学校で評価されること
今更何を?という感じかもしれないが、このところしみじみ思っていることがある。
一般的に学校の勉強での評価というのは、ごくごく狭い、かなり偏った部分についてのみなされるんだなということ。
一定の時間内に、指示された事柄をその通りに再現できること。習ったことを覚えて、正確に答えられること。特に勉強に関してはそれがほとんど全てなのではないかと思える。
私は幸い要領のいい子どもだったので、先生の指示には素早く反応できたし、怒られるのが嫌だったから、言われたことは基本的にちゃんとやった。
だから、小学校時代の成績は概ね良好だった。
4年生のときのことだ。
今であれば大問題になるだろうけれど、子どもが見ても明らかに極端にひいきをする先生が担任だった。
特に私ともう一人の女の子はひいきされ、ある男子がそれはもう目の敵のように毎日怒られ、叩かれ、走らされていた。
しかし、その男子は運動神経はもちろん、実は頭もとてもよかったようだ。
「ようだ」というのは、4年生のときにはその子は怒られてばかりだったから、よくわからなかったのだけれど、中学に進学して、彼は学級委員になったり、野球部のキャプテンになったりして、卒業時には学区の一番手校に進学したのだから。
その子はいじめっ子で、よく女の子をいじめては泣かせたりしていたし、先生の言った通りにはしないような子どもだった。
本人に聞いたことはないけれど、恐らく彼の4年生の通知簿はすごいことになっていたのではないかと思う。
今、教室に来てくれている子達でも、しばしばかなり納得のいかない評価をされていることがある。
抜群に得意なはずの算数の成績がぱっとせず、本人はやや苦手としている国語の成績がよかったり、計算より図形が得意な子の成績が逆の評価を受けていたり・・・。
でも、なんとなくわかるところもあるのだ。
例えば、能力の高い子はぱっとわかってしまうから、話をちゃんと聞かなくてもできてしまったり、先生の言った通りのやり方ではやっていなかったりということもあるのだろう。
その時点で小学校では既にマイナスの評価が付くのだろうと思う。
それに、マイペースでおっとりした子だと、ちゃんと時間を与えて考えさせれば、かなり難しい問題でもやってのけるような力があっても、学校では決められた時間内にできるかどうかで評価されがちなのだろう。
以前読んだ「バカをつくる学校」にもそんなことが書かれていたし、つい先日読んだ外山先生の本では「グライダー」と表現されていたけれど、学校というところは「グライダー(自分の力では飛べない)」を養成する場所だと。だから、「優秀なグライダー」かどうかが評価の基準で、仮にその中に「飛行機(自分の力で飛べる)」が混ざっていたら、グライダーの迷惑になると。
確かに、今のシステムでは学校というところはまだまだ「指示されたことをみんなと同じように同じ時間内でできるかどうか」ということを評価する場所なんだろうと思う。
だから、それに馴染めない子達は(天才と言われるような子などはしばしばそれに属するのではと思う)学校では本人の能力について正しい評価をされにくいんだろうなと。
そこはすぐすぐ学校を変えるのは不可能だろうから、やはり、それぞれの子の性格や能力、その子のペースなどを見て、学校では評価されにくいけれど、その子の持っている素晴らしいところがあれば、周囲の大人が大いに褒めて評価してあげる必要があるだろう。
私自身、学校ではあまり苦労したことのなかった人間なので、そんなことに気づくまでに随分時間がかかってしまったけれど、小さい子を持つ親御さんや、そういう子たちに関わる大人たちは、そんなことを意識していてもらえたら、子どもたちはもっともっと持てる力を発揮できるんじゃないかと思う。
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