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2007年2月28日 (水)

慣れって恐ろしい・・・。

現在、新年度の時間割をあ~じゃない、こ~じゃないと、あれこれ頭を悩ませつつ組んでいるのだが、今週に5コマも来てくれている6年コンビと週2コマ来てくれている中3ちゃんなどの枠が空き、そこに新しい方も含めて割り振って、ある程度大枠が決まってきた。(まだ確定できないところがあり悩み中なのだが。)

すると、思ったよりはなんとかなりそうな時間割で、早い時間や遅い時間にはもしかしたら空きのコマができるかも(いや、本当に「かも」なのでまだなんとも言えないが・・・)という状態になった。

それを見て、つい・・・(なんだ、まだここにもここにも来てもらえるや。)と思ってしまった。

しかし・・・よくよく考えると、それは大きな間違いのような気がする・・・。
だって、その「空き」と感じているところが全部埋まったら、実は今より更に身動きの取れない、もうどうにもこうにもならない時間割が完成するのだ。(苦笑)

それにしても慣れってのは恐ろしいもので、少し前までは1日に5レッスンとかってのは(うわぁ、5レッスンもある!)って感じだったのに、既に(なんだ、今日は5レッスンでいいのか。)ってぐらいになってしまっている。

しかし、新年度は今年の初めに目標として色々挙げたことをやるためにも、レッスンだけでがちがちに埋めてしまったらいけないんだったと思い出した。(よかった・・・埋めてしまう前に気づいて・・・。)

というわけで、新年度のタイムテーブルは3月半ばまでにはお知らせできるかと思うのだけれど、土曜日は別として、平日は平均1日5レッスンまでにとどめさせて頂こうと思っている。

とにかく体が資本なもので、無理し過ぎて、子ども達にイライラ、キリキリしないためにも、当面はその方向で計画させて頂こうと思っている。
皆様何卒ご理解の程・・・。

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2007年2月27日 (火)

まだまだだな・・・。

今日はちょっと色んな意味で反省した。
もちろん、日々子ども達と幸せな時間を過ごしてはいるけれど、やはり色々考えるし、迷うし、悩みもする。

まあ、幸い小さい子たちは概ね問題ないし、小さい頃から来てくれて高学年になっている子たちもほぼ問題ない。(もちろん、単元などによっては気になることがあったり、気になる子どもがいたりするのは当然だけれど。)
しかし、中学生だけは自分の中でまだ完全な切り替えができていないところがあるんだなと、今日改めて感じた。

小学生についてはある程度、これで行こうというものが見えてきた。もちろんまだ試行錯誤のところや改良せねばならないところ、補強したいところなどは色々あるものの、大筋でこれというのが確立してきたかなと思っている。

ただ、中学生になってから受け入れた中学生に関しては、自分の中でまだ塾に勤めていたときの経験での判断が捨て切れずにいるようだ。

幼児や低学年であれば、「なんでできないの?!」という言葉を口にすることはまずあり得ない。
まだ理解できていないのだから、さてどうしようかなという対応を考える。

しかし、高学年や中学生になってくると、やはりどこかで「このぐらいはできて当たり前」という基準を持ってしまっているのだ。
例えば中学生なのに、小学校3、4年ぐらいで習っているはずの漢字が読めなかったり、算数が解けなかったりすると、ついつい「なんで!?」という言葉が出てしまう。

新年度からは中学生の募集を一旦クローズすることにした理由はそこにもあるのだが、週1回だけでは、少なくとも小学校内容は理解している子でなければ、学校の進度に合わせて進んでいくことが私の力量ではほぼ不可能なのだ。

これまでにかなりの部分を取りこぼしてきている子であれば、小学校の復習問題を家でやってきてと言ったところでやはり限界がある。
それを「家で」「ひとりで」やれるぐらいなら、そんな状態にまでなっていないであろうと予想できるからだ。(まあ、例外もあるだろうが。)

しかし、週2回にすればそれだけご家庭の負担も増えるし、また、受け入れる枠が限られているのもあって、中途半端にしか対応できないのなら、中学生は一旦クローズしようと思ったのだ。

それでも、今来てくれている子達にはやれるだけのことをやらねばならない。
そう思って、あれこれ頭を悩ませるのだが、ある子に対し、思い切ってうんと戻ってみようと4年生まで戻ったところ、普通それはないだろ?ということを連発する。

「球の切り口の形は?」という問いに「半分」という答えが書かれていた。
1辺が9センチの正方形の面積は36平方センチだそうだ。
「10兆を7個集めたら・・・」という類の問題は「10000000000000×7」の筆算が書かれていた。(それをやろうという根性はすごいと思う。)

初めのうち、あり得ない答えが書かれるのを見るたび、「なんで?!」と強い口調で責めてしまった。
しかし、責めても仕方ないのだ。彼はふざけている訳ではないのだから。

途中で自分を反省した。

この状態で中学の数学をやっていたのなら、そりゃ辛かっただろう。
というか、この子は一体いつまで学校の授業がきちんとわかっていたんだろう・・・。

もちろん、全ての単元を取りこぼしているわけではなく、計算などはそれなりにはできている。しかし、それだけではこの先到底どうにもならなくなってくる。

中1の2学期頃までは計算系のものがメインだっただけに、なかなか気づけずここまで来てしまった。本当に申し訳なかったと思う。
戻ってやり直して、いつ学校に追いつけるかはわからないけれど、今はやれる限りのことをやるしかない。

もう一度きちんと肝に銘じよう。
小さい子だからできないのでも、大きい子だからできるのでもない。
その子にとってできないものはできないのであり、できないことを責めても何の解決にもならないのだということを。

真剣に考えているのに、予想もしない答えを書くということは、それが全く理解できていないということでしかないのだ。ただそれだけのことなのだ。
その事実を突きつけられて感情的になってはいけないのだ。

今日はそのことをもう一度しっかり心に刻もう。

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2007年2月26日 (月)

久々の連休。

このところ慢性的にバタバタしていて、一体いつからだったのかわかっていなかったけれど、どうやら4週連続で日曜にレッスンをしていたようで、正に1ヶ月ぶりの2連休。

普段当たり前に週2日休んでいたときには全然感じなかったのに、今回はしみじみと「ああ・・・連休ってありがたい・・・」と感じた。

さすがに自分でもちょっと限界が近い気がしたので、今週は敢えて振替などのレッスンも入れずに休ませて頂いたのだが、本当によかったと思う。

もちろん、そうは言っても仕事関係のことに費やした時間は結構あるし、実際今も教室でこのブログを打っている。
数週間、ずっとずっと打たねばと思っていたお知らせのレターや年間スケジュールもどうにか仕上がったし、読書のブログも記事のストックを2つ打つことができた。って感じで、結局はかなり「仕事」はしていた。

それでも、なんだか久しぶりにちょっと人間らしい(?)2日間だったように思う。久々に(スイマセン・・・ホントに無精者なもので・・・)家の掃除もし、アイロンかけやタンスの整理もし、ずっと行けなかった銀行にも行き、ひと月以上前から直さなきゃと思っていた靴のかかともようやく直しに行けた。(社会人としても、女としてもどうなの?と思う・・・。(苦笑))

ブログを見ていると、特に男性の塾長さんは寝る間も惜しんでバリバリやっておられる方が大勢おられる。
特にこの時期は普通の塾は皆、1年で一番忙しい時期だろう。
それを思えば私などまだまだなんてことはないのだけれど、子ども達に向き合うとき、私自身に余裕がないと絶対いいレッスンができないように思うのだ。

だから私は睡眠時間も削らないし、極力食事もする。本も読むし、ブログも書く。
それが全て「子ども達とのレッスン」のために必要だと思っているから。

あと数日で2月も終わる。
いよいよ春がやってくる。

3月からは最低月1回、できれば月2回は連休(というか、2日連続でレッスンを入れない日)を作ろうと、改めて思った2日間だった。

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友人が教えてくれました。

昨日の私のブログ。
教員である友人が参考にと教えてくれました。
片方は、そう言われればそうかって思いましたが、もう一方は全く知らなかったので、そんなことまで決まってるんだなぁって思いました。

ので、ついでにちょっとご紹介を。

卒業式がいつであっても、3月31日までは中学生だと。
そう言われればそうでしたね。確かにそうだ。卒業証書を渡したから中学生じゃなくなるって訳じゃないんですね。

で、こっちは知らなかったんですけども、慣例とかってことではなく

「中学校は義務教育を卒業する時に生徒の進路を保障しなくてはなりません。」

なのだそうです。
因みに「進路」は進学という意味ではないとのこと。(それはそうですね、もちろん。)
スイマセン・・・何にも知らなくって。

中学校が卒業後も責任もって面倒を見てくださることはわかって、すっきりしましたが、それでも他の都道府県で卒業前に入試があるところが沢山あるのであれば、何も卒業後に設定しなくてもと思ってしまうのは私だけでしょうか?(苦笑)

それはともかく、忙しい中教えてくれた友人に深く感謝。

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2007年2月25日 (日)

考えたことなかったけど・・・。

私は神戸生まれ、神戸育ち、学校も仕事も神戸から外に出たことのない生粋の神戸っ子なので、神戸のこと以外殆ど知らない。
特に、入試やらの仕組みについては他県のことを調べる機会も必要も、これまでずっとなかったので、公立の試験なのだからみんな同じような時期なんだろうと思っていた。

それが、ブログなどを通じてお知り合いになった塾長先生方のお話では、「明日は公立入試だ・・・」とか、「入試が1週間後に迫った・・・」とか書かれているではないか。
あれ?公立入試なのにそんなに早いの?と思ったのだが、よくよく考えてみると、おかしいのは兵庫県の方なのでは?と気づいた。

自分達の頃も今も、ずっと変わらず、兵庫県の公立入試(推薦や特色科入試を除く、普通の、最も大多数の子達が受ける入試)は卒業式の後なのだ。

卒業式が済んで、先生方に見送られた翌日、再びみんな中学校に集まって入試の注意などの説明を受け、その翌日入試に向かう。
合格発表は更にその後。万一試験に失敗して、併願校を受けていなかったりすれば、そこから二次募集だのなんだのを当たって受験せねばならない。

それは兵庫県の公立中学生達にとっては当たり前のことになっているような気がする。(私自身、ずっとそういうものなんだと思っていたし。)
卒業式と言っても、まだ翌日以降も先生や同級生に会えるし、何よりまだ卒業後の進路が決まっていない子が殆どである状況では、卒業の感慨にもそうゆっくりと浸っているわけにはいかない。
涙もそこそこに翌々日の試験に向けて、気持ちを集中させねばならないのだ。

しかし、よく考えたら、これは恐ろしくめちゃくちゃな日程なのではないんだろうか?
慣例として、中学校の先生方は卒業生達の行き先が決まるまで世話をしてくれる。けれど、実はもうその学校の生徒ではなくなっている子達である。
もし、何かの拍子で先生方が、「卒業生はもううちの生徒じゃないから面倒は見ません」と言ったところで、それ自体本来間違ったことを言っているわけではないだろう。(もちろん、そんなことになったら大変だし、そんなことをする先生方もおられないと思うが。)

おまけに、恐らく大多数の子ども達が進路が定まらぬまま中学校を卒業するのだ。
私立専願や公立推薦で進路が決まっている子、専門学校進学や就職などで進路が決まっている子の方が圧倒的に少数である。

よく考えたら、これっておかしいんじゃないの?

どうして兵庫県はそんな変な日程で公立入試を続けているんだろう?
どなたかご存知??

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2007年2月24日 (土)

嬉しかった言葉

昨日、ある理系のスペシャリストの方の口から当たり前のように出た言葉がなんともいえず嬉しくて、もうホント、拡声器で何回でも繰り返し叫びたい気分だった。

その方は、もう私なんてミジンコ級になってしまうほどの理系のバリバリの方。
その方がお子さんの学習に関して、すごく当たり前のこととしておっしゃった。

「計算だけできてもねぇ、考えられなきゃ仕方ないよね。」

もうホント、みんな聞いた?聞いた??って気分だった。

そういえば、実はうちの教室にお子さんを通わせてくださっている方の中にはご両親とも理系ご出身、もしくは今のお仕事もバリバリの理系という方が少なからずおられる。

そういう方がここにお子さんを預けてくださるのは、きっと皆さんきちんとわかっておられるからなのだろう。

どんなに計算だけが速かろうと、どんなに先の計算までできようと、それだけでは先に行けば殆ど何の役にも立たなくなるということを。

教室の子ども達の話を聞いていると、やはりどの学年、どのクラスにもプリント大量反復教室の類に通っている子はいるようで、そういう子たちが言うようだ。

「俺、掛け算できるねんで。」

「お前、割り算って知ってるか?」

聞いている限り、そんなようなことを自慢げに言われている子は少なくない。それを言う子の殆どが所謂あの教室に通っている子ども達のようだ。

もし私がその場に居合わせたら、その子に尋ねてみたい。

「すごいね~。掛け算できるの。ところで、掛け算ってなあに?」

「そうか、えらいね~。20÷4ってどういう意味?」

先取りでどんどん進んでいる子達であっても、上述のような質問を投げかけたとき、説明はうまくはできなかったとしても、「掛け算は何倍っていうこと」とか「3×5は3が5個ってこと」とかいうようなことが言える子であればいいだろう。

割り算も同じく、「割り算は分けるってこと」とか「20÷5は20を5個(人)に分ける(もしくは「ずつ分ける」)ってこと」とか言える子はそれらの計算を「わかっている」と言ってもいいのかもしれない。(もちろん、それ自体を覚えこまされている場合もあるのかもしれないが。)

しかし、この問いかけに自慢している子のどれだけがきちんと答えてくれるだろう。
きっと少なくない子達が「掛け算ってのは掛けるんやん。5×2は10で・・・」だとか、「割り算は割り算やん。そんなんもしらんの?」だとかいう答えしかできないのではないだろうかという気がしなくもないのだ。

実際、教室の子達でも学校よりは遥かに進んでいる1年生、2年生が「掛け算ってなに?」とか「割り算ってなに?」とか聞いてくることがある。

私はその都度それがどういう計算なのかについては簡単に説明はするが、その場では1、2問例を挙げて説明するだけで、あとは「○○ちゃんなら、やればすぐできるようになるよ。」と答える。

そう答えながら思うのだ。

1年生の子が掛け算がもうできるとクラスメイトに自慢すれば、そのときは一時的に優越感に浸れるかもしれない。
しかし、3年になって「俺、もう掛け算できるねんで」と自慢したところで、「ふ~ん、それがどうしたの?」って話だ。

例えば、ひらがなを読み始めたのが平均より早かった子がいたとして、小学生になってから「私は人より早くひらがなが読めるようになったのよ」と自慢したところで、何の自慢にもならないだろう。

歩き始めが早かった。しゃべり始めが早かった。文字を書けるようになったのが早かった。
それら全てのことは親にとっては嬉しいことだろうし、そのときには周囲も褒めてくれたりもするだろう。
しかし、それを他の子に自慢することがいかに意味がないかは皆さんお分かりではないだろうか。

しかし、それがお勉強のこととなると、なぜか途端に子ども達は優越感や劣等感を持つのだ。
実際、つい先日伺った話では、どうみてもめちゃくちゃよくできる子なのに、クラスメイトに割り算ができることを自慢された1年生が、自分は割り算ができないからバカだって言ったそうだ。

1年生で割り算ができなくて、何がバカなのだ?
その話を聞いて、なんだか悲しくなった。
少なくとも、私の目から見てその子は抜群に賢いのだから。

薄っぺらな自慢をするような子には育ってほしくない。

もちろん、子どもだから、できなかったことができるようになったら嬉しいだろう。
ただ、それを喜ぶことと他者をバカにすることとは別の話だ。

初めて出会ったとき、I先生がおっしゃっていた。
「本当にできる子は、できることが当たり前だから自慢しない。」と。

確かに、それが特別なことでなければ、自慢する気にもなれないだろう。
極端な話、掛け算でも割り算でも大きな数の計算でも、それをとても簡単だと感じた子は、そんなのみんなできて当たり前と感じるだろう。できない子がいると不思議に思うかもしれないが、できることが普通であれば、できない子には助けの手を差し伸べようとするように思える。当然、当たり前なのだからそれを他者にひけらかすこともない。

もちろん、どんなことにも例外はある。
機械的に詰め込まれた子でも他者を思いやれる子も、人にひけらかさない子もいるだろうし、うちの教室の子の中にももしかすると人に自慢している子もいるかもしれない。

それでも私はこれからも、心を歪めず、持てる力を素直に伸ばしてもらえるように、心を配っていきたいと思う。

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2007年2月23日 (金)

昨日の出来事

昨日の2年生とのレッスンでのひとコマ。

通ってくれるようになって9ヶ月になる彼女は、来てくれた当初算数が少し苦手だったらしい。
しかし、ここでのレッスンを見ていると、見る見る素晴らしい力を発揮してくれるようになり、お母さん共々すごいなぁと感心することも多い。

しかし、まだ2年生。体力的なものに左右されることもあり、疲れている日などはてんでとんちんかんなことをやってしまうこともある。
また、疲れているだけでなく、難しい問題などの場合、どこかにはまりこんでしまうとしばらく抜け出せなくなることもある。

昨日のこと。
掛け算のレッスンで、筆算をやる前に2桁×2桁までを暗算で考えてもらうことになっているのだが、2桁や3桁に1桁を掛けるぐらいまでは大抵の子は予想以上にすんなりできるようになる。

しかし、2桁同士はさすがにすんなりいく子は殆どおらず、もともとこちらとしても「スラスラ」解けることを目指しているわけではない。
2桁同士の掛け算というのがどういう風にすれば答えが出るのか、計算すればどのぐらいの答えになるのか、それを感じてもらうことを目指しているという感じだろうか。

なので、どうしても苦しそうにする子には無理にそれはやらせないし、その子の状況に応じて簡単そうなものを何問かピックアップするだけということもある。

しかし、この彼女の場合、普段結構な計算でも頭の中で考えて答えを出してしまうこともあるので、2桁同士の筆算にいく前にある程度はできるようになってほしいとも思っていた。

前回少しやったのだが、かなり苦戦。お母さんのお話では、おうちでもなかなか思うようにいかなかったらしい。
どうしようかなと思いつつ、とりあえず3問だけ考えてみてもらうことにした。

最初の問題が「89×98」だったのだが、なぜか彼女はいきなり90×90を考え始めた。彼女なりの工夫なのかもしれないと、ちょっとの間様子を見ていたのだが、どんどん不思議な計算になっていく。
どうやら完全にどこかにはまり込んでしまったようだ。

とりあえず、もう少し数の小さい問題に切り替えてみようと「23×47」の問題をやってみてもらうことにした。
実は彼女は十二分に素晴らしく、このときも「23×40」が「920」であることは頭で考えて答えを出していた。もちろんノーヒント、筆算も書かずにである。

これはいけるか?と思ったのだが、なぜかお次は「10×7」と言い出す。は?と思い、「23が47個やで?」と声をかけたのだが、何かぴんとこない様子。

「23円のものを47個買うとってときにこんな式になるよね?」と尋ねるとこくりと頷く。で、「23円のものが40個で920円なのよね?」と確認してもやはり頷く。じゃあできるはずと思うのに、なぜかぴんとこないらしい。

何度か言葉のやりとりをしたのだけれど、どうもこれは無理だなと、「プリントの裏に○23(←丸付き数字の23)って47個書いて」というと、一瞬、「えぇ~~っ!!」と抵抗を示したが、「書いて」ともう一度いうと諦めて書き始めた。

この辺も賢いなと思うのだけれど、彼女が書いている丸付き23はちゃんと1列10個ずつ並べて書かれており、目で見てすぐ40と7がわかるようになっていた。

書き終わった彼女に、「じゃ、23×40で920ってのはどこまで計算したの?」と尋ねると、その図を見ながら40個のところに印をつけ

「あぁ!!わかった!!」

そう大きな声で言った。
そうして無事「23×7」の計算をし、答えに辿り着いた。
その後は他の問題ももう何も言わなくて大丈夫だった。

もともと掛け算自体はかなりしっかりできている子なので、何が何個集まっているかのイメージさえしっかりできればほぼ問題はない。
すっきりした表情で2桁×2桁の暗算を考えていた。

もちろん、彼女はもともとある程度の数量感が身についており、計算もかなりしっかりできるようになっているからすんなりクリアできたともいえるのだが、やはり「目に見える状態にすること」、「手間をかけさせること」の重要性を再認識した。

23を47個も書けと言われれば普通は面倒に感じるはずだ。
しかし、それをやったからこそより鮮明に印象に残るように思う。
テクニックはあとからつければいい。まずはあれこれ試行錯誤して、苦労してでも答えを出させる経験をもっともっと大事にしたい。そんなことを思った。

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2007年2月22日 (木)

なんか難しいな・・・。

昨日チラッと書いたが、今回はブログでご批判頂いたことがきっかけでひとつのご縁を頂いたのだが、それにまつわることでなんか考え込んでしまった。

その一件を気にかけてくださって、今日はある大御所先生がわざわざご連絡をくださったのだけれど、先生からのお話を伺って、また一層考え込んでしまった。

私は普段、極力個人攻撃になるような記事は書かないように心がけてはいる。
ただ、時々はどうしてもそれは違うんじゃ?と思うような記事に出会うこともあり、それが面識のない方であれば、基本的には争いが大の苦手な私はコメントを残すということには二の足を踏んでしまう。かといって、一度メールを差し上げてもきちんとリアクション頂けなければ、その次はもうメールしようとも思えなくなる。
そうして結局、消化できない思いを記事にするなどということも出てくるのだ。

喩えが正しいかどうかわからないが、私は大量・高速機械的反復学習には反対の立場をとっている。特に幼少期に関しては絶対反対の立場だ。
けれど、もし私がそう思っているからといって、その学習法をしている教室の先生に「それは絶対やめたほうがいい。こんなに危険なんだから!」と直接申し上げたところで、その方にはその方の信念やお考え、そして何より生活もあるわけで、「はい、そうですか。わかりました。」となることはほぼあり得ないだろう。

また、私は典型的日本人なので特に宗教信仰はしていないのだが、何かの宗教を熱心に信仰している方が別の宗教を強く勧められたって、そう簡単に宗旨替えすることはないのではないだろうか。

そういう感覚で、この方になら直接お話すれば何か感じて頂けるかもと思う場合と、最初からきっと無理だなと思ってしまう場合もある。

後者の場合、それなら何も書かず黙って読み流せばいいのかもしれないが、我ながらどうしてこうなんだろうと思うけれど、こと子どものことに関してだけは、それは危険だと感じると何か言わずにおられない。
だから、そういうことに関する批判めいた記事はこれまでにも何度か書いたと思う。

さて、ところでだ。

今日連絡をくださった大御所先生は、ある有名なブロガーの先生は記事に書いていることと実際にしていることは結構違うんだよと(書いていない部分でしっかり子どものことを考えているんだよと)教えてくださった。

また、私はほぼ間接的にしか存じ上げないのだけれど、やはりブログ界では有名な、いえ、ブログを離れても塾業界では結構知られているのではとも思う先生がいらっしゃる。

その先生のブログは最近はなんだか随分とマイルドになったように感じるのだが、以前は読んでいてしばしば「なんでそんな書き方するんだろう・・・」と思うことがあり、正直なところ、私はその記事から受ける印象で、その先生のことがキライでもあった。

しかし、その先生を直接ご存知の方が沢山おられ、その方々から伺うお話では、ブログとは全くキャラが違っていて、とてもいい方なのだと皆さんが口を揃えておっしゃる。

(ふぅ~ん、そうなのか・・・。だったらあんな書き方しなきゃいいのに・・・。)

私はそうとしか思えなかった。

私にとってのブログは、多少いいカッコしているところはあるかもしれないが、基本的にそのまんまである。

思ったことをそのまま、その日の出来事をそのまま。
もちろん、個人情報など、伏せねばならないところなどは若干ごまかしたり、作ったりするときはあるものの、それ以外の部分は自分の普段考えていること、普段やっていること、それをそのまま表現している。

自分がそういう人間なので、他の方のブログも基本的にそういう風に受け取る。
常に立派なことを書かれている方は立派なのだろうと思うし、常に軽いノリで書いている方はそういう方なのだろうと思う。
もちろん、すごく仕事のできる方がわざとふざけた記事ばかり書いておられることもあるのは何となくわかる。
しかし、何かを主張する記事を書いたときには、それは本当のその方の考えだと受け取る以外、私にはできない。

もちろん、面識のある方の記事であれば、イメージと違うなぁとか、そんなこと思ってないくせにとか、そんな読み方もできるであろうが、全く知らない方の記事はその記事に書かれたことをそのまま受け取るしかできないのは仕方ないのではないだろうか?(残念ながら私には予知能力とかの特殊能力はないし・・・。)

こんなことをここで書いても仕方ないのだけれど(何しろ弱小ブログですゆえ(苦笑))、おふざけ記事はともかく、何か確固たる主張をされるときには願わくば本音で書いて頂きたい。

著名なブロガーの方々であれば尚のこと、読者でその先生方に面識がある方の方が少ないのだろうし、そうであれば、その先生のご意見はそこに書かれた文章からしか受け取ることができないのだから。

そして、もうひとつ考えてしまった・・・。

どなたかの記事を読む。
それに対する自分の考えを書く。

私は普段読書のブログも書いているが、著書紹介は正に「どなたか」の表現されたものを読み、それに対する自分の考えや意見を書いている。

それと同じ感覚でブログ上のどなたかの記事を読み、それに対して自分の意見を書くということは控えた方がいいのだろうか?
賛成意見なら書いてもよくて、反対意見なら直接ご本人宛に言わねばならないだろうか?

いや、何を考え込んでしまったかといえば、どこからが批判で、どこまでが意見なのかということだ。
反対意見は全て批判なのだろうか?
そういう考え方もあると思うけれど、私はそうは思わないということは記事にしない方がいいということなんだろうか?
どうにも答えが出ない・・・。

というか・・・結局、何より一番のお願いは、「あんなこと書いているけど、実はいい先生なんだよ?」というパターンはなるべくなら避けて頂けると嬉しいなと。。。
そこまで裏を読めるだけの能力は残念ながら私にはないもので・・・。

逆も問題ではあろうけれど(「いいこと書いてるけど、実はひどい先生なんだよ・・・っていう。)、それは直接会えばわかることだろうし、文章で取り繕ってというのはまあ・・・会わない限りあまり問題はないような気もするので。(ブログ上で批判とかってことには発展しないので。)

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2007年2月21日 (水)

神様のお蔭?

ここ数日、立て続けに私にとって不思議なことが起きている。

もともと、塾ブロガーの大半が楽天ブログを使っておられ、特に有名塾ブロガーはほぼ例外なく皆さん、楽天にブログを持っておられる(もしくは持っておられた)方だ。

そんな中、天邪鬼な私は頑なにマイナーなココログで書き続け、保護者の方に直接参考になりそうなサイト以外のリンクも殆どはっていない上、ランキングの類にも参加していないので、塾ブロガーの皆さんの記事を私は読ませて頂いていても、私のことをご存知ない方の方が圧倒的に多いのだと思う。

ブログにも色々あり、有名だから必ずしも共感できるとか支持できるとも言えず、異端、少数派の私にはむしろ、ややマイナーなブログの方が共感できたりということも少なくない。

ただ、昔から、盛り上がっている人の輪に入っていくのが苦手で、既に楽天ブロガーの輪みたいなものがあると、楽天でもない私が面識のない先生方のブログにコメントなどを残すことすら躊躇われ、これまでごく限られた方としかコンタクトを取らせて頂けずにいた。

そんな中、数あるブログの中でも、全く面識はないけれどこの先生はきっといい先生だろうなとか、この先生とはきっと意見が合うんじゃないかなとか、そんな風に勝手に思っていた先生方が何人かおられる。

しかし、皆さん、私なんかよりずっと大きな塾の方ばかりだろうし(まあ、私ぐらい小さいところはそんなにないだろうし(笑))、こちらからアプローチするのはなぁと、そのまま過ごしてきていた。

それなのにである。

つい先日、以前読書の方のブログでこっそり勝手にリンクしておいたある先生が(いいことでのご紹介だったので、こっそりでもいいかなと(苦笑))そのリンクを発見してくださり、ブログで取り上げてくださった。

また、前々からずっと気になっていながらもメールするのもきっかけがなく、コメントするにもこれなら書ける!というものがなかったある先生の記事に「これなら書かせてもらえる!」とコメントを残せた。
更に、返してくださったコメントには身に余る言葉が書かれていた。

そして、一番びっくりなのが、実は昨日の深夜、そろそろ寝なければと思いながら、何となくタイトルが気になって行ってみた先に、どう考えてもこれは私のこと以外にあり得ないという記事が書かれているのを見つけた。

その記事はとても控え目に表現はされていたが、私に対する批判で、正直かなり動揺した。
何しろ私はその先生のブログが好きで、この先生はきっといい先生だなぁと思っていた方だったから。

おっしゃることは理解はできたし、ある面でごもっともなご意見だった。ただ、どうしても説明はさせて頂きたいと思い、深夜メールをお送りした。

その結果、誤解(?)は解け、その記事は先生のご配慮で幻となった。
しかし、その記事のお蔭で私はまた素晴らしい先生とお知り合いになれたようである。

もちろん、皆さん全てネットを介してのことで、直接の面識どころかお話をしたことすらまだないが、それでもやはり嬉しい。
何が嬉しいって、こちらがお知り合いになりたいと思っていた先生方と立て続けにこうしてお知り合いになれたということだ。

先日はウロコ先生にブログの1記事まるまる使ってご紹介頂いたりもして驚いていたのに、まだまだ引き続き「身に余る光栄」は続いている。

やはりこれは神様のお蔭なのだろうか?
少し以前、別件で凹む出来事があって、天国の恩師に助けを求めたから、先生が力を貸してくださってるのかもしれないな。

素晴らしい出会いに感謝しつつ、明日からもまた頑張ろうと思う。

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2007年2月20日 (火)

よかったことと気になること・・・。

もうひとつのブログである「読書感想ブログ」について、最近思うことがある。

ひとつは、あのブログを書いていてよかったなということ。
もちろん、よかった理由はいくつもある。
あのブログがきっかけで素晴らしい先生方とのご縁を沢山頂いたし、全く存じ上げない保護者の方からもコメントなどを頂けた。

そして、お忙しい保護者の方に何かお役に立てばと思って始めたその思いは僅かではあるが、達成できていることも嬉しい。

それとは別に最近特に思うのは、あれを仕事の一環と位置づけ、週2回更新と決めたため、忙しくてもなんでも、仮にすぐ読める本でごまかす(?)ときがあっても、週に2冊は何らかの本を読んでいるということが、無精者の私にはとてもよいことなのではと思う。
あのブログを書いていなければ、忙しさにかまけ、きっと殆ど本など読んでいないのではないかと、最近特に思うのだ。

これらはあのブログを書いていてよかったと思うことだし、よかったことの方が圧倒的に多いのだけれど、最近実は気になることがある。

ブログのアクセス解析で「検索ワード」というものが表示される。
その中に「○○○(←作品のタイトル)感想文」や「○○○ 読書感想」というものが少なからず見受けられるようになっていることだ。

以前から時々はあったのだが、深く考えることなく過ごしてきていた。
しかし、つい先日ある出来事があり、もしかして・・・と思うようになってしまった。そして、その予想はそう外れてはいないのではないだろうか。

その予想とは、上述のような検索ワードであのブログに訪れる方の中に、少なからず学校などから課題として「読書感想文」を課せられた方がいるのではということだ。

私は自分の文章がうまいと思ったことはないが(まあ、下手っぴとまでは思っていないが・・・)、文章を書くこと自体は苦にならない。
それは子どもの頃からで、作文や読書感想文で頭を悩ませた記憶は全くないのだ。

もちろん、読書感想文の場合、自分が面白いと思える本についてしか書かなかったので、小・中学生の間に所謂「課題図書」といわれるものを読んで感想文を書いた記憶もない。

あらすじを書いて行を稼ぐなんてことも殆どしたことがなく、中学生のときなど、「ぼくは12歳」という詩集で感想文を書き、角川の感想文コンクールで何かの賞を頂いたこともある。(ちょびっとだけ自慢。(笑))

自分が感動したり、何か意見を言える本であれば、感想文を書くのなんてちっとも難しくない。
私はずっとそう思ってきたので、子ども達が感想文で悩む気持ちが正直なところイマイチよくわからない。

書けば長くなってしまうので、どうにかしてマス目を稼ごうなどと思ったことも殆どない。
そういう意識が働きだしたのは、高校・大学で課題として決められた書籍を読んで感想文なりレポートなりを提出せねばならなくなったときだろうか。

課題として与えられた場合、その本が面白くなかろうと読まねばならない。自分の心に何も響いてこなかろうと、何かを書かねばならない。
そうなると、無理矢理に何か書いて、適当にごまかすなどということも出てきたが、共感も反発も感じないものに感想を述べるほど難しいことはないようにも思う。

さて、話を戻そう。

最近、検索ワードの中で例えば比較的よく目にするのは「国家の品格 感想」だろうか。他にも「ワーキングプア 感想」なんていうのもある。

思うに、これは大学生などが課題として出されているのではなかろうか?
もしそうなら、その学生がネット検索であのブログに辿り着き、私の文章を適当に変えて自分のレポートとして提出しているということもあり得なくはないのだなと。。。

なら、私は学生が課題に出されそうな本の感想文はUPしないようにすべきなんだろうかと思わなくもないが、そんなこといちいち考えていられないというのが本音だ。

これだけネットが普及して、ネット検索すれば大抵のものは見つかる時代だ。
仮に学校が課題として本を読んでのレポートのようなものを出すのであれば、何かもっと方法を考えなくてはならない時代が来ているのではないだろうか。

ちょっとそんなことを考えた。

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2007年2月19日 (月)

大先生から・・・

今日は休日。1週間フルに働いたので、今日はゆっくり寝て、お洗濯をして、残念ながら昨日するのを忘れて帰ってきてしまったことがあったので、夕方にはそれだけしに教室に行こうと思っていた。

お昼頃携帯が鳴って、見ると大先生のお名前が表示されている。
何事だ?と思いつつ、すっかりご無沙汰しまくっている無礼をお詫びしつつ電話に出た。

うちの教室は何年生まで指導しているのか尋ねられ、一応中3までとお返事すると、「へぇ~っ、中3まででっか~。先生、すごいですなぁ。」なんて驚かれつつ(笑)、結局なんのご用だったのかイマイチわからぬまま、仕事のことで話がしたいとかなんとかってことで「またお時間取ってください」とのもったいないお言葉を頂戴してしまった。

しかし、ちょっと驚いたのがH学園情報。
大先生が顧問をされ、初めは上本町など大阪の2教室でスタートした幼児クラス。その後、かの西宮北口、次いでは西大寺などでも開講ということは知っていた。

それとは別に、H学園のチラシを見ていたところ、私の自宅と教室の間にある駅に新たに教室ができるらしく、もともと、教室の最寄り駅にも1教室あるのに、隣り駅にも作るのね~と思って見ていた。

しかし、更に驚いたことに、西北に導入しているのに、なんと!新開講のその教室にも大先生の幼児クラスが開講することになっているらしい。

大先生曰く、「先生んとこもますますいっぱいになりますよ。」

いえ・・・それはもう・・・。(苦笑)

普通ならそんな近くに同じことをする(というか、設備や色々な面であちらの方がずっと充実しているはず)教室ができるとなると、心穏やかではないものなのだろうけれど、同じことをしているといっても、目指す方向が全く違うような気はしている。
更に、費用面から見ても、今いらしてくださっている方があちらに移られる可能性は低いだろうとも。

というわけで、不安とか動揺よりもむしろ、小学校受験や中学校受験を考えている方にはあちらがありますよとお勧めしやすくなってありがたいかもしれない。
ますます私は自分の望む方向へ集中しやすくなるような気がして、むしろ喜ぶべきことなのかもしれない。

ま、そんな余裕で構えていたら、焦らなきゃいけなくなるのかもしれないけれど。(苦笑)

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2007年2月18日 (日)

決め付けないでほしい

実はしばらく前から自分の中でモヤモヤと、まだちゃんとした言葉にならない感覚がある。

いずれ書きたいと思いながらも、それはものすごく大きなテーマのような気がして、そして、すごくすごく大切なことのような気もして、自分の中である程度きちんとまとまって、時間や気持ちの余裕のあるときに丁寧に書きたいと思っていることであり、正直、今の自分の状況からすると、それらについて書けるのは少し先になるだろうなと思っている。

しかし、昨日あるブログを読んで、どうしてもこれだけは言っておきたいと思った。
例によって、少なくともブログ上ではかなり有名な方のようだし(きっとアクセス数では私の5倍、10倍おありなのではないかと思う。)、面識も何もない方なので、実際にどれだけ影響力がある方なのかはわからないが、ある記事にどうにも背筋が寒くなるような感覚を覚えたのだ。

ひと言で言えば、安易に決め付けないでほしい。軽々しく断言しないでほしい。
あなたが全知全能で、絶対に間違いを犯さない方なのであれば構わない。けれど、そうでないのなら、ひとりの人間でおられるなら、ご自分のお考えを述べるのはもちろん自由だが、断言しないでほしい、そう思った。

個人攻撃をする気はないし、ものの考え方や価値観は人それぞれなのはよくわかっている。
例えば、私は直接の面識はないものの、みかみ先生は素晴らしい先生に違いないと思っている。好きか嫌いかと聞かれれば、迷わず好きだと答える。
それでも、私自身は勉強を苦しいものだと思ったことがあまりないし(まあ、高校時代落ちこぼれかけたときは正直苦しかった気もするが)、受験に対して勝ち負けという意識もない。
それは考え方の違いであり、別にみかみ先生を否定しようとも思わないし、かといって同調しようとも思わない。

そういう意味で、自分と違う考え方がいくらでも存在することぐらいわかっているし、むしろ、自分と同じ考え方の人の方が少ないのだろうとも思っている。
特に、同業者の中で私は恐らく異端なのではないかとさえ思うから、お前がおかしいんだと言われれば、そうなのかもしれない。

でも、こと、子どものことに関してだけは違うと思ったら反論もするし、それは危険だと思ったら自らの意見を主張もする。
そういう意味で、今回は書かねばと思った。個人攻撃しようとか、そういうことではないので、それだけはお断りさせて頂く。

昨日読んだあるブログで、子どもの能力差は「聞く力」の差だというようなご意見を書いておられる方がいた。(かなり端折っているので、実際はもっと具体的に書いておられたけれど。)

更に、小学校低学年ぐらいまでは教科書内容が簡単すぎて、差がつかない、理解できない子などいないはずというようなことも書いておられた。
しかし、私から言わせれば、それは大人の目から見た想像の意見に過ぎないように思える。

もちろん、聞く力は重要な要素のひとつであろうとは思う。それを否定する気は毛頭ない。
しかし、仮に幼い子ども達が集まっている場で、先生の話をしっかり聞ける子と聞けない子がいたとして、それは単純に「躾」や「働きかけ」の差によるものとは言えない面が絶対にあるはずだ。

以前ご紹介した松永先生の「男の子を伸ばす母親は・・・」の著書などでも書かれていたけれど、聴力の男女差というものもあるようだし、もちろん、性別だけでなく個人差もあるだろう。

また、ちょっとしたことが気になってしまう性格の子であれば、先生のお話中であっても、何かに気をとられていて返事ができないことだってある。
更に、一所懸命お話を聞いていても、だからといって誰もがすぐによいお返事ができるとも限らない。

実際、私のところの子ども達だって、同じ年齢でもできることはバラバラだし、同じ親が育てたって性格も能力もバラバラだ。
それこそ、同性の双子であったって得意不得意が異なるぐらいなのだから、訓練などによって、みんなが「きちんと聞くべきとき」に「集中して」話を聞き、「すぐに」「望ましい」反応を返せるかと言われれば、私は無理だと思う。

理解に時間がかかる子であれば、一所懸命聞いていても、まだ理解し終えていない間に先生は次の話に進んでいるかもしれない。
だからといって、そういう子が賢くないかといえば、それも一概には言えない。
理解に時間はかかるけれど、じっくり考えて必ず自分のものにしていき、結果的に無理だといわれていた志望校に合格していった中学生を知っている。
教室の子ども達だって、反応は遅く、理解するのはゆっくりだけれど、理解すれば確実に身についているというタイプの子だっている。
その子たちは私から見れば十分に賢い。

極端な話、もし幼稚園の先生のお話をきちんと聞けない子がいたとして、先天的な障害などがないのであれば、先生の話が面白くないということだともいえるのではないか。

少なくとも、子どもを惹きつける力が足りないであるとか、お話の内容が難しくてわかっていないということなども考えられるはずだ。
つい先日ウロコ先生のブログにもそんなことが書かれていた気がするけれど、子ども達は楽しいこと、大切だと感じること、理解できることであれば、普通は聞くはずだ。

更に、幼児期は発達の差もあるし、例えば4月2日生まれの子と翌年4月1日生まれの子が同じ学年にいるのだから、幼児期であればあるほど、その能力差も大きかったりするはずだ。それを一律に見て、あの子はちゃんとできるけど、この子はできていないから訓練すべきだという発想にはとても危険なものを感じてしまう。

影響力のある方が何かを断言すれば、それをご覧になったお父さん、お母さん方がそのままに受け取って、「早速訓練しなくっちゃ!」と思ってしまわれることがこわい。

もちろん、能力的にそれに耐えうる子もいるだろうけれど、あまり幼いうちから、その子の状態もよく見ずに訓練しようとすれば、かえって望まない結果を生むことだってあるに違いない。

子どもを育てるということには多分マニュアルなんてなくって、全て一人ひとりのオーダーメイドでなければならないはずだ。
そして、それができるのは他ならぬお父さん、お母さんたちであろう。(私ができることはせいぜい僅かなお手伝いでしかないだろう。)

目の前の子を見て、その子の幸せを考えて、マニュアルや著名な方のお話などに踊らされることなく(もちろん、素晴らしい先生、素晴らしいご意見も沢山ある。ただ、鵜呑みにするのではなく、常に「自分の子どもにはどうだろう?」と一度考えてみて頂くことも大切なのではないかと思う。)、素敵な子育てをして頂きたい。

子育て経験のない私が偉そうに言えることではないのだが、大切な子ども達のためにも心から願っている。

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2007年2月17日 (土)

最高の幼児教室と最高の指導者

ここ最近、I先生が有名になられればなられるほど、小学生さんではなく、まだ年中、年少さん、時には年少前のお子さんの保護者の方からお問い合わせを頂くことが増えてきた。

しかし、私の教室は大先生のところの関連と言って頂いてはいけないのでは?と思うほど、幼児さんより小学校低学年さんをメインに考えている。

多分、今後も私自身が幼児さんを積極的に募集しようとは思わないだろうと思うのだが、どうして幼児さんの指導に積極的ではないのか、ちょっと考えてみた。

そして何となく気づいたのである。

私は、何度も書いている通り、塾にも予備校にも通ったことがない。
習い事すら、小学生のときに3年ほどバレエとエレクトーン、6年ほどお習字を。それが全てだ。

私の幼児、小学生時代といえば、暗くなるまで(小学校なら完全下校のアナウンスが流れるまで)外や運動場で走り回って遊び、家に帰れば少しはテレビも見たが、その頃は自分で自由に好きなだけテレビを見せてもらえるようなことはなかったので、本を読むか、何かを作るか、家族でトランプやボードゲームなどをするか、そんな風に過ごしていた。

中学以降もずっと運動部だったし、習い事は全て辞めてしまったので、授業と部活以外は自由な時間でもあった。(まあ、部活でくたくたで気づいたら寝ているなんてことばかりだった気がするが。)

その私がありがたいことに結果的に第1志望であった地元の教育学部に現役で合格することができ、今は子ども達と幸せな毎日を過ごさせて頂いている。
まあ、所詮、地元の教育学部だから、大したことないじゃんと言われればそうなのだろうし、別にそう言われたって反論する気も全くない。私はあの大学のあの学部以外に行きたいところがなかったのだから、人がどう評価しようとそれは構わない。

ただ、もし私程度でいいのであれば、何もまだ幼児さんの頃からお勉強の教室になんて通わなくてもいいのでは?と思っているのだ。
そして、「その程度じゃダメなのよ!」って方は、もっとすごい先生方がおられる塾や教室に行って頂けばいいだけのことだとも思っているのだ。

もちろん、だったら小学生だって通う必要ないじゃない?というご意見もあるかもしれないが、いかんせん、小学校での学習内容は私達が子どもだった頃と比べると恐ろしく削られて薄っぺらになってしまった。
そのくせ、最終的に高校ではその帳尻合わせをしなくてはならないようでもある。
だったら、少なくとも私達が子どもの頃にはやっていたであろう、その程度には小学生はやっておく方がいいのかもと思ったりはするのだ。
だから、これからも、世の中が何か大きく変わらない限り、この教室の指導のメインは小学生、特に低学年の子たちであり続けるだろうと思う。

さて、話を幼児教育に戻そう。

今から4年ほど前にI先生に出会い、幼児教育の重要性を知った。
ただ、そのとき大先生が何より大事だとおっしゃったことのひとつは「指先能力(指先の巧緻性)」だったのだ。

実際、I先生のところの教材や教具も幼児の段階では指先をしっかり使うということを目的としたものがかなり多い。塗り絵や切り絵、折り紙などもそうだ。

そして気づいたのだ。
もしかすると私は、誰よりも恵まれた幼児教室にいつもいつも通っていたのではないかと。

私の記憶にある限り、私や兄がまだ幼かった頃、父は家にいるときにはいつも、自分の趣味として折り紙や塗り絵、レゴ、プラモデルなどで遊んでいた。
時には絵も描いていたし、日曜大工や木彫なんかもやってのけた。それも結構な腕前なのだ。更にその後、編み物やジグソーパズルにはまっていた時期もある。

私にはそれらが毎日当たり前に目の前にあり、父を真似て折り紙を折ってみたり、私にもと塗り絵を買ってもらっては、早く父のようにうまく塗れるようになりたいと願ったりもした。
兄と一緒にレゴやプラモデルも作ったし、パズルもした。絵を描くのも工作するのも大好きだった。

また、うちの母は私達が幼かった頃にはミシンでバッグや服を縫ってくれたり、機械編みのワンピースやセーターなんかも編んでくれた。
その姿を見ていて、私は1年生でかぎ針編みを(初めは鎖編みしかできなかったが)始め、高学年では棒針編みも覚えた。そのうちミシンも使えるようになり、バッグや小物入れなんかを作ったりもした。

うちの両親は何も私にやらせようとしてそれらのことをやっていたわけではないだろう。
実際、父は未だに折り紙を折っているし、木彫などをしているときもある。母も忙しいながらも時々ミシンでリフォームなどをしているようだ。

我が家ではそれが当たり前の日常であり、それを見ている私は自然とそれらのことをしたいと思うようになった。
父のようにうまくなりたい、母のように上手に作りたい・・・そんな思いが私にやる気を出させてくれた。

きっと我が家が私にとっての最高の幼児教室で、両親は最高の指導者だったのだろう。

そんなことを思うようになって一層、幼児の間はそれぞれのご家庭で、お子さんとの時間を大切にしながら、一緒に指先遊びなどに高じられたらいいのでは?と思ってしまうようになったのだ。
わざわざ時間や費用を費やして通って、教室で塗り絵や折り紙をしなくても、おうちでお父さんやお母さんとそうして過ごす方が子ども達も幸せなのではないのだろうかと思ってしまうのだ。

もちろん、うちの母は私が子どもの頃は専業主婦だったので、時間の余裕もあっただろう。そういう意味ではお仕事を持っておられる親御さんだと、その分をどこかのお教室へということはあるのかもしれない。
それを否定するつもりはもちろん微塵もない。

ただ、お父さんやお母さんに憧れて、そんな風になりたいと思えるのは子どもにとっても親御さんにとっても幸せなことなのではないかとも思う。

そんな訳で、多分当面相変わらず、私の教室は小学生さんがメインになるかと思うが、どうぞご理解のほど。

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こちらにも一応・・・。

お知らせブログには書かせて頂いたのですが、こちらにも一応ご案内を。。。

もうホント、恐ろしくエラそうな、贅沢な話だなぁと、自分でもしみじみ思うのですが、ちょっと今ホントにいっぱいいっぱいです。
いえ、私に能力があれば、きっともう少しは(いや、まだまだ?)大丈夫なはずなのですが、残念ながら、ちょっと私には今でほぼ限界かと。。。

つきましては、現在体験をお受けしている方が体験後に入室を希望されるかどうかがはっきりするまで、体験をお受けするのを休止させて頂きます。

最近、ホント真剣に、分身の術が使えないもんだろうか・・・と思ってしまうのでありました。。。
何卒ご容赦ください。

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2007年2月16日 (金)

身に余る光栄続きで・・・。

最近、冗談抜きで、あまりにも身に余る光栄続きで正直ちょっと怖い。

もともと、とりとめもなくつらつらと何か書くのが好きだった。
中学生の頃のある時期の夢はエッセイストになることだったぐらいだ。
中学生以降、社会に出るまで、詩とは呼べないような拙いものを書き綴っていた時期もある。

教室を立ち上げてしばらくは、通ってくれる子どもも少なかったので、それぞれの保護者の方宛にメールやメモでお知らせをすることは十分にできたのだが、少しずつ通ってくれる子ども達が増え、お一人お一人にきちんと細かくご連絡することがだんだんおろそかになっていった。

そこで、特定の保護者の方にではなく、皆さんにお伝えしたいことはブログに書くようになった。
先に始めた読書のブログも、教室のお母さん達に本をご紹介するつもりでのスタートだった。

それが始めて間もない頃に素晴らしい先生方に見つけて頂き、リンクをして頂いたり、ブログなどで直接ご紹介頂くことなどもあり、思いがけず予想もしない多くの方に見て頂けるようになった。

更にその後、大先生が老舗有名受験塾の顧問になられたこともあり、そちら関係の検索で辿り着いてくださる方なども徐々に増え始めた。

お子さんのことで悩んでおられるお母さん、お父さん方に何かヒントになればと思って書いている記事もあるので、そういう記事はひとりでも多くの方が読んでくださったら嬉しいなとは思うけれど、多くの方の目に触れるようになれば、きっと嫌な思いをすることも出てくるのだろうと、結局未だにブログのランキング関係は何も設定していないし、私が書き続けているブログは、基本的に今でも相変わらず教室のお母さん、お父さん方に向けて書いているようなものだ。

しかし、ここにきて、お目にかかったこともないお母さんが「ブログのファンです」とか、場合によっては私のファンですとかまで言ってくださったりすることがあり、更に、ブログを読んで教室にお子さんを預けてくださるようになった方からは、まだお子さんが低学年であるのに、「高学年になったら国語も」とか、「長ければ中学、高校まで見て頂けるのが魅力です」とか(正確には私は高校生の指導はできませんが・・・)、つい昨日など・・・・・・「もしお嫁に行かれることがあっても、せめて神戸に留まってください」とのお言葉まで頂いた。(しかし・・・その「嫁に行くアテ」ってのが全くないわけなんですけども・・・。)

おまけに昨日は考える学習をすすめる会のウロコ先生が、ご自身のブログ記事ひとつをまるまる、私のブログの紹介に使ってくださったりもして、どう考えても自分の実際の力以上の評価をして頂いている気がしてさすがに恐ろしい・・・。

もちろん、日々、子ども達のことは何より大事に考えているつもりだが、不特定多数の方がご覧になるブログではやはり少しはよそゆきの姿をお見せしてもいるだろう。

思ったことをそのまま書くようにはしているが、どうもどんどんとブログでのイメージが一人歩きし始めているような気がして、実は少し不安でもある。。。

ま、そうは言っても、ブログを読んでくださっている方が「男性だと思っていました」とか「もっと年配の先生だと思っていました」とかおっしゃることも珍しくないので、別の意味で「間違ったイメージ」なのかもしれないが・・・。(苦笑)

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2007年2月15日 (木)

可愛い反応

低学年のレッスンで、算数の教科書ではわざわざ単元を別にして扱っていたりもする「3つの数のたす・ひく」をやるとき、大抵の子は学校で習うより先に教室でその問題を目にするので、戸惑いを見せる子、何も言わずにすんなり解いてしまう子、それぞれなのだが、難しそうに感じて戸惑っている子に言ってみることがある。

それを言ってみると、反応が大きく二つにわかれるのだが、真面目で小さい頃からよくできると言われているタイプの子や女の子はどちらかというとその問いかけにかえって難しそうに考え込んでしまうことが多く、どちらかといえば兄弟がいるような子で、外で遊ぶのが大好きというようなタイプの子はすんなりイメージして「なんや、簡単やん!」というような反応が返ってくることが多い。(あくまでも大まかな分類なのでみんなが当てはまるわけではないけれど。)

というのは、こういう問いかけだ。

例えば「12-7+8」というような問題があったとして、例えばこう尋ねてみるのだ。(尋ね方は子どもによって若干変わるが。)

「○○くん(本人の名前)が12個飴を持ってるねん。で、お母さんに7個あげたら、お母さんが8個くれてん。増えた?減った?」

で、数量感覚が身についている子というか、多分日々の生活の中でそういう経験を色々していて、自然とイメージできる子は、ちょっと考えてすぐに「増えた!」と答えてくれるので、「何個増えた?」と尋ねると「1個!」という具合になる。
そうなれば、答えはもう簡単だ。

そして、次に「15-4-7」のような式が出てきたときにはこう尋ねてみる。

「15個飴を持ってて、4個あげて、7個あげたら、全部でいくつあげた?」(式の数字を指差しながら尋ねる。)

すると、あげた数が11個と答えられる子は「15-11」をしておしまいだ。

これまでの感触では、これらの問いかけにすんなり答えが返ってくる子達は概ね計算で苦労することがないように思う。で、それは先ほども書いたが、元気な男の子に多いようにも思う。

それがイメージできた子は3つの式でもその後は難なく解いていくし、「ひいてひく」ときにはまとめて引いてもいいということや、「ひいてたす」のは順番を入れ替えても答えは変わらないということなども感覚的に理解してくれる。

ただ、その質問に対して考え込んでしまう子も少なからずいるので、そういう子には3つ目の数を隠してまず2つの数の計算をしてもらい、その後3つ目の数を見せるようにすると、そういう子達はそういう子達で問題自体はクリアしていってくれる。(この違いはどうして現れるのかはまだ漠然としかわからない。)

で、先日、こっちまで嬉しくなってしまうほど可愛い反応をしてくれた子がいた。
あるスーパー年長くんなのだが、お母さんが教えたわけではないのに、なぜかパソコンとかも使いこなし、ヤフーかなんかで算数の問題を解いたりもしているという子。
でも、3つの数の計算の式を見て、一瞬「むずかしそう」と表情が曇った。
そこで、こんな風に尋ねてみた。

その子にはお姉ちゃんがいて、仲良しなのだが、

「○○くんが飴を15個持っててん。で、○○くんがねえ(お姉ちゃんのことをそう呼ぶ)に7個あげたら、ねえが8個くれてん。得した?損した?」

ちょっと考えた後、にこ~っと笑って大きな声で「得した!」と。
「何個得した?」と尋ねると「1個!」と。

その後は、「な~んや簡単!」と言いながら問題を解き始めたのだが、なんだか顔がニコニコしたままだなぁと思っていると

「これ、めっちゃ得した。ねえ、くれてばっかりや!」

と、3つの数が全部足し算でつながっている式を嬉しそうに解いている。どうやら彼の頭の中ではリアルにお姉ちゃんとの飴のやりとりがイメージされているらしい。(笑)

これまでの子達の中でもピカイチの可愛い反応に思わず私まで顔がほころんでしまった。
どうやら彼は更に無敵のスーパーくんになってくれそうである。

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2007年2月14日 (水)

6歳に慰められる私。。。(ど~でもいい話)

今日もあっという間にこんな時間・・・。(22時半過ぎ。)
23時までには帰路につきたいので、ちょっとど~でもいい話。
土曜の話なのだけれど、あんまりにも可笑しかったので書かせて頂くことに。。。

実は最近、私のレベルでは尋常じゃなく忙しい。睡眠時間を削ってバリバリ活躍されている塾長先生方からすると超カワイイものなのだけれど、私の能力的に日々忙殺されている感じ。。。

ありがたいことだと思いながらも、なかなか仕事が進まない状況に若干ジレンマを感じつつある今日この頃なのだが、その状況を察してくださっているお母さまが土曜にスーパー年長くんのお迎えに来てくださったときの会話。

こりゃホントますます縁遠くなる一方だなと自分でも内心思っているのだけれど、そのお母さまが

「いや~、先生、もう諦めてもらいましょか。○○(スーパー年長くんのこと)が大人になるまで待ってもらうとか・・・。」

と冗談でおっしゃったので、私も

「さすがにそれはねぇ。○○くんが大人になる頃にはおばあちゃんになっちゃいますからねぇ。ね?○○くん?」

と答えた。
すると・・・。

「え~、おばあちゃんにならへんで。」

と、なんともまあ心優しいお言葉。(笑)
因みに、このお母さまと私はほぼ同年代なのだけれども、次に彼の口から出た言葉は・・・・・・。

(自分が大人になる頃、私は)ママぐらいやで。」

(爆)

う~ん。。。果たして彼は私をいくつだと思っているんだろう・・・。(悩)

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今日の初期組スーパーちゃんたち

何度か書いているが、教室を立ち上げたとき、本当の最初に来てくれた子は全部で6人だった。1年生が4人、2年生がひとり、4年生がひとり。
そのうち4人が今も通ってくれているのだが、なぜかその4人は全員火曜日に登場する。

この子達はみんな公立中学に進学する予定の子たちで、私も無理にレッスンを早く進めたわけではない。
ひとりはもう中学生なので、今日は後の3人の話。

現5年スーパーくんは2年の夏にメイン教材のほぼ最初から始め、週1回1時間にも関わらず、3年分のメイン教材全てとどんぐりの4年問題、5年問題ほぼ全て、論理パズルを現在9冊、更に150ページほどある5年生のワーク全てが終了し、現在180ページほどある6年生のワークの3分の1ほどが終了している。
(因みに、なぜか今週も超やる気で、ワークを12ページほどやってきていた。パズル問題も5問ばかり。)
このペースで行けば、6年の夏休みにはもう中学内容に進めそうだ。(もちろん無理はしないが。)

で、更に加速しているのが現4年生スーパーちゃんたち。2人は1年の夏から週1回のレッスンを続け、今日のレッスンで上述の5年生のワークが全て終了した。論理パズルに至っては、やりたいだけやっていいよと言っておいたところ、ひとりは既に17冊を終え、もう一人も15冊は終えている。今日から6年生のワークへ突入だ。

5年生スーパーくんは2年の夏からだったから、それを考えると本当にすごいペースで進んだと思う。そして、きっと今後ますます加速するような気がする。

4年生スーパーちゃんたちは卒業までに一体どこまでいけるんだろう?ゆっくり進めても丸1年は何でもできる時間がある。中学内容も1年分以上学習できるかもしれない。

そして、今続々と続いてくれているスーパーくん、スーパーちゃんたちの多くは上述の彼、彼女らより更に早いスタートをしている子が多い。
実際、4年生スーパーちゃんたちの弟、妹は既に2年目の教材に突入した。どんどん加速していくことが多いので、このペースで行くと3年生の途中でメイン教材が終わってしまうのではないかと思う。
他にもそんな子達が何人もいる。

何度も言うけれど、うちは絶対詰め込みも大量反復もさせない。子どものペースに合わせて週1回1時間のレッスンをしているだけだ。
その結果がこれなのだ。

中学受験をお考えの方は今後3年生でお別れになるということも少しずつ増えてくるのだろうけど、もし受験を考えていない方でも、週1回1時間のレッスンと決して多くない宿題で無理なく中学内容を1年や2年分先行学習できそうだ。

塾に勤めていた頃には全く想像もつかなかったことだ。
あの子たちのこれからがますます楽しみで仕方ない。

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2007年2月13日 (火)

もしお給料が同じなら・・・

昨日、みかみ先生がブログにそんなタイトルで記事を書かれていた。
お給料が同じなら、何の仕事をするかというもの。

お給料が同じならって設定考えたことはなかったが、もし働かなくても暮らせるだけの資産があったらどうするか、何をしたいかってことなら友人達との会話の中などで何度か考えたことがある。

いつからだかはっきり覚えていないけれど、私の答えはいつもほぼ同じだ。
その傾向は独立してから一層強くなった。

もし働かなくても暮らしていける、生活や将来に不安を感じなくていいという状況があるなら、それでも私は今の仕事以外したいと思うことがない。

働かなくてもいいなら、長期で海外に行きたいとか、毎日遊んで暮らしたいとか、そんな風に思う人もいるのかもしれないけれど、もともと出不精だし、長く休んだら体が退化していきそうな気がしてしまう「勤勉な日本人」の血が流れているみたいだし(笑)、あんまりしたいことがない。

いや、この仕事以外にしたいことがないと言うべきか。

もしも、この仮定が1日が24時間じゃなくせるとかそんなことだったら、もっと他にもしたいことがあるのかもしれないけれど、1日の長さが決まっている限り、結局今のところ他にしたいことを思いつかない。

もちろん、最近はありがたいことに予想を上回る子ども達が通ってきてくれているので、若干自分のキャパを超えている気もして、その面だけは「理想通り」なのかどうか悩むところだけれど。。。(苦笑)

でも、みかみ先生の「お給料が同じなら」という記事で、みかみ先生は教室をひとつだけにして、10人ぐらいの子ども達と勉強したいというようなことを書いておられたのだが、私ならどうだろう。。。

お給料が同じ。「努力してもしなくても結果は同じ」ということと考えればいいのか?
うん?というか、そういう仮定をすれば、自分の「理想の姿」をイメージするってことかな?
だったら、どうだろうなぁ。

1日に4組ほどの子達と週5日レッスンをして、その他の時間は問題を作ったり、勉強したり本を読んだりして、もっと「賢く」なりたいかなぁ。

今は本当に本当に毎日ありがたくて幸せだなと思っているけれど、いかんせん、自分が学ぶ時間や問題を考える時間、皆さんにお知らせをするなどの事務的な仕事をする時間が慢性的に足りず、それだけは「理想の姿」にはなってないんだもの。。。

負荷をかければ段々とそれに慣れてくることもわかっているけれど、今回のみかみ先生の記事のお蔭で、新年度に向け、その「理想」を少しでも実現できるよう色んなことを考えなければと、改めてそんなことを考えた。

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お若い!カッコイイ!(笑)

なんだか最近はバタバタしっぱなしで、尊敬する先生方、お知り合いの先生方のサイトやブログにお邪魔することすら満足にできていないのですが、どんぐりさんのサイトでこんなものを発見!

糸山先生、すごく小さいので目の悪い私にはやや残念なものがありますが、想像していたより遥かにお若い!そして、いいお声で、更にどうやらカッコイイ!(笑)
皆様もどうぞご覧ください♪

糸山泰造・DVD講演集 VOL.1VOL.2

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2007年2月12日 (月)

「ばってんのやつ」

あまりにも可愛い話だったので、ちょっとご紹介。

今教室に通ってくれている子の中に、赤ちゃんのときから知っている子がいる。
友人の息子くんなのだが、算数はお任せするからと、まあホントに見事に真っ白に近い状態で年長の秋から通ってくれるようになった。

彼は私の大好きな野生児なのだが、その理解力たるや素晴らしいものがある。
大量のプリントをやらせている方や進学塾、受験塾に通わせている方が見たら、これだけ「お勉強」をしていなかった彼が軽々と問題を解いてしまう姿に、それこそ卒倒してしまうのでは?というほどだ。

彼のすごいのは、実はまだひらがなも完璧には使いこなせないし、ここでレッスンするまで時計の読み方にも興味を示さず、もちろん九九とかも覚えていない。

そんな彼は1年目の教材を全て終えて、今週早々と掛け算の学習に入った。
といっても、例によって、暗記からは絶対入らないので、九九なんて教えない。それでも楽しそうにスラスラと、1時間のレッスンで10の段、5の段、1の段、2の段、4の段までもクリアしてしまった。

正しく言えば、「○の段」という表現さえ知らないし、当然九九の唱え方など知らないけれど、彼に「5×6は?」などと尋ねれば、考えて答えが出せるということだ。

スラスラ解けてご機嫌で、「な~んや、掛け算って簡単やなぁ~」とその日のレッスンを終えた。

その彼の後日談。

友人である母に向かって彼が言ったそうだ。

「お母さん、問題出して~。えっと、割り算、じゃなかったかな、あのばってんのやつ。」

メールをくれた友人がこう書いていた。

「×(かける)も九九も知らなくっても解けるんだね。」

私はこの友人に非常に感謝している。本当に彼の興味に合わせて、彼が興味を示さなければここまで見事に真っ白の状態にしておいてくれたことを。

何にも邪魔されない彼の頭は、驚くべき柔らかさでかけ算というものを理解していく。
もちろん、学校でかけ算を習うときには九九も暗記することになるのだろうけど、「覚えなくても解ける」ということを見事に体現してくれる彼を見て、またとても嬉しくなる。

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2007年2月11日 (日)

嬉しい負け

来客があり、途中で下書き保存したつもりが、書きかけの状態でUPされていたようです・・・。お恥ずかしい・・・。
ご覧くださった方、中途半端で切れていて申し訳ありませんでした。
再度UPし直しましたので、宜しくお願い致します。

ときどきブログに登場している6年生くんたちだが、高学年ということもあり、おうちの方のご希望で週2回2時間ずつ、年末からは更にもう1時間レッスンに来てくれている。

その彼達とは、初めのレッスンからずっと、算数(既に今は数学範囲だけれど)と国語のほか、常にパズルをやってきた。
ひとりの子は初めの頃集中が続かず、少しでも難しそうな問題だとすぐにヒントを欲しがったり、考えることを放棄したりしていたが、今ではその頃のことが嘘のように、かなりの難問のパズルを1時間でも時には2時間でも集中して考え続けられるようになった。

当然、初めの頃は避けて通ろうとしていた文章問題などにもきちんと取り組むことができるようになり、私からすると本当に見違えるように変わり、伸びたなと思っている。
嬉しい限りだ。

そんな彼らとの昨日のレッスンでの出来事。
パズルも長らくやっているので、レベルもかなり上がってきている。これまでは私は宿題の丸付けをしている間にパズルをやってもらってというスタイルだったのだが、パズルの難易度が上がるにつれ、丸付けの間には到底終わらないことも出てきて、途中参戦で私もまた解いてみるということも増えてきていた。(子どもにやらせる問題は基本的に全て先に自分で解いているので。)

途中参戦では、先にかなり考えていた彼らがこれまで何度か先に正解に辿り着いたことはあったのだが、昨日は珍しく、丸付けより先に一緒にやってみることにしたのだ。

それがまた激しく難しい。というか、正直なところ1週間結構ハードだったので、疲れも溜まり、その日も朝から4つレッスンを済ませ、5レッスン目。おまけにお昼が殆ど食べられず空腹で頭がイマイチ働かない状態だったので、今日は本気でやっても危険かも・・・と思いつつも真剣勝負の開始となった。

間で宿題の丸付けをしたりもしたが、その時間は大したロスではなく、私もかなり真剣に考えた。
しかし、どうもうまく行かず、書いては消し、書いては消し、そのうち1時間が過ぎた。

解きながら、「どうする?どうしてほしい?」と声をかけると、「これやる!」ときっぱり。「また2時間コースかもしれへんで?ちょっと先に他のことせ~へん?」と聞いても、「いやや。あとちょっとでできるかもしれん。」と。(苦笑)

ま、進度的には既に数学の文字式にまで入っているし、国語も中学生用の問題集に進んでいるので、せっかく集中してるんだしと、そのまま考えさせることにした。

そろそろ2時間になろうかという頃になっても、まだ誰も(私自身も)正解に辿り着けない。
何度も近いところまで行くのだが、結局繋がらないで消してやり直し。内心、絶不調だな、今日はホントに負けるかも・・・と思いながら、あと5分で2時間になろうかというときにひとりの子が

「あぁ~~っ!ここだけ合わへん!!」

と叫んだので、とにかく誰か一人でも今日のレッスン中に正解して終わりたいと思い、彼のプリントを見に行った。
確かにあとひと息のところまできている。

「いけるんちゃうん?」

私までちょっと興奮気味だ。
ひとつひとつおかしいところがないかチェックし、2ヶ所つじつまが合わないところが見つかった。

「ほんま、いけるんちゃうん?頼むわ、正解して。」

思わずお願いまでしてしまう。

真剣な顔で合っていないところを見詰め、「あ、いけるかも」と言ったかと思えば、パズルの一部を消して新たな線を描き直した。

緊張の答え合わせ。。。。

「やったやん!できたやん!!」

初の敗北にも、喜びの方が勝っていた。
この子達がここまで集中できるようになったこと、ここまで論理的に詰められるようになったこと、そして、私に勝ったこと。

彼らはもうすぐ中学生になる。
そうすればここでのレッスンも終了の予定だ。

なんだか少し、卒業証書を渡せたような、そんな気分になった。

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2007年2月10日 (土)

文章題を読んで笑える子

うちのメイン教材の中に出てくる文章題は、教科書や公立の小学校のテストなどで出てくるものよりはかなりレベルの高いものが多く、どんぐりさんほど凝ったものはないけれど、状況がきちんとイメージできる子でなければ手が出ないようなものも少なくない。

そんな問題に取り組む子ども達を見ながら、たまにさりげなく言ってみることがある。

今日も登場した問題なのだが、お兄さんととんぼとりに行ってとんぼを32匹捕まえたのに、カゴに入れるときに逃がしてしまって9匹しかいませんという問題。逃げた数を問われるのだが、これを読んだとき私は、逃げた数があまりに多過ぎて可笑しかった。

なので、その問題が出てきたときにたまに、子どもがまだ読み終わったばかりのタイミングで「そりゃ逃がしすぎやなぁ」とか、「入れるの、めっちゃ下手っぴやな」とか子どもに言ってみる。

その段階ですぐ「ホンマや~、下手すぎる~!」などと言ってけらけら笑ってくれる子は安心だ。

また、こんな問題もある。
さるさんが朝には18本、昼には24本バナナを食べました・・・みたいな。

これを読んで子ども自らが「えぇ~~っ!こんなに食べられへんやろ!」とか、「うそぉ、そんなに食べたん?」とか言ってくれれば、その子も安心だ。

そんな風に、問題を読んでその子の頭にイメージができているかどうか、時々言葉をかけてみる。
その反応を見て、ああ、大丈夫と安心したりもする。

また、くまさんが56匹のサケをきつねさんに何匹かあげたら、残りが28匹になってしまったという問題は、計算するとあげた数が28匹になる。

そんなときも、ただ丸をするのではなくって、「くまさん、半分こしたんだね~」なんてことも言ってみたりする。
別に覚えさえようとかってわけでもないが、機会を見つけて「半分」とか「倍」とかいうことも意識させておくに越したことはないと思うからだ。

まだ小さくても、これまでに色々なお勉強をしてきている子や、慎重で間違えるのを嫌う子などは、文章題を読んで式を立てる前に、足すのか引くのか尋ねてきたりもする。(世間一般にはそういう子は決して少なくないようだけれど、うちには殆どいない。)

そういう子にはもちろん答えないのだが、「どう思う?」とか、「思ったようにやってみて」と答えるようにしている。
仮に間違えた式を立てて計算したら、出てきた答えを見て考えさせればいいと思うからだ。

因みに、小さい子の場合、答えは出るけど式の方が難しいということもかなりあるようなので、式で悩んでいるようなときには、「式はあとからでいいから、答えわかる?」などと尋ねてみることもある。

すると、式はわからなくても答えが出るという子は案外多い。答えを出した後で、その答えを出すにはどんな式を作ればいいのか、後付で考えてもらうこともあるが、それは大先生もおっしゃっていて、小さいうちはそれでもいいそうだ。

というか、中学生ぐらいになってしまえば、この式を使わなければ×なんてこともなくなるので、(悲しいかな、小学校の間は先生によっては「公式通り」、「教えた通り」にやっていないと×にする先生も少なからずおられるようなので・・・)長い目で見れば答えが出るならそれでいいような気もする。

文章題を読んで、極端な数の問題を笑える子、つっこめる子は見ていて嬉しくなる。
それは私が関西人だからなのだろうか・・・。(苦笑)

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2007年2月 9日 (金)

やっぱりお母さんって偉大だ。

お母さんは偉大だ、素晴らしいと、いつもそれは思うけれど、今日も素敵なメールを頂いた。

とても頭のいい可愛い子なのだけれど、国語に対して強い苦手意識を持っている子がいる。
本当に賢い子なので、本来そこまでできないはずはないのだが、コンプレックスがあまりにも強くて、できるはずの問題も受け付けないのだろうとさえ感じられる。

どうすれば少しでもその意識の壁を低くできるのだろうといつも思っているのだが、その子のお母さんからのメールに、その子がお母さんあてに書いた置手紙に漢字が使ってあって嬉しかったと書かれていた。

その一文を見て、思わず涙が出てしまった。

子どもが書いた短い置手紙。
そこに漢字が使われていたことに感動できるのは、本当にその子のことを思い、悩んでこられたからに違いない。

他人の私が想像するより遥かに、母の愛は深いのだなと、なんだか改めてそんなことを感じた。

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長さやかさの学習で。

うちの子達は本当にみんなよく頑張ってくれるけれど、長さやかさなどの単元ではスーパーな子でもてこずるぐらい、かなり面倒な単位換算の問題が登場する。

正直言って、大人でもうんざりするに違いないほどのレベルだし、普段の生活で馴染みが薄い「デシリットル」が関係してくると、お母さん方の中には「答えがないと丸つけができない」とおっしゃる方もおられるほどだ。

そんな厄介な問題がプリント1枚にずらっと並ぶと、うちの「普通」の子達はやはり手を焼く。
もちろん、それぞれの子に応じて問題数を減らしたり、比較的易しいものをピックアップしたりする場合もあるのだが、見た目の難しさに圧倒されるのか、時々本当に全くわけのわからない答えを書いてしまう子がいる。

簡単な問題(例えば5cm4mm+3cm7mmなど、単位が揃っているような・・・)であれば難なく正解するし、そのプリントに至るまでには長さを測ったり、指定された長さの線を描いたりもしているので、本来ならそんなとんでもない答えを書くはずはない。

また、同じことがかさの単元でも起きることがあるのだが、かさの場合、リットル・デシリットル・ミリリットルはますの大きさで実感してもらうようになっている。それである程度感覚が身についてからの問題演習になるのだが、こちらも時折わけのわからない答えを書く子が登場する。

そんなとき、「なんでそうなるの?」と尋ねたところで、気づかない子の方が多い。
そういう子に、例えば、756cmは1mより長いか尋ねると、考えて長いと答えられる。で、それが7m56cmだとも答える。それで正しい答えが出る場合もあるが、どこかにはまり込んでしまっている場合はそれでもダメということもある。

そうなれば、実際に巻尺などを見せることになるわけだが、見せて正解に辿り着く作業を何度か繰り返すと、頭にイメージが蘇ってくることが多い。
要するに、まだ書かれた単位を見ただけではその長さやかさがイメージできるところまでになっていないということなのだろう。

ただ、普段できているのに、ときどきスポッとどこかにはまり込んで、わけのわからない答えを連発し始める現象に出会う。
疲れているときや、レッスン終盤になり頭の限界が来ているのかと思われるようなときに、そういうことが起きがちだ。

つい昨日も、普段は賢い子なのだが、12センチ5ミリから58ミリを引くんだっただろうか、単位が揃っていない引き算をしようとしていた子が、何度やっても12センチより長い答えを書いたり、一体何をどう考えたか見当さえつかないような答えを書いたりと、その問題にはまり込んでしまった。

プリントで58ミリが何センチ何ミリかは正しく直せている。直せているのであれば、本来のこの子なら少なくとも7センチ前後の答えを出せるはずなのに、どうもその日はどこかに入り込んでしまったようで、それが出てこない。

あれこれ尋ねた末、12センチ5ミリはどのぐらいか手で示してもらった。その子が示した幅は恐らく15センチほどはあったとは思うが、それなりに考えてそれっぽい長さを示すことができていた。
その後、58ミリも示してもらった。その上で、さっきやった長さから今の長さを引くのだからということを確認し、もう一度プリントに戻ってもらった。

そして、隣りの子の丸つけをしてからその子を見ると、解答欄には正しい答えが書かれていた。

私たちはミリやセンチやメートルと言われればすぐにある程度のイメージができるものの、子ども達はまだそうはいかない子の方が圧倒的に多いのだ。
仮に尋ねられれば1センチや1ミリ、1メートルのおよその長さを手で示すことができるとしても、それは意識させないと、まだ自然に頭に浮かぶ段階まで来ていない子も少なくない。

もしお子さんが長さやかさなど単位換算の関係する学習で困っておられたら、それぞれの単位が単なる暗記ではなくて、実際にイメージできているか(特にメートルまでの長さやリットルまでのかさなどは実感させることが可能な範囲だと思うので)、確かめてみてほしい。
困っているときには手や物を使ってその量を表してみてもらうのも、正しく考える手助けになるように思う。

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2007年2月 8日 (木)

なんか響いた。。。

買っただけで日記はつけてないのだけど(ま、ブログが日記なので)江原さんのダイアリーの今日のメッセージがなんか響いたので、ちょっとご紹介。

「何かを得れば何かを失う」。これはこの世の真理です。
裏を返せば「何かを手放せば新しい何かを得る」ということです。

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全く気づきませんでした・・・。

私のブログにはカウンタ表示がありません。
多少まともなアクセス解析ができるようになってからどのぐらいになるのかもよく覚えていません。
日々のアクセス数は見ていましたし、たくさんの方がいらしてくださると書く励みにもなっていました。
でもまぁ、よくわからないアクセスもあったりするし(短時間で同じIDが大量に並ぶとか・・・)純粋に訪れてくださって、読んでくださっている方の数はよくわからないしなぁと、その程度にしか見ておりませんでした。

が、先ほどふと気づきました。読書・日々の両ブログの累計アクセス数が10万件を超えているということに!!(1万件だろうと思って、三度ばかり見直したりしました。(苦笑))
1年2、3ヶ月ぐらいになるのかと思いますが、私の拙い、ときには限りなくくだらないブログにこんなに沢山のアクセスを頂いて、驚きのと皆様への感謝の気持ちでいっぱいです。

このところずっとバタバタで、おまけにずっと何か考えているため、もともと広くない頭のキャパがオーバー気味で、まともな文もなかなか書けておりませんが、これからも続けていきたいと思っておりますので、今後共どうぞ宜しくお願い致します。

これまで全く気づかなかったため、突然変なタイミングではございますが、心よりお礼申し上げます。

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2007年2月 7日 (水)

今日のびっくり。

今日(6日)、かなりびっくりした出来事。
あ、それはある意味「感動」に近いびっくりなのだけど。

火曜は初期組スーパーちゃんたちがずらりと登場する日なのだが、今日のびっくりはスーパー5年生くん。
彼とは彼が2年生の夏休みからのお付き合いだが、照れ屋でどちらかというと無口で、何年経ってもシャイな可愛い子である。

しかし、この彼のスーパーぶりはこれまで何度も紹介してきた通り、かなりすごいものがあり、週1回1時間だけのレッスンだが、既に6年生のワーク(教科書準拠と中学受験用の中間ぐらいのやや難しいもの。ページ数もそこそこ。)の4分の1ほどが済んでいる。
それとは別にどんぐりの文章題や論理パズルなどもやっているのだから、どれだけすごいかわかって頂けるだろうか。

その彼とは前回レッスン終了間際に平均の単元の学習をした。
学習したという表現が正しいかどうかちょっと微妙で、とりあえず「平均」というのがどういうことか知っているか尋ねると、「うん、知ってる」と答えたので、例題も説明も何も読ませず、問題をやってみてもらった。
すると、確かに理解していることがわかったので、何問か問題を解いてもらい、その前の単元の問題と合わせて宿題に出しておいた。

1週間経ってやってきた彼のワークの丸つけをしようと手を伸ばすと、「あ、いっぱいやった。」と言った。いっぱい?そう思いながらワークをめくると、10ページ近くやり進めてあり、おまけに平均の次の単元は苦手な子の多い「速さ」の単元だったのだ。

しかし、見てみると、時速や分速という言葉などを付け忘れていることなどはあったが、かなり高い正解率だ。間違えたところも、うっかり間違い(小数点の位置を間違えたり、単位換算で桁をひとつ間違えたり)というようなもので、考え方を間違っているものはほぼ皆無に等しかった。

一切何の説明もしていないのに、彼は速さの問題をいとも容易く解いていく。
もし彼に、「速さの問題ってややっこしいよね?」と尋ねても、「え?どこが?」と答えるだろう。
ただ、例によってきっと彼は、今誰かに速さの公式を尋ねられても答えられないんだろう。

正直なところ、速さの単元はこの子なら殆ど説明なしにできるだろうとは思っていたものの、何も言っていないのに自らそんなに沢山やってきたことにはかなり驚いた。
そして、予想を遥かに上回るほど容易くやってのけていることにも改めて感動した。

そして思う。
この学習法に出会ってから、これまで自分が受けてきた指導や、それが当たり前なのだと思って塾講師時代同じように子ども達にしていた指導が、どれだけ無駄で退屈なものであったのか。

もちろん、ものによっては理屈抜きに覚えなくてはならないものもあるだろうし、何もかも考えて解いていては時間切れになってしまうなんてこともあるだろう。
意味もわからぬまま公式を覚えてそれに当てはめれば、それなりの点数が取れるテストは少なくないのだから、覚えさせることに重点を置いた指導になるのもやむを得ないのかもしれない。

ただ、もし低学年から始められるのであれば、週1時間のレッスンで彼やスーパー4年生ちゃんたちのようになることはそう難しいことではないのだと思う。
もちろん、性格的なものや家庭環境その他で個人差はあるだろう。それでも多分、この学習法を通してこれからも続々とスーパーちゃん、スーパーくんは誕生し続けるに違いない。

大先生に出会って、初めに聞かせて頂いたお話の中に、この方法で指導していくと、年々指導することがなくなっていきますよというものがあった。
それを初めて聞いたとき、にわかには信じられなかった。学年が上がるにつれ、指導することがなくなっていくだなんて、常識的には考えられないだろう。

しかし、その「信じられないこと」は現実になっているのである。
教室の子ども達はレッスンを重ねるにつれ、自ら考えようとし始める。
私が何かを言うときは、知らない用語が出てくるときや、子どもが考えてもわからない様子のときにヒントを出すぐらいで、新しい単元だろうとなんだろうと、この子の力ならできるのではないかと思うことはまずやらせてみる。
それに慣れた子ども達は、考えてもわからないことしか質問しなくなるし、新しい問題にもまずチャレンジしてみるようになってゆく。

大先生がおっしゃったように、レッスンする期間が長くなればなるほど、私の出番は少なくなっていくのだ。
さて、まだ続きがあるのだが、また長くなりそうなのでひとまずこの辺で。(続きはまた。)

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そういえば。

先日、わざわざご丁寧にピ○マリオンのK先生からご連絡を頂きました。

私の方に直接お問い合わせくださって、ご紹介させて頂いた方にはそう申し上げているかと思いますが、直接ピ○マリオンさんに問い合わせをされる際は、大先生、K先生、もしくは事務のMさんのいずれかを指名してもらえたらとのことです。

スタッフの方の中には教材その他のことをあまりお分かりでない方もおられるため、適切なお答えができないかもしれないのでと、わざわざお気遣い頂きました。
先生方は水曜から土曜はご出勤です。それ以外の日はメールで連絡頂けるとありがたいとのことですので、先生方がお忙しいのでは・・・とご遠慮なさらず、ご指名なさってください。

宜しくお願い致します。

※大先生・K先生・Mさんのお名前がお分かりでなくて、あちらにお問い合わせをされたい方はご遠慮なくお尋ねください。
不特定多数の方がご覧になっていますので、ここではイニシャルだけにさせて頂いております。どうかご了承ください。

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2007年2月 6日 (火)

その言葉が意味するところ

昨年の秋にある勉強会に参加させて頂いたのがきっかけで、これまで何人かの先生方にうちの教室でメインの教材として使用しているものをご紹介させて頂く機会があった。

同じ頃からブログも始めたので、ブログ経由でお問い合わせを頂き、ご紹介させて頂いた先生も何人かおられる。

実際に教室にお運びくださり、教材や教具をご覧になった先生方がほぼ皆さんおっしゃった言葉がある。
つい先日もある先生が出張のついでに名古屋からいらしてくださったのだが、その先生も同じことをおっしゃった。

「まず自分の子どもにやらせたいです。」

これまでご紹介した先生方で、小さいお子さんをお持ちの方恐らく全員が同様のことをおっしゃった。

私がこの学習法に初めて出会ったとき、私には子どもがいないので(旦那もいないけど・・・)、「自分の子どもに」という発想にはならず、その代わり、「私がこれで勉強したかった!」と強く思ったことを覚えている。
自分も子どもの頃にこの学習法に出会っていれば、今頃もっと賢かったんじゃないだろうかと、そう思えたのだ。

そして、お子さんがおられる先生方はほぼ例外なく「自分の子どもにやらせたい」とおっしゃるし、これまでここに尋ねてくださった方で、既にお子さんが大きくなられている方の中には、ご自分のお子さんにはもう間に合わないけど、「孫ができたら・・・」というようなことをおっしゃってくださった方も何人かおられる。

一般の方はともかくとして、同業の塾長先生、塾講師の先生方がご覧になって「自分の子どもにやらせたい」という、その言葉の意味するところを感じてほしい。
少なくとも、同業の皆さんはこれまでにもずっと子ども達の指導に当たってきておられるのだ。少なからず、指導法、学習法などはご存知のはずだし、それぞれに成果や実績がおありのはずだ。

その先生方が「自分の子どもに」とおっしゃるのだ。
つまり、これまで見てきた学習法、指導法とは明らかに何か違うものを感じてくださっているに違いないし、それがとても魅力的なのだと思う。

そして思うのだ。
お子さんがおられる親御さん、子ども達の指導に関わっておられる大人の皆さんは、今その子ども達がやっている学習法、子ども達にしている指導法を、もし自分が子どもだったらやりたいと、受けたいと思われるだろうか?

少なくとも、私は子どもの頃計算ドリルとかが面倒で嫌いだったので、大量の反復学習なんて絶対にやりたいと思わない。
いくら賢くなる(それが事実かどうかは別として)と言われても、何時間も何日も大量にドリルやプリントをやって、暗記を繰り返したいとは微塵も思わない。
だから私はそれを子ども達にやらせようとは思わないのだ。

私自身は大量の機械的反復に反対しているが、もしかすると子どもの頃にそういうことをされて、今立派な大人になっておられる方もおられることだろう。そういう方はお子さんに自信を持ってその方法を勧められるのだろうとも思う。
それはそれで私がとやかく言うことではない。

ただ、もしももしも、ご自身がそういうことをやりたくないと思っておられたり、実際に子どもの頃にそういうことをやってつまらなかった、辛かったなどと感じておられるような方は、少なくともお子さんにそれをやらせないで頂きたいと思うのだ。

私が自分の教室で今やっていることは、基本的に全て、自分が子どもの頃にこんな指導が受けられたらよかったのにと思うものだ。
だからこそ、迷いなく自信を持って勧めることができる。

もちろん、万人に共感してもらおうなんて思っていない。
以前から書いているように、私は職人になりたいのだし、「個性的な靴」でありたいのだから。

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2007年2月 5日 (月)

確かな成長

子ども達はやっぱりすごい。

普段、ブログには「スーパーちゃん」のことを書くことが多いのだが、やはり中には単元の内容その他によって苦戦する子もいるし、機械的大量反復などの影響で、見事に数量感がないままやってくる子もいるので、なかなか結果が現われず、自分の無力感を感じることもまだまだ少なくない。

また、生まれつきなのか、ご家庭で意識していないけれど子育ての際に何か好影響を与えるものがあったのか、やはり小さい頃から算数などのセンスが抜群の子もいれば、そうではない子もいる。

そして、その子の性格的な影響で、失敗しても笑って済ませられるタイプの子もいれば、失敗することを極端に嫌い、失敗するかもしれないこと、難しそうに感じることには最初から挑戦しないタイプの子もいる。

更に、幼児や低学年だと、例えば4月生まれの子と3月生まれの子であれば、ほぼ1年の差があるわけで、同じ1年生といっても、一方は早々と6歳になり、他方はあと数日遅ければまだ幼稚園だったというような子が学校の同じ教室で同じように学習するということも当たり前に起こる。

しかし、もちろんこれも個人差があるとはいえ、その頃の1年の成長の差はやはり大きいように感じるし、早生まれの1年生が他の同級生より理解に時間がかかっても、それは当然なのでは?とも思える。

もともと、うちのメインの教材は普通にやっても学校の進度より十分先に進めるものだから、最近はその子の状況に応じて、その教材の進めるペースを調整して、必要に応じて別教材を挟み込む度合いを増やしたりもしているのだが、そういう「ペースのゆっくりな子」や「早生まれの子」、「失敗を恐れて新しいことになかなかチャレンジしようとしない子」たちの成長をこのところあちこちで感じることがある。

それは本当にとてもとても嬉しいことだ。

ある年中さんは、運筆がなかなか思うようにいかず、また積み木などの形のレッスンもかなり苦労することが多くて、それに関してはおうちの方も心配しておられたようだ。
しかし、5歳のお誕生日が過ぎたあたりから、色んなことがひと段階ぐんと伸びたように感じる。
本人にも「さすが5歳になったらお兄さんになったね~。」と、これもこんなに上手にできるようになったね、こっちも前よりずっと早くできるようになったね、そう言えることが増えた。

もちろん、子どもの成長は直線状に行くものではないのだろうから、行きつ戻りつかもしれないが、伸びるまでの期間が他の子達より長くかかっても、こんな風にぐんと伸びる瞬間があるのだなぁと改めて感じた。

また、これもかなり感動したのだが、1年生のある女の子は失敗することがとてもイヤなようで(私もそういう子どもだったが)、見た目が難しそうだとその問題を避けようとするタイプの子だった。そういう性格であることをお母さまもよくわかっておられ、これまでも習い事などに慣れるのに時間がかかったり、色々なことがおありだったとも伺っていた。

その彼女は3桁同士、4桁同士の暗算に強烈な抵抗を示した。それは去年の秋頃のことだったと思う。
2桁同士はある程度ちゃんとできていたし、学校よりは十二分に進んでいたこともあり、お母さまのご希望も考慮して、しばらくパズル問題など違うことをやったり、暗算は一旦保留にして先に筆算に進んだりして、少しずつ彼女に自信をつけていってもらった。

パズル問題であれば、間違っても消して何度もやり直せるようだったのが予想外に嬉しいことだったが、結構気に入って色々な問題に取り組んでくれた。それで少し自信を取り戻したところで教具を見せつつ数量感をしっかり身につけてもらえるようレッスンを繰り返し、けれど、暗算には拘らず、ひとまず筆算に進んでみた。

筆算はどれだけ桁が多くてもバッチリできるようになったし、それは彼女にとって大きな自信になったようだ。
更に、彼女は図形などの問題は得意に感じているようで、その単元に進んで更に自信を深めた様子だった。

手元に数ヶ月前やりかけで保留にしたままだった3桁同士、4桁同士の暗算のプリントが数枚と、色々な数直線の問題のプリントが1枚残ったままで数ヶ月が過ぎた。

その日のレッスンもとても順調に進み、彼女もご機嫌で、次に進むには中途半端な時間が残った。
そこで、ずっと手元に置いてあった暗算のプリントを取り出してやってみてもらうことにした。

以前の彼女なら、難しそうなプリントだと感じた時点ですぐに表情に表れ、やるのを嫌がるという感じだったので、表情の変化に気をつけながら、「筆算してもいいからやってみて」と、内心はちょっとドキドキしながらも、軽い感じで差し出してみた。

すると、全く表情を変えることなく、「うん、わかった。やってみる。」そう答えたかと思えば、筆算を書こうともせず、暗算で考えてみようとしている。
それも、比較的簡単な暗算だったため、本来の彼女の力なら十分解けるものではあったのだが、以前はやってみようとさえしてくれなかったそのプリントを、「なんか簡単そう♪」とまで言って真剣な表情で問題に取り組んでくれている。

すごく嬉しかったし、すごく感動もした。
そのプリントをやりながら彼女が、「なんでできなかったんだろうね?」とさえ言った。
「そうだね。なんでできなかったんだろうね?不思議だね。」と答えると、「うん、不思議、不思議~。」と楽しそうに言った。

この分ならこれもやれるかな?と、過去最高に抵抗を示し、1問やっては預かり、また1問やっては預かって、それでもそれ以上進めなくなってしまっていた数直線の問題のプリントを取り出した。
そのプリントには10月の日づけが書かれていた。

さて、これにはどんな反応をするだろうと、やはりちょっと心配しながら取り出すと、初めの問題はやはり少し難しかったようで、一瞬表情が曇りかけたのだが、少しだけ手を貸すと、後は自分で考え始めた。
そして、以前は難しいからといって全く手を出そうとしなかった問題までも、「これもできそう、やってみる!」と彼女自らそう言って、取り組み始めてくれたのだ。

そして、無事そのプリントも終えることができた。

もともと、レッスンをしていても、頭のいい子だということは何度も感じていた。ただ、失敗を避けたいという気持ちが強すぎて、新たな問題に取り組んでもらうのが非常に困難ではあった。能力的な問題ではなく、気持ちの問題だったのだと思う。

その彼女が、少し時間をかけて、少し回り道をして、他のことでいっぱい自信をつけて、当然数ヶ月の間に成長もしたのだろう、こうして自らひとつのハードルを乗り越えてくれた。

レッスン後お迎えにこられたお母さまは心から感動されて、少しほろっとされていたが、私も同じ気持ちだった。

子ども達は成長する。
すぐに目に見えて成長する子もいれば、じっくりゆっくり時間をかけて、大人が諦めかけた頃にぐっと伸びる子もいるのだろう。

先日も書いたばかりだが、「できない」ことを必死になってやらせようとすると、お互い苦しいことばかりで、結局本当に才能を潰してしまうことだってあるだろう。
今回の彼女も、もしお母さまがカリキュラム通りの指導を望まれていたら、回り道でもゆっくりでもいいからと言ってくださっていなければ、無理矢理でもそれらを指導して、彼女の中には嫌な記憶だけを残してしまっていたかもしれない。

子ども達は本当にそれぞれ違っている。
私ももっともっと学んで、成長しなければと思う。

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2007年2月 4日 (日)

教室のアイドル

別に書きたいことがあるのですが、今日の仕事も何だかんだ遅くなり、そろそろ掃除して帰らないといけません。。。
というわけで、休日ですし、ちょっとくだらない話題で失礼致します。(笑)

実はうちの教室には、私の強敵、いや、多分私よりも子ども達のモテモテの超人気者がいる。

しかし・・・大人である私からすると、彼らになぜそこまでの魅力があるのか、どうもわからないのだが、その人気っぷりやスゴイものがあり、教室に来てくれた際や帰り際に必ず彼らと戯れ、彼らの姿が見えなかった日には「○○○に会いたいなぁ」とまで言わせしめるツワモノである。

教室にいらしてくださった方は何となくお分かりかと思うが、今日はうちの教室をご存知ない方に特別に、教室で一番モテモテの彼らの写真をご紹介しよう。

↓モテモテの彼ら。(画像貼れてます?なぜかしましま模様に写ってしまいました・・・。)

Motemote

因みに、金属でできたちっちゃなちっちゃなシーソーである。
もともと、私が小学生か中学生の頃に誰かに頂いたものなのではないかと思う。以前部屋を片付けていたら見つかったので、教室に持ってきて何の気なしに飾ってみたのだ。

ある男の子は彼らを「棒人間」と呼び、会えないと本当に淋しそうな顔をするぐらいこよなく愛している。
他の子たちもほぼもれなく触って、揺らして、落として、笑って、元に戻して帰っていく。
まあ、殆どみんな男の子なのだが。

う~ん、なぜこれにそこまでの魅力があるのかは、私にはわからん。。。

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すみません・・・

帰ってから書くつもりで、書きたいこともあったのですが、食べ過ぎて頭が回らず、ぼ~っとしていたら2時を回り、寝ないと明日危険かもということで、本日は失礼致します。
明日(というか今日)の晩には更新できると思います。(書きたいことを忘れなければ・・・)
宜しくお願い致します。

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2007年2月 3日 (土)

今日は節分。

すみません。
年中行事を重んじる派(?)の私としましては、やはり今日は巻き寿司といわしを食さねばなりませんため、巻き寿司が売り切れないようとりあえず帰宅させて頂きます。

豆まきは毎年ひ~~~~~っそりと自宅のバルコニーと室内に本当に気持ちだけひとりでまいています。
今日6年の子に「大人になっても豆撒きするん?!」と半ば呆れられましたが、せずに「厄」が訪れると困りますしね。(苦笑)

帰宅後更新させて頂く予定です。
けれど、明日も朝から夕方までしっかりバッチリ出勤です。

それでは皆さま、節分をご堪能ください。(笑)

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2007年2月 2日 (金)

できないことに目を向けると・・・

これまでにも何度かそんなことは書いてきたような気もするし、私は子育て経験もなく、当然「親」になったことがないので、いくらお話を伺って「皆さんそうらしいですね」とか「皆さんそうおっしゃいます」とか、そういうことは言えても、自ら実体験をしたわけではないので、最終的には「あなたにはわからないのよ」と言われてしまえば「はい、その通りです・・・」というしかない。

それでもやはり思うのだ。
そして、子ども達のためにもやっぱり何度でも伝えなくてはと思うのだ。
大人でありながら、親ではない私だからこそ感じることなのかもしれないから。

うちに来てくれている子達は本当によくできる子が多い。もちろん、中には「よくできる」とまではいかない子もいなくはないが、最近は「普通」とか「できない」とか言われる子のレベルがわからないので、ここでの「普通」は学校では「よくできる」なんじゃないかなと思ったりもしている。
(何しろ、ここの子達は低学年でもほぼ1時間しっかり集中して問題に取り組むし、それができない子は基本的にいないので、私にとっては1時間一所懸命レッスンを受ける子どもというのが既に「普通」になってしまっているわけだし。)

そんなにも素晴らしい子達だらけなのに、親の目から見ると、どうしても「できないところ」に目がいく方がまだまだ少なくないように感じる。

10個のことのうち7個とてもよくできていても、できていない3個が気になってしまう、すごいときなど10個のうち9個が本当によくできていて、あとの1個も私からすれば普通(私の感じる「普通」)かそれ以上にできているような場合でさえ、その1個が気になってしまう、そんな親御さんは決して珍しくない。

中学時代の同級生に私達からすると気の毒な子がいた。
仲のいいグループのメンバーの一人で、グループの中でも頭のいい子だった。テストの平均点が50点ぐらいしかないようなときに、その子は80点や90点を取って、学年でもかなりの上位になっているようなときでさえ、その子のお父さんは取れなかった10点、20点に対して怒るのだと彼は言っていた。

どんなに頑張っても100点でない限り、彼はお父さんに認めてもらえないのだそうだ。
グループのみんなは「信じられへ~~ん!!」とかなんとか口々に言いながら、彼を気の毒だなと感じていた。
正直なところ、成績でいえば彼の方が私なんかよりずっとよかったのは間違いないのに、私は親に成績のことで怒られたことなんて一度もなかったし、彼は褒められることが滅多になかったのだ。

この話を聞いて、彼のお父さんは理不尽だと感じる方は少なくないと思うし、そんなことしていたら伸びる才能を潰してしまうわと感じる方だっておられるに違いない。

人の話であればそう感じる方であっても、いざ愛する我が子のこととなると、そうはいかなくなるものなのだろう。
けれど、愛する我が子のことを思うのであれば、そこを克服しなくてはならないのではないかとも思うのだ。

もちろん例外はあるだろうし、じゃあ、できないことに目をつぶっていた結果、将来それが仇となったら責任とってくれるの?といわれたら、私には責任の取りようはないので、だったら無責任なことを言うなと言われればそれまでである。

なので、そう思われる方はこれ以上私は何も言えないし、読み流して頂けばいいと思う。
でも、少しでも何か感じてくださる方がおられたら、大切な大切な子ども達のために、やはり言いたい。

もし仮に、10個のうち2個のことしかうまくできない子がいたとしよう。
しかし、その子の親はできる2個に目を向けて、「○○ちゃん、すごいね。よくできるね。」と心からそれを褒めて育てたとする。
そして、10個のうち8個のことはうまくできる子がいたとしよう。
その子の親はできない2個に目を向けて、「○○ちゃん、ダメじゃない。この2個もできるようにならなきゃ。」とか、「どうしよう。○○ちゃんはこの2個ができないのね。お母さん心配だわ・・・。」とか、そんなことばかり言って育てたとする。

数年後、どちらの子どもが素敵な子どもに育っているだろう?

もちろん、例外はあるだろうし、「素敵」だけどお勉強はできないとか、そういうことはあるかもしれない。
それでも、多分間違いなく、幸せで素敵な子に育つのは前者なんじゃないだろうか。

場合によっては、2個しかできなかった子が8個できた子を逆転することだってあるんじゃないかとさえ思う。

できないことにばかり目を向けられている子どもは、きっとどんどん自分に自信をなくす。親に愛されてないんじゃないかと思い始める子だっているかもしれない。
そんなことが続いたら、その子がぐんぐん伸びていくということは極めて考えづらい。

しかし、できることに目を向けられている子どもは、自分に自信が持てるし、親の愛情もしっかり感じられるに違いない。「できないことはあるけど、お母さん(お父さん)はちゃんといいところを見ていてくれる」と感じた子どもは、できないことにもチャレンジする強さを身につけるかもしれないし、できることは一層得意になっていくに違いない。

私もときどき、他の子たちはみんなできているのに、なぜこの子は・・・と感じてしまうことがないわけではない。
しかし、うちの教室の子たちは殆どみんなが学校より難しいことに取り組んでいるのだ。であれば、今その子ができないからといって、私が心の中でであってもそう感じることは、かえってその子の伸びを妨げるのではないかと感じる。
そしてまた反省するのだ。

一部の親御さんが子どものできないところに目が向いてしまうのは愛するがゆえなのだということはわかる。
けれど、愛しているのなら、どうか我が子の素晴らしいところに目を向けて、お互い幸せな気持ちになって頂きたいと思う。

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2007年2月 1日 (木)

ここにも書かせて頂こう・・・。

アンケートのご回答をくださっていない皆さま、期限の1月末を過ぎました。
ご回答が難しいのは重々承知の上ですが、ご回答がございませんと、既にご回答くださった方を優先的に予定を組むことになります。
お忙しいとは存じますが、宜しくご回答のほどお願い致します。

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嬉しいメール

今日からレッスンが始まった子のお母さまからとても嬉しいメールを頂いた。

もちろん私は毎日毎日大好きな子ども達と幸せな時間を過ごしているし、目の前の子ども達のすごさ、素晴らしさには何度も何度も感動させられるし、予想外の言動に笑わされるし、本当にありがたい日々なのだけれど、どこかそれが当たり前になっていて、殊更に感動しなくなっている部分もある。

例えば、教室にきてくれる子達は、体調が悪いとか、疲れているとか、何か悲しいことがあったとかそういう理由がなければ、ほぼ例外なく1時間しっかり集中して問題に取り組んでくれるし、集中しすぎて時間の終わりごろには電池切れになってしまうぐらいの子も続出する。

さすがに低学年だと、1時間集中し続けるというのはまだつらいところもあるのだろう。学校の授業時間を過ぎたあたりから、一所懸命考えているのだけど頭が空回りし始めるという子は少なくない。(ので、新年度はほ~~んの少しだけレッスン時間を短くしようかと考え中でもある。)

そのぐらい子ども達は真剣に問題に取り組むし、頭がくたくたになるぐらい考えている。それは私にとっては日常だ。

しかし、新しく来てくれた子のお母さんや、普段はレッスンをご覧にならないけど何かの機会にちょっとご覧になられたお母さまなどから時々「家とは全然違う」とか、「他ではこんなに集中していなかった」とか、そんな言葉を聞かせて頂くことがある。

そして、今日のお母さんからのメールもそれに近いものだったのだが、本当によく集中して頑張っているお子さんの姿に感動されたそうだ。
そして、お母さまご自身ももっと頑張らなきゃと思ってくださったとのメールをくださった。

新しい子とのレッスンは私も少し緊張する。
もちろん、レッスンをすること自体には緊張するわけではないが、楽しいと感じてくれるだろうか、満足してくれるだろうか・・・そんな不安と、お互いが慣れて何らかの信頼関係ができるまでの緊張があるのだ。

だから、こうしてすぐにお知らせのメールを頂けると、本当に嬉しい。
明日からもしっかり頑張らなくてはと、そう思わせてくれる。

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