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2006年6月27日 (火)

私が学び続ける理由

本を読むのが早いわけではない上、難しいことは苦手だし、時間の使い方が上手いとも言えないので、「学んでいる」と言えるほど立派なものではないかもしれないけれど、恐らく同年代の大人の中では本を読んでいる方ではないかと思うし、子どもの教育に関わることに関しては常に学び続けているつもりではいる。

子どもと共に学ぶというこの仕事は、恐らく手を抜こうと思えばいくらでも抜ける。実際、過去に勤めていた塾の同僚の先生の中には堂々とワークブックの答えを握って授業をしていた先生もおられたし、小中学生相手ぐらいであれば、事前に十分な準備をせず、ぶっつけ本番で授業に臨んでも、それなりのことはできるはずだ。

実際、私も中学生の子の中には学校で習ったことでわからないところを教えてほしいという希望の子もいたので、そういう子に関しては事前に問題を解いておくこともできず、ぶっつけ本番、その場で解かねばならなかったため、ドキドキすることもあったけれど、それはどうにかクリアできた。
私でさえそうなのだから、キャリアや能力のある先生方なら、何の準備もしなくたって毎日、毎月、毎年、それなりの授業はできるんだろうと思う。

私だってまだまだ未熟とはいえ、多少のキャリアはあるので、初めての子にいきなり授業をと言われたって、恐らくそれなりにカッコをつけることはできるような気はする。

おまけに、今私がここでやっている指導法のベースになっているものに対してはかなり満足もしているし、十分に成果も感じられているのだから、後はそれを日々そつなくこなしていくということはできないことではない。

けれど私は学び続ける。
その理由のひとつは、ただ単に自分がまだまだ未熟で知らないことだらけで、素晴らしい先生方に一歩でも近づくためには学ぶのが当然ということだ。

ただ、もうひとつ大きな理由がある。
良かれと思ってやったことが結果的に子ども達の能力を潰したり、せっかく花開くはずだった才能を枯れさせてしまったりすることだけは絶対に避けたいからだ。

今の指導法に出会うまで、私は「いかにわかりやすく教えるか」ということばかり考えていた。それ以外の発想はなかった。当然といえば当然で、自分の仕事は「子ども達に勉強を教えること」だったのだ。
けれど、子ども達は思ったほどには伸びなかった。できる子達はそれなりに、できない子たちも以前より少しはできるようになったぐらいが殆どだった。
ジレンマに陥り、もっといい指導の仕方はないのか、どう説明すればもっとよく理解してくれるのか、そればかりを考えていた。

けれど、そのこと自体が子どもの能力を潰していたのかもしれないという事実を突き付けられ、私は愕然とした。
大好きな子ども達の足を自らの手で引っ張り続けていたのかもしれないということは私に償いきれないほどの後悔の念を抱かせた。

だから私は学び続ける。
今の指導法は素晴らしいと思っているけれど、もしかしたら何か問題があるのかもしれない。今知っているものより更に素晴らしいものがあるかもしれない。子育て経験のない私には育児本を沢山読むことだって、子どもを理解する上では欠かせないことだ。もちろん、実際にやってみるのに比べたら、気休め程度にしかならないかもしれないけれど、それでも知っているのと知らないのでは大違いだと思うのだ。

大人と違って子どもの1年は重要な意味を持つ。ある年齢までしか身につけられないことがあったり、開花させられないことがあったりするのだ。成長の段階で、使わなかったものは整理されその子の体から消えていくことだってあるのだ。消えてしまったものをもう一度作り出すことは不可能だ。

知らないことを知るのは楽しい。そして、知らなかったことを知ることでよりよく子ども達に向き合えるようになることも多い。

私の今の仕事は「子ども達と共に学ぶこと」なのだ。

もし仮に今の指導で10人のうち8人の子に目覚しい成果があったとしても、あと2人には思わしい成果が出ないのであれば、その2人が伸びない原因を判断できる力がほしい。「家庭での育て方や子どもの性格による」とくくってしまうのは簡単だけれど、そうしてくくった時点でもうその2人への理解を深めようとはしなくなる気がするのだ。

もちろん、子どもにも色々な子がいる。その子たちに関わる親たちも本当にさまざまだ。誰が見ても素敵な人だと思うような親に育てられた子が素敵な子どもで、その子が勉強でもぐんぐん伸びていたとしてもそれは何の不思議もないことだ。そして、もし仮に誰が見ても問題がある親に育てられた子どもがいて、その子が学力面で非常に伸び悩んだとしても、それを見た人はきっと当たり前だというだろう。
実際、私だってそういう感覚はある。子どもにとって何より一番影響を与えるのは家庭であり、親であることには間違いないだろうから。

けれど、もしこの先問題のある親に育てられた子に関わることがあったとしたら、目の前の子どもを見ながら、「あの親だったらこれで仕方ないよね」とは思ってはいけない気がするのだ。

もっと色々なことを知れば、少なくとも今よりできることは増えるはずだ。より良い対処法だってわかってくるかもしれない。

この仕事を続ける限り、私はいつまでも学び続けようと思う。

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