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2007年11月30日 (金)

明日から師走。

今日のレッスン終了後、教室でブログを更新しようと思ったのですが、何が何だか異常に動作が遅く、何をするにものろのろ。次々と砂時計マークが出ては滞り、時間ばかりが過ぎていき…。

土曜は朝からレッスンがあるため、早く帰宅して食事を済ませたかったのですが、パソコンを終了させるだけにもかなり時間をとられました…(泣)
というわけで、今日は手抜き更新でお許しを…。

今日でとうとう11月もおしまい。明日からもう師走です。
ついこの前夏休みだったような気がしているのですが、いや、そもそも、ついこの前今年度が始まったような気がしているのですが…恐ろしいスピードです。

11月中に教材の1パターン目の原案を仕上げると宣言したような気がするのですが、今現在、最後の5枚ほど追加で入れたいプリントを作る(とりあえずラフで)作業が残っています。

どう考えても11月中には無理っぽい…。
でも、宣言していたお蔭でどうにかこうにかほぼそれに近いところまではたどり着けました。
次は2パターン目。こちらはかなりあれこれ変えたりしたいと思っているので、ちょっと時間が必要になりそうです。
おまけに、子どもたちの能力がすごいので、どんどん教材をクリアしていく子たちに次何をしてもらうか、その教材を探し、事前に解いて…という作業が入っているため、本当に仕事は常に自転車操業状態…。

以前、ある社長に「自分でできることと人に任せることを考えなさい」という内容のアドバイスを頂いたのですが、それは本当にちょっと真剣に考えなければならないのだろうなと思っています。

減らせる雑務が何か、私が絶対しなければならないことは何か、私がしないことはどういう形で誰に依頼するか…。そんなことを来年に向けて考えていかなければと思います。

ずっと中途半端に考えたまんまで頭に引っかかっていることもいい加減片付けていかないと、尚更仕事がはかどらないんだろうなと。
師走は忙しいのが当たり前なのでしょうけれど、明日からまたしっかり頑張らねばと思います。次の日曜、2日は出勤です。お昼前後の2時間はレッスンが確定しています。もし振替や体験その他、ご希望がございましたらお尋ねください。

手抜き更新でした…。

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2007年11月29日 (木)

言われてしまった・・・。

「先生、昨日くしゃみされませんでした?」

笑いながら、あるお母さんがお迎えにいらっしゃった。
一体なんの噂をされたんだろうと思ったら・・・。

「○○さんと言ってたんですよ~。先生、怒ったら怖いねぇ~って。」

・・・・・・・・・。
保護者の方に言われてしまった・・・。(苦笑)

まあ、実際、多分私が怒ると結構怖いと思う。
というか、そもそも自分では教室を始めて本気で怒ったことなんてないんだけど・・・。というかというか、子どもたちと一緒に勉強するようになってからこれまで、多分ただの一度も感情的に怒ったことはないはずなんだけど・・・・・・。(汗)

ただ、確かに私はときどきガツンと言う。
相手が子どもだろうと言うときは言う。そもそも私は「子どもだから言ってもわからない」とは思ったことがないし、むしろ子どもであれば、こちらが真剣であれば必ずそれは伝わると思っている。

大人には伝わらないことでも、子どもはこちらが気持ちを込めていれば、それをしっかり感じ取るような気がする。

だから私は相手が1年生だろうと2年生だろうと(さすがに幼児さん相手にガツンとは今のところやったことがないけど)、言うときは容赦ない。
もちろん、ネチネチしつこく言うことはしないし、ヒステリックにきぃ~~~っ!!となることもない。(むしろだからこそ怖いのかもしれないが・・・)
それでも言うときは当然本気で言うのだ。

「○○さんと・・・」とおっしゃったが、あれれ?○○さんは私が怒ったところに出くわされたことなんてあったっけ?そもそも、○○さんのお子さんにガツンと言った記憶はないし・・・。
そう思いながらお尋ねすると、先日レッスンで別の子にガツンとやったときにそこにおられたようだ・・・。

レッスンの終わり頃お迎えに来られ、ちょうどそのとき、一緒にレッスンしていた3年生の子が、適当に答えを書いては消し、書いては消しを繰り返し、真剣に考えようとしなかったものだから、恐らく「そんなんやったらやらんでええ!もうやめとき」とかなんとか言って、彼のプリントを取り上げたんじゃなかったかと思う。
その場面に遭遇されたお母さんが「怒ったら怖いねぇ」となったということらしい・・・。(苦笑)

もちろん、怒っても怖くないんだったらそもそも怒る必要なんてないと思うし、私は怒るとき相手が子どもでも駆け引きなんてしていない。
怒ればやるだろうとか思わない。そもそも、怒られてまでやる必要なんてないとさえ思っているし、私のためにとか、怒られるのがイヤでとか、そんな理由で勉強するんだったら、別にしなくていいよ?と思う。

だから、「真剣に考えないならやらなくていい」というのは本気だし、適当に答えを書いて○さえもらえればいいのなら、ここに来てもらう必要なんてない。
ここの子達は何度も耳にしていると思う。「やり方を教えてほしいんだったら無理してここにこなくていいよ」とか「ただ○になればいいんだったら、全部答え教えてあげるよ。で、○してあげるわ。そんなんでええの?」とかいう私の言葉を・・・。

まあ、幼い子達に大人気ないと思うことももちろんあるのだけれど、自分自身が誰かに勉強を強制された記憶もなく、やりたくなければやらなかったし、それでテストの点が悪くたって気にしなかったし、でも、わからないのが気持ち悪いと思えば勝手に勉強したし、興味があること、好きな先生の教科、そんなものは勉強が好きだったのではないにしろ、自らの意思で取り組んできた人間だから、怒って勉強させる気にはどうしてもならないし、考えずにただ正解になったって、その正解に何の意味も感じないのだ。
だから、勉強することは強制したくないし、○さえもらえればという考えの子とは一緒に勉強できない。
その点はきっとこの先も変われないんだろうなと思うし、変わろうとも思っていない。

それにしても、いい歳して保護者の方にそんな指摘を受けるとは、さすがにちょっとどうなんだ?と思わなくもないけれど、そこもまた、相手が子どもなだけに親がいないときはガツンというのに、親がいたら控えめになるとか、そんな差をつけたら、多分途端に信用を失うんだろうとも思うのだ。

ダメなことは親がいようといまいとダメだし、仮に保護者の前で私がガツンと言って、もしもその保護者の方が「うちの子にそんなこと言うなんて失礼な!」と思われたら、それもそれで仕方ないんだろうと思っている。

それにしても・・・大人が見ても「怖い」と感じるってことは・・・子どもたちが私を怖がるのも納得だなぁ・・・。

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すみません…。

眠過ぎて、まともなことが書けそうにありません…。
これを越えるとまた目が冴えてくるのですが…。

明日改めて何か書かせて頂きます…。
見にきてくださった方、どうかお許しを…。

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2007年11月28日 (水)

あとで書きます…

すみません…。教室のPCがイマイチ不調でブログ更新できず、今仕事を終えて帰宅しました。
後ほど何か書けるかと思います。宜しくお願い致します。

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2007年11月27日 (火)

大きな声を出す理由

私はもともと声がデカい。
子どもの頃など、おとなしい子であればほぼもれなく経験しているであろう、発表時などに「きこえませ~ん!」とか言われた経験は皆無。
人生の中で、声が小さいと叱られたことは、ただの一度、知る人ぞ知る高校時代の悪夢の臨海学校だけだ。(今はさすがになくなってしまったらしいが、うちの高校では昔から延々と軍隊生活のような、時代錯誤も甚だしい臨海学校が伝統として実施されていた・・・)

そんな私だから、普段しゃべる声でも十分に大きい訳だけれど、レッスン中に意図的に大きな声を出すことがある。
もちろん、がつんと叱るときはそうなのだが、それ以外にもわざと大きな声を出すことがある。

以前何の本だったか、「男の子の脳、女の子の脳」だったかな?(違ったらすみません)、聴力にも男女差みたいなものがあって、一般に男の子の方が聞き分ける力が弱いというようなことを読んだ。
実際、男の子には大きめの声でしゃべったほうが反応がいいし(もちろん個人差はあると思うが)、特にぼ~っとしているときなど、普通の声で話しかけても意識がこちらに戻ってこなかったりする。

私が大きな声を出すとき、周りの大人や一緒にいる子どもたちは私が怒っていると感じているのかもしれない。
もちろん、実際に怒っているときもあるが、怒っているのではなく、意識を戻すためにわざと大きな声を出すことも結構ある。
ぼ~っとしている男の子に大きな声で指示を出すと、途端に動き出したりもするのだ。そういうときは、その子自身は怒られたと感じている様子もなく、ただ単に意識がどこかに旅していたけど呼び戻されて線がつながったというような反応だ。

子どもがレッスン中、ぼ~っとしているときに普段以上のボリュームで何かをいうと案外効果があったりする。
特に男の子や、意識が旅行に出かけているときには、ご自宅でも試してみられてはいかがだろう。

あ、因みに・・・、もちろん怒るときは声がデカい上、顔も怖いので、怒られた本人はもちろん、周囲までビビッてしまうのが狭い教室の少人数の難点なのだが・・・。(苦笑)

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2007年11月26日 (月)

考えるということ

子どもたちを見ていて感じること。

「考えるということは子どもたちにとって心地よいことだ」

ということ。

もちろん、全ての子が教室に来てくれた最初からそう感じられるわけではない。

教えられることに慣れてしまっている子、テクニックで答えを出すことに慣れてしまっている子、適当に書いて間違っていたらまた適当に違う答えを書く作業を繰り返してきた子、そんな子たちにとって、初めのうち、「考える」という作業はとても苦痛を伴うものであったり、できれば避けて通りたいことであったりするようだ。

それでも、さっきまでガチャガチャと落ち着かなかった子がふとしたきっかけで問題に入り込むと、見事なまでに静寂が訪れる。
子どもたちが真剣に問題に入り込んでいるとき、どんなやんちゃな子でも、普段落ち着きのない子でも、とても穏やかな美しい表情を見せる。

恐らく、幼い頃から心の赴くことを心行くまでさせてもらってきた子達は、考えること自体が当たり前のことで、改めて「考えなさい」と指示を出す必要すらないのだろうと思う。
そもそも、子どもたちは「なんでだろう?」「どうしてだろう?」「これはなんだろう?」そんなことから色々なものを学び始めるのではないだろうか。

とすれば、考えることは極めて自然なことであり、与えられるものではない。
きっと、大人があれこれと余計な邪魔をしなければ、多くの子どもたちはいくらでも色んなことを考え続けるのではないかとも思ったりする。

しかし、さすがに大人の側が何も教えず、与えずにはいられない面もあろう。
そうして、いつ頃からか文字を教え、数字を教え、言葉を教え・・・と大人が一方的に与えることが当たり前のような感覚になっていく。
そして、いつの間にか多くの子どもたちが「勉強は教わるもの」とインプットしてしまうのかもしれない。

教室の子達の中にも、問題を適当に読んだだけで、どう見ても全く「考えた」とは思えないのに平気で答えを書く子どももいる。
そうなってしまったことには、少なからず周囲の大人の責任があるに違いない。

そんな子にはガツンと叱ることもあるし、考えないんだったらやらなくていいと問題を取りあげることもある。
そんなことを繰り返しながらも、徐々に「考える」ということを思い出し、子どもたちは問題に取り組み始める。

もちろん個人差もあるし、得意不得意での集中の度合いの違いなんかもある。

それでも例外なく、子どもたちが真剣に考えているとき、皆とても穏やかできりっとした表情になる。
子どもは気づいているかわからないけれど、間違いなくそれは心地よい時間なのだと思う。

学習中、子どもががちゃがちゃ落ち着かないとき、それは子どもがどう考えていいのか分かっていないか、考え方自体がわかっていないか、そのどちらかであることが殆どだろう。

前者であれば、その子にとってのステップが合っていないのかもしれないから、1段の高さを低くしてあげるなどすればある程度対処できるだろう。

問題は後者。考える習慣を長らく忘れてきてしまった子とは、一定期間根競べをしなければならない。時にはまるで子どもをいじめているようにさえなる。
それでも、そこを越えなければ、その子は「考える」ということを再び獲得することができないのだ。
高い高い壁かもしれない。子どもによっては諦めてしまうかもしれない。諦めたら、そのあとはずっと量をこなし、テクニックを身につけ、いけるところまで行くしかないのかもしれない。それを選ぶなら、私にできることはなくなる。

苦しんでいる子に私は言う。
「つらいかもしれないけど、そこを頑張らなきゃずっとつらいままだよ。けど、考えるのがいやならやり方を教えてくれるところはいっぱいあるから、無理にここに来なくていいよ」と。
その言葉をかけるのは私ももちろんつらい。

それでもこれまで私がそう言った子達で、考えることを投げ出した子は幸いにもまだいない。
そしてみんな、早かれ遅かれ、変化を見せ始める。

考えるということは本来心地よいことなんだと子どもたちを見て思う。
だとすれば、大人がそれを奪う教育をすることは、やはりどこか間違っているのだろうとも思える。

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2007年11月25日 (日)

日曜日

昨日書こうと思ったことがあったのですが、一体なぜなのか…本当に家に帰ってくるとどうにもこうにも全くというほど仕事がらみのことは何も、というか、実際家事その他も含め、生産的なことは何もする気にならなくなってしまいます…。

仕事関係のメールも、最近は夜に時間があっても翌日の出勤前とかまで持ち越してしまう始末…。時間があってもただひたすらダラダラしてしまう自分にいささか辟易したりします…。

結局昨日もだらだらしたまま睡魔に襲われ、今日は今日で1日中ただひたすらにだらだらしてしまいました。
だらだら選手権とかあったら(そんなもんあるか!(苦笑))結構いいところまで行けるのではと思ってしまいます…。

今日はなんだかテンションが低めではっきりとした理由もないのにやたらと涙腺が緩んでしまった1日でした。
そして、実家で久しぶりに情熱大陸を見ました。

もともとあの番組は好きなのですが、大抵日曜はあの番組が始まる前に実家から戻ってきて、帰宅後はテレビをつけない生活が長いもので、滅多に見ることがなくなってしまいました。
でも、頑張っている人、活躍している人の姿を見ると、自分ももうちょっとしっかりしなきゃなと思いますね。

多分、色んなことを言っているだけ(書いているだけ)で実際にはろくに頑張っていないから時々無性に自己嫌悪に陥るんだろうなと、ぼんやりそんなことを思ったりしている休日。
書こうと思ったことはまだなんとか覚えていますが、明日以降に持ち越しさせて頂こうかと思います。

さて、今週で11月もおしまい。
ホントに色々しっかりしなきゃいけませんね。

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2007年11月24日 (土)

多分あとで書きます。

すみません。今日はレッスンが7つある日で、そのあとも気づけばあっという間にこの時間。因みに一応ずっと何らかの仕事はしていたような・・・。

とりあえず仕事もしたいのですが、頭に休息が必要っぽいので、一旦帰宅しようと思います。
書きたいことはあるので、睡魔に襲われなければ後ほど更新致します。

でも、今日は多くの方が3連休の中日。お天気もよかったですし、あまりご覧になっておられないかなぁ。(笑)
明日はお休みを頂きます。来週はもう11月最終週、週末にはとうとう師走ですね・・・。かなり焦ります・・・。

がんばります!

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2007年11月23日 (金)

この名前に感謝(笑)

私は下の名前が「みどり」である。
それもひらがな・・・。

子どもの頃は色の名前だったものだから、それはもうしょっちゅうからかわれ、また、私の子どもの頃は「子」がつく名前もまだまだ多かったし、そうじゃなくても、漢字で「ああ、親が考えてつけたんだろうなぁ」と思うような名前がうらやましく思えた。

なので、昔はこの名前があまり好きではなかった。

おまけに、自分がつけたわけじゃないんだから、私が緑色を好きなわけでもないのに(今は結構好きだけど)、プレゼントなどを頂くとやたらと緑色だったりして、それもちょっとご勘弁・・・と思ったりもしたものだ。

更に、姓名判断ではひらがなの名前はよくないとか、濁点が入っているとよくないとか、もうホントいいとこなしの扱いで、そんなこんなでこの名前がイマイチ好きじゃない時代はかなり長かった。

でも、なんだかんだ、私のフルネームは覚えやすいらしく、大学時代の先輩の全く会ったこともない母上が年賀状で見た私のフルネームを覚えてしまったとか、高校時代の先生は友人が話していたのを聞いて、「誰や、それ、演歌歌手か?」と言ったとか・・・色々なエピソードも存在する。

で、今この仕事をするようになって、子どもたちにとってひらがなのこの名前はどうやらかなり覚えやすいらしい。
苗字は覚えていなくても、名前は覚えていてくれる子が結構いる。

そして、クレヨンやクーピーで緑色を使うときなどにニコニコ「みどり先生のみどりや~」とか言ってくれるとなんだか嬉しくなってしまう。

今日なんて、最初の体験だけさせてもらってその後は私は担当させてもらっていない幼児さんがクレヨンですっかり緑色になってしまった手を見ながら、ニコニコ「みどり先生」と言ってくれたのにはさすがに驚いた。

この仕事にはこの名前はなかなかイケているらしい。(笑)

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2007年11月22日 (木)

手遅れって?

教室を始めて、色々な先生や書籍、教材などに出会い、それまで知らなかったことも色々知ることができた。
もっと早く知りたかったと思うことも色々あるが、それはきっと「出会う時期」というものが決まっていたのだろうと思ったりもする。

そんな中、保護者の方とお話をしていたり、昨日検索ワードでいらしてくださったらしいどなたかが検索しておられたように、これまでほかにも「手遅れでしょうか?」という言葉を耳にしたことがある。

もちろん、病気とかの話ではなく、お子さんにこれまでやらせてこなかったことについてであったり、逆にやらせるべきではないことをさんざんやらせてしまったのをリカバリーできるかということについてであったりするのだが。

私はこの言葉を聞くたび、なんだか複雑な気持ちになる。

「手遅れ」ってなんだろう?

まあ、もちろん、私は詳しくはないけれど書籍などによると子どもたちには「敏感期」というものがあり、その時期に合ったものを与えれば、驚くほどの吸収力を見せるけれど、その時期を過ぎると吸収するのにすごく苦労したり、どんなに苦労してもある程度までしか吸収できなかったりするらしいということは知っている。

だから、ある意味で「手遅れでしょうか?」という不安を持たれることも、実際には不思議なことではないだろう。

アマラとカマラだっただろうか?幼くして狼に育てられた子達はその後どんなに教育を与えても数えるほどの言葉しか使えるようにならなかったと読んだことがある。
そういう意味では、彼女らは言語習得に関しては手遅れだったのかもしれない。

ただ、人間は一人ひとりみんな違う。
アマラとカマラにしたって、同じ2人を最初から狼に育てさせた場合と、人に育てさせた場合とでどれだけの差があったかという検証は不可能だ。

例えば、幼いうちに大量に機械的反復訓練をし続けてしまった子がいたとしよう。
その子が既に、高学年になっている場合、脳の発達などから考えても「手遅れ」と表現される部分があるかもしれない。
実際、恐らくそれをしなかった場合に比べ、困難になることは少なからずあるだろうし(もちろん例外はあるだろうが)、普通に努力したぐらいでは到底克服できないかもしれない。

ただ、それでもやはり子どもたちにとって「手遅れ」という表現はなんだか違和感を感じるのだ。

先日も書いたかと思うが、子どもたちの能力、可能性は、無限だ。
子どもに限らず、人間の力には想像を超えるものも少なくないだろう。手がご不自由で足や口を使って素晴らしい字や絵をかかれる方がおられる。どこかが不自由でも、別の部分でそれを補って、更にはそれ以上の才能を開花させる方だっているわけだ。

脳の特定の部分が損傷した場合、別の部分でその部分の働きを補おうとするというようなことも読んだことがある。

要するに、やってみなくちゃわからないのではないだろうか。

もしも、最愛の人がお医者様に「手遅れです」と言われたら、「ああ、そうですか」とあっさり受け止める方なんていないのではないだろうか。
色々なお医者様を探したり、色々なお薬、治療法などを探し、僅かな可能性にでもかけようとするのではないだろうか。

そして、実際に完治する方、完治まではしないにしろ病気と共に長らく生きていかれる方は決して少なくないはずだ。

でも、それも諦めないからこそ、可能性を捨てないからこそ、実現することなんじゃないだろうか。

うまく言えないのだけれど、親御さんが我が子の教育法を間違えたとお感じになったとしよう。
もっと早くこうしていれば・・・とか、こんなことさせなければ・・・とか、何らかの後悔を抱いておられたとして、「手遅れです」と言われて「ああ、やっぱり・・・」と思ったら、多分そこで終わってしまうんじゃないだろうか。

子ども自身がなにくそ!と思うような年齢だったらともかく、まだ幼い子達であれば、大人の働きかけ、環境づくりはやはり重要になってくるだろう。
その最大の力になるはずの親御さんが「そうか、もう無理か・・・」と思ったら、その子はどうなってしまうんだろう?

もちろん、そう思いながらも諦めたりされる方はおられないだろうとは思う。
愛する我が子のために、何か方法はないか、模索し続け、努力し続けられる方がほとんどだろう。

諦めない限り、子どもたちは僅かであろうと必ず伸びていく。

もちろん、しないでいい後悔は極力避けられるに越したことはないだろうから、幼少期にさせるとよいこと、させないほうがよいことなど、積極的に学ばれるのはいいことだろうとは思うが、これもまた色々な情報、価値観があり、絶対にこれがいいというひとつだけのものは存在しないわけだから、結局情報に振り回されるなんてことになってしまったりもするかもしれない。

これは間違いだったのではと気づいたら、そこでよく考えて、また子どもと一緒に頑張っていけばいいのではないだろうか。

限界は自分が決める。

できないと思えばできないし、できると信じて努力を続ければ、不可能だと思えたことだっていつか叶うかもしれない。
うまくまとまらないけれど、そんなことを考えた。

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2007年11月21日 (水)

書きたいことはあるのですが・・・。

本日はなぜか夕方から頭痛がしています・・・。

幸い、アレルギー(のはず)もほぼ治まり、親知らずの痛みも随分と治まってきたのですが、今度は頭痛・・・。やはり歳でしょうか・・・。(苦笑)

まだ仕事しようと思って先ほど薬を飲んだのですがまだ効かず、ちょっと考える仕事は無理っぽいため、切り上げて帰宅しようと思います。

今日は「どんぐり倶楽部 手遅れ」という検索ワードでこちらにいらしてくださった方がおられるようで、その言葉を見て書きたくなったことがあるのですが、ちょっと今日は無理・・・。
明日以降、覚えていたら書かせてもらおうと思いますが、先日、友人も言っていたことです。

「限界は自分が決める」のではないかと、最近そんなことをしみじみ思います。

頭痛が治まったらまた書けそうだったら書かせてもらいます。
どうぞ宜しくお願い致します。

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2007年11月20日 (火)

子どもってセンサーがあるんだな・・・。

最近改めてよく感じるのだけれど、小学生の子達に問題をやらせるとき、多くの子が面白いぐらいよく働くセンサーを持っているらしい。

だって、プリントを出した途端、それが少し難しそうだとてきめんに眠くなる子がいっぱい。
ひどい子なんてお腹が痛いと演技までし始めるほど・・・。(苦笑)
演技はともかくとして、「眠い・・・」という子達はほぼ例外なく、本当に眠そうなのだ。そのプリントを与えたまま何の助けも出さないと、恐らくそのうち本当に寝てしまうのではないかと思うほどだ。

で、先週、あるプリントで完全に行き詰ってしまった1年生さんがいた。
誰かが行き詰るところにはそれに対応してプリントを考えたり、指導を考えたりできるので、それはそれでありがたいことなのだけれど、1年生にしては十二分に難しいことをやっているだけに、そこでイヤになられるのだけは絶対に避けたい。さて、今回はどんな準備をしたらいいかな・・・と、昨日、これまでにはまだ作っていなかった追加の教材を何枚か作った。

今教室でメインで使っている教材は基本的にとても気に入っているのだが、ところどころ段階を経ず一足飛びに問題が難しくなることがある。
それまでに十分実感できていればできるということでもあるのだろうけれど、やはりそれにも個人差があり、その時点での能力差もある。
そう考えると、いきなりそのプリントでは眠くなってしまう子達のために、フォロー用の教材は欠かせない。

というわけで、昨日は実際の教材ではいきなり計算しなさいというプリントが1枚だけ出てくるところを、その前に3段階、それを徐々に難しくしながらプリントを用意し、最終的には先週手も足も出なかったプリントにつながるようにしてみた。

子どもの感覚とは本当にすごいものだ。
問題数を減らし、ぱっと見簡単そうに見えるプリントを目の前に置くと、目がいきいきしている。そのプリントですら、普通の1年生にすれば十分難しいのだが、そのプリントを前に何度か教具をイメージさせながら考えてもらった。
1段階クリア。ちょっと調子が出てきた感じ。そのまま「同じようにやれば絶対できるよ」と言って2段階目を渡すと、目は力がこもったままだ。そして2段階目もクリア。「すごいね~。じゃあこれも絶対できるよ。」そういって3段階目を渡すと、ほとんど何も言っていないのにほぼひとりでクリア。そしていよいよ先週全く手も足も・・・だった段階へ。

まずは問題数をかなり減らした同じレベルのプリントを1枚。「さっきのができたから、きっとできるよ。やってみて」と言って渡すと、少し悩みながらも表情はしっかりしたままだ。
そして、少し間違いながらも、しっかり考えて答えに辿り着けるようになった。

そこで先週のプリントを出してみた。「ここまでできたから、もう絶対できるよ」と言って渡すと「ホント?」と言いながら恐る恐るそのプリントに取り掛かった。
しかし、先週とは全く違い、表情はしっかりしたまま、問題をじっくりにらみつけている。

そうして、そう時間もかからず問題をクリアしてくれた。

多分、ひとつの階段の高さはそれぞれの子どもで違うんだろう。中には1段飛ばし、2段飛ばしでも上ってしまえる子もいるだろうけれど、その反面、普通の1段はまだ高くて上れない子もいるということなんだろうと思う。

そのあたりの見極めは、特に小さい子の場合、その日のコンディションなどによってもかなり左右されるので、今週できなくても来週普通にできたり、先週は簡単そうだったのに、今週はダメダメだったりなんてこともあるから、なかなか難しいところはあるけれど、あ!と思ったときに臨機応変に対応できるように、もっともっと教材や提示の仕方を極めていきたいなと思う。

それにしても、子どもたちのセンサーは恐ろしく敏感だ。(笑)

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2007年11月19日 (月)

大好きな瞬間

私は基本的に「いじわる」なので、子どもたちに簡単にヒントは出さないし、仮に書いた答えが合っていても、本人が納得している様子がなければ、何でその答えなのか尋ねてみたりもする。(自信のない子はそこで答えを変えようとしたりもするし・・・。)

ただ、「いじわる」をして、その子にとって最小限の手助け、ぎりぎりまで待った上でのごく僅かのヒントを様子を見ながら徐々に出していくと、しばしば大好きな瞬間に出会える。

今日、欠席振替のレッスンにやってきた3年生の男の子。この子は最近通ってくれ始めた子なのだが、基本的に本当によくできて、見ていてこちらも驚くことが多い。そんな彼だからこそ、簡単にヒントは出さないし、本当に理解していなければ丸もつけない。

ほとんどの問題は何の手助けもなくても、彼は自分で考えて解いていく。今日もその調子でどんどん解いていたのだが、時間も終盤になり、頭もくたびれてきた頃にこんな問題にぶつかった。

「64×25は(   )×20と64×(   )の和と同じである。」

彼は後ろの(   )にはすぐに「5」と書いた。しかし、そこでどこかにはまり込んでしまったようだ。
それまでの問題は驚くほどスラスラ解いていたので、これももう解けたなと思ったのだけれど、子どもたちには結構よくあることで、レッスン終盤にぽこっとどこかおかしなところにはまり込んでしまう。

一度は「64」と書いたものの、どうも自信がなさそうだ。「ほんと?」と尋ねると、やはり消してしまった。
そこで「64円のものを25個買ったらいくらになるかってときにはこんな式になるよね?」と確認。普段ならそのあたりですぐ気づきそうなのに、どうもはまり込んでしまっている。
式の意味はわかっているのに、なかなか自信を持って「64」と答えが決められないようだ。

何度かのやり取りがあった末、もう一度言い方を変えてみた。

「64円のお菓子を25個買おうと思って、お金もそれだけ用意してお店に行ってん。で、『64円のお菓子25個くださ~い』って言ったら、『すいません、5個しかありません』って言われて、仕方ないから5個だけ買ってん。そしたらどうするん?」

そこまで言ったら、彼は小声で「じゃ、あと64円が20個いるから・・・。」とつぶやいたあと「あぁ~~~っ!今答え言ったねぇ。」とニコニコした。

何かを考えているとき、もやもやが晴れてすっきりした瞬間、多くの子どもが「あぁ~~!!」と大きな声を出し、満足そうにニコニコする。
その表情はなんとも言えず素敵だ。

多分、やり方を説明してその通りに解かせ、忘れないように何度も反復させる学習をしているところでは滅多に見られない顔なんだろうとも思う。

私は子どもたちの「あぁ~~っ!」という瞬間の顔が大好きだ。
その顔を見るためにも、私はやっぱり「いじわる」でい続けようと思う。

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2007年11月18日 (日)

休日にちょっとど~でもいいことをしてみた。

りんご先生のニュースサイトに「新聞を25回折ると何cm?」という記事が取り上げられていて、こういうネタはその昔、まだ私がテレビをよく見ていた頃、ナイトスクープか何かで体育館いっぱいの巨大な紙を折るのにチャレンジしているのを見たことがあるので、実際問題新聞紙を25回折ること自体が不可能だということはわかっていたけれど、まあ、無理やり25回折ったとして計算したら、予想もしないすごい高さになるというのは「計算上」では事実なわけだ。

さて、折り曲げるのが無理だとしても、どうにかして、ガマの油売りじゃないが、1枚が2枚、2枚が4枚…の形式でその作業を25回繰り返して切ったものを重ねたら想像もしないほどの高さになるということなんだよな?と思ったけど、やはりどうもピンとこない。

きっと何か落とし穴があるのでは…と、ふと気になって面積を考えてみることにした。(もしかしたらその昔、ナイトスクープでどこかの偉い先生とかが計算して何か言っておられたのかもしれない。だから巨大な紙が必要になったんだろうとも思うけれど、そのあたりは覚えていない…。)

新聞紙1枚を開いた大きさはおおよそ55cm×80cmだった。(もう少し大きいのだが、自宅のちびっこい電卓で手計算するため、大まかにした。)
で、その面積は4400平方センチメートル。
1回折ると2200平方センチメートル。2回でさらに半分の1100平方センチメートル。

どこかで計算を間違っている可能性はあるけれど(お遊びのため、検算していない…(をい))12回折った時点でおよそ1平方センチメートルになってしまう。

そして、25回目には電卓には「0.0001311」という表示…。
個人的には使ったことのない単位だけれど、平方ミリメートルでいえば「0.1311平方ミリメートル」、1辺がおよそ3分の1ミリの正方形の面積ということだと思う。

つまり…25回折るという時点で、新聞は既に普通の糸よりもっと細いぐらいの糸状の断面積しかなくなるということのようなので、だとすれば、ありえなくはないのかもしれない。
でも…新聞を糸より細く引き伸ばすイメージというもの自体やっぱり抱きづらいので、どうもピンとこないままだけれど…。(苦笑)

でも、確かにその理屈でいけば、その昔、ナイトスクープで準備した巨大な紙を「折って重ねる」のではなく、どうにかして切って重ね続ければ、あのサイズならある程度の面積を保ったまま富士山の高さを超えることができたということなのかもしれない…。

休日につき、極めてど~でもいいことをつらつらと考えてしまった…。

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2007年11月17日 (土)

みんなのお気持ちがありがたくてたまらない。

先日、久しぶりに激しく腹が立った。あまりの腹立たしさにブログにも書いてしまった。
あれでも、お手紙を読んだ直後だと感情的になってしまいそうだったので、少し時間を置いて、ちょっとは落ち着いてから書いたつもりだったのだが、十二分に感情的だったようだ・・・。

あのブログを読んで、すぐに何人もの方が反応してくださった。
コメントをくださった方、メールをくださった方、お手紙をくださった方、皆さん一緒になって怒ってくださったり、応援してくださったり、是非親御さんに伝えてあげてくださいと励ましの言葉や貴重な情報をくださったりした。

皆さんのお気持ちはすごくすごくあったかくて、優しくて、強くて、愛に溢れていて・・・。
自分のことではないけれど、あまりにもありがたくて嬉しくて、何度も泣きそうになってしまった。

プライバシーに関わることでもあり、デリケートなことでもあるので、直接お話をして頂くとかはできないとしても、たとえ間接的にでも、こんなにも素敵な方々が見守って、応援してくださっているんだと思ったら、あの子はますます絶対大丈夫だと思う。

そして、やはり一度の知能検査の結果だけで判断する必要は全くなさそうだということも一層強く感じるようになった。
今日もある保護者の方が、お身内の方が昔、知能検査で知能指数70と出て、だけど東大に行きましたという話聞かせてくださったし、別の方はお知り合いのお子さんでやはり小さい頃知能指数がかなり低く判定されたのだけれど、その子はこの春関大を受験できそうだとも聞かせてくださった。

もちろん、有名大学に進学することが必ずしも素晴らしいこととは限らないし、行きたいと思わないのであれば、無理に努力する必要もないだろう。
それでも、ひとつの例としてきっと希望になるだろう。一度の診断結果での判断、決めつけは、かなり危ういものだということも間違いないだろう。

そこで諦めてしまわなければ、まだこれからいくらだって可能性は開ける。きっと間違いない。

皆さんのあたたかいお気持ちのお蔭でより一層強くそう思えるようになった。
心から感謝している。

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2007年11月16日 (金)

すみません…。

今日は1年ぶりぐらいに1泊だけ帰省してきた友人と仕事の後さっきまでおしゃべりをしていたもので、既に日付が変わりそうです…。
おまけに明日は朝から忙しい土曜日。

というわけで今日はかなり手抜き更新でお許しを…。

関西人の性として、どうしても書きたいことが……。
先日のこと、近くにあるカフェのシャッターにとある貼り紙が。

「一身上の都合により本日は休業させて頂きます。」

い、一身上の都合ですか?!
何事かと心配になりましたよ…。(苦笑)

ですが、翌日からいつものようにお店は営業していました。
なんだったんだろう…一身上の都合って…。(をい)

お粗末でした…。

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2007年11月15日 (木)

ものは考えようかもな・・・。

もちろん、我が子のことじゃないからそんな風に思えるのよと言われれば、きっとその通りで反論なんてできないし、気楽なものだと思う。

ただ、昨日あれからずっと色々考えていた。
で、そういえば、エジソンは子どもの頃、おかしな子扱いをされて小学校を辞めさせられたんだったっけと。アインシュタインは5歳ごろまでほとんどしゃべらなかったとか。
黒柳徹子さんだって、小学校に馴染めなかったんじゃなかったっけ?
それに、偉大な芸術家とかクリエイティブな才能を持った人たちの中にも、「普通」と言われる感覚とはかなりずれている人はいくらでもいるはずだ。(そもそもそういうところで一流になるのだから「普通」であるはずもない。)

ジミー大西さんは絵を描かなかったら恐らくちょっとおつむの弱い芸人で終わっていたかもしれない。それでも彼の絵は世界的に認められたし、その才能はやはり凡人とは一線を画している。

なんかうまくいえないけれど、一般的に計れる知能指数やらなんやらで判断できる部分なんてきっと恐ろしく限られているんじゃないんだろうか?
みんなと同じように学校に通い、同じようにテストを受け、少しでもいい学校に入りたい、いい会社に就職したい・・・そんな思いを持つ人たちには必要なものさしなのかもしれないし、社会生活を送る上であまり苦労をせずに済む能力とかでもあるのかもしれない。
それでも、「人にはない才能」は知能テストでは計れないんじゃないんだろうか。

そもそも知能ってなんだ?

まあ確かに、できないよりできたほうがいいことは少なからずあるだろう。
それでも、何かができなくても、必ずそれぞれにできることはあるはずだ。

なんだかうまく言えないし、全て当てはまるなんてことも当然ないと思うけれど、最近なんとなく思うのだ。
私は基本的に器用貧乏で、何かしろと言われたらどんなことでもある程度はそつなくこなして生きてきた。ただ、何かが突出してできるということはなく、平凡といえば平凡な人間だ。
しかし、何かしら突出した才能がある人たちというのは、往々にしてどこかがぼこっと欠落していたり、アンバランスだったりするような印象が少なからずある。
バランスの取れた人間は結局「天才」にはならないし、「非凡な才能」も持ち得ないということなのかもしれない。

だとすれば、昨日ブログに書かせてもらった出来事は確かに腹立たしいし、ご両親の気持ちを考えるとやり切れない思いにもなるけれど、幸いその子は健康で体には何の不自由もないはずだし、昨日も書いたように、ごく短期間で九九を全て覚えてしまったなどという才能も持っているのだから、一般の基準では計れない何かすごい力を秘めているのかもしれない。ちょっとそんな風にも思えてきた。

九九をなぜそんな短期間でほぼ完璧に覚えられたのかを今のその子に尋ねても、まだ幼いその子はきちんと説明することはできないだろう。
でも、もう少し大きくなったら、私たちが驚くようなことを説明してくれるようになるかもしれない。

先日読んだどの本だったかに書いてあった。(既にどの本か忘れているけど・・・(苦笑))
幼い頃に何かに突出した才能があった子どもに、その子ができない部分をなんとかやらせようと周囲がさまざまな働きかけをした結果、「普通」の子どもにはなったけれど、突出していた才能が消えてしまったと。

これもまたうまく言えないので、書いていいのやらわからないが、例えば盲目の方は聴力や皮膚感覚など、その他の部分の感覚がより研ぎ澄まされると何かで読んだ。
どこかが不自由であれば、他の部分がそれを補うためによりよく発達したりすることは自然なことらしい。

とにかく私は子どもたちの可能性を信じ続けようと思う。
もちろん、それぞれに得手不得手もあるし、実際に発達上の問題を抱えている子もいる。それでも子どもたちはみんな伸びていくのだ。

明日からもまた子どもたちと一緒に頑張っていこうと思う。

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2007年11月14日 (水)

一体何がわかる?

以前から気になっていたある子の親御さんからお手紙を頂いた。
以前から気になっていたのは、数量に関しての感覚がどうも少し身につきづらいような印象があり、もしも発達上何らかの問題があるのであれば、その対処は早いに越したことはないだろうと思ったからだったのだけれど、こちらがはっきりとお伝えしそびれている間に、既にアクションを起こしておられた。

先日はそのご報告を頂いたのだが、今回はその結果報告のお手紙を頂いた。
しかしその間、以前気にしていた頃から比べても、確かにある部分は何か違和感を感じるところはあるものの、正直言って本当に驚くぐらいよくできるようになったことがいくつもあった。
だから、私自身、多少何らかの気になる点はあるのかもしれないけれど、きっと大したことではないのかもと思い始めていた矢先の結果報告だったので、「特に問題ありませんでした」とか「経過を見ましょうというお話になりました」とか、そんな内容なのではと思いながらお手紙を読み進めた。

しかし、そこに書かれていたことは想像を絶する言葉の連続だった。
本当にこんなことを言われたのか?
信じられない表現が連ねられていた。

ご両親はさぞ心を痛められていることだろう。
たった1回、ペーパーの検査でなぜここまで断言できるんだ?ということがずらりと並んだお手紙。
私に伝えるためにそれを文字にするときにも、さぞお辛かったことだろう。

脳の発達から見て、9歳がひとつの壁と言われている。

その子はまだそこに達するまでにまだまだ時間がある。
私がその子と出会ったとき、確かにその子にはできないことが色々あった。しかし、1年足らずの間にどんどんとできることを増やし、確実にその子は伸び続けている。

なのに、なぜ今の時点で「絶対にできない」、「効果は望めない」、そんな言葉を平気で投げつけられるんだ?
あなたはこの子の何を見た?1年前のこの子と今のこの子がどれだけ変わったか、それを見ても「絶対」って言えるのか?

実はその子とは一緒にかけ算のレッスンを始めたとき、かなりちんぷんかんぷんなやり取りがあった。教具を並べて見せているのに、てんで違う数を答えたりもして、やはり数に関して何かあるのかも…と感じたりもした。それに関しては今もまだそう感じるところはないわけではない。(それは親御さんともお話をした。)

しかし、覚えこませたわけでもなく、おうちでも暗記させようとされたことはないとおっしゃっているのに、その子はいつの間にか九九に関しては式を見た瞬間に答えが書けるようになってしまった。
その速さたるや、大人が真剣にやっても負けるかも?というほどなのだ。

おまけに、前回2桁×1桁や3桁×1桁のレッスンをしたのだが、数量感覚がどの程度あるのかはわからない。それでも、その計算も、暗算でかなり素早くきちんと答えが出せるようになっていたのだ。

その子のどこが知能が低く、今後の発達も望めないと断言できるのだ?
あなたは何を知っているんだ?

もちろん、私は発達障害などに関してほぼ素人だ。私の持っている知識はあくまでも本などから得たものに過ぎず、それも初歩的なものでしかない。
それはよくわかっている。

専門家にしかわからないことだってあるだろう。
それでもどうしても納得がいかないのだ。

人は大切な人につらいことを伝えなくてはいけないとき、とてもとても心を痛めるに違いない。
相手がどれだけ傷つくか、心を痛めるか、そんなことを想像し、できることなら伝えたくない…、伝えずになんとか済む方法はないか…、そんなことをあれこれ考えるのではないのだろうか。

つらいことを伝えるとき、まず相手の気持ちを考え、相手に寄り添ってくれる。そんな人の言葉ならつらくてもなんとか受け止めようとするだろう。
しかし、結果だけを見て、きっと専門家にとっては常識的な判断を、相手の痛みも考えずに次々とぶつけるような人の言葉を素直に受け止められる人などいるとは思えない。

何より、その人が知っているのはその子が取り組んだペーパーの検査結果の数値だけなのだ。

その数値だけでなぜそこまでのことが言えるんだ?

私は人間に「絶対不可能」なんてことはほとんど存在しないと思っている。
もちろん、例えば病気や事故などで脚を失った方がおられたとして、「自分の脚で歩く」ということは「絶対不可能」かもしれないが、何らかに方法で歩くことは「絶対不可能」とは言えないはずだ。

お医者様にもう手遅れと言われた方が病気を完治させたなんて話も実際にいくつも存在するはずだ。

ヘレン・ケラーだって、サリバン先生に出会っていなければ、一生混沌の世界で生きていたかもしれないが、「奇跡」は起きたのだ。

頂いたお手紙を読みながら、会ったこともない検査官か指導員か知らないその人に激しい憤りを感じた。
あなたはその言葉を親御さんたちに伝えるとき、心が痛んだだろうか?悲しくて泣きそうになっただろうか?

私には子どもがいない。
だから、親御さんの辛さ、悲しさは私の想像など遥か及ばぬところにあるに違いない。
それでも、そんな私でさえもこんなにも憤りを感じ、悔しくて涙が流れたんだ。

何の希望も与えないカウンセリングなんていらない。
もちろん、不必要な期待を抱かせることはかえって酷だという意見もあるかもしれない。
ただ、今回のことに関しては、どう見ても、どう考えても、そこまで言われる理由がわからない…。だって、そこにあるのはただのペーパーの結果に違いないのだから…。

お母様と少しお電話でお話をした。

「何を!見返してやる!そんな気持ちになりますよね…」

とても可愛くて穏やかなお母様がか細い声でそうおっしゃった。
でも、確かにそうだ。
きっと私がその場にいたら、何が何でもコイツのいうことなんて全て覆してみせる!そう思っていたに違いない。

子どもに無理をさせるのではなく、それでもその子の持てる力をよりよく引き出し、伸ばしていってくれるよう、私も一層頑張っていこうと思う。

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2007年11月13日 (火)

メンテナンス予告。

また忘れそうですので、メンテナンス予告です。
11月13日20時から14時間、ココログがメンテをするそうです。その間は更新その他ができません。

またうっかり忘れていたら13日の更新が途絶えますので、とりあえずこちらにUPしておきます。
どうぞ宜しくお願い致します。

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2007年11月12日 (月)

最近の私、そして教室。

つい先日、幼児のお母さんから教室のカリキュラムのことなどについて尋ねられた。
もちろん、入会頂く前にはできる限りご説明させて頂くし、無理に入会を勧めることは絶対にないし、ご質問にはお答えできる限りきちんとお答えしているつもりではある。

ただ、私自身、この教室を始めたとき、ある意味で見切り発車でもあった。
とにかく伊藤先生の教材と学習法にひと目惚れしてしまい、もともとは中学生と勉強するのが一番好きだったはずなのに、おまけに独立するつもりなんて全くなかったのに、急展開で独立を決めてしまった。

しかし、もともと伊藤先生の教材は幼児から小学校低学年がメインで、先生の教室の場合、殆ど全てのお子さんが中学受験をするため、その後は受験塾に移っていかれるとのことだった。
となると、高学年になったらどうするんだ?と思いながらも、教室を始めたときはほぼみんな低学年スタートだったため、おいおい考えようと、そんな形でスタートしてしまった。

もちろん、常に考えてはきたし、色々教材を探してもみた。
そして、伊藤先生の教材が終了したあとも継続して通ってくれる高学年の子たちにはこんな形で進めていこうかなというのがほぼ固まってきたかなというのが今の状態だ。(もちろん、それぞれの子どものその時点での能力や興味などに応じて、使う教材を変えたりもすることになりそうだし、実際今も既にそうなっているのだが。)

もともと、糸山先生を初めとする先生方が脳の発達から見て9歳頃がひとつの境になるともおっしゃっており、そういう意味では3年生か4年生で教材が終わってしまって、そこからは教材が変わってしまってもそれはそれで説明はつく。

ただ、せっかく考える力を身につけ、能力を開花させている子ども達に、ただの塾用教材だけをひたすらやらせるだけではもったいない気もして、これまで色々考えてきたが、先日使えそうな教材をまたひとつ発見し、高学年もこれでほぼ教材が固まったかなと思っている。

それでも、低学年のメイン教材は2パターン作成し直したいとも思っているし、新たに見つけて気に入った教材も子ども達にやらせる前に自分で解いてみなければならない。
そんなこんなで最近はレッスン以外の時間は、問題を解いたり、作ったりしている時間がやたらと多く、以前のようにパズル問題を解く時間がほぼ全くなくなっていることに気づいた。

パズル好きなだけに、ある意味それはジレンマでもあるのだけれど、まあ、こればっかりは致し方ない・・・。

もちろん、これからも気になる教材は探し続けていくと思うし、自分で作れるものがあれば作っていけたらとも思っている。
そういう意味ではやはり圧倒的に時間が足りないんだろうなぁと・・・。

ダラダラしている時間を仕事に回せばいいのはわかるのだが、これも歳のせいか、最近は大病こそしないものの、あちこち何か不具合が生じ、だましだまし日々を過ごしていたりもする。
そういう意味でも、とにかくまず「健康第一」なわけで、寝る時間を削るとかはできそうにない。

甘いといわれればそれまでだけれど、私の代わりはいないわけで・・・。

それでも、このところちょっと教材に関しての作業が進んで、自分としてはいい感じだ。
やる気になっているときに一気にやってしまいたいものだと思う。

明日からはまた通常のレッスンの日々。
なかなかまとまった時間は取れないけれど、11月中に叩き台を仕上げるつもりで頑張ろうと思う。(なんかまとまりがなくなってしまった・・・(汗))

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2007年11月11日 (日)

休日につき…。

休日につき超どうでもいいネタで失礼いたします…。

やはり冷え込んできましたね。11月半ばに近づいていますもんね…。
今日は休日。今週母上の誕生日があるので、プレゼントを選びにちょっと出かけていました。(結局決められず帰宅してしまったのですが………。)

そのときの出来事。あ、ネタですからね、ネタ。笑える方だけ笑ってください。

どう見ても中高年(というのがいくつをさすのかは微妙…)向けの婦人服のお店で何か母上に似合いそうなものはないか物色していた私に近づいてきた店員さん。

「プレゼントですか?」

「あ、はい。」

「おばあさまにですか?」

(は?なんでいきなり「おばあさま」?)

「いえ、母親に。」

「お母様ですか。50代ぐらいですの方ですか?」

(…………。)

リップサービスにしてはあまりにも甚だしすぎる…。
というか…一体いくつぐらいに見えたんだ?私……。

うちの母上が「ヤンママ」だったってことかな?(をい)

私の年齢がおわかりの方だけクスッと笑ってやってください。

さて、明日からまた1週間のスタートですね。
今日は存分にだらだらしましたので、また明日から頑張ります。けど…明日はまず起きたら歯医者さんに電話…。(苦笑)

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2007年11月10日 (土)

今週も無事終了

原因不明の鼻水にはまだ悩まされているものの、どうにか今週も無事に終了しました。
しかし・・・今度は昨日あたりから1年以上ぶりに親知らずが腫れています・・・。

多分もう昨年の夏頃だったのかなと思いますが、あの時数日痛んで手術の話が出、春休みにでも手術することを考えてはいたものの(時期の記憶が既にかなりアヤシイのですが・・・)友人たちに怖い話を聞かされたり、自分ならとりあえず当分置いておくと言われたりで、忙しいのもあいまってそのままになっていました。
ですが、結局1年以上痛まなかったということなのだと思いますので、当分はだましだまし過ごそうかと思います。
月曜にも痛むようなら検診も兼ねて久々に歯医者さんに行こうかな・・・。キライだけど・・・。

11月に入り、土曜は代わる代わるどこかの学校が音楽会だったりして、欠席や時間変更が相次ぎ、普段の土曜より少し楽なスケジュールが続きました。
涼しくなったせいもあるのか、体力的に少し余裕がある気がします。

9月にやるぞ!と思い立った教材も、なんだかんだバタバタして後回し後回しになり続けてきましたが、ようやく少しずつですが作業再開しています。
これがきちんと出来上がると、今よりより使い勝手がよくなるかなと、手前味噌で期待してもいます。

というのも、大抵の子が詰まるところには、普段は補助的にコピーで追加しているようなプリントを最初から組み込んでしまおうと思っており、更に、通常レッスン用のものの試作版(現状の一部のみ変更版)がひと通り完成したら、ベーシック版みたいなのも作ろうと思っているからです。

その子のその時点での能力や得手不得手などを見ながら、どちらの教材を使用していくか決められるようになれば、よりきめ細かい対応ができるなと。
少しでも早くそれを実現できるよう頑張らねばと思います。

あとは・・・現在カバーされていないところの教材もほしいんですけどね・・・。ああ・・・時間が・・・。家でぐ~たらダラダラしている場合じゃありませんね・・・・・・。

とりあえず明日はお休みを頂いて、月曜にはまた頑張ろうと思っています。
皆さまよい休日をお過ごしください。

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2007年11月 9日 (金)

何かいい方法はないものか・・・。

原因が特定できぬまま、まだ鼻をぐずぐず言わせている今日この頃・・・。
お薬を飲むと治まり、飲まないとぐずぐず。
集中力をそがれるのがつらいのでお薬を飲むと、今度は睡魔が・・・。

特に出勤前に食事をした後飲むと、午後からのレッスンの途中でほぼ確実に眠気が襲ってくる・・・。
先日は4年生の女の子に「薬飲んだら眠くなるんよね・・・。もし寝てたらたたいていいからね」とそう話すと(もちろん冗談だけど)、彼女は大笑い。

だけど、事前に断っておかないと、万一船でも漕ぎ出したら(先生、やる気ないんかな・・・)と思われても困ってしまうし・・・。

今の季節の影響で鼻がこうなっているのかどうなのか・・・。
薬を飲まないと鼻が・・・。
薬を飲むと眠気が・・・。

さて、この場合、私はどうすればいいのでしょうか?(苦笑)

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2007年11月 8日 (木)

私も言っているのかな?

「人のふり見て我がふり直せ」なんていうけれど、自分のことはなかなか気づかないのに、人のことだとすぐ気づくなんてことはきっと少なくないんだろう。

春頃から新たに何人かお手伝いの先生に入ってもらうようになり、それまではほぼ自分ひとりでやっていたレッスンを少しずつほかの先生に見てもらうようにもなってきて、そうすると、「ああ、その言い方は・・・」と思うことがあったり、もっとこうしたほうがいいんじゃないかな?と感じることがあったり、そんな機会もぽつぽつ増えてきた。

ただ、もちろん、私のやり方が常に正しいだなんて思わないし、子どもによっては「怖くてきびしい私」より「優しくて穏やかなほかの先生」の方が力を発揮することだってあるだろうと思う。

なので、他の先生のことを見ながら、自分のことも振り返ってみようとは思うのだが、これがどうも自分のこととなるとよくわからない。

あるとき、先生が穏やかな口調ではあるけれど、「あ~、それは間違ってるね」とニコニコしながらおっしゃる。
でも、「間違っている」「違う」という言葉は極力使わずにいてほしいんだけど・・・と思いながら、さて、それじゃあ自分は本当に言っていないんだろうか?と不安になる。

例えば、子どもが答えを間違えて書いたとして、「間違っている」という指摘は子どもにとって嬉しいことではない。
自分が意識して発している限りは(気づかないうちに言ってしまっている可能性はどうにも否定はできないが・・・)仮に明らかな間違いだとしても「あれ?書き間違えた?」とか「言い間違えたんじゃない?」とか「これ、ホントかなぁ?」などというように、直接的に間違いだと断定しないようにしている。

分かっていて書き間違えることだってあるし、考えていることと違うことを口にしてしまうことは実際にあるし、子ども自身も本当にうっかり書き間違えたり、言い間違えたりしただけということもある。
そこで「間違っている」と指摘されると、それは小さいけれどひとつの失敗、挫折になるんじゃないかと思うのだ。

伊藤先生の学習法で最も大事なところのひとつが「失敗体験をさせない」ということでもあり、また、小さい子に楽しく集中して取り組んでもらうためには、「楽しい」「できる」という経験を積み上げていくのが望ましいのだ。

とすれば、本人がふざけているとか適当に答えているような場合はともかく、真面目に取り組んでいるのに間違えたときには、あくまでも間接的に、もう一度考え直すきっかけを与えるようにすべきなんじゃないかと思う。

大人が見て、明らかに間違っているようなときでも、「あれ~?それってホントにそうかなぁ?」とできる限り子ども自身が考え直すきっかけを与えるに留めたい。

自分では常にそう思っているのだけれど、もしかしたら私も無意識のうちに言っていることがあるんだろうか?「それ違うよ」と。。(もちろん、子どものタイプによっては、意識してはっきり指摘する場合もあるにはあるのだが・・・。)

もしも私がそう口走っているのに出会われた方はおうちの方でも先生方でも、どうぞ遠慮なく指摘してやってほしい。
大切な子どもたちのためにも、お気遣いは無用である。

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2007年11月 7日 (水)

ときどき感じるもどかしさ

レッスンをしていて、ときどきなんとも言えないもどかしさを感じることがある。

何をさせても上手にできる、とてもしっかりした年中さんや年長さんが絵に描かれたものが何なのか知らないということが少なからずある。

簡単なところで言えば「まり」は確かに今の時代お店でも売られていないだろうし、「まり」の絵を見ても「ボール」としか答えられないのは致し方ないところなのかもしれない。
しかし、私たちが子どもの頃には普通に目にする機会があったようなものに、普段の生活で出会う機会というのは恐らくどんどん減っているのは間違いない。

つい先日は、とても賢い4年生の子が「かたつむり」を実際に見たことがないと言った。
確かに、普段の街での生活でかたつむりに出会う機会は少ないかもしれないし、かたつむりは動物園や水族館で見られるものでもないのかもしれない。

さて、ではどこに行けば生でかたつむりを見られるんだろう?

私が子どもの頃はまだ家の周りに自然があった。
幸い、家の裏に空き地があったり、道でも舗装されていないところが残っていたり、すぐ近くにきれいな川も流れていた。
そんな環境だったから、かたつむりやなめくじ、ダンゴムシやミノムシ、アリや蝶、色んな生き物に日常の中で出会うことができたし、笹舟を作ったり、松葉で相撲をしたり、草笛を吹いたりなんてことも日常の遊びだった。

しかし、今では実家の周りも家が立ち並び、草の茂る空き地などなくなってしまった。
道路も殆どが舗装され、かろうじて川に自然が残されているような感じだ。
川には背の高い木が生えているわけでもなく、また、遊歩道はきれいに整備されてしまっているため、川に下りない限り直接の自然に触れることはほとんどない。そして、触れられるのは限られた自然だ。

もし私が今の時代に子どもだったら、アリの触覚を抜いてくるくる回る姿を見たり、ダンゴムシをつついて丸めたり、ミノムシの蓑を全部剥いて塀の上に放置したり、ナメクジの塩をかけて消してしまったり・・・そんなことは全て未経験だったのかもしれない。

絵を見て、それが何なのか答えられない子にはもちろん教えはする。教室の図鑑に載っているものであれば、写真を見せることもある。
それでも写真は写真に過ぎず、子どもたちの記憶に鮮明に残るような経験にはなりはしないだろう。

かといって、あらゆるものを生で見せてあげることも不可能だし、教室でしてあげられることはとても限られている。

今の時代に街で暮らす子どもたちは、自然を通じての経験が極端に制限された環境に身をおいているのは間違いない。
周りの大人がもっともっと意識して、子どもが自然に触れられる機会を用意してあげねばならないんだろうな、大変な時代だなと、そんなもどかしさをときどき感じる。

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2007年11月 6日 (火)

友人たちとの会話に思う

日曜に消えてしまった記事をもう一度気を取り直して書いてみようと思います・・・。

先日、友人たちとご飯を食べに行きました。
その友人のひとりから、それより2日ほど前に中学入試問題っぽい算数の問題についてどうやって考えるのか質問を受けていました。

中学受験の経験も、その指導経験もない私は、受験のテクニック的なものは殆ど何も知りません。パターンを暗記しようとも思いませんので、出された問題をどう考えたらいいか、いつも尋ねられたときに問題とにらめっこです。

それは1から9までの数を1回ずつ使って、少し複雑な等式を成り立たせるというもので、9つのうち4つの数は既に決まっており、残りにどの数を入れればよいかというものでした。

私は元来無精者なもので、行き当たりばったりで色々やってみてというのは苦手です。
理詰めで考えられる問題の方が圧倒的に好き。まあ、そうは言っても高等数学とかになるとお手上げなので、個人的には中学入試レベルの応用問題あたりが結構楽しく考えられるという感じです。(それでもお手上げになりそうなときもあるわけですが・・・(をい))

与えられた等式をじっと見つめ、決められるところはないかまず考えました。それで5つのうちまず1つが決定。もう少し考えて2つ目が決定。残りは3つなので、そのあたりでは適当に当てはめて成り立つものを見つけるとしてもそんなに大変ではありませんが、個人的にはそこもできるだけ理詰めで、これを入れるとこうなってしまうからこっちじゃなきゃダメというように説明がしたいと思ってしまいます。(最終的にはそこまでいけたかなという感じですが。)

で、その解法を見た友人が「ホンマ理詰めで考えるねんなぁ。オレなんか、適当に入れていって、あかんわ、あ、できたわってやってまうからなぁ。」というようなことを言いました。
同級生の掲示板に集っている別の子もその子とほぼ同じような感じで解いていました。

それを聞いたもうひとりの友人が「たまたまできてもできたって思われへんやんね?ちゃんと人に説明できるようにならんと、それは分かったって気がせぇへんわ。」と、そんなことを言いました。

私は完全に彼女派で、適当に入れた答えが偶然正解になっても、それでよしとはできない方です。
また、あれこれやってみるのは面倒なので、考えることでできるだけ作業の手間を省いて、効率よく正解に辿り着きたいとも思います。

そんなことを言っていると、ひとりは大いに共感してくれたのですが、質問者である彼は私たちの感覚がどうもぴんと来ないご様子。

まあ、血液型にどれだけの根拠があるかわかりませんが、たまたまその彼と、彼と同じような解き方をした彼女がB型。私とほぼ同意見の彼女と私がA型。
B型の彼は「やっぱB型やなぁ」というようなことを言っていましたが、それでふと思い出したことがあります。

会社員時代、アパレルメーカーにいたのですが、デザイナーの多くがB型やAB型で、ある先輩がそのとき話していたことです。
その先輩の机は上も中も正直言ってぐちゃぐちゃで、どこに何があるのかわからない状態。でも、本人はその状態が心地いいのだと。

で、その先輩が私の机を見ながら、「何もかも机に対して平行にきちっと置かれてるもんなぁ。電卓がこんな風に曲がってたらイヤやろ?」と机の上にあった電卓を少し斜めに置き直しました。

「ええ、イヤです。落ち着きません・・・。」

そう答えると、先輩は言いました。

「そうかぁ。オレなんて、立ててでも帰りたいわ。」

先輩にとっては整然としていることの方が落ち着かないとのこと。机の中も乱雑になっている状態を見て安心するとか。

でも、言っておられることはなんとなく納得がいきました。
デザイナーという仕事を考えると、きちっきちっと決められたことを決められたようにやれたって、それでは仕事になりません。
人にはない発想、自由な創造力などがあって初めて仕事になるわけです。

そういう意味で、やたらとB型やAB型が多いことにも妙に納得したことを覚えています。

もちろん、血液型で分ければ人はたった4つのパターンに分けられてしまうのですから、いくらでも例外はあるだろうと思います。
それでも、そういう傾向はある程度はあるのかもしれないと感じることは少なからずあります。

とすれば、私は理詰めで考えていくことが楽しいと思えるけれど、友人のひとりのように、そんな風に考えるのは面倒だとか面白くないとかで、とりあえずまずやってみよう!という発想になる人だって絶対にいるはずです。

結局、子どもたちだってそうなのだと思います。

机の上がきちんと片付いていなければ落ち着かない子もいれば、片付きすぎていると落ち着かない子だっているのでしょう。
無駄なことはしたくないからまずじっくり考えるという子もいれば、とにかくまずやってみるという子もいるのだと思います。

どちらが正しいという問題ではないのでしょう。
それぞれの個性であり、得手不得手が違うということだったりするのだと思います。

長い目で見ると、クリエイティブな才能を伸ばしたいのであれば、何でも型にはめてきちっきちっとやらせることはもしかするとマイナスになってしまうかもしれません。
小さい子どもがきちんと挨拶をしたり、靴を揃えたり、丁寧に何かをしている姿を見ると、大人たちは(私も含めて)「えらいね」とか「賢いね」とか褒めることが多いように思いますが、礼儀正しくお行儀のよい子にはなったとしても、そういう面ばかり意識しすぎると、創意工夫などの分野の芽は伸びづらくなるのかもしれません。

友人との会話で、自分の感覚を基準に判断してはいけないこともあるんだなと、改めて気づきました。
かといって、すぐにみんなにベストの対応ができるとも思いませんが、そういうことを意識しつつ、レッスンをしていきたいと思います。

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2007年11月 5日 (月)

喜ぶべきか悲しむべきか…。

今日もレッスンがなく、午前中に先週受けたアレルギー検査の結果を聞きに近所のお医者まで行ってまいりました。

ああ…とうとう私も花粉症と認定(?)されるんだろうか…。もしもアレルゲンがハウスダストだって言われたらどうしよう…。そんなことを思いながらお医者へ。
連休明けで混雑する待合室でしばらく待ったあと、診察室へ。(どきどき…)

結果…。

総IgE   95  (基準値170以下)  陰性

カモガヤ        陰性
ブタクサ        陰性
ヨモギ         陰性
スギ          陰性
ヒノキ         陰性
ヤケヒョウダニ     陰性
ハウスダスト1    陰性

先生曰く。

「何かほかのものに反応してるのかもしれませんけど、時々いるんですよね、反応が全く出ない方。けど、そういう方の方が治りにくいんですよね、原因が特定できないから…。」

むぅぅぅ。

花粉症の宣告も受けず、ハウスダストアレルギーでもなく、まずは喜ぶべきなんだろうと思うわけですが、それでも相変わらず鼻はぐずぐず、時々咳も出る日々は続いており…。
おまけに、春頃、明らかに風邪ではない鼻の症状にも悩まされていたのですが、それって一体……。

花粉症とは言われたくなかったけど、何も原因が特定されないとは予想外の展開…。
う~ん…。心中複雑です。(苦笑)

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2007年11月 4日 (日)

脱力…。

なんなんでしょう…。
記事を書いていたらIEがフリーズ…。どうにもできず強制終了…。

消えたと嘆くたび、別のものに書いてからコピペすればいいとアドバイスをくださる方もおられたりするのですが、フリーズして強制終了の場合、他のもので書いていてもある意味同じような…。

とりあえず日付も変わってしまいますし、ひとまず無理矢理UPします…。

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2007年11月 3日 (土)

なぞなぞ?

こんなブログにも検索で辿り着いてくださる方がおられます。
ときどき、検索ワードという項目を見ると、なんでうちに?と思う方もおられたり、何人もの方なのか同じ方なのか「少数」の割り算とか掛け算とかで検索してでもうちにこられていたり(打ち間違っているところがあるのでしょうか、私が・・・(汗))、で、そんな中、昨日ちょっと面白いキーワードで辿り着かれた方がおられたようです。

「なぞなぞ 5個のリンゴを7人で均等に分けるには?」

残念ながら、このブログにその答えはありません。
で、好奇心から同じフレーズでネット検索してみたのですが、答えは見つかりませんでした。

でも、気になりますよね・・・。(苦笑)

というわけで、昨日仕事でくたびれて帰宅後、ぼんやり考えてしまいました。
きっとどこかに正式な答えがあるのでしょうけど、こんなのはどうでしょうか?

①オーソドックスに・・・。
1個のりんごをそれぞれ7つに切る。それで1個からひと切れずつ取る。

けど、きっと7等分するというのはダメなんでしょう、なぞなぞなんでしたら・・・。
ああ、そもそも計算で出すには360÷7は割り切れないんですね?だからダメってことでしょうかね?

とすれば・・・。

②5個のりんごをジュースにして7人で分ける。

これはどうですかね?
まあ、これも同じような理由で7で割り切れない量になったらダメなんでしょうかね?

③5個のりんごを誰かに買ってもらって、その代金を7人で分ける。

う~ん、無理矢理ですね。

④5個のりんごを植えて、育て、りんごがなったら改めて分ける。

これもなぁ、7人で均等に分けられる数になるとは限らないしなぁ・・・。

けど、そんなこと言い出したら、りんご自体大きさや重さが違うんじゃないかって話になってくるし、そこまで言い出したら「なぞなぞ」じゃないしなぁ・・・。(悩)

個人的にはジュースにしてわけるの線で・・・。
う~ん、これって本当の答えはなんなんでしょう・・・。

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2007年11月 2日 (金)

誠実であること

昨日、ある本を読んでいた。
もともと恐らく半年かもっと前に買うだけ買って、そのままになっていたものだ。
というのも、気になるテーマではあったものの、教育には全く関係なさそうで、おまけに今の私にもすぐに役に立ちそうなものでもなかったから。

読み終わったらまたご紹介することになるかと思うけれど、その本(雑誌から派生したようなもの)は去年の7月に発行されている。雑誌形式なので色々な話題が盛り込まれており、どこかを読んでは他の本を読みということを繰り返して、なかなか進まぬままに数ヶ月が過ぎた。

そして、先日からちょこちょこまた読み始めているのだが、その中に「赤福」を取りあげたページがあった。
そもそもその本は「サービス」ということがテーマで、その中に老舗旅館であるとか有名料亭であるとか最高峰のホテルであるとか、色々なものが紹介されている。
そのひとつに「創業300年、伝統の和菓子」として取り上げられているのが「赤福」だ。

その文の中に「赤福は消費期限が夏季は2日、冬季で3日間。日持ちのしない生菓子である。美味しさを伝えるためには、できるだけ早めに食べてもらうことがポイントだ。そのため赤福では、前日製造したものを翌日店頭に並べることは決してしない。」と紹介されているところがあり、また、それについて会長が「すべての売店に当日のものしか売らない方針を徹底させるのは、一苦労でした。前日の商品を売らせないように、残ったものは即日回収しなければならない。そのコントロールのために社員約440人のうち50人もの人員を割いています」と話しておられる。

今の時期にこの文章を読むと、なんとも言えない虚しさを感じる。

どなたかのブログか何かに書いてあったが、製造日を偽装しても食中毒になったとか、健康被害の報告があったということは特に聞かない。とすれば、結局商品自体の「品質保持期限」のようなものは実際にはそれなりの日数あったということなのだろうし、何もむきになって(?)当日のものしか売りません!とか言ってしまわなくってもよかったのかもしれないと思わなくもない。

まあ、その辺の事情はともかくとして、この本の取材を受けていたとき、会長はどんな気持ちだったんだろうと思う。
会長に限らず、偽装に関わった全ての人間が、どんな気持ちで自社の商品を売っていたんだろうと思う。
300年の伝統、お土産として全国一を誇るとも紹介されているが、そんなにも有名な自社の商品を大勢の人が「嘘で塗り固める作業」に費やしていたということなのんだろう。

それって、毎日が幸せに過ごせるんだろうか?

もちろん、きっと色んな事情があっただろう。まだ腐ってもいない、どう考えても食べられるものを処分するのに忍びなかったのかもしれない。最初は小さな嘘からのスタートだったのかもしれない。
けれど、ひとつの嘘は次にそれを隠すための少し大きな嘘になる。嘘をつく人が増え、嘘が大きさを増すにつれ、引くに引けなくもなってくるのだろう。今回の事件、詳しいことは知らないが、偽装を知っていた関係者は恐らく少なくないのではないかと思う。そんな大勢の人たちが自社の商品はお客様をだましている・・・と思っていたのだとしたら、絶対そんなのは幸せじゃなかっただろうと思う。

偽装や詐欺などの事件のニュースを聞くたびに同じようなことを考える。
最初は軽い気持ちだったのかもしれない。もしくは、どうにも経営的にここを乗り越えねばというような状況に追い込まれ苦肉の策だったなんてこともあるのかもしれない。やむにやまれずしてしまった過ちは何らかの形で償わなければならないだろうけれど、当事者がそれをずっと悔いているのであれば、いっそ一旦ダメになってしまったほうが幸せなのかもしれない。

そして、一番理解できないのが、嘘で塗り固めた何かで大儲けして、羽振りの良い生活をしていたというような人たち。
そんなことをして手に入れたお金をいくら自由に思う存分使おうとも、決して心は満たされないんじゃないんだろうか?仮に盗んだお金で豪遊したって、そんなのは本当の幸せも満足も与えてくれないはずだ。それと同じことなんじゃないんだろうか?

これも詳しくはないが、斉藤一人さんは高額納税者日本一の記録を続け、長者番付の発表がなくなることになったため、もうその記録が書き換えられることはないと以前何かで読んだことがある。一人さんが実際にどんなふうにお商売をしておられるかはわからないが、いくつかの本などを読むと、実直に、誠実に、お客様のことを考えて、楽しみながら・・・そんな言葉が並ぶような気がする。
真っ正直に商売をし続けてこられたからこそ、高額納税者記録を何年も続けておられたのだろう。

欲や野心に目がくらむという言葉を耳にすることがあるが、結局、本当の幸せというのが何なのか、お金さえあればそれが手に入るのか、そんなことを冷静に考えてみれば、世間の多くの人を欺くような、自分たちの私利私欲のためだけに悪事を働くような、そんな方法で経営を成り立たせたり、お金を儲けたりしようなどとは考えないのではないんだろうか・・・。

最初は小さな嘘かもしれない。
けれど、嘘は嘘を呼ぶ。
そしていつか、大きな嘘になり、嘘にがんじがらめになって身動きが取れなくなる。

誠実であること。

言葉にすればほんの短いひと言だけれど、きっととてもとても大切で難しいことなのかもしれない。

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2007年11月 1日 (木)

時代は巡る(ど~でもいい話です)

まあ、昔から言われていることだけど、ファッションの流行はホントに巡るんだなぁと、最近の店頭を見ていて思う。

まあ、全く同じものがまた流行るわけではないけど、最近の店頭を見るとちょうど社会人になるかならないかの、バブルの頃の流行に似ているように感じる。

その昔、スリムのジーパンが大流行し、幅の広いジーパンは店頭でほとんど見かけなかった時期がある。
しかし、その後流れが変わり、スリムのジーパンを履いている人は完全に流行遅れになってしまっていた。
なのに、去年あたりからか、再び呼び名だけを変えて、どう見てもそれはスリムのジーパンでしょ?というものが広がり始めた。

その昔、スパッツと呼ばれた代物は今は「レギンス」とかいう呼び名で何となくオシャレに響くが、どうみてもあれはスパッツだ。

スリムが流行れば、トップスはお尻を隠せるような長さのものが返り咲く。
そして、今年はどうやら私の苦手なふりふりとかひらひらとかふんわりとか、そんなものがまた返ってきているようだ。

バルーンっぽいスカートやワンピース、フリルやギャザーたっぷりのトップス…。
何が流行ってももちろん構わないが、困るのは、何かが流行ると多くの店に同じような商品が並んでしまうことだ。

あ、こんなことを書いているものの、ファッション雑誌とか一切見ないので、あくまで店頭を見た感覚だけでものを言っているため、全然違ったらお許しを。

で、そんなことを考えていると、ふと思い出したことがある。まあ、これもかなり昔の記憶なので記憶違いだったらお許し頂きたいけれど、その年の流行色というのは「作られたもの」だということを会社員時代に知り、かなり驚いたことがある。

ファッションで今年の春夏はこの色が流行るとか、そういうのはフランスだったかどこだったか、ファッションの最先端都市のなんとかって団体が「今年の色はこれとこれ」みたいに決めるのだそうだ。(と説明を受けた記憶があるのですが・・・。)

それに基づいて有名デザイナーたちがその年に発表する作品を作り、それを参考に一般のデザイナーたちが一般向けの商品を作る。
そうなると結局、その年の色は誰かが決めたものであっても、市場に大量に出回ることになるということだったように思う。

流行って作られたものなんだ…と妙に引っかかったことを覚えている。

その昔、そんな業界にいながらも流行色にも流行のデザインにもほとんど興味がなかった私は、今も完全に我が道を行っているのだけれど…。(苦笑)

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