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2006年9月30日 (土)

限界近し。

今日は予定変更なども重なり、土曜はもともと結構ハードなのに、更にハードな1日でした。

12時レッスン開始で、最後の子を見送ったのが19時10分。その間、休憩できたのは延べ5分?トイレに行ったのと、いっぱいだけお茶を飲んだのと、それが全て。。。

子ども達は可愛いものの、やはり精神衛生上1日7時間ぶっ通しっていうのはよろしくないようです。(苦笑)
分身の術が使えたらいいんですけどね。。。

というわけで、今日はまだ時間的には余裕はあるはずなのですが、もうまともにものを考えて文章にするだけのパワーが残っていなさそうです。。。

やりたいこと、やらなきゃいけないことを積み残したまま、飛ぶように9月は去っていきました。
バタバタしていて疲れていたので、就寝前の腹筋をしばらく完全にサボっていたところ、どうやらまたお腹周りがアヤシイ・・・。サボるとすぐこれっていうのは、やはり歳と共に代謝が落ちてるんだろうなぁってしみじみ感じてしまいます。そんなに食べてないんだけどなぁ。。。

明日から10月。今年もあと3ヵ月。もっと時間を有効に使えるよう頑張りたいと思います。
けど、今日は休みます。(苦笑)

それでは皆様よい休日をお過ごしください。

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2006年9月29日 (金)

不思議な気分。。。

私が尊敬する先生のお一人に「考える学習をすすめる会」のウロコ先生がおられる。
長らく続けてこられたメルマガのひとつがこのたび終了することになり、それに伴ってウロコ先生がメインでブログを始められたようだ。

それにしても、昨日の先生のこの記事を読みながら、なんとも不思議な気分になった。
普段私がブログに書いていることや、書いてはいないが教室の子ども達に言っていることなどが、あまりにシンクロしているのだ。

私は先生を尊敬してはいるが、あくまでもメルマガを介して先生の存在を知り、その後このブログがご縁をつないでくださってお知り合いになれたものの、相変わらず面識はないし、あちらは長野、こちらは神戸。おまけにウロコ先生は小学校高学年からを指導されていて、私のメインは幼児・低学年。

学習指導の面で直接ご指導頂いたことはないし、当然私がウロコ先生にご助言するとかそんなこともあるはずもない。
それにしてはこのあまりのシンクロは、いささか気持ち悪いぐらいだ。

ただ、なんだか嬉しくなってしまった。
尊敬する先生がおっしゃっていることと、私が日々考えていることが同じだということは、目指している方向は間違っていないよと言って頂いたような気分なのだ。

小さいうちは遊べということにしてもそうだし、遊ぶというのは「経験をさせる」ということだということ、それが大きくなってすごい力になるということなど、もちろん同感だ。(これまでにも言ってきた。)

しかし、更に驚いたのは、小数計算のこと。
実はつい先日、足し算・引き算の考え方についても、ウロコ先生の指導と私の教室での指導とが全く同じだということが判明したのだが、高学年の小数計算のとき、私は子ども達に点の付け方を機械的に指導することはしない。

仮に、2.4×3.2なら、2×3で6に近い答えになるはずでしょ?とか、そういうことは言うけれど、(どっちもが後ろからひとつ目に点があるので、あわせて2つ分後ろから戻ったところに点を打つのよというような、昔自分が受けた指導はしないようにしている。(どうせ私がしなくても学校ではいずれそう指導されるのだし。。。)

小数×整数や小数÷整数の計算ぐらいはきちんとできないと困るだろうけれど、小数同士の掛け算や割り算は、考え方さえわかっていれば、完璧を求めようとも思わないし、子どもにも「中学校に行ったら小数同士の掛け算や割り算はほとんど使わないし、答えも大抵小数じゃなくて分数を使うからね」と言っている。

仮分数を帯分数にするのだって、小学生の間だけ求められることで、中学生になれば帯分数なんてものを目にするほうが珍しくなる。
もちろん、帯分数と仮分数の関係は理解できていないといけないだろうし、直せといわれたら直せる方がいいだろうけれど、それがわかっている子には計算の答えは仮分数のままでOKにする。

小学校の間はうるさく言われることでも中学に行けば全く言われなくなることは少なくない。中学受験する子に関しては話はちょっと違ってくるのだろうけれど、公立に進学する予定の子たちには中学以降でほぼ必要ないことに関しては、必要最低限のことしか求めないようにしている。(子どもがやりたいといえば別だが。)

小数同士の掛け算や割り算なんて、私もやりたくない。見た目だけで面倒だし、ちっとも楽しそうじゃない。もし仮に0.49÷0.28なんて問題があったら、とりあえず100分の49÷100分の28に直してしまった方が見た目にも断然簡単な気がするし、約分できる場合は実際圧倒的に楽だ。
この問題だと、小数のままで暗算できる子は極めて限られていると思うけれど、分数に直してひっくり返せば、100同士は約分で1になるし、49と28も7で約分できるから、結局7÷4で4分の7。小数で答えなくてはいけないとしても、1と4分の3だから答えは1.75。
もちろん、約分できないものもあるけれど、その場合はあまりが出るような問題だったりするので中学に行けば、最初から分数の世界で考えるような問題だ。
とすれば、小数同士の計算はそんなに力を入れる必要を感じない。

以前、ある中学受験塾で、3.14×1~9の答えを暗記してテストがあるという話を聞いたことがある。それ自体私としてはどうもイマイチ納得できないところもあるが、少なくとも中学受験をしない子であれば、3.14の計算は中学に行ったらもうやらなくなると言ってもいいだろう。だったら、その計算をやっきになってやらせたり、覚えさせたりすることにもあまり必要性を感じない。

小学生と中学生をまたがって指導していると、なぜこんなにも小学校の算数が中学校の数学にリンクしていないのだろうと思うところが少なくない。
もちろん、四則計算や図形、割合、単位量など、必要なものは多いが、重視すべきところとこだわらなくてもいいところのバランスがどうにも悪いような気がしてしまう。

小学生中心の教室でありながら、実は私は小学校のあゆみ(成績表)を全く気にしていない。もちろん、目の前の子どもが学校で習う算数さえ全く理解できていないようであれば気にするが、実際にできているし、それ以上の能力があることを感じている子に関しては、どんな評価がされても気にしたことがない。

正直なところ、一体なんでそんな評価がつくの?と思うことも決して少なくないし、親御さんにしても納得がいかないという場合もおありのようだ。
たまに算数で理解できない評価をされる子がいるのだが、そんな子には「あゆみが悪くても気にしなくっていいよ。こんなにできてるんだから。」ということもある。

実際、小学校では途中の式がきちんと書けていなければバツがついたり、見た瞬間答えが出るような子であっても、先生の指導したとおりの解き方をしなければバツがついたりということは珍しくない。
以前書いたが、分数の掛け算を使わなくてはいけない計算を、まず割って、その答えを集めるという方法で解くとバツになるなんてことが実際にあるのだ。(つまり、例えば12×3/4という式で解かなければならない問題を、12÷4×3で解くとバツになるというようなことが実際にあったのだ。)

正直言って、そんな指導をされていては、算数の得意な子たちはかえって算数嫌いになるし、覚える必要のない(覚えなくてもきちんと解けている)公式まで覚えなくてはならないなんてことが起きてくるわけだ。

と・・・こういうことを書いていると、多分やっぱりウロコ先生のお考えと恐ろしく共通しているんだろうなと思う。

ま、考えてみれば、私としては至極当然のことを言っているつもりなのだから、同意見の方が数え切れないほどいるのが本来の姿なのかもしれないのだけど、なぜかまだ少数派なのだ・・・。(ですよね、ウロコ先生。。。)

けれど、ウロコ先生のブログに更に勇気付けられ、自分の信じる道を、視野が狭くならないようときどきはよそも見ながら、それでも真っ直ぐ歩いていこうと思ったというお話。

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2006年9月28日 (木)

うまく説明できないけれど

今の学習法での教室を始めてから3年数ヶ月が過ぎた。その間、もちろん初めは毎日とは行かなかったが(何しろスタートは子どもが全部で6人だったし)、来る日も来る日も子ども達と一緒に問題に取り組み、パズル問題も数え切れないほど沢山解いてきた。

もともと、教室を始める前に大先生に「まず自分で全部解いてみなさい。自分で解けないような人は指導できませんから。」と言われ、それもそうだとメインの教材に関しては全てのプリントを解いてから教室をスタートさせたのだが、普段はその答えは見ずに、その場で子どもの解いているものを見て丸付けをするようにしている。

まあ、そうなったきっかけのひとつには、初期のメンバーのひとりがある日ふと口にしたひと言がある。
その子は短期間K式の教室に通っていたらしいのだが、

「Kの先生はずるいねん。答え見ながら丸付けする。」

そんなことを言ったのだ。
もともと、低学年向け教材なので、初めのうちは大人なら見てすぐわかるものが多いということもあって見ずに丸をつけていたのだが、そんなことを言われたら、もう答えを出してくることなんてできない。(笑)

まあ、イレギュラーで一度に進度の違う子を3人見なければならないなど、急いで丸付けをしなければならないときだけは「自筆」の答えを見ながら丸付けすることはあるが、「自分で解いたんだからいいでしょ?」というと子どもは納得する。

ちょっと話はそれたが、お蔭で普段はできる限り解答は見ずに丸付けをする習慣が付いてしまったため、プリントによってはもう何十回も見ているものも出てきた。
それだけ何度も何度も見て、そのたびに考えていると、不思議なことにどんどん新たな発見をするのだ。

特に小学校の間に習ったことなど、やり方を教わって、それを覚えて解いたということが多く、なぜそうなるのかとか、もっと簡単な方法はないのかとか、そういうことを考えることなく通り過ぎてきたものが多い。

例えば、分数の割り算はひっくり返してかけることは知っているが、普通はなぜそうなるのかを考えたことがないというようなのも一例だ。

私は高校で理系の数学に挫折し、理系崩れの文系で進学したため、難しい数学はわからない。
けれど、小学校で習う内容については、子どもの頃にわからないと思ったことはなかったような気がするし、今更復習するまでもないと思っていた。

それなのに、やればやるほど発見があるのだ。
それにはさすがに自分でも驚く。

うちのスーパー5年くんがしばしば、こともなげに面倒な計算をやってのけ、「なんでそんなにすぐ答えが出るん?」と不思議がる私に、彼の方が(なんでそんなに不思議がるん?)とでも言いたげな顔をすることがあるのだが、理屈じゃないんだなと、説明できないけど感覚的にわかる、できるということなんだろうなと、その境地がほんの少しわかる気がする。

以前、今はどうにか考えられるようになったのだが、あるパズル問題がどうしても今ひとつ理論立てて解くことができず、どうやって考えたらいいのかお尋ねしたときに、大先生が「できる人はできる、できない人はできない。それが能力ってもんですよ」というようなことをおっしゃったことがある。

ちょっと誤解を生みそうな表現ではあるが、最近はあのときの大先生の言葉の意味がしみじみわかる気がするのだ。

歩けるようになった子どもに「なんで歩けるの?」とか「どうやったら歩けるの?」と尋ねても、うまく説明なんてできないだろう。
それこそ「歩けるから歩けるの!」だ。

だから、スーパー5年くんに「なんでそんな計算が一瞬でできるの?」と尋ねたところで、彼にとってそれが当たり前過ぎて、理由がわからないのだろう。

感覚で理解し、感覚的に解けるようになってしまったら、それはもう説明の付かない「能力」になっているということなんだろう。
運動神経のよい子に「なんで運動ができるの?」「なんで走るのが速いの?」と聞いても、大抵の場合説明できないのと同じなのだろう。

そういえば、しばしば頭のいい人はわからないことがわからないというような表現を耳にすることがあった。
例えば、学生時代ずっと優秀で、そのまま教師になった頭のいい先生などは、わからない子が「わかりません」と言っても、同じ説明を繰り返すというような話を子どもから聞いたことがある。
それはもしかしたら、結局、その先生にとってそれが理解できるのは当たり前すぎることで、それがわからないなんてこと自体想定外なのだろう。
先生にしたら「なんでわからないの?」と本気で質問したいと思っているかもしれない。

そう考えると、子どもを指導する立場の人間はよく勉強ができたという人では難しいのかもしれない。優秀すぎることが、かえって子どもを理解することを妨げる場合もあるだろう。

なんだか話がまとまらなくなってきたが、こんな歳になって、小学生の問題を眺めながら、まだこんなに次々と色んな発見があることが、どうも楽しくて仕方ない。

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2006年9月27日 (水)

本日のボケ

すんごくどうでもいいことなんですけど、言った後自分でおかしくて仕方なかったので、ついつい告白。

出勤前、携帯に転送で電話がかかってきました。
比較的覚えやすい番号であるため、なんだか似た番号のところも結構あるようで、しばしば間違い電話がかかってきます。

今日の番号が「03」で始まる未登録の番号。
一体誰だ?と思って出てみると・・・

「そちら海運部ですか?」

という男性。
携帯でちょっと聞き取りづらく、二度聞き返してやっと「カイウンブ」と聞き取れたのだが、それに対する私の答え。

「あの、違うと思いますけど。」

その男性は「あ、すみません。失礼しました。」と素直に電話を切られたのですが・・・・・・。

「違うと思う」って答えはなんやねん?と。
合っている可能性が僅かでもあるってことか??と。
切ったあとひとりでさんざんツッコミを入れてしまったのでした。。。

はぁ~~、情けない。(苦笑)

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高校生ドラフト

私は野球には詳しくないが、先日のプロ野球高校生ドラフトで、またちょっと考えてしまった。

まあ、ホントに詳しくないのでちょっと記憶があやしいものの、この夏の沖縄代表、多分八重山何とかって学校の子だったと思うのけれど、「相思相愛」と言われていたソフトバンクではなく、突如として浮上したロッテに1位指名され、抽選で交渉権をロッテが獲得したようだ。

遠い昔、つい先日巨人軍の今季限りの退団を表明した桑田投手が、このドラフトでひと悶着あり、清原も巻き込んでなんだかすっきりしない結果に終わったことがある。
その後、大学生や社会人には「逆指名」という制度が導入されたんだったような気がするが、高校生には未だにその権利は与えられてはいないようだ。

ドラフトで、全ての選手に逆指名をさせないのは、各球団の力をある程度均衡させるためというような理由を聞いたことがある。
希望に沿って入団を決めていたら、人気球団には強い選手、いい選手が集まり、そうでない球団との選手の力の差がどんどん開いてしまうからだということのようだ。

まあ、そういわれればそうかもしれないし、力の差があり過ぎると、対戦しても見ていてつまらないゲームになってしまうということもあるのだろう。

しかし、どうもすっきりしないのだ。

どうして大学生や社会人になれば逆指名が可能なのに、高校生にはその権利が与えられないのだろう?
高校生は未成年だからなんだろうか?嫌なら大学に進学するか実業団に入って、逆指名できるようになるまで待ちなさいっていうことなんだろうか?

今回の沖縄の子は、家庭の事情で祖父母に育てられたという。
野球部の監督は親代わりのように彼の力となったとも言われている。
そして、ソフトバンクはそんな彼を早い段階からずっと見ていたそうだ。監督も含め、沖縄から一番近いプロ野球球団ということで、もうそこに行けることを信じて疑っていなかったであろうところに、まさに青天の霹靂のような他球団からの指名。

ニュースの記事で読んだだけだが、沖縄の純朴な少年は故郷を遠く離れた都会ではとてもやっていけないだろうと心配する監督の言葉が心に残る。その記事では、1年「浪人」をするという選択肢もあるようなことが書かれていたが、それにしてもどうにも気の毒だ。

高校野球で活躍し、プロ野球からスカウトが来る。そんな選手はごく限られているはずだ。
他のスポーツ界であれば、選択権は基本的に選手側にあって、相手の提示した条件の中で最もいいと思うところを選ぶことだってできるはずだ。

なのに、なぜ力のある選手が自分の希望する球団に入れないのか。もちろん、住めば都ともいうし、行きたくないと思っていたチームでも、行ってみればよかったということだってなくはないだろう。
そうは思うものの、なんだかどうにも気の毒な気がしてならない。

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2006年9月26日 (火)

続・勉強ってなんだろう

読書感想ブログで紹介した本を読みながら、またちょっと考えてしまった。
「勉強ってなんだろう」
以前にも同じタイトルのブログを書いたけれど、仕事柄、これは正解のわからない、永遠に解けないテーマなのかもしれないなと思う。

「お母さんはしつけをしないで」という大胆なタイトルの本。読みながら共感するところも多かったのだが、その中で、自分の子どもが勉強できなかったら・・・と大抵みんな不安に思うけれど、著者は子どもが勉強しなければしなくてもいいじゃないかという趣旨の、なかなか大胆なご意見を書いておられた。

私の仕事を考えたら、そんなこと言われたら困るのかもしれない。
それに、勉強できなかったらそれでもいいじゃないと言われたって、きっと大抵の親御さんは「人の子のことだと思って・・・」というような受け止め方しかされないのではないかとも思う。

ただ、著者がそう述べる理由はちゃんとあるのだ。

子どもが子どもでいる期間は短い。その期間を受験のための勉強に費やし、結果的に難関大学に進み、有名企業に就職したり、国家公務員になったりしたとして、そういう立場にある人たちが皆「幸せ」かどうかは話が別だというようなことを述べておられる。

それを読んだとき、なんか私的にはすごく「ああ、そうよね」というか、「わかりやすく表現してくれてありがとう」っていうか、そんな気持ちになった。

高い(という表現が正しいかどうかわからないが)地位や一般に憧れられるような職業に就いている方、経済的に恵まれている方であっても、幸せを感じていない方は恐らく少ないとはいえないだろう。

一般にはお金はないよりあるに越したことはないとかいうし、それはそうかもしれないけれど、あり過ぎるとかえってそれが争いを生んだり、事件に巻き込まれたりする可能性だって増える。以前、ある人が「人の気持ちもお金で買える」というような発言をして話題になったことがあったが、「お金で買った気持ち」や「地位で手に入れたもの」は、それを失うと同時に消えてしまうだろう。(実際、その発言をした人からは多くの人が手のひらを返したように離れていったようだし。)

以前聞いた話だが、裁判官は中立でなければならないし、守秘義務やら色々あって、退職するまでは同窓会などで気軽に世間話をすることもできないらしいとか。(聞いた話なのでもしかしたら違うのかもしれないが。)
裁判官に限らず、重要なポストに就いている方々は、その責任の重さと日々戦っているかもしれないし、忙しくて家族や友人と過ごす時間もないかもしれない。他人からは尊敬され、憧れられたとしても、自分が幸せでないのなら、その人生が素晴らしいといえるのかどうか。

もし仮に、子ども時代の大切な時間を犠牲にした結果、将来出世したとして、その子がそれを幸せだと感じられたらもちろん何も問題はないし、頑張ってよかったねって話になるのだろうけれど、色々なものを犠牲にして高い地位を得たとしても、その子が幸せを感じられなかったら、それは果たして「目指すべきもの」だったのだろうかということになる。

以前、夢を叶えた男の子の話を書いた。私が以前勤めていた塾で最初に送り出した受験生のひとりだ。
彼は中1のときからずっと工業高校に行くんだと言い、将来は自動車整備士になるんだと言い続けた。全教科の中で数学が一番苦手で、それでも彼の意志は揺らぐことはなく、工業高校へ進学。その後自動車整備士の専門学校に進み、晴れて整備士試験に合格した。

この彼は、数学以外の教科は決してできなかったわけではないので、普通科でよければもっと偏差値の高い学校も受けられるということを中学校からも言われたようだし、数学の苦戦振りを知っているおうちの方も「工業はやめたほうがいいんじゃない?」みたいなことを何度か言ってみられたらしい。

もしそこで彼が意志を曲げて、周囲の大人からすれば彼が受けた工業高校より「いい学校」である普通科に進んでいたら、彼は長年の夢を叶えることはなかったかもしれない。
少なくとも、「楽しい学校生活」にはならなかったんじゃないかと思う。

私は、自分の意志を貫いて夢を叶えた彼を素晴らしいと思うし、すごくかっこいいと思う。
学歴の高い人や勉強のできる人達から見れば、「工業高校を出て自動車整備士」なんて聞いたら、大したことないっていう人もいるかもしれない。けれど、もし彼を軽く見る人がいて、その人が立派な肩書きを持っていたとしても、もしその仕事にやりがいを見出せず、幸せを感じていないのなら、私は彼の方が何百倍も素敵だと思うし、素晴らしい人生だと思う。(そもそも比べるものではないだろうけれど・・・。)

やりたいことを見つけて、それに向かって努力する。
やりたいことをするために、ある子は東大を目指すかもしれないし、ある子は高校を出て仕事を始めるかもしれない。
けれど、自分の人生の目標を小学生の段階で決めることができる子どもはごく限られているだろう。その頃の夢や目標はコロコロ変わったりもするし、(最近は小学生でも将来なりたい職業はと聞くと、公務員とか会社員とかそんな答えをするようだけれど・・・)それでいいんだろうとも思うのだ。

夢や目標を見つけるためにも、子ども時代に勉強以外の色んな経験をすることはとても大切なのではないだろうか。その大切な時間を、不確かな「将来の安定」のために勉強を詰め込むぐらいなら、確かにしない方がマシなのかもしれない。
少なくとも、上述の本の著者が書いておられるように、やりたくない子に無理矢理に勉強させる必要はないのかもしれない。

「かもしれない」ばかりなのは、私自身、まだはっきりわからないからだ。
勉強以外のことに才能を見出せば、もちろん学校の勉強なんてしなくてもいいだろう。
ただ、何の目標も見つかっていない段階で、学校の授業に落ちこぼれてしまっては、やはりそれは子どもにとって不幸なことだろうとも思う。学校の成績がいいということは、少なくとも選択肢が広がるということでもあると思うからだ。

自分の中でもまだまだ答えは見つかりそうにないし、子どもが一人ひとりみんな異なる個性を持っているということから見ても、「正解」には永遠に辿り着くことはないのだろう。

それでも、ひとつだけ確信していることがある。

「勉強は幸せな人生を歩むためにする」ということ。

自分が描く将来の姿にとって勉強が必要なら勉強をすればいい。
何かの職人を目指すとか、芸術家やスポーツ選手を目指すとか、机の上の勉強はいらないと思うのであれば、それもいいだろう。

少なくとも私は、子どもの心を歪めたりしてまで不確かな「将来の安定」のために勉強を詰め込むことは絶対にできないし、やりたくない子を叱ったり強制したりしてまで勉強させることもできない。

そんな人間が教室なんてしていていいのか?なんて批判も出そうだけれど、私はこうなんだから仕方ない。

答えが見つからないこの問題を、この先もずっと考えていくことになるのだろう。
それでも私はいつだって、子ども達が幸せな人生を歩んでいくために必要な力を伸ばすお手伝いをしたい。そう願っている。

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2006年9月25日 (月)

すみません・・・。

先ほどUPしていた25日の記事を読んでくださった方へ。

続きを書いていたのですが、深夜になり、どうも文章が支離滅裂になり始めました。
収拾がつかなくなったので、一旦記事をさげました。
続きも書いて近々UPさせて頂く予定ですので、ご容赦ください。

ちなみに今日はレッスンがなかったのと、結局土日は仕事をしていたのとで、1日家でぐ~たらしてしまったのですが、ちょっと思い立ってパソコンの場所を移動し、それに伴っていつも避けて通っている掃除もしてみました。

自宅では全く仕事をする気になれないのは、あまりに雑然としている部屋のせいではないかと思って思い切ってみたのですが、快適な状態にはまだ程遠い有様です。。。
でも、キライな掃除も、した後はすっきり気持ちいいものですね。

これで家でも少しは仕事をする気になれるでしょうか・・・。

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2006年9月24日 (日)

しまったしまった

休日なので極めてど~でもお話。

最近私は1日中テレビをつけない日も結構あるのだが、日曜だけは用がない限り晩に実家に行くので、大河ドラマやらあ○ある大○典やら、ウ○ルン○在記やらをはしごして、そのままの流れで情○大陸を見るのがほぼお決まりのコースなのだけれど、しまった・・・。予告的に、今日の情○大陸はきっと見たら泣くな・・・と思ってたのだけど、始まる前に帰宅して、そのままテレビつけなかったから見逃した・・・。ま、いいんだけど。。。見たら泣くから。(苦笑)

しかし、今日はもうひとつ「しまった」ことがあった。
今日はイレギュラーで体験の方をお受けしたので、午前中に教室に行き、夕方に切り上げて帰宅。いつも不孝ばかりのご先祖様のお墓に、(もっと常識的な時間に行けよ・・・)と自分にツッコミを入れつつお参り。

その後、ひと月ほど前から探している教室に置く机の物色に「ニ○リ」に行くことにした。
しかし、店内に足を踏み入れた瞬間、久々に(うわっ、失敗した・・・)と思ったわけだ。

休日のニ○リ。品揃えや価格帯から考えても、そういえばそうだ・・・・・・。
店内は新婚さんぽい二人やら、若いカップルやら、幸せそうなペアだらけ。。。
ホントのホントに、女ひとりで店内をうろうろしているのは、自分しかいなかったかも。。。(親子っぽい女同士とかそういうのは若干おられたが。)

普段、人の多いところにあまり行かないし、たまに休日に街に出ても、本屋とか服屋とか靴屋とか、そういうところは別に一人とか女同士とか色んな人がいるからあんまり何も感じないのだけど、年に何回ぐらいだろうか・・・今日みたいな後悔(?)をすることがある。

なんというか・・・イヤというぐらい「ひとり身の淋しさ」を思い知らされるっていうんだろうか、そんな感じ。みんな幸せそうだなぁって思ってしまう。

ま、年に数えるぐらいしかないんだから、これでまた当分ないんだろうけど。。。

そんな「しまった休日」だった。

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2006年9月23日 (土)

ホントにそれは無理なのか。

昨日、1年生のお母さんからお問合せのお電話を頂いた。

少しお話が長くなったのだが、その中でお母さんがおっしゃった言葉が心にひっかかっている。

まだ1年生のお子さんなのだが、周囲の方が早期教育に熱心な方が多く、けれどそのお母さんはそういうものに「何か違うような・・・」と感じておられるご様子で、こうおっしゃった。

「できれば楽しく勉強できたら・・・、あ、もちろんそれは無理だと思うんですけど・・・。」

その言葉を聞いたとき、これまでにも何度かお問合せくださった方から同じような言葉を聞いたなぁと思った。

「小さいうちはできることなら楽しく勉強させたい。」

それが純粋な願いのようなのだけれど、なぜか大抵の方がそのあとに「それは無理だろう」と付け加えるのだ。

以前にも書いたが、実は会社員時代ずっと自分に言い聞かせていたことがある。
仕事で何かトラブルが起きたとき、取引先に迷惑をかけることになれば、自分がしたことでなくてもとにかくお詫びしなければならなかったり、極めて理不尽なことでお叱りを受けたりしたとき、何度も言い聞かせていたのが「お給料を頂くっていうのは大変なことなんだ。嫌なことも我慢しなくちゃ」ということだ。

勤めていた6年弱の間にそれこそ何百回と辞めたいと思ったかもしれない。会社が近づくと胃が痛くなり始め、会社を出ると治まる。風邪でもないのに延々と空咳が出て止まらなかった時期もあるし、ずっと口の内側を噛み続けていた時期もある。

それでも、嫌なことから逃げたらダメだと言い聞かせ、仕事っていうのは大変なものなんだ、好きなことをして暮らしていくなんて無理なんだ、そんなことを毎日自分に言い聞かせていた。

しかし、会社を辞めてみたら、それは全部自分の思い込みだったことに気付いた。
もちろん、皆さんの支えのお蔭なのだけれど、私はこうして一番やりたいことをして、金銭的にはまだまだ余裕はないけれど、心は満たされて日々を過ごしている。
あんなに次々と出ていた体の不調もすっかり消えてなくなった。

好きなことをして暮らすことは不可能ではなかったし、本当に好きなこと、やりたいことをしていれば、仕事が忙しかろうと、遊べなかろうと、贅沢ができなかろうと、そんなのはストレスにはならないことを知った。

そしてまた思うのだ。

「楽しく勉強をする」ということは本当に不可能なのか?と。

もちろん、私だって高校時代など、落ちこぼれて苦しかった時期もあるし、大学入試の前にはそれなりには勉強で苦しんだんじゃないかと思う。
けれど、少なくとも小学生の頃に「嫌な勉強」を「させられた」記憶はない。

もちろん、教科や単元によっては「面倒だなぁ」とか「やりたくないなぁ」と思うことはあったが、そう思えば必要最低限しかしなかったような気がするし、計算ドリルの宿題などは何問か解いて合っていれば、理解できているのだからとあとは答えを丸写ししたりもしたものだ。

そんな私でもちゃんと(いや、ちゃんとかどうかはわからないが・・・)こうして暮らしているし、勉強が辛かったという嫌な記憶は残っていない。(高校で数学に苦しんだ時期はあったが、そこを乗り越えたら数学は好きになったので、懐かしい思い出に転化した。)

「勉強」という言葉は「勉め強いる」と書くのだから、本来の言葉自体が楽しくない。人間、誰かに強いられることを楽しいと感じる人などまずいやしない。そういう意味では文字通りの「勉強」であれば、楽しむなんて無理かもしれないが、「楽しみながら賢くなること」は絶対可能だと思う。少なくとも小学生時代には、楽しめないことで賢くなるなんてことの方が無理なんじゃないかとさえ思う。

難しい問題にじっくり取り組むことは決して不快なことではない。
難しいパズルやゲームをクリアしたときの喜びを知っている子どもであれば、じっくり考えた後に正解に辿り着くことは苦痛ではなく快感であるはずだ。
このとき、どこからも邪魔されることなく、せかされることなく、心行くまでじっくり考えられる環境があれば、きっと子どもが考えることを嫌いになったりはしないのではないかと思ったりもする。

間違えたら叱られる。
時間内にやらなければ「ダメな子」と評価される。
沢山やることがえらいと刷り込まれる。

そんなことを小さいうちから繰り返していくうちに、子どもは考えることを嫌いになっていくのではないかと、そんな気もする。

「楽しく勉強することはできない」

それはもしかすると、単なる大人の思い込みで、けれど、大人がみんなそう思っているから、自然と子どもも「勉強=楽しくないもの」と思い込むようになってしまうという可能性は否定できない。

少なくとも、自分のお父さんやお母さんが普段から

「お勉強って楽しいね。」
「知らなかったことを知るのはわくわくするね。」
「できなかったことができるようになるって素敵だね。」
「難しい問題が解けたときって気持ちいいよね。」

こんな言葉を子どもにかけていたら、子ども達は少しでも長い間「楽しく学ぶ」ことができるかもしれない。
ちょっとそんなことを考えた。

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2006年9月22日 (金)

経験の重要性

子ども達と割り算や分数の学習をするときに、しばしば感じることがある。

半分とか倍とか、4分の1とか8分の1とか、そういう感覚が優れている子とそうでない子の差だ。

もちろん、どんなものでも得意な子と苦手な子がいるので、全てに当てはまることではないだろうけれど、兄弟がいる子は半分にするとか2人や3人で分けるという感覚は、一人っ子に比べてやはり優れていることが多い。

また、折り紙などで遊ぶのが好きな子も分数の学習のときすんなり理解できるということも多い。

1枚の紙を2分の1や4分の1、8分の1などに折ってみてというと、2分の1はまあみんな半分に折る。4分の1も2回折る。そこまでに殆ど差は見られない。

しかし、8分の1や16分の1になると途端に差が現れる。
例えば8分の1であれば、何の迷いもなく「半分の半分の半分(3回折る)」にできる子がいる一方で、迷わず4回折ってしまう子がいたり(多分4×4で16というのが頭のどこかに浮かぶのだろう)、2回折ったものを一旦開いて、どう折れば8つになるかじっと考える子がいたり、考えて気付いても、一度開いた状態でそれぞれを半分に折り直す(全部で4回折ることになる)子もいたりする。

折り紙を何回折ればいくつに分かれるかは、子どもの頃から色んなものを折っている子であれば、感覚的に身についてくるもののような気もしないではないのだが、実際には、8分の1を作るときに半分の半分の半分にできない子は少なからずいる。

また、あまりのある割り算などでも、普段から兄弟や家族でお菓子などを分ける経験をしている子であれば、きっちり分けられないで余るということが感覚的にわかるのだが、そういう経験が少ない子どもだと、途端にあまりのある割り算は「難しくて面倒なもの」になってしまう。

私は子どもの頃、家族とよくトランプをした。オセロなどのボードゲームもしたし、おはじきや折り紙、積み木やレゴ、昔ながらの遊びは本当に何でもというぐらいやった。
私が中学生になる頃にはゲームボーイだとかテレビゲームの類も多少広がりつつあったような気がするが、そういうものをほしいと思ったことは一度もなかった。

小さい子が自分の手で家族にトランプを配る。4人ならきちんと同じ枚数になるけれど、3人や5人だと多い人と少ない人が出てくることに気付く。

2人でおはじきをする。とった数を比べるときに、おはじきを一列に並べて長さ比べをする。長い部分の個数だけの差があるということを自然に学ぶ。

兄弟でシールを集めていて、枚数比べをしたら片方が4枚多かった。2枚もらったら同じ数になった・・・。そんな経験で、差を平均する方法を感覚的に知る。

折り紙を縦半分、横半分に折ったら元の大きさの4分の1の正方形になる。対角線で折ったら4つの直角二等辺三角形になる。
やっこさんを折った紙を開いたら、沢山折り目がついていた。あ、ここに小さな正方形がある・・・。そんな発見がある。
図形の名前は知らなくても、そういうことで形やどう折ったらどんな風に分かれるか、等しく分けるとはどういうことかなど、様々な学習の基礎を知らず知らずに身につけていく。

やはり、実生活での遊びを通した経験は非常に大切だ。

割り算で言っても、仮に20個の飴があって、「20÷5」という式があったとしても、ひとり分の個数が決められている場合と、子どもの人数が決まっている場合とでは式の意味が違う。
ひとりが5個であれば「20個÷5個」だが、子どもが5人であれば「20個÷5人」だ。
前者のパターンであれば、あまりがあるときでもひとり分が決まっているのだから、それぞれがその個数を取ったら、残りがそのまま余りである。
しかし、後者のパターンだと、順番にひとつずつ配っていき、残った数が人数を下回ってしまった段階で終了となる。
こんなことだって、普段からものを分けたり配ったりの経験をしている子とそうでない子では当然差が出てくる。

こう考えると、いかに遊びや普段の生活での経験が重要かということを改めて感じる。

もしお子さんが割り算が苦手なのであれば、問題を大量にやらせるより前にすることがあるはず。
それは分数の学習でも同じことが言えるように思う。

そして、更に望ましいのは、苦手になる前に、普段の生活でそういう経験を自然とできる機会を積極的に増やしてあげることだろう。

今日のレッスンをしながら、改めてそんなことを思った。

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2006年9月21日 (木)

またもつらつら考える(2)

こちらの続きです。)

スポーツの世界では、昔は「巨人の星」だの「アタックナンバー1」だののアニメを見たって、「努力と根性」みたいな精神論がかなり重視されていた面があるように思う。もちろん今だって、努力や根性は必要ではあろうが、「悲壮感」や「忍耐」などの面ではかなり変わったことも多いのではなかろうか。

例えば、イメージトレーニングの有効性も既に広く知られるようになっているが、一流選手たちの中には勝利しているイメージ、トップを走っているイメージ、最高の演技をしているイメージなどを頭の中に思い描き、それが好結果に結びつくという方もいるというのは、最近ではよくある話なのではないだろうか。

以前読んだ本のどこかに書かれていたのだが、跳び箱が跳べない子の指導の際、何度もひたすら練習させるのではなく、「鳥になったつもりで」とか「空を飛ぶような気持ちで」とか、表現は少し違ったかもしれないが、とにかく、跳べない子どもにまず頭の中でイメージをさせてから練習させると、かなりの効果があるそうだ。

また、短距離選手がタイムを縮めるために必死で努力をしてもなかなか記録が伸びないとき、機械の力を借りて、自分の実際の力以上のスピードで走ってみさせると、その速さを体感できるため、その後記録が伸びるという実験を見たこともある。

スポーツの世界ではどんどんと色んな変化が起きているように思う。

そこでまた改めて思うのだ。

例えば、漢字や英単語、歴史の用語などを覚えるとき、ある先生は子ども達に向かって、ただひと言「覚えなさい」と言うかもしれない。
覚え方については全く言及せず、ただ覚えろと。

けれど、そういう先生は恐らく決して少なくはないはずだ。実際、私の場合、レッスンの特徴上、滅多に「覚えろ」という言葉を使うことがないが、それでもたまに数学の公式などを中学生とかには「覚えられたら覚えて使った方が速いけどね」なんていうことはある。しかし、そのときにわざわざ覚え方に言及することはまずない。

そもそも自分自身、特定の公式などを語呂合わせで覚えるなどというのは別として、一般的なものの「覚え方」を教えてもらった記憶はないし、全ての教科において共通して効果がある覚え方というのもないのかもしれない。
結局、絶対これがオススメ!というものも見つからないのだしということで、大抵の指導者は「覚え方」を指導するというところまではしないということなのかもしれない。

また、ある先生はもう少し親切に言うかもしれない。

「はい、この漢字(単語・用語)を覚えるために、ノートに○回ずつ書きなさい。」

と。

それは先ほどよりはほんの少し親切かもしれない。どうやって覚えたらいいかわからず、試行錯誤もしたことのない子どもには言われた通りにやればいいのだから。但し、それで本当に覚えられるかどうかはわからない。言われた通り忠実に「○回」書いたけど覚えられなかったら、先生は更に言うかもしれない。

「○回で覚えられないんだったら、覚えられるまで書きなさい。」

冗談ではなく、そんな指導はかなり当たり前になされているはずだ。
しかし、それは本当に「指導」なのだろうかとも思う。

昔、塾に勤めていた頃、とにかく英単語が覚えられない子がいた。性格は真面目で、やれといわれたら忠実にやるタイプの子だ。
英語の先生が1個につき10回書けと言えば書くし、30回と言われたら30回書くような子だった。しかし、彼はそれでもなかなか単語が覚えられず、中3の夏休みにも「Who」や「What」の読み方さえあやしいような状態だった。

今になって思えば、もしかしたら何度も書かせる以外にもっと方法はあったのではないだろうかと思ったりする。少なくとも、他の方法もやらせてみるべきだったのではないかと。(私が英語を指導していたわけではないが。)

(まだ長くなりそうなので、近々続く予定。)

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2006年9月20日 (水)

またもつらつら考える

昨日、また、とあるブログを読んで、ちょっと背筋が寒くなるような感覚に襲われた。
それは以前にも違和感を感じたブログで、だったらもう読まなければいいじゃないと自分でも思うのだが、たまにふと覗いてみるとこういうことになる。

そこに書かれていた内容に違和感を感じる方はきっと少ないだろう。
それどころか、賛成か反対かのどちらかを選べと言われたら、きっと前者の方が圧倒的に多いんじゃないだろうかとさえ思う。
特に教育関係者たちであれば、もしかすると9対1かそれ以上の割合で、記事に賛成するのではなかろうかと、そんなことを思いながら読んだ。

だからこそ、なんだか背筋が寒くなる思いがしたのだ。

私はこのブログでずっと、幼少期の機械的反復学習について否定的立場をとり続けている。
もちろん、それを否定する代わりに、幼少期にそれをしなくてももっと楽しく、もっと短時間で、同等以上の力をつけることができる方法が自分の目の前にあるからこそ、否定しているのであり、それはダメだと一方的に言いながら、代替案がないというわけではない。

だから一層、幼少期には弊害が大きいと思われる学習法(大量の機械的反復学習)を選ばなければならない理由がわからないのだ。

それでもそれを選び続ける方が跡を絶たないのは、言われている弊害をまだご存知ない方が圧倒的に多いこと、教育や子育てに「絶対の正解」というものがないこと、同じ子どもを二度異なるパターンで0歳から育て比べることができないことなど、色々な理由が挙げられるのだろう。

今回違和感を感じた記事は「小学生時代にはたっぷり遊ばせるのが大事」という意見に対して、それはあくまでも家庭できっちりと子どもを管理できていればの話というようなことが書かれていた。

しかし、どうしても自分にはぴんとこないのだ。
もちろん、人はみんな、自分の経験がまず大きな基準になるのだろう。自分の経験してきたことをよかったと思えば自然とそれを人に伝えていこうとするのだろうし、よくなかったと思うことは反面教師として生かしていくのだろう。基準はやはりまず自分の経験なのだ。

親が中学受験をして、その後の学校生活などに満足をしている場合、子どもにも同じように進ませてやりたいと自然に願うようになるだろうし、勉強嫌いで学歴はないけれど、その代わり何かのお仕事でバリバリ活躍されているような親であれば、勉強よりまず手に職だと思うのかもしれない。

私はたまたまサラリーマン家庭に生まれ、両親とも学歴が高いわけでもなく、かといって勉強ができなかったわけでもなさそうな、そんな環境で育った。勉強に関してうるさく言われることは一切なかったし、テストでどんな点を取ろうとも叱られた記憶もない。だからといって放任であるとか無関心だったとかいうのとも違う。
そんな風に大きくなり、今の私がある。
そのブログを書いた方には、厳しく親に管理され、指導されて育ったご経験がおありなのかもしれない。

以前にも書いたかもしれないが、私の小学生時代は、高学年でも本当に毎日お天気さえ悪くなければ、完全下校のギリギリまで運動場で走り回ったり、遊具にのぼったり、手打ち野球やドッヂボールをしたりと、さながら「男の子」のような生活を送っていたように思う。
帰宅すれば宿題はやったけれど、それ以外には塾に行ったこともないし、その頃には宿題以外の勉強をした記憶は殆どない。

本を読むのは好きだったし、文を書くのも好きだった。けれど、「勉強」は決して好きではなかったし、宿題などのやらなければならないことをやっていれば、親はそれ以上何も言わなかった。中学高校もずっと運動部で、この6年間は習い事は、塾も含めて見事に一切していない。

もちろん、小学校時代に、今学校で習っていることさえおぼつかない状態であれば、親は何か手を打つべきだと思う。高学年になっても足し算・引き算もおぼつかないような状態であれば、「子どものうちは遊んでいればいい」とも言えないだろう。しかし、基本さえきちんとできているのであれば、大量にやらせる必要などないし、その分しっかり本気で遊ばせればいいと、私はホントにそう思う。

書きたいことが色々あって、どこから書いていけばいいのか迷い迷い書いているので、話がまとまっていないかもしれないが、お許し頂きたい。
この仕事をしながら、最近富に思うようになったことがある。

例えば、もし今お子さんに何かスポーツを習わせようと思ったとき、その指導者がこう言ったとしよう。

「足腰を鍛えるにはうさぎ跳びが一番!さあ、今からうさぎ跳びでトラック3周!」

あなたはそんな指導者に子どもを預けようと思うだろうか?

「スポーツに勝つには精神力が大事だ。どんなに苦しくても練習中は水を飲むな!」

こういう指導者だったらどうだろう?

今なら非常識と言われるこれらのことだって、私たちが子どもだった頃にはまだ「常識」としてまかり通っていたことは、多くの大人が知っているはずだ。
これまで常識とされていたことが実は非常に危険だった。子どもには絶対やらせてはいけないことだった。そんなことは私が知っているだけでもいくつもある。
なのに、こと「勉強」に関しては旧態依然とした方法が未だに大手を振ってまかり通っている。もちろん、いい方法もあるには違いないし、全てを否定する必要もない。昔ながらの伝統の方法で、素晴らしいところはもちろん長く受け継ぐべきだろう。
ただ、それが本当に素晴らしいのかどうかは他の何かと比較して初めて判断できることなのではないだろうか。

(と、ここまで書いてそろそろ時間切れです。続きはまた夜にでも。)

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再びすみません。。。

起きているのですが、最近どうも深夜、自宅ではブログやメールを打つのが億劫で、時間があっても必要最低限しかしないんですよね。。。かといって、パソコンであれこれ見たり、パズル系のゲームをしたりはしてるんですが・・・。

書こうと思っていることはあるものの、恐らくそれなりに集中しないと書けないので、「深夜」の「自宅」という状況がダメなのでしょう。
明日、レッスンが始まるまでに書けたら今日書くつもりだったことを書く予定です。
どうぞよろしくお願い致します。

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2006年9月19日 (火)

すみません。

まだレッスン以外のことはほぼ何もできていないのですが、既にこんな時間になっています。。。

今帰らないとスーパーでお買い物ができないので(笑)、一旦帰宅します。多分帰ってから更新できると思いますが、意識を失ったらお許しを。。。

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2006年9月18日 (月)

どうなんだ?これって。

昨日の新聞の1面に出ていたニュース。(これはネットでひっぱってきましたけど。)

北陸大:すべての全日制高校を指定校に 入試での推薦(全文)

(一部抜粋)
北陸大は「学生に意欲があり、教育の中身がしっかりしていれば能力はついてくる」として、志願者増を期待している。

北陸大は75年創立の私学。4学部あり、全学生約2800人。07年度の入学定員は計506人で、うち薬学部と未来創造学部で全国の高校を指定校にして計200人を募集する。出願期間は10月10日~20日。筆記試験はなく、生徒には面接し、定員以上の応募があった場合は選抜を行う。(中略)

河島学長は「機会を均等に多くの人に与えたい。入試制度に一石を投じたい」と話し、将来は一般入試廃止も検討しているという。

って、どうなんでしょう?
記事に高校や予備校側の意見とかも書かれていたが、そっちの意見が正しいとしかいいようがない気がする。

大学教育となると、義務教育ではないのだから、明らかな偏差値ってものが存在するし、その大学で何かを学びたいから行くっていうのが本来の姿のはず。
うちの高校にも指定校の枠はいくつかあったみたいだけど(私は教育学部以外興味がなかったので、指定校推薦ってこと自体殆ど知らなかった・・・)、結構名門と言われるような私学からの枠もあったようだ。

高校や大学に明らかな偏差値があることは世の人みんなが知っていることで、ある高校の通知簿の3の評定と別の高校の3の評定が同等のものとはいえない(もしくは全く別物の)場合があることは紛れもない事実だ。

もちろん、それも個人の価値観、考え方なのかもしれないけれど、義務教育の期間に学力にばらつきがあるのは当然だとしても、高等教育においては、それぞれの子どもの力に合った環境で学ぶことが望ましいのではないのだろうか。(表現するのが難しいけど。)

ニュースを見て調べてみたところ、上述の学校の偏差値は薬学部は多少高いが、そのほかは・・・という感じのようだ。
しかし、薬学部でさえ、各高校の評定平均が3あり、高校側が推薦すれば、定員を超えない限り受け入れてもらえるということなのだとしたら、入学後にどんな授業がされるのか、私には想像がつかない。

まあ、先日来、某歯科大での文章表現の授業や、就職試験対策で中学レベルの数学の授業っていうのを見ているから、そんなところからやるってことなのかもしれないが、学校側が何をどういおうと、結局は迫り来る「全入」時代を前に、ひとりでも多くの学生を確保したいってこと以外に考えられない。

経営のことはよくわからないのだけれど、仮に今、この大学がそれなりにいい大学なのだとしたら、今回の決断は大学にとってマイナスになる気がするし、現時点でもあまり評価が高くない大学なのだとしたら、このことで一層価値を下げてしまうような気がする。

仮に一時的に学生数が増えたとしても、どこの高校の子でもいいのであれば、実際の話、進路指導で「もうここ以外受けられそうな高校はありませんよ」と言われて進学したような子が、その学校の評価で平均3以上取っていれば、希望して学校が推薦すれば薬学部にだって入れるっていうことだ。最終的にはそういう子達が集まってくるような気がするのは私だけだろうか。。。

独自の教育で伸ばすと言っておられるようだが、果たしてこの先どうなっていくのだろうか。

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2006年9月17日 (日)

何気ないひと言

昨日レッスンをしていたとき、ある男の子が言った何気ないひと言が、なんだか妙に嬉しかった。
いや、それを嬉しいと感じる自分がおかしいのかもしれないし、それを言った男の子にしたら、私のせいでいい迷惑だとでも思っているかもしれないのだけれど。。。(苦笑)

なんでそんな話になったんだったか忘れてしまったが、彼が言った。

「もぉ~、俺、先生の引き笑いがうつってしまって、困るわ。」

いや、確かに彼がいう通り、私は子どもの頃から「さんまちゃんばり」の引き笑いをする。
もちろん、アハハと大笑いすることもあるが、多分引き笑いの印象の方が強いだろう。

女として「引き笑い」が印象に残るってのはどうなの?という気もしなくはないのだが、週2回限られた時間だけを一緒に過ごしている彼に、まさか私の引き笑いが移るとは思っていなかったし、仮に彼が引き笑いをするようになってしまったのだとしても、それが「私からうつった」と考えるとは思ってもみなかった。

困るわと言いながらも彼は笑顔で、その顔を見ていてなんだか幸せだなぁと思った。
どうせうつるんならもっといいところがうつってくれたらよかった気もするが、引き笑いも捨てたもんじゃないなと、そんなバカなことを思った。

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2006年9月16日 (土)

とても素敵なコメント

私に美味しいお野菜を送ってくださっただんきちさんからとても素敵で、けどハッとするコメントを頂きました。

私自身、小学生の間は母親が専業主婦で、もともとなんでも自分でやらないと気がすまないタイプの人なので、お手伝いもろくにせぬまま大きくなり、自分で家族のご飯を作るという経験はほぼ全くないまま実家を離れました。
そのため、こういう発想が全く出てこなかったのですが、確かにそうですよね。何も必ずお母さんが作らなくたっていいんですよね。当番だっていいかもしれない。

コメント欄だと気付かれない方も多いと思いますので、こちらに転載しておきます。だんきちさん、もしご迷惑だったらおっしゃってくださいね、残念ですけど消しますので。

だんきちさんのくださった素敵なコメントはこれ。↓

我が家の場合も、忙しさのあまり、子どもたちは0歳から保育所&留守番生活をしていました。それでも、なんとか心の健康を保ったまま、育ってくれたのは、やっぱり「食べること」だけはおろそかにしなかったからかな、と思います。

今も起きて台所に入るなり、子どもらはもうろうとしながら、パンを焼いたり、ごはんをよそったりしています。「食べること」に対する執着がある子どもはやっぱり心も健康なように思います。

食事の支度をするのは、お母さんじゃなくてもいいんです。我が家ではもちろん父親も料理しますが、小学校のうちから子どもが食事を用意することもあたりまえでした。

「仕事が忙しいからつくれない」という声はよく聞きますが、「じゃあ、子どもにつくってもらったら。」というと、みんなきょとんとします。「そんなの、無理」って。でも、子どもにもできます。やらせれば、必ず、できるようになります。

仕事から疲れて帰ってきた時に、暖かいご飯が用意されていたら、こんなにうれしいことはありません。その準備をする子どもは決して「お母さんがつくってくれないかわいそうな子ども」ではありません。「食べたいものが自分でつくれる」「人の分もつくることができる」ラッキーな子どもだと思います。

「子どもの食生活」をいうと、どうしてもお母さんにプレッシャーがかかってしまうものですが、お母さんも忙しい今、もっともっと「子どもにご飯をつくってもらう」ことがあたりまえになってもいいのにな、と思います。ちょっとした考え方の転換で、仕事を持つお母さんもずいぶん楽になるものです!  

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2006年9月15日 (金)

食べるということ(2)

(昨日の続きです。)

もう日付も変わる頃、仕事で疲れて帰ってきてキッチンで包丁を握る。長らく面倒でそんなこともしていなかったが、作る人の思いがこもった新鮮なお野菜を料理してすぐ頂く。そうすることで疲れが軽くなるような気がした。そして、何より気持ちまで満たされるような気がした。
改めて、食事というのがいかに大切なのかということを感じた。

もちろん、私の仕事は体が資本で、私が倒れたら代わりにレッスンをしてくれる人がいるわけでもないし、レッスンができなければ当然私の生活も成り立たなくなる。
だから、忙しいながらも睡眠や食事にはある程度気をつけているつもりだったが、手間のかからないものばかり食べていては、「心の健康」までは維持できないのかもしれない。ちょっとそんなことを思った。

有機栽培のお野菜は、通常、スーパーなどの店頭に並ぶものより値段が張るし、更に近所のお店でちょっと購入ということもまだまだ難しい。宅配などをやっている業者などの広告もたまに見かけるが、ひとり暮らしの上、毎日必ず自宅で食事をするとは限らない私には分量が多かったりもして、これまで利用することもなかった。

しかし、手頃なお値段のものをスーパーで買って、それを使い切れずに捨ててしまうのであれば、作った人が見えるものを少しの量買って、残さず美味しく頂く方が結局は体にも心にも、環境にまでもいいのではないか、そんなことを考えた。

とは言っても、このところ慢性的にバタバタしているので、思い切ってそんな生活に切り替えられるかどうかはわからないが、今回のことで改めて考えたことがある。

「食育」という言葉が使われるようになって結構になるが、子どもにとって「食べる」ということは単なる体の健康のためだけではなく、むしろ「心の健康」のためにとてもとても大切なことなのではないかと改めて感じたのだ。

あくまでも頭の中のイメージでしかないので、当然例外もあるだろうし、一概には言えないだろうが、「お母さんの手料理」が食卓に並ぶ家庭の子どもは、ファーストフードや出来合いのお惣菜、冷凍食品などのメニューが並ぶ家庭の子と比べて、色んな意味で「健康」のような気がするのだ。

お母さんの手作りといったって、何も「○○の××風」とか、手の込んだ料理じゃなくって構わないと思う。お野菜を切って炒めただけ、お肉を焼いただけ、お魚を煮ただけ、そんなメニューだって、子どもの健康を気遣い、心を込めて作ったものであれば、きっとそれは目に見えない力となって子どもに届くような気がする。

最近は世の中がどんどん便利になり、作る手間を考えたら買った方がかえって安かったりということだって少なくないだろうし、お母さん達も何かとお忙しいだろうから、毎日手作りの食事というのは難しいかもしれないが、子どもが小さい間は、それこそ、家事の中で最優先すべきことが食事の支度なのかもしれないとさえ思う。
掃除はしなくても死なないことは私が身を持って証明しているし(・・・威張って言えることではないけれど・・・)、お洗濯は殆ど機械任せでできるはず。他で手を抜いても、「食べること」はおろそかにしてはならないのではないか、そんな風に思う。

食事の支度に割く時間があれば、その分他に使いたい。
最近はもっぱらそんな風に思ってしまっていた私だが、今回だんきちさんのお野菜を頂いたことで、ちょっとその考えを改めよう、そう思った。

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2006年9月14日 (木)

食べるということ

昨日、先日教材をご紹介し、一部お貸ししたお礼にとだんきちさんが有機栽培で作っておられるお野菜を送ってくださった。
「少しだけ」とメールに書いてくださっていたのだけれど、一人暮らしの上、最近は全く料理をしていない私には有り余るほどの量だった。

私は直接の知り合いで農業を営んでいるという人がいない。
たまに親のお知り合いなどが田舎から送ってきたなどといってお野菜を実家に届けてくださることはあるけれど、やはりそれは「知らない方」が作ったものだ。

そういう意味で、今回だんきちさんから頂いたお野菜は私にとって初めて、本当の意味で「生産者の顔が見えるお野菜」だった。(まあ、旦那様のお顔は存じ上げないけれど。)

不思議なもので、知っている方が丹精込めて(何しろ有機栽培だからその手間は一層大きなもののはず。)作られたお野菜を無駄にしてはばちが当たると思った。

もちろん、普段から食べ物を粗末にしてはいけないと思っているし、食事はなるべく残さず食べ、どうしても食べられないときには捨てる前に心の中で「ごめんなさい」と謝る。
それでもやはり、冷蔵庫の中でトマトを腐らせたり、葉野菜をしなびさせたり、別の場所ではジャガイモから激しく発芽させ、食べられぬまま処分することになるものも決して少ないとは言えない。

もったいないとは思うし、作ってくださった方に申しわけないとは思うのだけれど、やはり顔の見えない人が作ったものにはその程度の気持ちしかもてないということなのだろう。

昨日は教室を出たのが23時を回っていて、帰宅したときにはもう30分もせずに日付が変わるという時間だった。
普段ならそんな時間に帰って料理なんて絶対にしないし、特に夏休みは早寝早起きしなくちゃいけなかった分、夜遅くに食べると寝られなくなるし、それでも寝ると太るから、体力や健康を維持できるであろう最低限だけ食べて寝る、そんな生活を続けていた。
カット野菜の生野菜サラダに納豆やお豆腐、もずくやめかぶなどの海藻類、殆どそんなものばかり食べていたので、本当に長らく「料理」と呼べることをしていなかった。

けれど昨日は、送って頂いたお礼を、ちゃんと美味しく頂いた感想と共に伝えたかったので、久しぶりに包丁を握って火を使って、(まあ、そうは言っても料理といえるほどのことはしていないが)野菜を調理した。

(続きますが、すみません、一旦ここで帰宅します。今日は「だんきちさん自家製トマトソース」で晩ご飯を食べたいので。。。)

(帰ってちゃんと美味しくご飯は頂いたのですが、今度は眠くなって、頭が働かなくなってきてしまいました・・・。覗いてくださった方がおられたらお許しください。続きは明日書かせて頂きます。)

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2006年9月13日 (水)

中学入試問題

このところ偶然にも続けて、関西では知らない人はいないだろうという有名中学受験塾2つの算数のテキストの一部を見る機会があった。
もちろん、中学受験の指導をしようなんて気は相変わらずないし、やれったって経験もないのでできそうにない。
見ることができたのはどちらも4年生のテキストだったのだが、しみじみ「すごい世界だなぁ・・・」と思った。

4年生にして、公立小から公立中へ進む子であれば中学3年で学習する内容を習っていたりするわけだ。それも片方の塾のテキストの問題量は私が見る限り半端じゃない。こんなレベルの問題をこんな量こなすのかと思ったら、やはり普通の子どもには負担が大き過ぎるように思えた。

けれど、それを見ながら、受験指導はしないけど、ちょっと中学入試の問題をもっとちゃんと見てみたいなと思い始めた。
というのも、問題によってはじっくり考えて、結構楽しめるものもありそうな気がしたからだ。

そもそも、有名なところでいえば、鶴亀算や植木算、旅人算などは全て、実生活に即してイメージすることが可能な問題なわけで、試験本番で時間が限られた中で解き、それによって合否が決してしまうというような状況でなければ、もしかするとクイズやパズルみたいに、ああじゃない、こうじゃないと試行錯誤しながら楽しんで解くことができるんじゃないかと思う。

小学校低学年に「鶴と亀が合わせて10匹います。足の数を数えたら32本でした。鶴と亀はそれぞれ何匹いるでしょう?」と問題を出したら、絵を描いたりしながら答えを出すことは可能だ。植木算だってそうだ。公立中に進むから必要ないと思って、これまで深く考えることもなかったが、大量に計算問題をやらせるより、ずっと有効な気がする。

更に発見は、小4にして合同や相似の学習をしているのを、ただ「すごいなぁ」と思ってみていたのだが、よく考えてみれば図形の問題なんて、小学生じゃできないというものではない。逆に、頭がまだ比較的柔らかく、定期テストなどに追われることもない小学生の間にたっぷり時間をかけて学習させてあげたらいいのでは?とそんなことも思った。

レッスン以外の時間がなかなか取れないのがちょっと困るところだが、ちょっと真剣に中学入試問題を見てみたい。
そんなことを考えている。

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2006年9月12日 (火)

今日も嬉しかった。

今日はもともと恐ろしくハードな1日になる予定だったのだが、恐ろしいことに予定を更に上回るハードスケジュールになってしまった。。。

11時から先ほど20時40分までの間に私が取れた休憩は合わせて10分ほど。お茶を飲んでトイレに行った以外はずっと教室に誰かがいて、結局お昼も食べそびれた。。。

けど、そんなハードな中にも嬉しいことがいっぱいあって、何より嬉しかったのは先週文章題をとても楽しそうにやってくれた彼女とのレッスン。
初めの頃、点描写は点の場所を一つ一つ数えて見つけ、そこに向かって引くという感じでしかできなくて、積み木を積んで数を答える問題も、全部一つ一つ数えて出すしかできなくって。。。けどすごく一所懸命で。

ホントにいい子だから、何とかもっとすっとできるようになるといいなと思っていたのだが、今日のレッスンの初め、比較的簡単なものではあるものの点描写をやってもらったら、点の位置を数えることなく、ちゃんと点と点をつなぐことができるようになっていた。3つやってもらったけれど、3つともバッチリできた。

それだけでもかなり嬉しかったのだけれど、その後やってもらった積み木の数で大きな変化が現れた。ひとつひとつ数えなくなったのだ。3個積み重なっているところには3と、2個ずつ3列並んでいたらそれを見て6とまとめて書いてくれるようになっていた。私は今日は何も言っていないのに。
そして、更に「4と4で8、8と6で14・・・」という具合にかたまりを更にまとめるという形で答えを導いてくれるようになったのだ。

その上、20までの足す、引くで頻繁に使う教具があるのだが、その教具がかなり頭の中でイメージできるようになり、数を見たらその教具のどっちからどっちに玉を移動させたらいいかということを、かなりひとりで考えられるようになっていたのだ。

1回のレッスンの中でこんなにも沢山の変化を見届けることができるなんて、すごい劇的だ。
嬉しくて嬉しくて仕方がない。

まだ幼くて体力的に終盤になるとペースが落ちるが、1年生でも1時間のレッスンなのだから、それは多少仕方ないだろう。
とにかく今日は本当に感動した。
先週彼女が文章題を解く様子を見て、これは心配ないかもと思った通りに変化し始めている。

もちろん、他の子たちも今日もいっぱい感動させてくれて、ハードながらもとても幸せな1日だった。

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2006年9月11日 (月)

昔の教え子くん

今日はレッスンがお休みだったので、出勤して色々な仕事を片付けようと思っていたのだが、予定の仕事がまだ半分も終わっていない頃、懐かしい子からメールが届いた。

彼は私が塾に勤めていたとき、一番初めに送り出した受験生のひとりで、卒業後も忘れずにときどき連絡をくれる。もうかなり昔の卒塾生だから、彼はもう就職活動の時期になるようだ。

そんな彼から突然、「レッスンお願いします」という内容のメールが来て、何をふざけているんだろうと、「一体なんの?」と返事を返すと、「一次、二次、連立方程式などなど・・・」というような返事が返ってきた。

こりゃますますふざけているなと思ったけれど、まあ今日はレッスンがあるわけじゃないし、遊びにきてくれるならそれでもいいかと、「今日はレッスンないからいいよ」と返事を返した。

数分後、彼は差し入れと共にやってきたのだが、驚いたことにメールの内容は冗談ではなかったのだ。

彼は高校で文系のコースを選択し、その後1年多く勉強をした後、文系の大学に進学した。高2以降数学には縁のない生活をしていたらしい。
その彼が取り出したプリントには、中3であればほぼ全て解けるであろう問題がずらっと分野別に並んでいた。

一体なんだ?と思って尋ねると、就職試験対策の授業を大学が学外の学生も対象にして開講しているとのことだ。その授業の中でこのプリントをやったのだという。
しかし、いくら見ても内容は全て中学内容で、この辺の公立高校の入試問題より遥かに易しいレベルの問題が並んでいるだけなのだ。

まあ、そうは言っても長らく全く数学から離れていたらしいので、ある程度忘れてしまっているのも仕方ないのかもしれない。実際私は英語を全くやらなくなってかなりになるので、今では中学1年でさえきちんと指導できるかどうか不安という凄まじい有様なのだし、4、5年もやらなきゃそりゃ忘れるわなと思いながら、一緒に問題をやることにした。

中学時代は数学は割とできる子だったので、説明するとぼんやり記憶が蘇ったり、蘇らないにしてもどうにか理解はできたようだ。
とりあえず今日は2時間半ご奉仕させて頂いた。

懐かしい子が来てくれて、一緒にレッスンをして、それはとても嬉しいことだったのだが、またちょっとふつふつとモヤモヤが湧いてきた。

大学で、決して安くはない受講料を取って、もちろんその勉強だけではないようではあるけれど、やっていることは中学の数学。
それってどうなんだろう?

更に彼は言った。実は彼は中学時代、しゃれにならないぐらい英語が苦手だったのだけれど、大学の英語は高校よりずっと簡単だという。成績もずっといい成績をキープしているそうだ。
高校より簡単な大学の英語。。。それって一体何なのだろう?

以前、ある新聞で某私立歯科大の講義に関する記事を知り、愕然としたのだが、そんな大学はもしかして数え切れないほどあるということなんだろうか?

もちろん、大学ではもっと専門の勉強をしているのかもしれないが、だからといって、高校を経て入学した大学で、なぜ高校より簡単な英語や中学レベルの数学の授業を受けるんだろう?学生達はそんなために大学に行っているんだろうか?何の疑問も感じないんだろうか?

そういえば、数年前、近くの某私立女子大でやはり就職対策としての数学の講習があり、お知り合いが声をかけてくださったので見学させてもらったことがあった。
確かそのときの問題もほぼ全て中学レベルの数学だったことを思い出した。ただ、その大学は中学校からあるお嬢様学校なので、女の子達だし、数学が苦手な子も多いんだろうなぐらいにしか思っていなかったのだが、それは勘違いだったのかもしれない。

なんだかこのモヤモヤは簡単に消えそうにないが、この国の行く末をまたちょっと憂いてしまいそうだ。

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2006年9月10日 (日)

言われてみれば。

先週は週の半ば以降やたらバタバタして、今日は1日おうちでダラダラしてしまったのだけれど、夕方、先日ブログで紹介した「やんちゃだった子」が「さっき、S先生(先日のクラス会に参加してくださった先生)が来ててん」と電話をくれた。

相変わらず、冗談なのか本気なのかお約束のように口説いてくれるあたり、ホントにありがたい話だけれど(笑)、このブログを読んでくれているらしい彼が私に尋ねた。

「お前、仕事に燃えてるんはようわかるねんけど、そんな仕事ばっかりで淋しないか?」

そう言われて、ふと思い返してみた。
けど、「仕事ばっかり」の生活で、いつからなのかわからないが、淋しいとかイヤだとか思ったことがない。

確かに、もともとあまり遊びに行く方でもなかったし、私の生活時間帯で一緒に遊んでくれる友人もそうそういない。
更にもともと子どもが0人の状態からのスタートだったから、質素な生活はすっかり身についてしまい、美味しいものを食べに行くことも、呑みに行くことも殆どなくなった。当然、昔は唯一の道楽だった「着道楽」もすっかり鳴りを潜めた。
趣味らしい趣味といえば、会社員を辞めた10年ほど前習い始めた彫金だったが、それも去年の秋以降完全にお休みしてしまっている。

思い返せば本当に、仕事以外殆ど何もしていない生活を続けているらしい。

けれど、そんな日々に淋しいとか空しいとか物足りないとか、そんな気持ちを抱いたことがない。まあもちろん、人生を一緒に生きていける相手がいたらもっと楽しいだろうなと思うことがないわけではないが、ストレスとは縁のない生活になっていることに今日改めて気づかせてもらった。

やっぱり私はこの仕事が大好きだ。
何より子ども達が大好きだ。
大好きな子ども達と一緒に過ごさせてもらえて、それで日々を穏やかに暮らさせてもらえることは、やはりこの上ない幸せなんじゃないかと思う。

星の数ほどある塾や教室の中で、小さな小さな私の教室を見つけてくださった皆さんと、毎日代わる代わる幸せを届けてくれる子ども達、そしてこのブログを通して遠くから見守ってくださっている方々に改めて感謝したい。

本当にありがとうございます。
皆さんのお蔭で私はとても幸せです。

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2006年9月 9日 (土)

今日はなんだか壮絶スケジュール。

まともな記事を書きたいんですけど、現在思考力が極度に低下しているっぽいので、ひとまず日課としての更新を。。。

今日は10時半から新しいお子さんが体験に来てくださって、楽しくレッスンをさせてもらってというのがスタート。予定変更なども重なってしまい、その後僅かに休憩時間があったものの、12時からはぶっ通し。最後の子をお見送りしたら19時半になっていました。。。。。。

レッスンをこんなにさせてもらえるのは本当に幸せなことですし、それはいつも心から感謝しているのですが、さすがにお昼を食べる時間もなく、ほぼ9時間連続っていうのは、相手が可愛い子ども達だから最後まで持ったものの、かなり限界です。(そもそも、そんな予定を組む自分が悪いんですけど。。。1日だけだし、大丈夫かなとついつい。。。(苦笑))

しかし、なぜかこのところ予定変更が重なったり、新しい方が入ってくださったりで、実は火曜も結構すごいスケジュール。。。多分お昼の休憩はできるものの、11時から20時半まで。。。

明日明後日は体力維持に努めます。(笑)
レッスン以外の仕事もしなきゃいけないんですけど。。。

頭が回復(?)したら、まともなブログを書くよう頑張ります。
皆様よい休日を。

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2006年9月 8日 (金)

書きたいんですけど。。。

ブログ、まともに書きたいんですけど、なんか非常にハードです。
今日は特に13時過ぎから20時半過ぎまでほぼ休憩なしで連続レッスンだったため、まだレッスン以外のことは何もしていない状態。。。

書けそうだったら深夜に書きます。
無理だったらゴメンナサイ。

しかし、さっきみかみ先生のブログを覗いて、乙武さんがココログでブログを書いておられたこと初めて知り、同時に、「この記事でどうして?」って思うトラブルが起きていることを知りました。

私は歴史の勉強が嫌いだったので、天皇制のことなどについても深いところまでは知りません。
いいのか悪いのかも、今自分の持っている知識だけでは意見しない方がいいと思っています。

ただ、男の子が生まれないばっかりに(それだけじゃないのかもしれませんが)体調を崩された雅子さま。
もともとあの方は外交官でしたっけ?違ったかな?とにかくバリバリとお仕事をされていた方で、もしも天皇家に嫁いでいなければ、男の子が生まれないということでこんなにも心を痛める必要はなかっただろうになぁとは思っていました。

そして、お二人のお子さん達とこれだけ年齢が離れての今回の紀子さまのご出産も、その背景には私には想像もつかない色々な苦悩があったのかもしれないとも思ったりするわけです。

なんか、今の時代にあって何が何でも男子を産まなければ女性って、どんな思いなんだろうなぁと。。。

そんなことを考えてしまいました。

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2006年9月 7日 (木)

ああ。。。

通常の日々が戻ってきた上、今日はレッスンの振替もあって、普段よりレッスンが少なかったはずなのに、なぜかもう23時になろうとしています。。。

今日から新しく一緒にレッスンすることになった男の子は、体験を含めて2回目でありながら、既にすっかり慣れてくれている様子。まあ、それはひと安心です。

新しい子が来てくれるのはとても嬉しいことなのですが、実はやはり最初はこちらもちょっと緊張するんですよね。子どもによっては馴染んでくれるのにしばらくかかる子もいますし。
なので、今日の彼はすんなり馴染んでくれたので、ホッとしました。

土曜日にはまた新しい子と出会える予定で、そちらも楽しみであり、緊張でもあり。けど、大人である私でさえそうなのですから、子ども達はもっと緊張しているのかもしれませんね。

今日書くつもりがかけなかったのですが、昨日読み終わった本はかなり面白かったです。
男の子がおられるお母さんや、女性で教育関係のお仕事をしておられる方などにはかなりオススメです。

またきちんと読書感想のブログでご紹介しますが、
「男の子を伸ばす母親は、ここが違う!」 松永暢史著
是非書店で手にとってみてください。

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2006年9月 6日 (水)

もっと褒めよう。

育児本などにもよく「褒めて育てよ」というようなことが書かれているのを目にする。
また、子どもをやる気にさせるのにも、できないところを指摘してそこを改善させるより、まずはできるところをもっと徹底的にできるようにさせる方が効果的だなんてこともよく目にする。

実際、褒められて嫌な気がする人は殆どいないだろうし、特に小さい子などであれば、褒められたいがために嫌なことでも頑張れたりするなんてことはあるだろう。

そういうことは頭ではわかっているし、普段のレッスンでも極力子どものできるところを見て、そこを褒めるように心がけているつもりだ。

ただ、昨日改めて、やっぱり褒めるってのは大事だなと思った出来事があった。
ま、それは単に私が「子ども」なだけかもしれないのだが、あるメールのひと言で褒めることの効果を身をもって再認識したのだ。

最近、パズル問題を作っている。
もともと、教材などを必要に応じて作ることはあったし、それは今でもそうだ。ただ、パズルに関してはこれまではあまり作る必要性がなかったので、作らずに過ごしてきていた。

けれど、りんご先生とお知り合いになったことがきっかけで、自分でも問題を考えるようになった。
そして、できた問題をりんご先生に送って見てもらい、意見を聞いたりもするようになった。

すると、ときどきりんご先生がメールに書いてくださるのだ。

「先生、すばらしいですね。」

とか

「最高です。」

とか。

もちろん、社交辞令も入っているとは思うが、大人になってそんなにストレートに褒めてもらう機会は殆どない。特に私は1日の大半を子どもと過ごしているので、大人から自分の仕事その他に対する評価を受ける機会は一般の社会人より一層少ないのではないかと思う。
仮に塾などに勤めているのであれば、同僚の先生や経営者などからの評価を受けることもあるのだろうけれど、それすら私にはない。

なので、仮にお世辞だろうとなんだろうと、「すごいですね」とか「最高です」とかという言葉はやはり素直に嬉しいのだ。

何かを作って、どうかなぁと思って見せたときに、第三者が「すごいね」って言ってくれることで単純にやる気が出る。
もっと違う問題も作って感動してもらいたいとか、驚かせたいとか、そんな風に思うようになるものだ。

実は私は家事の中でも特に掃除が嫌いだ。もちろん汚いのが好きな訳ではないし、教室は子ども達が快適に過ごせるようにと、仕事の一環として掃除もする。
しかし、自宅は正直言って人様には絶対見せられないような状態なのだ。

洗濯はしなければ生活に困るけれど、掃除はしなくても特に困りはしない。埃アレルギーでもあれば別の話だが、幸いそんなこともない。いくら埃っぽい部屋でも、生活する上での不自由はあまり感じないのだから、一層掃除をする必要性を感じられない。

けれど、仮にもし素敵な旦那様でもいて、掃除をしたときに「おぉ、綺麗になったなぁ。気持ちいいなぁ。」とか言ってくれたら、旦那様のためにも頑張って綺麗にしようとか思えるのかもしれない。(と言いつつ、実際にはしなさそうな気もするが。。。。。。)

褒めるというのは、相手をきちんと見るということでもあると思う。
髪型が変わったとか、今日の服はよく似合っているとか、そんな小さなことを褒めようと思えば、普段から相手をきちんと見ていなければできないことだ。

目の前に子どもが2人いて、同じ問題を解いているとして、ひとりは10問中1問だけ間違えた。もうひとりは1問しか合わなかった。
その事実だけを見れば、前者が褒められ、後者は叱られるかもしれない。

しかし、仮に前者は普段常に全問正解をしている子で、後者は常に0点を取っている子だとすれば、状況は変わる。前者ではなく、後者の1問こそ褒めるべきなのだ。(もちろん前者も褒めて構わないが。)
けれど、後者を褒めるにはそれまでのその子を見ていない限り無理だ。目の前の9問不正解の答案だけ見て褒めることは難しい。

仮に全問不正解だったとしても、その問題を解くのに目の前のその子が本当に必死で取り組んでいる姿を見ていたらどうだろう。
結果は全問間違いだったとしても、必死で解こうとしたその姿勢を褒めることだってできるはずだ。

高校時代の私は正にそんな経験をした。以前にも書いたが、私は高校入学直後、数学で甚だしく躓いた。担任はとてもいい先生で、その先生が数学の担当であるのに、小テストでは毎回のように0点。いい先生なのだから、何とか点を取りたいと思っても思うようにいかない。
けれど、担任の先生は稀に私が部分点を取ったとき、本当に心からの言葉で「よく頑張ってましたね!」と褒めてくれるような方だったのだ。
あの先生がいてくださったから、今私はこうしていられると言ってもいいかもしれない。

それほどに「褒める」ということは大切なのだ。

これまでもできないことを責めるのではなく、できることを褒めるよう心がけてきたが、これからはより一層そう心がけていきたいと思う。

自分の口から常にプラスの言葉を発していれば、褒められた相手だけでなく、間違いなく自分だって幸せな気持ちになれるはずなのだから。

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2006年9月 5日 (火)

通常の生活

うちの教室は月曜は振替レッスンなどの予備日として空けてあるので昨日はレッスンがなかったのですが、だんきちさんがいらしたので午前中から出勤はしました。
2時間ばかり色々なお話をしました。有意義な時間でした。(だんきちさんに有意義だったかどうかは非常に不安ですが。。。)

なので、今日からが実質夏休み明けの通常スケジュール。
レッスンが午後からでいいなんて不思議な感じです。
もともと火曜は13時から20時半までに5つのレッスンがある曜日で、夏休み前までは結構ハードな曜日だったはずなのですが、夏を乗り越えたらあまり大変に感じなくなりました。ありがたいことです。(笑)

今日の嬉しかった出来事のひとつは、すごく可愛くって一所懸命なのだけど、点描写がちょっと苦手で、計算もまだスラスラとはいかない1年生さんが、文章題のプリントをすごく嬉しそうにやってくれたこと。

文章が書かれたプリントを見て、「何それ?」と言ったので、イヤなのかな。。。と内心ドキッとしたところ、「わぁ~い、それやる!」と言って、ニコニコ声を出して問題を読んで、楽しそうに積み木を使ったり、絵を描いたりしながら取り組んでくれました。

文章題のプリントを何枚も続けると、スーパーちゃんたちでも嫌がることがあるので、様子を見ながら1枚、また1枚と出したのですが、全く嫌がる様子もなく、もしあればまだまだやってくれたのではという感じでした。

ここまで楽しそうに文章題をやってくれた子は彼女が初めてかもってぐらいのニコニコ具合で、「○○、これ大好き♪」とまで言ってくれました。
文章題が大好きって言ってくれる彼女は、算数はこの先あまり心配しなくても大丈夫かなと、その笑顔を見ながら思ったのでありました。

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2006年9月 4日 (月)

満足の基準

随分以前、殆ど書き上げていた記事が全部消えてしまって、そのままこのタイトルのブログは長らく書くこともなく今日に到った。

昨日の晩テレビで、インドでアーユルヴェーダの病院をしている先生のところに若い俳優がホームステイに行った番組をやっていたが、その先生は一般の病院の3分の1の費用で治療をし、貧しい人からはお金を取らないのだと言っていた。

若い俳優が先生になんでそんな安い費用で見るんだという質問をしたときの先生の答えが心にしみた。

「沢山持とうとしても、自分の器の大きさは決まっているから、それ以上に入れようとしても溢れてしまう」

そんなことを言っていた。自分の器を知っているから、これでちょうどいいんだというようなことを、穏やかな表情で語る先生にしみじみ感動した。

もちろん、「自分の器」という表現も取りようによっては、欲がなければ成長もないという意見もあるかもしれないし、儲けられるところでは儲けて、それをもっと多くの人に還元すればいいのではないかという意見だってあるかもしれない。

先生の言葉を文字にすると、先生が言わんとしたことがうまく伝わらないような気もするのだが、要するに「足るを知る」ということなのだろうと思う。

消えてしまったブログを書いていたとき、その日にある男の子が私に尋ねた。

「なあ、先生の家って広い?」

ちなみに、それを尋ねた子の家はとても大きくて立派だとその子らの友人が教えてくれた。そんな家で生まれ育っている彼にとっては、私の教室は「小さい」に違いないし、この教室より狭い私の家は、もう「家」とは見られないかもしれない。

「ううん、狭いよ。この教室より狭いなぁ。」

そう答えると、素直で可愛いその子は驚きながら

「え!?ここより狭いん?嫌じゃないん?もっと広いとこに住んだらいいやん。」

そんなことを言った。

今の住まいは震災後の物件の少ないときに借りたものなので、同じぐらいの家賃を出して、もう少しだけ住む地域を変えれば、もっと広い家に住むことも可能だ。

長年住んでいるので確かに手狭にはなっているし、もう少し広かったらいいんだけどと思ったことはないわけではない。
だからといって、引越しの手間なども考えると、結局は別にここでいいやと思ってしまうのだ。

もともと、もし3億円の宝くじに当たるだとか、自由に使える大金があったとして、買いたい家を買いなさいと言われたら、それでも私は「広い家」をほしいとは思わないんじゃないかと思う。
キッチン以外に2つ部屋があれば、もうそれで十分。本当にそう思う。(何しろ掃除も嫌いだし。。。)

ただ、もし仮に私が実は大きな家に住みたいのに、経済的な理由でそれを我慢しているのだとしたら、今の状況では満足できないだろう。もっと収入を増やして、大きな家に住むんだ!と思うかもしれないし、そのために何をすればいいか必死で考えるかもしれない。

それは家に限らず、持ち物でもなんでも同じことで、一流のブランド品が好きな人は、それを手にできないことは不幸せなことになるのかもしれないし、少なくとも「満たされている」とは思えないのだろう。

何をもって満足するかは当然人それぞれに違う。
子どもへの期待だって同じことが言えるような気がする。

もしも生まれながらに難病や障害を抱えて生まれてきた我が子であれば、親は「ただ元気に生きてくれさえすればいい」と心からそう願うかもしれない。

元気に生まれた我が子が成長する過程で、初めて笑ったことに喜び、寝返りを打ったことに喜び、這い這いに、たっちに、あんよにと、本当に些細なひとつひとつのことに心から喜び、幸せを感じてこられた親御さんも多いことだろう。

小さいうちは「健康でありさえすれば」「元気でいてくれさえすれば」とそんな風に思っていたはずの親御さんたちが変わっていくのは何がきっかけなのだろう。

もちろん、ずっと変わらずそう願い続け、見守り続ける親御さんもおられるだろうし、少なくとも我が子の健康や幸せを祈らない親はまずいないだろう。

それでも、いつからか気付けば「できないこと」「人より劣ること」に目が向き始めてはいる方はおられないだろうか。

「できることに目を向け、そのことを喜び、褒める」

幼いうちはみんながそうだったはずなのに、いつしか

「できないことに目を向け、そのことを嘆き、叱る」

という風に変わっていく親は決して少なくないような気がするのだ。

もちろん、愛するがゆえにそうなってしまうということも、特に母親であれば、自分のお腹を痛めて生んだ、いわば自分の分身のような存在だからこそ、一層思い入れが強くなり、何かができないとこの子が困るんじゃないか、不幸になるんじゃないか。。。そんなことを思って不安になってしまうのだろうということもなんとなくは理解できる。(残念ながら、経験がないのであくまで想像することしかできないのだが。)

けれど、何もかも完璧にできる人間なんて存在しないように、できないこと、誰かより劣ることに目を向けている限り、永遠に満足することはないのではないだろうか。

だったらむしろ、その子ができること、誰かより優ること(それはどんなことでも構わない。きちんと挨拶ができるとか、笑顔が誰よりも可愛いとか、どんなことだっていいと思う。)に目を向ければ、親も子ももっともっと幸せを感じられるし、満足できるのではないか。

アーユルヴェーダの先生は「自分の器」と表現したけれど、何をもって幸せと感じられるか、満足できるか。その基準は人それぞれ異なる。
しかし、自分の意識を変えることで、今のまま周囲が何も変わらなくたって幸せを感じることも、逆に不幸だと感じることも可能なのではないかと思う。

小さなことでも幸せを感じられる自分であり続けたい。
そんなことを思う。

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2006年9月 3日 (日)

今日聞いた話。

今日の日中、お知り合いのお手伝いの関係で、なぜか赤帽さんの車に同乗させてもらった。(といってもお手伝いが引越しというわけではない。)

その赤帽さんから聞いた話はとても新鮮で、これまで考えてもみなかったことだったけれど、なんかモヤモヤした。

その赤帽さんはある会社の配送の仕事もしていて、その会社は関西では超有名な某プロ野球関連グッズを作っているそうだ。更に、高校野球関連グッズも作っているという。
へぇ~っと思って話を聞いていると、例えば高校野球でも、グッズがよく売れる学校とそうではない学校があるとか、売れる学校のグッズは沢山作るけど、売れない学校の場合は数を控えるらしいとか、色んな話を聞かせてくれた。

特定の学校名を出すのは控えるが、甲子園には結構出場している某宗教高校はグッズを買うことを禁止しているので、作ってもあまり売れないなんて話も聞いた。

そのあたりの話は、へぇ~、そっか、色々あるんだなぁと思って聞いていたのだが、その中で、言われてみればごもっともなもののそんなこと考えたこともなかったので、聞いてなんだかもやもやしてしまったのはこんな話。

高校野球の優勝校、準優勝校の文字が入った記念グッズは試合が終わった直後に販売するのだそうだ。
ということはつまり、優勝が決まる前に両校共、優勝・準優勝のグッズを作るということなのだ。要するに、作ったグッズの半分は全く日の目を見ることなく廃棄されるということだ。

それはプロ野球の優勝グッズでも同じことらしく、リーグ優勝の場合はともかく、日本一が決まるのはほんの数試合の結果だから、結果がわかってから作ったら到底間に合わない。というわけで、結果に関わらず大量の日本一グッズが作られることになるのだそうだ。
当然、日本一にならなければ、全て廃棄処分になるという。

言われればごもっとも、それ以外方法はないだろう。
優勝グッズ、記念グッズをほしがる人たちがいて、そのニーズにこたえるためには、その方法以外には超能力者や絶対外さない預言者、占い師でも抱えない限り、無駄なものを作らずに必要なものだけを作って売るということはできないのだということは頭では理解できる。

しかし、そのために大量のグッズがゴミとして処分されてしまうという事実に、どうにも複雑な思いがするのだ。
実際、うちの親は某プロ野球チームのかなりのファンなので、優勝したときには記念グッズを買ったりしていた。けど、それは優勝して数日後のことで、みんなそれでもいいんじゃないんだろうか?
もちろん、数日立てば購買意欲がなくなる人もいるだろうし、その辺を計算して直後に売るんだろうけど、すごくすごく地球に申し訳ないことをしているような気がしてしまう。

まさに「もったいない」だ。

もともと私は昔から、タレントにもプロスポーツチームにも夢中になったことがない人間なので、必死になってグッズを買う心理はよくわからない。
けれど、大ファンで、とにかくグッズがほしいという人たちは、その背景には大量に廃棄されている商品があると知っても何も感じないだろうか。だったら直後じゃなくてもいいよっていう人だっているんじゃないだろうか。

本当のファンなら、数日待ってでもほしいはずだし、優勝決定直後に予約を受けるとか、何かもっと方法はあるんじゃないかと。。。どうでもいいことなんだろうけど、どうももやもや考えてしまったそんな休日だった。

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不思議なものを発見。

知人のお手伝いの後、ご飯食べて帰ってきたのですっかり遅くなりました。

帰宅後、ちょっとアマゾンで探し物をしていたのですが、ある知育玩具のページですごく気になるものを発見してしまいました。。。(あ、くだらないというか、ど~でもいい話です。)

商品の詳細

  • 発送重量: 1.00 Kg
  • 国外配送の制限: この商品は、日本国外にお届けすることができません。
  • メーカーによる推奨年齢: 24 か月 ~ 83 歳 3 か月

気づかれましたか?
気づきますよね??

メーカーによる推奨年齢: 24 か月 ~ 83 歳 3 か月

あの。。。なぜ83歳でも84歳でもなく、83歳3ヶ月なんでしょう?
あぁ。。。すごく気になる。。。し、質問したい。。。。。。

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2006年9月 2日 (土)

すみません!

今日は10時半から先ほどまでほぼ無休憩でレッスンでした。
そして、これからちょっと知人のお手伝いに行かねばなりません。。。
帰宅後、体力が残っていれば更新したいと思っていますが、明日になるかもしれません。
いらしてくださった方には、2日連続まともに更新できなくって、申し訳なく思っております。
何卒お許しください。

それでは皆様よい休日を。

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2006年9月 1日 (金)

ふぇ~~ん。。。

今日から9月で、夏休みも終わったから少し落ち着くかと思っていたのですが、なぜだか今日は強烈に忙しい。。。

朝のうちに保護者の方にメールなど送って教室に出勤し、11時からレッスン。お昼は郵便局などに行ってご飯食べたら午後からのレッスン。
今日は午後からは3つレッスンして1時間空いてラストひとつなので、レッスン自体は少し余裕もあったはずなのですが、間で事務作業などしていたら、またメールが来てお返事して、明日以降の準備もしなければ。。。って思っていたらもうこんな時間でした。

明日も朝からしっかりバッチリレッスンなので、早く帰ってご飯食べなきゃまた「身について」しまう。。。(苦笑)
ですが、まだまだやっておかなければならないことが。。。なぜ。。。

とにかく明日のレッスンを乗り切ればもうちょっとまとまって時間が取れると思いますので、メールその他の対応が遅くなるかもしれませんが、何卒ご容赦くださいませ。

ブログもちゃんと書きたいのに。。。(泣)

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