数量感(つづき)
昨日の続きです。
機械的反復学習によって強い弊害が出るのは、もしかしたらそういう子ども達なのかもしれない。
まだ5や10までの数量感すらしっかり身についていない段階で、実感のかけらもない数の計算を延々とやり続ける。
ゆっくり考える時間を与えられるでもなく、決められたノルマをこなし、一定の量に達したら次のステップに進めるかどうかの確かめがあり、その確かめをクリアするためにまた大量の問題を繰り返す。
量的に見ても、じっくり、ゆっくり考えることはほぼ不可能だろうし、そんなことを繰り返していれば、当然「ゆっくり、じっくり考える」ことなどできない頭が作り上げられていくということなのだろう。
糸山先生など著名な先生がおっしゃるに、脳の発達などからみて9歳ごろ、もしくは12歳ごろまでにひとつの境界のようなものがあり、その間に大量にある脳の神経繊維の刈り込みが行われるそうだが、使わないものは不必要なものだとみなされて刈り込みが行われると言われれば大変納得の行く説明である。
刈り込まれてしまったあとでいくらその回路を使おうとしたところで、もう線自体がなくなってしまっていれば、どう頑張っても無理かもしれない。
まあ、「何歳までにやらないとダメ」という表現は好きではないし、以前読書のほうでご紹介した小西先生の、人間の未知の力の部分というか、例えば脳の一部に損傷を負っても、その部分の機能を他の部分が代行したりする場合もあるというようなお話にも大変共感を覚えるので、「絶対」ということはないとは思うが、必要な線を刈り込んでしまいさえしなければ、もともとする必要のない苦労を敢えて買おうという人はそうそういないだろう。
と考えると、幼い頃にきちんと段階を経て、数量感を実感しながらゆっくり進む時期は絶対に必要だと思う。
もちろん、数量に限らず、幼い時期にスピードや量を求めることは益より害の方が多いような気がしてならない。
10までの数の実感がない幼い子にそれ以上の数の計算をさせることにどんな意味があるだろう。
イメージできない、実感のないものを頭で考えることは算数に限らず、また、子どもに限らず、どんな場合も誰にとっても不可能なのではないだろうか。
幼い頃に速さと量を求めることの危険性を改めて強く感じる。
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