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2006年7月31日 (月)

「勉強」ってなんだろう。

あるブログを読んだ。
私は個人批判とかをするのは好きじゃないし、人それぞれ価値観が違うのは当然だと思うし、何もかも自分が正しいとも思っていない。

だから、そのブログがどなたのどの記事なのかは紹介するつもりはないが、ものすごく怖かった。ものすごく違和感を感じた。
少なからず影響力のありそうな(少なくとも私の数十倍か数百倍は)方のブログで、既にその記事に共感している方もおられたから、もしかしたら世の中の人で、共感する人と違和感を感じる人に分けたら、私のように違和感や脅威を感じる方が少数派なのかもしれない。
そう思いながらも、怖くて悲しくて、ちょっと泣きそうな気分になった。

「勉強」ってなんだろう?
特に、子どものうちにすべき「勉強」っていうのはなんだろう?

私たち大人は、「勉強」と聞けば、算数や国語などのプリントやドリルをすることをイメージしてしまいがちだ。

歴史漫画を読んでいる子を咎めはしないだろうけれど、「勉強熱心ね」とは言わないだろう。
算数のドリルをやらずに、レゴや積み木ばかりやっている子どもに「しっかり勉強していてえらいね」と褒める大人は少ないだろう。

図鑑を開いて虫や動物について調べている子はえらいと言ってもらえるかもしれないが、外を走り回ってセミやチョウ、アリをつかまえている子どもに「頑張ってお勉強しているのね」という大人もきっとほとんどいないだろう。

色々な本を読む子どもは感心だと言われても、同じ本を覚えるぐらいまで何度も何度も見ている子どもは「えらい」と言ってもらえることはきっと少ないのだろう。

そんな例はきっとまだいくらでもある。

けれど、それは正しいんだろうか。
本当にそれは前者が評価されるべきことで、後者は「勉強」じゃないんだろうか。

私は絶対違うと思う。

幼いうちに先取り教育をして足し算や引き算、掛け算ができるようになったって、そんなの数年すれば大抵の子ができるようになるのだ。

仮に幼稚園や1年生の子が反復訓練によって九九を全部言えるようになったとして、子どもはほかの子に向かって自慢げに言うだろう。

「ぼく、九九全部言えるねんで。」

けど、それが一体なんだというのだろう?
そんなもの、九九を学ぶ時期が来て努力さえすれば、殆どみんなできるようになるのだ。

「虫の足は6本、羽は4枚」と図鑑やプリントで覚えた子と、外を走り回って自分の手で虫をつかまえ、つかまえた虫を観察して、経験として知った子とで、どちらが生きた知識になるだろう。

幼い子どもにとって、「本気で遊ぶ」こと以上に価値のある「勉強」なんてあるんだろうかとさえ思う。特に、幼いうちの外遊び、指先遊び(折り紙、あやとり、お手玉、積み木、おはじきなどなど)は何にも勝る「勉強」なのではないかと思うのだ。

もし幼い子が数に興味を持ったとして、「1+1」と書かれた式を見せ、「2」と答えられるよう訓練することに何の意味もない。(と私は思う。)

幼い子の興味をうまく伸ばしたいのであれば、あくまでも「1+1」は飴玉が1個と1個であったり、鉛筆が1本と1本であったり、折り紙が1枚と1枚であったりという、具体物を通しての経験こそが大切なのであり、それを軽視してドリルやプリントで計算練習をさせたとしても、近い将来きっと頭を打つときがくるように思う。

大人が考える「勉強」より大切なものは、幼い子どもにはいくらでもある。
それは絶対間違いない。
私はそう思う。

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2006年7月30日 (日)

ネタなんていらないんだけど。。。

ちょっとこのところ、ホントに自分が不安になることがあります。

まあ、筆頭は先日の施錠忘れ事件ですが、先ほどまた、どうにも情けない、考えられない事件が。。。

今日はお世話になっている方への進物などを選びに街へ出ていたのですが、進物その他の買い物を済ませ、大小3つの紙袋を持ってバスに乗りました。

バスの中ではひざの上にバッグと紙袋3つをしっかり載せ、当然降りるときにもしっかり握って降りました。
帰宅後、とりあえず先にしなくてはならないことを思い出したので、バッグと紙袋はまとめて部屋の隅に置いておきました。

用事が済んで、買い物したものを整理しようと荷物に目をやると、あれ?ひとつ紙袋がありあません。
記憶では3つのうち間に挟まっていたはずの紙袋。明るい色の袋だったので、置いたときに目にした気もする。なのにない。どうして!?

とりあえず部屋の中を見回してみたけどない。ドアを開けて表を見たけどやはりない。
けど、バスの中で荷物を落としたりはしなかった。どうして????

ちょっと本気で、家の中にブラックホールでもあるのでは?とか思ってしまったのですが、もしかしたら3つのうち間のひとつだけ握り損ねたままバスを降りてしまったのかもと、とりあえずバス会社にお電話。折り返し電話をくださることに。

けど、いくら考えてもバスの中で落とした気はしない。
あぁ。。。私、ホントに大丈夫だろうか。。。こんなので子ども達と一緒に勉強できるのだろうか。。。
ちょっとホントに不安になって、結構凹みつつ、あるわけないけど、帰宅の際歩いた道を戻ってみました。

けど、あるわけないよなぁ。。。
もうバス停がそこに見えてきました。やっぱりありませんでした。これでもしバスの中にもなかったら、ホント一体どこでどうしたんだろう。。。

とぼとぼと道を戻り始めたとき、視線の端、ガードレール越しに何か明るい色が見えた気がしました。降りたバス停から10メートルほど離れた車道の路肩。もちろん、そんなところは歩いたはずはありません。

けど、近づいてみました。

!!!!!

紛れもなく、行方不明になっていた紙袋が車道でお迎えを待っておりました。。。

しかし、どうしてそこにあったんだ?
考えられることとすれば、バスを降りるとき、3つ一度に握ったつもりが間のひとつを握り損ねていて、降りた瞬間に落ちた。けど、ステップから降りる音や通り過ぎる車の音にかき消され、落ちた音は聞こえず。

で、そのあと車にはじかれた??

最後だけがちょっと設定が難しいのですけどね。だって、紙袋は非常にキレイな状態だったもので。。。
もし落し物だと思って誰かが拾ってくれたなら、車道の路肩ではなく歩道側に置いてくださる気もするし。。。

ま、よくわからないものの、荷物紛失事件はあり得ない結末で終了しました。(苦笑)
今日は早く寝よう。。。
ホントはまともなブログを書こうと思っているのに、ちっとも書けない。。。

あ、ちゃんとバス会社にはお詫びの電話を入れました。あぁ、恥ずかしい。。。

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休日

昨日帰って書こうと思っていたのですが、諸事情により食事が遅くなり、食事が済んだ時点で1時前。。。(苦笑)
で、その後急激な睡魔に襲われ、何もかもそのままの状態で眠ってしまっていました。。。

しかしなぜか朝8時過ぎに早々と目が覚めたのですが、先に済ますべきことをあれこれやっていたらもう3時。これからちょっと用事を済ませるため出かけてまいります。

頭の中がそのまま文章になってくれれば、書きたいことは色々あるんですけどね。(苦笑)
ではまた今晩。

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2006年7月29日 (土)

ふぅ~~~~っ。

今週もどうやら無事に終えることができました。
夏休みに入り、生活サイクルを急激に変えた上、この1週間は急に真夏日が続いたりで、なかなかにハードでした。

おまけに後半3日間が、振替などで少しは楽なスケジュールになったものの、結構びっしりレッスンだったので、今日のラストのレッスンの子達を見送った後、しばらく放心状態でした。(苦笑)

子ども達は可愛いし、レッスンしているのも楽しいし、ホントに幸せなのですが、いかんせん、体力的な問題が。。。(苦笑)
けど、今日も子ども達はとても元気で可愛くて、たくさん笑って、いっぱい幸せな気持ちにしてもらいました。

色々書きたいことはあるのですが、ちょっと今知恵熱(!)が出そうな気分で、とりあえずはちょっと頭を休めようと思います。
とりあえず明日は何も予定がないので、今晩元気が復活したら、また書かせてもらおうと思っています。(無理だったら明日。)

今週も皆様お疲れ様でした。
暑さに負けず、素敵な週末をお過ごしくださいませ。

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ニュースサイトじゃないけれど。

ときどきご紹介している「りんご先生」ですが、こちらもまたまたすごく素敵な文章です。

この先生とお知り合いになって、私も少しずつながらパズル問題を自分で考えるようになったのですが、こんな感覚をお持ちの方と一緒に何かを作れるって、すごくすごく幸せなことだなぁって思っています。

もしも自分に子どもがいたら、こういう方に託したいなと思ってしまいますね。
週末ですから、皆さんもホッと和んでくださいませ。

パズルを解くことが物語を読むことみたいな、そんな扉の開き方がいいと思う。

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2006年7月28日 (金)

不思議な現象

実は私。。。何か特殊な能力を身につけてしまったかもしれません。(いえ、もちろん冗談ですけど。。。)冗談なんですけど、なんか妙に気持ち悪いっていうかなんていうか、ちょっとすごい偶然が。

実は、昨日今日明日の3日間は、ハードワーカーの塾長さんたちからすればちっとも大したことはないものの、私にとっては結構びっしりと予定が詰まっていて、まだ早起きのサイクルに慣れていないし、急に暑くなったし、3日間持つかなぁと、ちょっと心配していました。

で、水曜の晩は早寝しそびれたのに、なぜか昨日は5時間ほどで目が覚めてしまい、そのまま起床。レッスンの予定を考えると、睡眠不足で長丁場は最後まで持つかしら。。。と不安になっていたところ、電話が。

「ちょっと今日急用ができたので、日にちを変えて頂きたいんですけど。。。」

おぉ、それはちょっとありがたいかも。
日程変更をしてお電話を切りました。

数分後、

「すみません。子どもが熱を出しまして。。。」

なんと、6時間強休憩なしで連続レッスンの予定が、2時間分他の日に変更になりました。

そして今日。
昨日より更にハードな予定で、10時から20時半まで、お昼とかに休憩はあるものの7レッスンの予定でした。ラストのレッスンが若干不安だな。。。と思っていたところ。。。。。。その子が体調不良でお休みに。(苦笑)

もちろん、振替になったので、その分「激しい予定の日」が他にまた出てくるものの、スケジュールを眺める限り、この3日連続ハードスケジュールはもうないようです。

もちろん偶然だとは思うのですが、万一何か特殊な力が身についてしまったのだと大変なので、起きてほしくないことは考えないようにしようと、バカなことを考えてしまうのでありました。(苦笑)

さて、仕事します。

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2006年7月27日 (木)

作ることで気づくこと

ちょっと書きたいことがあるにはあるのですが、今日明日明後日と、レッスンスケジュールが私にとっては結構ハードなため、後日にさせて頂くことにして(今日無理に書くと、文章がとげとげしくなりそうなので。。。)、ちょっと軽めのお話。

最近、色々なパズル問題を考えています。

もともと、パズルは全般に好きで、具体物を使うジグソーやタングラムなども好きですし、ペンシルパズルはイラストロジックにはまったり、ナンバープレイスにはまったり、その後仕事で相当の数の論理パズルや数字に関するパズルその他色々を解いてきました。

しかし、最近は、少しずつですが自分でも問題を作ってみています。すると、これまで気づかなかった作り手のルールみたいなものが垣間見えてくることがあります。

例えば、ナンバープレイス(数独)なども、これまでは自分では解いたことしかありませんでしたが、実際作ることを考えると、新たなルールを発見するのです。

なんだ、こういう規則で作られているのかとか、ものによってはそれに気づくことで、今後問題を解くときに圧倒的に役に立ちそうな発見もあるのです。

で、これっていうのは、何もパズルに限ったことではないのでは?と思いました。

算数や国語で何かを習ったとき、実際に自分で問題を作って誰かに出してみるなんてことをすると、受身で解いていたときには気づかなかった発見があると思うのです。

例えば、国語でよくある例ですが、「15字で抜き出せ」という出題なら当然ぴったり15字ですが、「15字以内で抜き出せ」という出題で答えがぴったり15字になる可能性は高くありません。
なぜかと言えば、ぴったり15字で収まるのであれば、わざわざ出題者が「以内」という言葉をつけることはあまりないことだからです。
その考え方でいくと、20字以内でとなっている問題の答えが15字以内に収まるということもやや不自然です。

作り手の側に意識が及べば、もっと問題を解きやすくなる。それはきっと多くの指導者がわかっていることでしょうし、そう指導している方も多いに違いありません。
ですが、受身である子ども達は、今ひとつそれを実感するところまで至らないことも少なくないのではないでしょうか。

もちろん、問題を作ること自体ある程度の能力を必要とするのかもしれません。
それでも、子どもにやらせてみる価値はあるかもしれませんね。ふとそんなことを思いました。

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2006年7月26日 (水)

子どもと一緒に問題を解きませんか?

教室の子ども達が考える気がなくなりかけているときに、やる気を出させる、結構効果的で簡単な方法がある。

もともと、小さい頃から来てくれている子達はしばらくの期間一緒にレッスンをすると、こちらが何も言わなくても、自然と自分でじっくり考えるようになることが多いが、それがなかなか思うようにできないような子達でも、私があることをすると、真剣に考え始めることが多い。

それは実はすごく簡単なことだ。

教室では色々な論理パズルを取り入れているのだが、例えば高学年でじっくり考えるのが苦手な子であれば、パズルも少し考えてわかりそうになければ、すぐに「こんなんわからへん!」とかなんとか弱音を吐く。

そのときにただ励ましたり、叱ったりするより、遥かに効果があることがあるのだ。

それは

「同じ問題を解く」

たったそれだけのことだ。

子どもがしばらく考えてわからないと言った頃に「じゃ、私もやろっかな」と言って、おもむろに同じ問題を解き始める。すると、大抵の子が負けじと頑張り始めるのだ。

もちろん性格にもよるし、ただの算数の問題とかだと当然大人の方ができるとも思っているので、そんなに乗ってこないが、パズルなどだと結構燃える子も多い。

もともと子ども達が先にしばらく考えているので、ハンデはついている。だから、子どもはそれなりに本気で私に勝とうと頑張るのだ。
問題の難易度が高く、私もすぐには答えが出ないような場合に、子どもがもともとある程度まで解いていたりすると、実際私が負けることもある。
それはそれで子どもの自信に繋がるし、私が負けたからといって、「ヨーイドン」で始めたわけではないから、子どもが私をバカにするなんてこともない。

それに、まあ、殆どの場合、私が先に解き終わってしまうのだが、それはそれで、「もうできたん?はや~~~!!」とかなんとか言いながらも、負けじと最後まで頑張ったりもする。

これは多分、ご家庭で子どもが問題に取り組む気をなくしかけているときにも応用できるのではないかと思う。
もちろん、低学年の算数で同じ問題を解くなんていうのは、大人には優しすぎるし、真剣勝負じゃなければ子どもも乗ってこないので、子どもは自分の問題を、親は例えば数独とか、何か難しい問題などを考えるのだ。

子どもに本を読ませたいと思ったら、まず親が本を読みなさいというアドバイスはよく目にするが、きっとそれと同じようなことが言えるのではないかと思う。

もし算数が苦手なお子さんがおられる方は、普段より時間の余裕もある夏休みに、そんなことを試してみてはどうだろうか。
ただ口で「やりなさい」というより、遥かに子どもはやる気を出すはず。

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こ、こわい。。。

本日の衝撃的出来事。。。

今日は10時からレッスンだったので、慣れない早起きでまだペースができないながらも、いつも通り出勤。

ドアに鍵を差し込んで回すと、ん??あれ???開いてる????

今日英語のレッスンあったっけ?え?なんで???

静かにパニックに陥りつつ、そっとドアを開け、中の様子を伺う。
いつもと変わりない。
恐る恐る中に入り、まずは教室を見回す。
やはり変わりない。
トイレや奥の収納スペースの中を確かめる。。。ドキドキ。。。
大丈夫だ。。。

どうやら単に鍵をかけ忘れたらしい。
いや、でもなんで?出るときに急いでいたわけじゃないし、鍵を触った覚えもある。特に昨日は派手な色のおNEWのパンツだったから、そのポケットに鍵を入れた覚えがあるぞ???

ああ、気持ち悪い。。。

けど、まあ、冷静に考えて、この教室で一番金目のものといえば、このパソコン。けど、びんぼ~だから「SO●EC」のだし、後は複合プリンタだけど、それももう今だったら中古でも値段がつくかしら?という代物。テレビもビデオデッキもたかが知れているし、おまけにその全てが無事ってことは、やはりどう考えても鍵をかけ忘れただけなんだろう。。。しかし。。。初めてだ。。。どうしてたんだろう。。。。。。

夏ボケ?(苦笑)

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2006年7月25日 (火)

きっと人生に無駄なことなんてない。

以前にも書いたかもしれないが、私は独立するもっと前の数年間、夜な夜なチャットをしていた時期がある。

まあ、「チャット」といえば、いかがわしいイメージを抱かれる方もおられるだろうし、実際、そういうチャットも多く存在したように思う。(いや、ある意味そういう方が数としては多かったのかもしれないが。)

私がチャットをするようになったきっかけは、「機械オンチ」によるものだった。
もともと、未だに機械には暗いし、パソコンもよくわからないままに使っているのだが、そもそもパソコンを買おうと決めた最大の理由は、その頃かなり熱心にやっていた趣味の作品をホームページで紹介したいと思ったからだった。

会社を辞めて時間が有り余っている頃だったので、わからないなりに夜な夜な作業をするのだけど、わからないものがやっているので何かとトラブルが起きる。しかし、そういうことをしているときは大抵が深夜で、サポートセンターにも友人にも電話ができるような時間ではないのだ。

悩んだ末、よくわからないなりに迷い込んだとあるチャットの部屋。幸運にも機械に強い人が大勢おられ、文字での会話ながらも、ひとつひとつ丁寧にアドバイスをくれ、あれがダメならこれをやってみろという具合に、かわるがわるみんながアドバイスをしてくれた。

今思えば、星の数ほどある部屋の中で、偶然かなり常識的で良心的なメンバーが集っていた部屋に入った幸運を改めて感じるが、最初の印象がよかったので、その後しばしばその部屋に顔を出すようになり(もちろんネット上で)、私の趣味のホームページも無事完成した。

そのうち、その部屋を開いていた部屋主さんが仕事の都合で部屋を開けなくなり、一時よそにお引越しなどもしてみたが、最終的には自分で部屋を開くようになった。

そこからは、もちろん話をするのはそれなりに楽しかったが、一度始めると続けなくてはと思ってしまう一面が顔を覗かせ、数年にわたりほぼ毎日、深夜部屋を開き、常連達が集っては、他愛もない話を飽きることなく繰り返していた。

パソコンでブラインドタッチができるようになったのは間違いなくチャットのお蔭だし、文字だけで会話をすることの難しさを学んだのもチャットを通じてだった。

幸い私が開いていた部屋にはそういう人は少なかったし、たまに来てもまともに会話ができない人は常連になることはなかったので幸せだったが、ネットの世界は顔が見えない分、わざと人を傷つけるような言葉を吐いてまわる人や、下品な発言を繰り返す人なども少なからずいた。

また、例えば、誰かが軽い気持ちで「あほちゃうか~。」と打った文字を見て、相手が本気で怒り出すなんてこともいくらでもあった。

更に、匿名性が高いせいか、知り合って(それもほぼバーチャルな状態で)間もない相手に、深刻な悩み相談をしてみたり、また、そんな深い話ができるのだからと、すっかり親しくなったような錯覚に陥ったりと、本当に色々な人間模様を見てきた。

部屋の常連だったメンバー同士が言葉の行き違いや誤解から、チャットでケンカになってしまい、どちらか、もしくは両方が部屋に来なくなってしまったりなんてことは数年の間に数えられないほどあったように思う。

今思えば、私自身、絶対あれは病気だったよなぁと思うし、その頃から今もまだ付き合いのあるごく限られた友人達も、やはり口を揃えて「病気だったよね」という。

個人的には、多分多くの人がはしかみたいに一過性の病気にかかるんじゃないかと思っている。
チャットに依存したり、メールに依存したり、ネット自体に依存したり、今ならブログやミクシなど、依存の対象がどんどんめまぐるしく変わっていっているだけで、また新たに、あの頃の私たちのように何かに依存し、どこかでは貴重な縁を得、またどこかでは不必要な争いを生んでいるのだろう。

あの時期があったから、今は一定以上ネットに依存しないよう意識もしているし、チャットに至ってはあれはもう一体いつのことだったんだろうというぐらい、完全に遠い世界になってしまった。(まあ、私が部屋を開いていたニフティ自体も、私たちの熱が冷めた頃からか、チャットの利用者がどんどん減って、縮小、最終的にはサービスがなくなったような気もするけれど。)

メールなどを打つときも極力言葉を選ぶようにしているし、きつくとられるかもしれない言葉には「(笑)」などを意識的に付けてみたりと、つまらないことでトラブルを生まないよう、なるべく心がけている。

ブログにしても、私は自分の言いたいことをストレートに書いてしまう方なので、人によっては気分を害されたりもするかもしれないが、これでも一応表現にはできる限りの気を遣っているつもりだ。

今日唐突にこの話を書こうと思ったのは、全く知らないところで、ちょっとした波が立っていたようで、そのことを知って、ちょっと昔のことを思い出したからだ。

昔、チャットの常連のある子が言った。

「デリートボタンを押すように、人と縁を切る。」

確かに、バーチャルな世界で出来上がった人間関係は、ほんの一瞬で消えてなくなることも少なくなかった。

これだけパソコンが普及し、小学生でもパソコンを操作してしまう時代だ。いい大人の私でさえ、一時中毒のようにチャットにはまった時期があることを思えば、これから子ども達にも、チャットではないにしろ、そういうことが起きてくるのだろう。

色んなことを考えながら、あの頃の自分はバカだったよなぁと思うけれど、それでもやはり、あの経験は必要だったんじゃないかとも思う。
多分、どんな経験もそこから何かを学びさえすれば、人生に無駄なことなんて何もないんじゃないかと思う。

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2006年7月24日 (月)

書こうと思いつつ・・・

今日は普段ならレッスンがない月曜なのですが、夏休み中は固定で3~4時間レッスンが入っています。

おまけに夏休みは希望により、午前中にもレッスンを組んだので、結局ギリギリまで早寝早起きにシフトできなかった私はさっきからずっと眠くて仕方ありません。。。

といっても、2時過ぎごろ寝て、8時過ぎに起きたので、とりわけ睡眠不足な訳でもなく。。。多分単にペースができていないせいだと思うのですが、現在どうも頭が働いていません。。。

時間はあるのにブログが書けない。。。困ったものです。
夏バテには無縁で長年生きてきたのですが、今年はちょっと気をつけなきゃって気分です。

皆様もくれぐれもご自愛のほど。

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2006年7月23日 (日)

感謝

今日はレッスンのない日だったので、晩は実家に顔を出した。
もう決して若くはない両親との一家団欒。
食事の後家族と見ていたテレビで、途中からだったので詳しいことはわからないが、番組の途中で児童養護施設が映った。子ども達が七夕の短冊に願い事を書いているのだが、どうやら話の流れ的に、その養護施設の子達には親がいないようだった。

「お金持ちになりたい」
「テストで70点がとりたい」

そんな願い事の中に

「スポーツのコーチになりたい(大学に行きたい)」

そう書かれた短冊があった。

児童養護施設は18歳になると施設を出て独立しなければならないのだという。
普通に考えて、大人の支援なしに18歳の子どもが自分ひとりの力で生計を立て、その上で大学に行くということは並大抵のことではないだろう。

奨学金やらなんらかの援助などもあるかもしれないが、普通に考えれば幼い頃から塾などにも行けず、学校での学びだけで大学受験までをし、その後生計を立てつつ大学に通うというのはやはり相当高い壁であるに違いない。

これまで私は、家族で誰も大学に行っていないのに、私の大学進学に反対せず、すんなり進ませてくれたことを感謝したことはあったが、国立大でまだ学費も安い頃だったし(授業料が4年で100万程度だったと思う。)、塾や予備校などにも行かなかったことを思えば、親孝行をしたぐらいに思っていた。

けれど、実はすごくすごくありがたいことだったんだなと、その短冊を見て改めて思った。
少し照れくさかったけど、両親に向かって「大学に行かせてくれてありがとう。」と言った。

親も照れくさかったのか、母は「うちの子じゃないんよね?お父さん。」と父に向かって言い、父は父で「ん?ああ、母さんの子やからな。」なんて言った。

両親がいて、家族みんな健康で、毎日ご飯が食べられて、当たり前に学校に行かせてもらえる。
普段は当たり前すぎて、そのありがたさに気づきにくい。

1枚の短冊のお蔭でそれに気づくことができ、今頃何言ってるの?って話だけれど、それでも直接両親にお礼が言えてよかった。
いい休日になった。

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2006年7月22日 (土)

足し算の筆算

子どもの数は決して多くない(いや、一般的な塾で考えると明らかに少ない)ものの、スーパー小学生、スーパー幼児が目白押しの今日この頃。
うちの教室で「できない方」の子は学校では一体どんな感じなのか見てみたいと思うほど、みんながそれぞれすごいのだが、年長のおしまい頃から来てくれている現在1年のスーパー君が、これまたすごい。

まあ、現1年生はほぼみんな例外なくすごいのだけど、彼はなんというか、その中でも抜群にセンスがいい印象を受ける。
実際、前回までのレッスンで、筆算は一切知らないにも関わらず、4桁同士の足し算や3桁同士の引き算まではかなり確実にできるようになっていた。(教室では筆算を学習する前にそこまで暗算でできる能力を身につけてもらうようになっているので。)

せっかく暗算でちゃんとできるのに、筆算を教えるのはもっと先でもいいかなぁと思ったのだが、(筆算を覚えると、そっちの方が楽なのでついついそっちを使ってしまうようになりがちなので。)教材の順番もあり、前回の残りが終わったら筆算に進むことにした。

今日は初めに、前回少し残っていた3桁-3桁、4桁-3、4桁の暗算をやってもらったが、「こんなん簡単!」と言いながら、本当にしっかり考えて上の位からきちんと答えを決めていっている。
どうやら彼は本当に頭の中できちんと理解ができているようだ。

なので、足し算の筆算に進んだ。
最初に1、2問だけ一緒にやると

「な~んや、筆算って簡単やなぁ!」

そう元気に叫んだかと思うと、スイスイと解き始めた。教室で使っている教材は、筆算をやるときには一気に大きな桁までやってしまう。
2桁+2桁ができれば、あとは何桁になろうとも操作は同じだからだ。
実際彼にも、時間いっぱいまでで10万の位の数までの足し算の筆算をやってもらった。

4桁同士をじっくり考えて答えを出していた彼にとって、筆算は「めっちゃ簡単」なものなのだ。
実際、足し算の筆算は20までの足し算がきちんとできれば、それ以上の能力がなくたってできる。2桁同士ができるなら、3桁だろうが8桁だろうが、その後の操作は同じなのだから、わざわざ2年生は2桁同士、3年生は3桁、4桁・・・みたいに分けて指導する必要もないように思う。

大きな数の計算ができるということは子どもにとってささやかながらも自信にも繋がるし、筆算でさえすれば、億同士の足し算だって、仮にその数を読むことができなくても計算はできるはずだ。

この彼のすごいところは、プリントでは最後の位が10以上になるものが出ていなかったのだが、(例えば5678+6789とかだと、千の位が11になるので、繰り上がって万の位までの答えになるが、そういうのは出ていなかった)そういう例を自分で書いて「こんなときはどうするん?」と尋ねてきたところだ。

「やってみて」というと、ちょっと考えて、不安そうに答えを書いたのだけれど、それでいいのだと答えると

「な~んや、そういうことか~!」

とニコニコ。
これまでにも賢い子、すごい子は沢山いたけど、この段階でプリントにない問題を自ら質問してきたのは彼が初めてだ。年々衰え行く私の脳細胞を考えると、彼に私が教えてもらう日はそう遠くないのかもしれない。

話はあちこちに行ってしまったけれど、学校で2桁+2桁の筆算を習った2年生さんなどは、夏休みにおうちの方が3桁+3桁や4桁+4桁などの問題を出してあげて、同じように解いてごらんって言ってあげれば、算数に自信がない子でも自信をもつきっかけになるかもしれない。

週末疲れがあるのか、慣れない早起きのせいか、どうもいつもに増してまとまりのない文になってしまった気がするが、要は、今日も子ども達のすごさに感動したって話。(笑)

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2006年7月21日 (金)

今頃気づいたこと

先日、今ではもう年賀状だけのお付き合いになってしまっている昔勤めていた会社の後輩ちゃんから「女の子が生まれました」のお知らせ葉書が届いた。

彼女は会社の1年後輩で、更にその後輩の彼と震災後結婚した。とてもいい子たちだったので、お似合いだなと喜んだ。
以前は家が近かったり、私の時間ももっと余裕があったりで、時々お邪魔したりもしていたが、彼女らが引っ越して家が少し遠くなり、私の仕事も夜遅くまでになったため、長らくご無沙汰していた。

そんな彼女たちからのお知らせ葉書。彼女は大卒で1年後輩だったのだから、年齢的にも大変だっただろうと思うし、もともととても華奢で折れそうな子だったから尚更とっても頑張ったのだろうと思う。
もともと二人とも子どもは好きだったはずだから、結婚して10年でパパ、ママというのは、きっと待望の可愛い可愛い愛娘だろう。

なんだか色んな思いが入り混じりつつ、とにかく本当に本当によかったなぁと思ったのだけれど、何しろ私は世間の社会人とは真逆のような生活をしているし、赤ちゃんがいるのにあまり遅い時間に電話をするのも気が引ける。日中電話をしてみたが、お留守のようで、あいにく留守電にもならなかったため、改めて連絡をすることにして、お祝いの気持ちだけでも届けようと、ホントにささやかな出産のお祝いを贈った。

彼女の生活時間帯と私の生活時間帯が違うからなのだが、彼女は何度か電話をくれたらしく、夕方から何度か無言で電話が切れて、最後の留守録には久しぶりに聞く彼女の声が残っていた。

「もしもし、□□です。○○さんご無沙汰してます。可愛いお祝いを送ってもらって、ほんまにすいません。ありがとうございました。そんなつもりで葉書出したんじゃないのに、ホント申し訳ないです。でも、すごく嬉しいです。ありがとうございます。・・・・・」

そんなメッセージが残っていた。
それを聞いてふと気づいた。

彼女の性格的に「申し訳ない」が先に立ったのはよく理解できるし、ホントにささやかなお祝いなのにきちんと二度もお礼を言ってくれているので、喜んでもくれたのだろう。
ただ、先に「すいません」と言われたことで、なんだかこちらの気持ちまでちょっとしぼんでしまった気がしたのだ。
ホントにおめでたいと思って、私まで嬉しくなって贈ったお祝いに対して、まず「ありがとう」とか「嬉しいです」と言ってもらえていたら、それだけで一層幸せな気持ちになれたんじゃないかと。

けれど、思えば多分私は、これまで人に何かしてもらったり、プレゼントを頂いたりしたときに、大抵こんな風に言っていたのではないかと気づいたのだ。
ありがたいのだけど、恐縮する気持ちの方が先に立ってしまって、つい「すいません」とか「いいんですか?」とか言ってしまっていたように思う。けれど、それは相手のせっかくの好意にどこか水を差す言葉だったのではないだろうか。。。

長年染み付いたクセはそうそう変わらないだろうけれど、これからは何か人から好意を受けたら、まず「ありがとう」、「嬉しい」といえるように努力しよう。
こんな歳になって、今頃そんなことに気づいた。

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2006年7月20日 (木)

立て続けにど~でもいいネタ。

忙しいなら仕事しろという神の声が聞こえてきそうな気がしますが、でもでも、どうにも気になったのでちょっと書いてしまうのでありました。

明日から夏休みで早起きモードにシフトしないといけないのですが、普段は晩ご飯が0時前後のため、食べてすぐ寝ると太るし、とりあえず食後3時間。。。と気づけば3時、4時、そんな日々を過ごしているもので、今日はとりあえず何か食べようと、買い物に出て教室で晩ご飯を済ませました。

で、お弁当を買ったのですが、それだけじゃ体によくないかなとあるメーカーの黒酢飲料を購入しました。

原材料には黒酢のほかに「りんご果汁」とも書いてあるのに、おまけにほかにも色んなものが入っているのに。。。熱量表示は。。。

「0キロカロリー」

!!!
どうしてよ~~~!!

以前「食品の裏側」も読んだりしたこともあり、なんか、かえって不健康になった気分です。(苦笑)

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今日の3歳ちゃん。

なんだかもう明日から夏休みだなんて焦りますが、例によって夏期講習があるわけでもないので、普段より少し忙しいぐらいの日々になるのではないかと思います。(早起きしなきゃいけないのだけが非常に不安ですが。。。)

で、まだまだすることがいっぱいなので、今日は可愛いけどど~でもいいお話。

木曜は可愛い可愛い3歳ちゃんのレッスンがある日。しかし、この彼女はどう見ても本当にしっかりしているし、3歳とは思えないのですが、恐ろしいことに(?)、既に女心ってものも理解して気遣いを見せてくれています。

というのも、実は彼女、ときどき私のことを呼び間違えることがあるのです。
もちろん、間違えないときは「先生」と呼んでくれるのですが、間違える確率の方がやや高め。

で、なんて呼び間違えると思います?彼女、なかなかやりますよ。
想像して頂けました?








「ねぇ、お姉さん。」

今日も3、4回そう呼んで頂きました。
なんていい子なんでしょう。(笑)

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2006年7月19日 (水)

一体なぜだ?

一緒にレッスンしている高学年の男の子で、目に余る頻度で答えの単位を書き忘れたり、きちんと確かめずに違った単位を書いて平気でいる子がいる。

その子の頻度は本当に半端じゃないので、どうにかせねばと思いつつ、名案も思いつかないので、もったいないだの、今度忘れたら宿題を増やすだの、1つ忘れるごとに5分延長するだの、色々言ってみるのだが、まあ、高学年になるまでそれで積み重ねてきたのであろう彼は、そう簡単には変わらない。

今日もまた、計算はほとんど合っているのに、単位がなかったり間違っていたりで、ワークの宿題4ページのうち2ページ近くが×や△になった。

「なあ、せっかくできてるのに、そんなとこで落としたらもったいないで?テストで点なくなってまうよ?」

そう言ったとき、彼はあっさりと答えた。

「大丈夫。テストは全部単位書いてあるから。」

。。。。。。。。。。。。。。。

そういえば、春に卒業した中3の子も時々単位を忘れて、注意すると「テストには全部解答用紙に単位が印刷されている」と答えていたのを思い出した。

どうやら、それはごく限られたことではなく、広くは模試などでも単位が書かれている解答用紙があることを思い出した。

一体なぜだ?

私の軽い脳みそで考えるに、採点の際、単位まで見る手間を省くという理由以外、特に思いつく理由がない。
もし何かもっと納得のいく理由があるのなら教えてほしいものだが、どちらにしても、子ども自身に単位を書かせないということは、単位の書き間違い、書き忘れで×をもらうことがないということだ。
それは必然的に単位を軽く扱う、問題を適当に読むということに繋がっていくのではないのか?

そもそも、単位とは大きさや長さ、量などを共通理解するために必要だから作られたもののはずだ。
問題に「花だんが」とか「土地が」と書いてあるのに、答えの単位が平方センチメートルで表されることはあまりないだろう。また、時速の単位がセンチメートル毎時であることも、まあ滅多にあることではないはずだ。

そういう感覚を養うことは本来とてもとても大切なことのはずなのに、小学校や中学校の段階で解答用紙に単位を書かせないというのは一体なぜだ?

その理由がいくら考えてもわからない。

単位なんてどうでもいいってことなんだろうか?
その単位が苦手な子どもがどれだけいることだろう。

面積の問題や体積の問題で、わざとメートルとセンチを混在させたりしてひっかける問題など、単位に意識が及ばない限り正解などできるはずもない。であれば、解答用紙に自らきちんと単位を書かせ、間違ったときには×をもらう経験は不可欠なんじゃないのか?

誰か、解答用紙に事前に単位を書いてあることについて、納得いく理由がお分かりの方がおられたら、是非お教え願いたい。

その理由がないのであれば、お願いだから、小学校や中学校のテストでも必ず自ら単位を書かせるようにお願いしたい。
心からそう思う。

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2006年7月18日 (火)

簡単な方法・難しい方法

先日、ある女の子とのレッスンで、彼女が私にとっては極めて不思議な作業をしているのを見つけた。

彼女とは春から一緒にレッスンするようになったのだが、それまではプリント反復塾に行っていたらしい。とても可愛くて一所懸命な子なのだが、頭の柔軟さという点では少し気になるところがある。
その子とは、最初にお母さんとお話をして、復習も兼ねて教材の初めの方からひと通りやろうということになっていたため、学校で既にある程度学習済みの「長さ」のところを一緒にレッスンしていたときのことである。

長さが5つ書かれていて、それを長い順に番号を打つ問題をやっていたとき、彼女が私に尋ねた。

「1メートルって何ミリ?」

なんだか意外な質問だったので、この問題を解くのになんでそんな、ことを考える必要があるのだろう?と思いながら、もう一度プリントを見ると、「4cm5mm、47mm、1m、4cm6mm、6cm2mm」というような感じの問題に小さな文字で「45、47、・・・、46、62」と、1mの上だけ空けて4つの数字が書かれていた。

当然お分かりだろう。彼女は全てを「mm」の単位に直そうとしていたのだ。
誰がどう考えても1mが明らかに突出して長いにも関わらず、そんなことには全く考えが及んでいないようで、その結果がさっきの質問だったのだ。

「1メートルをミリに直さなあかん?」

私がそう尋ねると、彼女の口からはこんな言葉が出た。

「だって、お母さんが小さい方に単位を揃えなさいって教えてくれたから。」

そこでまたハッとした。
そういえばそうだった。。。長らく忘れていた。。。確かに学校などでは単位は低い方(小さい方)に揃えるように習ったような気がする。ということは、賢いお母さんであれば、それを忠実に覚えていてお子さんにそう指導するのだなと。。。

それはお母さんが悪いわけじゃないし、もちろん彼女も何も悪くない。おまけに、仮にそれが無駄な作業であろうとも、1メートルをミリに直したら、一目瞭然、それがダントツに長いことがわかるのは事実だ。だから、その方法が間違いだということはできない。

しかし、伊藤先生に出会ってから頂いたご指導の中に、「単位は大きな方から見る」というものがあり、実際、大きな方に揃えようとすれば、数は小さくなり、計算だって楽になるのだ。

大きな方を意識するようになれば、例えば先ほどのような問題であれば、メートルの単位に届いているものがあるかどうかを見る。すると、1mだけが届いているとわかるので、それが1番である。次はセンチになる部分だけに目をやる。すると「4、4、4、6」となるので、その中では6が一番長いことがわかる。つまり2番だ。
残りは全てセンチは「4」なのだから、ここで初めてミリの部分に目をやればよくなる。あとは見間違い、書き間違いさえしない限り、極めて簡単な問題だ。

これは量の問題に限らず、数の大きさ比べをするときでも同じことで、数であれば、きっとほとんどの子が特に意識もせず上の位から見ているのではないかと思う。

例えば、「2456、3257、2557、4252、879」こんな5つの数があったとしよう。
もしこれを1の位から見ていくような子どもがいたら、この問題は途端に難問になってしまうことだろう。
けれど、千の位から見ていけば簡単なものだ。

数であれば大きな方から見ていくし、その方が簡単なのに、単位になると全てを揃えなければという発想が出てきて、揃えるためには小さい単位に揃えなくてはならず、気づけば数が大きくなってややっこしくなっていくのだ。
結果的に「量」に関わる単位換算の問題が苦手になる子が多いのもますます頷ける。

ただ、やはり根本的な問題は長さや重さ、かさなどが実感できているか、イメージできているかというところに行き着くのだとは思うが、例えば「2532ml」を見て、リットルマスが2個、デシリットルマスが5個、残りが32ミリリットルといった具合に捕らえられる子にとっては、仮に「2532ml-1l(リットル)6dl40ml」なんていう問題があったとしても、まずリットルマスが1個なくなって、次にデシリットルマスは5個しかないけど6個取らなきゃいけないから、リットルマスから1個分とったら残りがデシリットルマス9個。32ミリリットルから40ミリリットルをとろうとしてもあと8ミリリットルとれないから、デシリットルマス1個からとるので、デシリットルマスが8個と残りが92ミリリットル・・・。そんな風に頭の中だけでも考えることが可能だ。

しかし、最初からミリリットルに揃えたら、あとは機械的に筆算をするぐらいで、量をイメージしなくたって答えは出せる。ただ、それがどんな量なのか頭に思い浮かべることはないから、答えが間違っていても気づかないことも少なくない。それに、4桁-4桁だから、算数が得意な子でなければ、頭の中だけで計算するのはちょっと難しいだろう。

まあ、考えようによったら、やり方を覚えて単位を揃えれば、筆算すれば答えが出るんだからいいじゃないという意見もあるだろう。もちろん、そういう意見の方にむきになって反論するつもりもないし、それもひとつの価値観だと思う。

ただ、私は関わる子ども達を「イメージできないで、機械的操作だけで答えを出す」ような子どもにしたいとは思わないだけだ。
また、暗記しただけの単位換算は往々にして忘れやすく、子ども達は何度も尋ねるのだ、「1キログラムって100グラム?」「100ミリリットルは1リットル?」という具合に。だからこそやはり「実感すること」が大事なのだ。

伊藤先生がおっしゃったことで妙に納得したことがある。学校での指導は一般に学力がバラバラの子達をまとめて30人なり見なければならない上、学力が低い子でも理解できる方法を選択するしかないのだと言われれば、多くの方が納得されるのではないだろうか。
そのため結局、暗記であるとか、なるべく頭を使わなくていい方法であるとか、細かく細かく部分に分けた一部分だけを提示するとかそういう方向へ行かざるを得ない面はやむを得ない気がする。ただ、その方法が優れているとはいえない場合が少なからずあるということを心に留めておいてほしいと思う。

ちょっといただけない喩えだが、伊藤先生の強烈に印象に残る言葉がある。
人間を手だけ、足だけと部分に分けて、それを全部合わせたら人間になるかといえば、それはバラバラ死体だと。
そういえば、何かで読んだことがある。目の見えない人たちが象に触って、ある人は長い鼻の部分を、ある人は太い足の部分を、ある人は細いしっぽを・・・そんな風に一部だけを触り、「これが象ですよ」というと、みんな実際の象とは全く異なるものを思い描くというようなお話。

要するに、何かを指導するときにも、まず全体像を見せ、全体の中の一部分がここなのだという風に持っていかなければ、部分を集めて全体を捉えることは困難だということを先生はおっしゃっていた。

細かく分けるのではなく、全体から、大きな方から見る。
それを意識することは、算数を苦手にさせないひとつのヒントかもしれない。

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2006年7月17日 (月)

ちょっとわくわく。

教室の満3歳を迎えたときにちらっと書きましたが、最近縁あってパズル問題をあれこれ考えています。

もともと、教室の子達にはパズルではなく、必要な教材を作ることはありましたが、何しろ毎日バタバタしていたり、こんなのがあったらいいのになと思っても、教室の子にすぐ使う予定がないものであれば先延ばしにしたまま忘れたりと、思ったほど形になることはありませんでした。

それに、ひとりで考えていると結局は自己満足に陥って、自分ではいいと思っていても、実際はイマイチだったり、使えなかったりなんてことも出てくるような気もするので、あれこれ言い訳を作ってはのらりくらりと過ごしてきたわけです。

ですが、ブログがご縁でりんご先生とお知り合いになり、何か思い浮かんだら、「こんなのどうですかね?」と意見を聞ける存在ができました。りんご先生はパズルや迷路に関しては私なんかよりずっと前から沢山見て、沢山考えて、実際に教室の生徒さんたちにもやらせてきておられますから、自分では気づいていないような意見を言ってもらえたり、中には「それいいんじゃない?」と共感してもらえたりと、これまでひとりでぼんやり考えていたより遥かにわくわくしています。

教室で使っている教材は主対象が3、4年生ぐらいまでなため、高学年で出てくる割合や速さ、分数や小数など、もっと実感したり、あれこれ試行錯誤できるような問題がほしいなぁと思っていたのですが、ちょっとやる気が湧いてきました。

まあ、私の場合、凝り性で飽き性という困った面もあるため、やるぞ~!って思っているときに一気にやらないといけないのが問題なんですけども。(苦笑)

しかし、昔っからあれこれどうでもいいことを考え続けるのがクセだったりして、学生時代には好きだった人に「哲学者みたいやなぁ」とまで言われたことがある私ですが、やっぱりあれこれ考えるのは楽しいものです。ま、大抵はど~でもいいようなことなんですけども。(笑)

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陽気な家系?

うちの母上は基本的にとても陽気な人だ。

で、どうやらそれは家系なのか、うちの母の妹である叔母も非常に陽気だ。
今日実家に行っていたとき、叔母から電話がかかってきて、ちょっとお酒の入ったいい気分であるらしい叔母から出題されたなぞなぞ。。。

「ふくろう村に信号機が立ちました。青で渡るのはアオムシさん。黄色で渡るのはコガネムシさん。では、赤で渡るのは何ムシさんでしょう?」

非常に得意気に出題する叔母。。。即答していいものだろうか。。。
さて、皆様、もちろん答えはおわかりですよね?(笑)

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2006年7月16日 (日)

ジダンについてひとりであれこれ考えること

休日なので、昨日消えてしまったネタのショックからもまだ回復しきっていないため、ちょっと気楽に、あれこれ考えたことなど。

まずは、最終的にどうなるかわからないけれど、ジダンの話題。
どう考えても、あの状況で、あの試合がフランスにとってもジダン自身にとっても、どれだけ大切なものだったかを考えると、ジダンにとってとにかく、それを投げ打ってでも我慢しがたい屈辱や怒りを感じたことは間違いないだろう。

ずっとプレーしてきたのだから、試合中の挑発やからかいなんてものはきっといくらでもあっただろうし、そのたびに頭突きを食らわしていたはずもないのだから、きっと彼にとって耐え難い、絶対触れてはならない部分に触れられたであろうことは想像に難くない。

で、結局FIFAだかなんだかも動き出し、マテラッツィが早々に弁明をしたようで、少なくともジダンの姉に対する暴言を吐いたのは本当のようだ。

きっと、全ての事実が明らかになったとしても、ジダンの行為に対する意見は分かれるだろう。物事には常に2面性があるものだから。
実際、国民性や個人の性格にもよるところもあるだろうし、全く同じことを別の選手に言ったからといって、その選手が同様の行動をとったかといえば、その可能性はそう高くないようにも思う。

けれど、あの頭突きで証明されたことは、ジダンにとってはサッカーよりも何よりもまず、自分の家族が大事だったということだろう。仮に試合中にあの行動をとらなかったとして、試合が済んだ後にマテラッツィを殴ったりすれば、それこそ別の大問題になるだろうし、実際、マテラッツィはそんなに深く考えて言ったことでもないのだろう。

まあ、どちらのことも直接何も知らないので、全て推測でしかないが、まあ言ってみれば、子どもが「や~い、お前の母さん出ベソ!」みたいにいうノリで、彼は言ったのかもしれない。
だとすれば、それを真に受けたジダンがバカだということにもなるかもしれないが、愛するものを侮辱されたら絶対許さないという強い思いを常に抱いている人間にとっては、黙って聞き流すことはできなかったのだろう。

ジダンが素敵だと思うのは、自分の行動を反省はしているけれど、後悔はしていないと言っているらしいことだ。世界中の子ども達に謝りたいと言いつつ、それでも自分の気持ちを貫いて、抗議を「頭突き」という行動で表したことは悔いていないという彼を、私は好きだなぁと思う。

サッカーは紳士のスポーツで、だから暴力なんて振るったら即退場って訳なのだろうけれど、じゃあ、低俗なからかいや侮辱の言葉を相手にぶつける行為は「紳士」の行為として許されるのか?という疑問も残る。まあ、多分。。。深く考えずに言ったのだろうけれど。。。

もし私がジダンの姉で、試合中に自分を侮辱することを言われ、弟があの行動をとったと知ったら、きっと感激する気がする。もちろん暴力はいけないのだが、個人的には、殴ったのではなく「頭突き」だったのが、うまくいえないが、抑えても抑え切れなかった感じがするというか、あそこで殴ったりするよりはずっと許せる気がしたのだ。

多分本人は剥奪されてもいいと思っているかもしれないが、ジダンのMVPが剥奪されないことを願っている。

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2006年7月15日 (土)

ぎゃぁ~~~~!!

かなり長編の文を書き終えたはずなのに。。。全て消えました。。。
一気に週末の疲れが。。。

あの文をもう一度書ける自信がありません。。。(泣)
元気が出たら書きます。。。

7月ももう半分が過ぎましたね。今月は特に早い気がします。
皆様よい休日を。

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2006年7月14日 (金)

お金をさわらせよう

以前書いたことがあるように思うが、実は私は子どもの頃にちょっとおかしな趣味があった。
子どもの頃からあまり物欲がない方だったので、親に何かを買ってとねだることもなかったし、プレゼントをもらうのはお誕生日とクリスマスとお年玉と決まっていて、それにも不満はなかった。

なので、お金がほしかったとかいうことではないように思うし、実際、さわっていても「ほしいなぁ」とか「いいなぁ、これだけあったら。。。」というような感覚は全く持たなかったようにも思う。

それでも私はたびたび、母のいないときに母のお財布を取り出し、小銭だけをテーブルの上に広げて、全部でいくらあるのかを数えるのが好きだった。

1円玉、5円玉、10円玉、100円玉とグループに分け(まだ500円玉はなかった。)それぞれ何枚あるかを数え、10円玉がたくさんある場合は10枚ずつ積み重ね、10枚で100円という風にして、合計金額を出しては、満足してお財布に戻すなんてことを、どのぐらいの頻度だったかは覚えていないが、少なからず繰り返していた。

時々母に見つかることもあったが、勝手にお財布をさわっていたことに対して最初は叱られたものの、お金をとる気がないということもわかり、その後は母も多分黙認してくれていたように思う。

誰かが答え合わせをしてくれたわけではないので、その合計が合っているかさえ定かではないわけだが、なぜかその作業が楽しくて、何度もやったことを今でも覚えているのだ。

ただ、今になって思えば、あれはあれで大変役に立ったのではないかと思っている。
当然そんなことは全く意識もしていなかったが、1円が10枚集まれば10円になり、10円が10枚集まれば100円、100円が10枚なら1000円になるという風に、知らず知らずのうちに繰り上がりや10倍などの感覚を身につけていたように思うのだ。

私はそこまではやらなかったような気がするし、仮にやろうとしたって、母の財布に1000円札が10枚以上、1万円札が10枚以上なんて、まず入っていることはなかったし、結局繰り上がりの学習には直結しなかったけれど、そのあたりまでやっていれば、絶対算数で役に立つのではないかと最近しみじみ思っている。

以前にも少し書いた気がするが、例えば、「50×6」などの計算でも、ただの数字だと全く手が出なかったり、わざわざ筆算を書いたりするような子に、「50円のお菓子6個買ったらいくら?」と尋ねると、難なく「300円」と答えたりするような例は少なくない。

何かに100をかけるとか、1000に何かをかけるとか、そんな計算でも、放っておくと筆算をする子がかなりいるのだが(特に高学年になってから来てくれているような子達は殆どみんなそんな感じ。)、100円がいくつとか1000円が何枚と言い換えてやれば、大抵は即答するのだ。

もともと、数というのは抽象概念だ。例えば、ひらがなひと文字だけを取り出しても意味がないように、「2」といわれても、「2」というものは存在しないのだ。

ただ単に、経験として「2」と言われれば、おはじきが2個だったり、飴玉が2個だったり、犬が2匹だったり、折り紙が2枚だったり、鉛筆が2本だったり・・・と何らかのイメージが蓄積され、その結果「2」という形のないものを捕らえているに過ぎない。

結局それは幼い頃から色々なものに触れ、経験を重ねたことによって獲得されたものであって、何も見せず、何も触れさせず、ほったらかしにしていて勝手に数を身につけるなんてことはそうそうあることではない。

殆どの子どもは10までの数は簡単に捕らえることができるようになる。それはおそらく、手の指が10本だからではないだろうか。困ったときには数えればいい。指を折って数えることを繰り返し、そのうち指を見るだけでわかるようになり、最終的には手を使わなくても、その指を頭にイメージできるようになるのだろう。

また、教室では更にそれを玉やドットの描かれた紙などを使って、10、100、1000などをイメージできるようにしていくわけだが、ドットで1000や10000などを見せるとなると、それはそれで結構大変なことだし、家庭でそれだけのものを用意して見せるのはほぼ不可能だ。

けれど、お金であれば、1000だって10000だって簡単に見せられる。100だって、決して大きな数ではないのだ。100円玉が10枚で1000円になることがわかっていれば、「100×25」などの計算だって100円玉10枚重ねたものが2つあって、残りが5枚。それさえイメージできれば「2500」とすぐ答えられるようになるはずだ。

これは割り算にだってもちろん使える。何かを100や1000で割るときには、100円が何個になるか、1000円が何枚になるかさえわかればいいのだ。

ご家庭によっては子どもにお金はさわらせないというところもおありのようだが、大きな数でもイメージしやすい手軽なものの筆頭に上げられるのではないかとさえ思う。

もし可能であれば、1000円札もなるべくたくさん用意しさわらせてあげられたらいいのだろうけど、さすがにそれは大変ということであれば、おもちゃのお札でも、手書きのお札でも構わないだろう。

お店屋さんごっこや両替ごっこなどを、お子さんが小さいうちからおうちの方が一緒にやってあげれば、少なからず算数の助けになるのではないかと、この頃の子ども達を見ながら、改めてしみじみ思っている。

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2006年7月13日 (木)

ココログ復活?

長らく不調で、不具合に関するブログまで設置され、そこでかなり不満蓄積したユーザーの皆さんが全うだけど読んでいると気が重くなるコメントを並べ。。。

正直言ってニフティの対応には納得いかない部分が色々あるものの、プロバイダを乗り換えたり、サイトやブログを引っ越して作り直すとなるとこれがまた大変な作業になるのは明白ですし、かなり悩んでいました。

大規模メンテだったようで、今度こそこれで状況がよくなるのだと信じたいのですが、さて、どうなりますやら。

で、仕事とは直接関係ないのですが、以前から思っていたことがあります。
日本最大級プロバイダのヤフー。ヤフーといえば、最近は殆ど見かけなくなったものの、街頭で無料でプレゼントしますってモデムを配ってましたよね。
あれを見ながら、あんなので一体どれだけ固定客になるんだろう?って思っていました。

しかし、実は私自身、仕事用のパソコンの買い替えにあたり、まだネットができるようにしていなかったので、同時にどこかに加入しようと思っていたのですが、そのとき、ヤフーに同時加入すればパソコンが更に安くなるという条件だったのです。

初期費用は全く不要で3ヶ月使え、その間に解約してもOKという条件。それでパソコン本体の値段が安くなるなら、とりあえず加入して、期間内によそに乗り換えればいいやと思っていたわけです。(以前、大規模な情報流出などもあって、あまり印象がよくなかったので。)

ですが、結局、無料期間を過ぎても乗り換えることなく未だに加入したまま。理由は、よそに乗り換えたら、またあの面倒なモデムの接続やセットアップを全てし直さなければならないので、それが億劫であるということ。

結局、私のような人は決して少なくないんだろうなと。
特に、インターネットでホームページやブログまで作ってしまった後でよそに乗り換えるとなると、その億劫さは遥かに大きくなるでしょう。

今更ながら、すごい作戦(?)だなぁと思うのでありました。
だって、実際、もし物販などの商売でニフティの今回のような対応をしたら、あっという間に顧客は離れていくだろうと思いますから。更に、私はそういうことには結構うるさい方なんじゃないかと思うので、本当ならちゃんと意見を伝えて、それでも全く納得いく説明がされず、それに対する改善も見られなければ、間違いなく見切りますから。けど、結局今回はできていない。

プロバイダって、なんかすごい気がします。
私は経営とか商売とかってホントちっともわかってませんが、何かのヒントがそこにあるような気がします。

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2006年7月12日 (水)

わらしべ長者?

こんなニュースを見つけた。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0607/10/news055.html

実際のサイトも見に行ったけど、残念ながら英語力は中学生以下まで落ちている自信ありの私。。。
どんな展開でこういう交換が成立したのか知りたいけど、まあ、こんなことをやろうと思った発想力がモノを言ったってことなんだろうなぁと。

赤いクリップ1個と何かを交換してあげようと思った人たちは、なんとしても赤いクリップがほしかったわけじゃないのは間違いないだろう。そもそも、交換という手間をかけるのなら、さっさと近所の店で買えばいい。店がなければ近所の人からだってもらえるかもしれない。

ただ、このアイディアにのって「よし、じゃあ俺はこれと交換してやるよ」みたいな感じなんじゃないかと。(何しろ原文が読めていないのであくまでも推測なわけですが。)

まあ、お国柄とかもあるかもなので、日本でこれを今誰かがやったところですんなりゴールに辿り着けるかどうかはわかりませんが、もともとは日本の昔話にあるぐらいなのですから、「家」とまではいかなくてもある程度何かと交換してくれる人はいるのかもしれませんね。

アイディアや目のつけどころがいかに大事かってことを改めて感じたニュースでした。

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2006年7月11日 (火)

真剣な顔

最近ココログの調子が尋常じゃなく悪いため、書こうと思っていたことを忘れてしまったり、またにしようと思ってそのままになったりしています。

今はまだなんとか瀕死の状態ながらも更新できるようなので、とりあえず更新。
11日から13日までメンテで書けないようなので、12日はアメブロで更新の予定です。
因みにアメブロはこちら。(過去の記事は全て同じものです。)

http://ameblo.jp/willseeds/

で、この前から書こうと思っていたお話。

先日また泣かせてしまった高学年の男の子。これまでも泣かせた次のレッスンにはいつも通りの笑顔で、いつも以上に宿題も頑張ってきてくれていたのだけど、今回はさすがに3回目の涙だったし、お母さんのお話でも本人も悩んでいるとのことだったので、どんな風に登場するか心配していた。

けれど、もしかすると彼なりの気遣いなのかもしれないが、今回もいつも通りの笑顔で、そして宿題も結構しっかり頑張ってやってきてくれていた。
この前のことには触れず、いつも通りにレッスンを進めていたのだが、レッスン中ふと気づくと彼がとてもいい顔をしていた。

もともと、来てくれた当初は算数だけでなく、パズル問題でも粘って考えるということができなくて、「ヒントちょうだい」とか「こんなん難しくてわからへんわ」とか、とにかくすぐに弱音を吐いていた彼。

今日は算数の問題でも、まず考えてみてと言ったところ、例題は読んで自分なりに答えに辿り着き、その類題を解くときには私が何も言わないのに、さっき解いた問題を見ながら規則を発見しようとしている。

時間内にやりたかったことがほぼ終わり、新しいところに進むには半端な時間しか残っていなかったので、以前どうしても答えに辿り着くことができないまま残してあったパズル問題を考えさせることにした。

実はその問題は教室で使っているパズル問題の中でもとにかく試行錯誤をして、宮本先生的表現では「腕力」で解く部分が大きい問題なのだ。実際、他のパズルは大抵、論理的に考えて詰めながら正解に辿り着くことができるが、そのパズルだけは教室を立ち上げた頃私も全ての問題を解いてみたものの、どうしても数問解けないままになっていて、2年後ぐらいに思い出して改めて解いたら解けるようになったというような代物である。

2年の間にどうやら私の頭も進化したらしく、初めの頃には思いつけなかった考え方なども思いつき、純粋な「腕力」問題ではなく、ある程度までは論理的に詰めることも可能なのだともわかった。
ただ、私自身、それは教えられて気づいた訳ではないし、彼らにもいつか自分自身でそれを発見してもらえたらとも思っていたので、「いつか解いてもらう」と言って預かっていたのだ。

それを差し出したとき、もっと抵抗するかと思ったが、予想より遥かに軽い抵抗を示しただけで問題に取り組み始めた。ぶつぶつ文句は言っているものの、顔つきが真剣だ。以前それをやったのはもう3、4ヶ月も前のことだから、考え方の手がかりさえ忘れていて、本当に「腕力勝負」で解くのかもしれないなと思いながらも、黙って様子を見ていた。

すると、ぶつぶつは言うけれど、見ていると何ヶ月も前に私が少しだけ言った考え方のヒントを彼はちゃんと覚えているようだ。腕力といえば腕力だが、やみくもに何も考えずにやっているのとは違うことが見て取れた。

この真剣な顔を写真に撮って、彼自身に見せてあげたいと思うほど、とてもカッコいい顔をしている。
そして、彼自身、まだ気づいていないようだが、彼は間違いなく彼自身の頭を使って「考えている」のだ。もしかすると、「算数」と思うと、長年培ってきた条件反射で機械的に解こうとしてしまうのかもしれないが、こうやってちゃんと考えられるようになってきているのなら、多分本当にあとひと息なんじゃないかと思う。

この夏休みが勝負だ。
この夏休みに彼自身が自分の変化に気づけなければ、彼は私のところから去っていくかもしれない。
私にとっても正念場。やるだけのことはやったと思える夏にしたい。

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2006年7月10日 (月)

天才たる所以?(どうでもいいネタ)

月曜はもともと振替などのために固定のレッスンを入れていないこともあり、まあいいかとついついワールドカップ決勝を朝までライブで観戦。

もともと日本以外の国は応援していないし、思い入れもないので、テレビはつけてはいたものの、部屋の片づけをしたり、パソコンを触ったりしながら、緊張する場面だけは手を止めてという感じで見ていた。

スポーツニュースやらで聞いたことのある名前はイタリアにもフランスにも大勢いたが、実際顔と名前が一致する人は数少ない。けど、フランスのジダンがこの大会で再び引退するということは少し前に聞いていたし、また彼が天才的プレイヤーであることもテレビを通じて知った。

確かにテレビに映し出される彼のプレーはまるでボールに彼の意思が伝わっているかのように自在に操り、軽やかに駆けていた。一種の芸術だなと思いながら眺めていた。

決勝は開始から間もなくジダンの見事なシュートが決まった。その前のシュートは外れたものの、彼の技術の凄さを見せ付けるには十分だった。

その後イタリアが追いつき、1-1のまま延長戦へ。こういう試合だとどちらも勝たせてあげたくなる。少なくとも「誰かのミス」という形での決着だけはないようにといつも願ってしまう。

しかし、延長後半、目を疑うようなことが起きた。

その前にイタリアの選手がジダンの背中から胸に手を回し、何か言ったようにも見えたが、離れて歩き出したと思った次の瞬間、彼は振り返り、イタリアの選手の方へ歩み寄ったかと思ったら、あごの辺りに勢いよく頭突きをくらわせた。

は?今のは何?

そう思った次のシーンは、主審が駆け寄ってきてジダンに向かってレッドカードを出したのだ。

正直言って考えられない。
彼はこの大会を最後に引退するのだ。これが本当の本当に自分の最後の試合だ。勝てばワールドカップ優勝で引退の花道を盛大に飾れる。残り時間はもう僅かなのだ。

一体何を言われたのか、何をされたのかわからない。自分の選手生活の最後を、どう考えても一発退場になるのがわかっていながら、それでも相手選手に頭突きをした、あのときのジダンの気持ちがどうしてもわからないのだ。

天才が天才たる所以なんだろうか。。。

その瞬間、フランスチームが沈んだのは間違いない。
けれど、こんな形で勝負がつくのだけは他の選手にとっても悲しすぎるから、どうにかこのまま引き分けてほしい、最後まで粘ってほしいと願った。そして、その願いは叶った。

ただ、勝手なものだが、個人的に「PK戦での決着」は好きではない。蹴る選手にもキーパーにもあまりにもストレスがかかるからだ。
自分が失敗したせいで負けたら、それも決勝の大舞台で自分のミスで負けたなんてことになったら、その選手にとってそれはいくら悔いても悔やみ切れないほどのことになってしまう気がするし、けれど、止められたかもしれないシュートを止められずに負けたらやはりキーパーがずっと悔やむ気がするからだ。
やはり勝負は試合中にどちらかの気持ちのいいシュートで結果が出てほしいと思うのだ。

まあ、しかし、こればっかりはどうしようもなく、願わくば蹴るのを失敗して勝負が決まるのではなく、どちらかのキーパーがファインセーブをして決することを願ったが、それは残念ながら叶わなかった。
勝負事に「もしも」はあり得ないが、もしもジダンがシュートできていたら、お互い5-5になって、更にPKが延長されていたかもしれない。本当にどうなっていたかわからない。全てはジダン本人が犯した一瞬のあり得ない行動で終わってしまったように思う。

それでもジダンは今大会の最優秀選手に選ばれたようだ。

やはり天才はどこまで行っても天才ということだろうか。

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2006年7月 9日 (日)

ホントご勘弁。。。(泣)

すいません、愚痴で。。。
けど、ココログ酷すぎます。。。

仕事のブログは一応有料サービスのブログを使っているのです。なのに、もう何日も何日も管理画面にアクセスするのに、何度も何度もトライして、エラーが出て、諦めずにトライしてやっとどうにかアクセスできるとか、深夜、普通の人には「深夜」という表現を通り越しているぐらいの時間にやっとまともに使えるようになるとか、そんなことが続いています。

それらの解消のために11日から丸2日がかりでメンテをする予定のようですが、フリーのブログならともかく、有料サービス、おまけに@niftyといえば、国内有名大手プロバイダのひとつなんじゃないんですかね?それがこれでしょ。。。
せっかく書こうと思ってたことを忘れたり、その日のうちに更新できなかったり、非常にモチベーションが下がります。。。

広告とかを載せたくないっていうのもあってココログにしてるんですけど、これはちょっと真剣に考えなきゃいけないのかもしれません。。。とりあえず13日まで騙し騙し様子を見て、その後改善されなかったら引越しを考えます。

ブログの更新が滞ったなと思ったら、多分アクセスができてないんだと思って、教室のサイトの掲示板でも覗いてやってください。何か書いているかもしれませんので。

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2006年7月 8日 (土)

厳しくするということ

以前、宮本哲也先生の本を読んでから、ずっとすごいなぁと思っていることがある。
憧れているわけではないし、どう頑張ったって私は宮本先生のようにはなれないから(能力的なものももちろんだけど、タイプ的にも。)目指しているというわけでもない。

けれど、本当にすごいなぁと思うことが特に2つある。
ひとつはもちろん、あれだけ多種多様な問題をご自分で作成し続けられるということ。
そしてもうひとつは著書に書かれていたことがそのまま事実なのだとしたら、子どもに対してあそこまで徹底して厳しく接することができるということだ。

厳しくすることは実はかなり大変なことなのではないかと私は思っている。
もちろん、宮本先生が子どものことが嫌いで、だから酷い態度をとっているというのであれば話は別だが、本を読む限り、先生は恐らくとてもとても子ども達のことを大切に思っているのだ。それなのに、そこまで徹底して厳しくできるのは、間違いなく強い、そして完璧な方なのだろうと思う。

というのも、そもそも好きな人に対して優しくするのは簡単なことで、そこで敢えて突き放して厳しくするのは、本当に本当に強い愛情がなければできないのではないかと思う。
特に、塾なんてのは一種のサービス業でもあるわけで、子どもはお客様だといえなくもないわけだ。その子どもに「厳しさは愛情だ」と言ったところで、小学生ぐらいにはそうそうわかるものでもないだろう。とすると、それがイヤで辞めていく子もいるだろうし、子どもに嫌われることだってあるに違いない。それでも揺るぎなくその姿勢を貫けるのは、並大抵の精神力ではないように思える。

更に、ここが何より一番すごいと思うのは、その姿勢を貫き続けることができていることだ。
というのも、わかりやすい例で言おう。例えば、子どもが何かいけないことをして、それに対して厳しく叱ったとしよう。「なんでちゃんとやらないんだ!しっかりしろ!!」とかなんとか怒鳴った後、例えば自分が作った問題にミスがあったとする。怒った直後に子どもが言うのだ。「先生、この問題間違ってます。」そのとき、恐らく大抵の大人はさっき怒った手前、素直に認めて詫びるのも難しく、適当にごまかすか、屁理屈をこねて子どもを言い負かす場合だってあるだろうし、そうじゃなくても心からの謝罪はしにくいものだ。

けれど、そのときにどんな態度をとろうとも、子どもは思うはずだ。
(なんだよ、先生。偉そうに説教しときながら、自分だって間違ってるじゃないか。)

そんなことが何度か続けば、間違いなく先生は子どもからの信頼を失う。
例えば、宮本先生は子どもが解いたパズルや問題に対して、マルか没かのどちらかしか言わないというようなことが書いてあったけれど、パズル問題は本当に気をつけて作らないと、答えが複数存在する場合がある。それを一瞥しただけで即判断し、おまけに「没」と言い放った答えがもしも合っていたりしたら、確実に先生は立場を失うはずだ。
それでも先生はずっと厳しい姿勢を貫いておられるようだ。つまり、うっかりミスをしないということなのだろう。
それは本当に、私からすると信じがたいほど偉大なことだ。

一貫して厳しい態度で接することができる先生はやはりすごいとしか言いようがないと思うのである。

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自分が忘れそうなので。。。

あり得ない。。。
このところのココログの不調さったら、我慢の限度を超えている感じ。
夜更新しようと思ったら、更新画面を開くだけで何度もトライし、エラーが出、時間帯によっては小一時間そんなことをしてしまう。。。

で、ここに来て、来週11日14時から13日14時、丸2日がかりでメンテナンスをするらしい。まあ、過去の例を見る限り、絶対延長されそうな気もするが、されなかったとしても12日は丸1日一切書き込み画面に入ることができない。。。

という訳で、来週のその期間、更新がガタガタになる可能性がありますが、どうぞ宜しくご理解のほど。。。本気でどこかに引っ越そうかしら。。。。。。(悩)

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2006年7月 7日 (金)

あれれ?

もともと私は子どもの頃から何の芸もできないし、意識して笑いを取るとか、人前で演技するとか、そういうの全般が苦手で、本人的には昔っから、「面白みのないつまらないヤツ」だと思っている。

しかし、なぜかこれまでの人生で数え切れないほど「面白いですねぇ」、「楽しい人ですねぇ」と言われてきたのはなぜだろう。。。

そんなことをいうと、私のことをあまりご存知ない方には「天然なんじゃないですか?」なんて言われたこともあるが、残念ながらそれも絶対ない。(私をよく知っている友人なんかに聞けば、全否定されるに違いない。)
まあ、もちろん、「天然=癒し系」という図式が必ずしも成り立たず、「天然」でも「癒さない系」、もしくは「攻撃系」ってのがあるんだったら話は別だが。

で、一番多いパターンは、自分では思ったことを思ったまま、普通に口にしただけで笑われるというパターン。(それを天然って言うんだよという声が聞こえてきそうだけど、断固として違う。。。)

今日のレッスンでまたまたやってしまったようだ。いや、私は全くウケを取るつもりなんてなかったし、そもそも、おかしいことを言ったつもりは微塵もなかったんだが。。。

今日、年長くんと小2さんの姉弟ペアのレッスンを一緒に見ておられた可愛いママさんが、年長くんにいわゆる「フラッシュカード」なんて言われるようになっているカードを見せていたときにふとおっしゃった。(あ、因みに、私の教室では最大10までのカードしか見せませんし、見て瞬時に数を言えるようになるまで徹底して・・・なんてことはやりません。何のために使うかは、ご興味のある方には別途ご説明いたしますが。)

「ドッツカードっていうんですか?あれで点が50とかでもホントにわかるようになるんですか?お知り合いの方がね・・・」

レッスン中で子どもとのやりとりをしながらだったので、少し表現は違ったかもしれないが、そんなことをおっしゃった。
ドッツカードとは、点がいっぱい書かれたカードを高速で繰っていき、一瞬のうちに数を把握させるような教具のことだと思うが、そのようなものは有名な幼児教室や教材の中でもいくつか見受けられる。訓練をすれば、瞬時にかなりの数まで見分けられるようになったり、更に極めていくと透視能力まで開花することがあるなんて話も聞いたことがある。

きっとママさんは純粋に、すごいなぁ、ホントにそんなことってできるのかなぁ?と思って質問をされたのだろう。しかし、私はその質問を聞いた瞬間、

「できるようになるみたいですね。なんに使うんでしょうね?」

と、思ったままのことを答えた。
すると、予想もしなかった反応が。。。

「そ、そうですねぇ。そうですよねぇ。ははははは・・・・・。」

と、ママさん苦しそうに大ウケ。なぜウケるの?いや、だってそうでしょ?と、つい追い討ちを。。。

「だって、見てすぐ50ってわかっても、人生でまず使うことないですよね?」

「あははははは、ホントですよね。そうですよねぇ。あははははは・・・・。」

いや、ホントにほんとの素朴な疑問なんだってば。
そりゃ、そんな特技があれば、「すご~い!!」とかって言ってはもらえるかもしれないし、年末の紅白で野鳥の会の人に混じって瞬時に会場の人数を数えられたりするかもしれないけど、普通に生活していく上でどうも必要性を感じない。

それこそ、例えば子どもが誰か別の子に「俺、一瞬で50までの数が見分けられるんだぞ!」と自慢したとして、「ふ~ん、で、何に使うの?」って聞かれたら、その子はどう答えるんだろう?

まあ、私が不勉強なだけで、50まで瞬時に見分けられることによって得られる能力とかがあるのかもしれないけど、なんていうか、私は別にいらないな。だから、えらいともすごいとも思わない。

幼い子に必死で点の数が47個なのか50個なのか見分けられるようにする時間があるなら、もっと他のことをさせた方がいいような気がする。そんなことはないんだろうか??

あれだけ大ウケしたってことは、間違いなく予想外の答えを私が返したってことなんだろうけど、ママさんはあのとき、私にどんな答えを期待しておられたんだろう。。。う~ん。。。
笑われない答えをご存知の方、おられましたら何卒ご指導のほど。

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2006年7月 6日 (木)

スーパーは続く。

最近、だんだんとみんなのスーパーさに慣れてきて、「すごいなぁ」と思うことはあっても、バタバタしていると忘れてしまって、また次の「すごいなぁ」を目の当たりにし、そんな繰り返しになりつつあるのだけれど、今日の感動を、今日は覚えているので書いてみる。

教室立ち上げ当初に来てくれて、今は4年生になっているスーパーちゃんの弟くんは1年生。お姉ちゃんのことを見てきたお母さんが、彼には何にも「お勉強」はさせずに、とりあえずひらがなと数字は書けるようにだけしておくからとのことでお預かりした。

去年の晩秋やってきた彼は予告通りの状態で、ひらがなを読むのもまだたどたどしい状態だったので、年長のこの時期にこの状態の子というのはもしかしたら初めてかも、大丈夫かな。。。とほんの少し不安にもなった。

おまけに、彼が一緒にレッスンすることになっている子はやはりスーパーちゃんの妹なのだが、こちらは皆が認める「なんでもとてもよくできる子」なので、ますます不安だったのだ。

しかし、そんな不安はいつの間にか完全に消えてしまった。彼はもう既に「スーパーぶり」をいかんなく発揮しつつある。

決して急いで進めているわけではなく、実際、私も慣れてきて、ここはもう少し時間をかけた方がいいなとかいう調整もしながらなので、彼らの姉のときと比べるとゆっくりなぐらいなのだが、それでも彼らは今日のレッスンで答えが100を超える2桁同士の繰り上がりのある足し算の問題や1000を超える数を学習した。

ここに来るまで、もちろん一度も足し算や引き算の「計算方法」を教えたことはない。ただ納得のいくまで教具を見せ、それをお家でも必要に応じてやってきてもらっただけだ。
そして、100を超える足し算はこれまでまだ一度もやったことがなく、1000を超える数の学習の前に位が上がっていく感覚がつかめているかどうかの確認ぐらいの意味で、ほんの1枚入れられているだけのものだった。

これまでの彼らの様子を見ていて、これはまず黙ってやらせてみようと、本当に何も言わずにプリントを渡した。すると、最初の2問ぐらいは「これ、なんかむずかしいなぁ~。」とか言いながら悩んでいた。

彼らが計算を考えるときに常に使っている教具があるのだが、10が5本で50とか、10が10本で100、10が27本で270・・・みたいなことはそれまでにある程度頭で思い浮かべて考えられるようにはなっていたので、プリントの問題の1問を、それぞれの10の位の数を指さして、たったひと言彼に尋ねてみた。

「10が何本?」

その瞬間だ。

「なぁ~んや、簡単やん。」

そう言ったかと思ったら、ほんとにスラスラと問題を解き始めた。
因みに、念のためお断りしておくが、彼らはまだ「筆算」ってものを知らない。当然暗算で計算しているのである。

その「簡単」っぷりやかなりのもので、「なんでもとてもよくできる子」を上回るペースでどんどんと正解を出していくのだ。計算方法なんて教えていないのだから、間違いなく彼の頭の中に数がイメージされ、10の棒が集まっていくとか、1の玉が集まっていくとか、そういう操作が行われているのは間違いない。

彼のこの急激な伸びを見ながら、ますます私は思いを強くする。
幼いうち、特に就学前は、しっかり食べ、しっかり眠り、躾はしっかりして、習い事は決してさせ過ぎず(何にもしなくたっていいとさえ思う)、自由に遊べる時間を十分にとって、家族仲良くいてくれれば、そういう子を伸ばすのは多分簡単なんじゃないかって。

教室の子どもたちはみんなほんとに可愛くて大事な子どもたちだけど、彼のこれからも本当に本当に楽しみだ。

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2006年7月 5日 (水)

時間が足りない。。。

書きたいことは色々あるはずなのですが、いかんせん時間が。。。

夏休みは午前中からレッスンがある日が増える予定なので、そろそろ生活を朝方に切り替えねばと思っているのですが、やらなきゃいけないことをやっていると気づけばいつもすごい時間に。。。

今日もこれからブログを考えていたら、確実に食事が0時というパターンにはまりそうなので、とりあえず一旦帰ります。

深夜になるべく更新します。どうぞ宜しくお願い致します。

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2006年7月 4日 (火)

やはり書こう。

きっと昨日今日はこの話題に触れている人がネット上でも数え切れないぐらいいることだろう。それほどに彼は偉大な存在だったということなのだろうけれど、昨日の夜のニュースで一斉に彼、中田英寿氏が現役引退を発表したことが知らされた。

スポーツニュースはもちろん、普通のニュースでさえ大々的に取り上げ、新聞の号外も出たようだ。それほどに突然で衝撃的なことだったのだろう。

私も深夜何度も繰り返されるニュースを見ながら、紹介されるヒデの言葉に思わず涙がこみ上げてきた。どこまでもカッコいい人だ。昔から、遥か年下とは思えない落ち着きと頭のよさを漂わせていた。

実は私は小さな自慢がある。
その昔、ヒデがヨーロッパに渡って間もなく、彼の公式ホームページが作られ、そこにチャットルームが設けられた。もうかなり記憶に遠いが、多分部屋は5つほどあり、殆どは彼のファン、サッカーのファン達が集って色々な話をする場であったのだが、そこには時折彼をサポートしている関係者や彼自身が参加することもあるということで、夜な夜なヒデファンが彼とのネット上での会話を願って集まっていた。

部屋は5つあり、一度に入れる人数が15人だか20人だか制限が設けられていたように思うが、そのため、例えばある部屋にヒデが現れたとわかっても、後からでは入れず、その部屋のメンバーの会話を部屋の外から眺めるしかできなかったり、彼も忙しい身なので、ひとつの部屋に現れたからといって必ず他の部屋にも回ってくれるわけではなかった。

どのぐらいの頻度でどのぐらいの時間、彼が現れていたのかはわからない。しかし、当然時差もあり(その頃はイタリアだった)、彼と同じ部屋で会話できることは決して高い確率ではなかった。

その頃私は今よりずっとヒデ熱もサッカー熱も高かった上、時間も有り余るほどあったので、しばしばそのチャットに足を運んでいたのだが、一度だけ実際に文字を介して会話をしたことがある。
彼が部屋に登場すると、当然ながらみんなが彼に話しかけるため、どうでもいい質問などは答え切れずにそのまま流れていってしまったりもするのだが、確か、三度ほどやりとりができ、神戸はいいところだね、また行ってみたいというようなことを言ってもらったのを覚えている。

その頃はかなり憧れの人でもあったので、その晩は嬉しくて嬉しくてなかなか寝付けなかったのを思い出した。

彼はマスコミなどからはあまりウケがよくなかったが、それは全て、実際の言葉を歪められたり、真意が伝わらなかったりしたことから、マスコミを介して何かを伝えることを避けるようになったからだったようだ。
そのため、公式ホームページを作り、移籍を決めたときなど、何か新しいことを始めるときにはまず一番にそこへ、彼自身の言葉でファンのみんなに向けての言葉が綴られるようになった。

彼は確かに何もかも一流で、天は一体彼にニ物どころか何物を与えたんだろうというような人だけれど、実は野菜が全くダメで、彼の好物は駄菓子のうまか棒だかうまい棒だかなのだという話は、それを聞いてなんだか少しホッとした。因みに、そんなこともあるんだなぁと思って読んだのだが、野菜が全くダメなものの、プロの選手だから体は何より大事なわけで、一度きちんと検査をしてもらったところ、野菜をとらなくても全く問題がなかったそうで、何かで補えているようだというようなことが書かれていたのにも驚いた。
やはり、あらゆる意味において「超人」なのかもしれない。

もともと彼は現役を引退した、その先のことを遥か昔から考えていたようだし、私たちにとってはもう彼のプレーを見ることができないと思うともちろん残念な限りだけれど、きっとこれからも彼は輝き続けるのだろう。(あ、でも、あるニュースでは、ヒデの引退後の初仕事は俳優業になるかもなんてことが書かれていて、「GOAL!」の第3弾に出演するかもしれないらしいので、まだプレー姿は見られるのかもしれないが。)

スポーツ選手の中で、ジャンルは全く異なるけれど、似ていると思う人が3人いる。

中田英寿、イチロー、為末大。

あくまで個人的な感覚だけれど、この3人は同じオーラのようなものを感じさせる。
あとの2人はまだ現役の選手だけれど、この2人もどこかでスパッと引退をして、その後は別の世界へ転身しそうな気がする。

昨日、今日と写されるヒデの若かりし頃の(今も若いけど)映像を見ながら、しみじみと思ったことは、年々明らかにいい顔になっていっていたということだ。こういっちゃ悪いが、Jリーグに入った当時など、決して「カッコいい」とは言われない顔つきをしていた。経験と自信が今の顔を作り上げてきたのだろう。

そもそも彼と比べるのはおこがましいが、彼が素晴らしい顔つきに変わっていった同じ時を私も(それまでに生まれていた人はみんな)過ごしてきたわけだが、果たして私の顔はどう変わっているんだろう。歳をとってしわやシミが増えたとしても、それはこの際おいといて、少しは「いい顔」になっているだろうか。。。

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2006年7月 3日 (月)

220円

すいません。今日もどうでもいい話です。

今日紹介した本の影響もあって、先日から大嫌い分野の「部屋の片付け・掃除」をしようとしている。

まあ、幸か不幸か「汚いのが好き」とか、「片付けようと思っても片付けられない」とかいうのとは違うので、部屋の中が雑然としだすと一応片付けはするのだが、机の引き出しや本棚、ラックなどにしまってしまったものは、年に一度整理すればいい方で、何年もそのままの引き出しだってあった。

本を読んで「そうか、捨てればいいんだ!」と、なんだか超当たり前のことに気づき、とりあえず小さな一歩から作業を開始したのだが、まずは手紙・写真類、そして今日はレッスンがない日だったので、家にあるけどもう読むことはないであろう、教室に置いても借り手もいないであろう本たちをざっとまとめることにした。

これはもう処分だ!と思ったものの中には10年もの、10年超ものがいっぱいあったのだけれど、特に会社を辞め、ひとり暮らしを始め、という頃に集中して買ったらしい「ホームページの作り方」とか「ネットショップの作り方」とか、なんで似たようなものをこんなに買ったんだ?と自らツッコミを入れたくなるほど似たり寄ったりの本が5~6冊弱。これはもう絶対今からこれを読んで作るぞ!って人はいない。いたら余程のマニアだ。

更に笑えたのが、脱OLなんとかとか、女のなんとか、とかそういう本も多い。おまけに最も自分の人生を象徴していて笑えたのが、「もう29歳、まだ29歳」って本があり、続いて、女は30歳からうんぬんって本もあり。。。(苦笑)そろそろ「女は40からが・・・」って本を探さなきゃダメだろうか。。。

「運命の人と結婚するために」なんてタイトルの中谷本も出てきたけど、そんなの読んでも現在に至る。ちっとも学習していないらしい。(笑)
まあ、この辺りは全部10年もの、10年超ものって感じで、正直なところ「ふぅん、こんなの読んだのか。。。」って感じだ。

幸い明日は資源ゴミの日なので、いらない本を整理して出そうかとも思ったのだけれど、もし誰か読んでくれる人がいるなら読んでもらった方が本も幸せなんじゃないかとふと思った。

で、徒歩圏にある中古書店に電話をしてみた。買い取ってもらえなくていいから引き取ってもらうことはできるかと。
やはり、パソコン関係は3年以上前のものは値段がつかないらしいし、他のものも10年を超えると同様の扱い。けど、買い取れないものの引き取って「処分」してくれるという。
ってことは、さすがにそれなりに大きな中古書店なので、そのままゴミとして捨てる訳じゃないだろうと思うし、持っていけば即すっきりするしと、さっそく本を袋に詰めて、自転車で持っていった。

文庫本、単行本、新書、コミックなど合わせて30冊以上あったと思う。けど、殆どが買い取りできないものなのは明白。全部買い取りできないって言われるのもなんか恥ずかしい気がして、ただ引き取ってもらうことはできないか尋ねたのだが、ルールがあるのか、買い取れるものは買い取るとの返事。
結局、予想通り半分以上のものが「処分」となり、文庫やコミックなど15冊に値段がついた。

しめて220円。

安いのか、高いのか。。。新たに本1冊すら買えない額だ。
でも、どちらにしろ処分するつもりだったのだから、ゴミの日を待たずしてすっきりして、もしかしたらその15冊はまた誰かに読んでもらえるかもしれないのだから、これでよかったのだろう。

中古が苦手なため、実は一度も足を踏み入れたことがなかった場所だったが、中はものすごい数の本やCDが並び、多くの若者が立ち読みをしていた。
しかし、やはり苦手なものは苦手で、一体いくらで売られているのかさえ見ることなく、そのままお店を後にした。

さて、この220円、一体何に使おうか。

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2006年7月 2日 (日)

感動。(どうでもいいネタ)

自宅の探検の一環として、以前からずっと迷っていたあるものをとうとう購入することにした。今後、ずっと溜め込んできた色々なものを処分するにあたり、まず間違いなく必要になるであろうものだ。

実はこれまでにも何度も何度も購入を考えた。けど、そう小さいものでもないし、それでなくてもものの置き場がなくて困っているぐらいだから、とりあえず保留にし続けてきた。
ただ、ないと不便でもあるので、とりあえずは腕力を利用する手軽なものをひとつ購入したのは去年のこと。

けど、腕力利用のものは大抵の場合パワーが弱く、ちょっと入れ過ぎるとたちまちにっちもさっちもいかなくなり、挙句、どうやら歯の一部がダメになってしまったらしく、最近では更に原始的にハサミ、もしくは素手で溜まる一方の困ったヤツたちを処分していた。

しかし、そもそも家では本当に自分でも呆れるぐらいの無精者なので、今度やろうと思ってはどんどんとそれが溜まっていく。かといってそのまま処分するのはちょっと不安もあって、更に溜まって面倒になっていくという悪循環。

今回の探検に関して、絶対的に処分しようと思っているものは昔の手紙類。ってことは間違いなく大量に作業が発生するはず。悩む。。。

でも、今回の私はやっぱり何かが違うらしい。
普段なら広告を見比べ、ネット検索もしたりして、安いものを探して。。。なんてやるわけだけど、もう買うと決めたんだ!今日買うんだ!!近くでいいから買ってくるんだ!!と気合を入れて近所のホームセンターへ。

アマゾンで見たものより600円ばかり高い。きっと家電屋さんとかに行けばもっと安いはず。でもいいんだ、もう買うんだ!!なんて固い決心。

持ってかえって早速セット。溜まっていたものを投入口へ。

・・・・・・・・・・か、感動。

なんてステキ♪5000円も出さずに、こんなに快適に細切れになってくれるなんて。。。それも電動だから一度に5枚ぐらい入れちゃっても大丈夫。あぁ、気持ちいい。。。

なんでこんなに長い間迷っていたのかと、自分がバカみたいに思えるほど感動。

クロスカットの電動シュレッダーってこんなにも便利だったのですね。。。 さあ、強力な味方も得たことですから、ますます頑張って探検・発掘を続けようと思います。

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2006年7月 1日 (土)

今日から7月。

早いものでもう7月ですね。
もう1年を折り返したかと思うと、ちょっと驚いてしまいます。

ちなみに、今日7月1日は教室の満3歳のお誕生日です。

3年前の3月に勤めていた塾を辞め、他の塾に勤めるつもりだったのが、思いがけない展開で自分で教室を始めることになったのですが、開業届を出してから丸3年が過ぎ、今日から4年目です。

そうか、今度から子どもに歳を聞かれたら「3歳」と答えることにしよう。(笑)

3年経ってもまだまだ自分の未熟さ、至らなさを痛感することが多いのですが、可愛い子ども達と理解ある保護者の皆さまのお蔭で今日までやってこられました。

学習教室Willseedsとして、レッスンが始まったのは夏休みからですから、本当の「お誕生日」にはまだあと3週間ほどあるのかもしれませんが、また新しい1年をしっかり頑張っていかなくてはと思います。

新しい1年は、りんご先生とのご縁で私もパズルなどの問題作成を少しずつでも考えて行きたいと思っていたり、パズル教材を中心とした「思考力育成」のコースなども始められたらと考えています。

どうか皆様、今後とも宜しくお願い申し上げます。

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