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2007年6月30日 (土)

かけ算についての記事を読んで(つづき)

(昨日の記事のつづきです。(しかし、実は今かなり体力も脳味噌も限界が近いようで、意味不明の文章になったらどうしようとちょっと不安だったりしますが・・・。)

塾講師時代、SZKさんが書いておられたように、「3×9+5×9」から「8×9」をすんなり導き出せる子には殆ど出会ったことがなかった。(個人的には、「9×3+9×5=9×8」の方が子どももイメージしやすいのでは?とは思うが。)

それが、教室を始めて今の教材や教具を使うようになってから、とにかく、学校でかけ算を習うより先に教室でかけ算の学習をすることができた子達の多くが、例えば「8×6+8=8×□」や「6×5-□=6×4」ような問題に出会っても、苦もなく(もちろん、計算してから答えを導き出すでもなく)、さも当たり前のこととして□に正しい答えを書いていくのを目の当たりにするようになった。

少なくない子ども達が「なんや、こんなん簡単!」と言って解いていく。
そして、実際にこの教材、教具でかけ算を習った子にとっては、確かに「こんなん簡単」なのだ。
初めてそういう子たちの姿を目にしたとき、かなり新鮮な驚きがあった。
(そうか・・・こうやって学習すれば、こんなに簡単だったんだ・・・)としみじみ思った。

因みに教室で使っている教材は、かけ算の単元に入っても、初めは一切九九は教えない。子どもたちは足したり引いたり、倍にしたり半分にしたりしながら、かけ算の答えを導き出していく。
九九の学習をさせる前に、2桁や3桁×1桁などの学習までしてしまう。そのあとでようやく九九が登場するのだが、そうなると、子どもたちは九九を知らなくても答えを出す方法がわかっているから、極端な話、スピードさえ求められなければ覚えたくなければ九九を覚える必要さえなくなるのだ。(もちろん、頻繁に使うものではあるので、最終的には覚えた方が便利だとは思うが、何が何でも絶対覚えなくてはいけないものではなくなる。)

どんぐりの糸山先生は三角計算でかけ算は全部で36個覚えればいいとおっしゃっているが、確かにそうだ。
何も、何が何でも81個必死になって覚える必要はないはずだ。
(そういえば、東大の池谷先生がかけ算の九九を覚えていないのはご存知の方もおられるのでは。池谷先生は、正に、足したり引いたり、倍にしたりというようなことを駆使して、結構な速さで計算されると何かで読んだことがある。)

とにかく覚えろ!的に覚えさせると、時には覚え間違いが発生する。
覚え間違えても、その答えが正しいのかどうか確かめる術を持たない子どもはそこでお手上げだ。覚えることが何より大事なのではなく、正しい答えが出せることこそ大事なことのはずではないか。

教室に来てくださっているお母さん方には、あまり早くから九九は覚えなくっていいですと機会があれば言っている。
というのも、先に覚えてしまっていると、考えて答えを出すというまどろっこしいことを嫌がって、結局「答えだけが出せる(その結果、分配法則や結合法則というものが実感できない)状態」になってしまいがちなのだ。

2年生さんは夏休みが明けたら(学校によっては夏休みに暗唱の宿題が出るようなところもあるかもしれないが)ボチボチかけ算の学習に入るだろう。
もし可能であれば、それまでにたっぷりと「かけ算とはなんぞや」という部分を学習させてあげてほしい。
そうすることで、その後に大いにプラスになることがあるはずだから。

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2007年6月29日 (金)

かけ算についての記事を読んで

先日、こちらの記事を読ませて頂いて、大いに共感したので書かせて頂くことにした。
本当はもっと早く書くつもりだったのだが、なかなか時間が取れなかったり、先に書きたいことが出てきたりで、ちょっと間が空いてしまったけれど、よければお読み頂きたい。

まず、こう書いておられるのだが、なんだか「おぉ!正に」と思ってしまった。

2年生で掛け算を習います。

けど、

いつの間にやら、

「九九」の単元になってしまっている状況を多く見てしまいます。

そう言えば「かけ算」と学習するのであって、「九九」を学習するわけじゃないんだなと、なんだか改めて思ったのだ。
「九九」に関しては「学習」ではなく、ほぼひたすら「暗記」するだけ。

ひたすら暗記するというのは、例によって「機械的反復」だから、意味を考えるなんてことはまずない。
特に短期間のうちに覚えなさいなんて言われてしまうと、お経のようにただただ繰り返し唱えて、意味もわからないけど答えが出るという状態になってしまう子が大半だろう。

そして、こう書いておられるところ、ここは本当に力強く「うんうん」と頷きたい気分になった。

3×9+5×9

なんて問題が

8×9

と答えが一緒になるってわかる子が、あまりにも少なすぎると思うんです。

子どもの教育に殆ど関わっておられない大人の方は、上の2つの式を見比べて、そんなの当たり前じゃん!と思われるかもしれないし、そうじゃないにしても、中学校で分配法則・結合法則なんてものを習った記憶がある方であれば、そのことじゃん!と思われるのかもしれない。

しかし、実際に子どもたちと一緒に勉強していると、かなりの数の子どもがこの2つの式をすんなり結びつけることができないのだ。

過去、塾講師だった頃に関わった子たちの中で、教えたり説明したりせずに理解した子はほぼ記憶にないし、独立してからも、学校で既にかけ算(というか「九九」)を習ってしまっている子どもたちの多くは、やはりこの2つのものが同じ数量を表すという認識をすることができないように感じている。

例えば、九九を既に知っている子に

4×3+4×5=4×□

というような問題を与えた場合、驚かれるかもしれないが、決して少なくない子どもが、まず左辺の4×3+4×5を計算して32という答えを出し、その後、4の段で答えが32になるところを探し、□に8を入れるというパターンで解答する。

正に、SZKさんが書いておられる通りだと私も感じている。
学校や塾などでかけ算を習ったはずの子どもたちの多くが「かけ算」というものの意味をほとんど理解していないということのようだ。

(すいません、続きますが一旦ここまででUPさせて頂きます。)

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2007年6月28日 (木)

なんだか納得いかないなぁ

あるお母さんから伺った話。

その方のお子さんは私学に通っておられるのだが、ある教科に対してかなり苦手意識を持ってしまっていて、その影響もあるのか、学校の面談でかなり手厳しいことを言われたのだというお話を聞かせてくださった。

面談の席で、このあたりの内容がきちんとわかっていないと2学期からついていけませんよなんてことを言われたそうだ。
しかし、私が知る限り、その子は十分に賢い子だし、そもそも小学校受験をしてその学校に入っている子なのではないのか?

このセリフを言ったのが公立の先生なのであれば、まあ・・・納得は行かないにしてもまだ我慢しよう。
しかし、仮にも私学の先生だ。相手はわざわざ自分の学校を選んできてくれた、ある意味で「お客様」だろう。

公立よりも行き届いたきめ細かい指導を望んできた方だっているだろう。
私学に通っておられる方のほぼ全てが、公立以上の何かを求めたからこそ、小さいうちから受験をさせてそこに通わせておられるに違いない。

スタート時点で既にある程度選抜された子どもたちだ。公立の小学校より遥かに指導しやすいに違いない。
なのに、なんだ?その言いようは。

入学当初、きっとその子は賢かっただろうと思う。
今だってある教科以外はきっと平均以上にできているはずだ。
たった1教科、苦戦している教科があることに対して、「そんなことじゃ2学期から困るよ、夏休みのうちにどうにかしてね」という意味の発言は、どうにも納得が行かない。

その教科の指導者の責任はないのか?
本当なら賢いはずの子をそこまで苦手意識を持たせてしまって、挙げ句、「どうにかしなきゃ知らないよ」みたいな発言って許されるんだろうか?
何のために高い授業料を取ってるんだ?

もしかしたら、そんな先生は言うのかもしれない。
「だからあなた達みたいな仕事が成り立ってるんでしょ?」と。

それは一面では真理かもしれない。ただ、まだ低学年のうちから、少なくとも教科書レベルのことまでも苦手にさせてしまって、それに対して教師の責任がないとは私にはどうしても思えない。(もちろん、熱心な先生が丁寧に指導してもなかなか理解できない子どももいることはわかる。ただ、この子の場合はそれに該当するようには思えない。)

もちろん、そんな先生ばかりではないのはわかっている。
私学であろうと公立であろうと、熱心に指導してくださっている先生がおられることは間違いないだろう。

ただ・・・聞かせてくださったお母さんは、学校からそんな言葉を投げられ、やはりショックを受けられたようだったし、だとすれば、やはり・・・「何のための私学よ?」とつっこみたくもなる。

どうも納得がいかない・・・。

※メールを頂いていてお返事できていない皆様、申し訳ございません。土曜日にはなんとかと思っておりますが、次は日曜も仕事で出かけますため、お返事が遅くなりましたらお許しください。

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2007年6月27日 (水)

なんとなくひっかかること

今日はハードでした・・・。
この前からSZKさんが書いておられた「かけ算」の話題に関して、書きたいと思っていることがあるのですが、今日はちょっと無理っぽい・・・。
本日はてきと~なネタでお許しを・・・。

巷では、なんだかやたら「ビリーブートキャンプ」が大流行。
運動不足解消のエクササイズということなら、皆さん頑張ってどうぞという感じだし、まあ、ある意味、健康的に体型を整えるって感じだから、あれが流行るの自体は悪くはないんだろうとも思う。

私はとことん無精者で、おまけに流行ものには乗っからない天邪鬼でもあるので、自分であれをやってみることはないだろうと思うのだけど、実は以前からなんだかひっかかっていることがある。

巷には溢れんばかりの「ダイエット用品」「ダイエットサプリ」などが売られており、ネットのDMなどを見ていても、次々と新しいダイエット関連商品が紹介されては消えていく。
私も、仕事は忙しいものの運動不足ではあるので、油断するとすぐお腹周りがあやしくなってくる。そうなると、やはりダイエットには関心はあるし、サプリメントなどは飲んだこともある。

ただ、そうしながらも、それってなんて贅沢で無駄なことをしているんだろうと思ってしまうのだ。
そもそも、余分にカロリーを摂取しすぎるから太る。その場合、自分も含めて大抵の人が、きちんとした食事をしていて太るのではなく、それ以外にジャンクフードやアルコールなどの、ある意味「取らなくてもいいもの」などを余計に採って太っているのではないかと思う。

効果があるのかどうか知らないが、食べたものの脂肪などを体に吸収させず、そのまま排出させるサプリなんてものもあるようだが、ふと冷静になると、本当に無駄でもったいないことをしているんだと気づく。

世界には食べたくても食べられない人が大勢いる。私たちが毎日捨てている食べ残しがあれば、途上国の多くの人を救うことができるという。
同じ地球上に食べられずに命を落とす人がいる一方で、欲望の赴くままに食べて、太りたくないから、カロリーを吸収しないようなサプリを飲む、ジムに通って運動をする・・・などなど(健康維持のための運動はもちろん賛成だが)、私達は明らかに食べ物もエネルギーも無駄にしているのではないのか。

先進国では当たり前のことなのかもしれないし、自分自身、太ると思いながらもお菓子に手が伸びるなんてこともよくあることだ。
食べるのを我慢すべきだとかいうつもりもないし、どうしたらいいのかもよくわからない。
ただ、「ダイエットしなきゃ」と悩むことが、いかに贅沢な悩みなのかと・・・そのことだけが時々頭を過ぎるのだ。

そう言いながらも、ついついお菓子に手が伸びてしまうのだが・・・。(苦笑)

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2007年6月26日 (火)

諦めることと認めることの違い

昨日、個人の能力差についての記事を書いた。
書きながら、今ひとつうまく表現できていないように感じていて、もしかしたら反論や非難を受けるかもしれないなと思ったりもしていた。

ただ、自分の中で納得が行ったことと言いたかったことの溝をどういう表現で埋めればいいのか、昨日の段階ではうまく表せなかった。
ところが、今日、ある塾の先生がコメントをくださった。
お蔭で表現できる気がした。心から感謝したい気分だ。

塾の先生が、「個人差を認めることは諦めることにつながり、自分はまだ悪あがきをしている」という内容(すごく端折っていてスミマセン・・・。)のコメントをくださった。

そのお気持ちはなんだかとてもよくわかる気がするし、子どもに関わる先生方が皆さん、そういう気持ちを持っていてくださったらと思っているのも一面では紛れもない本心だ。

ただ、私が気付いたことは、「どんなに同じ条件を揃えても能力差があるのは当たり前」ということで、これまでもそれは何となくそうなんだろうなと思ってはいたものの、それを認めてしまったら、自分の指導力のなさに言い訳をしているだけになりはしないか?という思いがずっとわだかまっていたのだ。

恐らく、この気持ちはコメントをくださった先生がおっしゃっている「悪あがき」という表現と通じるところがあるのだと思う。

ただ、私は何も、「個人差だから仕方ない」と言って諦めようと思っているわけではないのだ。
「個人差」を「個人差」として認めて、その上で私にできることを精一杯やろうと思っているということだ。

例えば、平泳ぎで25Mも泳げない子にいきなり北島康介を目標にさせたって、そんなのは遠すぎて子ども自身、余程のことがない限り目標にはなりはしない。
15Mしか泳げない子はまず25M泳ぐことを目標にし、それがクリアできたら50M、次は100M、そして今度はスピードを上げることを目標に・・・というように、あくまでも頑張れば届きそうなところに目標設定をしていくべきなのではないかと思うのだ。

それと同様に、仮にある教材があったとして、ある子どもは僅かな時間で内容を理解してスラスラと解いていくかもしれない。
その子は少なくともその内容に関しては能力が優れているということなのだろうから、無理にペースを落とすことはさせず、様子を見ながら、無理のない範囲で次へ次へ進ませればいいのだと思う。

しかし、ある子どもは平均的な子どもの3倍や5倍の時間をかけても理解できない内容だってあるのだ。
その子にいきなり、平均的(それも曖昧な基準だが・・・)な子どもと同じことをいきなり望んだとしても、手の届きそうにない目標であれば、その子はやる気を失ってしまうかもしれない。真面目な子であれば、必死で努力はするだろうけれど、結果として嫌いになってしまうことだってあるだろう。

つまり、目指すゴールはそれぞれに異なっていてもいいのではないかということだ。
同じ教材でも、誰かは全ての問題を解く一方で、別の誰かはそのうちの数問しか解かないことがあったって、それぞれの子が精一杯やった結果なのであれば、それでいいのではないかと思うのだ。

同じゴールを設定するのではなく、それぞれの子の今持っている力を見ながら、それぞれのゴールを設定する。
比べるのはあくまでも昨日までの自分であって、他の誰かじゃなくていいのではないか。

つまり、私は「個人差」が存在することは認めるが、だからできなくてもいいじゃないと言っているわけではない。

もちろん、本人ができなくてもいいと思っているものを無理に教え込む気はないが、もしも本人ができるようになりたいと必死で努力をするのであれば、できる限りのことをしようと思う。
ただ、それはあくまでも主役が子どもで、私は子どもが望めばサポートするということだ。

大器晩成という言葉が存在するように、初めは目立たない子どもでも、あるとき突然花開くこともある。

あの方は特異な例ではあるだろうけれど、中学時代オール1だったのに、あるとき勉強に目覚め、難関国立大に合格、今は母校の高校で先生をされている宮本先生のように、突然変わることだってある。

個人的には、勉強はいくつになってもできると思うし、何か目標が定まったときの人間の力は結構すごいとも思う。(昨日ご紹介した、京都の堀川高校の話でも、大学の合格実績が急激に上がったことの背景には、高校の授業の中で、大学に行ってこれを学びたい、この研究をしたいという目標が明確になり、その目標を実現するために苦しい受験勉強も乗り切れるのだと思うというようなことが書かれていたが、それはとても納得できる。)

個人の能力の差を認めることは、指導を諦めることとは違う。
私がすべきことは、今のその子が今の場所より前に進むことをサポートすることなのだと改めて思う。

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2007年6月25日 (月)

バカみたいな話だけど

昨日の晩、なんか突然ふと気づいた。
そんなの当たり前じゃ?とツッコミを入れられそうなぐらい、多分当たり前のことなんだろう。
だけど、これまではなんとなく自分の中でモヤモヤして、引っかかっていたことなのだ。

同じ親が同じように育てても、たとえそれが双子であっても、数の感覚が優れている子がいる一方で、なかなか数の感覚がつかめない子もいる。
私という同じ人間が同じ教材を同じように使ってレッスンしても、その子たちの学年が同じであったとしても、目の前での成果はやはりみんなバラバラで、ほんの短い時間ですっと理解して自分のものにしてしまう子がいる一方で、何度も何度も繰り返してもなかなか実感ができない子もいる。

それはなぜなんだろう・・・といつも考え、結局いきつくところは個人差ということか・・・とぼんやり考えてはいたが、それはどこかで逃げのような気もして、完全な納得はしていなかった。

けれど、昨日の晩、ふと思ったのだ。
子どもの中には、特に何かさせたわけでもないのに、とても足の速い子がいる。また、親が教えたわけでも習いに行かせたわけでもないのに、とても絵が上手な子もいる。
他にも、勉強以外の分野では何かに秀でている場合「才能がある」という言葉で、それは特別な能力として扱われる。

例えば、イチローは信念と努力の人ではあるらしいが、それならイチローと同じ頃から同じように野球に打ち込んだ子はみんなイチローのようになれるかと言えば、殆どの人が「そんなことはない」というのではないだろうか。

小さい頃からずっとスイミングで練習を続けたからって、やはりみんなが北島康介になれるわけでもないし、サッカーでヒデになれるわけでもなければ、スケートでミキティや真央ちゃんみたいになれるわけでもないだろう。

要するに、努力でカバーできる部分とは別に、その子その子が持つ能力、才能というものがあるのだろう。
そんなことぐらいは私も昔から当然のこととして受け止めていたし、世の多くの人がそう思っているのではないだろうか。

なのに、私自身、こと「勉強」に関してだけは、純粋にはその発想ができずにいた。
走るのは遅いより速いに越したことはないかもしれないし、泳ぎだって、他のスポーツだって、芸術活動だって、できないよりできるに越したことはないのだろう。
ただ、同じように練習をしても、速く走れる子とそうでない子がいるように、同じように勉強しても、それぞれに結果が違うのは何の不思議もないことなんだと改めて気づいた。

勉強はしたくなければしなくていい。その代わり打ち込める何かを見つければいい。

それは本当にそう思ってきたし、今でもそう思っている。
私自身、学歴がほしくて大学に行ったわけではないし、教員免許がほしいと思わなければ、大学には進まなかっただろうと思っている。
だから、自分が関わる子ども達は目標もなく進学をしてほしいなんて思わないし、目標が定まれば、高校や大学に進まない選択だって大いに素晴らしいものだ。

そう思っていながらも、自分自身、やはりまだまだ日本が「学歴社会」であることを認めざるを得ないし、その結果、勉強の成果があまり芳しくない子どもを見ると、どこかで気の毒な子だという目で見ていたのかもしれない。

いや、多分・・・こういう仕事をしている人間の中ではそれでもまだ「勉強ぐらいできなくたって死にゃしない」的な考え方をしている方だとは思うが、突き詰めれば、こういう仕事をしている人間がそういう考え方をしていること自体が許されるのかどうかが微妙だろう。
それでも、頑張っても思ったように成果が出ない子ども達は、私が自分の中での受け止め方を変えることで、何か少し楽になれるかもしれない。

これから具体的に何が変わるって訳じゃないとは思うけれど、純粋に「個人差」なんだと納得が行くようになったことは、自分にとって何かプラスになるんじゃないかと、そんな気がちょっとしている。

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誕生日の夜に

5年前、私は仕事に忙殺されながら、気づけばどんどんと体重が落ちていた。
いつも通りに食べているし、普段以上に動いているわけでもない。なのにどんどん体重が落ち、久しぶりに会う保護者の方に驚かれたりもした。
自分の中で、少しずつ確実にひとつの終わりが近づいてきていたのだと思う。

子ども達は本当に可愛かった。だからギリギリまで頑張れた。
けれど、もうこれ以上頑張れないところまでストレスが高じてしまった。
悩んで悩んで悩み抜いた結果、ひとつの決断をし、受験生を見送った3月、私は仕事を失った。

大袈裟な表現ではなく、言い尽くせない様々なことがあり、結果、退職したというより本当に「仕事を失った」のだった。
その頃の私は今ほどではないものの、仕事しかしていないような生活だったから、ある意味で全てを失ったように感じた。
大好きだった子ども達にもう会えない。そう思うと、涙が溢れて止まらなかった。何日も泣いた。

何年も一所懸命頑張ってきたつもりだったのに、呆気ないもんだなと思った。
(あ~あ、全部なくなっちゃった・・・。)
泣きつかれてぼんやりそんなことを考えた。

筆舌に尽くしがたい色々なことがあったから、教室を始めてからもずっと、心の中にしこりのように何かが残っているのを感じていた。
もっと他に方法があったんじゃないかと考えても仕方ないことをあれこれ考えたこともあった。

だけど、なぜか誕生日の晩、ふと、全てそれでよかったんだと思えた。
あのとき、あれ以外の選択はなかったのだろうと、なぜか心からそう思った。

もちろん、結果的に傷つけてしまった人もいる。苦しませてしまった人もいる。
だから、いいことをしたと言っているわけじゃない。
ただ、あのときはどれを選択しても、必ず誰かに迷惑がかかり、誰かを傷つけていただろうと思う。

全部なくしたと希望までなくしかけていたとき、大先生に出会った。
そして、5年前のあのときに劣らず、いや、それ以上に幸せな日々を今こうして送らせて頂いている。
本当に身を切るような思いで全てを手放したから、今があるのかもしれない。ちらりとそんなことを思う。

ひとつの節目の日に、自分の中で何かひとつ整理がついた気がした。
歳をとるのもそう悪くないかもしれない。

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2007年6月24日 (日)

幸せがいっぱい

実は本日わたくし、またひとつ歳をとりました。これでようやく30代の仲間入りですというのは真っ赤な嘘ですが、女で独身で・・・となると、年々歳をとるのが憂鬱になってくるものです・・・。(そうじゃない方もおられるでしょうけれど。)

今年はまた一段と気分も重かったのですが、仲良くして頂いている他県の先生からは当日開けてねと早々と3日前にプレゼントが届き、昨日は先日、超ガセ情報を流されたあのお方から思いがけない贈り物を頂き、アシストに入ってくださっている先生からもこちらで有名なケーキ屋さんのケーキを頂き。

で、昨日は朝から晩までフルにレッスンをした後、二次会からの参加になると言ってあったのですが、高校のクラス会に参加したため、ブログが更新できなかった訳です。
これがまた偶然なのですが、高3のとき同じクラスだった可愛い可愛い女の子と誕生日が同じで、クラス会の日程が決まったときにその話が出ていたのを覚えてくれていた友人達が、二次会の席で2人にバースデイケーキを用意してくれました。

彼女と2人でロウソクを吹き消して、またまた幸せな気持ちになりました。(彼女は2児の母になっていますが、相変わらずとても可愛いままです。)

今日は日曜なので、晩は実家に行きますが、きっと両親も祝ってくれることと思います。
本当にありがたいことです。

これまで大病をすることもなく(生まれたときにお医者に匙を投げられた以外・・・)、元気で過ごしてこられたこと、そして、色々なことがあったものの、今こうしてたくさんの子どもたちととても幸せな毎日を送らせてもらえていることを、本当にありがたく、幸せに思います。

一応実年齢はネット上では公開していませんので、表現をややぼやかしておりますが、ひとつの節目ともいえる年齢となったわけですから、一層精進してまいりたいと思います。

昨日ブログに書こうと思っていたことは、また改めて書かせて頂きます。
ああ・・・そろそろ帰ろうと思ったのに、外は本降りになってしまいました・・・。雨も祝福してくれているということでしょうか。(苦笑)

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2007年6月23日 (土)

すみません!

書きたいこともあるのですが、今日は諸事情により、とりあえず急いで教室を出なければなりません・・・。

更新できそうでしたら、深夜に更新いたします。
宜しくお願い致します。

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2007年6月22日 (金)

残念・・・。

先日、ブログで「豪快な号外」のことを書かせて頂いたのですが、分けて頂くようお願いした塾長さん、もしかしたらダウンしておられるのでは・・・と。

というわけで、とうとう今日は夏至だったのですが、手元に届きませんでした・・・。
おまけに、今週もなんだか体力的にいっぱいいっぱいで、今日は「100万人のキャンドル・ナイト」の日だったのですが、キャンドルも用意できず・・・。

もともと、20時から22時の2時間ということらしいので、今日は21時20分頃までレッスンで子どもがいたため、難しいなと思っていたのですが、せめて30分でも・・・と思っていたのが、準備できずに終わってしまいました・・・。残るはあと15分ほど。
今頃キャンドル・ナイトに参加されている方もおられるのでしょうね。

「豪快な号外」に関しては、もちろんこの22日にキャンドル・ナイトをということのお知らせもあったようですが、内容的にはひとりでも多くの方に読んで頂きたいと思っているので、もし届きましたら、すっかり出遅れてはおりますが、お渡ししたいと思っています。

次は冬至の日にキャンドル・ナイト・・・。そのときこそ実行したいなと思うのでありました。

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2007年6月21日 (木)

恐ろしいガセ情報・・・

昨日、最近ご無沙汰している仲良しの塾長さんとお電話でお話していたときのこと、

「そうそう、先生に言ってあげなくちゃと思ったんですよ!」

と、何かを思い出した様子。
その塾長さんは先日あったとあるセミナーに参加されていたそうなのだが、そのセミナーは塾関係者が120名ほども集まられたという大々的なもの。

主催の会社のT社長にいかがですか?とお声をかけては頂いたものの、目指すは職人!な私にはまたも場違いな場所になりそうだったので、丁重にお断りしたのだ。

そのセミナーの席で、初めの挨拶の際、T社長がお話をされたそうなのだが、そのとき、私のことが話題に出たというのだ。
一体どんな?と思って尋ねると、どう考えてもあり得ない話・・・。

実は、先日、大先生のご縁でその社長がわざわざこのちっちゃな教室まで足を運んでくださって、色々とお話をさせて頂いたのだが、どうやらそのときのことなどを話に出されたらしい。

問題はその紹介のされ方・・・。
塾長さんがおっしゃるには・・・・・・

「先日、神戸で○○○○(その会社で作っておられる教材)を使っておられる教室に行ってきたって話でね、『20代の女の先生』って言ってましたよ。」

と。。。。。。

さすがにいくらなんでもそれは・・・と思い、「それって私のことじゃないんじゃないですかね?どっか別に神戸でやっておられる方がおられるんじゃ??」と聞き返したのだが、塾長さんがおっしゃるに、その後の話を聞いていても、間違いなく私だと・・・。むぅぅ。

あまりにもすごいガセ情報過ぎて、戸惑いつつも、やっぱり私じゃないんじゃない?とか、実は塾長さんが聞き間違えたんじゃ??とか、どうも気になって、恐る恐るT社長にメールを差し上げてみた。

すると、そのお返事にはこんなことが・・・。

「てっきり、大学を出られてから、どこかの塾に3、4年おられたのだと・・・」

むぅぅぅぅぅ・・・。
30代前半とか言われたらそれはそれでやはり嬉しいものだが、未だに大学出て3、4年勤めた後、独立して数年・・・って程度にしか見られないのってどうよ?

ああ・・・もっと精進せねば。(苦笑)

このブログを読んでくださっている塾関係の方の中にも、Tセミナーに参加されていた方が少なからずおられるのではと思います。
あのセミナーでT社長が「20代の・・・」と話されたのは、どうやら紛れもなく私のことのようでございます・・・。

えらく甚だしいガセ情報で申し訳ございません・・・。
けど・・・私が虚偽の申告をした訳ではございませんので、何卒ご容赦ください。(苦笑)

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2007年6月20日 (水)

複雑な心境・・・

春頃から、何人かの先生にアシストに入って頂くようになったのだが、水曜に入ってくださる先生はもともと中学生の英語を見てもらっていた先生で(以降「M先生」とする)、以前は小さい子に英語を教えておられたこともあるそうなので、子どもと接することにはとても慣れておられる。

アシストに入って頂いていても、こちらも安心していられるのだが(もちろん、みんないい先生なのだが、まだ指導には慣れておられない先生もおられるので)、今日はちょっぴりショックな出来事が・・・。(苦笑)

今日の4つ目のレッスンのとき、普段は何でも自分でしっかりやれる1年生の女の子が、一体どうしたことか、自分が使っていた教具をM先生に向かって

「先生、直して!○○、直せない!」

そう言って差し出した。
M先生も戸惑いながらも受け取ろうとしたのだが、気付いた私に

「受け取らないでください!いつも自分でちゃんと直してますから。○○ちゃんはちゃんと直せますから。」

と言われ、「ああ、そうなんですか」とその子に返却。
普段、私にそんなこと言ったことないのにと思って、笑いながら

「○○ちゃん、なんで?私にはそんなこと言ったことないよね?なに?それってM先生が優しいから?」

そう尋ねたところ、本人は答えにくそうにもじもじしていたところに、一緒にレッスンをしている2年と4年の子達が、間髪入れずに

「うん、そう。」

と・・・・・・。
内心ちょっとショックを受けながら(笑)、

「ひど~~!それって私は優しくないってこと~?」

そう尋ねると、また、当然のごとく、2人してうんうんと頷いている・・・。

全く・・・・・・。

少し遡れば、ここで頷いている4年の子も、先日M先生が側についたとき、私には聞いても答えてもらえないとわかっているから、そんなこと聞くはずもないことを質問していた。

M先生は答えていいものやらどうやらと思いつつ、答えようとしたのだが、やはりそこで私に

「答えないでください。考えたらわかるのに考えてませんから。○○ちゃん、私には絶対聞かへんよね?そんなこと。」

そう言って阻止されたこともある。
言われても本人は笑っていて、結局図星なのだ。
答えずに考えさせたら、ちゃんと答えに辿り着いたのだから。

けどおかしなものだ。

確かに私は自分でできることは自分でするようにさせるし、考えればわかりそうなことにはそう簡単にヒントは出さないし、書いた式や答えが正解かどうかも、子どもが不安げに確かめるときには答えない。(確信がなくて、顔色を見て+を-に変えたり・・・というようなことをしても、本人の力にはならないと思っているので。)

子ども達が言うように、多分私は「とても意地悪な冷たい先生」なんだろう。
そのくせ、「意地悪だ」と言っている子どもたちはみんな笑っているし、記憶にある限り、私が意地悪だから、冷たいからといって辞めていった子はいない。(まあ、泣かれた回数は数知れずだが・・・)

そう考えれば、子どもたちは結構したたかなのかもしれない。
この人なら自分のいう通りにしてくれるということを、子どもながらにかぎ分けて、使い分けをしているということなのか。

私自身、初めの頃は教えずにいることに非常な抵抗があったし、悩んでいる子を放っておくことに良心が痛んだりもした。
小さい子たちが何かしようとしていることに先回りして、言わなくても何かを取ってあげたり、手伝ってあげたりなんてこともいっぱいした。

けれど、時間をかけてそれを克服(?)し、今のスタイルに至ったのだ。
この前なんて、高学年の女の子が消しゴムのカスを捨てたくて、私に向かって

「先生、ゴミ箱!」

と言ったので、意地悪く、「私はゴミ箱じゃないよ?」と返した。
しぶしぶ「ゴミ箱とって」と言い直したので、それからやっと取ってあげた。(本当なら「取ってください」とまで言わせた方がいいのだろうけど・・・。)
私自身、子どもの頃何度も同じようなことを親から注意を受けた。私は子どもたちが大好きだが、子どもたちと友だちになろうと思っているわけではない。けじめはけじめだ。

何でも気を回して先回りしてやってあげることが、必ずしも子どもたちのためになるとは思えない。だから、意地悪と言われようが、気がきかないと言われようが、敢えてその姿勢を貫こうと思っている。

うぬぼれかもしれないが、私は「意地悪な先生」であっても、子どもたちの多くは、私がみんなのことを大好きなように、私を好きでいてくれていると思っている。

しかし・・・、今後当分、アシストの先生方は優しくて、私は冷たいという図式が続くんだろうなと思うと、何とも複雑な心境だ。(苦笑)

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2007年6月19日 (火)

「なんとなく」の気持ちが少しわかる

以前にも書いたが、うちのスーパーちゃん、スーパーくんたちは時々、式も何も書かず、突然パッと答えを出すときがある。
もちろん、簡単なものはともかくとして、ちょっと複雑な計算や文章題などでも、じっと問題を見ていたなと思ったら、次の瞬間に答えを書いていることはそう珍しいことではない。

そんなとき、驚きながら、「なんでわかるん?」と尋ねると、しばしば「ん?なんとなく」
という答えが返ってくることがある。

初めの頃は、なんかよくわからないけど、とにかくすごいなという感じで受け止めていた。
また、以前、大先生が「できる人は理屈じゃなくてできる。それが能力ってもんです」なんてことをおっしゃったことがあるが、そのときはおっしゃることはわかるようなわからないような・・・という気分だった。

しかし、教室を初めて間もなく4年。来る日も来る日も子どもたちと一緒に考え、その場で問題を解き・・・ということを繰り返していたら、こんな歳だというのに、明らかにこれまでと自分の頭の使い方が変わってきているなと感じることがある。

数を「大きさ」や「量」として意識するようになってから、ちょっと複雑な式でも色んな工夫が自然とできるようになったし、うまくいえないのだが、四則混合のちょっと面倒な式などでも、途中まで考えたら(あ、これは多分これだな・・・)と答えを思いつくことが起き始めた。

分数計算などでも、たし算や引き算は昔は必ず通分して解いていたが、大きさがイメージできるようになると、それをしなくても解けたりということも出てきたし、「理屈」じゃなくて「感覚」で答えが出ることが増え始めたように感じる。(まだ時々感じるぐらいだが・・・)

ただ、その解き方をしているときには、子どもたちに説明をすることはできないし、仮にどうにか説明をしても、わかる子はわかるけど、わからない子は絶対わからないという状態になるだろうとも思う。

大先生がおっしゃったことが何となく実感できるようになった。
子ども達が「なんとなく」という気持ちが少しわかるようになった。

とにかく、数を「量」として捉えられるようになることでこんなにも色々な計算が楽になるのだということは私自身、この歳になってしみじみと感じている。

もう30もとっくに過ぎてこれに出会った私でさえ、ここまで変わるのであれば、そりゃ、頭の柔らかい時期にこれに出会った子どもたちは想像を遥かに超える能力を発揮してもなんの不思議もない。

初期組スーパーくんが今日から中1内容の数学に入った。
あと半年以上、彼と数学をやれる。
これまでずっと数を「量」として感じてきた彼なら、正負の数も殆ど説明がいらないのではないかと予想している。
スーパーくんはどの程度の説明でそれらをクリアしていくのか、今はそれがかなり楽しみでもある。

※念のためお断りしておきますが、うちは子どものペースでレッスンを進めるし、基本的に週1回1時間のレッスンしかなく、宿題も大量に出すわけではないので、スーパーくんが中1内容に進んだのも、ただ単に彼のペースで進めてきたら、6年までの勉強が全部終わってしまったというだけのことで、みんなそうさせようとか、そうならなければダメだとか思っている訳ではありません。どうぞ誤解のございませんよう。

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2007年6月18日 (月)

決めるのはこっちじゃない

先日、あるお話を伺った。
とある塾での勧誘の際の話。

そんなにしつこい嫌な感じの勧誘ではなかったのですがという前置きつきで、「こんないい指導、他では受けられませんよ」的なことを強くアピールされたそうだ。

それを聞いて、なんだか私は妙な違和感を感じた。

もちろん、人それぞれ価値観や考え方は違うから、勧められたら素直にそれを受け入れられるタイプの方もいるんだろう。
実際、そういう人が殆どいないのであれば、キャッチセールスだの悪質な商法だのの多くは成立しなくなってしまうのだろうから。

ただ、私という人間は、昔からどんなに勧められても自分の気持ちが動かない限り勧誘負けしたこともないし、いいものだよと知らない人にいくら強くアピールされても、その言葉で心を変えることもなかった。
自分がいいと思えばいいし、仮に私以外のみんながいいと言っていたとしても、自分がどうしてもいいと思わなければ同調することができないタイプの人間だ。
だからこそ、会社員の頃から営業や販売の仕事は超不得意分野だと思っていたし、本当にいいと思ったものしか売ることはできないとも思っていた。

人間、性格はそう簡単に変わるものではないようで、その後私は今使っている教材、教具にひと目惚れして、もう絶対これ!!とまで思ったにも関わらず、見学や体験に来てくださった方を勧誘したことは未だにない。

もちろん、自分自身は本当にいいものだと思っているから、こんなところに感動したんですよ、これすごいと思うんですよ・・・なんてことは次々に口をついて出る。
ただ、それはあくまでも私が感じたことであって、もしそのときにお見せした方が「いいですね~」とか言ってくだされば「いいでしょ~」とは言うけれど、こちらから「どうです、これいいでしょう?」みたいなことはまず尋ねない。

勧誘されても揺らがない私が、電撃的に恋に落ちた教材や教具ではあるけれど、それをお見せした方がどう感じるかは私にはわからないのだ。
私はあくまでも、自分がいいと思うものをご紹介するだけで、その後の判断は全てお任せする。いいと思えば選んでくださるし、そう思われなければ選んでくださらない。それだけのことだ。

こんなにいい指導うんぬんの発言ができるのはすごい自信だなと思うし、そういう意味では私にはそんな自信がないだけなのかもしれない。自分の未熟さゆえ、強くアピールしたり勧誘したりできないだけなのかも・・・。

それでもやはり思うのだ。

例えば、料理屋さんに食事をしに行って、そこの料理人さんに
「どうです?これ美味しいでしょう。こんなに美味しいもの他では食べられませんよ?」
って言われたらどうだろう?

もし、そう言われなくても本当に美味しくて大満足していたとして、私はなんとなくその気持ちがちょっとしぼんでしまうような気がする。
万一、大して満足していないのにそんなことを言われたら、きっとその店にはもう二度と行こうとは思わないだろう。

ああ、もしかしたら、私は古い日本人で、「いいでしょう?」って言える人はアメリカナイズされた人とかってことなんだろうか?

そういえば、よく言われるが、かつての日本人(今も存在すると思うが)は、人に贈り物をするときに「つまらないものですが・・・」と謙遜するけれど、アメリカ人とかだったら「とってもいいものなんですよ」と言って贈ると。
そんな感覚に似ているのかもしれない。

いずれにしても、私はプレゼントの場合はともかくとして、何かを押し付けられるのも押し付けるのもキライだ。
いいか悪いかを決めるのは、やはりこっちじゃなく、相手なのだと思う。ま、あくまでも私の感覚ではってことだけど・・・。(苦笑)

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2007年6月17日 (日)

不完全OFF

先月から週1回は完全OFFをと決めて実行してきたのですが、なぜか先週は仕事が全く追いつかず、しかし、明日までに絶対やっておかなければならない仕事があったため、今日は夕方から出勤。
残念ながら不完全OFFとなってしまいました。(苦笑)

それにしても、我ながらいつも思うのですが、どうしてこう、お尻に火がつかないとやれないんだろうなと…。
まあ、基本的には昔から、最後の最後に間に合わなくて困るのはイヤでしたし、この仕事を始めてからも授業の予習や準備などは多少の余裕を持ってやっておくようにはしているのですが、不定期的で急を要さない仕事となると、期限が迫るまでやらない・・・。

まあ・・・それを言えば、子どもの頃から早起きは苦手で、そのくせ、体調不良などでない単なる遅刻は小中高12年間では多分なかったのではという、要するに間に合うギリギリの時間に起きるという計算をしているようです。
因みにそれは未だにそうで、朝、必要以上に早く起きると、有意義に使えばいいものをついついダラダラしてしまう私・・・。

というわけで、今回は多分その気になればもっと早く手をつけられたはずなのに、リミットギリギリまで手をつけず、もう絶対今日やらなきゃ!という段になれば、集中して2時間足らずで終わってしまう仕事でした・・・。

もっと上手く時間を使えるようにならねばいけませんね。
というわけで、明日は振替やら体験やらでお仕事のため、今週は完全OFFは未達成に終わりました。
本日はネタもなし・・・。

最近、もしかしたら結構忙しいのかもしれません・・・。ネタすら思いつきませんから。(苦笑)
色々頑張りますので、どうぞ宜しくお願い致します。(笑)

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2007年6月16日 (土)

「豪快な号外」

ご存知の方もいらっしゃると思いますし、最近は寺子屋ありがとう先生さくら個別の先生もブログに書いておられましたね。

以前、ここでも、てんつくマンさんのサイトをご紹介したことがあるので、それでご覧くださった方もおられるかもしれません。

豪快な号外のことは、寺子屋先生のブログから経由して知るに至りましたが、気になりながらも結局、裏番長にもなることのないまま、もう号外が配られる日が近づいてきてしまいました。
正直なところ、今は自分の仕事も追いついていない状態ではありますが、別の見方をすれば、子ども達の未来のためには、今の自分の仕事よりこの号外の方が大事なのかもとも思えたり・・・。

とりあえず、ここでご紹介することで、おひとりでも、まだご存じない方が見てくださるかもしれません。
と思って、改めてご紹介させて頂きます。

因みに、寺子屋先生はなんと「3万部」(!!)も号外を預かられたそうです。
で、ご無理をお願いして教室のみんなに配れるだけ分けて頂くことにしました。

手元に届き次第、その日からレッスンに来てくれた子たちに手渡す予定ですので、おうちでも読んでみてください。
1家庭に1部お配りする予定で、若干残る程度に分けて頂きますので、2部以上ご希望の方はおっしゃってください。

もし、大量に配っちゃうよ!という方は、私は詳しいことはわからないのですが、寺子屋先生宛にメールなどしてみてください。(私経由でももちろん構いません。)

「自分だけがやったって・・・」と思って何もしないよりは、まずやってみる方がずっとずっといいんじゃないかと思っています。

教室で今の時期から、耐えられない暑さでもないのに「暑い!暑い!」と叫ぶ子どもたちに普段も私は言います。

「今頃からそんなこと言ってたら、夏になったらどうするん?溶けるで?」

とか

「暑い暑いって、こんな時期からみんながクーラー使ってたら、みんなが大人になる頃には石油がなくなったりして、クーラーが使えなくなっちゃうかもしれないよ?」

とか

「こんな暑さぐらいじゃ死なへん!」

とか。。。(苦笑)

エアコンは電気代もすごいのでそっちもイタイのは事実ですが「電気代がすごい=エネルギーを大量消費する」なわけで、冷えてきたなと思ったらすぐ温度調整をしちゃいますし、かけるときも常にタイマーセット。切れて暑くなってきたなと思ったらまたつける・・・そんな風にしか使いません。

ありがたいことにエアコンの電気代ぐらいは、まあ払えるぐらいになりましたが(笑)、それでもうちの教室のエアコンは今年も子どもの苦情と駆け引きしつつ、必要最低限の使用でいきたいと思っています。

お子さんを通わせてくださっている皆さま!教室は暑いですから、夏は薄着でお願いします。(笑)(あ、もちろん、汗ダラダラでプリントが手にはりつくとかってのは問題ですので、その辺は加減しますのでご安心を。(笑))

22日は夏至。
キャンドル・ナイトにひとりひっそり(淋)参加したいものの、金曜は21時過ぎまでレッスンが入っているため、さすがにロウソクの灯りでレッスンさせるわけにもいかず・・・。残念・・・。

未来の子どもたちのためにも、今できることを、ほんとに小さなことかもしれませんが、始めてみませんか?

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2007年6月15日 (金)

またまた時間が足りなくなってきた・・・。

5月は体験のお申し込みも殆どなく、3月、4月スタートだった新人さんたちもレッスンに慣れてきてくれて、忙しいながらもまだ多少は余裕があった気がするのですが、なぜか6月に入り、体験のお申し込みが重なったり、新しい先生に来て頂けることになったり、体調を崩してお休みの子がいたり、授業参観シーズンでレッスンの変更が入ったり・・・と、なんだかやたらバタバタしてしまっております。

おまけに、ここに来て更に、一体何の広告を出すねん?!とまた友人にツッコミを入れられそうなのですが、教室立ち上げ当初からとてもお世話になった広告屋さんに来月に広告をとの依頼を頂いてしまい、その原稿は週明けが一次締め切り・・・。まだ1文字も書いていないんですけど、どうしましょう。(苦笑)

しかし、明日は午前中から晩までびっちりレッスンですから、今日は早く帰らねば。そして、明日も晩まで考える時間はありそうになく・・・。
ちょっとヤバイです。(苦笑)

このところ、レッスン中に(あ、これはブログに書こう。)と思うことがあっても、その日のレッスンが全て終わるとキレイさっぱり忘れているような状態で・・・。

まあ、フォローに入ってくださる先生方がほぼ勢揃った感じなので、徐々に落ち着けるのではないかとは思いますが、今月いっぱいぐらいはこの調子なのかも知れません。

ただまぁ、幸いなことに、私の教室は「夏期講習」ってモノがありませんから、一般の塾さんに比べたら随分とこの時期の慌しさはマシなんだろうと思うんですけどね。

来週土曜は高校のクラス会、その翌日はとうとう・・・・・・歳の誕生日。
しかし、気付いたら過ぎているんじゃないかって気がする今日この頃です・・・。(因みに誕生日も既に仕事が決定しております。。。)

頭が回ってないので、ど~~でもいい更新で申し訳ございません。
とりあえず明日に備えます。

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2007年6月14日 (木)

経験と共に見えてきたもの

最近、子どもたちとレッスンをしていてときどき感じることがある。
ああ、私も少しは成長したのかなぁと。

教室を立ち上げると決めたとき、まだ全てこれからだという私に、大先生がおっしゃったことがある。

「いくら勉強したって、実際に子どもを前にしないとわかりません。やりながら、先生も勉強でっせ。」

もともと、新しいことを始めるのが苦手な性格なので、あの言葉を頂いていなければ、いつになったら始める決心がついたかわからない。
まあ、無職になっていたので、時間はたっぷりあったが、指導用のビデオを見て、教材全てに目を通し、だからといって万全かと言われればそんなことはなかった。
では、どこまで事前に準備したら万全なんだ?と言われたら、結局永遠に「万全」なんて時期は訪れなかっただろう。

大先生のその言葉があったから、とりあえずビデオと教材をひと通り見た段階で教室を始めることができた。
最初のうちは本当の本当に子どもと一緒に私も学ぶ状態だった。

今年度になって、新しくお手伝いに入って頂いている先生方を見ていると、昔の自分を思い出すことがある。
教具の使い方ひとつ取ってみても、初めはビデオの中の大先生の手さばきが本当に神業のように見えたし、もちろん今もまだあそこまでにはなっていないが、ある程度手に馴染んできた感はある。

子どもに教具を提示するときも、プリントを渡すときも、この単元でこういう状態だった子はあの単元ではフォローのプリントを追加した方がいいだろうとか、教具を見せる時間を増やした方がいいだろうとか、逆にここはさらっと行っても大丈夫だろうとか・・・そんな色々が、あの頃よりは随分と見えるようにもなった。

それを思えば、初期の子達には申し訳ないことをしたなと思うが、幸いにも初期組で今も続けてくれている子達はみんな、私から見れば十二分にスーパーになってくれている。ありがたいことだなと思う。

塾を辞めて、今の学習法に出会ったとき、もっと早く知っていれば、あの子たちにももっと違った接し方ができたのに・・・と申し訳なく思った。
そして、4年経って、初期の子たちにも申し訳なかったなと思う。
とすれば、あと何年か経ったら、また同じことを思うのかもしれない。
というか、むしろそうあるべきなのかもしれない。

今がベストだと思ってしまえば、もう成長はなくなる。
もっといい何かがあるのではないかと、常に学び続け、少しずつでも成長を続けられるのであれば、常に過去の子たちに対して申し訳なかったと思えるのかもしれない。

小学校低学年に関しては、この教材・教具をある程度は使いこなせるようになってきたかなと思う。
けれど、更なる高みを目指し(まあ、まだ全然低い山しか登れていない身だが)、学び続けて行きたいと思う。

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2007年6月13日 (水)

子どもを見よう。

この部分に関しては典型的女脳なのかもしれないが、私は子どもの頃から結構、誰かと話している最中に他の人が話しかけてきても、当たり前にそちらに返事を返して、何もなかったようにもとの子と会話を続けるなんてことができる方だった。

それは大きくなってもまだ残っていて、誰かと話していても別の話もある程度耳に入る。
例えば、誰かと話しているときに別の子に質問をされてもそちらにも対応できるので、今の仕事では結構役に立つことが多いのだが、そのせいで時々子どもが混乱することがある。

子どもの多くは私が向いている方の子に対して言っていると受け取るのだ。
例えば、ある子は計算問題を、別の子は図形の問題を解いていたとして、私が図形の問題をやっている子を見ているときに、計算問題をやっている子が質問してきたとして、どう考えても私の口から出た言葉は図形問題には全く関係なくても、大抵、図形問題をやっている子が「え?なんで?」みたいな反応をする。
で、質問した子は私が答えたことに気付かないこともある。
特に小さい子であればあるほど、私が向いている方の子に言っているとしか受け止めない傾向が強い。

そういうことが起きるたび、あっ!と思って、目の前の子には「ごめん、ごめん、○○ちゃんに言ってん」とか謝り、質問した子にはもう一度そっちを向き直して答えるなんてことになる。

勘のいい子や私とのレッスンにもう慣れている子などは、そっちを向いていなくても会話は成り立つが、小さい子はきちんとその子を見て言わなくちゃダメだなと反省する。

それは会話に限らず、レッスンで何かを伝えたいときにも、しっかりその子の目を見て言ったことは、その場にいる子にまとめて言うのとは全く入り方が違う。
もちろん、そんなのは基本なんだろうけど、時々改めて気付く。

子どもを見るということに関しては、それ以外にも「じっと見守る」ことの力も感じている。
難しい問題を解いている子どもを、安易にヒントを与えるのではなく、心の中で(頑張れ!頑張れ!)と応援しながら、穏やかな表情で見守ることもとても大事なことだ。

頑張って考えているけどなかなか答えに辿り着けないとき、子どもはきっと内心焦っている。
そして、恐らく少なくない大人はそういう姿を見ると、すぐにヒントを与えてしまうか、時には「なんでできないの!」なんてことを言ってしまったりもするだろう。
そんな経験をしている子どもは「穏やかに見守られること」に慣れておらず、私とのレッスンに慣れるまでは、時々ちらちらと私の表情を確認する子もいる。
きっとそのときに私の顔が怖かったり、イライラしているように感じたら、子どもはきっと焦り出すのだろう。

難しい問題に取り組んでいるときは放っておいてはダメだ。
1問でも解けるまではじっと見守る。そして、答えに辿り着いたら、心からたたえる。
そんなことを繰り返すことで、子どもとの信頼関係が強固になっていくんじゃないかなと思ったりもする。

残念ながら、私には体がひとつしかないし、顔もひとつしかない。(笑)
だから、同時に2人や3人の子を見ることはできないけれど、1時間中誰の顔もきちんと見なければ、何も伝わらないかもしれない。
できる限りひとりひとりの顔を、頑張っている姿を、しっかり見たいと思う。

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2007年6月12日 (火)

大事なのは「愛」

昨日、ちょっとお尋ねしたいことがあって、大先生のところにお電話してみた。
大先生はおられなかったのだが、同じくお世話になっている先生がおられ、久しぶりにちょっとお話をさせて頂いた。

この先生も本当にとてもいい方なので、まず人のことを悪くおっしゃることがない。
お尋ねしたかったことにも親身になって考えてくださって、ありがたいなぁと思った。

お話していてまたまた嬉しくなってしまったのが、大先生はもちろんなのだが、やはり大先生がスカウトされただけのことはあって、その先生も本当に「愛の人」なのだ。

先生がおっしゃった。

「(本当に大事なのは)教え方やないもんね、愛やもんね。先生、そう思わん?」

私は4年余り前、あちらで教材や教具に電撃的に恋に落ちたと思っていたし、もちろんそれは本当なのだけれど、正しくは大先生やその先生方がやっておられるからこそ、そこまで一目で恋に落ちたのかもしれないなと、そんなことを思った。

目の前の子どもをよく見て、その子の気持ちを考える。
何より大切なことはそういうことなんだと迷うことなく言ってくださる先生が私はやっぱり大好きだ。

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2007年6月11日 (月)

気持ちのいい対応(休日ネタ)

昨日びっちりバッチリお仕事だったので、今日は週1日完全休養日を作ると決めたお休みの日でした。
というわけで、今日はど~でもいい話題。けど、オチはありません。(笑)

完全休養日といいつつも、メールのお返事やら仕事の電話やら、レッスンで使う教具の消耗品の購入やら、仕事がらみのことはいくつかしましたが、まあ概ねのんびり過ごしました。
で、休日なので、今日は計量カップを買いに東急ハ○ズへ行く用事と、以前から母親に依頼されていながらなかなか果たせずにいた、彫金の先生へのお礼を買うべく街へ出ました。
その買い物でのお話。

私はもともと若い頃から「店員買い」をしてしまう方で、行ったお店での店員さんの対応が素晴らしければその店に足繁く通うようになるし、好みのものを置いているお店であっても、そこの店員さんの対応がひどいとそのまま足が遠のく方だ。

昔、着道楽で、高いものではないにしろ次々と服を買っていた頃など、もう見事な店員買いで、気に入っていた店員さんがお店を移ったら、そのお店まで買いに行ったりもしていたほどだ。

まあ、さすがに最近は買い物をすること自体もかなり限られてきているし、昔ほど特定の店に頻繁に・・・ということもなくなった。(ダ○ソーには頻繁に行くけど。(笑))
そのため、仲良しの店員さんってのもいなくなってしまったし、飲食店でも行きつけの店もなくなってしまった。
それは少し淋しいものだ。

で、今日の店員さんたち。

初めは東急ハ○ズでのお話。

計量カップを数種類買いに行ったのだけれど、先月か先々月に行ったときにもあるサイズのものが売り切れていて、そのとき側にいた男性の店員さんはまた入ってきますみたいな対応だった。わざわざ注文して取りに来るのもなぁと、その日どうしてもいるわけではなかったので、あるものだけを買って帰った。

しかし、今日行ってみると、なぜかまだそのサイズのみ完全に切れている。偶然なのかもしれないが、頻繁に売れるものでもないはずで、他のサイズは引き出しにも結構残っているところを見ると、あのまま入荷していなかったのではないかと思われた。

そこに通りかかった女性の店員さん。ストックの引き出しを開けている私を見つけ、まあ、どちらかといえば内心、(そんなとこ勝手に空けるなよ!)と思いながら近づいてこられたのではないかと思う。
それでも「何かお探しですか?」と近づいてきてくれて、このサイズのものが前来たときにも在庫が切れていて、また入るって言われたんですが・・・みたいなことを言うと、

「申し訳ありません。でしたら、ご注文頂いて入荷次第お送りすることもできますが。」

と。(前回の男性はそんなこと全く言ってくれなかったぞ?)と思いつつ、「送って頂くならおいくらかかりますか?」と尋ねると

「在庫を切らしておりますので、無料で送らせて頂きます。」

と。その後の対応も言葉遣いも極めて丁寧でてきぱきしており、お願いはしたものの、実は在庫が切れているカップは必要なものは全部で数百円しかせず、それをわざわざ送料を使って送ってもらったら、いくらなんでも大赤字では?とこちらが心配になった。
「もし入ったら、取りにこられそうなら取りにきます。こんな額で送って頂くのも・・・」と言った私に、では入荷したらいずれにしても連絡をするという答えのあと、今日あったものだけを受け取って帰る私に

「在庫を切らせてご迷惑をお掛けしております。申し訳ありません。」

と更にお詫びを。何度も言うが、たかが数百円(それも前半)のものなのだ。
ちょっと感動モノだった。

その後、彫金の先生へのお礼を買いに近くの百貨店へ。
しかし、家を出たのも遅かったので閉店まであまり時間がなく、うろうろした末やっと決めたのはもう閉店5分前。
そんなギリギリに来られて菓子折りひとつ買う私は迷惑な客かもしれない。
それでも、和菓子のお店にいた男性の店員さんはとても丁寧に対応してくださり、「お待たせして申し訳ありません」と言って商品を差し出した。
お財布の中にやたらと細かいのがあったので、申し訳ないなと思いつつも硬貨を沢山出したのだが、価格表示になぜか税込みの額の下2桁が81円になっていたため、お財布から
1円玉6枚、5円玉1枚、10円玉2枚、50円玉1枚・・・となかなか迷惑な出し方。
「スイマセン、すごく細かいんですけど・・・」と差し出した私に「いえいえ結構ですよ」と気持ちよく答えてくださった後

「あ、消費税の表示で端数1円となっておりますが、端数は切らせて頂いておりますので・・・」

と1円玉を1枚つまみあげて返してくださった。
そのときのこと。

ぱっと見て6枚とわかりやすいように3枚ずつ2列に並べて差し出していたのだが、その店員さんはその6枚の中で一番ピカピカ光ってキレイだった1枚をさっとつまんだのだ。
もちろん、偶然かもしれない。ただ、硬貨の位置からしても偶然その場所の1枚をつまむにはちょっと不自然な気がした。
きっとあの店員さんは、咄嗟に一番キレイな硬貨を選んで返してくださったに違いない。

社員教育なのかもしれないし、その方の個人的な気配りかもしれない。
けど、なんだかとても感動してしまった。
進物を選ぶときにはまたあのお店に行こうと、単純な私は思ってしまった。

今日はなんだか気持ちのよい休日になった。

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2007年6月10日 (日)

今日書いていた記事について

今日、仕事が済んである記事を書きました。
リスクがあるのを承知で、そして、本当に思ったことを正直に書きました。
そのお話を聞かせてくださった方の配偶者の方にも読んで頂けたらという思いもあり、ネットで公開しているブログに書くには多少問題があることもわかっていながら書きました。

ただ、私は本当に他塾の批判をしたいのでもなければ、そちらを悪者にして自分のところに人を集めようという思いも微塵もありません。(そうしたくても現在ほぼ定員いっぱいでお受けしたくてもできないような状態ですし・・・。)

それでも、やはり公の目に触れる場所にああいう記事を書くと、どんなに私が正当性を主張したところで大きな力には叶わない場合もあるのは否定しがたい事実でもあります。
私自身、あの記事を書きながら、決して気持ちのいいものではありませんでしたし、迷いながらの公開でした。
公開したことで何か問題が起きたというわけではありませんが、読んで頂きたい方に近い方には恐らく読んで頂けたのではと思いましたので、記事を削除させて頂きました。

あの記事に書いていたことでひとつだけ、子どもの教育に関わる方々に心からお願いしたいことだけもう一度書かせて頂きます。

子どもは商品じゃありません。
子どもは未知の可能性を秘めた未来の種です。
その成長を妨げるようなことはできる限り避けるべきだと思っています。

もちろん、よかれと思ってやったことが結果的に成長を妨げる結果になってしまうこともあるかと思います。
大人だって不完全な生き物です。
間違ったと思ったらそこから改めればいいんだと思います。
なるべくなら間違いをしないで済むよう、色々な学びを大人自身もしていかねばとも思います。

先ほどの記事に書いていた件で、近いうちに直接大先生にお話を伺ってみようと思います。
私が気づいていない、何か納得できる説明をして頂けるかもしれませんし、そうでなければ、大先生が何か動いてくださるかもしれませんから。

私が一番すべきことは、ネット上での批判めいた記事を書くことより、きっとそれなんだろうと思っています。

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2007年6月 9日 (土)

こんなコラムを見つけた。

先日、読書の方で「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」をご紹介したが、今日はミクシのニュースでこんなコラムを見つけた。

100%再生紙やゴミ分別の常識は、エコじゃなかったの?

再生紙は作るのにかえってコストがかかって、消費者にとっては高くつくというような話は聞いたことがあったが、結局、コストがかかるというのはエネルギーがたくさんいるということでもあったんだなと。
ある資源を再利用するために別のエネルギーを再利用しない場合と比べて大幅に消費するとかいうことであれば、地球レベルで考えたとき、どちらがより地球に優しいのかということにもなるだろう。

更に、東京23区全てが2008年からプラスチックを燃えるゴミで回収することにしたというのは、先日あの本を読んだ後だから尚更、奨励すればいいのでは?と思ってしまう。

もともと、詳しいことは知らなかったが、埋め立てるにも限界があることは容易に想像がつくし、プラスチックを埋めたところで土に還ることもないだろう。仮に化学変化を起こしてもとの形をとどめなくなったりすることがあるとすれば、地中から地下水などに入ってかえって恐ろしいことになるかもしれない。

個人的に、今回あの本を読む前からずっと、記憶違いでなければ、昔テレビで「ペットボトルは燃やすと二酸化炭素と水になるだけで有毒ガスとかは出ないと聞いたことがあり、だったら埋めるより燃やす方がずっといいのでは?と思ったのだ。(もちろん、二酸化炭素を出すことも問題なのかもしれないが・・・)

環境に対して、地球に対して、何が正しくて何が間違っているかは一概には言えないだろうし、とても難しい問題なのだろうとも思うけれど、やはり正しい情報を知るところからしか何も始まらないような気がする。

ただ、その「正しい情報」さえ、どこから手に入れられるのか判断がつかないところがもどかしいのだが・・・。

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2007年6月 8日 (金)

ちょっと考えた・・・。

昨日のブログにも関係しているのだけど、なんかちょっと考えてしまった。
これまで私は今自分の教室でメイン教材として使っている教材(学習法)のことを、一般の方はもちろん、ご希望があれば同業の先生方にもご紹介してきた。

それこそ、冷静に考えたらあんた大丈夫?って話かもしれないが、うちから直線距離でほんの200Mほどのところの塾長さんにさえ「いいですよ~!」とお勧めしたぐらいだ。(幸か不幸かターゲットや指導スタイルが違っていたこともあって今のところ採用しておられないようだけれど。)

ただ、ご紹介した方にはいつも申し上げているように、私はただ単に伊藤先生の考え方や教材・教具を素晴らしいと思っているから勝手にご紹介しているだけで、まあ言ってみれば、宗教の布教活動みたいなものかもしれない。

いいものだからひとりでも多くの子どもがそれに出会えたらいいなと思ってお勧めはするが、いわば完全なボランティアみたいなもので、私には直接的な利益は一切ない。

「こういうものがありますよ、いいものですよ。」
そこまではお教えするけれど、特に塾長さんたちであれば、その後は伊藤先生のところとのやりとりになられるわけだから、こと細かな教材や教具の使い方、進め方などまで私がお話しするわけではない。

そこまでするのは私の仕事ではないと思っていたし、現に、私自身も厳密に言えば教材や教具を決められた通りに使っているわけではないので、私がお話できるのはあくまでも私が教室でどんなふうに使っているかということで、それ以上のことをお教えするのはやはり控えた方がいいだろうとも思っているのだ。(あちらでは指導用のDVDなども商品として扱っておられるわけだし。)

これからもご興味のある方にはいつでもご紹介するつもりだったのだが、今回ちょっと考えてしまった。
一般の方にはもちろんこれまで通りできる限りのご説明やあちらへのご紹介をさせて頂くつもりだけれど、同業の先生方には本当にあるものをあるままにお見せする、指導法などについては全てあちらに尋ねて頂くということにさせて頂こうと思う。
(もちろん、私の教室の私のやり方を聞きたいという珍しい方がおられたらそれはそれでまた考えさせて頂くつもりだけれど。)

とても効果のあるお薬があったとして、その服用法や服用量を無視すれば全く効き目がなかったり、逆に命を落とすことだってあるだろう。
それと同じで、どんなに優れた教材でも、その用法や量をきちんと把握せずに効果を得るのは難しいのだと思う。
更に、お薬より複雑なのは、年齢や体重などで線引きできるようなものではなく、本当にそれぞれに処方箋が異なっているということだ。

最近でこそ、関西圏では徐々に伊藤先生が有名になっておられるが、やはり一般の塾にはまだまだ知られていない。
広まってほしいとは思っているが、中途半端にご紹介するぐらいならしないほうがいいのかもしれない。
ちょっと今迷っている。

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2007年6月 7日 (木)

教材を教える、教材で教える

世の中には数え切れないほどの教材があり、それぞれに長所や短所があり、その中で何かは選ばれて、何かは選ばれないで終わる。

これまでにも「教科書を教えるのか、教科書で教えるのか・・・」みたいな文章はどこかで目にしたことがある気がするし、また、どんなに優れた教材であっても「所詮、教材は教材」という意見もある。

また、以前仲良しの先生が言っておられたのだが、例えばDVD教材があったとして、ある先生が使っても効果が上がらないのに、別の先生が使ったら効果が上がるというような場合、それはその教材に対する思い入れの差である場合もあるのではないかと。
その意見にも共感できる。

以前、教材を作られた先生をご紹介した先生から久しぶりにメールを頂いた。
そのメールを読みながら改めて考えた。

教材を初めて見られたとき、その先生もいたく感動してくださって、それまでの指導とは方向転換してこれをやりますとおっしゃった。
しばらくの間それでやられたようだったが、通ってきている子ども達やその保護者の方達、その子ども達の学校の状態など、色々な面で私の教室とはかなり異なるということはメールやブログからも伺えた。

そして、ある程度の期間は取り組まれたのだが、その後その教材での指導はお休みしてしまわれた。
もちろん、その子その子、その先生その先生に合った教材や指導法、学習法というものがあるのだろうし、その先生の教室の子ども達は今は別の教材で楽しく学んでいるようだから、それはそれでよかったのだと思う。

ただ、そのことに関してメールをくださったのだが、教材に対する受け止め方が私とは違ったんだなぁということを感じた。

私はこの教材に出会ったとき、長年探し求めていたものにやっと出会えたというような感動を受けた。
それまでの私は幼児や低学年と一緒に勉強するなんてこと考えてもいなかったし、独立する気なんて微塵もなかったのに、その私がその場で「これやらせてください!」と言ってしまったぐらいだから、その感動の大きさはある程度お分かり頂けるだろう。

また、伊藤先生も今ほどはお忙しくなかったこともあるのか、わからないことや疑問点はすぐにお聞きすることもできたし、何より長年探し求めて電撃的に恋に落ちた教材で、私自身がこれでやりたかった!と迷うことなく思えたものだから、子どもや親御さんたちにも迷いなくお勧めすることができた。

もちろん、子どももひとりひとりみんな違うから、同じ教材でも同じように与えていれば同じ効果が出るなんてことはないし、また、どんなに素晴らしいと思うものでも、多少は使い勝手の悪いところや物足りないところもある。

ただ、惚れ込んでいるから、足りないところは何かで補えばいいと思えるし、子どもがアップアップしているなと思えば問題数を減らすこともできる。
みんな同じ進度で進ませようとすればそれも難しいだろうけれど、うちの場合完全個別対応だから、1回のレッスンで目安の枚数に全く届かないことがあってもそれでいいと思っている。

とにかく、探して探してやっと出会った私にとっては、ちょっとぐらい使い勝手の悪いところがあったって、少なくともこれまで出会った中で最高なのは間違いないのだ。

たまたま先日お問い合わせをくださった保護者の方がおっしゃっていたのだが、その方は有名受験塾さんの方で伊藤先生のお話を聞かれ、素晴らしいと思ってお子さんを預けたのだが、一斉に同じ進度で進めようとすることに対して違和感を感じておられるとのことだった。

正直なところ、この教材は素晴らしいと思っているが、少人数とはいえ一斉指導で足並みを揃えさせようとした時点で効果が半減するようにも思う。
「教えずに子ども自身に気付かせる、理解させる」ということを目指すのであれば、足並みを揃えて進むのはほぼ不可能だということは間違いない。
理解の早い子と遅い子が一緒にいる場合、どちらに合わせてもどちらかにしわ寄せがくるし、少人数でどれだけレベルを揃えようとしたところで、どの単元も完全に足並みが揃うなんてことはあり得ないだろう。

そうなれば結局、早い子に待たせるか、遅い子には説明してしまうかという風になっていかざるを得ないだろうし、とすれば、もっとできるはずの子は待たされ、時間をかければ自分で理解して次へ進めるかもしれない子は未消化のまま無理矢理次へ引っ張っていかれるのだろう。

どんなに優れた教材でも、その子に合った形で使われない限り、目覚しい効果を発揮することはないだろう。
また、優れた教材だからといって、「教材を教える(学ばせる)」のではなく、あくまでも「教材で教える(学ばせる)」ということを意識しておかねばということを改めて感じた。
例えば、プリントでの時間計算がなかなか理解できない子がいたとして、実生活の中で時間計算ができるのであれば、何が何でもそのプリントをスラスラできるようにならねばならないわけではないだろう。
その教材を使うのは、その子に何を身につけてほしいからなのかをしっかり意識しなければいけないなと、改めてそう気付いた。

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2007年6月 6日 (水)

人間は動物じゃなくなろうとしているんだろうか・・・。

最近は自宅でも教室でも全くテレビをつけることがなくなってしまったが、先日実家でテレビを見ていたとき、東京湾の海中探索のような番組をやっていた。

その番組の中で、あるオスの魚が、メスが産卵した2つの場所を行ったりきたりしながら外敵から卵を守る姿が紹介されていた。
人間が勝手にそう判断しているというわけではなく、実際に片方を見に行っている間にもう片方にほかの魚が近づいたら、ものすごい勢いでその魚にぶつかっていき、卵が孵化するまで2週間と言っただろうか、休むことなく守り続けていたようだ。

一部は食べられてしまったりもしたようだが、残った卵が孵化しだしたときのそのオスの姿は、魚ながらかなり疲れ切ってやつれているようにさえ見えた。

それを見ながら、そういえば、あらゆる動物が恐らく本能で卵や雛、まだ歩けない幼い子どもを必死で守るんだなと改めて思った。

もちろん、中にはそうでない動物もいるのかもしれないし、また、たまには動物の中にも「育児放棄」をする動物もいるそうなので、必ずしも全てに当てはまるわけではないのかもしれないが、なんだか複雑な気持ちになってしまった。

理屈抜きに我が子を守ろうとする動物達と、昨今ニュースをにぎわす幼い子どもたちに関する心の痛む事件の加害者達、一体どちらが高等な生き物なんだろう。

もちろん、事件の加害者自身も幼い頃に被害者だったということもあるかもしれない。
少なくとも愛情をたっぷり注がれてすくすく育ったのであれば、およそ思いも及ばないようなことをやってしまうのだから。

そういうことはあるにせよ、人間は全ての動物を支配し、コントロールできるようになってしまい、最も高等であるかのように言われるが、果たしてそれは正しいのだろうか。

勉強なんてできなくたって、それよりまず何より人として、いやそれ以前に動物として、当然すべきことがどこかで忘れ去られつつあるような気がして(もちろん、圧倒的多数というか、殆ど全ての親は子どもに愛情を注いでいるということは理解しているつもりだが。)、必死で卵を守る魚の姿になんだか胸が熱くなった。

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2007年6月 5日 (火)

週初めなのに・・・。

昨日はレッスンがなかったので、ある意味私には今日が週初めのようなもので、おまけに今日は週の中では一番体力的に楽なはずの火曜だというのに、なぜかもうこんな時間、そしてこの疲れ具合・・・。

ホームページのタイムテーブルをまだ直していなかったが、火曜のラストのコマの小学生ちゃんがほかの曜日に移ったので、19時過ぎからは中学生の子のレッスンが終わるまでもくもくと片付けや明日の準備、メールの返信などを済ませていたというのに、もう22時半というのには驚く。。。
時々、誰かが時計を早回ししてるのでは?と真剣に考えてしまうほどだ。(苦笑)

暑くなった影響もあるのか、今日は週初めとは思えない疲れっぷりで、ブログを書くパワーが出ない・・・。(実は既に眠い・・・。(苦笑))
ああ・・・お許しを。

しかし、今日は暑かった・・・。夕方来た6年生くんがあまりに暑い暑いというもので、設定温度26度で1時間だけだったもののクーラーをつけてしまった・・・。
こんな時期からクーラーをつけていたら、真夏はどうなるんだ・・・。地球に優しくない行為は極力控えたいし、私はクーラーがあまり得意でもないので、これからは子ども達とのせめぎ合いの日々が始まるんだなぁ。

そういえば、先日ネットのニュースで公立小学校にもクーラーの導入を検討しているようなのをチラッと読んだなぁ。
今の子達の多くが生まれたときから空調が管理されている快適な環境で育っているから、実際、今の暑さを我慢しろって言われてもできない子もいるんだろうな。

けど、小さい頃からあまりに快適な温度の中で生活を続けていると、汗腺が退化してしまったり、低体温になってしまったりとかそんなニュースも色々耳にする。
地球温暖化防止とかそういうおっきなことだけじゃなく、可愛い我が子の健康のためにも、幼いうちは暑いなら汗をかき、寒いならたくさん着込むっていうような昔ながらの生活を一定期間させたほうがいいんじゃないかなと、そんなことを思ったりもする。

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2007年6月 4日 (月)

ブログをやっててよかったなと思う。

経営のことなんて全然わかっていないし、おまけにそれを勉強しようって気もない。
更に、小学校受験にも中学校受験にも対応しませんと宣言し、この春からは中学生の受け入れも休止してしまったので、実質「受験」というものにさえ関わっていないことになる。

そんな私がこうしてこの仕事を続けられることは、本当に本当に奇跡のようなことだと思うし、ありがたいことだなと思う。

つい昨日も、同級生たちと色々な話をしていたとき、たまたま同窓会の掲示板に私がコメントを打ち込む姿を見た同級生が「速いなぁ~」と感心してくれたのだが、その後なかなか腕のいい職人さんであるらしいひとりの子が、

「俺は仕事には(パソコンは)関係ないからなぁ。けど、○○は仕事でいるもんなぁ。」

なんてことを言ったので、「なんで?」と尋ねたら

「そら、子どもの成績管理とかのグラフ作ったりとかせなあかんやろ?」

てな答えが返ってきた。
そうか・・・普通、こういう仕事をしていたらそうなんだなぁと、彼の発言で改めて感じた。
しかし、成績管理なんてこと、教室を始めてからしたことはないし、今後も恐らくそれをすることはないだろう。

もちろん、教材を作ったり、メールを打ったり、ブログを打ったりということはするので、入力が速いに越したことはないが、少なくとも今の私に仕事にはパソコンは別に「必須」のものでもないのだろうと思う。

機械モノにはてんで弱いし、パソコンだって文字入力と多少の表計算ができるかどうかぐらいで、その他のことは殆ど何もできない。
経営のこともわかっていないし、それどころかここしばらくは広告すら出していない。
なのにこうして、予想もしなかった数の子ども達と一緒にレッスンさせてもらっていることはやはり奇跡だと思うし、心からありがたいと思う。

ただ、パソコンが使えてよかったなと思う大きな理由のひとつがこのブログ。
毎日くだらないことも含めてブログを書き続けていたことで、それを読んでくださった保護者の方がどこか安心感とか親近感を持ってくださるようになったことだ。

まだお目にかかったこともない段階から、私のことをよく知ってくださっているように話ができるし、さすがに1年以上同じようなことを一貫して書き続けているから、営業用のブログでないこともきっと感じて頂けるのだろう。(実際、そんなこと書いていいのか?みたいな、自らの首を絞めかねないようなこともしばしば書いているし・・・(苦笑))

普通なら、問い合わせをくださってメールや電話などで限られた時間と言葉で伝えることしかできないし、体験に来て頂いたとしても、やはりせいぜい1時間ほどの時間を共有できるだけだ。
それだけの時間で大切な子どもを通わせるかどうか判断するのはやはり勇気もいることだろう。

おまけにうちは恐ろしく小さい教室で、什器や備品も大手の足元にも及ばないような安いものばかりだ。
その私にたった1回、1時間ほどのチャンスしかもらえなかったとしたら、もしかしたら今ほどには子どもたちは通ってきてくれていないかもしれない。

中学生の頃、物書きになることに憧れた。
ただ、小説とかを書く気は全くなくて、エッセイストになりたかった。
もちろん、自分にはそんな文才はないと思っていたので、その道を目指すことはなかったけれど、書くことが好きでよかったなと思う。

時間や気持ちの余裕がないときは、本当に内容のないくだらない更新しかできなくて、そういうときは本当にもどかしいけれど、これからも私の思いを書き続けて行こうと思う。

拙い文を読みにきてくださっている全ての方に、改めて感謝します。

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2007年6月 3日 (日)

不思議な時間。

今日は完全休養日ということで(先月から週1日は完全に仕事を離れる日を持つことに決めたので)のんびりダラダラ過ごしてしまったのですが、今日は以前からチラチラと書いていますが、何十年ぶりかに再会した小学校時代の同級生達と、今回は8人でご飯を食べに行ってきました。

ご飯は純粋に「ご飯を食べただけ」という感じでしたが、その後ひとりの子の仕事場に場所を移して、みんなで食べたり飲んだりしながら、懐かしい話、くだらない話、色々な話に花を咲かせました。

それにしても、同級生というのは不思議なものです。
この歳になってこんな風にまた友だちづきあいができるようになるとは夢にも思っていませんでしたが、不思議なぐらいリラックスして、いくらでも話が尽きない感じなのです。

共通点はある時期同じ学校で同じクラスだったということだけで、中学卒業後は進路もバラバラ、当然今の仕事もみんなバラバラ。
なのに、ずっと友だちだったように付き合えるのは本当に不思議な感覚です。
それも、当時はそんなに仲がよかったわけでもない子とでも楽しくしゃべれるんですよね。

今の仕事は本当に大好きな仕事なので、仕事上のストレスみたいなものは殆ど感じることはありませんが、休日にまったく仕事に関係ない友人たちと楽しい時間を過ごすのって、もしかするとものすごく贅沢なリフレッシュなのかもしれないなぁと、そんなことを思った休日でした。

今回は、6年生の当時好きだった男の子も参加して、何十年ぶりかの再会もできました。
2児のお父さんになっているそうですが、表情などが昔のままで、とても爽やかさんでした。
昔の話とはいえ、好きだった子が爽やかでいてくれるのは嬉しいものですね。(笑)

楽しい休日を過ごしました。
明日からまた頑張って仕事をしようと思います。

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2007年6月 2日 (土)

今日は手抜き更新・・・。

今週も無事1週間が終わりました。
今日もみんなよく頑張ってくれました。

今週は年間予定の加減で火曜はお休み、月曜もお休みのようなものだったので、3連休に近かったため、楽だったはずなのに現在完全に思考停止状態です。

なんでなのかわかりませんが、最近、レッスンが済んで掃除やら片付けやらをしていると、やたらと暑くなるのです・・・。気温は下がっていっているはずなのに・・・。
更年期?(泣) いや、きっと知恵熱が・・・。(をい)

本当は毎月第1日曜は出勤なのですが、今月は第2日曜に変更になりそうなので、明日は完全OFFにする予定です。
読書はしなくちゃ。また昨日5冊も届いちゃったし・・・。(苦笑)

10日の日曜は恐らく11時からと午後から2つ振替やら体験やらのレッスンが入る予定ですので、もし体験等をご希望の方がおられましたらお気軽にお問い合わせください。(ただ、すぐにお受けできる枠はかなり限られておりますが・・・。)

今日は手抜き更新ですみません。
けど、今週は割とまともなことを書いたかなぁと思うので(自分に甘い・・・)どうぞお許しを。
皆さまよい週末を。

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2007年6月 1日 (金)

数量感(つづき)

昨日の続きです。

機械的反復学習によって強い弊害が出るのは、もしかしたらそういう子ども達なのかもしれない。
まだ5や10までの数量感すらしっかり身についていない段階で、実感のかけらもない数の計算を延々とやり続ける。

ゆっくり考える時間を与えられるでもなく、決められたノルマをこなし、一定の量に達したら次のステップに進めるかどうかの確かめがあり、その確かめをクリアするためにまた大量の問題を繰り返す。
量的に見ても、じっくり、ゆっくり考えることはほぼ不可能だろうし、そんなことを繰り返していれば、当然「ゆっくり、じっくり考える」ことなどできない頭が作り上げられていくということなのだろう。

糸山先生など著名な先生がおっしゃるに、脳の発達などからみて9歳ごろ、もしくは12歳ごろまでにひとつの境界のようなものがあり、その間に大量にある脳の神経繊維の刈り込みが行われるそうだが、使わないものは不必要なものだとみなされて刈り込みが行われると言われれば大変納得の行く説明である。

刈り込まれてしまったあとでいくらその回路を使おうとしたところで、もう線自体がなくなってしまっていれば、どう頑張っても無理かもしれない。
まあ、「何歳までにやらないとダメ」という表現は好きではないし、以前読書のほうでご紹介した小西先生の、人間の未知の力の部分というか、例えば脳の一部に損傷を負っても、その部分の機能を他の部分が代行したりする場合もあるというようなお話にも大変共感を覚えるので、「絶対」ということはないとは思うが、必要な線を刈り込んでしまいさえしなければ、もともとする必要のない苦労を敢えて買おうという人はそうそういないだろう。

と考えると、幼い頃にきちんと段階を経て、数量感を実感しながらゆっくり進む時期は絶対に必要だと思う。
もちろん、数量に限らず、幼い時期にスピードや量を求めることは益より害の方が多いような気がしてならない。

10までの数の実感がない幼い子にそれ以上の数の計算をさせることにどんな意味があるだろう。
イメージできない、実感のないものを頭で考えることは算数に限らず、また、子どもに限らず、どんな場合も誰にとっても不可能なのではないだろうか。

幼い頃に速さと量を求めることの危険性を改めて強く感じる。

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