子ども達を見ていると、時折ふと無性に腹が立ってくることがある。
具体的に何に対してというのが特定できないのが厄介なのだけれど、目の前で一所懸命問題を解いている可愛い子を通して向こうに見える、私が恐れ、どこか憎んでさえいるかもしれない何かだ。
うちの教室には珍しいパターンだが、受験塾に通いながら並行してレッスンに来てくれている3年生がいる。
もともとは教室を立ち上げて間もない頃、まだ年長さんだったときに一度体験に来てくださったのだが、他にも色々習い事をしておられ、その時点でご家庭で教材を購入されて進められるという選択をなさったようだった。
基本的に私は体験に来てくださった方にその後一切勧誘をしないので、その後その子のことは時が経つにつれ忘れていたのだが、お母さんがお子さんの様子を見て、どうも何か実感がない気がするということで再び3年になってから尋ねてくださったのだ。
しかし、既に2年生から有名進学塾にも通い始めており、何をさせても大抵よくできる。その子を見ながら、私はしばしば冗談で「3年って言ってるけど、実は6年なんじゃないの?」とかいうぐらい、落ち着いているし「賢い」のだ。
計算の速さなどはもう私の及ぶところではなく、ちょっと複雑な計算でもさっさと答えを出してしまう。いつもホントにすごいなぁと感心して見ているのだが、そんな子に対しても、時折説明のつかない感情が湧いてくることがある。
昨日のレッスンでのこと。
複雑な四則が混じった計算や四則計算の一部が□になっていて、そこに当てはまる数を求めるものなど、うちの初期組のスーパー君、スーパーちゃんたちでさえ、やや嫌がりながら解いているのを感じたようなところでも、その子はあっという間に答えを出す。その速さは本当に見事だ。
しかし、ある問題でパタッと止まったかと思えば、訳のわからない数を書き込んだ。
何か勘違いしているのだろうと思い、少しずつヒントを出したのだが、なんだか反応が変だ。とりあえずその問題はどうにかクリアしたのだが、しばらくしてまた同じパターンの問題が出てきた。
その問題というのはこれだ。
(147+12)×58=□×58+12×58
その子はそれまでに分配法則や結合法則を使う、似たような問題を見た瞬間パッと機械的な速さで正解していった。
にも関らず、この問題の□に最初「1」と書いたのだ。
少し前に同じような問題をヒントを出しながらやったところだ。しかし、これはこの子が苦手なところなのかもしれないと思い、改めてこう言ってみた。
「147円のお菓子と12円の飴を58人の子に配るとしたら、いくらになるかってときにこんな計算(左側の式)するよね?」
すると、式を見ながら、
「あぁ~、うん。」
そう答えた。
さっきも同じようなヒントで解いたのだから、私は当然この段階で
「あぁ~~!な~んや、そういうことか。」
という反応が返ってくるものと思った。
しかし、予想は完全に外れ、
「12?」
「なんで?」
「ああ、50?」
「なんでその数が出たの?」
そんなとんちんかんな会話がしばらく続いた。
もう一度彼の目をしっかり見ながら、プリントに147円と書いたお菓子の袋の絵と12円と書いた飴の絵を描き、同じことを尋ねた。
更に、式の後ろの部分を指して、
「これは12円の飴が58人分ってことやんね?」
そう尋ねると、それには疑問はないらしく、素直にうんと頷く。
さすがにこれで「あぁ~~っ、そうか!」という言葉が聞けると思った。
しかし、更に予想は外れた。
更に何度かやり取りをして、最後にはどうにかこうにかやっと答えに辿り着いてくれたのだが、少なくともこの問題を解くとき、この子の頭の中には何のイメージもなく、ただテクニックとして身につけた(もしくは身につけさせられた)方法で答えを導き出しているに過ぎないのだろう。
ヒントとして私は、「147円」と「12円」と言っているのだし、58は「人」だと言っているのだ。このヒントで頭に思い浮かべなければならないものは、147円のお菓子と12円の飴、そして58人の子ども。
後は一人ひとりにそれらを配るというイメージだけだ。
少なくとも、それが思い浮かぶ子であれば、このヒントを聞いた瞬間に気づくし、□に「1」や「50」などという何なのかわからない数を入れることもないはずだ。
もちろん、算数が苦手な子、あらゆる文章題で苦戦する子であれば話は別だけれど、この子はいわゆる「植木算」や「鶴亀算」のように、そういう塾でテクニックを教えてくれる問題に関してはさっさと解いてしまう子だ。
また別の話だが、もうひとり、やはり有名受験塾に通いながら週に1回だけ来てくれている子がいるのだが、その子はおうちの方の方針がとてもしっかりしておられ、そういう塾に通いながらも頭の柔軟さを失っていない子だ。工夫したら簡単になるよというようなことをいうと、すんなり「ああ、そうか!」とそれを理解し、その後は何か工夫できないかなということを意識するような子なのだ。
見ていて、その子は本当にバランスよく賢いなぁと思っているのだが、そのお母さんのお話では、その塾の懇談などで繰り返し繰り返し「計算が遅い」と言われるのだという。挙句、下のお子さんに関しては年長ぐらいからプリント反復塾などに通わせておいた方がいいというご親切なアドバイスもされるのだそうだ。
先の子は記憶力や覚えたことを使う力という意味では確かにとても「頭がいい」のだろう。おまけに、小さい頃から色んなことをしてきている子なので、実際間違いなく「賢い」には違いない。話していても、この子ができが悪いと感じることなど一度もない。
ただ、そんなに「賢い」子が前述のヒントで何もイメージできないということは、本当に「賢い」と言っていいのだろうか。
そんな勉強が本当にこの子の将来のためになるのだろうか。。。
そういう塾に通っている子でなくても、例えば算数に苦手意識を持ってしまってから来てくれる子達を見ていると、とにかく急いで答えを出さなければいけないと思っているように感じる子たちが少なからずいる。
「速いことがいいこと」
幼児や低学年に対してまでそんな教育が広くなされているような気がして、私はまたやり場のない憤りを感じるのだ。
「賢い」ってどういうことなんだろう?
少なくとも3、4年生ぐらいまでの小さな子達に対して求められるべきは「機械を目指す」ことでないのは間違いないと思うのだが。
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