「可愛い子には旅をさせよ」
教室の子どもたちを見ていて思う。
いつも言っているように、自分自身は塾にも予備校にも縁がなかったので、勉強は学校でしかしたことがないし、物心ついて以降、親や兄から勉強を教わったこともないので、基本的に学校で教わったことを教わった通りにやるというのが私にとっての「勉強」だった。
ただ、幸か不幸か不精な性格だったので、面倒なことを簡単にする方法はないかとか、そういうことはいつも考えていたような気がするし、それは今でもそうだ。
それでも、子どもの頃、学校で九九を暗唱しなさいと言われれば、もちろん意味も考えず暗唱していたし、掛け算の筆算で答えを書くときに一段ごとに桁がひとつずつずれていくことの意味も考えたりはしなかった。
おまけに、二桁や三桁の掛け算などは掛け算の筆算を習って、それを使ってやるものでしかなかったため、工夫をしようとかそういう余地は少なくとも子どもの頃の私にはなかったように思う。
しかし、今、教室で子どもたちとレッスンをしていて、私もあの頃こんな風に学んでいたら今頃もう少し賢かっただろうなぁと思ったりすることがよくある。
教室の子どもたちは、方法を教わるのではなく、意味を理解し、自ら解き方を見出すからだ。
例えば、先日ちらっと書いたが、1年生の子が三桁×一桁の掛け算の暗算をしている姿は感動すら覚える。
×2だったら倍にすればいい、×5なら10倍の半分、×9なら10倍から1回分引けばいい…そんなことを彼自身が発見し、工夫していくのだ。
しかし、もしこの彼にその苦労をさせる前に掛け算の筆算を教えてしまったらどうなるだろう?
余程のことがない限り、さっさと筆算で答えを出してしまうだろう。きっとその方が早く答えも出るし、簡単だ。もしかしたらミスだってその方が少ないかもしれない。
それでも、彼は簡便さと引き換えに、恐らくすごくすごく大事な機会を失ってしまうのだ。
掛け算に限らず、教室の子たちは足し算でも引き算でも、2桁同士、3桁同士、できる子は4桁同士までの暗算をクリアしてから初めて、筆算というものを知ることになる。
スラスラできるようになることが目的ではなく、あれこれ考えて試行錯誤して、およその答えであってもつかめるようになってくれれば、確実にその後、子どもたちの力になっていくように感じる。
それをした後に筆算を知った子どもは「筆算って簡単やなぁ」とか「めっちゃ楽やなぁ」とか言ったりするが、その感覚も貴重なんじゃないかと思う。
私たち大人は自分たちが受けてきた教育をベースに、知っていることは教えてあげるのが親切だと思っているところがあるように思う。
勉強に限らず、子どもたちが自分でやろうとしていることに対して、試行錯誤や失敗をさせる前から、「こうやるとやりやすいよ」とか「こうしたらいいんだよ」とか教えてしまうのだ。
大人だって、何か面倒なことがあるからこそ、工夫しようとするのだと思うし、不便があるからこそ発見や発明があるのだとも思う。
大人にとっては取るに足らないように見えることでも、子どもたちにとっては初めての経験で、難しいことというのは決して少なくないだろう。
そこですぐに手を差し伸べるのは、我慢した方がいいんだと思う。
昔の人は「可愛い子には旅をさせよ」と、いいことを言っておられる。
ここでいう「旅」は、未知なるものへの挑戦、試行錯誤ということをもさしているのだろう。
近道を教えるのではなく、たとえどんなに回り道でも子ども自身が道を発見するまで、私たち大人は見守っているのがいいんだろうと思う。
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コメント
現在2年生真っ只中の息子は先生の教室で九九は覚えてきません。でも、九九の問題を何とか考え、解く方法を見つけているようです。勉強とはこういうことだったのかと、大人になってつくづく感じますね・・。私もこんな風に学びたかったと思います。回り道が近道なんだろうと、このごろ、よく思います。きっと、その道が面倒でも、煩わしくても、無駄なものは何一つないと思います。旅を終えると、経験は血となり肉となり、自信となり、逞しくなっているでしょうね。
投稿: yoshimam | 2007年10月 1日 (月) 22時31分
yoshimamaさん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
このところの彼はまたいい感じですね。見ていてホッとします。
回り道が近道だって、それは本当にそんな気がしますね。
これからもどうぞ宜しくお願いします。
投稿: TOH | 2007年10月 2日 (火) 00時39分