかり自分の力で歩きたい。

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2008年9月13日 (土)

心からの感謝を。

すみません。
記事を書いていたのですが、もう一度落ち着いて読み返してからUPした方がいいような気がして、一旦保留にしました。

昨日今日と、あたたかい気持ちをたくさん頂きました。
今日は、まだ面識もない、問い合わせのお電話をくださった方からも、本当に本当にありがたい、涙が出るような言葉を頂きました。

これからも私がいいと思うことをやろうと思います。
その結果、もし失敗してしまっても、自分で選んだことなら後悔はしないと思うので。

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2008年9月12日 (金)

わたしらしく。

昨日はちょっと精神的に動揺していて、まともに何も書けそうになかったので、あんな更新で失礼致しました。
動揺しているときに考えても、まともな考えが浮かぶとも思えず、昨日の時点では敢えてあまり考えずに就寝しました。

ただ、このところしばらく読んでいなかったので、つい先日、大好きなワタミの渡邉社長の本を買ってあり、昨日の時点ではほかの本を読み始めていたのですが、なんとなく今はそれより渡邉社長の本を読んだ方がいいような気がして、持ち帰り、お布団の中で読みながら寝て、今日目覚めてからもしばらく読んでいました。

渡邉社長の判断基準は「損得」より「善悪」、そして、「自分らしくあること」。
今の私にはとても大切な言葉のように思えました。

渡邉社長は短期的に見れば明らかに損だとわかることでも、損得より善悪での判断を優先してこられたから、ご自分の決断に後悔はなく、後ろめたい気持ちもないと。

私は、教室を始めたときから、学びたいと思う子どもたちと一緒に学びたいと、それだけを思ってきました。
結果的にそれで生活できていることに感謝していますが、生活のため、お金のために、それを選んだのではないのです。

物事には常に表と裏があり、どんな判断にも全ての人が満足する、全ての人が幸せになる…そういう判断は存在しないのかもしれません。(短期的に見ればということですが。)

例えば、あの日以降連日どんどんと事件が拡大していますが、汚染米のことにしたって、実際はわかりませんが、社長は自らの利益だけを考えていたのではなく、社員達のことも考え、経営が立ち行かなくなっては…と、その選択は間違っていたにしても、社員達のためをも思っての判断だったのかもしれません。
ですが、知らずにその米を焼酎に加工したり、給食として出されて食べたりした人たちにとっては当然許されないひどいことでしかないわけです。

独立より前、どうしてもオーナーとの価値観のズレを埋めがたくなってやめたとき、仕事で私が関わっている全ての方にとって「いい」選択はどこにもありませんでした。
そして、私が優先したのは「子どもたち」でしたから、結果的に多大なご迷惑をおかけした方もいました。

全部にとって「いい」選択は今回もできそうにありません。
ただ、私は教室を始めたとき、子どもたちにとって自分がいいと思うもの、いいと思うことをやっていこうと、そう決めたので、これからもその信念だけは変えてはいけないのだと思っています。

今回、一部の方にご迷惑をおかけしてしまうことになるかもしれません。
それは全て私の不徳の致すところで、本当に申し訳なく思っています。

ただ、これからも私は「わたしらしく」真っ直ぐに子どもたちと向き合っていきたいと思っています。

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2008年9月11日 (木)

お許しを・・・。

今日はちょっと書けそうにありません・・・。
申し訳ありません・・・。

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2008年9月10日 (水)

まだまだ何かできそうな・・・。

子どもたちとのレッスンをしていると、ああ、ここはもっとどうにかしたら、より理解しやすくなるだろうなとか、しっかり納得できるだろうなとか、そう思うことがまだまだある。

実際、もう何十回、もしかしたら100回以上見ている教材でも、未だに発見することもあるし、教具の見せ方、使い方も、どうにかしたらもっともっとよくなるんじゃないのかなと思うこともある。

ずっと頭の中でぼやんと形にならないものがあって、それをずっとあたため続けてもいて、だけどそろそろ真剣に考えてみなきゃとも思っている。

たとえば、どんなことでも批判するのは簡単で、けれど、実際にそれ以上のことを自分がやるとなったら大変だったりするものだ。
仮に、私が知る色々な教材がどれも、帯に短したすきに長しだったとしても、その中で今私が最もよいと思うものを選んではいる。でも、これはここがもうちょっとこうだったらなぁ・・・なんてことを時々思う。でも、思うのは簡単なのだ。
それを形にしない限り、批判する資格なんてないんだろうとも思う。

小学校受験にも中学受験にも対応していないけれど、だったら尚のこと、小学校6年間の内容については自分なりに納得の行くものを用意したい。
ずっとそう思いながら、ずるずると、特に今年は年明けから次々に事件が発生して、そのたびそれを言い訳に延ばし延ばしにしてきたけれど、もう9月。今年はもう4ヶ月も残っていない。

まずは早寝早起きからなんていう、極めて程度の低い自分がいささか情けないけれど、ぼちぼち本気出さなきゃなと。
この数ヶ月は本当にレッスン以外のことはほとんどせずに来てしまったから・・・。

さて、なんだか抽象的な内容で恐縮だけれど、今日の仕事はぼちぼち切り上げようと思う。

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2008年9月 9日 (火)

すみません・・・。

今日は早目に教室からは切り上げて帰ってきたのですが、お知り合いの先生から電話がかかってきたりなんだかんだで気づけば日付が変わりかけ…。

今度ご紹介する予定ですが、先日読んだ幼児の脳に関する本で、内容は幼児の脳についてなのですが、それを読みながら、ちょっと真剣にもう少しだけでも朝型に変えるよう努力した方がいいんじゃないかという気が…。

という訳で、できるかどうかわかりませんが、今後はなるべく早く帰宅して、なるべく早寝早起きをしようと。(といっても、せいぜい8時とか8時半とかに起床なんですけど…。)
何しろ、長年、完全夜型で過ごしてきていて、独立前、ひどい頃は朝4時とか5時に寝て、お昼に起きていました。
それを思うと、ここ数年は多少は人間らしい生活に戻ったものの、まだまだ夜型で…。

ただ、夜は難しいことを考えたりはできず、結局ただだらだらと起きているので、だったら寝ちゃえばいいのではと…。
というわけで、なるべく1時就寝を目標に生活改善する予定です。

と、わざわざブログにこんなこと書くなよって話なのですが、なにぶん意志が弱いものですから、皆様の目に触れるように宣言してしまえば、少しは努力するかなと…。(苦笑)

というわけで、今日はこれにて…。(実は既に0時を回っております…。)

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2008年9月 8日 (月)

急がば回れ

うちの教室のメインは「実感算数」だけれど、レッスンをすればするほど、どんどんオリジナル色が濃くなってきているようにも思う。

数えさせたらダメとか、あまり長く教具を見せたらダメとか、気をつけなさいということが色々あるのだけれど、その方法でやれる子もいれば、それでは無理な子もいる。

実際、サイコロ状の積み木が積まれた絵を見て数を答える問題などは、かたまりで数をとらえさせるようにとのことだけれど、私自身、教室を始めた頃は、1個ずつ数えなければわからなかった。
それが、だんだんとこのかたまりは6とか8とかわかるようになってきて、自然と1つ1つを数えることはなくなった。

教具にしたって、たっぷり見せていると、そのうち子どもの方から「もういい」とか「見ないでできそう」とか言ってくるようになったりもした。

そんなことが色々あって、結局はその子その子によって、現時点でいいと思える方法を選ぶようにしている。

で、先日のこと。

以前、掛け算のレッスンのことを書いたとき、掛け算というものをきちんと理解している子たちは、分配法則や結合法則をすんなりと理解できるというようなことを書いたが、こちらが特に何も言わなくても気付く子もいれば、多少手助けが必要な子もいる。

それでも、九九の範囲ぐらいなら、ほとんどの子が無理なく理解してくれるけれど、掛け算のレッスンからしばらく経って、四則の様々な計算が出てくる単元がやってくる。
その中に、結構大きな数での分配法則の問題が登場する。

「56×31=56×30+□」

そのプリントの1問目はこの問題だった。
ちょっと考え込んでしまっている子に左側を指して「これは56が31回ってことよね?」と尋ねると、こくりとうなずく。
そして、右側の式を指して「これは56が30回よね?じゃあここは?」と尋ねてみた。

すると、少なくない子が陥るのだけれど、「1」と答えた。
足りないのは56があと1回なので、1と答えてしまう気持ちもわからないではない。ただ、それでは正解ではない。

こういうとき、言葉で何度も水を向けても、気づかない子はなかなか気づかない。そのうち、無理矢理誘導するみたいになって、子どももすっきりしないけど、なんとなくこうなのかなぁ…みたいな理解で通り過ぎてしまうことにもなりかねない。

そこで、最近はその類の問題で詰まった子には、書いてもらうことにしている。
その子にも白い紙を指さして、同じように言ってみた。

「ねえ、ここに56って31回書いて。」

もともとあれこれ書くことが好きな子でもあったので、大きな56、ちっちゃな56と楽しそうに56を書き並べている。
31個書き終わってこちらを見たので、1個だけ残して30個をぐるっと丸で囲み、56×30の部分を指さしながら「これ、56×30よね?」とひと言だけ言った。

すると、あっ!という顔をして、□に「56」と書き込んだ。
その後には類題が7、8問あったのだけれど、もう何の説明もいらなかった。
問題を見て、ほんのちょっと考えると、すらすらと答えを書き込んでいく。

56を31回も書かせるなんてこと、普通に考えたら面倒で無駄なことのように思えるかもしれない。
しかし、たった1回それをさせただけで、その後の問題はもう何の手助けも必要なくなったのである。
実際、過去にもそういうことが何度もあった。

一見、まどろっこしく見えることも、子どもにとっては実は近くて確実な道だったりすることもある。
改めてそれを感じた出来事だった。

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2008年9月 7日 (日)

なんだかなぁ・・・

昨日の新聞の1面に、また偽装販売のニュースが大きく出ていた。
今度はお米。
カビが生えたものや中国産冷凍餃子で話題になった農薬が検出されたものなど、非食用として払い下げられたものだったとか。

私は詳しくないので何とも言えないが、日本の食品に対する安全基準は比較的高い方なのかなとは思う。
なので、基準の何倍とか何十倍の農薬や有毒物質が検出されたとしても、それを食べて直ちに命の係わるということはあまりないのかもしれない。

実際、以前ベストセラーになった「食品の裏側」という本を見ても、気にしだすと現代社会では何も食べられなくなってしまうほど、食品添加物などが当たり前のように使われ、恐らく、日々そんなものを口にしている私たちは皆、じわじわと何らかの悪影響を与えられたりはしているのだろうけれど、すぐすぐ命が…とか体調が…とかいうことになるわけでもない。

ただ、今回のお米の件にしても、検査もしたし、カビなどは削り落したとかで、社長自ら「大丈夫だと思った」という話のようだが、そう判断した社長に聞いてみたい。
だったら、あなたはそのお米を自分で食べられるのですか?と。

もし、社長自ら「もちろん食べられますよ。何の問題もありません。」ときっぱり言い切るのであれば、まあ、法的には許されないことなのだろうけれど、なんとなくまだ許せるような気がする。
しかし、自分はやっぱり不安だから食べないとか、当然食べないとかいうのであれば、やはり憤りを感じる。

もちろん、色々な事情があったのだろう。非食用のお米の需要が落ち込んでいたための策とも書かれていたので、会社存続、社員の生活を考えて…などという、単に自分の身を守るため、儲けるためということではなかったのかもしれないが、それでも、体に有害だからこそ「非食用」となっているものを、偽装して食用米として販売するというのは、やはり許されることではないのだろうと思う。

難しいことはわからないけれど、多分、世の中には根っからの悪人なんてのはまずいなくって、魔が差したり、やむを得ない状況に追い込まれたり、せっぱつまって冷静な判断ができなくなったり、そんなことで色んな偽装が行われているんじゃないかと思う。(思いたい。)

けれど、根っからの悪人がいないように、悪いことに耐えられない、人を欺き続けることができない「良心」が必ず存在するのだろうと思う。それは決断した本人の心の中かもしれないし、加担した別の人かもしれないけれど。
だからこそ、次々と偽装が明るみに出ているんじゃないかと思う。

私は大丈夫だろうか。
胸を張って、お勧めですよと言えるだろうか。

教室を始めたとき、もう絶対これをやりたい!私が子どもだったらこれで勉強したかった!!という思いでスタートした。
あれから5年余りが経ったけれど、初めの頃の気持ちを忘れかけてはいないだろうか。

通ってくれる子どもたちが大きくなったとき、楽しかったなと思ってくれたら最高だけれど、時と共に忘れられてもそれは仕方ない。
ただ、ああ、やらなきゃよかったな…とだけは思われないよう、改めてしっかり考えてみようと思う。

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2008年9月 6日 (土)

考え方を読もうと努めること

普段、あまり意識せずやっていることなのだけど、もしかしたら案外大事なことなのかもと思ったので、ちょっと書かせてもらうことにします。

日々のレッスンの中で、私は極力自分が子どもだったらイヤだろうなと思うことは言わないよう、しないよう、気をつけている。
まあ、そうは言ってもまだまだ未熟なので、終わった後で(ああ、あんな言い方して悪かったな…)と反省することもしばしばあるし、もっともっと気付かなければならないこともあると思うけれど、特に意識しているのは「間違ってるよ」という言葉をストレートにぶつけないようにということだ。

もし、どうしても言わなければならないときには「あれ?書き間違えたんじゃない?」とか、「勘違いしてない?」とか、子どものプライドが傷つかない言い方を心がける。

もちろん、ストレートに「間違ってるよ」と言っても気にしない子もいるとは思うけれど、まあ、喜ぶ子はまずいないだろうと思うし、私だって言われたら嬉しくはない。

実際、子どもたちを見ていると、うっかり書き間違えていることも、勘違いしていることも少なくないのだ。
ちょっと促せば自分で気づけることを、「間違ってる」と言われてしまっては、嫌な気分になるだけのようにも思う。

ちなみに、その促すときにも、更に心がけていることがある。
明らかにうっかりだなと思うときはいいのだけれど、子どもが時々思ってもみないような答えを書くことがある。
その答えは、思いつきとか適当に書いたのであればともかく、そうではない場合、子どもなりに何かを考えた結果、その「わけのわからない答え」を書いているわけだ。
とすれば、子どもの頭の中でどう考えられたのかを想像する必要があると思っている。

簡単な例で言えば、今日、ある子が「14+3」の答えを「11」と書いていた。
これなどは、足し算を引き算に勘違いしているのだろうと予想できる。(実際そうだった。)

また、2桁同士の掛け算などをしているときに、うっかり十の位と百の位を足してしまったりして(筆算なら気づきやすいと思うのだけれど、暗算で頭の中だけでやっている子などの場合は見ただけでは気づかない…)こちらの思っているのと全く違う答えが出てくることがある。
そんなときにも、ただ違うというのではなく、こう勘違いしたんじゃない?という予想を尋ねてみたりする。

他にも、表情を見ていて、きっと一所懸命考えた末に出したんだなと思う答えが予想外の答えだった場合、とにかく、その子の頭の中でどんな考えがなされたのかを想像する。
もちろん、どうしても思いつかないときもあるので、そのときには正直に「どうやって考えたんかなぁ?」などと尋ねることもある。

一所懸命考えたことのどこが間違っていたか、勘違いしているか、「間違ってる」と言われただけでは子どもはなかなか気づけない場合もある。
しかし、大人の側が子どもの考えたことを想像することは、意識すればある程度はできるように思う。(特に算数で答えに至る過程などなら…)
そうやって、きっとこう勘違いしたんじゃないかな?と思って投げかけると、子どもはまず不機嫌にならない。

いい加減に答えて間違っているのなら、びしっと「違うよ!」と言ってもいいと思うけれど、その子なりに一所懸命考えている様子が見受けられるときには、まずその子の頭の中を想像してあげることも、子どもが考えることを嫌いにならないために有効なことかもと思う。

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2008年9月 5日 (金)

いつの間にか。

なんだかココログはカウンタのカウント数がイマイチおかしくて(管理画面より表示が少ない…)、更に、管理画面で見られるアクセス数も、パソコンのアクセス数と携帯のアクセス数が別々に表示されることもあって、純粋にこのブログを覗いてくださった方のアクセス総数は正確にはどれだけなのかわかりません…。

そんなこともあり、ちょっと前までは気にしていたのですが、気づけば200000アクセスを超えていました。
2005年12月に始めて、今日まで、まあ、検索エンジンのアクセスとかもあるでしょうから、実際にここにきて記事を読んでくださった方はその半分だとしても、すごいことだなと思います。
本当にありがとうございます。

夏の間は特に、体力も気力も今ひとつ…で、まともな記事はほとんど書けなかったような気がしますし、書き始めた当初と比べると、やはり時間的余裕はかなりなくなってしまいましたが、続けられる限り続けていきたいと思います。

覗きにきてくださった皆さま、本当にありがとうございました。
これからもどうぞよろしくお願い致します。

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2008年9月 4日 (木)

他人の目

おうちの方とお話していると、時々、全然そんな風に思わないけどな~とか、へぇ~そんな面があるのか~とか、教室で見ている子どもとは違う印象のお話を聞かせてくださることがある。

そういえば、遠い遠い昔、私がまだ4歳だった頃の担任の先生が、うちの母にあることを言ったそうだ。
それを言われたとき、母はとても驚いたと、私が大きくなってから話してくれたことを思い出した。

恐らくその頃の私は、伸び伸びと奔放で、男であればガキ大将?みたいな印象を持っている方もいただろうと思うし、とにかく、はきはき元気な子どもという風に思われていただろうと思う。

特に、うちは兄が男の子にしてはかなり、気がちっちゃくて頑固者なところがあって、多分母親は兄がそうだから、私のことは手のかからない元気な子ぐらいに思っていたんだろうと思う。

しかし、そのときの先生が母に言ったことは「あの子は神経質(という言い方をしたのかどうかわからないが)ですよ」だったそうだ。

実際、子どもの頃は今より遥かに小心者の心配性で、あれこれ考え過ぎてお腹が痛くなったり、遠出するのが嫌になったりするような性格だった。
そんな面は確かに持っているのだけれど、反面なぜか親分肌(?)でもあって、周りの人には小心者である面はあまり気づかれていなかっただろうと思う。

それを、何十人もの子どもを預かる先生が見抜いて母に言ったということに、私も驚いてしまった。
見える人には見えるんだなと。

多分、我が子のことを一番愛していて、一番よく知っているのは多くの場合、母親なのだろうと思う。
それは恐らく間違いないだろう。
ただ、子どものことに限らず、物事は往々にして、近すぎると見えないところもあるものだ。

教室のお母さんでも、お話を伺っていると、私からすると全く心配ないと思うようなことを真剣に心配して悩んでおられる方がおられたり、その年齢でそこまでできていたら十二分でしょう?と思うような子のことでも、でも、こういうところがあって・・・と不安になっておられたりということはそう珍しいことではない。

もちろん、近いからこそ分かることは間違いなくあるだろう。
ただ、少し離れているからこそ見えることも、きっとあるんじゃないかとも思う。

お子さんのことで何か煮詰まってしまったら、少し離れて眺めてみたり、お子さんのことをよく知る第三者の意見を聞いてみたりするのも、時には有効なのかもしれないなと、そんなことを考えた。(ちなみに私は子育て経験もない未熟者ですので、あまりあてにはなりませんが・・・(汗))

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2008年9月 3日 (水)

読書の秋

今日は帰宅後、食事をしたらうとうとしてしまっていたようで、既に日付変わって1時なのですが、ちょっと反則で3日の日付でUPさせて頂きます。。。
しかし、どうも頭がうまく回っておらず、書くことが浮かばず…。

というわけで、どうでもいい話。(汗)

夏は暑かったせいもあるのか、なんだかずっと気分がぱっとせず、レッスン以外は何事にもイマイチやる気も出ずだったため、当然読書のペースもガクッと落ち込んでいました。
本を買うペース自体も落ちていました。

それが、本当になぜなのかわかりませんが、8月末、夏休みのレッスンが終了した時点で急激に読書再開中で、まあ、簡単なものや子ども向けの本なども合わせてですが、ここ5日間で4冊読み終え、今も新たな本(これは結構分厚いので少し時間がかかりそうですが…)を読んでいます。

おまけに、ここ1週間ほどでネットでの注文分と実店舗での購入分とを合わせると、一気に10冊近く、また本を買ってしまいました…。
これはペースをキープしないと、えらいことになりそうです…。

食欲はまだイマイチ回復していませんし、スポーツはもう長年何もしていませんから、今年の秋は「読書の秋」になりそうです。
勢いのあるうちに、積読も片づけなければ…。(汗)

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2008年9月 2日 (火)

ウロコ先生の記事を読んで。

ウロコ先生の昨日のこの記事を読んで、ああ、同じようなこと(おこがましいけど…)を私も子どもに言うなぁと思っていたところ、続いてこちらの記事を書かれました。

で、改めて、ホントにそうよね…と思うわけです。

教室の子どもには時々言いますが、中学に行ってしまえば、小数を使うことはほとんどなくなります。1÷2の答えは0.5と答えるより、2分の1と答える方が望ましくなります。
百分率を使う計算でも、×0.15とかより、×100分の15(もしくは20分の3)と考えることが普通になります。

ちょうど今日、ある女の子が小数の掛け算をやっていたのですが、「0.3×0.3」がどうなるか考えてみてもらったとき、初めに「0.9」と答えました。
「じゃあ、0.3×3は?」と尋ねると、「それも0.9。…ってことは0.09か!」とかなんとか言っていましたが、もし彼女に、「10分の3×10分の3(3/10×3/10)」の計算をさせたら、何も迷うことなく100分の9(9/100)と答えられたことでしょう。

実際、私は小数同士の計算のとき、ちょっと面倒だとそれぞれを分数に直してから計算したりもします。
小数計算が好きという人には私はこれまで出会ったことがありません。

仮に、どうしても小数を使わなければできないことがあるのであれば話は別ですが、小数で表せない分数はあっても、分数で表せない小数はないのですから、徹底するなら分数を徹底すべきだと思います。

ウロコ先生の2つ目の記事で、どちらかの塾長先生が、分数を先に教えればいいのにと書いておられますが、幸い、教室で使っている教材では小数より先に分数を学習します。
ですから、小数の計算になっても、たいていの子は思ったほどには苦労しませんが、それでもやはり「好き」という子はまずいません。

どうして学校では先に小数を学習するのでしょう?
そして、どうして小数計算をしっかりやらせようとするのでしょう?
整数で桁数の多い掛け算や割り算をしっかりやらせておくことは必要かもしれませんが、小数の掛け算、割り算は小学校以外では本当にほとんど使うことがない、もしくは、使えなくても小数を分数で表わすことさえできればまず困らない、そんなものなのではと思います。

どういう意図で小数の後に分数を学習するようになっているのかはよくわかりませんが、もし小学生のお子さんで小数計算が苦手だという子がいましたら、小数よりまず分数計算をしっかりできるようにする方が後々役に立つのではとも思います。

例えば、今日のプリントにありましたが、こんな問題。

「36÷48」 

小数で計算すると……1の位は0。次に360の中に48が何回あるか考えて…と、これって小学生には結構大変です。で、なんとか7回とわかって、48×7=336。余りが24で、これに0をつけて240。240÷48=5だから、ようやく0.75となります。

しかし、分数だと 48分の36(36/48)→約分して(気づけば12で一気に約分、気づかなくても6で約分ぐらいなら気づきそう…)4分の3(3/4) おしまい。 小数に直さなければならなかったら、3÷4をし直すって感じでしょうか。(大きさの感覚のある子は0.75と出せたりしますが。)

もうどう考えても圧倒的に分数の方が簡単!!

徹底するなら分数計算を!と、私も言いたいです。(笑)

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2008年9月 1日 (月)

なんか考えてしまう。

私は子どもの頃、学校が好きだった。
勉強は特に好きではなかったけれど、そんなにつらいと思ったこともないし、学校に行くこと、友だちと会えることは楽しくて、休んだこともほとんどない。

自分の中でそういう記憶しかなかったから、これまであまり深く考えることがなかった。
けれど、最近、色々な本を読んだり、教室では本当によくできるのに学校では評価されづらい子を何人か見ていたり、不登校の子たちに関わっておられる先生の話を伺ったりとしているうちに、ちょっと考えてしまった。

これは決して学校の先生を批判しているとかではないので、そこは誤解のないように願うけれど(強いて言えば、学校制度批判ではあるかもしれないが)、学校というところにはやはり限界があるんだろうなということ。

私は子どもの頃、たまたま、どちらかといえば勉強ではそう苦労しなかった方で、おまけに暗記科目系で点が取れなくても、自分で「覚えてないんだから仕方ないよね~」ぐらいにけろっとしていた人間なので、授業やテストで嫌な思いをした記憶は、少なくとも義務教育の間ではほぼない。

ただ、それは本当にたまたま、学校の授業のペースやらに自分がついていけたからであり、また、興味のないことはできなくてもさほど気にならない性格だったからだとも言えるんだなと、今更ながらに思ったのだ。

現に、高校に進学して最初の数か月は、授業についていけず、予習・復習さえ満足にこなせず、こんなことじゃ絶対ついていけないし、体も持たない…と、毎日のように辞めることを考えていた。
幸か不幸か、それを決心する根性もなく、のらりくらりとしているうちに、処世術を覚え、なんとなくやっていけるようになったわけだけれど。

今、教室に来てくれている子たちの中に、私から見ても考える力やふとした瞬間のひらめきみたいなものは、本当にすごいなぁ~としみじみ感心してしまうような、だけど、そのペースがゆっくりな子が何人かいる。

そういう子たちは、学校では評価されづらい。
学校というところは、決められた時間内に素早く反応できる、処理できる、そういう子たちが主に評価されるところだ。
テストにしたって、決められた時間内に解けなければ、得点には反映されない。仮に、すごくすごく難しい問題を時間制限なしに考えさせたら、それを解く力を持っている子がいたとしても、今のシステムではそれを評価してもらえる学校はおそらくほぼないに等しいのだろうと思う。(特に義務教育の公立の学校では・・・。)

人にはそれぞれのペースがあるし、勉強に限らず、行動だってちょろちょろ落ち着きのない子もいれば、スローテンポの子だっている。
当然、思考に関しても、ゆっくりじっくり考える子もいれば、感覚的にぱぱぱっとこなしていく子だっているだろう。

しかし、少なくとも現状の小中学校の多くは、「速く正確にできる」ことがいいこととしているところが多く、むしろ、それ以外の評価基準はかなり限られているとも言えるかもしれない。(特に国語や算数などの教科では。)

ということは、学校制度で望まれるスピードや正確さに対応できる子にとってのみ、学校という場での学習は効果があるのかもしれない。(効果がないにしろ、辛いとか苦しいとか思わずに済むだろうし、劣等感も味わわずに済むだろう。)
そのペースに合わない子にとっては、授業はつらい時間、退屈な時間になってしまうだろうし、ペースの遅い子たちにとっては、劣等感まで植え付けられてしまうことだってあるだろう。

難しいよなぁと思う。
全ての子どもに合ったペースなんてものは、一斉授業をしている限り実現不可能だ。
かといって、30人や40人の子どもひとりひとりに個別に対応できる超人的能力をお持ちの先生もそうはいらっしゃらないだろう。(当然私はそんなの絶対無理…ってことで教員採用試験を受けなかった身だし。)

今の学校のシステムを維持したまま、落ちこぼれ(という表現が適当かどうかはわかりませんが…)をなくそうなんてことは、どう考えても不可能なんじゃないだろうか。
どうしてもそれを実現させよとすればするほど、ペースのゆっくりな子、理解に時間がかかる子たちに合わせなければならなくなる。しかし、年間に指導すべき内容も決められているのだし、授業時間も限られているとなれば、やはりどう考えても難しいのが現実だろう。

何がいいたいのかまとまらないのだけれど、とにかく、今の学校制度になじめない子がいるのは当然だなと。
何が何でもみんな学校に行かなきゃってことはないんだろうなと。
なんかそんな感じのことをぼんやりと、もやもやと考えてしまう。

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