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2007年5月31日 (木)

数量感

この春から、幼児さんが随分増えた。(あくまでもうちの教室としての話で、一般的な教室からしたらかなり少ないのだが。)

もともとは小学校低学年をメインでスタートしたので、来てくれた子達は10までの感覚は大抵は身についていたし、知識としては数量感を身につけるのには、3まで、5まで、10まで・・・という段階があるということは知っていたものの、実感としてはあまり感じることはなかった。(10以上の20まで、100まで・・・というのは普段のレッスンで何度も色々な子ども達の姿を見てきたのである程度実感があるのだが。)

しかし、幼児さんたちとレッスンをするようになって、確かに「3まで」、次に「5まで」、そこを越えてやっと「10まで」という段階が存在することを実感するようになった。

数量感の獲得にももちろん個人差があるので、年齢などでは一概に区切ることはできないが、どの子も3までがぱっとわからない段階では5という数を実感することはできないし、5までしか実感できていない子に5を超えた数を掴み取ることも難しいようだということは目の前の子ども達を通してはっきりと感じ取れる。

以前にも書いたことがあるが、パッと見て3までしかわからない子は4個のおはじきを見せていくつか尋ねると、「1、2、3、4」と1から戻って数えなければならず、3より1個多いから4という答え方はほぼできない。

しかし、5までの数がパッと見て判断できるようになった子に、3個のおはじきを見せておいてもうひとつ足しても、1から数え直すことはなく、すぐに4と答えることができる。

5を超えた数でも同様に、5を見せてもう一つ増やした場合、5までの数の実感しかできていない子は1から順に確かめて6と答えることが多いし、10までの数が実感できている子はすぐ6と答えられる。

数量感の獲得には個人差があるとしても、どの子にもそういう段階があるのは恐らくほぼ確かだろう。

とすれば、10までの数量感のない子に和が10までのたし算をたくさん練習させたらどうなるだろう。
当然、実感がないのだから、計算して答えを覚えこむ以外方法はない。「4+5」という式を何度も何度も見ることで、その答えが「9」だと覚えるのだ。
和が10までであれば、和が2になるものから10になるものまでなので、まだ数も限られているし、大抵の子は和が5ぐらいまでであれば何となくは実感もできているだろうから、丸覚えしなければならないものの数はさほど多くないだろう。

だから、そうつまずくこともなく、また、見ている大人も「できている」と感じてしまうのではないだろうか。
しかし、そこで「実感がない」ということに気づかないことこそ何より恐ろしいことなのではと思う。

幼い子どもは丸暗記が得意だという。
であれば、10までのたし算、10までの引き算、20までのたし算、20までの引き算のあたりぐらいまでなら、ひたすら繰り返していれば覚えてしまうのだろう。
忍耐強い子どもであれば、更にその先も、そして九九も・・・とどこまでも覚え続けるのかもしれない。(もう少し続きます。)

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2007年5月30日 (水)

算数の文章題ができないのは「国語力」のせいじゃない。(更につづき)

すみません・・・続きを書くのにまた数日空いてしまいました・・・。
そんなに引っ張るほどの内容でもないので、がっかりさせたら申し訳ありません・・・。

これまでは、外遊びを含めた日常の経験の豊かな子は比較的に文章題がすんなり解けるようだという印象は持っていた。
それは恐らく間違ってはいないと思う。

ただ、教室に来ている子達を見ている限り、実際にそれを経験したことがなくても、難なく問題をクリアしてしまう子達も少なからずいるし、外で遊ぶのが大好きという子でも、普段経験していそうなことがなかなかイメージできない子もいなくはない。

そこの差はつまるところ個人差だと言ってしまえば実も蓋もないが、実際そう言わざるを得ない面もあるとは思う。
ただ、大抵の幼い子どもは、放っておけばあれこれ想像を膨らませたり、大人は気づきもしないことに気づいたり、計り知れない豊かな想像力、感受性などを持っていると思うのだ。
(そのあたりのこともあって、今、モンテッソーリがとても気になっているのだが・・・。)

小さい頃から何でも与えられ続けた子どもは、自分であれこれ工夫したり想像や創造をする機会を奪われ続けているのかもしれない。
それは、おもちゃひとつを取ってみてもそうだろう。
既成の色とりどりの豪華なおもちゃに囲まれて大きくなる子と、大人が見たらそれで何をするの?というような紙切れや木の枝、ひも、石ころ・・・そんな身近なものをおもちゃにして育つ子のどちらがより豊かな子どもに育つだろう。

また、これまでの経験を通じて、小さい頃から機械的反復学習を続けていた子どもたちの多くが、極端に「イメージ力」が伴っていないようにも感じた。
それもまた、与えられ続け、量をこなすこととスピードとを要求され続けることで、自由に試行錯誤したり、ゆっくりイメージすることを不可能にされ続けているからだと言えるだろう。(それについては以前「機械的反復学習について思ったこと」でも書かせてもらったように、もちろん例外はあると思う。)

その差がどこでどう生まれてくるのかはまだわからないし、もしかするとどんなに学び続けても、結局は個々人が持って生まれたものの違い(いい悪いではなく、人それぞれ得意不得意があったり、興味を持つ対象が異なっているのは当然だと思うし)は必ず存在するだろうから、万人に当てはまる答えなど存在しないのだとも思う。

ただ、これまで見てきた限りでは、仮にただの計算問題であっても、最初の段階から子どもの頭に何か思い浮かんでいるようだと感じられる子どもはほぼ問題なく文章題をクリアする。

これに対して、訓練などで計算の答えだけは導き出せるものの、全く的外れな答えになっても違和感を感じないような状態の子どもは、概ね文章題には苦労する。
もちろん、「あわせて・・・」とか「みんなで・・・」とか「くらべて・・・」とか「ちがいは・・・」とか、そういう言葉の部分だけを覚えこんで、それなりに解くことができる子は存在するが、その場合、その子の頭には文章に書かれている数量やイメージはほぼ何も描かれていないため、ただ単に「解ける」、「答えは出せる」という状態に過ぎない。
そういう子たちは、たし算と引き算だけの間はなんとかなったとしても、学年が上がるにつれますます手も足も出なくなっていく。
(但し、今の小学校では大抵が習った単元のテストという形で出題されるため、掛け算を習えば掛け算で解く問題、割り算を習えば割り算で解く問題・・・ということが多いため、問題の意味を理解できなくても100点が取れてしまう場合もなくはないのが恐ろしいところだが・・・。)

書けば書くほどまとまらなくなっていくし、私自身、ほぼ全ての子どもに当てはまる答えが見つかったらどんなにいいだろうと思うけれど、きっとそれは無理なのだろう。

ただ、タイトルにもつけた通り、しばしば「文章題ができないのは国語力がない(足りない)から」といわれることに対しては、国語力(読解力?)をつけたところで、算数の文章題ができない子はやはり間違いなく存在する。

つまり、「国語の力」と「文章題を解く力」とは僅かに重なる部分があるとしても、大きく見れば全くの別物のように思う。
文章題を解くためにつけるべき力としては、「数量感覚」と「イメージ力」というところなのかなと、今の時点ではそう感じている。

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2007年5月29日 (火)

平日なのに休日。

普段は、5週目でもなんだかんだ祝日の加減やらお盆、年末年始の加減やらで、月4回のレッスンを確保していくとなんでもない平日にレッスンがお休みになることはまずないのですが、今年は珍しく今日はお休みにしても大丈夫だったので、年間予定でお休みにして、おまけに欠席振替なども入らなかったため、フリーな日になりました。

日曜も休んだので今日は仕事をするつもりだったのですが、時間の余裕があると何もせず無駄にダラダラ過ごしてしまう意志の弱い私・・・。
最近は保護者の皆さんが「先生、お忙しいでしょう」とか言ってお気遣いくださるのに、実は・・・という感じで恐縮です。

仕事はするつもりで、とりあえずその前にお友だちが今日まで三ノ宮で彫金の作品の個展をしているので、それを見に行こうと街へ。
レッスンを休んでしまってからもう1年半以上経ってしまった私には、彼女はもう雲の上の人のようです。
ただ、不思議なもので、以前は作品を見て「ああ・・・作りたいなぁ」と思ったものですが、今日は素晴らしい作品を見ながら、素敵だなとかほしいなぁとか思うだけで、時間を作ってまた習いに行こうとはあまり思っていない自分を発見しました。

昔から何か作るのは大好きでしたし、職人に憧れ続けていた時期もありました。塾に勤めながらもずっと彫金は習い続けていました。どちらも好きなことで、それでバランスが取れているのだと思っていたのですが、独立してなかなか時間が取れなくなり、一旦お休みしますと先生にご挨拶に行き・・・。それから1年半。その前1年ほどはまともに作っていなかったので、もう2、3年遠ざかっているのですが、どうやら今は何より一番したいことがこの仕事だということのようです。
それはなんとなく嬉しい発見だったりします。

その後はちょっと街をぶらぶら。
危険なのに、見たい雑誌があって書店にも寄ってしまい、極力教育書のコーナーには近づかないようにしたのですが、結局4冊ばかり買ってしまいました・・・。

結局4時間近くふらふらしてしまい、今日は出勤せずじまいになりました・・・。
最近あまり本を読めていないので、ちょっと今日は読書しようかと思います。

ああ・・・今日はオチもキレもなくってスミマセン・・・。(苦笑)

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2007年5月28日 (月)

今日のニュースで思うこと。

例によって、いつからかわからないぐらい長らく家でも教室でもテレビをつけていないので、ニュースは殆どネット頼りなのだけれど、今日は松岡農相のニュースにかなり衝撃を受けた。

もう記憶から消えていたけれど、「なんとか還元水」のあの方だ。
その後も談合やらなんやらで問題になっていたそうだが、恥ずかしながらそれは知らなかった。

それにしても、なぜに命まで絶ったのだろうと思えてならない。

もちろん、仮に不正経理や談合などが全て本当だったとして、それは法によって裁かれるべきことではあるかもしれないが、誰かを傷つけたり命を奪ったりという話ではないのだから、何も命まで・・・と思ってしまうのだが、そのあたりは男性の感覚なのか、それともずっとエリート街道を歩んでこられた方だからこそなのか、私には全く予想もつかない。

「なんとか還元水」に関しては、正直かなり呆れたし、ブログにも記事を書いた。真相はわからないものの、少なくともまっとうな支出ではなかったのではないかと思う。
ただ、そのことがきっかけで領収書なしで経費処理できる金額を再検討したりなどの動きもあったし、ひとつのきっかけを与えたとも言えるだろう。

談合の方はどういうことだったのか何も知らないし、もちろんあってはならないことなのだとは思うが、それだって残念ながら「特別に悪いこと」ではなく、「結構よくあること」なのではないんだろうか。

やったことを認めて悪かったと頭を下げるより、命を絶つほうが彼にとっては容易かったのだろうか・・・。

悪いことをしたら謝る。
本当に反省したら、それを許す。

少なくとも、今回の不正疑惑に関しては、そんな子どもでもわかっているようなルールで対処ができることだったのではないんだろうか。
(理不尽に人の命を奪ったりなどというのは謝ったからって許されることではないと思うが。)

なのに、農相が国民に対して真実を語らぬまま命を絶ったことが、何とも言えず複雑な気持ちである。

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2007年5月27日 (日)

式より答え

昨日書こうと思いながら結局そのまま挫折してしまい、今日もあと少しで日づけが変わりそうです。
普段の休日は大抵ど~でもいいネタなんですが、今日はほんの少しだけまともな話を。
もしもくだらないネタを楽しみにしてくださっていた方がおられましたらご容赦のほど。(笑)

教室の子ども達とレッスンをしていて、たまに出くわす場面。
そのときに私は最近ではもうすっかり当たり前のようにやっていることで、改めて意識したこともなかったのだが、ふと、もしかしたら小さいお子さんを持つおうちの方に何か参考になるかもと思ったので書かせてもらうことにした。
といっても、本当に些細なことなので、改めてわざわざ書くほどのことでもないような気もしなくもないが・・・。
まあ、あまり期待せずお読みください。(苦笑)

うちの教室の子達は、「文章題だから苦手」という子は殆どいないし、過去、大量反復などを続けてきた後遺症のようなもので反射的に計算だけできるようになってしまっているという子の場合は文章題だから苦手な訳ではなく、ある意味ただの計算だって何かイメージして解いているわけではないように感じるので、やはり「文章題だけが苦手」という子は全体を見ても比較的少ないとは思う。

ただ、それでも問題によって、イメージしやすいものとしにくいものがあったり、「これ足し算?」なんてことを聞いてくる子もたまにはいる。
また、「後遺症」から抜けるまでの子達は大抵、早く解かなければという意識が強いため、やたらとどんな式になるのかを確認したがったりする場合もある。

そんなとき、私はこう答えることにしている。

「式は後でいいから、答えを考えてみて。」

もしかしたら、すごく妙なことを言っていると思われるかもしれない。
式がわからないのに答えがわかるはずないのでは?と思う方もおられるだろう。

ただ、ろくに考えもせず式を知りたがるという症状を抜けさせるには、案外有効なのだ。
式を考えるのではなく答えを考えろと言われた子どもは、大抵の場合、もう一度問題を読み直したり、じっと考え込んだりして、さっきまで落ち着きなくイライラしていたような子も集中を見せ始めたりする。

例えば、「子どもが公園で遊んでいて、7人の子が帰ったら残りが8人になった。初めに何人いたか。」とかいう問題があったとしよう。
「帰った」という言葉から子どもがイメージするのは「数が減る」ということだろう。
咄嗟にそのイメージが浮かんでしまった子どもは「8-7」という式を立てようとすることもある。(イメージできずになんとなく作っている場合もあるかもしれない。)

仮に、こんな問題で「これ、引き算?」とか聞いてきた場合、まあよくあるパターンとしては「引いたら少なくなっちゃうけど大丈夫?」みたいな、結局は足し算だと誘導するようなヒントを出してしまうであるとか、「どうかなぁ?どっちだと思う?」と再考を促すであるとかがあるのではと思う。
私も状況によってはそういうことをいう場合もあるが、本当に考えさせたい場合には、さっきの「式はいいから、まず答えを考えてみて」という発言のほうが大抵の場合有効だ。(特に1、2年生には有効な感じがする。)
そして、そう促すと案外ちゃんと正解を出す子も少なくない。

正解が出た後で改めて式を考えさせれば、指導者の助けを借りず、全部自分で考えて解いたことにもなるし、そういう積み重ねでイメージすること、じっくり考えることに慣れていってくれたりもする。何より、自分で正解に辿り着くことで自信にもなるはずだ。

教室のレッスンでは時間が限られていることもあって、普段はどんぐり問題はあまり使っていないが、もしご家庭で親御さんがお子さんの勉強を見られる場合であれば、絵を描かせることは間違いなく有効だとも思うので、それを実践されてもいいと思うが、文章題への苦手意識がまだあまり強くない段階や、大体は解けるのにたまに何かでつまるというような場合には「式はあとでいいから」と言ってみるのもひとつの方法なのではと思う。

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2007年5月26日 (土)

そうでもなかった。

すいません、今日は書こうと思ったことがあるのですが、ちょっと時間が。。。
深夜に元気だったら書きますね。無理なら明日以降ということで・・・。

今週もお蔭様で無事終了しました。
実はあまり考えたことがなかったのですが、今日いらしたお母さんがふと

「男の子さんが多いんですねぇ。」

とおっしゃったもので、何となくそのときはそんな気がして、そうですねとお返事はしたものの、さて、男女比ってどうなってたっけ?と。

というわけで、自称「『つ』のつく男性にモテモテ』な私としましては、もしかして3対1ぐらいで男の子の方が多かったりするのだろうか・・・と思って数えてみました。






結果。

以外にもほぼ「5対4」でした。

な~んだ。全然「男の子が多い」なんてことはありませんでした。(笑)
そうそう、忘れてましたよ。
うち、ホントそのまま子どもモデルになれるのでは?みたいな「美人の女の子」も多いんでした。

さて、皆様よい週末をお過ごしくださいね。

文章題の記事の続きは書きかけなのですが、今日書こうと思ったのも文章題がらみのお話。

それではまた。。。

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2007年5月25日 (金)

またなんだかもやもや。。。

昨日、ある問合せのお電話を頂いた。
遠いのですがというお話で始まったのだが、レッスン中だったこともあり、また改めてと一旦お電話を切らせて頂いた。

その後、レッスンが終わった頃にまたお電話をくださり、なぜか教育相談みたいになってしまって、私としては妙な気分になったのだが、その方はお隣の県にお住まいで、色々調べたもののいい幼児教室がなく、ピ○マリオンを見つけたものの通える範囲にはないというようなお話で、お話の感じではうちが受け入れられるのであれば通ってこられるおつもりだったようだ。

聞けば、まだ年中と年長のお子さんだという。お話を伺う限り、お母さまがとても熱心であることも、お子さんのことをとても大切に考えておられることもわかったし、あまりに色々な情報があるため、何が一番いいのかの判断もつきかねておられるようなご様子だった。

とにかく、どちらにしろ今すぐは幼児さんをお受けすることができない状態だし、私はさすがに幼児さんに毎週他県から通わせるなんてことをお受けすることはできないので、その旨はお伝えした。

30分あまりのお話になってしまったので、ひとまずある程度は納得して頂き、もう一度よく考えてみますというような言葉を頂いてお電話を終えた。

実は、うちの教室には市外や県外の方もおられる。
ただ、市外の方といってもすぐお隣の市などで、車で15分とか20分とかいう距離の方だったり、県外の方でも在来線などを使ってもドアトゥードアで片道1時間ぐらいまでの方だ。

もちろん、私自身はそこまでして通って頂いていいものだろうかと思うのでお勧めはしないのだが、子どもが喜んで通ってくれるうちはこちらから辞めてもらうのもどうかとも思って、今のところお受けしている。

そこまでして通ってくださるのは本当にありがたいことだと思うし、身に余る光栄だとも思っているが、問合せをくださるときに「望むような教室が近くにない」というようなことをおっしゃる方が少なからずおられる。
まあ、実際、ピ○マリオンや実感算数などをやっている教室はまだまだ限られているので、「近くにない」というのは嘘ではないだろう。
更に、幼児・低学年を主対象とした教室もそう多くないとも思うので、「こんな教室」が「近くにない」のも事実かもしれない。

ただ・・・特に幼児のお母さまが「いい幼児教室がない」というようなことをおっしゃると、どうももやもやしてしまうのだ。
そもそも、幼児は本当に「幼児教室」に行かなければならないのだろうかというところに・・・。

私達が子どもの頃、今のような「幼児教室」はあってもまだ限られていただろう。余程熱心で経済的にも余裕のあるようなご家庭のご子息が通うようなところだったのかもしれない。

更に遡れば、私達の親やその親の時代には、今のような「幼児教室」なんてもの自体存在しなかっただろう。

では、その時代の方々はみんな出来がよくないのだろうか?
私達の頃より、今の時代に幼児教室に通っている子ども達の方が相対的に優秀といえるのだろうか?
そもそも、幼児教室に通っている子ども達とそうでない子ども達であれば、前者の方が優秀なのだろうか?(優秀という表現もまた曖昧で、またどの時期を取ってみるかということでも判断がしづらいのだが・・・。)

もちろん、幼児教室で何かを習った子は、そのことに関しては習っていない子よりは優れているかもしれない。
ただ、何年か経ったときにもその差ははっきり存在するものなのだろうかという疑問はあるし、どういう教育を受けるかによっては、かえって能力の伸びどまりがきてしまうことだってあるのではとも思わなくもないのだ。

「いい幼児教室がない」というのはどういうことなのかよくわからない。

そもそも、幼児期には子どもの興味のあることを心行くまでやらせてあげることが望ましいとするなら、時間を区切って次々と何か課題を与えていく指導が本当に「賢い子」を育てることになるのかも疑問の残るところだ。(もちろん、素晴らしい指導者というのが存在することはわかっているつもりだし、そういう指導者に出会えれば、本当に賢い子どもに育つということもあるとは思うが。)

幼児教室に通わせて沢山のプリントをやらせるぐらいなら、おうちで塗り絵や切り絵、折り紙やあやとり、おはじきや積み木、そんなもので遊んでいるほうがずっと賢くなりそうな気がするし、おうちの方と一緒に絵本を読んだり、お歌を歌ったりする方が遥かに幸せな気持ちになれ、心の安定も望めるように思う。

少なくとも、幼稚園や保育園などに通っている子どもであれば、社会性を身につけるとかそういう理由で幼児教室に通う必要性はあまり感じないし、以前にも書いたように思うが、幼い子どもにとって親以上に優れた指導者はいないのでは?と思わなくもない。

色々な情報が氾濫し、更に子どもの数も減っているため、周りがみんな行っているからと不安になったり、通えないところにある素晴らしいという噂の教室に通えないことで我が子にマイナスになると悩んでみたりということは、きっとお子さんを愛する多くの親御さんが経験されることなのだろうなとも思う。
おまけに私には子どももいないのだから、他人事だと思ってといわれれば反論できない。

それでもやはり思う。

色んな情報に振り回されて、どうしよう!と思ってしまったときには、まず深呼吸をして、可愛い我が子の寝顔でも眺めてみてはどうだろう。
子どもを愛する親御さんであれば、願うことは我が子の幸せであって、それより優先するものはないはずだ。
片道何時間もかけて習い事に通うことが本当に我が子の幸せなんだろうか、その時間をおうちで子どもと一緒に過ごす方がずっと幸せなんじゃないんだろうか・・・などということを一度ゆっくり考えてみて頂けたら。
そんなことを思う。

もちろん、お仕事をお持ちの親御さんなどで、お子さんとゆっくり一緒に過ごしたいけど物理的に無理という方もおられると思う。
そういう方のお子さんが不幸だとかそんなことをいうつもりは全くないので、そのあたりはご理解頂けるとありがたい。

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2007年5月24日 (木)

わぁ~い♪(ど~でもいい話過ぎてすみません・・・)

今日はもうひと頑張りしなければならず、明日はレッスンがハードということもあって、ちょっと手抜き更新です。お許しを・・・。

今日は1年半ほど前だったかにいらしてくださって、その後実感算数を導入された大阪府下の塾長さんが新しい先生とご一緒にお見えになりました。

木曜はレッスン自体は4つで楽なので、今日いらして頂いたのですが、いつもながら、わざわざうちにいらして頂いて何かご参考になるのだろうか?というのが疑問です。(苦笑)

で、その塾長さんとは一昨年秋にある勉強会で初めてお目にかかったのですが、他にもその先生とお知り合いの先生が何人かこちらに尋ねてくださってもいましたので、とっくに私の年齢はご存知だと(大体だとしても)思っていました。

今日、新しい先生も交えてお話していたとき、その先生がとてもお若く見えたのでお尋ねしたところ、37歳と。
因みに、塾長さんは更にお若いのですが、「同じぐらいではないですね・・・」と言った私に

「失礼ですが、先生おいくつで・・・」

と。

「恐ろしいことに今年(オフレコ)歳です。」

と答えたところ、

「えっ?!そうなんですか!いやぁ~、同じぐらいかと思ってました。(そんな歳には)見えませんねぇ。」

と。
わ~い♪確かまだ30か31の先生にそんなこと言われた~♪

ん?いや・・・。こういうのを世の中では「社交辞令」って言うんだろうか・・・。

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2007年5月23日 (水)

算数の文章題ができないのは「国語力」のせいじゃない。(つづき)

先日のこの記事の続きを。
お待たせした上、気になるタイトルをつけたくせに、あまりご期待に添えない不安が・・・。どうかご容赦ください。

「必要な能力がきちんとつけば文章題は解けて当たり前」

その言葉はやはり私にはにわかには信じ難く、内心ではたまたま先生のところには優秀な子どもが集まっているのでは・・・とか、まだ小さいうちからやらせるからなのでは・・・とか、色々疑っている自分がいた。

しかし、教材や指導法に一目惚れしたことには変わりなく、信じられない部分はありながらも、私の教室でのレッスンが始まった。
教室を開いた当初、来てくれたのは1年生が4人、2年生が1人、4年生が1人。それが全てだった。

会社員を辞めた後6年ほど塾講師をしていたとはいえ、対象も指導法も全くというほど異なるため、本当に私自身が1から学ぶような状態で始まった教室。教具などの扱いにもまだ慣れていなかったので、その人数はある意味ちょうどよかったのかもしれない。

レッスンのない時間に教具の使い方を練習したり、ビデオを見て覚えたり、どんな手順でレッスンを進めるかシミュレーションをしたりして過ごした。
拙いながらも一所懸命であることを理解してくれたのだろう、子どもたちも一所懸命に取り組んでくれた。

そして、大量に反復させるのではない方法でその計算の意味、どうしてそういう答えになるのかを理解し、普通の計算問題を考えて解けるようになった子達は伊藤先生がおっしゃった通り、文章題だからといって立ち止まることはなかった。

むしろ、計算問題は面倒がって、文章題の方が好きだという子すら現われた。
もちろん、初めの1年はトータルでもかなり限られた子どもたちとしかレッスンできなかったし、中には大量反復を経てやってきた子達も少なからずいたため、そういう子たちは殆どが文章題になると軒並みお手上げで、なかなかはかばかしい変化は見られなかったし(私も今以上に未熟だったし・・・)で、データとしてみるにはあまりにも数が少なすぎて、まだ確信するまでには至らなかった。

しかし、2年目、3年目と年を経るにつれ、関わる子どもたちも徐々に増え、私自身もこの教材・教具での指導に随分と慣れ、色々なタイプの子どもたちに出会えるようになったが、結局、出会う子どもたちが増えれば増えるほど、伊藤先生の言葉は真実なのだなと実感することが増えていった。

「国語力」というとあまりにも範囲が広すぎるので、一般的に文章題ができない場合に不足していると考えられている国語の力は「読解力」なのかなと思うが、その「読解力」というのも何を指しているのかによって、文章題が解ける解けないに関わる能力と、あまり関係ない能力があるように思う。

本読みがとても上手な子でも、内容を全くつかめていない子がたまにいる。
そういう子は「読むこと」がうまいだけで、内容理解はできていない。
つまり、読むことと内容を理解することはまた別の能力ということなのだろう。ちょっと無理矢理な喩えかもしれないが、英語の発音が上手な人が必ずしも「英語力(という表現もまた曖昧だが・・・)」があるとはいえないというのに近いのかもしれない。

また、教室の子ども達の中には、まだひらがなを読むのすらたどたどしい状態で、問題をすらすら読むなんてのは無理という子がつっかえつっかえ問題を読んだかと思えば、読み終わった途端に答えが出ているなんてことも目の当たりにし始めた。

結局、「上手にすらする読めること」と文章題を解く力とは直接的なつながりは殆どないようにさえ感じられるようになった。

そして、現時点でぼんやりと至った結論は、ひどく曖昧な表現かもしれないが、文章題が解ける子たちは「数」が「見えて」いるのだと思う。
要するに、ひと言で言えば「イメージ力」とでも言うのだろう。糸山先生の言葉で言えば「視考力」ということになるのだろうか。

問題で与えられている数量が、そして、そこでやりとりされていることがらが、すんなりと頭に思い浮かんでいるから解けるのだ。
(かなり長くなりそうなので、続きはまた後日・・・。申し訳ありません)。

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2007年5月22日 (火)

知識と感動は反比例するのか

トーナメント問題に関して、もし私が既にこの手の問題に出会っていて、その解き方をマスターしている状態で彼女の話を聞いたとしたら、恐らく大して感動しなかったろう。

きっと、「うん、そうなのよね」とか「うん、私も知ってる」という反応になってしまうのはほぼ間違いない。
それは「既に知っていること」なのだから当然の反応なのだけれど、ふと思った。

知識と感動は反比例するんだろうか?

子どもの頃は知らないことだらけで、目にするものひとつひとつなんにでも感動した時期がきっとみんなあるはずだ。(まあ、小さい頃のことなので私自身殆ど覚えていないが・・・)

知らないものを初めて見たときの感動。ものの名前を初めて知ったときの感動。できなかったことができるようになったときの感動。
小さい子にとって、ほとんど何もかもが初体験で、感動に次ぐ感動の毎日という時期があるだろう。

そして、知っていることが増え、できることが増えるにつれ、「賢く」なるかもしれないが、その分些細なことに感動する機会は徐々に減っていくのかもしれない。

年を重ねるごとに普通であれば知識や経験は増えていくし、既に知っていること、経験したことには、新鮮な感動はなかなか感じなくなっていくものだろう。
それが成長するということなのかもしれないが・・・。

何が言いたいかというと、別に何も知らず、何もできず、無知のまま留まっておく方がいいとか言いたいわけではなく、「初めてのときの感動」の機会をひとつでも多く与えてあげられたらいいなと思ったのだ。

つまり、例えば、例のトーナメント問題ひとつを取ってみても、仮に私がもっと子どもの頃に塾かどこかで「この問題はこうやって解きます」と教わっていたとしよう。

もちろん、時間と共に忘れることはあるから、忘れきった頃に改めてその問題に出会った場合は別として、解き方が薄っすらとでも記憶にある状態で「149チームが負けるから149試合」の解法を聞かされたとしても、大した感動はないだろう。

その場合、初めて教わったときにも「解き方を説明されて理解した」のであれば、その時点でも結局大して感動はしていないはずで、つまり、トーナメント問題は解くには解けるが、結局感動するチャンスは逃したということにならないだろうか。

楽しかったことや感動したこと、場合によってはつらかったことや苦しかったことなど、印象に強く残ったことは記憶にも残りやすく、定着しやすいような気がする。

であれば、仮に解き方を教わった場合と、今回の彼女の見事な解法に感動した場合、記憶の定着は明らかに後者に軍配が上がるのではないだろうか。

伊藤先生は「楽しいことじゃないと身につかない」というようなことをおっしゃるが、それも非常に納得の行くことだ。
子どもがその学習内容に初めて出会ったときに、いかに面白いと感じられるか、いかに感動するかによって、その後の理解、定着には大きな差が生まれる気がする。

いやいややる勉強が身につきづらい理由もよくわかる。
人間は本来、嫌なことは時と共に忘れてしまうように作られているのだから。

学ぶことに対して子どもがいかに興味を持てるか。いかに心がそれに向かっているか。
そのことがとても重要なことなんだなと、今回のことでなんだか改めてそう感じた。

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トーナメントネタは続くよどこまでも・・・。

あまりのタイミングに、これは偶然ではないに違いないと思う私・・・。
日曜のブログにトーナメントに関する問題の解き方について書いて、月曜には改めてちょっと考え直したり、ブログを読んでくださった方が同じような問題がと教えてくださったりして、もう一度記事を書いたというのに・・・・・・。

先ほどご飯を食べながら、自宅に置きっぱなしで読みかけの本を手にとりました。
その本は、栗田先生が子ども向けに書かれたトレーニングブックで、なかなか解きごたえのありそうな問題ばかりがずらっと並び、左ページでは指示された作業、右ページではその作業を元に類題を解く・・・というパターンで42の大問が掲載されています。

パズルっぽく考えられるものが殆どなので、時間のあるときにちょっとずつ読み進んでいるため、読み始めたのは数ヶ月前なのに、まだ途中で止まったまま、いつ最後の問題まで辿り着けるかなという状態でした。

ひとりの食事は退屈で、そのくせすっかりテレビをつけない生活に慣れてしまったもので、時々お行儀悪いとは思いつつ、食事中に本を読むことがあり、今日は今日読み始めたばかりの本を数ページ読んだのですが、この本は、とてもじゃないが食事中には・・・というような気分が重くなるような内容だったので、代わりに久しぶりに読みかけのトレーニングブックを開きました。

以前途中まで考えていた問題があり、何の気なしにその次のページを開いたところ、そこにはトーナメント表が!!(苦笑)
そして、そのページにはこんなことが・・・

(前略)
 この作業を横からのぞきこんでいたのぞみちゃんがいいました。
「ふーん、いつでも試合の数は、チームの数から1を引いた数になっているんだ」
 やすし君はおどろいてその理由を考えてみました。
 みなさんもその理由をいっしょに考えてみてください。
(後略)

そして、解説にはしっかり、やわらか頭の彼女が言ったことが書かれていました・・・。

けど、よかったです!先にこれを読んでいたら、彼女の発想に感動し損ねましたから。(笑)
それにしてもあまりに偶然のタイミングで、ちょっと気持ち悪かったりします。(苦笑)

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2007年5月21日 (月)

ちょっと訂正・・・。

カッコわる・・・。
答えは間違ってないのですが、昨日の晩、考えながら、なんかバランスの悪いトーナメントやなぁ・・・と思ったのにそれ以上考えませんでした・・・。

だって・・・150チームを下から組んでいくと、準決勝の段階で3チームになっているという非常に不自然な状態が出来上がるんですもの・・・。(それには気づいたのですが、それ以上考えていませんでした・・・。ずっと運動部に所属していたっていうのに恥ずかしい・・・。)

昨日のブログを見てくださった方が同じような問題がありましたよとお知らせをくださって、あ・・・と。(苦笑)

トーナメント表を組むときは余程のことがない限り、上の方(決勝、準決勝、準々決勝のあたり)は偶数のチームが残っているように組まれますよね。(まあ、最後の3チームとか5チームとかはリーグ戦、総当りとかもあるかもしれませんが・・・。)

というわけで、答えは合っているものの、下から考えていくのは不自然かもということでもう一度・・・。

決勝・・・1試合(2チーム)、準決勝・・・2試合(4チーム)、準々決勝・・・4試合(8チーム)、その下は8試合(16チーム)、16試合(32チーム)、32試合(64チーム)、64試合(128チーム)と、ここまで下りてくると、次は128試合することは不可能ですね・・・。

つまり、ここでどういう状態になっているかというと、22チームは既に負けて128チームになっている。ということは1回戦で22試合行われているということですね。

1+2+4+8+16+32+64+22=149

と。トーナメント表で正しく考えるとこうなるんだと思うんですが、こっちよりは昨日の私の不細工なトーナメント表の方が考え方は簡単かもしれませんね。

けど、やはりダントツは149チームが負けるから149試合ってのが美しく、素晴らしいですけどね~。

因みに、別の友人の話ではこれっぽい問題が以前、平成教育委員会か何かでやっていたとのこと。
ただ、昨日の話題の彼女はそれも見たことない状態で、自分で発見したというのがやはりすごいですよね~。

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2007年5月20日 (日)

やわらか頭

週1日は仕事からスパッと離れる日を作ろうと決めたので、今日は基本的に仕事のことは考えず過ごしました。
とは言っても、昨日同級生の仕事場で友だち4人集まって明け方までしゃべってしまったため、お昼に起きてお洗濯した以外はダラダラと過ごしてしまいました・・・。

でも、明け方までしゃべっていた中で、すごくすごく感動したことが。
4人のうちひとりだけ、同級生の同僚(?)ということで最近お知り合いになった女の子が言った言葉に、思わず彼女をスカウトしたくなってしまった私・・・。

というのも、私の仕事にからんで、子どもの教育などについての話をしていたとき、ひとつの例として彼女が話してくれたのですが、あるとき彼女は同級生(友人)からこんな問題を出されたそうです。

「150チームでトーナメント戦をして優勝チームが決まるまでに何試合しなければならないか」

皆さんはどう考えられますか?
似たような問題には過去出会ったことがあるとは思うのですが、彼女が言った言葉は目からウロコ、これまで私はそんな発想したことなかったなぁと。
私もまだまだ頭固くって、習ったことにしばられていることがありそうだなぁと、改めて感じました。

因みに、彼女は一度も塾に行ったことがなく、これまでこんな問題に出会ったこともなかったそうです。
皆さんもどうやって考えるか、自分なりに考えて、もしくは、彼女がどう答えたか予想してから続きを読んでください。
もしも誰に習ったわけでもないのに彼女と同じ発想をされた方、是非教室を手伝ってください!(笑)

では、彼女の答え。



150チームあったら優勝するのは1チームだけなんやから、149チームが負けなあかんわけやん。だから149試合。


多分、普通に習ったとか、習ってないにしてもトーナメントの表を見たことのある人などは、大抵私と同じく、1回戦で75試合、2回戦で37試合(1チームは2回戦の相手がいない)、3回戦で38チームになっているから19試合、4回戦は9試合(また1チームは相手がいない)、ここで10チームになるから5試合、あとは2試合、1試合、決勝戦で1試合。

75+37+19+9+5+2+1+1=149試合

という風に一つ一つ考える、もしくは過去に習った何らかの方法で機械的に解くとかなのではと。
しかし、彼女の発想であれば、式も何にもいらず、柔軟な発想さえできれば秒殺の問題ということですね。

仮に、決勝までに何試合と聞かれたら、決勝に残っているのは2チームなのですから、148チームが負けたということですよね。
上の式で言えば、最後の1試合を足さなければいいのですから、148試合で正解です。

ただ単に私が勉強不足なだけって可能性も無きにしも非ずなので、ちょっと不安ではありますが、かなり感動しました。
やっぱり彼女をスカウトしたいなぁ・・・。(笑)

やわらか頭を目指して、まだまだ頑張らなくては~!

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2007年5月19日 (土)

感動です!

皆様、ありがとうございます。

ブログランキングにも登録せず、メジャーなブログにも移らず、地味に書き続けてまいりましたこのブログですが、つい先程夢のような100000アクセスに達しました。

日々の思いのアクセス解析

累計アクセス数: 99996

日々の思いのアクセス解析

累計アクセス数: 100007

残念ながら、お一人お一人のアクセスとの照合ができず、多分・・・ですが、プロバイダがメガエッグで21時台半ば頃にアクセスをくださった方が記念すべき10万アクセス目なのではということしかわかりません。(けど多分・・・)

もちろん、メジャーなブロガーの方からすればたかが10万かと思いますが、まさかこんなに多くの累計アクセスを頂ける日がこようとは全く想像もしておりませんでした。

おバカなことを書いても、忙しくて書けなくても、あたたかく見守り続けてくださった皆様に改めて感謝致します。

本当にありがとうございます。
今後ともどうぞ宜しくお願い致します。

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今日の会話。

昨日のブログの続きも書かねばなりませんが、今週もなんとかどうにか無事終了。まだ片づけやら掃除やらせねばなりませんが、今はちょっとひと息中。

今日も子どもたちのお蔭で幸せな1日でした。
ホントにひとりひとりみんな違っていて、けどみんな本当に可愛くって、つくづく幸せな仕事だなぁと思うわけですが、今日の特に印象に残った会話を2つばかり。(あ、例によってど~でもいい系ですんで。)

まだ入会して2ヶ月目の新人くんとレッスンをしていたとき、その子のおうちがすごい車を買ったんだって話を聞かせてくれて(プライバシーに関わるので詳しくは書きませんが、超庶民の私には別世界のようなお話でした(笑))、「すごいねぇ」と言った私に「先生んとこは車は?」と。

「ん?車、ないよ。」

「え?!ないん!!誰も持ってへんの?」

「だって、私ひとりやもん。」

「えっ!先生、結婚してへんの?!」

「うん。」

「えぇ~!結婚したらいいのに!赤ちゃん可愛いで~!」

(・・・・・・できるもんならしてるって・・・(心の声))

「そやなぁ。けど、結婚して赤ちゃんできたら(いや、もうその可能性は極めて低いんだけど(再び心の声))、今みたいにこのお仕事できへんようになるしなぁ。」

「あぁ~~っ、それは淋しいなぁ。うん、それはなぁ・・・。けど、赤ちゃん可愛いで~。でも、ここなくなるんも困るしなぁ・・・。」

この場合、やはり素直に喜ぶべきでしょうか。(苦笑)
しかし、私の歳を知ったらぶったまげるかもしれませんがね、彼も。(因みに彼は2年生。(笑))

そして、極めつけはこの会話。
彼の「私好き」はお母さんも認めるなかなかのもので、教室を辞めさせるとか、今日は休もうとか言うたび、ものすごい抵抗を示すという1年生の彼。

幼児のときから来てくれていることなどもあり、普通に行けばうちでメインに使っている教材は彼が3年生になる頃には終わってしまうかもしれません。

ふと思いついたようにお母さんが、わざと彼に尋ねられました。

「○○、プリント全部終わってしまったらどうする?先生んとこやめなあかんようになるわ。」

もちろん、お母さんは彼をからかっているのですが、さて、どんな答えが返ってくるかと思えば、少し考えて彼は言いました。

「またホップ1(最初の教材)から復習する!」

すご過ぎ・・・。
お母さん、ひと言・・・。

「そう来るか・・・。」

お見それいたしました・・・。(苦笑)

それにしても、本当に本当に私は幸せ者だなぁと、いつもいつもありがたいなぁと思うのです。
改めて皆様に感謝です。

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2007年5月18日 (金)

算数の文章題ができないのは「国語力」のせいじゃない。

すみません。明日は週の中でも一番ハードな土曜のため、早く帰って食事して休みます。(既に22時回っていますが・・・)
まだ書きかけですが、続きは近日中にUPさせて頂きますので、どうぞ宜しくお願い致します。

算数の文章題が苦手で・・・という話になると、多くの大人が「国語力」や「読解力」が足りないからだと言って、対策として「本を読みなさい」などというアドバイスをすることが少なくない。

実際、塾講師だった頃、計算はできるのに文章題になると途端にできなくなる子たちを見ながら、どうすればできるようになるのか、これだ!という答えも見つからず、図を描かせたり、問題を沢山解かせたり、国語が苦手だという子には私自身も読書を勧めたこともある。

しかし、問題にふさわしい図が描ける子は症状は軽く、文章題が苦手というほどではなかったし、描けない子にお手本を示して真似て描くように言ったところで、それをしっかりマスターして使いこなせるようになる子も限られていた。(それができる子は何度も問題を反復してマスターする努力ができる子だったりもするので、結局はそれなりには問題を解くことができる場合が多い。)

更に、見ていた中学生の中に、国語では常に学年でもかなりいい成績を取っているのに、文章題には全くというほど手が出ない男の子もいたし、沢山本を読む子でも文章題が苦手な子はやはり少なくなかった。

どうすればいいのか答えが見つからぬまま、常に何かいい方法はないのか模索し続け、あるとき伊藤先生に出会った。
しばらくレッスンを見学させて頂いたあと、先生とお話させて頂く時間を頂戴し、それまで悩んでいたこと、疑問に思っていたことなどをいくつかお尋ねさせてもらった。

その中に文章題が解けない子どもに関する話題も出たのだが、そのときの先生の言葉はその頃の私には全く信じられないものだった。

「文章題が解けないのは、その前の段階の能力がまだ身についてないからで、そこまでのことがちゃんとできてたら、文章題なんて解けて当たり前です。」

そして、こうもおっしゃった。

「子どもによったら、読み終わったら先に答えが出ちゃいますから、初めはそれでもいいです。」

先生は到って真面目に、当然のこととしておっしゃっていたのだが、これまで関わってきた子ども達を思い起こしても、どうにも素直には信じられないものがあった。(続きます)

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2007年5月17日 (木)

またも不思議な発言・・・。

昨日のこと。
ある幼児さんのレッスンを終え、よく頑張ってましたね~みたいなお話をしていたとき、お母さんが、

「でも、なぜかまだ先生は『たくあん先生』なんですけどね。なんででしょうねぇ・・・。(笑)」

と。
先日もレッスンの終わりにお話をしていたら、可愛い彼女はなぜか私のことを「たくあん先生」と呼ぶのだと教えてくださったのですが、相変わらず変化なく、私は「たくあん」だと・・・。(苦笑)

まあ、別に名前なんてどうでもいいといえばどうでもいいのですが(いいのかな?)、なぜに「たくあん」なのだろう?と。(苦笑)

しかし・・・昨日の最後のレッスンは、先日の「黄色いシャツ発言」の彼女で、レッスン後、お迎えにこられたお母さんにも一緒に、その話をしたところ、お母さんは「なんで!?なんでたくあんなんでしょうね?」とおっしゃったのですが、例の彼女・・・。

「ああ、でも、わかる~。なんかそう言われたらわかるわ~!!」

な、なんで・・・。(苦笑)

黄色いシャツ=たくあん????

けど、私のワードローブの中に黄色い服といえば、先日着ていたシャツ1枚ぐらいしかないので、普段黄色いものを着ている印象は殆どないはず・・・。

今回も、なんで?と聞いても、「ん?なんかそんな感じ・・・」と。(泣)

外国帰りでたくあんに似た私・・・。
いいのだろうか・・・。
というか・・・「たくあん似」って何よ?(苦笑)

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2007年5月16日 (水)

男心は難しい・・・。

昨日書こうと思いながら書けずに今日になってしまった話。

先週のあるレッスンで喉が渇いて泣き出した子がいたとちらりと書いたのだけれど、その真相が昨日明かされた。
思わず、私まで泣きそうになった・・・。(苦笑)

もともと、ありがたいことに、「つ」のつく年齢(注:「妻」がつくではない)にモテモテなのは以前からそれなりに感じてはいたが(ああ、なんて傲慢な表現なのだろう・・・(苦笑))、それでも男心はなかなか難しく、まあ、子どもの頃は好きな子をかえっていじめたりしてしまうという女にはよくわからない愛情表現をしてみたりする生き物だったりするのだから、わからないといえば当然なのかもしれないが、昨日のご報告は本当に全く予想外の衝撃の事実だった・・・。

理由がよくわからぬまま泣き続けた子はまだ1年生で、うちのスーパー1年生のひとりだ。幼児のときから恐ろしくよくできる子で、ただ、イヤなことをさせようとするとてきめんそれが顔や態度に表れるタイプ。
おまけに、まあ、男の子だから仕方ないとは思っているが、じっくり落ち着いて取り組むというのも現状はまだあまり得意ではない。

それでもとても賢いし、やりたくないことを怒ってまでやらせる気もないので、だらっとしていかにもやる気なさそうに取り組んでいるときには、ちょっときつく、「そんなの学校じゃまだまだやらないから、やりたくなかったら無理にやらなくってもいいよ!」なんてことは言ってきた。

ただ、キャラ的に恐ろしく可愛い子なので、大好きで、お月謝を頂いてのお付き合いでなければ、いくらでもこの子の好きなようにさせてあげるんだけど・・・とは思っている。(まあ、現実問題として無理なのだけど。)

これまではお姉ちゃんと2人のレッスンだったのだが、持てる能力に比してあまりにピリッとしないので、他の刺激があった方がいいのではと、先日から同学年の男の子にその枠に来てもらうようになった。
この男の子もスーパーなひとり。しかし、タイプが真逆という感じで、聞きわけがいいということではないのだが、問題は嫌いなものでも何でも、どんなに苦しくても、彼のこだわりで1問も抜かすことなくすごい集中力で解いていくのだ。

お姉ちゃんも与えられたものは素直にやる方なので、必然的に2人は「すごいねぇ」と褒められることが多く、残る1人は「ちゃんとやらないならもうやらなくていいよ」などの愛のない(?)言葉を投げかけられるようになってしまった。

何度も言うが、私はこの子達みんな大好きで、個人的な好き嫌いの感情で対応に差をつけたことはただの一度もない。3人の中で誰が一番好き?と真剣に聞かれても、本当に全員同率1位なのだ。

しかし・・・喉が渇いて泣いたということになってしまった彼が、その後何度も何度も本当の理由を尋ねたお母さんにようやく答えたのだそうだ。

「○○くんが一緒になってから、先生はねえ(お姉ちゃん)と○○くんとばかりしゃべって、○○(彼自身)にはしゃべってくれなくなった。先生は○○のことがキライになったんや。」

そう言ってまた泣いたのだと・・・。

まいった・・・。(苦笑)

いくら大好きだからと言って、レッスン中にだらっとしていたり、するように与えられたプリントをそっちのけできょろきょろよそ見したりしている子と、全部やらなくてもいいよと言っても1問残らずすごい集中で解いていく子に、同じように優しい言葉をかけるのは難しい・・・。

おまけに、この子はやれば恐ろしくできる子だとわかっているだけに、そこまで頑張っていないときに他の子以上に褒めるのも難しい・・・。

しかし・・・何がけなげって、教室では絶対本当の理由を口にせず、外に出てからもお母さんが何度も何度も尋ねてようやくその理由を口にしたのだと・・・。くぅぅ、涙が・・・。(苦笑)

まいった・・・。今回はかなりまいった・・・。

彼が持っている力をちゃんと発揮してしっかりやってくれれば、もちろんいくらだって褒められる。それであれば3人とも同じように褒めることができて私も何も悩まずに済む。
しかしなぁ・・・。いくらその子が好きだからって、レッスンを頑張ってくれない子を褒めるのはさすがに・・・。(泣)

ああ・・・私はどうしたら・・・。
誰かいい案ありませんか?(苦笑)
まだまだ修行が必要なようです。。。

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2007年5月15日 (火)

すいません!

多分日づけが変わってしまうので、あとで改めて更新します。
ご飯食べたら微妙にお腹が痛くて、ちょっと打つのに集中できなさそうでして…。(あ、大したことないですから、ご心配なく!)

その後、お腹痛は悪化することなく治まったのですが、そして、今日はすごくすごく書きたいことがあるのですが、どうも頭がもうまともに働いていないようです…。

実は今日は予想だにしなかった事実が発覚しました。
先週、レッスン中に泣き出して止まらなかった子が泣いた真相。
聞いて思わず私まで泣きそうになりました。

続きは明日。どうかお許しを・・・。

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2007年5月14日 (月)

「別に」という言葉

私は昔から、なんかどうでもいい言葉にこだわってしまうことがあり、例えば、子どもの頃であれば「目が悪い」という表現に対して、目は何も悪いことしてないのに可哀想・・・と思ったり、「だらしない」という言葉があるんだったら、「だらし」ってなんだろう?と思ったり、おかしなことにこだわっていた記憶がある。

で、先日来ちょっと気になっているのが「別に」という言葉だ。
広辞苑を引いても、「別に」には特に否定的な意味はない。

「(打消の語を伴って)これといって特に。特別には。」

となっているだけだ。

ただ、自分のことを振り返っても、教室の子どもたちを見ていても、この「別に」という言葉を使うときはどうもいい感じがしない。

何かやってはいけないことをしてとがめられたときに、それが特別悪いことでもない場合、子どもは「別にいいやん!」と言う。
あまり気分が乗っていなくて、おしゃべりしたくないときなどに、何か尋ねられると「別に(何もない)・・・」と答える。

少なくとも、子どもが「別にいいやん」という言い方をしたとき、その子自身多少の気のとがめがあるような気がする。そうでなくて、納得行かないことでとがめられたなら、もっと積極的に反論するだろう。

実は私はこの「別に」という言葉が嫌いだ。
しかし、思い返せば、自分も子どもの頃この言葉を使っては母親に叱られていたような気もする。

母譲りなのか、世の大人は殆どそう感じるものなのか、問題が解けないとかでは絶対怒らないが、何か人に迷惑をかけたり、ルールを守らなかったときに注意して、子どもが「別にええやん!」と言ったが最後、私の中で線がぷちんと切れる。(苦笑)

つい先日も、小さなゴミをゴミ箱ではなく床に平気で落とした子を軽く注意したら「別にいいやん!」と来た。
(ぷちん。)

「いいんやったらいいよ。帰りに掃除して帰ってもらうから。」

何でも許してくれると思っている子どもは内心かなり焦るだろう。どう言っていいか困っているであろう子に

「なんも言わへんかったら、ほんまに掃除させるで。」

ようやく「もう捨てません」と答えて一件落着。

もちろん、どっちみち教室は毎日掃除機をかけるので、小さいゴミをひとつ下に捨てられたぐらいで実際はそんな目くじらを立てるようなことではない。

ただ、カーペットの上にでさえ平気でゴミを落とす子は、道にだって平気でゴミを捨てるかもしれない。
また、自分が掃除をするのではないのであれば、掃除する人のことも思いやれるような子になってほしいのだ。

また、別の子がレッスン中にふざけて、やらなくてはいけないことをやらずに済ませようとしたときにも、やんわりと注意した私に向かって、「別にいいやんか!」と来た。
(ぷちん。)

「ええんやったら、こんなもんもうやらんでええよ。別にええんやろ?」

多分、こういうことを言っているときの私は、子どもに対して普段とは全く別人のような恐ろしいオーラを発しているはずだ。

まあ、やんちゃな男の子たちが何でも素直にハイハイ言うことをきくのもそれはそれで問題だとは思うので、ちょっとぐらいの口答えはあってもいいとは思うし、びしっと言い放った後はネチネチ言うことは絶対にしないようにしているのだが、「別に」という言葉は私にはどうも禁句のようである。

しかし・・・。
ゴミを捨てたの捨てないので怒られるのって、親御さんにしたらどうなんだろう?と思うこともある。
一応子どもたちはここに「勉強」をしにきているのだろうから、躾(と言っていいかどうか、私ごときが「躾」なんてできるとも思わないのだが、他にうまい表現がない・・・。)なんてしていらないとおっしゃる方もおられるかもしれない。

それはいつも頭の隅っこの方で気にはなるのだが、いくら勉強ができたって、社会のルールが守れなかったり、人を思いやれなかったりするような子は私にとって何の魅力もない。そんな子とは一緒に学びたいとも思わない。

というわけで、多分これからも私はこれでやっていくんだろうなと思う。
躾なんてして頂かなくって結構、勉強さえできるようになればいいのよという方には私は多分お役に立てそうにない。(苦笑)

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2007年5月13日 (日)

母の日に。

今日は母の日でした。
毎度毎度何を贈ろうか悩みつつ、ここ数年は質素なプレゼントとかしかできていなかったし、本当なら両親で旅行でもと言いたいところですが、母はもうかなり高齢の祖母をひとりで置いては絶対に泊りがけの旅行になど行けない人だということもよくわかっているので、さて、何にするかなと・・・。

でも、考えているうちにあっという間に当日になり、結局は先日用意した本と健康維持のためのサプリメントと鉢植えのカーネーションというまたまたささやかなプレゼントになってしまいました。

カーネーションは近くの、多分お花自体を自分達の土地で育てたりもしているお花屋さんで購入。ラッピングしてくれることになったのですが、和紙とかを使ってラッピングしたら200円かかるとのこと。
もちろんお願いしたのですが、可愛い柄つきのラップに和紙を重ね、リボンをかけ、その上に透明のセロハンをかけて、かなり手間のかかったラッピングです。
見ていて、200円じゃ材料代も出ないのでは?と思ってしまうほど。良心的なお店です。
なんかそれだけでも一層幸せな気持ちになりました。

で、晩は実家へ。本当は今日ぐらいゆっくりしてもらおうと、早い時間に何か食べたいものはないか電話をしたのですが、とにかく甘え下手(多分私のこれは母譲り・・・)で頑固な母は「何にも気を遣わなくっていいよ」としか言ってくれず、食べるものは色々あるからと言われて断念。
そんなこんなで母の日なのに休ませてあげることもできず、いつもの時間にお邪魔を。。。

この歳になっても嫁にも行かず(行けず?)、孫の顔も見せてあげられないっていうのに、ささやかなプレゼントを大喜びで受け取ってくれて、父にも「いいもの頂いたのよ~」と言う母。
それを聞いて、「母になってよかったねぇ。」と返す父。
ホントにこの両親の子どもでよかったなぁと思います。心からそう思えるようになって、それはとてもとても幸せなことだなと思っています。

本当に心配かけるだけで何にもしない親不幸な娘ですが、両親にはいつまでもいつまでも元気でいてほしいと思います。

スイマセン、今日は全くオチなしです。(苦笑)

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2007年5月12日 (土)

大人の時計と子どもの時計

新年度になり、週に何度かアシストの先生が入ってくださるようになった。
これまでは午後からレッスンが始まったら、最後の子が帰るまでトイレにも行けず、お水すら飲めないようなことも珍しくなかったし、途中で電話がかかってきても、話半分で切り上げなくてはならないような状態だったが、他に誰かいてくださることで、精神的な面も含め、かなり楽になった。

ただ、これまでは「子どもと私」という関係しかなかったところに、新たに「子どもと私以外の大人」という関係ができたことで、色々改めて気づくことも少なくない。

そして、またふと思ったことがある。

大人の持っている時計と子どもの持っている時計は進むスピードが違うんじゃないかってこと。

もう長らく、子どもに少々泣かれても簡単には教えないという姿勢を貫いてきたので、私にとってはそれがかなり当たり前になってきていたし、初めからそうされた子は何の抵抗もなくそのスタイルに馴染み、自分でじっくり考えるようになっていくし、機械的反復などで「考えること」をあまりやってこなかった子は泣いたりしながらも徐々に変化を見せてくれる。

結果的には限界まで待って待って、子どもに考えさせることで子ども自身が得るものはとても大きいのだなということをひしひしと感じている。

しかし、そういえば私も初めの頃は、どこまで待てばいいんだろうと迷ったし、子どもが辛そうな顔をしているとヒントを出してやらなきゃって気にもなったし、今の状態になるまでにある程度の期間を要したことを思い出す。

アシストの先生方にも極力教えないでとお願いはしているのだが、やはり私ならまだまだ平気で待てるであろうタイミングでヒントを出したりされることがある。(もちろん、それでも一般の塾や教室からすれば、かなり待ってくださっているのだが。)

その姿を見ながら、思ったのだ。
きっと、おうちでも同じようなことが起こっているのではなかろうかと。

もちろん、お仕事などがお忙しくてゆっくりとはお子さんについていられないとか、おうちの方が色々お勉強された結果、ヒントはできるだけ出さないと決めておられるとかいう方もおられるとは思う。
しかし、多くの方は我が子がじっと考え込んでいる姿を見て、「大人の時計」で時間を計って、「そろそろね・・・」とヒントを出しておられるのではなかろうか。

限界までヒントを出さず待つようになってから気づいたのだが、特に小さい子は考えて答えに辿り着くまでゆっくりゆっくりちょっとずつ進んでいく子が少なくないのだ。
ぼ~っとしているのかな?と思ってヒントを言おうかと迷っていると、ぱぁっと表情が明るくなって、次の瞬間答えるというようなことを何度も経験した。

大人が見るとぼ~っとして見えるその姿は、正に頭の中でああでもない、こうでもないと考えを巡らせていたり、真っ直ぐ正解に向かって進んではいるものの歩みが遅くてまだゴールに到着していないだけだったりするのだ。

その途中に遮ってヒントを出してしまったらどうなるだろう?

例えば、なぞなぞの答えを必死で考えている途中にヒントを言われたら、大抵の子どもは不機嫌になるだろう。
そして、そんなことを何度も何度も繰り返されたら、そのうち、なぞなぞ嫌いになってしまうかもしれないし、どうせ考えなくたってちょっと待ってたらヒント教えてくれるさと思ってしまうかもしれない。

それと同じようなことが学習中に繰り返し繰り返し行われたら・・・。
結果は同じなのではないだろうか。

子どもの時計はゆっくり進む。
ぼ~っとしているように見えても、それは一所懸命考えている途中なのかもしれない。
そして、何より、本来考えることは楽しいことのはずなのだ。

子どもと過ごすときは、大人も子どもの時計に合わせてみてはどうだろう。
そうすることで得られるものは、失うものとは比べ物にならないほど遥かに大きいはずだから。

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2007年5月11日 (金)

子どもってすごい。

明日は朝からレッスンなので早く帰らねばなりません・・・。
まだ掃除もしていないので、今日の更新は手短に・・・。どうぞお許しを。
けど、人によっては超感動してくださるかも・・・。

昨日のレッスンでの出来事。
幼児さんのレッスンで、本当は先週やるつもりだったのですが、病気でお休みだったためちょっと時期が遅れてしまったものの、「こいのぼり」のシール貼りのようなことをやりました。

あらかじめ絵が描かれた台紙に、思い思いの場所にシールを貼って完成させるのですが、ふと見ると、その子のこいのぼりは、ちゃんと貼られているものもあるのですが、支柱に対して逆さまに(ひもの方ではなく尻尾が支柱にくっついている状態)貼られているものがあるのに気づきました。

必ず正しく貼らなければならないということでもないのですが、気づいていないのかもととりあえずやんわりと尋ねてみました。

「こいのぼり、それじゃどこかに飛んでいっちゃわない?」

すると、彼女は答えました。

「こいのぼり、怒ってるの。」

は?
機嫌が悪くてそっぽを向いているという意味なんだろうか・・・と悩みながら、ふと彼女が貼っているシールに目をやると!!!!
ホントです!確かにこいのぼり「怒って」ました。

超感動!!
もう本当にびっくりして、「すごいね~~!ホントに怒ってるね~!!」と言いながらもひとり大ウケ。

見たいですか?見たいですよね?(笑)
けど、古い携帯のカメラしかなかったので、画像が悪く、見えづらいのですが、どうかお許しを。

さあ、よ~~く見てください。

まずは正しい向きの写真がこちら。これは怒っていませんよ。

Photo

  
  
  
  
  
そして、こちらが間違った向きの写真。さて、お分かりですか?
ここで感動した方は私と同レベルですよ。(それは喜ばしくない気も・・・)




2

  

  

 

見ようによってはちょっと困っているようでもある・・・。(苦笑)

それにしても、子どもって本当にすごいですね。
毎日いっぱい感動させてもらっています。

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2007年5月10日 (木)

昨日の不思議な会話。

書こうと思いながら、気づけばすっかり1日遅れになってしまいました・・・。
ど~でもいい話ですのでどうぞよろしく。(笑)

昨日のレッスンでの5年生の女の子との会話。
因みに昨日の私はレモンイエローとでも言うのでしょうか、薄めの黄色のシャツを着ておりました。

子「お休み、どっか行った?」

私「ううん、どっこも行ってない。」

子「センセ~、黄色い服着とったら、なんか外国行ったみたい。」

・・・・・・・・・。
謎過ぎる・・・。

私「なんでよ?」

子「ん?わからん。なんとなく。」

しかし・・・、確かにわからんものの、なんとなくわかるような気もするのが不思議だ。
お迎えに来られたお母さんにも言ってみたが、やはり答えは同じ。

「はぁ~、なんとなくわかるわ。」

けど、なんで?(笑)
私以外の誰かが黄色い服を着ていても、彼女には「外国行ってきたみたい」に見えるんだろうか・・・。謎だ・・・。

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2007年5月 9日 (水)

1年生の保護者の方へ

お知らせの方に書こうかとも思ったのですが、恐らくあちらをご覧くださる方はごくごく限られていると思いますので、とりあえずこちらでご案内を。

保護者向けの企画が完全に滞ったままなのですが、現在レッスンでいっぱいいっぱいの状態で、アシスタントの先生方も少しずつ慣れてくださっているところであるため、新たに何か企画するために「じっくり考える」という時間が取れずにおります。
と言っても、単に時間の使い方が下手なだけで、うまく使えばまだまだ仕事できるはずだとわかっているのですが・・・。

ただ、大人はともかく、子どもはどんどん成長していきますし、特に幼い頃の1年は大人の5年、10年、場合によってはそれ以上に重要な時間だったりもすると思いますので、まだ企画ともいえないほどぼんやりしたご提案なのですが、ちょっと考えていることをお知らせします。

教室に通ってくださっている方はお読み頂かなくって大丈夫です。
今回のご提案は、現在教室に通ってくださっていない、もしくは通いたいけど距離的なものなどで難しいという方で、1年生のお子さんをお持ちのおうちの方へ向けてのものです。

私の教室の子達は入会して数ヶ月しっかりたっぷり使う、20までの数の数量感を身につけるためにとても役立つ、素晴らしい教具があります。

現在の教科書では1年生では計算としては20までの足す引くしか学習しないようですので、その教具をたっぷり1年利用できるとも言えるかと思います。
見れば単純なものなのですが、よく考えられており、子ども達は遊び感覚で20までの足す引くを身につけていくことができる優れものです。

ピ○マリオンのこちらのサイトで通信販売もされていますので、それを購入されて利用されるのもお勧めです。
これまで見られた大人の方は皆さん、「面白いですね」、「いいですね」と言った評価をくださっているので、購入してがっかりということはほぼないのではと思います。

20までの足す引くの考え方がしっかり身につけば、100まで、1000までと増えていってもそう苦戦することはないと思いますし、初めの段階でしっかり数量感を身につけつつ学習するというのはやはりとても効果が大きいと思うのです。

実際、いつどんな風にするかということはまだ全く具体的に考えておらず、ご希望がない場合はそのまま立ち消えになるとも思いますが、もしもその教具の使い方、家庭での学習の進め方などの保護者向け講習会があれば参加してみたいという方がおられましたら、今の段階ではお名前なども伏せて頂いていても構いませんので、ご連絡を頂けたらと思います。

ご連絡はメールでもコメント欄でも構いません。
数名でもご希望の方がおられましたら、具体的に計画したいと思います。
とにかく、学校などで反復で覚えこまされる学習をする前に、これで学習されたら、お子さんも楽しくしっかり身につくことはかなり間違いありません。(少なくともドリルやプリントで何度も何度も練習することに比べたら雲泥の差だと思います。)

今回の講習の場合、1年生または現在年長のお子さんをお持ちの方であれば、1回ご参加頂けばそれで後はご家庭で取り組んで頂けるのではと思う内容です。(2年生で既に算数が苦手になってしまっているお子さんにも効果は十分望めるのではと思います。)

信じて頂けるかどうかはわかりませんが、実際、わざわざそれを企画しなくても仕事に手が回り切っていないぐらいですので、ご希望の方がおられなくても構わないのですが、1年生には絶対お勧めできると思っておりますため、時期を逸しないうちにひとまずご案内させて頂きました。

ご興味がおありの方はお気軽にお問い合わせください。

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2007年5月 8日 (火)

今日はなんかみんな不調・・・。(苦笑)

子どもでも連休疲れが出ているのか、連休で生活のリズムが狂ったのか、今日はどの子もイマイチ不調。
前回はスラスラできていたことができなくなっていたり、普段ならパッとひらめくはずのことに非常に反応が鈍かったり、挙げ句…終盤のレッスンの子なんて喉が渇いたのに耐えかねて泣き出すし・・・。(苦笑)

まあ、私自身、連休中に(と言っても完全なオフでの連休は2連休しかありませんでしたが)ペースがガタガタになったため、今日は割と楽な曜日なのに既に眠気が襲ってきていますしね。(苦笑)

これで夏休みまでまとまったお休みはないし、またボチボチペースを取り戻してもらいましょうか。

因みに、今日は大先生と懇意にされているある社長がわざわざこんな小さな教室までお運びくださり、1時間ほどお話をさせて頂きました。
と言っても、教材に関する要望をほぼ一方的にお伝えしまくったような感じでしたが。(苦笑)

ですが、いつ頃から感じるようになったのか覚えていませんが、充実している方の持つ空気感というかオーラというか、そういうものって本当にいいですね。

先日、滅多にないことに塾長さんたちの会に参加させてもらったときにも感じましたが、仕事のできる方、仕事(もしくは人生そのもの)が充実している方は本当にいいお顔をしています。
なんでしょうね。顔のつやとか目の輝きとか目力とか・・・。いいですね、そういう方の空気に触れるのは。

さて、連休ボケしている場合じゃありませんね。
また気持ちを引き締めて頑張らなければ!

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2007年5月 7日 (月)

分数計算って難しいの?

先日、ある先生のブログに「分数計算は難しいので、そこをできるようにすれば差がつけられる」というようなことが書いてあるのを見た。
ちょうどその後、他塾の先生方にお会いする機会があったのでチラッと話題に出したのだが、どうやらそれは普通の感覚のようだ。

しかし・・・私にはどうにもぴんとこないのだ。
というか、もしかしたら塾に勤めていた頃であれば、「そうよね、そうよね」と思っていたのかもしれないのだが、残念ながらそのときの記憶はもう残っていない。
今私が関わっている子達で分数計算が他の計算に比べて難しいと感じている子は誰もいないように思うのだ。

特に、低学年から見ている現在高学年になったスーパーちゃん、スーパーくんたちに到っては、分数計算はいとも簡単なものなのである。

実際、つい先日、5年ながらも既に6年の教材の1学期範囲を終えてしまっているスーパーちゃんたちが異分母分数の足し算・引き算の単元に辿り着いたとき、ひとりの子が言ったのだ。

「うそぉ~、こんなん6年でやるん?超かんた~ん♪」

そう言ったかと思えば、殆ど何も言わなくてもすいすい解いていく。
この子達は約分についても、同じ数で割ってねと言わなくっても「もっと簡単にできる?」と尋ねれば勝手に約分までやってのける。
「分数×整数」、「分数÷整数」も「分数×分数」も彼女らは楽々クリアだ。

唯一「分数÷分数」だけはイメージがしづらいため、若干テクニックで解いてしまうところはあったが、実際、分数自体が割り算なのに、分数の割り算というもの自体がややイメージしづらいものなのだから、それはやむを得ないだろうと思う。
(例えば3/4÷2/5というような式は(3÷4)÷(2÷5)ということで、こう書いただけでも既に訳がわからない。(笑))

そういえば、若干話がそれるが、そのわけのわからない分数÷分数の単元の文章題を解くとき、何も言わなければひとりの子はこんな式で解いていた。

確か、3/4リットルが2/3キログラムのお米があり、1リットルの重さを求める問題だったのだが、特に何も言わずに考えてもらったところ、彼女のワークにはこんな式が書かれていた。

「2/3÷3×4=8/9」

ある意味、この式は完全に大きさがイメージできているからこそ作れる式なのではないだろうか。
3つ分で2/3キロで、今知りたいのは4つ分(4分の4=1)とわかっているからこそ、この式で解いているのだ。

この子達にとって、分数計算が難しいなんて言われても、到底理解できないことだろう。
しかし、これは全て量の感覚、大きさの感覚をきちんと身につけてきたからというだけのことであって、何も無理に暗記させたわけでもなければ、沢山練習させたわけでもない。
おまけに4年や5年になってからは、教具を使う機会も殆どなくなってしまい、基本的に説明はせず、まずやってみてわからないところだけヒントを出すという形を貫いているのに、ほぼ説明なしでどんどんクリアしていくのだ。

この子たちを見ながら、改めて数量感覚が身についていること、イメージできることがいかに大切であるかということを感じる。
また、それが身についていれば小学校で習うぐらいのものなら、(多分この子達は中学で習う数学もそう苦労しないだろうと予想しているが)いとも容易く理解してしまうものなのだなと、そんなことをしみじみ思うのである。

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2007年5月 6日 (日)

イメージのギャップ。(休日ネタ)

というか・・・ブログのタイトルに「ネタ」と書いてしまうあたり、生粋の関西人だなぁと思ったわけですが、世の中は今日が連休最終日。明日からはまたお仕事という方も多いのでしょうね。私は昨日今日はちょっと仕事が入っていたので、あまり休日の実感はありませんでしたが。

で、まともなことも書きかけてはいるのですが、もうじき実家に出かけるので、さらっと更新を。因みに極めてど~~~~でもいい話ですので、お忙しい方はお読みになられませんよう。(笑)

ここ最近、同級生達と掲示板やメールなどで色々な話をする。
小学校のクラス会での再会ということで、長い子だと27、8年ぶり(あ、歳がバレる!(笑))、今も付き合いが続いている子以外は短くても十数年ぶりの再会。それぞれの中に残るその子その子のイメージは小中学校でのイメージのままというわけだ。

私はクラス会の後日の集まりに参加させてもらったのだが、そのときに、小中学生の頃優等生だった女の子が参加していた。私から見ても彼女はスラッと背が高く、勉強もスポーツもよくできて、おまけにピアノもずっとやっているお嬢様的存在。
同級生のみんなもほぼ同様の見解だった。

しかし、不思議でならないのは、小中学校時代の同級生に会うと、ほぼ必ず言われるのが「優等生だった」とか「賢かった」とかいうこと。この私が…?
正直なところ、なんだかんだ目立つ子どもであったのは自覚があるものの、勉強の成績に関しては中の上か上の下あたりで、決してみんなから優等生といってもらえるようなすごいものではなかった。
それに、通知簿を公開するわけでもなければ、テストの順位を貼り出すわけでもないのに、どうして多くの子がそういう認識をしているのか、私には不思議でならない。

まあ、成績に関しては学級委員をしたり、生徒会役員をしたりという方のイメージが、勝手に「賢い」というイメージを作り上げてしまったのだとして、つい昨日、言われたことは私にとってはホントのホントに、「は?私ってどんなイメージなん?」と思ってしまった。

実はここ最近に始まったわけではなく、子どもの頃からしょっちゅうコタツで寝てしまって朝まで起きなかったりということはあったが、大人になってもそれはなかなか改まらず、冬にはよくホットカーペットに座椅子でそのまま朝まで・・・なんてことも珍しくない。

おまけにここ最近ちょっと私にとっては忙しい日々が続いていたりもして、ご飯食べた後、化粧したまま寝てしまうことも、悲しいかな全然珍しいことではない。
最近掲示板で話をするようになり、「化粧したまま寝落ちしました・・・」とか書いているのを見て、同級生達が「寝落ちの女王」なんて名前も付けてくれたのだが、私にはよく似合う名前だなぁと反論の余地もない。

なのに、同級生の男子にはとても意外なことのようなのだ。
「俺らからしたら超優等生やった○○が化粧したままパソコンの前で寝落ちやろ~~。想像できへんわ~!」
なんて調子で大ウケである・・・。

そういえば、新潟の寺子屋先生にも、よく座椅子寝をすると言ったら「イメージが・・・」と何度も言われたっけ・・・。

てか・・・一体どの辺が「想像外」なんだか、私にはちっとも・・・。
子どもの頃から手にものを持っていたら引き戸を足で開けるなんてことは当然で、しょっちゅう母親に叱られていたし、その後もずっと運動部。女らしいとか上品とかいうイメージとは対極にあるのに、何が不思議なんだろう?

はて?

そういえば、子ども達にとっての私ってどんなイメージなんだろうなぁ・・・。

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2007年5月 5日 (土)

昨日の出来事。

久しぶりに2連休で、普段完全に放棄している家事を昨日は少し片付けました。
ただ、掃除機をかけようとしたとき、スティック型の掃除機が持ち手が倒れパソコンの液晶画面に激突。壊れはしなかったものの、液晶画面の真ん中あたりにくっきりと目立つ傷が。
ああ・・・なんかやな感じ・・・と思っていたところ、夜遅くにブログにコメントがつきました。

それも、恐らく何かの検索で辿り着かれたのでしょう。かなり古い記事へのコメント。
読書のブログの方も含め、これまで頂いたコメントは、どんなものでも基本的に削除したことはありません。(記憶にはありませんが、迷惑なサイトなどからのコメントなどであれば削除したかもしれませんが。)

特に、読書のほうではかなり嫌な感じのコメントを頂いたこともあり、余程削除しようかとも思いましたが、どうしてもできず、どんなものにもお返事を返してきました。

そして昨日。
卒論のことを書いていた記事にコメントがつきました。正直なところ、あの文章は学校批判をしたわけでもなければ、先生批判をしたわけでもない。現場の先生方がお忙しいことなど重々わかっているつもりですし、私自身、いい先生方に恵まれて今があると思っているわけですから、そんなことをするつもりは毛頭ないのです。

ただ、学生時代に大流行した法則化運動の中には明らかにおかしいと思うものがあったのは事実ですし、それについての意見、感じたことをブログにも書いたまででした。

なのに、予想もしないコメント。
おまけに、このブログは一応アクセス解析ができるので、見てみたところ、卒論に関しては何度かに分けて記事をUPしているのですが、コメントをくださった方は解析を見る限り(1)しか踏んでおられない。

にも関わらず、私にないのは「常識」だと断言なさる。
そのくせ「通りすがり」のハンドルで書いておられる。

こんなコメントは削除してしまうべきなのかとも思いましたが、いきなり書き出しにすぐ削除されるだろうと書いてあるため、敢えて残すことにしました。

幸い、普段は本当にあたたかいコメントを頂くことが多く、いつも皆さんには感謝しています。
ただ、時々紛れ込む、どこの誰かも明かさない(もちろん、ハンドルネームなどでのコメントは構わないのですが、「通りすがり」であるとか、名前が空欄であるとか・・・)方のコメントはどう受け止めるべきなのかちょっと考えてしまいました。

ただ、余程荒らしのような状態にでもならない限り、多分今後も頂いたコメントは削除はしないだろうと思います。
ですが、私はこのブログをお子さんを持つ親御さん、お子さんの指導にあたる先生方などに読んで頂けたらと、自分なりに真剣に書いているつもりです。

もちろん、教育にはこれが絶対の正解だというものもありませんし、そもそもものの考え方や価値観は人それぞれ違っているわけですから、私の意見が常に正しいなどと思ったことはありませんし、むしろ、子どもと共に学んでいる人間の中では少数派なのではないかと思っています。

まあ、そういう意味では世間の多くの方の基準を「常識」というのであれば、私は通りすがりの方が書かれたように「常識がない」のかもしれませんね。

それでも、こういう考えの人間もいるのだと、それでもいいじゃないかと思っていますので、きっとこれからも書き続けます。

しっかり読んでくださった上での反論はもちろんして頂いて構いません。そうして頂くことで私も新たな気づきを得るかもしれませんし。
ただ、できることならご自分のご意見なのですから、「通りすがり」で書いていかれるのはご遠慮頂けたらありがたいなと思います。

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2007年5月 4日 (金)

大人気ない私。(休日ネタ)

真面目なことも一応色々考えてはいるのですが、世の中は連休中。読みにきてくださる方も限られていますし、休日モードでお気楽な話題を。

先日の教室に来てくれている5年生の女の子との会話。
彼女は弟くんが新1年生で、彼は年長さんのときから通ってくれていましたが、そのとき既に4年生だった彼女は別の塾に通っており、学年的にも今更うちに来てもらっても・・・という状態だったため、まずは弟くんだけが通ってくれるようになりました。

結局はその後、彼女も来てくれるようになったのですが、普段弟くんがおうちで宿題などをやっているのを見て、彼女は色々発見するようです。
「ああ、そうやったら簡単やなぁ」とか「そうすれば早くできるんや~」とかいった具合に。
そして、しばしば彼女から「なんで私のときには見つけてくれへんかったんよ」と責められるのだとお母さんから聞いてもいましたが、教室ができたときには既に1年生の夏だったはずで、おまけにその頃はまだ表から見えないところでひっそりと生息していたこともあり、責められてもお母さんにはどうしようもありません。(笑)

すると、つい先日とうとう矛先が私に・・・。(笑)

「せんせ~、なんで私のときにはやってなかったんよぉ。私もこれでやりたかったわ。そしたらもっと賢なれたのに~。」

責められてもこればっかりはどうしようもありません。(因みに彼女は十二分に賢いんですけど・・・。(笑))
そこで私の返した言葉は・・・。

「私もこれでやりたかったわ~!そしたら私ももっと賢くなれたかもしれんのに~。」

彼女、反論できず。(笑)

やったことのない子どもが見ても、楽しそう、賢くなりそう、そう思える学習ということは本当に嬉しいことですが、私自身、この学習法に出会ったとき「ああ、私もこれでやりたかった」と思ったところからこの教室が始まっているのです。

現在、教室でお受けできる枠はもう殆どないのですが、ご家庭でも取り組める教材ですので、もしご興味のある方はご遠慮なくお尋ねくださいね。

そうそう。これもついでに。
彼女らのお母さんがおっしゃっていたのですが、私が広告に書いている文章を読んで(教室のホームページにも同じようなことを書いていますが)、

「そ~んなことあるかい!って思ってたんですけどね、なんか気になって。」

とのこと。
そんな上手い話あるはずないと思いながらも尋ねてくださったからこそ彼女達と出会えたので、その勇気(?)には本当に感謝していますが、少なくともセールストークではないのは我ながら自信があります。(笑)
勧誘もしませんし、(それこそ、この親子が来てくださったとき、体験後、その場で即入会を決めてくださったお母さまに「決めてしまって宜しいんですか?」とこちらから聞き返したぐらいですし・・・)なんか気になる・・・と思ってくださっている方がおられましたら、お子さんのためにもお気軽にお尋ねくださいませ。

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2007年5月 3日 (木)

今日は休みました!

今日明日はレッスンが入っていないので、今のうちにちょっとでも溜まっている仕事や普段やりたいのに手をつけられていない仕事を進めなきゃと思っていたのですが、今日の江原さんのダイアリーの言葉がいきなりこれ。

「休みの日は、仕事のことはきれいに忘れましょう。仕事と休みのメリハリをつけると、日々の充実度が格段にアップします。」

まあ、普段もたまの休日はこれでもかってぐらいダラダラ、ぐ~たらしてしまうのですが、今回は明日もお休みですし、土日は仕事とはいえ、レッスンが2つずつあるぐらいのものなので、その日は出勤してそのまま仕事してもいいしなぁと、今日は仕事をしないことに。

けど、完全に仕事に染まりきった生活に慣れ切っているため、スパッと考えずに・・・というのはやはり無理でした。(苦笑)
おまけに今日は木曜だったので読書のブログも更新しなきゃでしたし。。。

ですが、晩は友人とご飯に行って、本当に仕事らしい仕事は全くせずのんびりしました。(因みに家事もしていない・・・。)
最近はちょっとバタバタし過ぎていて、仕事が追いついていないため、休んでいてもずっと頭のどこかで気になっている感じなのですが、多分それが続くとストレスになっていくんだろうなとも思うので、これからは休むときは休む!とメリハリをつけたいなと思ったのでありました。(今日は内容がなくってスイマセン・・・。)

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2007年5月 2日 (水)

褒めること

子ども達は褒められることが少ないんだろうか?

もともと、ピ○マリオンの指導で最も重視することのひとつが答えを間違えたり、できなかったりしても怒らないこと、できたことを認め、褒めることというものがあるのだが、私自身、ピ○マリオンに出会う前から、子どもの間違いに大きなペケを付けることには抵抗があったし、ペケは極力小さくして、もう一度考えてもらうようにしていた。

ピ○マリオンに出会ってからはペケ自体をつけることもなくなったり、できたことを褒める機会は更に増えはしたが、とりわけ意識的に褒めているわけでもないし、以前にも書いたが、心からの言葉でなければ子どもには見透かされてしまいそうな気もしているので、本当に思ったときでなければとってつけたように褒めることもない。

毎日がそうなので、褒めるということをとりわけ意識することもなくなっているのだが、体験などに来てくれた子達が帰ってからおうちで必ずというぐらい褒められたことが嬉しかったと言ってくれるようなのだ。

つい先日体験に来てくれて入会してくれた子のお母さんからメールを頂いたのだが、そこにも頭がいいと褒めてくれたのが嬉しかったらしいと書いてくださっていたし、更には間違えたときに「急ぎすぎて間違っているよ」と優しく言ってくれたのが嬉しかったようですというようなことまで書いてくださっていて、正直びっくりしてしまった。

指導の際、成功体験を積ませるようにということも意識しなければならないことのひとつとして挙げられているのだが、間違えたときも子どものプライドを傷つけないよう多少の意識はする。

うっかり間違えたっぽい間違いは「ホントかなぁ?」とか「ここもう一回見てね」とか言ったり、もう時間が後半になってぼ~っとし出した子であれば、「もう疲れてきたかな、ここちょっと変じゃない?」とか言ったり、状況に応じて子どもが傷つかないような表現にするようにはしているが、それを子どもがそんなに嬉しいこととして受け止めてくれているとは思っていなかった。

子どもは自分を認め、評価し、褒めてくれる人間に対しては持てる能力をフルに使って、その素晴らしい姿を見せてくれるのではないかと思ったりする。
そういえば、それが「ピ○マリオン効果」って呼ばれるものだったっけ?

私の見る子ども達は本当にすごい。
すごいと思うから褒めるし、驚きもする。
けれど、子ども達は意外にも心からの褒め言葉をもらうことが少ないのかもしれない。

子どもは無力でものを知らなくって、難しいことはできないというのは大人の思い込みに過ぎない。
時には大人より遥かにすごい能力を発揮したりするし、知らなかったことを吸収してマスターしてしまう速度など殆どの大人はおよそ叶わないだろう。

目の前の子どもをじっくり見守ってみてほしい。
思った以上に色んなことができているはずだから。

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2007年5月 1日 (火)

機械的反復学習について思ったこと

先日来、書こう書こうと思いながらなかなかじっくり考える時間が取れず、先延ばしになっていたのだけれど、プリントによる大量の機械的反復学習について、先日ふと、ああそういうことか?と思ったことがある。

以前から、伊藤先生や糸山先生を始めとする素晴らしい先生方が幼児・低学年期に大量のプリントでの機械的反復学習の強烈な副作用について述べておられるし、私自身、これまで関わった子達を見ていても、先生方がおっしゃっていることは基本的にその通りだと感じる。

ただ、先日読んだ栗田先生の著書の中に、数学オリンピックに行くようなレベルの子達の多くが小さい頃に上述の学習法をやっていたというような記述があり、そのときは、単に小さい頃から通える勉強の教室が限られていることなど、たまたまそうだっただけで、また、副作用も全ての子どもに出るとは限らないだろうから、その例外の子達なのでは?と思ったりもした。
しかし、栗田先生の書いておられることは基本的に納得でき、共感できることが多かったこともあり、なんだかそこがずっとひっかかってもいた。

それが、先日「らくだ学習法」を読んでいたときに、ああ、そういうことかな・・・と思ったことがある。まあ、改めての発見ってほどのことでもなく、人からすればそんなの当然なのでは?と思われる気もするのだが、自分としてはなんだかちょっとすっきりしたので(といっても、あくまでも予想なので外れているかもしれないが)書いてみようと思う。

「らくだ・・・」の、平井氏がいかに教えずに子どもに理解させるかに心を砕いたというプリント教材を見ながら、同じプリントを与えても子どもには大きく分けて2種類の子がいるのではないかという気がしたのだ。

ひとつはただひたすら機械的に量をこなし、丸暗記に近い状態で反復していく子。このタイプは一定期間以上その方法で学習を続けると、恐らく強烈な副作用を生じるタイプなのではないかと思う。プリント反復塾で途中で挫折してリタイヤする子の多くがこちらのタイプなのではないだろうか。

そして、もうひとつはもともと数量感覚が何かで身についているとか、数への興味が強いとか(うちのスーパー幼児やスーパー低学年たちのような)いうタイプの子で、幸運にも式を見たときに数がイメージできるような状態があり、その上で、単に暗記的な学習ではなく、法則性などを発見しようと試みる子。私はあまり詳しくはないのだが、そういう教室で1、2学年ではなく、3学年やもっと先の学年の範囲までそう苦もなく進んでいくタイプの子がいるとすれば、そういう子はこちらのタイプなのではないだろうか。

実際、教室に来てくれている子ども達にもやはり個人差はかなりあり、親御さんが特に何も教えていないのに、恐ろしく数量感覚が優れている子もいるし、その逆もいる。
仮に、数量感覚が抜群に優れている子があの学習法で学んだ場合、更に抜群に飛びぬけるということがあるのかもしれない。

何度も言っているが、私自身、高学年以降の大量反復自体は特に否定する気もないし、ある面では絶対必要なところもあるのかもとも思っている。
実際、私自身、空間把握についてはどちらかというと苦手としてきたので、展開図の問題や積み木の数を問われる問題、パズル系の問題でもサイコロなどの問題などは量をこなしていくうちに法則を発見したり、コツをつかんだりという経験もあり、ある程度こなさなければ身につかないものもあるのだとは思っている。

少なくとも、1年目とかでもなかなかプリントが次の段階に進まないであるとか、プリントはやっているけどどうも数量感覚は全然伴っていないようであるとか、そういう子には機械的反復学習は害にしかならないということなのかもしれない。

全て予想、仮定の話なので、全然違っているかもしれないが、ぼんやりそんなことを思った。
ただ、もし仮に何学年も先まで進んでしまえるような子が、その学習法ではなく、うちの教室の子達がやっているような学習をしたらどうなっていたのか、できることなら是非確かめてみたいものだが…。(もちろんそれは無理なことなのだが…。)

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