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2006年9月26日 (火)

続・勉強ってなんだろう

読書感想ブログで紹介した本を読みながら、またちょっと考えてしまった。
「勉強ってなんだろう」
以前にも同じタイトルのブログを書いたけれど、仕事柄、これは正解のわからない、永遠に解けないテーマなのかもしれないなと思う。

「お母さんはしつけをしないで」という大胆なタイトルの本。読みながら共感するところも多かったのだが、その中で、自分の子どもが勉強できなかったら・・・と大抵みんな不安に思うけれど、著者は子どもが勉強しなければしなくてもいいじゃないかという趣旨の、なかなか大胆なご意見を書いておられた。

私の仕事を考えたら、そんなこと言われたら困るのかもしれない。
それに、勉強できなかったらそれでもいいじゃないと言われたって、きっと大抵の親御さんは「人の子のことだと思って・・・」というような受け止め方しかされないのではないかとも思う。

ただ、著者がそう述べる理由はちゃんとあるのだ。

子どもが子どもでいる期間は短い。その期間を受験のための勉強に費やし、結果的に難関大学に進み、有名企業に就職したり、国家公務員になったりしたとして、そういう立場にある人たちが皆「幸せ」かどうかは話が別だというようなことを述べておられる。

それを読んだとき、なんか私的にはすごく「ああ、そうよね」というか、「わかりやすく表現してくれてありがとう」っていうか、そんな気持ちになった。

高い(という表現が正しいかどうかわからないが)地位や一般に憧れられるような職業に就いている方、経済的に恵まれている方であっても、幸せを感じていない方は恐らく少ないとはいえないだろう。

一般にはお金はないよりあるに越したことはないとかいうし、それはそうかもしれないけれど、あり過ぎるとかえってそれが争いを生んだり、事件に巻き込まれたりする可能性だって増える。以前、ある人が「人の気持ちもお金で買える」というような発言をして話題になったことがあったが、「お金で買った気持ち」や「地位で手に入れたもの」は、それを失うと同時に消えてしまうだろう。(実際、その発言をした人からは多くの人が手のひらを返したように離れていったようだし。)

以前聞いた話だが、裁判官は中立でなければならないし、守秘義務やら色々あって、退職するまでは同窓会などで気軽に世間話をすることもできないらしいとか。(聞いた話なのでもしかしたら違うのかもしれないが。)
裁判官に限らず、重要なポストに就いている方々は、その責任の重さと日々戦っているかもしれないし、忙しくて家族や友人と過ごす時間もないかもしれない。他人からは尊敬され、憧れられたとしても、自分が幸せでないのなら、その人生が素晴らしいといえるのかどうか。

もし仮に、子ども時代の大切な時間を犠牲にした結果、将来出世したとして、その子がそれを幸せだと感じられたらもちろん何も問題はないし、頑張ってよかったねって話になるのだろうけれど、色々なものを犠牲にして高い地位を得たとしても、その子が幸せを感じられなかったら、それは果たして「目指すべきもの」だったのだろうかということになる。

以前、夢を叶えた男の子の話を書いた。私が以前勤めていた塾で最初に送り出した受験生のひとりだ。
彼は中1のときからずっと工業高校に行くんだと言い、将来は自動車整備士になるんだと言い続けた。全教科の中で数学が一番苦手で、それでも彼の意志は揺らぐことはなく、工業高校へ進学。その後自動車整備士の専門学校に進み、晴れて整備士試験に合格した。

この彼は、数学以外の教科は決してできなかったわけではないので、普通科でよければもっと偏差値の高い学校も受けられるということを中学校からも言われたようだし、数学の苦戦振りを知っているおうちの方も「工業はやめたほうがいいんじゃない?」みたいなことを何度か言ってみられたらしい。

もしそこで彼が意志を曲げて、周囲の大人からすれば彼が受けた工業高校より「いい学校」である普通科に進んでいたら、彼は長年の夢を叶えることはなかったかもしれない。
少なくとも、「楽しい学校生活」にはならなかったんじゃないかと思う。

私は、自分の意志を貫いて夢を叶えた彼を素晴らしいと思うし、すごくかっこいいと思う。
学歴の高い人や勉強のできる人達から見れば、「工業高校を出て自動車整備士」なんて聞いたら、大したことないっていう人もいるかもしれない。けれど、もし彼を軽く見る人がいて、その人が立派な肩書きを持っていたとしても、もしその仕事にやりがいを見出せず、幸せを感じていないのなら、私は彼の方が何百倍も素敵だと思うし、素晴らしい人生だと思う。(そもそも比べるものではないだろうけれど・・・。)

やりたいことを見つけて、それに向かって努力する。
やりたいことをするために、ある子は東大を目指すかもしれないし、ある子は高校を出て仕事を始めるかもしれない。
けれど、自分の人生の目標を小学生の段階で決めることができる子どもはごく限られているだろう。その頃の夢や目標はコロコロ変わったりもするし、(最近は小学生でも将来なりたい職業はと聞くと、公務員とか会社員とかそんな答えをするようだけれど・・・)それでいいんだろうとも思うのだ。

夢や目標を見つけるためにも、子ども時代に勉強以外の色んな経験をすることはとても大切なのではないだろうか。その大切な時間を、不確かな「将来の安定」のために勉強を詰め込むぐらいなら、確かにしない方がマシなのかもしれない。
少なくとも、上述の本の著者が書いておられるように、やりたくない子に無理矢理に勉強させる必要はないのかもしれない。

「かもしれない」ばかりなのは、私自身、まだはっきりわからないからだ。
勉強以外のことに才能を見出せば、もちろん学校の勉強なんてしなくてもいいだろう。
ただ、何の目標も見つかっていない段階で、学校の授業に落ちこぼれてしまっては、やはりそれは子どもにとって不幸なことだろうとも思う。学校の成績がいいということは、少なくとも選択肢が広がるということでもあると思うからだ。

自分の中でもまだまだ答えは見つかりそうにないし、子どもが一人ひとりみんな異なる個性を持っているということから見ても、「正解」には永遠に辿り着くことはないのだろう。

それでも、ひとつだけ確信していることがある。

「勉強は幸せな人生を歩むためにする」ということ。

自分が描く将来の姿にとって勉強が必要なら勉強をすればいい。
何かの職人を目指すとか、芸術家やスポーツ選手を目指すとか、机の上の勉強はいらないと思うのであれば、それもいいだろう。

少なくとも私は、子どもの心を歪めたりしてまで不確かな「将来の安定」のために勉強を詰め込むことは絶対にできないし、やりたくない子を叱ったり強制したりしてまで勉強させることもできない。

そんな人間が教室なんてしていていいのか?なんて批判も出そうだけれど、私はこうなんだから仕方ない。

答えが見つからないこの問題を、この先もずっと考えていくことになるのだろう。
それでも私はいつだって、子ども達が幸せな人生を歩んでいくために必要な力を伸ばすお手伝いをしたい。そう願っている。

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