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2006年8月31日 (木)

「広い視野」の獲得

このところまた、耳をふさぎたくなるような悲しい事件がいくつか続いているようだ。
幸か不幸か、忙しいこともあって全くというほどテレビを見ない生活になり、このところ私の情報源はほとんどがネットのニュースであるため文字情報としてしか知らないが、少年犯罪、未成年もしくは成人していてもまだ学生だったりする年齢の子達の犯罪や事件を聞くたび、なんともいえない気持ちになる。

昨日、英語の先生とお話をしていて、英語の先生がおっしゃった言葉が心に残った。

「最近の子は将来のこととか考えないんですかね?そんなことしちゃったら自分の将来もダメになっちゃうのに。」

同様のことはニュースなどでもよく言われ、短絡的、突発的にやってしまって、先のことを想像すらしていないようだということの原因として、ゲームやアニメなどを含めた様々なメディアの影響があるのではないかなどとも言われている。

もちろん、それも一因かもしれないし、他にも核家族化や、昔のように外で自由に遊べなくなったことなど、色々な原因が考えられるのかもしれない。

ただ、原因を追究することももちろん大切だとは思うけれど、きっと様々なことが複合的に絡み合って起きているのだろうと考えると、特定することも、原因となることを完全に排除することも難しいだろう。

これまでにも何度も話題に上ってきていたことでありながら、昨日の英語の先生のひと言を聞いたとき、ふと思い出したことがあった。

私が尊敬している大先生に初めてお会いしたときに大先生が話してくださったお話。
そのときには(えぇ~っ?そんなことってあるのかな?なんかちょっと信じられないなぁ。。。)と思ったりもしたのだが、今になって、色んな子ども達を見ながら、あながち嘘じゃないのかも。。。と思うようになったことだ。

大先生が話してくださったのは「広い視野を持つことの重要性」についてだった。その話は少し極端に思えたのだが、おおよそこんな内容だった。

視野の狭い人間が犯罪者になる。
視野の狭い人間は自分のことしか見えないから、なんでも「自分が自分が・・・」になる。
犯罪者は一人称でしかものをしゃべれない。

まあ、多少極端すぎるところもあると思うし、当然全てに当てはまることでもないと思うので、聞いたときにも話半分で聞いていた。(大先生、失礼をお許しください。。。)

このとき大先生のお話は更に色々と続いたのだが、そのとき、さすがにそりゃないだろう?と思ってしまったのが、私たちが比喩的に「視野が狭い」とか「広い視野を持つ」とかいうものは、実際の視野の広さに関係しているというお話だ。

大先生の作られた学習法では、特に幼児期に実際の「広い視野」を持たせるための教材がある。代表的な例でいうと、4つか5つのものをずらっと横一列に並べ、その大小を比較させるというものだ。

小学校受験の問題などでも出てくることがあるようだが、4つか5つの中で一番大きいものを選ぶとか、2番目に小さいものを選ぶとか、そんな問題をご存知の方もおられると思うが、その問題に取り組む際、視野の狭い子はひとつひとつを見て比べようとしたり、隣のものとの大小比較しかできなかったりして、選ぶのに時間がかかったり、間違ったものを選んだりすることがある。

しかし、大小比較をすればいいだけであれば細部を見る必要はなく、全体の大きささえつかめればいいわけだ。輪郭がぼやけていようがそれは問題にはならない。

そこで、子どもに4つなり5つなりのものを一度に視野に入れてしまうよう指導をする。描かれている絵の両端を指で押さえたりしながら、そこからそこまでを一度に見るということを意識させるのだ。
そうすれば、大小比較は格段に易しくなり、一瞬で選ぶことも可能になる。

そうやって広くものを見ることができるようになることが、将来的に比喩的な「視野の広さ」に繋がるといわれると、まだ正直実感はないが、もし仮に多少でも影響があるのであれば、これをさせない手はないとも思う。

実の親や友人をあやめてしまったりする子の中で、どれだけの子がその先の自分の人生を考えただろう。
一瞬の感情や、とにかく今ある目の前の不快な状況を解消するということ以外、何も考えが及んでいないのでは?と思える事件があまりにも多すぎる。

人をあやめたら、その後の自分の人生も全て失ってしまうに等しい。そもそも人生を棒に振るつもりなのであれば、人をあやめるという選択ではない、別の選択をすることもできるはずだ。

なんだかやり切れない思いで、解決策も見つからないが、少なくとも実生活でもっと「広い視野」があれば、そんな短絡的なことはしなかったのではないかと思う事件が次々と起こる現実を見ると、そのために自分にできることはなんだろうと考える。

犯罪者の視野が狭いというのはある意味頷ける。
もう少し物事を広く捉えることができていたら、起こさずに済んだかもしれない事件はあとを絶たない。
事件の大半は狭い範囲でしか物事を見られなかったから起きていると言ってもいいのではないだろうか。

もちろん、実際にどれだけの効果があるかはわからない。
ただ、子どもの視野を実際に広げることで、実生活において少しでも物事を広く見られるようになるのであれば、それをしない理由はないように思う。

部分だけを見ても全体はつかめない。

「広い視野」の獲得。
それはもしかするとすごくすごく重要なことなのかもしれない。

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コメント

うちも、高学年~中学生の塾生たちを見ていて、だんなとよくこの話題になります。視野がとても狭いこと、自分のこと(自分の都合)しか見えていないこと、それと同時に子どもたちが「言葉」を持たないことを危惧しています。なんでもかんでも「うざい」ですませてしまい、「あいつ消えればいい」とすぐに言う。それ以外の「言葉」を持たなければ、それ以外の「考え方」もできない、と思っていましたが、他の方法でも視野を広めることはできるのですね。

「健康な頭」と「健康な心」を育てることが本当に難しい時代なんですね・・・。

投稿: だんきち | 2006年9月 1日 (金) 08時05分

『広い視野』にすごく納得してます。周りを見渡す余裕とか全体の中の自分の位置が分かることなどにもつながることだと思います。何か物事がうまくいっていないなぁ という時は大抵狭い範囲でしか考えていないからということが実体験としてあります。自分自身もこだわりのあまり囚われてしまっていないか考え直したいですし、子供たちにも「視野」を意識させたいと感じました。

投稿: poke | 2006年9月 1日 (金) 10時32分

だんきちさんこんにちは。
表現する言葉を知らないというのも確かに一因になりそうですね。
人は言葉で思考するって言いますもんね。知らない言葉ではものを
考えることができないですよね。
「健康な心(頭)と体」を育てることなんて、もともとはとても
当たり前で簡単なことだったのではないかと思うのですが、そう
ではなかったんでしょうかね。
難しいですね。

投稿: TOH | 2006年9月 1日 (金) 13時04分

pokeさんこんにちは。コメントありがとうございます。
物事がうまくいかないときには視野が狭くなっているというご意見、
正にその通りなのでしょうね。今読んでいる本にも同じようなことが
書かれていました。
物事を大きく、俯瞰的に見ることができれば、悩みやストレスなども
小さく感じることができるのかもしれませんよね。

投稿: TOH | 2006年9月 1日 (金) 13時06分

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