« 2006年7月 | トップページ | 2006年9月 »

2006年8月31日 (木)

ところで。

そういえば、今日で夏休みが終わったのですね。

幼稚園はまだ明日も休みのところがあったり、土曜はもともとみんなお休みだったりで、今週いっぱいはまだ気分的にもスケジュール的にも夏休み状態なので、全く実感がありませんでしたが、今日で8月が終わるんですね。

長い長い夏休み。途中であまりの暑さにバテるかと不安になったりもしましたが、幸い無事に乗り切ることができました。(おまけに、なぜか若干太りました。。。(泣))

2学期は何かと行事が多いので、子ども達のレッスンでの集中度合いも若干下がりそうですが、週明けからは私も新たな気持ちで頑張らなくては!

長い長い夏休みも無事終了。特にお母さん方にこの言葉を。

「お疲れ様でした。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「広い視野」の獲得

このところまた、耳をふさぎたくなるような悲しい事件がいくつか続いているようだ。
幸か不幸か、忙しいこともあって全くというほどテレビを見ない生活になり、このところ私の情報源はほとんどがネットのニュースであるため文字情報としてしか知らないが、少年犯罪、未成年もしくは成人していてもまだ学生だったりする年齢の子達の犯罪や事件を聞くたび、なんともいえない気持ちになる。

昨日、英語の先生とお話をしていて、英語の先生がおっしゃった言葉が心に残った。

「最近の子は将来のこととか考えないんですかね?そんなことしちゃったら自分の将来もダメになっちゃうのに。」

同様のことはニュースなどでもよく言われ、短絡的、突発的にやってしまって、先のことを想像すらしていないようだということの原因として、ゲームやアニメなどを含めた様々なメディアの影響があるのではないかなどとも言われている。

もちろん、それも一因かもしれないし、他にも核家族化や、昔のように外で自由に遊べなくなったことなど、色々な原因が考えられるのかもしれない。

ただ、原因を追究することももちろん大切だとは思うけれど、きっと様々なことが複合的に絡み合って起きているのだろうと考えると、特定することも、原因となることを完全に排除することも難しいだろう。

これまでにも何度も話題に上ってきていたことでありながら、昨日の英語の先生のひと言を聞いたとき、ふと思い出したことがあった。

私が尊敬している大先生に初めてお会いしたときに大先生が話してくださったお話。
そのときには(えぇ~っ?そんなことってあるのかな?なんかちょっと信じられないなぁ。。。)と思ったりもしたのだが、今になって、色んな子ども達を見ながら、あながち嘘じゃないのかも。。。と思うようになったことだ。

大先生が話してくださったのは「広い視野を持つことの重要性」についてだった。その話は少し極端に思えたのだが、おおよそこんな内容だった。

視野の狭い人間が犯罪者になる。
視野の狭い人間は自分のことしか見えないから、なんでも「自分が自分が・・・」になる。
犯罪者は一人称でしかものをしゃべれない。

まあ、多少極端すぎるところもあると思うし、当然全てに当てはまることでもないと思うので、聞いたときにも話半分で聞いていた。(大先生、失礼をお許しください。。。)

このとき大先生のお話は更に色々と続いたのだが、そのとき、さすがにそりゃないだろう?と思ってしまったのが、私たちが比喩的に「視野が狭い」とか「広い視野を持つ」とかいうものは、実際の視野の広さに関係しているというお話だ。

大先生の作られた学習法では、特に幼児期に実際の「広い視野」を持たせるための教材がある。代表的な例でいうと、4つか5つのものをずらっと横一列に並べ、その大小を比較させるというものだ。

小学校受験の問題などでも出てくることがあるようだが、4つか5つの中で一番大きいものを選ぶとか、2番目に小さいものを選ぶとか、そんな問題をご存知の方もおられると思うが、その問題に取り組む際、視野の狭い子はひとつひとつを見て比べようとしたり、隣のものとの大小比較しかできなかったりして、選ぶのに時間がかかったり、間違ったものを選んだりすることがある。

しかし、大小比較をすればいいだけであれば細部を見る必要はなく、全体の大きささえつかめればいいわけだ。輪郭がぼやけていようがそれは問題にはならない。

そこで、子どもに4つなり5つなりのものを一度に視野に入れてしまうよう指導をする。描かれている絵の両端を指で押さえたりしながら、そこからそこまでを一度に見るということを意識させるのだ。
そうすれば、大小比較は格段に易しくなり、一瞬で選ぶことも可能になる。

そうやって広くものを見ることができるようになることが、将来的に比喩的な「視野の広さ」に繋がるといわれると、まだ正直実感はないが、もし仮に多少でも影響があるのであれば、これをさせない手はないとも思う。

実の親や友人をあやめてしまったりする子の中で、どれだけの子がその先の自分の人生を考えただろう。
一瞬の感情や、とにかく今ある目の前の不快な状況を解消するということ以外、何も考えが及んでいないのでは?と思える事件があまりにも多すぎる。

人をあやめたら、その後の自分の人生も全て失ってしまうに等しい。そもそも人生を棒に振るつもりなのであれば、人をあやめるという選択ではない、別の選択をすることもできるはずだ。

なんだかやり切れない思いで、解決策も見つからないが、少なくとも実生活でもっと「広い視野」があれば、そんな短絡的なことはしなかったのではないかと思う事件が次々と起こる現実を見ると、そのために自分にできることはなんだろうと考える。

犯罪者の視野が狭いというのはある意味頷ける。
もう少し物事を広く捉えることができていたら、起こさずに済んだかもしれない事件はあとを絶たない。
事件の大半は狭い範囲でしか物事を見られなかったから起きていると言ってもいいのではないだろうか。

もちろん、実際にどれだけの効果があるかはわからない。
ただ、子どもの視野を実際に広げることで、実生活において少しでも物事を広く見られるようになるのであれば、それをしない理由はないように思う。

部分だけを見ても全体はつかめない。

「広い視野」の獲得。
それはもしかするとすごくすごく重要なことなのかもしれない。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年8月30日 (水)

健康な頭

昨日のレッスンでの1年生の様子。

以前にもブログに登場した、「教室に通うまで勉強はさせないから」と宣言されていた友人の息子くん。現在小1。

実際、今でもひらがなの読み方もややたどたどしいし、桁の多い筆算などは見たら(やりたくないよ~)という表情をする。
もちろん、私だって桁の多い筆算を楽しくやるなんてことはないので、彼の反応は至極真っ当だとも思う。

そんな彼が昨日、文章題をやっていたときのこと。
やっている問題は殆どが、正直言って、小1の夏休みということを考えると、既にかなりのハイレベルな問題だ。

いくつか紹介すると

「てっちゃんは45円のけしゴムと80円のえんぴつを2本かいました。500円をだすと、おつりはいくらもらえるでしょうか。」

「みっちゃんはクッキーを18こたべました。でもまだはこの中に42このこっています。はじめ、はこの中にはなんこのクッキーが入っていたのでしょうか。」

「ちょ金ばこに100円だまが5こと10円だまが35こと1円だまが7こ入っていました。みんなでなん円入っているのでしょうか。」

などなど。

しかし、彼の頭は感動的に健康で、ただの一度も「たすの?ひくの?」なんて尋ねないし、それどころか、問題を読み終わると同時に考え始め、式を書くより先に答えが出るのだ。

彼は答えが出たあと、どんな式になるのかを改めて考えるという、普通の感覚でいえばあべこべの行動を取る。
だが、私がこの学習法に出会ったとき、大先生に言われた通りなのだ。

「文章題なんて、できない方がおかしいですよ。小さい子は読み終わったら先に答えが出る子もいますから、初めのうちは、答えが出たあとで式を考えさせるんでもいいです。」

これまでにもそういう子は何人もいたけれど、ただの暗算や筆算の計算式を考えているときと、文章題などイメージできる問題を考えているときの彼は表情まで違うのだ。
彼にとって、文章題は難しいものではなく、考えやすい、わかりやすいものなのだろう。

彼の頭がこんなにも健康なのは、やはりいっぱい遊んで、色んな経験をしているからというのも大きいだろうと思う。

いくらイメージしようと思っても、買い物に行って自分でお金を払ってお釣りをもらった経験のない子には、最初の問題はイメージしづらいだろうし、クッキーの問題などは「42-18」としてしまう子も決して少なくないのだが、それを全く迷わなかったのは、きっと経験上具体的にクッキーや食べる姿をイメージすることができたのだろう。

貯金箱の問題に到っては、これを初めて見る大人は「掛け算習ってないよね?」なんてことを言ったりすることもあるのだが、10円が10個で100円になるという感覚がない子には、やはりかなりの難問だ。

問題文をたどたどしく読むなんとも可愛い彼だが、彼の今後がますます楽しみだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月29日 (火)

今日のニュース

今日はこんなニュースを見つけた。

全公立小で“放課後教室”…共働きには時間延長も

なんというか、複雑な気分。
ところで、公立塾の話はどこに行ったのだろう?公立塾の話が更に広がってこの話なのだろうか?

確かに放課後に子ども達が子ども達だけでのびのび自由に遊べる場所は減っているのかもしれないし、そのために学校を開放するとかっていうのはいいような気もする。

ただ、今の学校がどうなっているのかは知らないが、私が子どもの頃は完全下校のチャイムが鳴るまでは放課後に運動場で遊んでいてももちろんOKだったし、そもそも完全下校のそんな時間ぐらいまでは殆どの先生が学校に残って仕事をしているのだから、予算を組んで大々的に何かしなくちゃということでもないような気がする。

とにかく、公立塾の話でもこの話でもどうも気になるのが、

「2007年以降、大量退職する教員に活動の場を提供する狙いもある。」

この言葉。
公立塾の話のときにも同じようなことが書かれていたが、なぜ教員が大量に退職したら、国が受け皿を作るんだろう?どうしてもそこがわからない。

もちろん、もう退職された先生方がボランティアのような感じで子ども達を見守ってくださるのならありがたい話なのだけれど、「総事業費1000億円」っていうのの内訳は一体どんなものなんだろう?

まあ、確かに最近は共働きのご家庭も増えているし、学童保育に児童館などに行っている子どもも少なくないから、その役目を学校が果たすということ自体は、仕事を持つ親御さんにとっては安心でありがたいことかもしれない。

ただ、うまくいえないが、どうもなんだかすっきりしないのは、やっぱり「大量の教員が・・・」のくだりなんだよなぁ。

皆さんはこのニュースをどう感じられるのだろう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年8月28日 (月)

ショック。。。(苦笑)

最近またルービックキューブを見かけるようになった。

最初にあれが流行った頃、私は確かまだ小学生で、うちの兄や祖父や祖母(!)は完成させられるのだけれど、どんなに頑張ってもせいぜい2面や3面揃えるのが精一杯だった。

パズルの類に関しては負けず嫌いだったはずなのだけど、どんなにやってもできなくて、最後は本当の「力」技で6面完成という反則技を覚えた。(ゆがめた状態で無理矢理まわすとキューブが壊れてしまうので、それを色を揃えて組み立て直すという荒業。。。)

教室には頭を使いそうなゲームはいくつか置いてある。久しぶりにルービックキューブも置こうかなぁと思っていたが、とりあえず延び延びになっていた。

今日ちょっと家電屋さんに用があって出かけたのだが、そこには玩具売り場も併設されていて、昔ながらの3×3の6面キューブの他、2×2の6面や形の変わったキューブなども並んでいた。

暇なときに子ども達にやらせるにしても、いきなり3×3ではハードルが高いかもと思い、2×2と両方を買った。
見た目にも2×2は簡単そうだったし、これなら私でもできるかもと思って箱から取り出すと、ご丁寧に「かんたん2×2キューブ6面攻略法」という紙まで入っている。

これなら大丈夫よねと、とりあえず何も考えずに崩し、説明を見ずに戻せるか挑戦したが、悲しいことに6面揃う様子はない。
崩してしまった上、今後これを教室に置くとなると、私が元に戻せるようにならなければなるまいと、やむを得ず(そればっかりもやっていられないし)説明を読みながらやってみることにしたのだが。。。。。。

どこが簡単なの~~!!!!(号泣)

どうやらこのままでは、十数年だか二十数年だかぶりに「力技」を使わざるを得なくなりそうな予感。。。
というか。。。おりこうな子なら、この説明を読んで本当に理解できるのかがかなり疑問なのだが。。。

う~ん、明日はスーパーちゃんたちが登場する日だから、試しに崩したまま置いておいてみようかしら。。。あっさり合わせてくれるかもしれないし。。。

しかし。。。最近論理パズルに関してはかなり感覚が磨かれてきた感じがしていたっていうのに。。。結構ショック。(苦笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月27日 (日)

やんちゃだった子の言葉

昨日帰ってから書こうと思ったのですが、週末でやや疲れも溜まっていた上、クラス会でのアルコールも手伝い、気づけば意識喪失。。。もし昨日の晩に覗いてくださった方がおられましたらどうぞお許しを。

中学時代のお隣のクラスは、しっかりした幹事がいて毎年のようにクラス会をしている。
幹事のひとりが友人であり、今回はクラスの枠を超えてメンバーに声をかけようということになったとのことで、参加させてもらった。

とはいえ、よそのクラスのクラス会にお邪魔していいものだろうかと、それでなくても、既に告白している通りそういう場があまり得意ではないので、チラッと迷ったが、クラス外の子も何人か来るようだったのでお邪魔することにした。

先生がお二人と同級生達、総勢15人ぐらいだったようだけど、私にとっては適度な多さで、中学卒業以来初めて会う子も何人かいたけれど、とても楽しく過ごさせてもらった。

遅れてきたメンバーの中に、中2のとき、最愛の恩師のクラスで一緒だった子がいた。
彼は中学生の頃、学年一、ニの「やんちゃ」な子だった。うちの学年の先生方は今じゃそれこそ大問題になっているだろうけれど、生徒に手をあげたことのない先生の方が圧倒的に少ないぐらいだったのだが、恐らく彼は先生方から殴られたりした回数も学年トップレベルだったのではないかと思う。

その頃の私は、一応優等生と呼ばれる側の生徒で(実際にはそんなことはなかったのだが、知らず知らずのうちに目立っていたようで、学級委員やら生徒会役員やらもしたものだ)、周囲の印象としては彼と私は非常に遠い、まず友だちにはならない2人に映ったかもしれない。
実際、昨日の席でも、もちろん冗談まじりにだけれど、ひとりの先生が昔を振り返りながら、「この2人の間には絶対越えられない高い高い壁がある」と評したほどだ。(笑)

ただ、周囲がどう思っていたかはわからないし、彼は確かにやんちゃだったかもしれないが、結構いいヤツだった。中学時代のある時期、野球部の子に片思いをしていたのだが、同じく野球部だったやんちゃな彼はなんだかんだ言って応援や協力をしてくれたりもした。今思い出すと、あんまりに可愛いエピソードなのだけれど、中3でみんなクラスが分かれて、やんちゃな彼が片思いの彼に忘れ物を借りたらしく、偶然廊下で出会った私に「これ○○に返しといて」と、私が片思いの彼に会いに行く口実を作ってくれたりもしたものだ。(笑)

いいヤツだったけれど、かなりのやんちゃだったこともあり、卒業後の進路は全く異なり、街で偶然会うということもなく長い年月を過ごしていた。
久々の再会は10年前、最愛の恩師のクラスのクラス会のとき。ちっちゃくて細かった彼はがっちりした体格になり、一瞬全く誰だかわからなかった。彼も彼で私のことがわからなかったらしい。お互い指さして「誰?」「誰や?」と言ったのが十数年ぶりの再会だった。

彼は美容師になり、すっかり立派な大人になっていた。
その後、恩師が亡くなったときに一度、内輪で集まったときにも会ったが、昨日はそれから4年ぶりぐらいの再会だった。

彼は会えばお約束のように口説いてくれるのだが(それも超直球で)、そんなこと言っているのは口だけで、なんだかんだ真面目な話もしてくれる。
昨日彼から聞いた言葉は録音しておきたいほどのものが沢山あった。彼のお子さんはもう割と大きいのだが、「自分と違って」よくできる子たちなのだそうだ。

「ほんま、島田紳介のコマーシャルみたいやで。『よっしゃ教えたる』と思っても、見たらわからへん。なんじゃこりゃ?や。」

笑いながら、未だに分数や小数の足し算・引き算もよくわからないと話す彼。けれど、彼はとても話上手だし、気配りもうまいし、何より今は自ら美容院を立派に経営し、沢山のお客さんの相手をしている。彼の仕事にとって、今更分数や小数の足し算・引き算を学ぶ必要はないだろう。

けれど彼はこう言った。

「○○、俺に勉強教えてくれ。 俺な、何で勉強なんかするんや?と思うねん。今更小数や分数の計算なんかせ~へんやん。計算いうたってレジもあるし。けどな、社会に出たら、いっぱい問題あるやん。ややこしい問題やら、答えがわからんような問題もあるやんか。子ども見とって思うねんけど、あれはな、予行演習なんちゃうかなと思うねん、答えがひとつって問題でな、練習しとんちゃうかなって。」

若干表現は違ったかもしれないが、小中学生の頃、どうやら本当に殆ど全く勉強らしいことをしていなかった彼の言葉であるだけに、しみじみ心に響いた。

まあ、もちろん、多分彼は勉強しなかったことを後悔しているわけじゃないと思うし、少なくとも今の彼は私より遥かに立派な社会人だ。子どもの頃に勉強をしなくたって、こんなに立派にやっていけるんだよって見本にもなると思うけれど、きっと様々な苦労もあったに違いない。
だからこそ、学校での勉強を「社会に出てからぶつかる問題に対処するための予行演習」と思えるんじゃないだろうか。

口の悪い彼の元担任の先生が、

「○○の息子、ぱっと見たらわかる優等生の顔ってあるやん?もうホンマそんな顔しとるねん。『お前、○○の息子か!』って言ったら『父が・・・』って言ったぞ、確か。父がって。誰の子や?ホンマお前の子か?」

冗談でそんなことを言ったし、奥様は学業優秀だったそうなのだけど、そんなことは別にして、この彼の子どもがいい子に育たないはずはないと、私は内心思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年8月26日 (土)

本日は。

中学時代のクラス会(といっても私のクラスではないところが謎だけれど。。。)のため、ブログを更新する時間がありません。

多分夜遅くに更新できると思いますが、どうぞよろしくお願い致します。
子ども達も夏の疲れが出始めたのかなぁという感じですが、皆様もくれぐれもご自愛の上、よい週末をお過ごしくださいませ。

あ、そうだ。
機械オンチの私に今日、Gmailとやらへのご招待をくださった方がおられるのですが、もうホント、若年性痴呆症なのかもしれず、それが非常に不安なものの、その方のお名前を存じ上げません。。。

アクセスしていいものやらなんやら悩んでおります。
もしもご招待くださった方がこれをご覧になっておられるようでしたら、どちらでお目にかかった方なのか教えて頂けるとすごくすごくありがたいのですが。。。

それでは行ってまいります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月25日 (金)

考えさせられる記事(2)

さて、昨日の続きだが、「ググる」ことについての色々な意見や考えを読みながら、私も色々考えた。

私たちが小中学生の頃には考えられなかったような便利なツールが一般家庭にも広く普及し、ある程度小さい子でもそれが使いこなせるようになっているのは紛れもない事実だ。

「調べる学習」を宿題に出したとき、教師の方は人に尋ねたり、図鑑や辞典、事典などを調べることを意図していても、子どもにとっては既に「調べるためのもの」のひとつとして当たり前にインターネットが存在する時代になってきているのだろう。

実際、自由研究で何をしようかという話をしていても、ネットで調べてどうのこうのという子だって少なからずいるわけだ。
また、学校の授業でパソコンの使い方、検索の仕方まで教えているのであれば、それを使って何かを調べたり、自由研究などをしたとして、なんら責められる理由はない。

私たち大人の側には私たちにとっての「常識」があり、子ども達には子ども達の「常識」があるのではないかと思う。そのズレを意識していなければ、調べ学習は教師の意図とは全く違った課題になることだって起こり得るのだと思う。ちょうど、日経の記事に書かれていた「3番目の完全数についての出題者」のように。

しかし、こうなってくると「調べる」というのは何のためなんだろう?という新たな、素朴な疑問も湧いてくる。
子どもの頃、意味調べなどの宿題が出されていたが、あの目的は知らない言葉を知ることだったのだろうし、そうだとしたら、教科書ガイドで調べたって、電子辞書やネットの国語辞典などで調べたって、目的は達成できるし、それではダメという正当な理由がわからない。

先の「完全数」に関してでも、ネット検索をして答えに辿りつくことは「3番目の完全数は何か」という問いに対する答えを見つける方法としては間違いではないはずだ。

仮に子どもに考えさせたい、試行錯誤させたいというのであれば、調べることができないもの、調べて済ませるより実際に自分で考えてみようと思えるようなものを課題として与えることが大切になってくるのだなと思う。そういう意味で今の先生たちは昔より一層、課題に対して吟味する必要があるということなのかもしれない。

もし小さい子になぞなぞを出したとして、なぞなぞの答えをネット検索で見つけて正解を答えたとしても、子どもはきっと嬉しくないだろう。パズルだって、誰かに解き方を教わって、その通りにやって完成したって何の達成感も感じられない。

もちろん、なぞなぞが好きじゃない子やパズルに興味を持たない子だっていると思うから、そういう子の場合は調べて済ませる、聞いて済ませるということだってあるかもしれないが、多くの子は自分の頭を悩ませ、自ら答えを見つけたとき、自ら完成させたときに、満足感や達成感を得るはずだ。

つまり、そういう楽しみを知っている子、そういう楽しみを感じさせる課題なら、安易に調べて済ませようとは思わないのではないかと思う。

最近ではちょっと桁数の多い計算などでは小学校でさえ電卓を使用したりする。要するに、機械でできるものは機械でやらせましょうということのようだが、その理屈で行けば、パソコンで調べてすぐに答えが見つかるようなものなら、調べておしまいにしましょうという発想もなんら矛盾するものではない。
今後世の中はますますそんな方向へ変わっていくのかもしれない。

だとすれば尚更、人間の存在意義は「機械にできないことをする」ということになってくるはずだ。その代表的なものが「考えること」、「試行錯誤すること」、「創造すること」なのではないだろうか。

小さい子の親御さんからときどき「せめて計算ぐらいは・・・」という言葉を聞くことがある。せめて計算ぐらいはできた方がいいからということで小さいうちから大量の機械的反復をさせておられるような方などがそういうことをおっしゃることが多い。

しかし、この先「機械にできることは機械に」という流れはますます強まっていくのだろうし、だとすれば「機械的にすばやく計算できること」の価値はますます下がっていくのではないだろうか。

これらの記事を読みながら、一層「考える力」の重要性を感じた。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年8月24日 (木)

考えさせられる記事

昨日、ボボコフさんのこの記事とかりんご先生のニュースサイトとかを見て、なんか、あぁ、そうかぁと改めて考えた。

まあ、ここで話題に上げられているのは日経新聞だかの記事のようだけど、そもそも、この短い紹介記事ではどういう経緯でそんな問題を小学生に出したのかもわからないし、どういう出し方をしたのかもわからないけれど、もし私がその場にいた小5だったら、「調べてきなさい」と言われてネット検索の方法を知っていたら、間違いなく調べる(この場合だと「ググる」)だろうなと思った。

そもそも、3番目の完全数とやらが496だそうだが、小5といえば、普通の学校で普通に学んでいる子であれば、まだ約数の学習すらしていないような状態である。
その状態の子どもにこの問題を出したとして、もし地道に29から順に確かめていって496を見つけた子がいたとしたら、私はなんだか恐ろしいような気がする。

29から496までには450以上の数があり、それをひとつずつ確かめていくなんて、どう考えても「努力すべきこと」「努力する必要のあること」とは思い難い。

もちろん、中学生ぐらいになって、仮に素数などを学習したあとの話なら多少事情は違うかもしれないが、もし今私がこの問題を出されたって、ひとつずつ確かめようなんて絶対思わない気がする。

なので、この問題に関して小5の子が「ググった」ことは私としてはなかなか頭のいい子だなという感じだし、責める気にもがっかりする気にもならない。

ただ、それとは別に、この記事を読んでなんか色々なことを考えたのだ。
私たちの時代には小中学生でパソコンを使いこなす子なんてまずいなかった。インターネットだって普及していなかったから、調べるといえば、周りの人や本などを頼りにするしか手立てがなかったのだ。

しかし、今は小学校でもパソコンの授業をしたりするぐらいだし、かなりの家庭にパソコンがあるのだろう。子どもは順応性も高いし、飲み込みも早いから、大人以上に使いこなせる子どもがいたってなんら不思議なことではない。

私は古い上、機械に疎い人間だから、高校生が英語の辞書といって当たり前に電子辞書を使っている姿に驚いたことがあるが、もう学校でも電子辞書の使用を許可しているようだ。(全ての学校なのかどうかはわからないけれど。)

紙の辞書の世代の私たちは、使い慣れてページを早く繰れることが重要だったけれど、今の子達は早く入力できることが必要になるのかもしれない。

電子辞書は便利だけれど、調べたい単語にしか見ないというデメリットはあるかもしれないが、これも結局、簡単に調べられることは調べて済ませ、浮いた時間でもっと他のことをという発想をするなら、それもマイナスではないのかもしれない。
何が正しくて、何が間違っているというもんでもない気がする。
(まだ続きを書く予定なのですが、本日は時間が。。。ひとまず今日はここまででUPします。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

1600万って。。。

今日見つけた(正確には昨日タイトルだけは見かけたような気がしますが)ニュース。

http://www.mainichi-msn.co.jp/keizai/it/jyuki/news/20060705org00m300138000c.html

なんかこういうのを聞くたびにホントに情けないというか虚しいというか、なんともいえない気分になる。
そして、一体どういう経緯でこういったことが行われるのかが本当に本当に不思議になる。。。

1冊あたり1600万のパスポートってなんだ?
というか、「利用率低迷で」っていうけど、そもそもどのぐらいの利用者を見込んでいたんだろう?そして、その見込みはどんな計算で成り立ったものだったんだろう。。。どう考えてもわからない。

1冊1600万ってのは話にならないけど、そもそも、仮に旅券事務所などで発券してもらうのと同等のコストにしようと思ったら、簡単に計算しても今の何百倍かの利用者が必要ってことになるんじゃないんだろうか?それだけの利用者があるということが見込めたってことなんだろうか?

なんか一般企業じゃあり得ない話だと思う。
この企画はどんな風に持ち上がって、どんな検討を経て実施に到ったんだろう。
24時間受け付けるんだから便利だろとか、わざわざ行かなくても取れるんだから便利だろとか、便利な理由は色々挙げられるかもしれない。けれど、仮にどれだけ便利なことがあったって、採算が取れなければ企業ならやりたくってもやれないのだ。なのに、なぜそれが税金やらだとこうも杜撰でいい加減なことが次々に起きるんだろう。。。

そもそも公務員だったり、お役人だったりする人たちはみんな、頭のいい人なんじゃないんだろうか。。。頭がいいってのはなんなんだろうと本当に何度も思ってしまう。

なんだか虚しい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年8月23日 (水)

ああ、うれしい。

ブログ登場ベスト3を挙げると、多分入っているのではという高学年の彼。しかし、彼の登場は「スーパー」での登場とはちょっと違い、「また泣かれてしまった。。。」みたいな話が多いところが切ないのだが、このところ、多少の波はあるものの、なんだかいい感じになってきた気がしている。

今日も、私にとってはすごくすごくうれしいことがあった。

彼らと前回分数の割り算をやり、今日はその応用問題のようなものの単元になった。
これまでの彼のパターンだと、ワークブックに書かれている説明やヒントをまず読んで、その通りに解くという、言ってみれば「自分の頭を殆ど使わずにして解く」方法で取り組むことが多かった。

問題を全て自作にすればいいのだろうけれど、市販の教材や塾用教材で、特に小学生向けのものになると、ヒントや説明が殆どないものを探すのは難しい。更に、書かれているヒントを見ると、(一体どういうつもりで書いているんだろう?これを読んだらそのまま計算するだけで答えが出るでしょ?)と思ってしまうような、もう既に「ヒント」とはいえないヒントも決して少なくない。
書いてあるものを読むなというのもなんだか変な話で、時には、最初は隠して後で見せるなんてこともするが、宿題などではそれもできない。
もどかしさを感じながらも、どうにか少しずつ変化を見せ始めている彼を見てきた。

今日の応用問題の中にこんな問題があった。

「15kmを50分で走る自動車の時速は何kmですか。」

問題としては分を時間に直して、60分の50と表し(約分してもいいけれど)「15÷60分の50」をするという考え方をヒントとして書いており、当然学校で習うときにも普通の塾などで習うときにも、ほぼ同様の考え方が指導されるのだと思う。

さて、彼はどうするのかなと思い、まずはノーヒントで見ていた。最初はどうしていいものやらという雰囲気だったのだけれど、50分なのに時速を聞かれているよね?ということだけを確認し、もう一度見守る。

すると、突然彼が気づいたのだ。

「10分で3キロやから、18キロや!」

彼の顔も嬉しそうだったけれど、私は心の中でとてもとても感激した。
50分は10分が5つ集まっていて、知りたいのは60分でどれだけ進むかということなのだからと、彼自身が気づいたのだ。取るに足りない些細なことかもしれないが、私は本当に嬉しかった。

その後の問題も、彼は柔軟に(そして実はその方が余程簡単だと思うのだが)、「分数の割り算」を使うことにこだわらず自分で答えに辿りついて行った。

面白かったのが、体重の約5分の2が筋肉だということを解いた後、筋肉が28kgの人の体重は何㎏かを考える問題のとき。
手抜きの人の絵をワークブックの空いたスペースに描き、どのぐらいが筋肉なのか尋ねたところ、ちょっと考えて身長を5等分した2つ分ぐらいのところに線を引いた。
それを見て彼はこう言ったのだ。

「あ、そっか。28キロの倍とあと半分や!」

こういう発想が彼から出るようになったことが素直にうれしい。
これも「正統派」の解き方なら、「28÷5分の2」をするのだけれど、そもそも分数で割るということ自体やや不自然な行為なわけで、28を2つに分けた5つ分が体重であるということなのだということさえ理解できれば、分数の割り算を無理に使う必要もない。

もちろん、いずれ学校でそれを習う頃には嫌でもそれをやらされるのだから、今日のところは彼自身が柔軟な発想で答えを導いてくれたことを素直にうれしく思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

お詫び

元気なら書こうと思っていたのですが、徐々に睡魔まで襲ってきていまして、一層頭が回っておりません。。。

今日は思いがけず、ウロコ先生のメルマガにこのブログをご紹介頂き、非常に感激しつつも、

□■ 算数計算…工夫無しの工夫流

軽~い気持でお試しください。 直接的にはこだま先生や Willseeds 先生
のブログからヒントをいただきました。 私のお気に入りブログ、毎日拝
見しています(^_^)v 毎回とても読み応えのある記事を書かれています。

    
http://blog.livedoor.jp/yoursong2005/

    http://willseeds.txt-nifty.com/omoi/

などと、こだま大先生と並べてのご紹介の上、「毎回とても読み応えのある記事」という、私に関しては完全なデマとも言われかねない評価をして頂いておりまして。。。

多分、ウロコ先生も夏は普段より一層ご多忙で、特にここ数日はブログを覗いておられなかったのではと思ったりするのですが、もしメルマガを見ていらして下さった方がおられたら「どこが読み応えがあるねん!」とツッコミを入れられる不安が。。。
何卒お許しください。

私の場合、多分月に何度か多少骨のある(?)ブログを書いているかなとは思いますが、普段はど~でもいいネタ満載です。
何卒ご容赦くださいませ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月22日 (火)

今日は

多少時間はあるのですが、書く気分になれません。。。
というか、さて何を書こうかなと考えても、どうも頭が働いていない感じが。。。

こういうときに無理に書くと、批判めいたものになったり、支離滅裂になったりしそうなので、とりあえず帰宅して、ご飯を食べようと思います。(笑)

落ち着いて、まだ元気だったら何か書きますので、宜しくお願い致します。
それにしても毎日暑すぎますね。。。そろそろ子ども達も夏の疲れが出始める頃かしら。。。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月21日 (月)

あぁ、書きたいんだけど。。。

今日も沢山幸せな気持ちになれました。
山あり谷ありだけれど、一歩ずつ前進しているのを感じている、これまで何度か泣かれてしまった高学年の彼も今日は絶好調。

苦手なことや難しそうに見えることだと、途端に自信がなくなって黙り込んでしまいがちな彼女も今日は殆どくじけることなく頑張ってくれました。

算数が苦手だと言っていた2年生の彼女もたった1時間のレッスンで、今日、本当に初めてやったかけ算が無理してないのに10の段、5の段、1の段、2の段、4の段、8の段、9の段の7つも進んでしまったし。(あ、もちろん九九自体はまだ全く教えていませんよ?)
その弟くんは相変わらず最強によくできていたし。

本日ラストの4年生も解きながら色んな発見をしてくれたし、国語・算数2時間だったけどよく頑張りました。

ホントに感動しっぱなしでした。

と、書きたいことは色々あるのですが、本日これからまだひと仕事せねばなりません。
明日は明日でなかなかハードなスケジュール。いつゆっくり書けるかわかりませんが、どうぞお許しを。。。

しかし。。。今、今週のスケジュールを再度見直したのですが。。。見なかったことにしようと思います。(苦笑)
それではひとまずこれにて。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月20日 (日)

余談

昨日は懐かしさで気分が高揚し、おまけにちょっとお酒も入ったりもし、尚更衝撃を受けたのかもしれませんが、一夜明けてもやはり(それにしてもなぜ。。。)と思ってしまう私。

しかし、昨日、全く知らなかった、こちらは「まともな」事実を知りました。
私たちがお世話になった先生方の多くはもう母校にはおられないのですが、中でも関西の有名私立校に移られた先生が何人もおられます。

私が高校を辞めずになんとか頑張れた、高校時代の恩師も名門の甲○学院に移られて久しいことは知っていましたが、なんと!!学院の学院長ご自身がもともとは母校におられ、私たちが指導を受けていた先生なのです!

ある化学の先生は灘高に移られたと伺っていますし、甲○には学院長、恩師のほかにもうちの高校から先生が移られています。
そう思えば、公立高校でありながら、ものすごく指導者の方々に恵まれていたのだなと改めてしみじみ思ってしまったのでありました。数年遅く入学していたら、恩師の指導は受けられなかったんだもんなぁと。

敏美先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月19日 (土)

今頃になって知らされた私にとっては衝撃的過ぎる事実

あ、すいません、今日もど~でもいいお話です。

今日は高校の卒業○○年目の同窓会でした。
実は華やかな場や人が多く集まる場が苦手な私は、当初、仕事もあるし欠席するつもりだったのですが、今も交流のある同級生に声をかけてもらい、出席させてもらうことになりました。

しかし、なんだかバタバタしていて事前に準備も何も殆どしていなかったため、何年ぶりなのかわからないぐらい久しぶりに乗ったポートライナーでは神戸空港まで行ってしまうし(空港に行ったのも初めてでしたが)、事前に誰とも連絡を取っていなかったので、会場への足取りは重かったのです。

それでも皆さんいい方ばかりで、懐かしい顔にも沢山出会えて、結局は出席させてもらってよかったなと思いました。
一次会は19時頃にお開きになったのですが、それぞれに二次会に流れていったようです。私はそのまま帰るつもりだったものの、声をかけてもらって二次会にも合流させてもらいました。

その席でちょっと衝撃的な事実を知らされました。。。

初めましてな方とかもおられ、そんな方ともお話をしたりしていたのですが、同級生の中には目立っていたので知っているけれどお話をしたことがないという人も少なからずいました。
会場では隣りに3年で同じクラスだったサッカー部の男の子が座っていたのですが、そのお向かいにはサッカー部の中でもかなりカッコイイ(同級生の可愛い彼女がいて、美男美女カップルだったような記憶があるのですが)子が移動してきました。

それまでお話したことがなかったので、ご挨拶をしたところ、なんとなくだけわかっていたようではあったのですが、そのあと隣の席の子の発言と、それに続いてお向かいの初めましての子の発言に私は衝撃を受けることになりました。。。

実は私、高校時代サッカー部に好きな人がいました。1年生で同じクラスになり、間もなく片思いがスタートしたのですが、運命のいたずらなのかなんなのか、同じクラスの女の子が早々にクラスの女の子達に「私、○○くんのことが好き」と宣言してしまったため、ごく親しい友人以外には決して自分の気持ちを言わぬまま1年を過ごしました。(バレンタインには何も知らないその女の子に頼まれて、断ることもできず、当日どこどこの教室に来てあげてと意中の彼に伝えるというすごい役目まで務めたのですが。。。)

2年ではクラスもわかれたのですが、もうこれは運命のいたずらとしか思えない。。。また別の女の子が「○○くんのことが好きなんだけど相談に乗って」と言ってきて、あまりの出来事に我が身の不幸を嘆いたこともありました。(笑)

結局、自分の気持ちはずっと隠していたはずで、多少オープンにできるようになったのは3年になってからでした。しかし。。。3年の夏休みが明けると、その彼は学校に来なくなってしまいました。そのまま一緒に卒業することも叶いませんでした。

なんともまぁ、告白してフラれることさえできぬままに過ごした3年間だったわけですが、隣りに座っていた子は割と仲がよかったのでいつからだったか、私がその彼のことを好きなことは知っていました。

で、「お前は○○のことばっかり見てたもんなぁ」と言ったので、そんなことはないと否定したのですが、前述の初めましてのカッコイイ子に今日配られた名札を見せた途端・・・

「あぁ、わかりました。確かに○○のこと見てたなぁ。」

と、その理由で私を認識されてしまったのです!!
私としては本当にわけがわからず、「なんでなんで??」とその2人に尋ねたところ、

「なんでも何も、サッカー部全員知ってたで。」

と一層衝撃的な言葉が返ってきたではありませんか!!!恥ずかしすぎる。。。いや、まあそれはもう遠い日の思い出だからいいとしても、なんでだ???
いや、やっぱりそれは誤解に違いない。私はもともとサッカーが好きで、確かに練習はよく見ていたけど、○○くん限定で見ていたわけじゃないのに!!!
しかし。。。こういう場合、言えば言うほどはまっていくのは確実なので、衝撃を受けながらも半ば諦めていたわけです。

しかし。。。その衝撃はそこで終わりませんでした。。。

お開きも近くなった頃、メジャーな文化部で多分部長さんをしていた男性とご挨拶をしました。同じクラスになったこともなく、お名前は存じ上げてますけどというような彼だったのですが、ご挨拶をすると「ああ、○○さん、知ってますよ」と言ってくださったので、「同じクラスになったこととかありました??お話したことありませんよね?」と尋ねたところ・・・・・・なぜかその彼の口からも先ほどとほぼ同じ台詞が。。。(泣)

なんでだよ~~~~!!
私が高校時代お話したこともない方々のうちで「私=○○のことをいつも見ていたヤツ」という認識で未だに思い出せる方がそんなにいるっていうのはどういうことだ!!それも、本来決して敏感ではないはずの男子達が。。。(泣)

唯一の救いは今日その彼が参加していなかったことかもしれません。。。(苦笑)
それにしても、私は自分の認識と周囲の認識のズレが一層不安になったのは言うまでもありません。(泣)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年8月18日 (金)

「文字」のカード

塾を辞め、今の学習法に出会ってから、中学生への指導も徐々に変化が出始めている。

基本的にうちの教室は全ての子どもに対して「個別指導」なので、特に中学生だと現時点でのその子の理解度その他で、指導する内容や取り組んでもらう問題、出すヒントも小学生以上に様々に変わるのだが、文字式の計算をしているときに、文字式について考えるのがちょっと苦手な子達に結構効果がある説明(考え方?)がある。

数学の専門家がご覧になったら、それはちょっとおかしいのでは?とつっこまれるかもしれないが、もし数学が苦手な中学生のお子さんをお持ちの方がおられたら、何かのきっかけになるかもしれないと思い、ちょっとだけ書かせて頂くことにした。

といっても、大したことではない。

文字式の指導のとき、私の記憶にある限り、一般には「係数に着目して解く」ということになるのだろう。もちろんそれはそれで正しい。

仮に「5a-3a」なら、それぞれの係数の5と3を見て、5-3で2だから「2a」と答える。これが「3a-7a」であれば、同じく3-7で-4だから「-4a」になる。

わかっている人からしたら、極めて単純でこれ以上簡単に説明のしようがないようなところだろう。

さて、ただ、機械的に覚えて解いている子達の中にときどきこういう答えを書く子がいる。(これまで塾勤務の頃の経験も含め、決して珍しくはない。)「2a-2a」など、係数が揃っているものの答えを「a」のように、文字だけが残った状態で答えるのだ。

もちろん、こういう子にも繰り返し問題を解かせ、係数が同じなら0になるんだと覚えさせることはできる。ただ、私が使う説明であれば、もう少し実感させることが可能だ。

あくまでも「数学が苦手」「数学が好きではない」というタイプの子にも納得ができて、自分で考えられるという意味でご理解頂きたいのだが、文字式の文字と係数についての説明の最初の段階で「カード」を意識させるのだ。

「3a」は「a」と書かれたカードが3枚ある状態。「5x」なら「x」と書かれたカードが5枚ある状態をさすと考えてもらう。
仮に「-3a」であれば、「a」のカードを3枚借りている(もしくは不足している)状態をイメージしてもらえばよい。

係数はカードの枚数を表し、係数がマイナスであればカードを借りている状態、プラスなら自分で持っている状態と捉える。そうすれば、文字の項について係数が枚数を表しているので、3枚と5枚を合わせれば当然8枚だし、3枚しか持ってないのに5枚取られたら2枚足りないからマイナス2枚だ。

その考え方に納得すれば、先ほどの係数が揃っている問題はカードが2枚あって、そこから2枚のカードを取ることをイメージすればよいことになるので、何も残らないとわかる。なぜなら、「a」や「x」というのは、カードが1枚残っている状態だからだ。

このカードの考え方は、もともと正負の数の計算のときにも使っていたことで、プラスやマイナスの色々な数字を書いたカードを裏向けて置き、適当に2枚めくって合計を尋ねたり、差を尋ねたりという導入をする。3枚や4枚に増やしても、ゲーム感覚で大抵の子はある程度計算できてしまう。

そうしたことをやった後で、今考えたことを式に表してみる。答えはもう出ているので、その式を計算したらこうなるのだということを目で再確認することになる。

もともとカードで理解した子であれば、文字のカードといっても特に抵抗はない。逆に数学が苦手な子でも結構すんなり理解してくれる。

そもそも、格付けなどでも使われる「3A(スリーA)」だとか「☆☆☆☆☆(5スター)」とかっていうのは「Aが3つ」「星が5つ」ということなのだから、その感覚から文字式に入れば「難しさ」を感じる度合いを少しでも減らせるのではないかと思う。

カードの枚数をイメージすれば、例えば「(5x+7)-(3x-9)」などの問題があったとしても、この問題の意味するところは「xのカードを5枚と+7のカードを持っていた人から、xのカード3枚と-9のカードを取る」ということだ。
そう考えれば、xのカードが2枚残り、他に残っているのは「(+7)-(-9)」なのだから(カードの種類が違うのだから同じ文字同士は取ったりもらったりできるが、文字のカードと数字のカードでは何もできないということも割とすんなり理解してもらえる。)、正負の数の計算がすんなりできる子はそれをするだけだし、もしもここでも悩む子がいれば、「+」は得点、「-」は減点を表していると理解してもらい、+7点だったのだけれど、「減点が9点減った」とイメージしてもらえばいい。

もしももしも減点が減るイメージが難しい子であれば、テストの採点の話でもしてあげるといいだろう。
「テストであっている問題に×がついていたので、先生に言いに行ったら○になった。」という状態が減点が減った状態だ。当然得点が増える。

私自身、中学生の頃、このあたりの学習で何か疑問を持ったり、つまずいたりしたことがなかったため、ちょっと前までは教科書通りのような説明しかできなかった。
しかし、ちょっと発想を変えると色々な説明が見えてくるものだ。

さて、このブログを読んでくださっている方にこれが参考になる方がおられるかどうかはわからないが、もし何かお役に立てば幸いである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月17日 (木)

大手術その後。(ど~でもいい話)

先日書いたど~でもいい話のその後なのですが。。。
なぜか翌日、更にその翌日になって、手術の効果(?)が現れてきているような気が。。。

しかし、大変困ったことに。。。予想外の動き(?)をしている上、もともとまめに手入れをしたり、セットしたりする人間じゃないもので。。。
まさに

「せんせ~、頭ボサボサ。」

と言われかねない状態に陥っております。。。
どっちにしろやはり手術は失敗だったということでしょうか。。。(悩)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

些細な会話

先日、世の中はお盆休み真っ只中だったけれど、私はちょっと教室に出ようと駅へ。

駅のホームは家族連れが沢山。元気な子ども達の声がそこここでしている。
通り過ぎざま、小学校低学年ぐらいの女の子とおじいちゃんと思しき2人の会話が耳に入った。(じっと見ていたわけではないので、小さい女の子と男の方だったのは間違いないが、男性がおじいちゃんだったかお父さんだったかは定かではないが。)

ちょうど電車が通過するアナウンスが流れたときだった。
女の子が男性に向かっておもむろに

「ツウカってなに?」

そう尋ねた。心の中で(通り過ぎることだよ)とつぶやきながら傍を通り過ぎようとしたとき、男性が答えた。

「止まらないってことや。」

(は?)

思わず私の足が止まりそうになった。

もちろんそんないちいち気にすることではないんだろう。親子もしくは祖父と孫との他愛ない会話だ。
近づいてきた電車は確かにこの駅では止まらないのだし、嘘を言っているわけでもない。

だけどふと考えてしまったのだ。

「ツウカ」は文字通り「通(り)過(ぎる)」と書く。訓読みすればそのままそれが言葉の意味だ。質問した彼女の様子からすると、「通り過ぎる」という言葉の意味がわからないとも思いづらい。

けれど、「ツウカ」=「とまらないこと」と教えられた彼女は、この先自分でその言葉に出会い、その言葉の意味を確かめるときまで言葉と漢字のつながりを思い浮かべることはできないかもしれない。

漢字が苦手だという子は決して少なくない。特に、音読みする熟語などは覚えづらく感じる子が多いように思う。それはなぜか考えたとき、音からでは意味を思い浮かべづらいからなのではないかと思ったりする。

実際、私は小学校高学年頃から、覚えた漢字を度忘れしてしまったり、前日に勉強したはずなのになかなか出てこないようなとき、同じ漢字を使うはずの熟語を思い浮かべたり、訓読みを思い浮かべたり、言葉の意味を思い浮かべたりする中で書きたい漢字を思い出すということがしばしばあった。(もちろん思い出せずに力尽きることもあったが。。。)

先ほどの例で言えば、「ツウカ」という漢字を思い出せないとき、「ツウカ」がどういう意味か考えると「とおりすぎること」だということになる。つまり、それがきっかけで「通」と「過」が引っ張り出されることがあるわけだ。

もちろん、そのほかにも「ツウカ」の「ツウ」は「ツウコウ」や「ツウガク」という熟語を思い浮かべることもできるかもしれないし、そちらが出てくれば、それに引っ張られて「カ」も思い出せたりする場合もある。(記憶法を紹介する本などでしばしば書かれていることだが、記憶は一部が出てくると芋づる式に思い出せる場合があるそうだ。)

そんなことを思うにつけ、漢字が苦手な子というのはめんどくさがりという場合もあるだろうけれど、結局は語彙が少ない分、何か他のことを手がかりにして関連付けて覚えることが難しく、そのため一つ一つコツコツ覚えるしかないということもあるのではないかと思えてくる。

とても小さなことかもしれないが、何か子どもにとっては難しい熟語の意味を尋ねられたとき、辞書を調べさせるのもいいが、まずはその漢字を訓読みにしてみることができないかとちょっと意識してもらうことも、もしかしたら漢字嫌い克服の小さなきっかけになるかもしれない。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年8月16日 (水)

これってどうなんだろう?

最近私は殆どテレビを見ない。忙しいときなど、考えたら3日ぐらいテレビつけてないなぁと思うこともあるぐらいだ。
新聞は一応取っているけど、殆ど読んでいない。という訳で、私がニュースを知るのは殆どがネットを通じてだ。

で、今日たまたまこんな見出しを見つけた。

早寝早起き運動、乳幼児に拡大=「キレる子」対策の一環-文科省

そして、過去のニュースとしてこんなものも見つけた。

文科省が運動 「早寝 早起き 朝ご飯」 - 読売新聞(6月2日)
子どもの肥満対策 早寝早起き朝ごはん - 読売新聞(7月14日)

もちろん、子どもにとって早寝早起きや朝ご飯をしっかり食べるのがいいことだというのはわかるし、私もこれまでブログに何度か書いたり、関連書籍を紹介したりもしてきた。

実際、私自身とにかくよく寝る子どもだったし、そもそも起きていたくても時間になれば母に「寝なさい!」と叱られたものだ。当然朝ご飯を食べずに学校に行った記憶もない。

健康面でも学力面でも、更には今日のニュースでは心の面でも「早寝早起き朝ご飯」が見直されているということなのだろうけれど、これってどうなんだろう?
文部科学省がわざわざ予算を組んで取り組まなくてはならないようなことなんだろうか?

もしそうなのだとしたら、子どもがどうのこうのという以前に、間違いなく「大人(親)」の方に問題があるということなのではないんだろうか?

ブログにも何度も取り上げている、うちの教室のスーパーちゃんたちは、大抵みんなおうちの方がきちんと躾をしておられ、規則正しい生活をしている子が多い。
そもそも、「早寝早起き朝ご飯」なんてことは各家庭で躾、教育すべきことなのではないんだろうか?
文科省が予算を組んでまでやらなければならないということが事実なのだとしたら、やはり子どもに関わる大人たちが反省しなければならないように思うのだが。。。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年8月15日 (火)

なんとなく気になること

何ってわけじゃないんだけど、どうもなんとなく気になることがある。
ずっと心の隅っこの方に引っかかっている。

世の中の流れに全くついていっておらず、機械モノにもネットその他にも極めて疎い私なので、多分私が気になっている方々はもうとっくにどっかもっと進んだところに行っておられるんだろうとも思うけれど、それでもやっぱり気になる。

というのも、ミクシとかが広がりだしたからなのか、お仕事が忙しいからなのか、事情はよくわからないものの、予告なしに更新がずっとストップしているブログが少なからずあるということ。

もちろん、個人の趣味のブログとかなら好きなときに始めて、好きなときに休んだりやめたりしたって、それはそれでいいのかもしれないし、個人のブログじゃなくたって、誰に強制されているわけじゃないんだから、やっぱり休むのもやめるのも自由なんだろう。

だけど、これが同業の先生方のブログだとやっぱりちょっと気になる。殆どの先生が子ども達に継続することの大切さを説いておられるのではないんだろうかと思ってしまう。

仮に他のブログやらを書き始めて、更新をストップするのであれば、そうアナウンスすればいいと思うし、仕事が忙しくて当分更新できないというのであれば、やはりひとこと断ってはどうなんだろう?と人事ながら思ってしまう。

私のブログを見てくださっている方は決して多くはないけれど、突然何もお知らせせずに何日も更新が止まったら、きっと倒れたか、パソコンが故障したか、とにかく「何かあったのでは?」と思ってくださる方もおられるのではないかと思う。

お名前も知らない、当然お話したこともない方であっても、見てくださる方がおられるから、事情が許す限り書き続けようと思うし、更新できないときにはできるだけお知らせしようと思っている。

まあ、夏は塾関係者は皆さん、特にお忙しい時期だから尚更かもしれないし、お前みたいに暇じゃないんだよって声が聞こえてきそうだけれど、それでもやっぱりお知らせなしの長期停止、長期放置は、どうも気になってしまう。。。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月14日 (月)

大手術(ちなみにど~でもいい話です。)

このところ、なぜか思いがけずメジャーなニュースサイトの方々に記事を取り上げて頂き、多分普段私のところにはご縁がないような方まで覗いてくださったのではないかと。(ちょうどお盆だし。)

真面目なことばかり書いていて取り上げて頂いたもので、またも生粋の関西人としてはムズムズするわけです。このままじゃど~でもいいことが書けなくなってしまう!!とかって。
(大袈裟な。。。)

なので、今日は折角このブログの存在を知ってくださった初めましてな方々の期待を大いに裏切るかもしれない、ど~でもいいネタを。

昨日、例によって半年振りぐらいに美容院に行ってまいりました。
普段、女とは思えないほったらかしっぷりなため、夏で暑いし、ちょっと軽くしてもらおうかなという感じで馴染みの美容師さんの元へ。

以前もチラッと書きましたが、美容師さんとは社会人になりたての頃からのお付き合いなのでかれこれ十ン年のお付き合い。あまり何を言わなくても、私の満足するような頭に仕上げてくれます。

カットだけなら小一時間もあれば十分なのですが、パーマをかけるとなるとこれがまた大仕事。最低でも3時間は覚悟していなければなりません。

ちょっと話は逸れますが、この美容師さんはなんとも本当に素晴らしいと思うことがしばしばあります。
もともと、私が初めてパーマをかけてもらったのは彼女だったし、初めてのときはまだ世の中にバブルの名残があった頃で、腰までの長い髪をソバージュにするという、今じゃ恥ずかしくって表を歩けないような髪型にして頂きました。(ま、その頃の職業的にも似合っているといえば似合っていたような気もしなくはないですが。。。)

で、誰が見ても「パーマかけました!」という大いなる変化だった上、彼女は何も言わなかったため、それ以降もずっと何らかのパーマをかけつつ過ごしてきました。

彼女とのお付き合いも6年を過ぎたかという頃、震災で店を変わった彼女が私に言いました。

「新しいパーマ液ができて、それなら多分キレイにウエーブが出ると思うんですよ。でも、まだ私、殆どそれを使ったことがないので今日は別の人にやってもらってもいい?」

彼女と出会ってから、彼女以外の人に髪を切ってもらったこともパーマをかけてもらったこともなかったのですが、カットはしてくれたし、あとは巻いてもらうだけだしとOKしました。

初めて私の髪を触り、パーマをかけた美容師さんが言った言葉に私は驚きました。

「かかりにくいですねぇ~~。」

ものすごくしみじみ言われたので、「これまでそんなこと言われたことありませんけど・・・」と答えた私に、彼女は初めて言いました。

「何言ってるん、○○さん、めっちゃかかりにくいよ~~!!」

彼女は6年以上もの間一度たりともそんなことは口にせず、常に彼女のできるベストを尽くしてくれていたのだとその日初めて知りました。

そんなことは沢山あります。
どうやら私の髪は細いので絡まりやすいそうです。おまけに柔らかいらしい。(自分以外の人の髪を触る機会はそうそうないので、平均的な太さや硬さとは比較しようがありません。。。)

アシスタントの子が頭を洗ってくれたりすると、何人もの子に言われた言葉ですが、それまで彼女が頭を洗ってくれようと、どれだけカットしてパーマをかけてくれようと、彼女からそんなことを言われたことはありませんでした。

例えば「キレイな髪ですね」というのは誰に言われたって嬉しいことでしょうけど、細くて絡まりやすいとか、パーマがかかりづらいというのは、ある意味で私の髪の欠点でもあるのでしょう。美容師さん泣かせと言ってもいいかもしれない。

アシスタントの子達は感じたままに素直に言うのでしょう。もちろん悪気も何もなく。
言われて嫌な気にはなりませんが、嬉しいことではありませんし、今更どう言われたって変えることもできません。変えることができないのに、「あなたの髪は扱いづらいですよ」と宣言されているようなものです。

しかし、これまで彼女の口から直接そういう言葉が出たことは一度もありません。
どんな髪質であろうと、どんなに扱いづらかろうと、彼女は黙って私のためにベストを尽くし続けてきてくれたのです。さすがプロです。

で、何が大手術なのかっていうと。。。
とにかく私の髪は飼い主(?)に似て頑固で、どうしても真っ直ぐのままいたいという意志が強いらしく、ふんわりパーマにしてもらった日には、美容院に行った当日でさえ気づいてもらえないなんてこともしばしば。

それを嫌というほど知っている美容師さんが「デジタルパーマ」というものができたんだけどというご提案。ただ、まだ新しいものなのでデータが少ないから、次回にしようかとも言ってくれたのですが、次回は最低でも半年後でしょうし、時間の余裕もあったのでやってみてもらうことに。

しかし。。。それが甘かった。。。
私の後ろで美容師さんやアシスタントの子が5人も集まり、まるで大学病院の教授のオペみたいな雰囲気で色々打合せやら申し送りやらをしています。なんだかすごく複雑な思いで話を聞いていたのですが、薬で髪が持っている本来のつながりを断ち切るだとか、それでしばらく置いたら「軟毛化」してくるから、そこに電気を流すだとか、(ちょっと早まったかしら。。。)みたいな会話が繰り広げられています。

超直毛であり続けた私の髪はどうやら大手術により別のものに生まれ変わるようです。

そこからがまた大変。。。普段でも3時間はかかるのに、今日はその1.5倍ぐらいかかるかもと言われ、ちょっと半泣きになりつつ我慢。
どうにかロットを巻き終わったかと思ったら、今度はどこから見ても「人造人間?」って感じで頭のロットに大量のコードがつながれ、熱が出るからとそこら中にスポンジをかまされ、他のお客さんが「あれは一体?」みたいに尋ねているのも聞こえてくる始末。。。(泣)

結局4時間近く経ってやっと頭を洗って乾かしてもらうところまできたのですが。。。。。。

いや、途中、冗談では言いましたよ、確かにね。

「もしこれでもかからなかったらどうします?」

って。
アシスタントちゃんは笑いながら答えましたよ。

「○○さん、すご~~い!!って言います。」

って。

そして、ドライヤーをあてつつセットしてくれている間、私自身が見ても(ん?これっていつものパーマとどう違うんだ?)みたいな気分。
まあ、くるくるにしたかったわけでもないし、仕上がり的には気に入っているものの、わざわざ4時間以上も耐えた結果がこれなの?と内心かなり複雑。

デジタルパーマに詳しいらしい美容師さんが、セットも終盤になった頃近づいてきてアシスタントちゃんにひと言。

「さっきからずっと見てたんやけど、もっと(ウエーブが)で~へんかな?」

・・・・・・・・・・。

生まれ変わりのための大手術は失敗に終わった模様。
ただまぁ、仕上がり具合は私的にはいい感じで、馴染みの美容師さんもイメージ通りらしいんですけどね。(苦笑)

因みに晩に実家に顔を出したのですが、母の反応はいつものように

「ん?それで(美容院に)行ってきたん?」

でした。。。(泣)
私の髪はどこまで「最新の技術」に打ち勝って(?)ゆくのでしょう。。。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年8月13日 (日)

待つことの難しさ(後編)

前編から続く。しかし・・・思いがけずまなめさんに取り上げて頂き、微妙にプレッシャーが。。。(苦笑)でも、もう書き上げてあったものなので、ご期待に添えなくても何卒お許しを。)

先日、2年生の子と掛け算のレッスンをしていた。掛け算のレッスンも暗記からは入らない。まず足し算や引き算、倍にしたり半分にしたりという操作をして答えを出す方法をさせる。
その方法で掛け算を知った子は、2桁や3桁×1桁だろうと2桁×2桁だろうと、考えて解くことができるようになる。

もちろん、2桁×2桁の計算はぱっと見てすぐできる子は殆どいない。そして、それを目指してもいない。ただ、数がどんな風に集まっていることを表しているのかを理解させ、実感させるために筆算を教える前にそれをやらせているのだ。

レッスンでは「57×42」などの面倒な計算も出てきた。これをどんな風に考えるかと言えば、例えば「57が40個と57が2個」といった具合だ。

「57が10個なら570だから、57が20個なら1140。40個はそれを倍にすればいいから2280・・・。」

見ていると、そんな手順で子どもは考えていく。(もちろん状況に応じて最初はヒントを出したりもするが。)
40個で2280とわかれば、後は57が2個だから114。これを足して「2394」という答えに辿り着く。

うんうんうなりながら考えているその子を見ながら、すごいなぁと思っていたが、その一方で、多くの大人はこんな姿を見てもきっと

「そんなの筆算でやればいいじゃない。」

とか

「なんでそんな面倒なことをわざわざするの?」

とか思うんだろうなとも思った。

まあ、2桁×2桁は大人も筆算でなければスラスラは解けない人の方が多いだろう。(私は算盤も機械的反復もしていないので、即答なんて全くできない。)
実際、急いで答えを出したいときには筆算をするし、子ども達にも暗算であれこれ試行錯誤させた後にはもちろん筆算を指導する。

ただ、その前段階で試行錯誤があるかないかは大きな差になるように思うのだ。

この2年生も、足し算をして考えながら、2回だといくつだから、4回だと、8回だと・・・と、自然と倍にしていく考え方を使っていたり、掛け算で掛ける数が1増えるごとにいくつ数が増えていくのかを嫌でも意識することになったりしているわけで、そういう「面倒なこと」をすることによって、「もっと楽にできる方法はないのかな?」とか「何か工夫できないかな?」という発想が出てくるとも言えるのではないか。

私たちの生活は、何か不便に感じることがあって、それを解消するために新しい製品が開発されるなんてことは当たり前すぎてみんな意識もしていないかもしれない。

不便に感じることがなければ、発明や開発自体が起こらないかもしれないのだ。
また洗濯の話になるが、もし昔の人たちがみんな喜んで洗濯板とたらいで洗濯をしていたのなら、洗濯機が登場することもなかったかもしれないし、登場したところで普及しなかったかもしれない。

多分、九九だって、初めは数を足すということで計算していた人たちが、同じ数を何度も足すのをもっと楽にする方法はないかということで考え付いたのではないのだろうか。

それを考えると筆算だって、苦労があって初めて生まれた計算方法なのではないか。その苦労をさせる前から筆算を教えられた子達は、その計算の便利さや素晴らしさに気づくことは少ないだろう。

これまで何度か書いているが、うちの子達は足し算・引き算でも4桁同士ぐらいまでを暗算でできるようになるまで筆算は一切指導しない。
だからこそ、筆算を知ったときに「な~んや、めっちゃ簡単やなぁ。」という言葉が出るのだと思う。もっと難しいこと、高い能力を必要とすることができる子がそれより能力を使わずにできることをやれば、できて当然なのである。

教室を始めた頃、私はどこまで待てばいいのか迷った。お月謝を頂いて、教えずに黙ってみていていいのだろうかと何度も悩んだ。
しかし、経験を重ねるうち、「この顔は何か考えているな、じゃあもう少し待ってみよう」とか「これは何も考えられていなさそうだな、じゃあ少しだけヒントを出そう」とか、多少の判断はできるようになってきた。

しかし、ヒントを出すときも本当に必要最低限だ。どんなにヒントを重ねて出したとしても、最後は子ども自身に気づかせるようにしている。

「この人は待ってくれる。」
「この人は簡単にヒントはくれない。」

そんな認識を子ども達がしてくれたら、私の一番の仕事は子どもの表情を見ていることだ。どんなに時間がかかっても、子どもが何かを考えているうちはレッスン時間が終わるまででも待つ。

2桁×2桁の暗算1問にたとえ10分かかろうとも、筆算で1分で解いた1問との重みは全く違う。10分で筆算で10問解くか、暗算で1問解くかなら、小学生のうちはまず後者をやらせるべきだ。

それをやらせた後で筆算を10分で10問でもいいだろうけれど、この順番だけは逆にすることは難しいだろう。
なぜなら、「洗濯機での洗濯を覚えた人は、わざわざ洗濯板での洗濯をしようとは思わない」からだ。

話を戻すと、三角形の面積だって、公式を教える前に何度も試行錯誤をさせればいい。その試行錯誤の中で子ども自身が発見するのを待つのが最良だ。
そして、たっぷり時間をかけてそれができるのはやはり低学年のうちなのではないかと思う。

待つことには忍耐が要る。
忙しい大人にはなかなか大変なことだ。

それでも、そこをぐっと堪えて、あと5分でも3分でも待ってあげることで子どもは何かを発見するかもしれない。
自分で何かを発見したときの子どもの表情は最高に素敵だ。

その表情を見るためにも、何か言いたくなったらまず深呼吸をしてみてはどうだろう。
その我慢が子どもの最高の笑顔を見せてくれるかもしれない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年8月12日 (土)

ちなみに。

お盆休み初日。世間の皆さまもお休みの方が多いのではないかと思います。

神戸は今日も暑かったです。お休みといっても、レッスンがないだけで、特に旅行の予定があるでもなく、外出の予定があるでもなく、実際今も教室にいたりするわけです。(笑)

昨日のブログの後編をUPしようとも思ったのですが、今日はちょっと勿体つけさせていただいて(笑)、お休みの皆さまにちょっと再度お伝えしたいことが。

先日、有名ニュースサイト「明日は明日の風が吹く」のyas-toroさんにとある記事を紹介して頂いたのですが、そのときのyas-toroさんのコメントを読んで、あららと思ったわけです。

うむぅ……だとしたら、どうやったら良いのだろう。ここに書かれている文章だけでは、どういうやり方をしてるかは分からないし(過去ログまではまだ見てない)、その部分が商売のポイントだろうから、あまり教えては貰えないかな……ただ、子供が勉強を「楽しみながら」出来るのであれば、そうさせてやりたいとも思う。

なんて書いておられるのですが、「商売のポイント」だから「あまり教えてもらえない」なんてことは全くありません。(笑)

実際、これまでにお知り合いになった塾長さんたちにもどんどんご紹介していますし、一般の方でメールなどで問合せをくださった方にはできる限りのご説明や教材のご紹介などをしています。

そもそも、それがいいかどうかは別として、私はこの仕事を「商売」と思ったことがないのです。
大好きな子ども達と一緒に学ばせてもらえる幸せにはいつも本当に感謝していますが、とにかくどんどん子どもを増やしたいとか、この仕事で儲けたいとかいう感覚は持ち合わせていません。

とても素晴らしい学習法だと思うのですが、大先生が宣伝下手なのか商売下手なのか(大先生、失礼な発言お許しを。。。)、これまで効果の割には今ひとつ広まらずにきていたようです。

まあ、日本を飛び越えて韓国では広まりつつあるようですし、また、関西ではかなり有名な老舗の中学受験塾が今年から導入したので、今後徐々に知名度が上がっていくのでしょうけれど、それでもやはり教室がないところの方がまだまだ多いわけですし、通えない方にはご家庭で指導できる教材も大先生のところで購入可能です。

多分、幼児・低学年教育の教材としては決して高いものではないと思います。(大手通信添削教材などよりは高いかもしれませんが。)

というわけで、もしご興味がおありの方は秘密でも何でもありませんので、お気軽にお尋ねください。
ネット上に大先生のお名前その他を出すと何かご迷惑がかかってはと思ってぼやかしているだけですので。(笑)

ただ、お盆休みが明けますと、夏休みが終わるまでなかなかにハードなスケジュールになっておりますため、お返事が遅くなるかもしれません。(お盆休み中は大丈夫だと思いますが。)
その点は何卒ご容赦ください。

尚、お問合せ頂きましたらご紹介などはもちろんさせて頂きますし、勧誘なども一切致しませんが、ネットでのトラブルなどを防ぐためにも、お名前などはお知らせ頂けたら幸いです。(匿名の場合、お返事を控えさせて頂く場合があるかもしれません。私個人のことでしたらともかく、ご紹介する大先生のところに何か失礼があっては申し訳ありませんので、その点どうぞご理解くださいますようお願い申し上げます。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月11日 (金)

待つことの難しさ(前編)

書いていたら恐ろしく長くなりましたので、前・後編に分けさせて頂きます。よろしくお願い致します。

これまで何度か書いてきたけれど、「教えない」、「助けない」ということの難しさは結局は「待つ」ということの難しさに通じるのだろうと思う。

教室でレッスンをしているときでも、小さい子であったり、体験や単発でのレッスンなどの場合、側でおうちの方が見ておられることがある。

見られていてもいなくても、私のレッスンスタイルは基本的に変わらないのだが(もしかすると少しは言葉遣いとかが変わっているかもしれないが)、おうちの方のことは意識しない代わりに、おうちの方に事前に注意やお願いをすることもない。

そのため、こちらは子どもの考えている表情などを見ながら、まだもう少し考えさせてみようとか、これは全く何も考えられていなさそうだからちょっとヒントを出そうとか、そういう判断をしていることに気づいてもらえないことがある。

例えば、つい先日あったことでいうと、タイル(方眼紙)に描かれた三角形の面積がタイル何枚分にあたるかという問題を考えてもらっていたときのこと。

基本的にパズルのような問題なので、事前に何も説明をせず、まず子どもにあれこれ考えてみてもらうようにしている。
何もヒントを出さないと、大抵の子は初めのうち、1枚に満たない半端なタイルを近くの別のタイルとくっつけて1枚と数え、答えに辿り着く。

そういうことを何度か繰り返した後、自分で気づく様子のない子には少しヒントを出す。もっとまとまりで移動させたら綺麗な長方形などになる場合もあるし、どこをとっても半端な場合は周りの部分を数えて全体からのける場合もある。また、直角三角形が描かれているような場合は、長方形や正方形のちょうど半分になっていることに、試行錯誤の後に気づかせる。

そうすれば、大抵の子は三角形の面積の求め方が「底辺×高さ÷2」になる理由を実感することができる。

もちろん、子どもの年齢や現時点での理解力、着眼力その他でヒントを出すタイミングや出すヒント自体も変えることになるのだが、賢い子であればギリギリまで粘らせて、それでもどうにもダメな場合にやっとヒントを出す。さんざん試行錯誤させた上で「この半分になってるよね?」と言えば、「三角形の面積は2で割る」と公式を覚えた子より遥かに使える知識になる。
そこには発見や感動があるからだ。

もともとそのレッスンの子は図形や面積などの問題が苦手だとおうちの方に伺っていたので、私は尚更子ども自身に気づかせたかったのだ。だから、あれこれ試行錯誤しているのを知っていながら、黙って様子を見ていた。

しかし、そこでおうちの方が突然おっしゃったのだ。

「なあ、○○。三角形なんやから、何の半分が○枚なのか考えたらわかるやろ?」

私は何も言えなかった。
もちろん、事前に何も口は出さないでくださいと言っていなかった私がいけないのだが、まさかレッスン中に、それも幼児じゃないのに、そんな風におっしゃられるとは思っていなかったのだ。

きっと内心思っておられたのだろう。(なんでこの先生は何も言わないんだ。何で教えないんだ?)と。
その子は夏だけの4回体験で来てくれていた子なのだが、もともと理解力や計算力は相当ある印象を受けた。だからこそ、図形が苦手なのであれば、本人に発見・実感させるしかないと思っていたのだが、少し残念な結果になった。(後編に続く)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年8月10日 (木)

ある言葉

今日レッスンをしていたある子たちのお母さんが何気なくおっしゃった言葉が強く印象に残った。

そのお母さんの子ども達はまだ2年生と年長さん。6月から一緒にレッスンするようになったのだが、算数が苦手だったらしい2年生さんも、見る見る伸びて「ホントに算数苦手だったの?」という状態だ。そんな様子を見ていたお母さんがおっしゃった。

とても可愛くて素敵な、おまけに頭もいいお母さんなのだが、ご自身が子どもの頃ずっとプリント反復による学習をしておられたらしい。今でもお友だちのお子さんなどでその教室に行っている方がおられるという話だったのだが、お母さんはこうおっしゃったのだ。

「これ(うちの教室での学習法)を知ったら、○○○に腹立ってきますね。」

正直なところ、私は塾などお勉強系の習い事を一切したことがないので、大量の機械的プリント反復学習の弊害については大人になって、こういう仕事をし始めてから徐々に感じるようになり、独立して今の学習法を知ってから、一層そのことを強く実感するようになっただけで、自分の実体験からの言葉ではない。

また、かつてそういう方法で学習をしてこられた方の中には、やはり迷わずお子さんにもそれをさせる方も少なからずおられるだろう。

しかし、それをやっておられたお母さんご自身が「腹が立つ」とおっしゃった言葉がなんとも印象深く、ご自身がされていたのに、その方法ではなくこちらを選択してくださったことに改めてありがたいと思った。

もっと知ってほしい、そう思う。
小さいうちにあんなに大量のプリントを繰り返さなくたって、子ども達はちゃんとできるようになるのだ。

実際、夏休みだけの4回体験で来てくれた1年生の男の子は今日が4回目のレッスンで、思ったより捗ったので、最後にちょっとやってみようと20までの数から5を引く引き算をやってみることにした。

もちろん学校ではまだやっていないとのこと。まずは教具を数分見せ、次に絵の描いてあるプリントを2枚。そのあとに式だけが書かれたプリントを差し出すと、ちょっと考えながら彼は正解を出していった。

もちろん、ほんの10分足らずのことだったので、まだ完全に納得とまでは行っていないだろう。そうだとしても、ほんの10分でやったことのなかった計算を自分で考えられるようになったのは事実だ。

私の叫びなんてあまりにも小さすぎて、ごく限られた方にしか届かないことはわかっている。
それでも私の叫びを聞き止めてくださった方が、また誰かにそれを伝えてくださったら、ほんの少しずつかもしれないけれど、しなくてもいい(むしろするべきではない)努力をせずに済む子どもが増えてくれるかもしれない。

大量の反復はもっと大きくなってからで十分間に合う。
子どもの頭が柔らかいうち、「つ」のつく間、せめてその間は、「時間をかけてゆっくりじっくり楽しみながら」ということを心がけて頂けたらと改めて思う。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年8月 9日 (水)

貴重な意見

先日書いた「勉強」ってなんだろう。は拙い文ながら共感してくださった方がおられ、いくつかのブログやサイトで取り上げて頂いた。

リンク元を辿って見つけたこちらのブログの昨日書かれた記事を読みながら、色んなことを考えた。

そもそも、私の記事を取り上げてくださったことで初めて気づいた自分もどうなの?と思ったが、記事の内容に非常に共感してくださった上で

僕は息子が生まれる前から
「子供は最低でも小学校卒業までは塾に入れない」
と宣言している。

と書いておられ、そうか、もしかして私は自らの首を絞めてるの?とか思ったりもしたわけだ。(苦笑)

まあ、そのあたりのことはまた改めて書かせて頂くつもりだけれど、基本的に私は子ども達の持てる能力を伸ばすお手伝いをしたいと思っているだけで、「成績を上げたい」とか、「テストでいい点を取らせたい」というのとは微妙に感覚が違う。もちろん、来てくれているのに成績が上がらないとか、テストで点が取れないとかっていうのは問題だが、それは能力が伸びた結果としてついてくるものというような感覚で捉えている。(この辺はきちんと書かないとご批判を受けることになりそうだが、それはまた改めて。)

話がちょっと脱線しそうなので本題に戻すが、この方の8日に書かれた この記事に、また色々なことを考えさせられた。

特にこの言葉。

なんか凄い腹立った。
裏切られるって?

もっと色々書きたいけど我慢。

やる気になれなくて辞めるその生徒は
「裏切られた」
と思ってるかもしれないね。


正直なところ、実は私もこの元ブログを読んだとき、ちょっと違和感を感じた。

もちろん、一応同業なので、元ブログの先生のお気持ちも理解できなくはないし、本当に心からその子のことを思って頑張っていた分、そのショックが大きくて、そんな表現になってしまったのかもとも思う。
(超ラブラブだった彼女にこっぴどくフラレたら、可愛さあまって憎さ百倍になってしまうことだってあるだろうし。それと似たような状態なのかなとは思うのだが。)

それでも、公の目に触れる文章に、指導する側が「裏切られた」という言葉を使うのはどうかなと感じた。

この方がおっしゃるように、辞めた子の方が「期待を裏切られた」と思っている可能性だって否定できないのだから。

昔、占い師さんに言われたことがある。
まあ、占いに行くときは大抵何か悩んでいるときなわけだが、そのときは恋愛相談(?)だった。

まあ、恋愛相談でありがちな、「相手のためを思ってあれこれ世話を焼くのは迷惑に感じられたりしないだろうか?」というようなことを尋ねたときだった。

占い師さんの言葉にハッとした。

「そんなこと言って、結局あなたは自分が傷つきたくないだけなのよ。相手に迷惑じゃないかなんて言いながら、結局は自分がしていることに見返りを期待してるでしょ。」

それを言われるまで、本当に全く考えてもみなかったことだった。
占い師さんの言葉は更に続いた。

「あなたがしたければしたらいいのよ。相手の気持ちなんてどうでもいいの。相手が喜んでくれるならするけど、迷惑ならしないって、そんなの打算でしょ?」

「相手の気持ちはどうでもいい」というのは誤解されるかもしれないが、要するに、見返りを期待して何かをするのは純粋な好意じゃないという意味のことを言われたのだ。

正直言って、目からウロコの気分だった。
恋愛相談だったはずなのだが、そのときの言葉は仕事をする上で大切な助言となった。

私には人生最大、最愛の恩師がいた。
もう直接尋ねることはできないが、きっと恩師は私たち教え子に何の見返りも求めていなかったに違いない。ただひたすらに教え子達を守り育てるのだと、そのために自分の持てる力を全て注ぐのだと、そんな風に生きられた方だったのではないかと思う。
そして、私も恩師に一歩でも近づきたいと思っている。

私にだって過去何度か経験はある。
まだ塾に勤めていた頃だって、時間外でわからないところを指導したり、常に気にかけていた子がある日突然辞めてしまうなんてこと。

けれど、そのときに私の心に去来する思いは空しさもあるが、申し訳なさの方が大きかったように思うのだ。

もし私がもっと効果的な指導ができていたら辞めなかったかもしれない。
もっと子どもの気持ちを汲み取れていたら辞めなかったかもしれない。

結局は自分の力不足だと言われているのだと思った。

今だってそうだ。どんどん伸びる子達の中にも、いまひとつ伸び切らない子どももいる。
それだって、私にもっともっと指導力があれば。。。と思うことはあっても、子どもを責める気にはならない。

この方が8日のブログに書かれていたことは、大半が共感でき、納得できることだった。

そして改めて思った。

「塾屋」になったらいけないなと。

会社員だった頃、中にいると見えないものが沢山あった。
会社を辞めて一般人として、その会社でやっていたこと、その業界でやっていたことを見ると、おかしなところがいっぱい見えた。

塾に勤めていた頃には見えなかったものが、独立して見えたというものだって、やはりある。

私が今いる世界は狭い狭い閉じられた世界だ。
もっと意識的に、この方を含め、同業ではない方の言葉に耳を傾けていかねばと、改めて思った。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年8月 8日 (火)

体力と学力

学校がお休みになるたびに気づくのに、学校が始まるとまた忘れてしまうことがある。
当たり前といえば当たり前のことなんだろうと思うのだけれど、毎回長期のお休みになると、改めてその違いを顕著に感じるのだ。

それは子どもの体力と学力(能力や集中力という方がいいのかもしれないが)に明らかに大いなる関係があるということだ。

小さい子であればわかりやすいが、普段学校があるときでも、例えば、夏になってプールの授業が2時間あったとか、運動会の前で1日に3時間ぐらい体育があったとか、そういう日には多分、帰宅して宿題などをやらせていても、集中が続かなかったり、ケアレスミスを多発したり、だらけた態度で取り組んでいたりすることがないだろうか?

実際、レッスンをしていても、今日はなんだかいつもと違ってキレがないなぁと思うようなときとか、前回にはスラスラ解いていた問題に手が出なくなっていたりするときとかには、学校の行事で体力を使い果たしていたり、体調が万全ではなかったりということはしばしばある。

けれど、日々のことなので、ついつい忘れてしまうのだ。
そして、長期のお休みになると思い出す。なぜなら、子どもの集中力や理解力が明らかに増すからなのだ。

ついこの前のレッスンではいくら教具を見せようと、いくら手助けをしようと、反応がイマイチだったような子も、夏休みになった途端、目を見張るほどの集中力や理解力を見せるということが頻繁にある。
そして改めて、学校に行くということは、子どもにとっては相当の体力を使うのだなと思い出す。

そもそも、自分の小中学校時代を振り返ってみれば、小学生の頃は多分9時頃には寝るように言われていたように思うので、疲れて眠ってしまった記憶はあまりないが、中学になると部活もあり、帰ってきてご飯を食べ、お風呂に入ってホッとしたら気づいたら寝ているなんてこともしょっちゅうだったし、そもそも私は中学生の間も就寝時間が22時と決められていて、22時を過ぎても起きていたら、母親に叱られたものだ。

よく寝て、よく食べて、よく運動もしていたので、非常に健康であったのは間違いないし、授業中に眠くなることも殆どなかった。しかし、もし私が塾に通っていたとしたら、睡魔と闘わずして授業に集中できたかどうかはかなりあやしい。

とすれば、今時の小中学生は軒並み就寝時間も遅くなっているし、親も遅くまで起きていることに対してそう口やかましく言うこともなくなっているようだから、昔の子どもと比べると、多分明らかに平均睡眠時間は減っているんだろうなと思うし、おまけに外で自由に駆け回って遊べるところも減った分、体力的にも昔より弱くなっているだろう。(あくまでも平均してという話だが。)

そんな子達が夜遅くに塾に行って授業を受ける。小学生は遅くはないにしても、やはり学校で体力を使ったあとに習い事に行くというのは、かなり睡眠不足の大人が仕事に行って集中しようとしている状態に等しいのではないだろうか。

ある意味、集中できなくても何の不思議もないのかもしれない。

夏休みにレッスンをしていると、子ども達の持てる力の素晴らしさを改めて感じることが多い。ずっとこの調子で行ってくれたらどんなにすごいだろうと思う。
ただ、学校が始まるとやはりそうもいかなくなるのだけれど。

ここで改めて考えてみて頂きたい。
夜遅くまで起きていることを咎めず、子ども達が睡眠不足のままで、場合によっては寝坊して朝食もろくに取らずに学校に行く。
その状態で授業に集中することは難しいだろう。

給食やお弁当を食べたら、少しは元気になるかもしれないが、食べた直後は内臓を働かせるのが忙しく、やはり勉強に最適なコンディションではないかもしれない。
そんな状態で4時間なり6時間なりを過ごすことがどれだけもったいないか。

おまけに、授業のあと、部活をしたあとで塾だったりとなると、余程体力のある子以外、集中できなくても何の不思議もない。
学校では集中できず、塾でも集中できずでは、一体何をしているのやらわからなくなってしまう。
我が子に賢くなってほしければ、よく寝かせること、しっかり食べさせること、そしてしっかり体を鍛えさせることはやはり不可欠だと思うのだ。

運動部だった子が引退した後、急激に成績を伸ばすことは珍しくないが、これはやはり体力的な余裕がある分、頑張りがきくということもできるのではないだろうか。(もちろん、その他の要因もあると思うが。)

改めて、子どもにとっての睡眠や食事、外遊びや運動は、大人が考える以上に重要な意味を持っているように思う。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年8月 7日 (月)

時間の計算(筆算の場合)

時間計算の筆算は習わない子も多いのかもしれないが、足し算でも引き算でもたかが2桁同士でさえ筆算をする子が圧倒的に多いことを考えると、時間計算の答えを出すために、分の部分や秒の部分だけを筆算している子は決して少なくないだろう。

だったら、教科書でも筆算をやればいいのにとも思うのだが、教科書で扱っている時間計算は数が限られているので、わざわざ教える必要もないということなのだろうか。

教室では時間計算の筆算も学習する。
何時何分に留まらず、何日何時何分という問題や、何時何分何秒という問題なども登場する。
3つの単位を使い、それぞれに繰り上がりや繰り下がりが出てきたりとなると、大抵の子どもにとっては「面倒でイヤな問題」になってしまう。

まあ、それでも足し算は60秒を超えたら分に変えて、60分を超えたら時間に変えて、24時間を超えたら日に変えて・・・という操作は、殆どの子がそれなりにできる。

ここで問題になるのはやはり引き算だ。繰り下がりのないものはまあ問題ないのだが、もともと算数があまり得意でない子や時間計算に苦手意識を持っている子などは相当抵抗を示す。

先日、ある子と時間計算の筆算をやっていたときのことだが、やはり繰り下がりのある時間計算にはかなりてこずっているようだった。

教室では普通の引き算をするときに、「減々法(取って取る)」というやり方で考えるのだが(私は不勉強で詳しく知らないのだが、「水道方式」と呼ばれる方法と同じだそうだ。)、時間計算のときにも基本的にはその方法を使う。

例えば、「11時16分-5時39分」というような問題があった場合、3桁や4桁同士の引き算も筆算をせずにできるような子は、好きではないもののやればできるという子が多いが、引き算は筆算でなければ答えに自信がないというような子であれば、16分から39分を引くときに困ってしまうのだ。

一番やりがちなのは、「10」をもらってきてしまって(借りてくる?)、この引き算の答えが「4時77分」というようになってしまうパターン。
引けないときは隣からもらって(借りて)くるという感覚に慣れてしまっている子は60をもらってくるという感覚になかなか馴染めないのだ。

で、そういう子にはひとつの方法として、まず16分から39分を引こうと思ったら何分足りないかを考えさせる。そこで23分足りないとわかったら、1時間からその23分を引かせる。
こうすれば、1時間を60分に直すことは大抵の子ができるので、無事答えに辿り着く。

しかし、引き算にかなりのアレルギーがある場合、この方法だとある意味二度引き算をしなくてはならないことになり、子どもによってはやはり非常に抵抗を感じる子もいるようだ。

先日のレッスンの子はそのタイプだった。
で、見ていてふとこの方法ならどうなんだろう?と思い、改めて尋ねてみた。

「11時16分-5時39分」であれば、11から5が引けるのはすぐわかるので、分の部分を見て、引けるか引けないかをまず判断してもらう。この段階で引けないことは算数が苦手な子でもまずわかるはずだ。

引けないことが決まったら、16分はそのまま置いておいて、いきなり1時間から39分を引くのだ。すると答えは21分。それとは別に16分残っているので21分と16分を足して37分。11時からは1時間もらったので10時になっているから、残り時間は5時間という具合だ。

足りない分を引くという方法にすごい抵抗を示したその子は、この方法をいうと「なんだ、簡単。」と言った。
この場合だと、引き算は1回すればいいし、それも60から引くので、そうややっこしい計算でもないのだ。その後は足し算で答えが出る。
確かに、計算が苦手な子にはこちらの方が簡単だなと改めて気づいた。

もちろん、例えば繰り下がるのだとしても「11時16分-5時19分」のように3分足りないだけだったりすると、暗算でもできる子も増えるだろうし、「11時16分-5時59分」のような場合だと最初から6時間引いて1分戻すという方が圧倒的に簡単だろう。

問題に応じて、子どもの苦手度合いに応じて、色々な方法を提示できるかどうかが私の仕事のひとつだと思っているが、子ども自身が問題ごとにどの方法が簡単かを判断できるかといえば、それはやはりある程度の能力がないと難しいということは否めない。

なんだか今日もイマイチまとまらなくなってきてしまったが、要は、繰り下がりを含む時間計算が苦手な子は、どの方法が簡単と感じるかは人それぞれのようなので、ご家庭などでもひとつの方法を徹底的にやらせるだけでなく、お子さんの様子を見ながら、いくつかの方法を提示し、お子さんが一番簡単と感じられるものを見つけてあげらてもらえたらと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月 6日 (日)

やっぱりすごい。

何度かブログでお名前を挙げさせてもらっている為末大さん。
数日ぶりに彼のオフィシャルサイトを覗いたのですが、書かれていた記事を読んで、色々しみじみ感心し、驚き、惚れ直し(笑)ました。

その記事はこちら。

ドーピング
ドーピング2

先日ニュースになった、ガトリン選手のドーピング疑惑について、為末さんの考察が書かれているのですが、やっぱりこの方、ものすご~~~く頭がいい。そして冷静で、論理的で、なのに(なのにってのは偏見?)超一流のハードラー。
もうホントにすご過ぎます。

しかし、何に驚いたって、

陸上競技は世界ランキング20位以内の選手には、365日どこにいるかを報告する事が義務付けられて、いついかなる時も検査を拒む事はできません。ですのでで選手は仮にプライベートの旅行でもどこにいるかを報告して、誰か必ず連絡を取れるようにしておかなければならないのです。

お医者様とか、緊急性の高いお仕事の方などで、24時間いつでもどこにいるか知らせていなければならない方がおられるということは知っていましたが、20位以内の世界ランカーがそんな拘束を受けているなんて全く知りませんでした。
小市民な私は、居場所を知らせるための通信費は誰持ちなの?とかも思ってしまうわけですが、そういう問題はともかくとして、陸上の世界の20位というのはそれほどまでにすごい存在なのだなぁと改めて認識。

そして、実際の競技会内検査について、詳しく様子を書いてくださっていますが、極限までコンディションを高めて試合に臨んだ後、私たちの知らないところでそんなご苦労があるのだなと。尿検査ということは知っていたものの、言われてみれば確かに、試合直後に出せって言われて、すぐすぐ出るもんでもないよなぁと。かといって、試合後の検査のために、試合前からトイレを我慢するなんてことはあり得ないわけですし。(苦笑)

まあ、知らなかったことを知れたということでもこのブログは私には読む価値が十二分にありましたが、一番すごいと思うのはドーピング疑惑に対する考察。
これを読んでいると、確かに為末さんの言う通り、疑問が残りますね。

もし仮に、ガトリン選手本人がわかっていて実際に薬を使用したのであれば、それは自業自得なのでしょうけれど、万一そうでない場合でも、真実を証明する方法がなければ、彼は陸上界から永久追放になってしまうようですね、ブログによると。
金メダリストが、こんな時期に、それも「今更」な薬物でドーピングの疑いをかけられているというのは、何か色々考えてしまいます。

先日の亀田家長男の試合とかでもそうですが、スポーツって本来、自分の持てる力を最大限に発揮して勝負をする、そのために日々鍛錬し、自己を高め続ける。そんなシンプルなものなんじゃないのでしょうか。
それが、メダルがかかったり、お金が動くようになると、本人達の意思や努力とは全く別のところで何かが動き出す気がします。

なんだか複雑な思いです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月 5日 (土)

時間の計算(暗算の場合)

何を隠そう(いや、仕事を考えると本当に隠した方がいいような気がするのだけれど)、私自身、時間計算は苦手。
未だに「○時から△時まで何時間か」を考えるときに、指を折ることさえある。

まあ、もちろん、計算で出そうと思えば出せるのだが(出せなかったら、レッスンができないので困るし。。。)、面倒だとついつい指を折ってしまうのだ。

大の大人の私でさえそうなのだから(いや、世の大人の方は殆ど皆さん、指なんて折っておられないのだろうけど。。。)、時間計算は子ども達にとって苦手分野のひとつだ。

遠い遠い記憶だけれど、私が小学生の頃には時間計算の筆算を習った。けれど、そのときの記憶は今でも残っていて、なんだかややっこしくてよくわからないなぁと思ったものだ。
しかし、学校の授業というのは時が経てばそこを通り過ぎていくし、四則計算は別として、単位の学習に関しては通り過ぎるともうそのまま出会うことがなくなってしまうものも少なくなかったため(例えば、面積のアール、ヘクタールなどもそのとき習ったっきり、その後出会うことはなかったように思う。)、時間計算もあやふやなまま通り過ぎて行き、結果として指を折って数える癖が身についたようだ。

今の教科書では時間計算といっても本当に簡単なものしかやっていないようだ。(先生によってはもっと難しいものまでやらせたりということもあるだろうけれど。)
しかし、教室で使っている教材では、もう「これでもか!」というぐらい、かなり面倒な時間計算の問題が出てくる。そして、さすがのスーパーちゃんたちも、できないわけではないが、「好き」という子にはこれまで出会ったことがない。
やはり面倒なものは、できる子であっても面倒なのだろう。

因みに、時間計算の方法はいくつか考えられる。
これまで主にやっていたのは以下のパターンのいずれか。

(1) 2時15分から5時30分まで のように、時間も分も増えている場合

これは子どもも抵抗が殆どない。時間が3増えて、分は15増えているというように目をつけ、「3時間15分」というように答える。

ただ、10分や15分のようにわかりやすい数だといいのだが、これが「2時17分から5時43分まで」のようになると、若干勝手が違ってくる。

(1)’ 2時17分から5時43分まで のように、どちらも増えてはいるが、計算がやや面倒な場合

これを解くには主に3通りの考え方があるのだと思う。

① 2時17分から3時までと3時から5時43分までを考える方法
② 2時17分から5時17分までと5時17分から5時43分までを考える方法
③ 時間は3時間増えたとわかるので、分は筆算で計算。(暗算が得意な子は(1)の解き方で普通に解けるので。③には該当しない。)

これまでの感触では、「指を折って考える派」(要するに時間計算があまり得意ではない子)には②が少しわかりやすいような感じを受けるが、量感覚の乏しい子や算数が苦手な子には③の方法でやらせるのが一番、子どもは苦痛を感じないかもしれない。

ただ、これも一概には言えず、「2時57分から5時13分」のように、スタートの時間が次の時刻(この場合は3時)に近い場合は(1)の最初の方法であっさり解ける子も多いし、①と②のいずれかなら、①の方が簡単に感じる子もいるように思う。

(2) 2時45分から5時27分まで のように、時間は増えているが分は減っている場合

この場合は教科書などを見ても、基本的には3時までと3時からを分けて考える場合が多いと思う。
3時までに15分、3時からが2時間27分だから2時間42分といった具合だ。

ただ、子どもによってはこの考え方がわかりやすい場合がある。

・時間は3増えたが、分は18減った。・・・つまりこれは、時計の長い針が3回回ったかと思ったら、18分戻ったということだ。
だから、3時間から18分減らして2時間42分。

筆算でなければ、上記のいずれかの方法を使うわけだが、経験も少ない子どもでは、どの場合にどの方法が簡単かを判断するのも難しいため、やはり時間計算は苦手に感じる子が多くなってしまうのだろう。

個人的には、とにかく時間と分が増えたか減ったかを見て、両方増えていれば増えた分がそのまま答えだし、分が減っていれば、時間が何周してから、分が何分戻ったという考え方のどちらかで統一するのが、子どもも混乱せず多少はわかりやすいのではないかと思うのだが。

ちなみに、教室では時間計算の筆算もやるのだが、先日その指導をしていたときにまたちょっと発見したことがあった。(と、どうも長くなりそうなので、続きは改めて「筆算の場合」として書かせて頂きます。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月 4日 (金)

数の「相手」という考え方

昨日一緒にレッスンしたスーパー1年生。
彼は以前にも書いたかもしれないが、去年の秋(年長)にもまだひらがなは全部書けるかどうかだったし、もともと同級生の息子くんなので、「お勉強は何にもさせないで送りこむから」と宣言されていた子だ。

あの家庭で育っている子だから、まあ大丈夫だろうとは思っていたものの、スーパー4年生のお姉ちゃんとは全く違うタイプだし、まあ、「野生児」っぽい。(といっても、私はそういう子が大好きなのだが。)
さて、どうなりますやら。。。と思っていたものの、彼の伸びっぷりは本当に目を見張るばかりだ。

夏休み早々から家族で結構長期のキャンプに行っていて、帰ってきてすぐのレッスンだったため、さて、どんな状態だろうと心配もしていたのだが、彼はすごかった。

もともと、お休みになる前に3桁同士、4桁同士ぐらいまでの足し算、引き算を多少やってはいた。けれど、レッスンで言えば1時間か2時間やっただけだし、その後ブランクもあり、おまけにその間は勉強らしいことはほとんどしていないはず。
今日は復習からかなぁと思いながらも差し出したプリントに、彼は全く戸惑うことなく、すっと問題に取り組み始めた。

中でも印象的だったのは、4桁-3、4桁をやっていたときの彼の言葉。

千の位はまず簡単に決められる。そして、百の位もほぼ間違うことなく決める。そのあとだ。
こちらはこの日のレッスンでは何も改めて指導も助言もしていないのだが、2つの数を見比べながら、彼はぶつぶつと何か言っている。

「う~んと、27取られへんから、27の相手は・・・。」

この考え方というのは、例えば「4321-1448」のような式があった場合、彼はまず千の位に2と書く。次に百の位に8と書いたあと、さっきのようなつぶやきをするのだ。

21から48をとるには27足りないということをまず見つけ、その後、教室での学習通りにやるのであれば、十の位の7を決めてしまうのだが、彼はいきなり、27に何を合わせたら100になるかを考えているのだ。

レッスンで私はしばしば、10の補数に関して、「3とったらその相手は?」みたいな尋ね方はする。けれど、これまで100の補数ということを意識させたことは特にない。
けれど、彼は自然にそれを考えるようになっていたのだ。

ぶつぶつつぶやいた後、ちょっと考えて「63!」とか答えてしまう彼を見ながら、しみじみすごいなぁと思う。

迎えにきた友人に、ホントすごいよねぇと話しながら、誠に失礼ながら、彼を見ていてまさかこんな計算が暗算でスラスラできるとは、みんな思いもしないだろうという話をしたところ、友人からも同様の発言が。

「キャンプで、(友だちが)どうせ○○はできるわけないって思って、3桁同士の計算の問題を出したら、あっさり答えたからみんなびっくりしてたわ。」

ああ、なんて素敵なんだろう。
外を走り回って遊ぶのが大好き。何かを作るのも大好き。彼が赤ちゃんのときから知っているけど、確かに親は「勉強」らしきことはさせていなかったはずだし、実際、教室に来てくれるようになるちょっと前にお習字で字を習い始めたぐらい。

だけど、そんな彼が、もちろんできるようになるとは思っていたけれど、その予想を更に何倍も上回るぐらいのペースでみるみる伸びている。

私はこれまでにも何度か書いてきているが、幼いうちはとにかく、よく食べ、よく遊び、よく眠る。まずそれが何より優先されるべきで、その他にしておくべきことは躾と家族の会話。可能であれば、時間の許す限りの読み聞かせ。
それさえしていれば、一般的な「勉強」は本当に急ぐ必要なんてないんだろうと思う。特に、幼児・小学校低学年期に徹底反復をさせることほど、「百害あって一利なし」のことはないのではないかと思っている。

実際、彼は去年の秋からきてくれているが、お勉強っぽいことを始めたのは1月からだし、それも週1回1時間だけ。宿題も1日1枚程度のプリントがあるだけだ。
けれど、目の前の彼は4桁同士の足し算・引き算を暗算で解くのである。(というより、まだ筆算を知らないから、暗算以外では解けないのだけれど。)

やはりこれは感動以外のなにものでもない。

ちなみに、10の補数の習得は必須だが、100の補数は使えるようになるとそれはもちろん役に立つ。
機会があれば、お金などを使って「あといくらで100円?」とか「100円から○円使ったら残りは?」みたいなことを練習してみるのもお勧めだ。

(連続7レッスンを終え、かなり限界に近いらしく、どうも文の締めがうまくいかない。。。お許しを。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月 3日 (木)

今日は。

レッスンが結構びっちりバッチリありまして、暑さと週末に向かって徐々に蓄積中の疲労も手伝っているのか、頭がぼ~っとしております。

何か書こうと思ったのですが、この状態で書くとろくなものになりそうにないので、本日は生存報告のみにさせて頂きます。

今日もいい1日でした。
子ども達は今日もみんな可愛くて、学校が休みで体力的に余裕があるせいか、みんな普段より一層よくできていました。

去年の秋まではひらがなも数字も全てはまだ書けないかもという状態だった現1年生くん(スーパー4年生の弟くん)はもう見ていて惚れ惚れする伸びっぷりです。この辺ことも書きたいんですけど。。。

とりあえず本日はこれにて。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

一夜明けて。

格闘技には全く興味のない私が唯一関心を持っているのは亀田家長男。
で、昨日も仕事中にも関わらず教室でテレビをつけて、食い入るように見ていた。
そして、タイトルを奪取した瞬間に感激してブログを打った。

しかし、その後マスコミは「判定への疑問」でもちきりだ。

ただ、すごく乱暴な言い方をすれば、私はそんなのどうでもいいのだ。もちろん、判定に八百長があったとかそういうことが事実なら、それ自体は許されるべきことではないだろうけど、昨日の試合で彼が勝っていようが負けていようが、どちらにしろ、私は試合中の彼の真剣な顔に見惚れ、試合後に泣きじゃくっている彼を可愛く思い、リング上でのインタビューに答えた言葉が彼なりの父への最大限の感謝だったことに感動したのだ。

私は格闘技のことは全然わからない。どういう基準で判定しているのかも知らない。1Rと11Rは確かに相手が完全に優位だったと思うけれど、他のラウンドでは彼の方が優位だったように見えることも多かった。もちろん僅差だったとは思うから、負けたかなぁとも思ったが、例えば、フィギュアスケートなどではいくらいい技を決めても、転倒したら大きな減点とか、大技は決められなくてもプログラム通りミスなく滑ったらある程度以上の点がつくとか、柔道の効果・有効・技ありだっけ?そんな風に技に段階があるとか、そういう感じで、ダウンしたら大減点、パンチが1発決まったら1ポイントとか、そういう基準とかがあるのかもしれないし、そういうのを知っている人からすると、「なんだあの判定は!」ってことになるのかもしれない。

彼自身が何か不正をしたのであれば話は全く別だけれど、彼はただひたすらにリングの上で、父の教えてくれたボクシングを精一杯やったに違いない。まだ19歳だ。
聞けば、対戦相手は計量のあと7キロも体重を戻したという。キャリアだって違う。それを相手に最後まで諦めずに戦い続け、判定勝ちのあとも、最初の言葉はファンへのお詫びと父への感謝だ。

マスコミがどれだけ騒ごうとも、あの試合の感動は、私の中で何も変わりはしない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月 2日 (水)

おめでとう!!

かっこいいわ。
亀田くん、ホントかっこいい。

もし今日の試合で負けたって、ホントかっこいいわ、いい男だわって思って見てたけど、勝ったわ。すごいわ。

もうめちゃくちゃオトコマエだったもの、試合中ずっと。

泣いてる顔もホントかっこいいわ。
大口叩いてるときよりずっとかっこいいかも。

ホントおめでとう。
素敵なものを見せてくれてありがとう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

発見!

先日、スーパー5年生とレッスンをしていたときのこと。
このスーパー君は2年生の夏から来てくれている子なので、基本的に新しい単元だろうとなんだろうと、絶対に説明しておかないとわからないようなことを除いて、まずは本人に問題を考えてもらう形でレッスンを進めている。

多角形の内角の和に関しての問題は4年生のときに少しだけやったのだが、そのときにも「多角形の内角の和=180度×(n-2)」みたいな考え方は教えず、図を三角形に分けるといくつになるかを考えさせた後、和を考えさせるという流れだったため、彼は何も説明しなくても正解していた。

そんな記憶もあったので、今回ワークの中でそんな問題が出てきたときにも、一切説明をせずに考えてもらった。
計算力その他、様々な面でスーパーな彼は、宿題に出していたページで正八角形の内角の和を1440度(因みに180×8をしたようだけど、彼は頭の中で暗算。。。)と書き、正十角形の内角の和を1800度と書いた。

初めは計算間違いかなと思って、どうやって計算したのかを尋ねていたとき、ふと気づいた。
正八角形は合同な二等辺三角形8個がくっついてできている。
正十角形は同様に10個がくっついてできている。
彼はそれをイメージして180度を8倍したり、10倍したりしていたのだ。

それに気づいて、それだと中心に集まる360度分を足しすぎているから引かなきゃいけないというと、彼は「あぁ、そっか」といってあっさり暗算で正しい答えを出したのだけれど、それを見ていてなんだか新しい発見をしたような気がした。

三角形や四角形は簡単だが、五角形以上の多角形は、五角形なら5個、九角形なら9個の三角形の頂点のうちひとつが中心で集まってできている。つまり、どんな多角形でも、仮に数学で使う「n角形」と表したら、n個の三角形がひとつの頂点で集まってできているので、180度×nから中心に集まっている1回転分の360度を引けば必ずn角形の内角の和になるのだ。(文章で説明するとちっとも簡単そうじゃないのが難点だけれど・・・。)

180度×(n-2) なんて公式を覚えなくたって、三角形がn個できるから、それから真ん中に集まっている360度を引くと考えたほうがずっとすっきりしてはいないか?

ま、大して難しい公式でもないし、忘れたら実際に対角線を引いて分けてみればいいのだけれど、それでも三角形が(n-2)個になると言われるより、n個から真ん中の分を引くという方がシンプルではないか?

なんだか新発見をしたような気になって、ひとりでしみじみ感動してしまった。
スーパーくんに感謝。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年8月 1日 (火)

筆算を教えない効果

このところずっと思っていることがある。
それは、2年生の早い段階で筆算を教える必要があるのかということだ。

現行の指導要領では、恐らくみんな2年生になれば、2桁の足し算を筆算でする方法を学習する。その後は、3桁になろうと4桁になろうと、もちろん引き算も筆算だ。

もちろん、筆算は「楽に計算できる」というメリットはある。それを否定するつもりは全くないし、算数が苦手な子にとっては筆算がなければ一層算数は苦痛を強いられる教科になってしまうかもしれない。

ただ、1年生では20までの足す引くを学習し、2年生になって20を超える2桁範囲の足し算引き算のうち、簡単なものだけを学習したら、次にはもう筆算の登場である。
教科書を見ると、2桁+1桁や2桁-1桁まで筆算の式が登場する。

先ほども述べたように、筆算は「楽な計算」である。算数が苦手な子でも、20未満の足す引くさえできれば何桁になろうともほぼ同じように解くことができる。(0が並んだ問題などで若干例外があるが。)

人間は楽な方法を覚えると、わざわざ大変な方法を選んだりはしない。
例えば、昔は洗濯といえば洗濯板にたらいだったはずだけれど、洗濯機が登場した今、わざわざ洗濯板での洗濯を選ぶ人はまずいないだろう。更に、二層式だった洗濯機が全自動になり、しまいには乾燥までをやってくれるものまで登場したのだから、経済的な問題さえクリアできれば、それをほしいと思う人は少なくないだろう。
この時代、わざわざ毎日洗濯板で洗濯をしようと思う人なんて多分いないのだ。(余程のこだわりがある方などは別として。)

それはさまざまなことについて言える。人間は楽な方法、簡単な方法を知れば、そちらを選ぶ生き物なのだろう。

何が言いたいかと言えば、2桁+1桁、2桁の段階で筆算を習った子ども達は、よほど計算が得意な子でない限り、その後の計算は全て筆算でしてしまうようになるはずだ。とすると、子ども達の頭の中で行われる作業は、それ以降ずっと20未満の足す引くだけになっていく。
だから、間に0が並んだ引き算になると、そのルールから外れるから途端にできなくなる子が現れたり、筆算の式を書くときに桁を揃えるのを間違え、あり得ない答えを書いたって気づかない子が現れたりするのではないだろうか。

もちろん、いずれは筆算を教えればいいだろう。
けれど、せめて2年生の後半か3年生ぐらいまでは、子どもが自分の持てる能力を駆使して、頭の中で数を増やしたり減らしたり、試行錯誤させる期間を設けてはどうなのだろうと思うのだ。

楽な方法を教えなければ、子ども自身が何かを発見する機会はもっと増えるはずだ。
例えば、「98+27」なんて問題があっても、筆算を知っている子は何も考えず機械的に筆算の式を書き、1の位に5と書き、1繰り上げて、1+9+2をして12と書くのだろう。この作業の間に、「125」という数をまとまりとしてイメージした子は恐らく皆無に等しいだろう。

けれど、筆算を知らない子にこの問題を出してみたとしたらどうだろう。もちろん予想でしかないが(まあ、うちの子達はこのあたりは全て暗算でできるようにならなければ筆算をやらないので、実際そうなっている子は多いが)、何か工夫できないかと考えるのではないか。

98はあと少しで100になるということに気づく子も出てくるだろう。
「98を100にするために27から2をもらおう」と気づく子がいたら、それは本当に素敵なことだ。27は2あげれば25なのだから、あとは100+25を考えればいい。

100になることを思いつかなかったとしても、別の子は90と20で110、8と7で15だから、110は100と10、15は10と5だから、100と20と5で125なんて考えるかもしれない。

もしかしたら、98を100、27を30と考えて、100+30で130。けど、2と3は足しすぎたから、減らさなきゃと130から5をとる子も出てくるかもしれない。

そういう頭の使い方をした子たちは、仮に後で筆算をやったとしても、突拍子もない答えを書いて平気でいることはないだろうし、概算や計算の工夫まで身につけてしまうかもしれないではないか。

早々に筆算を教えるということは、そんなチャンスを全て奪っているのかもしれないのだ。
あれこれ試行錯誤させる機会を教える側が奪っておきながら、学年が上がって、計算の工夫ができないだとか、概数の計算ができないだとか言ったって、そんなのは当然といえば当然なのではないのだろうか?

もちろん、教科書に出てくるのだから、教えないわけにはいかないだろうし、実際これを書いたところで何を変えられるわけでもないのだが、少なくとも先取り教育をさせておられる親御さんには知っていてほしい。
ろくに何も考えず、テクニックだけ身につけて計算ができるようになったって、それにはほとんど何の意味もないということを。

もちろん、今の学校教育は授業時間が減ってしまっている分、じっくり時間をかけて指導するということが難しくなっている面もあるようだから、学校で習うより先に余裕を持ってという気持ちはわからなくもない。
しかし、せっかく先に始めるのであれば、どんどん進むことを目指すのではなく、子ども自身がたっぷり試行錯誤して、答えを導き出す過程に付き合ってやってほしい。

子ども達を見ていて、そんなことを考える。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

今日から8月。

もう8月。今年もあと5ヶ月。きっと8月はあっという間に過ぎていくでしょうから、気づいたら秋が来て、知らぬ間に年末でバタバタってことになるんだろうなと思います。

神戸は朝のうち降るのかな?と思ったのですが、今日もよいお天気。
学校がお休みだと、体力的に余裕があるのでしょうか、子ども達はみんないい調子でレッスンが進んでいます。
今日はあと3レッスン。幸せな時間を過ごせるよう心がけたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年7月 | トップページ | 2006年9月 »