経験の重要性
子ども達と割り算や分数の学習をするときに、しばしば感じることがある。
半分とか倍とか、4分の1とか8分の1とか、そういう感覚が優れている子とそうでない子の差だ。
もちろん、どんなものでも得意な子と苦手な子がいるので、全てに当てはまることではないだろうけれど、兄弟がいる子は半分にするとか2人や3人で分けるという感覚は、一人っ子に比べてやはり優れていることが多い。
また、折り紙などで遊ぶのが好きな子も分数の学習のときすんなり理解できるということも多い。
1枚の紙を2分の1や4分の1、8分の1などに折ってみてというと、2分の1はまあみんな半分に折る。4分の1も2回折る。そこまでに殆ど差は見られない。
しかし、8分の1や16分の1になると途端に差が現れる。
例えば8分の1であれば、何の迷いもなく「半分の半分の半分(3回折る)」にできる子がいる一方で、迷わず4回折ってしまう子がいたり(多分4×4で16というのが頭のどこかに浮かぶのだろう)、2回折ったものを一旦開いて、どう折れば8つになるかじっと考える子がいたり、考えて気付いても、一度開いた状態でそれぞれを半分に折り直す(全部で4回折ることになる)子もいたりする。
折り紙を何回折ればいくつに分かれるかは、子どもの頃から色んなものを折っている子であれば、感覚的に身についてくるもののような気もしないではないのだが、実際には、8分の1を作るときに半分の半分の半分にできない子は少なからずいる。
また、あまりのある割り算などでも、普段から兄弟や家族でお菓子などを分ける経験をしている子であれば、きっちり分けられないで余るということが感覚的にわかるのだが、そういう経験が少ない子どもだと、途端にあまりのある割り算は「難しくて面倒なもの」になってしまう。
私は子どもの頃、家族とよくトランプをした。オセロなどのボードゲームもしたし、おはじきや折り紙、積み木やレゴ、昔ながらの遊びは本当に何でもというぐらいやった。
私が中学生になる頃にはゲームボーイだとかテレビゲームの類も多少広がりつつあったような気がするが、そういうものをほしいと思ったことは一度もなかった。
小さい子が自分の手で家族にトランプを配る。4人ならきちんと同じ枚数になるけれど、3人や5人だと多い人と少ない人が出てくることに気付く。
2人でおはじきをする。とった数を比べるときに、おはじきを一列に並べて長さ比べをする。長い部分の個数だけの差があるということを自然に学ぶ。
兄弟でシールを集めていて、枚数比べをしたら片方が4枚多かった。2枚もらったら同じ数になった・・・。そんな経験で、差を平均する方法を感覚的に知る。
折り紙を縦半分、横半分に折ったら元の大きさの4分の1の正方形になる。対角線で折ったら4つの直角二等辺三角形になる。
やっこさんを折った紙を開いたら、沢山折り目がついていた。あ、ここに小さな正方形がある・・・。そんな発見がある。
図形の名前は知らなくても、そういうことで形やどう折ったらどんな風に分かれるか、等しく分けるとはどういうことかなど、様々な学習の基礎を知らず知らずに身につけていく。
やはり、実生活での遊びを通した経験は非常に大切だ。
割り算で言っても、仮に20個の飴があって、「20÷5」という式があったとしても、ひとり分の個数が決められている場合と、子どもの人数が決まっている場合とでは式の意味が違う。
ひとりが5個であれば「20個÷5個」だが、子どもが5人であれば「20個÷5人」だ。
前者のパターンであれば、あまりがあるときでもひとり分が決まっているのだから、それぞれがその個数を取ったら、残りがそのまま余りである。
しかし、後者のパターンだと、順番にひとつずつ配っていき、残った数が人数を下回ってしまった段階で終了となる。
こんなことだって、普段からものを分けたり配ったりの経験をしている子とそうでない子では当然差が出てくる。
こう考えると、いかに遊びや普段の生活での経験が重要かということを改めて感じる。
もしお子さんが割り算が苦手なのであれば、問題を大量にやらせるより前にすることがあるはず。
それは分数の学習でも同じことが言えるように思う。
そして、更に望ましいのは、苦手になる前に、普段の生活でそういう経験を自然とできる機会を積極的に増やしてあげることだろう。
今日のレッスンをしながら、改めてそんなことを思った。
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