私は子どもの頃、学校が好きだった。
勉強は特に好きではなかったけれど、そんなにつらいと思ったこともないし、学校に行くこと、友だちと会えることは楽しくて、休んだこともほとんどない。
自分の中でそういう記憶しかなかったから、これまであまり深く考えることがなかった。
けれど、最近、色々な本を読んだり、教室では本当によくできるのに学校では評価されづらい子を何人か見ていたり、不登校の子たちに関わっておられる先生の話を伺ったりとしているうちに、ちょっと考えてしまった。
これは決して学校の先生を批判しているとかではないので、そこは誤解のないように願うけれど(強いて言えば、学校制度批判ではあるかもしれないが)、学校というところにはやはり限界があるんだろうなということ。
私は子どもの頃、たまたま、どちらかといえば勉強ではそう苦労しなかった方で、おまけに暗記科目系で点が取れなくても、自分で「覚えてないんだから仕方ないよね~」ぐらいにけろっとしていた人間なので、授業やテストで嫌な思いをした記憶は、少なくとも義務教育の間ではほぼない。
ただ、それは本当にたまたま、学校の授業のペースやらに自分がついていけたからであり、また、興味のないことはできなくてもさほど気にならない性格だったからだとも言えるんだなと、今更ながらに思ったのだ。
現に、高校に進学して最初の数か月は、授業についていけず、予習・復習さえ満足にこなせず、こんなことじゃ絶対ついていけないし、体も持たない…と、毎日のように辞めることを考えていた。
幸か不幸か、それを決心する根性もなく、のらりくらりとしているうちに、処世術を覚え、なんとなくやっていけるようになったわけだけれど。
今、教室に来てくれている子たちの中に、私から見ても考える力やふとした瞬間のひらめきみたいなものは、本当にすごいなぁ~としみじみ感心してしまうような、だけど、そのペースがゆっくりな子が何人かいる。
そういう子たちは、学校では評価されづらい。
学校というところは、決められた時間内に素早く反応できる、処理できる、そういう子たちが主に評価されるところだ。
テストにしたって、決められた時間内に解けなければ、得点には反映されない。仮に、すごくすごく難しい問題を時間制限なしに考えさせたら、それを解く力を持っている子がいたとしても、今のシステムではそれを評価してもらえる学校はおそらくほぼないに等しいのだろうと思う。(特に義務教育の公立の学校では・・・。)
人にはそれぞれのペースがあるし、勉強に限らず、行動だってちょろちょろ落ち着きのない子もいれば、スローテンポの子だっている。
当然、思考に関しても、ゆっくりじっくり考える子もいれば、感覚的にぱぱぱっとこなしていく子だっているだろう。
しかし、少なくとも現状の小中学校の多くは、「速く正確にできる」ことがいいこととしているところが多く、むしろ、それ以外の評価基準はかなり限られているとも言えるかもしれない。(特に国語や算数などの教科では。)
ということは、学校制度で望まれるスピードや正確さに対応できる子にとってのみ、学校という場での学習は効果があるのかもしれない。(効果がないにしろ、辛いとか苦しいとか思わずに済むだろうし、劣等感も味わわずに済むだろう。)
そのペースに合わない子にとっては、授業はつらい時間、退屈な時間になってしまうだろうし、ペースの遅い子たちにとっては、劣等感まで植え付けられてしまうことだってあるだろう。
難しいよなぁと思う。
全ての子どもに合ったペースなんてものは、一斉授業をしている限り実現不可能だ。
かといって、30人や40人の子どもひとりひとりに個別に対応できる超人的能力をお持ちの先生もそうはいらっしゃらないだろう。(当然私はそんなの絶対無理…ってことで教員採用試験を受けなかった身だし。)
今の学校のシステムを維持したまま、落ちこぼれ(という表現が適当かどうかはわかりませんが…)をなくそうなんてことは、どう考えても不可能なんじゃないだろうか。
どうしてもそれを実現させよとすればするほど、ペースのゆっくりな子、理解に時間がかかる子たちに合わせなければならなくなる。しかし、年間に指導すべき内容も決められているのだし、授業時間も限られているとなれば、やはりどう考えても難しいのが現実だろう。
何がいいたいのかまとまらないのだけれど、とにかく、今の学校制度になじめない子がいるのは当然だなと。
何が何でもみんな学校に行かなきゃってことはないんだろうなと。
なんかそんな感じのことをぼんやりと、もやもやと考えてしまう。
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