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2006年6月13日 (火)

きれいな文字を書くということ

あるお母さんからご相談があった。

まだ1年生のお子さんが文字を丁寧に書かないのだと。急がなくていいから丁寧に書きなさいと言っても、全くというほど効果がなく、学校でも連絡帳にそんな指摘を受けているので困っていると。

おまけに、習っていない漢字を書き順もめちゃくちゃで書こうとして、それも学校の連絡帳で指摘を受けたとか。

まあ、学校の連絡帳はともかくとして、文字を丁寧に書かない子は決して少なくないと思う。
また、文字がキレイであれば学力も高いとは一概には言えない面もある。

実際、理系の優れた人で非常に読みづらい文字を書く人は少なくない。例えば、昔懐かしい高校時代、ある数学の先生の文字は本当に判読できず、試験中、見回りにきた先生に一斉に質問の手が挙がるのだが、その大半が「これはなんという字ですか?」だった。

また、私と兄は同じぐらいの期間、同じ先生にお習字を習っていたが、書く文字は全く違う。
個人的には、文字にも性格のようなものが現れるのではないかとも思っている。

ただ、お習字などを習ったことがないという子でもときどきとてもバランスのとれた美しい文字を書く子がいる。個人的には、そういう子たちは多分、模写の能力であるとか、図形把握の能力であるとかが優れているのではないかと思ったりする。

また、例えば、お手本に書かれている文字を見て、それを「美しい」と感じられるかどうかも大きなポイントのように思う。

仮に、お手本の文字が美しいと思えば、「あんな風に書けるようになりたい」、「よし、真似をしてみよう」、そんな風に思える気がする。
しかし、お手本の文字を見ても何も感じなければ、真似してみようと思わないだろうし、まだ幼ければ尚更キレイに書くことの必要性もよくわからないだろう。

ただ、もしお手本を見て美しいと思わなかったとしても、例えば私がそうだったように、書かれたお手本を真似して書いたとき、周りの大人が褒めてくれたとしたら、それが嬉しくてもっとうまく真似ようとすることはあるのではないだろうか。
よりお手本に近く書けたときにはぐるぐるの花まるがもらえ、あまり上手く書けなければ小さなまるだったり、まるがもらえなかったりすれば、幼い子であれば花まる欲しさに頑張って真似ようとする子は多いはずだ。

それを文字を書き始めたとき、なるべく早い段階から繰り返せば、手や目がそのバランスを覚えてしまい、読みやすいバランスのとれた字が書けるようになったりはしないだろうか。

もちろん、個人差はあるだろうし、真似が上手な子とそうでない子、花まるに魅力を感じる子とそうでない子などはいるだろう。ただ、ある程度の効果は望めそうな気がする。

ただ、気をつけなくてはいけないであろうことは、せっかく字を覚え始めたときに、上手く書けていない字についていちいち「ここがダメ」だの「こっちはもっとこうしなさい」だのと小うるさく言うことだ。それをされると、恐らく殆どの子はやる気を失うに違いない。

あくまでもポイントは上手くできたところを褒めることであって、できなかったことを指摘することではないのだ。
もちろん、初めのうちは大人が見て上手く書けているものなどないかもしれない。けれど、その中で、例えば部分的にでもいいのだ、どこかお手本にそっくりに書けているところがあれば、その部分だけにぐるぐるとまるをしてあげればいい。

仮に「あ」を5回書かせたとして、1回目は「あ」の最初の横棒だけがぐるぐるのまるだったとしよう。そのときに、「すごいねぇ、ここ上手に書けたねぇ。次はここが上手にまあるく書けたらバッチリね。」というように、次への目標を示してあげればいいのではないだろうか。そして、2回目はさっきより上手になったところがあれば必ずそこを褒める。もしもさっきの方が上手だったら、2回目がダメというのではなく、1回目の字を指して「こっちの方が上手だね」とあくまでも上手な方に目を向けさせる。そんな風にすれば、大抵の子はやる気をそがれることはないのではないだろうか。

ちょっと話は逸れるが、教室で使っている幼児の教材の中に、ときどき運筆練習のようなものが出てくる。点線で書かれた波線や直線、ジグザグの折れ線などをなぞるのだが、それをなぞっているときにも、単調な作業に飽きさせないため、私はその方法を使う。

1回目に書いた中で上手に書けた部分にぐるぐるとまるをする。いっぱい褒める。その後2回目を書いてもらう。ときどきは「○○ちゃんはどこが上手に書けたと思う?」と自分が書いたものの上手なところを答えてもらったりもする。そういうことを繰り返していると、大抵は途中で投げ出すことなく、次はもっと沢山まるをもらおうと頑張ってくれるのだ。

加減は難しいとは思うけれど、「初めのうちは汚くても書けていればいいか」とか、「せっかく書けるようになったのに、書き順まで言ったらイヤになるんじゃないかしら」とか思って、初めのうちは何も言わずにおいて、あるときから突然、「キレイに書きなさい」、「書き順はこうでしょ!」みたいにやられたら、子どもは訳がわからなくなるかもしれない。それこそ、一気にやる気を失う危険がある。

教え込もうとするのではなく、初めのうちはとにかく上手に書けたら褒める、書き順どおりに書けたら褒める、そういうことを繰り返して、やる気をそがずにうまく導くことが大事なのではないだろうか。

ただ、いくら働きかけても変わらないお子さんもいるかもしれない。

例えば、学校に頻繁に忘れ物をしていく子にいくら周囲が働きかけても直らない場合もあるらしい。けれど、親野先生のご本だっただろうか、どうしても忘れ物が直らない子どもが、あるとき、転校することになったお友達にお手紙を書くことを忘れていて、仲良しだったお友達に最後にお手紙を渡せなかったということが強い後悔の念となり、その後忘れ物をしなくなったというエピソードが書かれていた。

要するに、そのときまでその子にとって「忘れ物」は大して困ることではなかったのだろう。だから、いくら言われても直す必要を感じなかったのかもしれない。それが、誰に言われたわけでもなく、本人が強い後悔をしたことによって変わったというのは納得できる話だ。
大人だって、変える必要を感じないことをわざわざ努力して変えようとはしないだろう。

つまり、いくら言っても丁寧に書かない子や書き順を覚えない子は、丁寧に書くことや書き順を覚えることに対して必要性を感じていないのではないかと思うのだ。
けれど、例えば、雑に書いたことでテストで満点を逃したとか、最近ではそんなこともないのかもしれないが、好きな子に手紙を書くためにキレイな字を書きたいと思ったりとか、そんなきっかけである日突然変わるかもしれない。

まあ、極論すれば、文字なんて汚くたって書き順がめちゃくちゃだって、生きていく上でそんなに不自由はない。特に最近では社会に出てからは文字を書く機会もどんどん減っているように思うので、尚更困ることは少ないだろう。

けれど、美しい文字が書けるとそれだけで印象がよくなるのも事実だし、見目麗しい女性が判読不能な文字を書いていたらやはりがっかりしそうな気もする。
だから、書けないよりは書けるに越したことはない。でも、その程度に考えればいいのではないだろうか。

もし今文字を覚え始めたぐらいのお子さんがおられる方は、何か参考にして頂けたらと思って書かせてもらったけれど、一番大事なのは「必要なときに丁寧な字が書けるかどうか」であって、常にキレイな文字を書く必要もない。場合によっては「常にキレイに」ということがかえってマイナスになることだってなくはない。
例えば、とにかくきちんと丁寧に書かなくては気がすまない子は算数などである程度スピードを要求されるときには時間がかかって結果が悪くなってしまうことだってあるからだ。

数年前、塾にいた中学生の男の子は見事だった。漢字テストなど、止めやはねまで意識して書かねばならないときには、それこそお手本になるぐらい整った文字を書くのだが、普段数学の計算のノートなどを見ると、何を書いているのかわからないような文字が結構あり、自分にだけ読めればいいものとそうでないものを区別し、臨機応変に対応していたのだ。こういう子はまず間違いなく頭がいい。

また少し話が逸れたが、お子さんに丁寧な文字を書いてもらうためになにかご参考になれば幸いである。

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