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2006年9月 4日 (月)

満足の基準

随分以前、殆ど書き上げていた記事が全部消えてしまって、そのままこのタイトルのブログは長らく書くこともなく今日に到った。

昨日の晩テレビで、インドでアーユルヴェーダの病院をしている先生のところに若い俳優がホームステイに行った番組をやっていたが、その先生は一般の病院の3分の1の費用で治療をし、貧しい人からはお金を取らないのだと言っていた。

若い俳優が先生になんでそんな安い費用で見るんだという質問をしたときの先生の答えが心にしみた。

「沢山持とうとしても、自分の器の大きさは決まっているから、それ以上に入れようとしても溢れてしまう」

そんなことを言っていた。自分の器を知っているから、これでちょうどいいんだというようなことを、穏やかな表情で語る先生にしみじみ感動した。

もちろん、「自分の器」という表現も取りようによっては、欲がなければ成長もないという意見もあるかもしれないし、儲けられるところでは儲けて、それをもっと多くの人に還元すればいいのではないかという意見だってあるかもしれない。

先生の言葉を文字にすると、先生が言わんとしたことがうまく伝わらないような気もするのだが、要するに「足るを知る」ということなのだろうと思う。

消えてしまったブログを書いていたとき、その日にある男の子が私に尋ねた。

「なあ、先生の家って広い?」

ちなみに、それを尋ねた子の家はとても大きくて立派だとその子らの友人が教えてくれた。そんな家で生まれ育っている彼にとっては、私の教室は「小さい」に違いないし、この教室より狭い私の家は、もう「家」とは見られないかもしれない。

「ううん、狭いよ。この教室より狭いなぁ。」

そう答えると、素直で可愛いその子は驚きながら

「え!?ここより狭いん?嫌じゃないん?もっと広いとこに住んだらいいやん。」

そんなことを言った。

今の住まいは震災後の物件の少ないときに借りたものなので、同じぐらいの家賃を出して、もう少しだけ住む地域を変えれば、もっと広い家に住むことも可能だ。

長年住んでいるので確かに手狭にはなっているし、もう少し広かったらいいんだけどと思ったことはないわけではない。
だからといって、引越しの手間なども考えると、結局は別にここでいいやと思ってしまうのだ。

もともと、もし3億円の宝くじに当たるだとか、自由に使える大金があったとして、買いたい家を買いなさいと言われたら、それでも私は「広い家」をほしいとは思わないんじゃないかと思う。
キッチン以外に2つ部屋があれば、もうそれで十分。本当にそう思う。(何しろ掃除も嫌いだし。。。)

ただ、もし仮に私が実は大きな家に住みたいのに、経済的な理由でそれを我慢しているのだとしたら、今の状況では満足できないだろう。もっと収入を増やして、大きな家に住むんだ!と思うかもしれないし、そのために何をすればいいか必死で考えるかもしれない。

それは家に限らず、持ち物でもなんでも同じことで、一流のブランド品が好きな人は、それを手にできないことは不幸せなことになるのかもしれないし、少なくとも「満たされている」とは思えないのだろう。

何をもって満足するかは当然人それぞれに違う。
子どもへの期待だって同じことが言えるような気がする。

もしも生まれながらに難病や障害を抱えて生まれてきた我が子であれば、親は「ただ元気に生きてくれさえすればいい」と心からそう願うかもしれない。

元気に生まれた我が子が成長する過程で、初めて笑ったことに喜び、寝返りを打ったことに喜び、這い這いに、たっちに、あんよにと、本当に些細なひとつひとつのことに心から喜び、幸せを感じてこられた親御さんも多いことだろう。

小さいうちは「健康でありさえすれば」「元気でいてくれさえすれば」とそんな風に思っていたはずの親御さんたちが変わっていくのは何がきっかけなのだろう。

もちろん、ずっと変わらずそう願い続け、見守り続ける親御さんもおられるだろうし、少なくとも我が子の健康や幸せを祈らない親はまずいないだろう。

それでも、いつからか気付けば「できないこと」「人より劣ること」に目が向き始めてはいる方はおられないだろうか。

「できることに目を向け、そのことを喜び、褒める」

幼いうちはみんながそうだったはずなのに、いつしか

「できないことに目を向け、そのことを嘆き、叱る」

という風に変わっていく親は決して少なくないような気がするのだ。

もちろん、愛するがゆえにそうなってしまうということも、特に母親であれば、自分のお腹を痛めて生んだ、いわば自分の分身のような存在だからこそ、一層思い入れが強くなり、何かができないとこの子が困るんじゃないか、不幸になるんじゃないか。。。そんなことを思って不安になってしまうのだろうということもなんとなくは理解できる。(残念ながら、経験がないのであくまで想像することしかできないのだが。)

けれど、何もかも完璧にできる人間なんて存在しないように、できないこと、誰かより劣ることに目を向けている限り、永遠に満足することはないのではないだろうか。

だったらむしろ、その子ができること、誰かより優ること(それはどんなことでも構わない。きちんと挨拶ができるとか、笑顔が誰よりも可愛いとか、どんなことだっていいと思う。)に目を向ければ、親も子ももっともっと幸せを感じられるし、満足できるのではないか。

アーユルヴェーダの先生は「自分の器」と表現したけれど、何をもって幸せと感じられるか、満足できるか。その基準は人それぞれ異なる。
しかし、自分の意識を変えることで、今のまま周囲が何も変わらなくたって幸せを感じることも、逆に不幸だと感じることも可能なのではないかと思う。

小さなことでも幸せを感じられる自分であり続けたい。
そんなことを思う。

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