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2006年6月30日 (金)

30年もの。

深夜、自宅で衝撃的な発見をした。(あ、どうでもいい話です。念のため。)

今、ある本を読んでいるのだけれど、その影響もあってか、普段は「年に1回の大・大掃除」をする以外殆ど掃除らしい掃除をしないという恐ろしい生活をしている私が、突然いらないものを処分しようと思い立った。(本は読み終わったらまたご紹介の予定です。)

重い腰がなかなか上がらないのはいつものことで、やろうと思ってからも数日が過ぎ、昨日も出勤までに時間があったのに手をつけず、深夜になって明日がゴミの日であるということもあり、とにかく1時間だけでもやろうと開かずの引き出しに手をつけた。

一人暮らしを始めて間もなく勤めていた会社を辞めたので、そのときちょっと資格の勉強をしようと思った瞬間(期間ほど長くない。。。)があったため、割と大きな机を買ってしまった。

しかし、結局、三日坊主もいいところでその資格への情熱がなくなり、机は我が家の物置と化したまま長年が過ぎた。
机のいいところでもあり、困ったところでもあるのは、一度引き出しにしまいこんでしまうと目に触れないため、もう何年でも何十年でもそのままにすることが可能ということだ。例年の大掃除のときにも、そういえば机の引き出しはしばらく開けた覚えがないなと、ちょっと「女性」にはあり得なさそうなことに気づいた。

読んでいる本には数年使わなかったものは「ガラクタ」だから処分しなさいというようなことが書いてあり、その理論からいけば、私は机ごとまるまる粗大ゴミに出してしまってもなんら困ることはないのだろう。
ただ、困ったことに根っからの貧乏性だし、日本人の遺伝子に組み込まれているであろう「もったいない」という気持ちも手伝って、使えるものを処分するのは躊躇われるということもあり、とりあえず、まずは無理のない段階からと、本当にいらないと思えるものの処分から手をつけることにした。

撮りそこなった写真や、大学の卒業式のあと友人達に渡すことができなかった焼き増し分の写真などまで後生大事に引き出しに収められていた。
そもそも、私は震災で実家を一旦は解体したのだから、引越しのとき、要らないものは極力処分してきたはずなのにこの有様だ。

我ながらちょっと呆れつつ引き出しを探っていくと、更に恥ずかしいものが。。。中学生や高校生の頃に出しそびれたラブレターやらその下書きなんて、もう顔から火が出そうなものまで出てくる。

それでもこれまではなんだか捨てそびれてずっと取っておいたのだけれど、今回の私は何かが違うらしい。写真も手紙もバリバリ破り、どんどんゴミ袋に入れていく。

大学時代に掛けていた、セルフレームのメガネは今見ると恐ろしくレンズが大きくて、フィンガーファイブのようだ。(歳がバレる。。。)それも燃えないゴミ用の袋に放り込む。

ニフティーサーブにホームページをつくろうなんていう恐ろしく年代を感じる本やら、まだ会社員だった頃に買った「脱OLなんとか」っていうような本などなど、教室に持っていっても、古本屋に持っていっても、全く需要がないのは明らかな本たちも処分することに。

私にしてはまずまず順調に作業が進んだのだけれど、我ながら一番笑ってしまったのはある「30年もの」だ。
そこには「1976年」という印刷がされていた。

それは何かというと。。。。。。。。。

30年前の「りぼん」の付録だったノート!!

子供心にそのノートはなんだかもったいなくて使えなかったのは覚えている。使えないまま中学生になり、友人との交換日記にでも使えばよかったのだろうに、そのときにも使わず、その後は逆に高校生や大学生になってそんなノートを使う機会も当然なく、けれど、「まだ全く使っていないノートを処分するのはもったいない」という思いが、震災までをも乗り越えさせたすごいノートだ。

さすがにここまで来たらそれを今更捨てることもできず、また引き出しにしまった。
気づけば既に2時間以上が経過していて、時計は夜中の3時半を回っていた。

我が家の発掘はまだ当分続きそうだ。

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2006年6月29日 (木)

衝撃の小ネタ

関西人としてはやはり書かずにはいられない。。。
昨日の衝撃的なネタ。

不思議なもので、なぜなのか子どもたちは年齢や学年に関わらず、先生に歳を聞く生き物らしい。以前勤めていた塾でも、私もベテランの男性講師も、殆ど例外なく「先生何歳?」という質問を色々な子からされたものだ。

教室を始めてからもその質問を受けることは多い。別に言っても構わないのだけれど、なんとなく昔からの習慣で「さあ、わからん」とか、「忘れた」とか、わざと「12歳」と言ってみたり、最近では「75歳」とか「82歳」とかあり得ない歳を答えてみたりもする。

粘る子は、手を換え品を換え、子どもの頃にどんなテレビ番組があった?だの、こんなゲームはいくつのときにあった?だの、何とかして年齢を特定しようとするのだが、とりあえずそういう子にはわざと答えないことにしている。(親が同級生だったり、友人の知り合いだったりとかすると、聞くまでもなくバレているし、親御さんたちは大体はわかっておられると思う。)

で、昨日。
試験直前ということで補習に呼んでいた中1の男の子が、唐突に「先生、何歳?」と聞いてきた。その子は「わからん」とか「忘れた」というのがまるで口癖のように、何かにつけ何度もいう子なので、わざと「さぁ、わからん。忘れた。」と答えると、「嘘や。何歳?」と言った後、

「22歳?」

って。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
あんた、幼稚園や小1の子ならともかく、中1になってその感覚は大丈夫か?そもそも、22歳だったら大学卒業したてだろ?「あんた、22歳って大学卒業した歳やで?」と答えると、まだ懲りずに

「じゃあ25!」

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
私はこの子のことが一層心配になった。。。
悪い大人に騙されないでね、○○くん。(苦笑)

けど、この出来事のお蔭で昔のすごくすごくほほえましいエピソードを思い出した。
塾講師時代、普段は見ていない小1の子達のクラスに担当講師が遅れたり休んだりの関係で何度かだけ入ったことがある。
何度目かには私のことも覚えてくれた子どもたちは、やはりお約束のように「せんせ~、なんさい?」と尋ねてきたので、つい「みんなよりちょっと年上かなぁ。」と答えたところ、

「12歳?」

そりゃそうか。。。まだ6歳ぐらいの彼らにとって、12歳は自分の倍の年齢。20歳の子にとっての40歳だもの。。。確かに十分年上だわ。。。
あまりに可愛い答えに、その出来事はずっと忘れられずにいる。
けど。。。中1くんのことはちょっと心配だ。(苦笑)

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そういえば腑に落ちないこと

ずっと以前になんだか変なのと思ったことがあったのだけれど、そのまま忘れてしまっていたことがあります。

それを昨日のりんご先生のニュースサイトを見て思い出したのですが、世間の方はどのぐらいご存知なのでしょう?私は以前勤めていた塾で初めて知ったのですが、お金を払えば、全く何の関係もない人が自分の住民票を見て、住所やらその他を写せるってことを。

どういうことかというと、どの区でも同じなのかどうかはわかりませんが、曜日や時間帯が決まっていたりすることもあるようですし、金額などは区によって違うのかもしれませんが、このあたりでは数年前の時点で1件300円払えば、住民票(住民台帳なのでしょうか?)を赤の他人でも閲覧でき、更にそれを決められた用紙に写すことができるのです。

私はその作業をしに区役所に行ったことはないままに終わったので、詳しいことはわかりませんが、出生年度別に見られるのか、例えば塾であれば、今年小学校に入学するであろう子どもの家の住所だけをピックアップして写し取るなんていうことが可能なようです。

りんご先生が紹介しておられたブログにはそれ(DMなどのために業者が閲覧すること)が近々禁止になるって書いてあったのですが、それは全国的になのか、それぞれの自治体によって違うのか、まだ調べていないのでわかりません。

それにしても、少なくともこれまでは「300円」で住所が売られていたということなのです。
それをお役所がやっていたのです。

そもそも、私たちの個人情報を他人に見せて、なぜお役所がお金を取るのでしょう?それは一体どんな商売なんだ?というか、なんでそんなことがまかり通るんだ?

もちろん、弁護士さんだとか税理士さんだとか、何らかの専門的職業の方が仕事上特定の誰かの住民票を見る必要があるとかそんな話はわかります。

けど、一般の業者が不特定(特定?)多数の人の住民票を見て、それを写して帰ることをお役所が許すということがどうしても理解できないのです。なんで許されるんでしょう?

いわゆる「名簿屋」さえ裏でこっそりっていうような商売のはずなのに、おかしくないですか?

私はびんぼ~なので、DMのために1件300円は出せませんが、仮に1件1円でも、それはなんだかやっちゃいけないことのような気がします。だって、私だったら絶対イヤですもの。全く知らない人が自分の住民票を勝手に見てDMを送ってきたら。

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2006年6月28日 (水)

ジレンマ

また泣かせてしまった。

ときどきブログに登場する高学年の男の子。来てくれた当初よりは明らかに伸びているのは感じるのだけれど、それでもやはり、よく考えもせずなんとなく答えを書いてみたり、ちょっと考えてわからなければすぐに投げ出そうとしたりする傾向は、他の子どもに比べて強い。

それが性格的なものなのか、過去繰り返してきてしまった機械的反復学習による後遺症なのかの判断がまだはっきりとつかない。

今日、表を使って変化の仕方を発見し、それに基づいて答えを求める問題をやっていた。初めに何問か類題をやったあと、そのほかの問題は一度宿題として考えてきてもらってから、できていないところを一緒にやるようにしているのだが、大人と子どもの人数を求めるような問題に彼は平気で「17.5人」と答えを書いていた。電車に乗るという設定なのだから、人間を切り刻むわけがない。0.5人といわれた大人は体半分どうするんだ?という話だ。

ちょっと考えたらわかりそうなことに気づかないと私は悲しくなる。時には不機嫌にもなっているかもしれない。

少なくとも、低学年から見ている子たちは計算上人間を半分にするような答えが出てしまったら、その時点で何かおかしいと考え直すに違いない。

また、別の問題では8回のテストの合計点を求める問題に「1860点」と書いていた。8回で1860点を取るには、ひとつのテストが200点満点でも無理な話だ。もちろん、その問題は出題自体100点満点のテストだったので、普段の経験から考えても、テスト8回なら満点をとっても800点であることに気づくはずだ。
しかし、彼はそれにも気づかず、そのまま答えを書いている。

それを見て私は、また悲しい気持ちになる。

この子はどうしてほしいんだろう。。。
これまで彼が機械的反復学習塾や某有名受験塾でされてきたであろう、公式に当てはめて大量の問題を解くという方法をさせてやれば、彼は笑顔でいられるのかもしれないと、そんなことを何度も何度も考え、私は何をしているんだろう、彼のためと言いながら、彼をいじめているだけなんじゃないんだろうかと、どんどん苦しくなっていく。

間違いなく、彼は苦しいはずだ。考えることに慣れていない子、考える方法を知らない子に「考えろ」というのは、もしかしたら無責任なのかもしれない。

ただ、私はもう同じことを繰り返したくないのだ。新しい単元ではまず初めに説明をし、公式を覚えさせ、それを使って演習をさせたあと、定着のために何度もその問題を繰り返させる。
しかし、少しパターンが違えば、またその解法を覚えなければならないし、公式を忘れたら解く方法はなくなる。
そんな指導をもうしたくないのだ。

黙ったまま泣きそうになっている彼に、喉元まで出掛かっていた言葉。

「やり方全部教えようか?それを覚えて使う?」

本当に言おうかと思った。隣りで悩みながらも問題に取り組んでいるもうひとりの子。その子はどんな方法であっても答えに辿り着こうとする姿勢ができてきた子だ。その子の隣りでそれを口にしていいのか、何度も頭の中で繰り返し、結局その言葉は飲み込んだ。

代わりに彼に言った。

「もし、これまでずっとよそでやってきたみたいに、公式を覚えて当てはめるってやり方の方が俺はいいっていうんだったら、そんな塾はたくさんあるから、無理してここにこなくていいよ。
あなたはいじめられてるように思ってるかもしれないけど、私はあなたのことが好きだし、好きだからこそ賢くなってほしいと思ってる。だから、賢くなるとは思えない方法を私があなたにさせることはできないの。
けど、習ったことを覚えて、それを使ってってことをきちんとやれば、高校受験ぐらいまでは何とかなるよ。実際そんな子はたくさんいる。そうやって神戸高校に行った子もいるよ。
だから、あなたが選べばいい。もしお母さんに言いにくいんだったら私がちゃんと話してあげるよ。○○くんにはそういう塾の方が合ってると思いますって。」

彼は黙ったまま、少し泣いた。
彼の涙の意味はわからない。

しばらく黙ったままじっとしていたが、そのうち問題を解き始めた。
彼とのこんなやりとりは何度目なんだろう。私はこの先一体あと何度彼を泣かしてしまうんだろう。
これは本当に彼のためなんだろうか。。。優しく手取り足取り教えてあげれば、彼が笑顔でご機嫌でいられることはわかっている。わかっているのに、それをしないのは本当に正しいのか。。。

何度も何度もジレンマに陥る。

けれど、決めたんだ。もう後悔はしないって。同じことは繰り返さないって。

あとは彼が決めることだ。
泣いてでも、むっとしてでも、それでも問題を考え続ければ、きっといつか「考える」ということがどういうことか実感できるときがくるはずだ。そうなりたければ、彼はここに通い続けてくれるだろうし、そうでなければ、さびしいけれど彼を見送ろう。

彼はどんな決断を下すのだろうか。

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2006年6月27日 (火)

私が学び続ける理由

本を読むのが早いわけではない上、難しいことは苦手だし、時間の使い方が上手いとも言えないので、「学んでいる」と言えるほど立派なものではないかもしれないけれど、恐らく同年代の大人の中では本を読んでいる方ではないかと思うし、子どもの教育に関わることに関しては常に学び続けているつもりではいる。

子どもと共に学ぶというこの仕事は、恐らく手を抜こうと思えばいくらでも抜ける。実際、過去に勤めていた塾の同僚の先生の中には堂々とワークブックの答えを握って授業をしていた先生もおられたし、小中学生相手ぐらいであれば、事前に十分な準備をせず、ぶっつけ本番で授業に臨んでも、それなりのことはできるはずだ。

実際、私も中学生の子の中には学校で習ったことでわからないところを教えてほしいという希望の子もいたので、そういう子に関しては事前に問題を解いておくこともできず、ぶっつけ本番、その場で解かねばならなかったため、ドキドキすることもあったけれど、それはどうにかクリアできた。
私でさえそうなのだから、キャリアや能力のある先生方なら、何の準備もしなくたって毎日、毎月、毎年、それなりの授業はできるんだろうと思う。

私だってまだまだ未熟とはいえ、多少のキャリアはあるので、初めての子にいきなり授業をと言われたって、恐らくそれなりにカッコをつけることはできるような気はする。

おまけに、今私がここでやっている指導法のベースになっているものに対してはかなり満足もしているし、十分に成果も感じられているのだから、後はそれを日々そつなくこなしていくということはできないことではない。

けれど私は学び続ける。
その理由のひとつは、ただ単に自分がまだまだ未熟で知らないことだらけで、素晴らしい先生方に一歩でも近づくためには学ぶのが当然ということだ。

ただ、もうひとつ大きな理由がある。
良かれと思ってやったことが結果的に子ども達の能力を潰したり、せっかく花開くはずだった才能を枯れさせてしまったりすることだけは絶対に避けたいからだ。

今の指導法に出会うまで、私は「いかにわかりやすく教えるか」ということばかり考えていた。それ以外の発想はなかった。当然といえば当然で、自分の仕事は「子ども達に勉強を教えること」だったのだ。
けれど、子ども達は思ったほどには伸びなかった。できる子達はそれなりに、できない子たちも以前より少しはできるようになったぐらいが殆どだった。
ジレンマに陥り、もっといい指導の仕方はないのか、どう説明すればもっとよく理解してくれるのか、そればかりを考えていた。

けれど、そのこと自体が子どもの能力を潰していたのかもしれないという事実を突き付けられ、私は愕然とした。
大好きな子ども達の足を自らの手で引っ張り続けていたのかもしれないということは私に償いきれないほどの後悔の念を抱かせた。

だから私は学び続ける。
今の指導法は素晴らしいと思っているけれど、もしかしたら何か問題があるのかもしれない。今知っているものより更に素晴らしいものがあるかもしれない。子育て経験のない私には育児本を沢山読むことだって、子どもを理解する上では欠かせないことだ。もちろん、実際にやってみるのに比べたら、気休め程度にしかならないかもしれないけれど、それでも知っているのと知らないのでは大違いだと思うのだ。

大人と違って子どもの1年は重要な意味を持つ。ある年齢までしか身につけられないことがあったり、開花させられないことがあったりするのだ。成長の段階で、使わなかったものは整理されその子の体から消えていくことだってあるのだ。消えてしまったものをもう一度作り出すことは不可能だ。

知らないことを知るのは楽しい。そして、知らなかったことを知ることでよりよく子ども達に向き合えるようになることも多い。

私の今の仕事は「子ども達と共に学ぶこと」なのだ。

もし仮に今の指導で10人のうち8人の子に目覚しい成果があったとしても、あと2人には思わしい成果が出ないのであれば、その2人が伸びない原因を判断できる力がほしい。「家庭での育て方や子どもの性格による」とくくってしまうのは簡単だけれど、そうしてくくった時点でもうその2人への理解を深めようとはしなくなる気がするのだ。

もちろん、子どもにも色々な子がいる。その子たちに関わる親たちも本当にさまざまだ。誰が見ても素敵な人だと思うような親に育てられた子が素敵な子どもで、その子が勉強でもぐんぐん伸びていたとしてもそれは何の不思議もないことだ。そして、もし仮に誰が見ても問題がある親に育てられた子どもがいて、その子が学力面で非常に伸び悩んだとしても、それを見た人はきっと当たり前だというだろう。
実際、私だってそういう感覚はある。子どもにとって何より一番影響を与えるのは家庭であり、親であることには間違いないだろうから。

けれど、もしこの先問題のある親に育てられた子に関わることがあったとしたら、目の前の子どもを見ながら、「あの親だったらこれで仕方ないよね」とは思ってはいけない気がするのだ。

もっと色々なことを知れば、少なくとも今よりできることは増えるはずだ。より良い対処法だってわかってくるかもしれない。

この仕事を続ける限り、私はいつまでも学び続けようと思う。

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2006年6月26日 (月)

ワールドカップと日本代表

日本代表にとってのワールドカップは終わった。

実は私は小学生のときサッカー部に入っていて、中学に入ったらサッカー部に入るのだと決めていたのに、「女子はダメ」といわれて泣く泣く諦めたようなヤツなので、スポーツの中ではサッカーはもしかしたら一番好きな競技かもしれない。

もともとは観戦より自分でプレーするほうが好きだったので、高校までは運動部に所属していたが、大学で体育会のマネージャーをして以来、プレーする人を応援するという立場になり、その後はスポーツとほとんど縁のない生活になってしまった。

それでも根が体育会系で、チームワークとか、何の儲けにもならないようなことに必死で努力して、勝ったらみんなと共に喜び、負けたら共に泣き。。。そんな世界が今でも大好きだ。

ただ、もともと直接知らない人に対してあまり夢中になれる方ではなく、例えば高校野球などでもかつて一度も思い入れのあるチームはなかったし、どの試合でも負けて泣いている子達の姿を見ては涙してしまうような感じで、結局どんなスポーツでも、とりわけどこかのファンとかってこともない「熱くない」人間だ。

そんなだから、サッカーも普段Jリーグなどの試合は見ない。どこにも思い入れがないので、応援する対象がないからだ。
けれど、日本代表だけは「日本チーム」というはっきりした応援対象があるので、結局今回の予選も見られる限り見た。

結果は選手達にとっても監督にとっても不本意なものだったのだろう。
実際、ブラジル戦の後半など、もう大人と子どもぐらいの差があるようで、それは精神面なのか、体力面なのか、技術面なのか、はたまた全てを総合して足りないのか、その辺は私にはわからないけれど、ブラジルはまだ高い高い壁のように感じた。

けれど、予選が終わった後、監督を批判する報道や、選手を非難する報道をいくつも目にした。
驚いたのは、終了した翌日だったかに日本サッカー協会に抗議や苦情の電話が100件以上寄せられたというニュースだった。

なぜだ?

確かに彼らは「日本代表」のチームには違いない。サッカー選手の中からものすごい高倍率をくぐりぬけて選ばれた精鋭たちだ。もちろん、予定していた選手が故障したり、思ったほど力を発揮できなかったり、累積警告で出場できなかったりと、誤算は色々あったにせよ、現時点で日本中にどれだけいるかわからないサッカープレイヤーの頂点の選手達なのだ。

彼らの中にはもちろん「日本のため」と思う気持ちはなかったとは言えないだろう。けれど、本来、彼ら自身が日々努力をし、練習し続けた結果、自ら手に入れた「代表の座」なのであって、その晴れの舞台で結果を残せなかったことは、他の誰でもなく、彼ら自身がもっとも悔やみ、悲しんでいることなのではないのか。

ただ傍で見て、好きに批評している人間に彼らを責める権利などあるのだろうか?そんな文句を言うなら、あなたはそれ以上に何か努力をしているのか?抗議をした人たちに私は尋ねたい。

本気で頑張った人間は、結果を残せなかったとき誰よりもショックを受け、悲しむ。それはスポーツに限らず、勉強でも同じことではないだろうか。

適当に勉強してテストの結果が悪くたって、大してショックも受けないし、「あんまり頑張ってなかったもんなぁ」と言い訳もできる。
けれど、必死で自分の限界ぐらいまで頑張ったのに、テストの結果が悪かったとき、そのショックは明らかに大きいはずだ。

私は、監督も選手達も頑張ったと思う。
特に、何かと話題にのぼるヒデなどは、誰も批判などできないのではないだろうか。

個人的には、ほんの数年前までは日本がサッカーでワールドカップに出られるなんて夢のような話だったはずだ。「ドーハの悲劇」を乗り越え、大会に出場できるようになった、そして、世界の競合とある程度は肩を並べてプレーできるようになった。そのことは何より素晴らしいことなのではないか。

人間の欲望は尽きることを知らない。
少し前までは「夢」だったことも、手が届いた瞬間、過去になり、また新たな「夢」が生まれる。それはそれでいいのだろう。
けれど、繰り返された批判報道に、正直ちょっと疑問を感じる。

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2006年6月25日 (日)

我ながら不思議。

ネットをしていると、知らず知らずのうちにメールでのDMが増えてきて、特に楽○なんかでお買い物をしたり、安易にくじを引いたりすると、あっと言う間にえらいことになってしまう。

最近はなるべくくじは引かないようにし、増えてきたらまとめて配信停止にし、と意識はしているのだけれど、先日新たなDMが届いた。
興味のないものは即、開きもせずに削除するのだけれど、そのDMの発信者にはなんだか引かれた。
DMを開き、そのサイトを訪れた。
そして、予想通りはまった。。。

自宅で深夜に見始めたのだけれど、気づけば1時間以上あちこちを読んで回っていたようだ。
DMの発信者は「土屋鞄製造所」。

もともと、理由はわからないのだけれど、職人さんが好きだ。伝統工芸なんかの番組をやっていると、子どもの頃からかじりつくように見ていた。それは今でも変わらない。

なにぶん感激屋で単純なので、中でもこのお話このお話なんかは、子どもはいないのに、「もし自分に子どもがいたら、是非ここのランドセルを買ってやりたい」なんてことまで思ったりもした。

自分の腕で食べていけるってやっぱりすごくすごく素敵だ。
ただの1枚の皮から、素敵なバッグが生み出されていくのは、正に芸術だ。

私は一流ブランドのバッグとかに興味はないのだけれど、もしいつか自分にご褒美を与えられるようなときが来たら、この方たちの作った素晴らしい作品がほしいような気がする。そんなことを思った。

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2006年6月24日 (土)

1年の計は。。。

まあ、普通は「元旦にあり」なわけですが、今日は私にとっては一応節目の日。昨日までと今日からで何が変わったわけでもないのに、おまけに望んだわけでもないのに、何かが増えてしまいました。。。

こんな歳になるまで「ひとり」とは思ってもみなかったし、そもそも。。。別に何かが嫌だったとか死にたかったなんてことは一切ないのですが、中学生の時には「30ぐらいまで生きたらそれでいいかなぁ」なんて真顔で言っていたことを思うとめまいがしそうです。(苦笑)
中学時代には、30までの15年なりあれば、したいことはほとんどし尽くせるのではないかと思っていたあたり、まだまだ子どもだったなぁと思うわけですが。

幸か不幸かまだ「きりのいい」歳ではありませんが、この1年、少しでも成長できるよう、また気持ちも新たに頑張ろうと思います。
今日は1日笑顔で楽しくと思っていたのですが、小6くんたちがそれを打ち砕いてくれたのだけは誤算でした。(笑)

この歳まで大病もせず、したいことをして生きてこられたことに感謝します。
そして、来年はもう歳はとらないことにしようと思います。(笑)

さて、今日は今からもうひと頑張りしてまいります。

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2006年6月23日 (金)

反則技を思いついた。

先日来考えている数字の四則計算。

1の問題の解答で反則技を思いつきました。(笑)
マッチ棒クイズに変更すればクリアできることに気づきました~♪♪(っていいのか?)

マッチ棒4本と+、-、×、÷、( )を使っていいことにしてもらうと。。。
前回までの↓これの抜けているところが完成できます!!但し、小学生には無理かも。(笑)

1-1+1-1=0
1×1×1×1=1
1×1×1+1=2
1×1+1+1=3
1+1+1+1=4
・・・・・
・・・・・
・・・・・
・・・・・
11-1-1=9
(11-1)×1=10

では、反則技の公開です。(とひとりで盛り上がっている私。)

Ⅴ(棒2本)+Ⅰ-Ⅰ=5
Ⅵ(棒3本)×Ⅰ=6
Ⅵ+Ⅰ=7
Ⅹ(棒2本)-Ⅱ=8

完成♪
全てローマ数字で表してみました。
ひとりですっきり♪

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形を捉える

教室に来てくれる子ども達を見ていると、時々驚くことがある。
感激に近い驚きを感じることもしばしばあるが、時折、大人からすればあまりにも簡単なことに思いがけず苦戦する子どもの姿に出会うこともある。

教室を始めて間もない頃はまだ幼児・低学年の指導の経験は殆どないに等しかったので、子どもの躓きひとつひとつが新鮮で意外だった。
そんな中で最初に私が驚いたのは「箱の絵が描けない4年生の女の子」だった。

彼女は就学前ぐらいから反復プリント学習教室に通い、小4にして既に中学生の内容にまで進んでいるという子だった。しかし、図形になると全くお手上げ状態とのことで通ってくれることになったのだが、一番初めのレッスンで、図形ができないといってもお手本を見て真似して図形を描くだけなのだから、当然できるだろうと思って差し出したプリントに彼女はひとつとして「お手本に似た絵」を描くことはできなかった。
サイコロがひとつ置かれた絵は何度もトライした末かろうじて形になったが、サイコロが下に3個上に1個重なった状態の絵は何度挑戦しても重なった状態に描くことはできなかった。

その後、彼女には図を描く練習をさせたわけではなく、能力開発系の教材をメインにしてしばらくレッスンを続け、ふた月あまり経った頃だっただろうか、またお手本を真似て図形を描くプリントが登場した。
それまでに特に図形を描く練習はさせていなかったし、レッスンは週1回1時間だけだったので、果たしてどうなるのかと内心ドキドキしながら見守っていたが、そこにはかなりお手本の姿に近い図が描き上げられていた。

その日、彼女が帰った後お母さんから「とても驚いた」というメールが届いた。私自身、短期間でこんなにも変化があることにとてもとても驚いたのだが、幼い頃から機械的に反復をさせられ続けた彼女には空間把握などの能力が育つ機会が殆どなかったということなのだろう。機械的反復の弊害を身をもって感じた最初の出来事だった。

少し話が逸れたが、その後色々な子達に出会ってきたが、やはり今でも計算はできるのだけど。。。というパターンで出会うことになる子達がいる。
そういう子達は概ね図形が苦手だ。やはり育つべき能力が育っていないということだろう。

積み木の45度の角度がぴったり合うはずの場所に積み木の直角を持っていって置いてみる子もいるのだ。45度の場所に60度を持っていくなんてことは、図形が苦手な子にはしばしば見受けられる。45度と60度ではとんがり方が明らかに違うはずなのに、彼ら、彼女らの目にはその違いが見分けられないらしい。

もちろん、まだ3歳や4歳の子で、色々置いてみて気づくという子はいる。その年齢であれば、あれこれ試行錯誤する中で経験として、これは大きいけどこれは小さい、こっちはとんがってるけどこっちはあまりとんがっていない、そういうことを覚えていくのだろう。
とすると、中学年や高学年になっても同じことをしている子たちは、本来試行錯誤すべき時期にそれをしなかったということなのかもしれない。

ただ、やはり個人差はある。普段からブロックや積み木が好きな子や、ケーキなどを切り分けるときに大きさに意識がいく子、お兄ちゃんやお姉ちゃんなどがいて、幼い頃から色々なものに触れる機会のあった子などは空間把握が得意なことが多いし、そういう機会が少ない子はどちらかといえば苦手の傾向があるように感じる。生まれながらにしての能力やセンスの違いなどもあるのかもしれない。

それでもやはり具体物を操作しながら経験をさせ、能力開発用の教材などに取り組ませることで苦手な子にも改善傾向は見られる。空間把握能力は実生活でもとても大切な能力だから、なるべく早い段階で苦手克服をさせてあげてほしい。

なぜ実生活で大切かというと、以前テレビでもやっていたけれど、「片付けられない」ということに繋がるからだ。「この空間にはこの大きさのものをしまえるかどうか」というのはわかる人にはひと目見ただけでわかるのに、空間把握が苦手な人は絶対入りそうにないものを入れてみようとしたり、入れる順番がめちゃくちゃで無駄なスペースが沢山できたりということが起きるようだ。
また、距離感などが把握できなければ、何かに頭をぶつけたり、躓いて怪我をしたり、さらには事故に遭う確率も上がるだろう。
大袈裟なと思うかもしれないが、決してそんなことはない。

またまた話が広がってしまっているが、図形が苦手な子どもにちょっとしたアドバイスをすると、あっという間に変化が見られる場合がある。

先日、教室に通ってくれて3年目になる男の子が図形の模写のプリントを前に「俺、これ苦手やねんなぁ」と言った。その子が図形が苦手だという認識がなかったのでちょっと驚いたのだが(積み木などの問題はいつも問題なくクリアしているし)、とりあえず描いてみてといって描かせると、確かに苦戦している。

面白かったのが、サイコロの上部の隅がサイコロを8等分した1個分の大きさ切り取られた形の立体の図を描くときのこと。(説明が難しいのだが、角が凹んでいるような形)
描き始めの2本の線がいきなり垂直に交わっている。その図の中に垂直になっている部分はひとつもないのだから、そう描き始めては完成しようがない。

何度か消しては描きを繰り返したのだが、どうにも困っている様子。
そのとき、彼が直角に描いてしまう理由にちょっと心当たりがあった。彼の中では実際のサイコロが思い浮かんでいるのだろう。サイコロはどの角も全て直角なのだから、それを描くには垂直な線から描かねばと思ってしまっているのではないか。そう思い、図形の中の1面だけを赤鉛筆でなぞって見せた。
赤鉛筆でなぞられた図形はひし形が一部欠けた状態のもので、その部分だけを浮き上がらせたことで彼は気づいたらしい。

「な~んや、そうか。」

そう言って、見る見る箱の絵を完成させてしまった。要するに、彼はどこに目をつけたらいいのかがわかっていなかったのだ。

普段も図形を模写するのが苦手な子には、図形の中の何本かの辺を赤鉛筆でなぞって見せたり、どこかひとつの面だけを指さして、まずそこを描かせたりしてみる。すると、大体はクリアできる。

また、積み木や色板などをお手本の上に同じように置くようなものも苦戦する子がいるが、その場合にも図形の中のどこかの辺やどこかの角を指して、それと同じ長さや大きさを持つものがないか尋ねてみる。すると大体は答えに辿り着く。やはりどこに注目すべきなのかがわかっていないのだろう。

実際に色々なものに触れて経験をさせることが最も大切だということは間違いないが、既に苦手になってしまっている場合、どこか目をつけるポイントを示してあげると、子ども自身の力で答えに辿り着ける場合があるので、お子さんが図形が苦手だという場合は一度試して頂けたらと思う。

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2006年6月22日 (木)

後ほど更新いたします。

すみません。更新していると日付が変わりそうですので一旦帰ります。

後ほど更新いたします。どうぞよろしく。

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2006年6月21日 (水)

ぎゃぁ~~~!!

す、すいません。。。今気づきました。

昨日間違いなく更新したはずのブログが、手違いで「読書感想ブログ」の方にUPされていることに今気づきました。。。

とりあえずこちらの20日にUPし直しました。「読書・・・」の方は諸事情により、少しの間重複の状態で置いておかせて頂きます。

お恥ずかしい。。。

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高級りんご酢

タイトルからもお分かりかと思いますが、今日はど~でもいいお話。

昨日の帰り、教室の最寄のスーパーで買い物をして駅へ向かって歩いていたときのこと。
あいにくぎりぎり電車に間に合いそうになくて、次までは10分ほどあったので、ちょっといつもよりのんびり歩いていました。

信号を渡ろうとした瞬間、学生らしき男の子に何か呼び止められました。場所柄、もしかしたら知っている子なのかもしれないと思い、ふと足を止めて振り返ったところ、そこにはニコニコ笑いながら前掛けをした男の子が立っていました。

ん?誰?

そう思った次の瞬間、

「りんごいりませんか?」

り、りんご??ていうか、もう23時前だし、ここは路上なんだけど。。
彼が指す方を見ると、そこには後ろをオープンにしたバンが停まっており、もう一人笑顔の男の子が。

荷台にはりんごの入った木箱、りんごジュースの入った木箱などが並び、車にいた方の男の子が笑顔でりんごを薄くスライスして差し出しました。

すごく熱心に商品説明をする彼。そもそも、こんな時間まで仕事しているっていうのがすごい。
あまりの笑顔と勢いに話を遮りそびれ、話を聞いている途中でもう一人の女性が連れられてきました。その女性は慣れたもので「500円だったらいくつ?」とだけ尋ね、ほかの話は一切聞かず、りんごを受け取ってさっさと去っていきました。

普段果物を買わない上、たまに実家からもらったりしても、かなりの確率でしおれさせてしまう私は、いくら彼が熱心であろうとりんごを買う気にはなれませんでした。

しかし、りんごジュースはちょっとダイエット中の身としてはやはり躊躇う。そこに登場したのがりんご酢。ちょうど先日「食品の裏側」を読んだところだったから、お醤油やみりん、お酢のような調味料でも、添加物を加えたらあっという間に作れるけれど、無添加だと時間もかかるしお値段も張るということが頭に残っていました。

彼がいうには、そのりんご酢は完全に無添加で、まずりんごを摩り下ろしてアップルワインを作り、その後更にそれを熟成させて、数ヶ月かけて作るのだとか。
お酢は体にいいのもわかっていたし、おまけに「りんご酢」だなんて、これも何かの縁かなぁと、普通のりんご酢の5倍ぐらいするんじゃないかっていう私にとっては「超高級りんご酢」を買ってしまいました。

正直言って、りんご酢を買うつもりがあったわけじゃないし、無添加のりんご酢でももっと安いものがいくらでもあるとは思います。普段の私なら、もったいないから絶対しそうにない買い物をしてしまったのですが、買うと言った後、どうやら彼ら自身が今日掲げていた販売目標額をようやく達成したそうで、満面の笑顔で

「ありがとうございます!!お姉さん、握手!!」

と、なぜかお釣りを渡すその手で握手までされてしまいました。(笑)
さりげなく「お姉さん」というあたり、商売を心得てるね、あなたって感じですし、りんご酢は高かったけれど、彼らの笑顔でなんだか心があったかくなりました。

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2006年6月20日 (火)

点を結ぶ

本日はちょっと意外な豆情報のご案内です。
「豆」といいながらも実はすごくすごく重要な情報でもあります。

教室に通ってくださっている方や教材をご紹介させて頂いた方は既にご存知かと思いますが、実際のところ私自身、つい3年前まではそんなこと全く微塵も知りませんでしたし、今でも何でなんだろう?と不思議な気分なのです。

ただ、伊藤先生はご経験から断言しておられますし、確かに教室の子ども達を見ていても、その傾向はあるようなのです。
まさかそんなものが数能力に関係しているなんてことは普通は思ってもみられないと思うのですが、だからこそご紹介させて頂くことにしました。

というのも、それを実践するのには大した準備もいらず、特に費用がかかるわけでもないのに、やれば数能力が高められるからなのです。

かなりもったいぶりましたが、それは何かというと、「点を結ぶ」というものです。
一般には「点つなぎ」とか「点描写」とか呼ばれているのではないかと思いますが、点が均等に打ってある紙に直線で絵などが描かれているお手本を見て、そのお手本を真似て描くというあれです。

第1段階は点をつないだ絵が具体的な絵になっているものをクリアしてください。例えば、お花の絵になっていたり、動物の絵になっていたりというものから始めてもらうといいかと思います。

それが確実にできているお子さんなら、次はランダムに線が引かれたものへと移っていきますが、初めは斜めの線もすぐそばの点につながるようなもの、線の数もそう多くなく、割とシンプルなものに進んでください。
抽象的なものになると、子どもにとっては急激に難易度が増す場合がありますので、くれぐれもお子さんの反応を見ながら進めてくださるようお願い致します。

それもスラスラできるようになれば、更に複雑なものへ進んで頂くといいでしょう。斜めの線が遠く離れた点につながるもの、線が複雑に入り組んだものなどです。

因みに線が1本でも抜けている場合には「できている」とは言いません。また、嘘のようですが、普段きちんとできている子でも、疲れている日や嫌なことがあった日などには線が抜けたり、ちゃんと結べなかったりということもあるようです。

小さい子をお持ちのおうちの方は「点つなぎ」をご存知の方も多いと思うのですが、それにこんな効果があるとはご存知ない方も多いのでは?

点つなぎが確実にできれば算数がより得意になるというのであれば、やらせない理由はありませんよね?
もしもあまり効果があるように見えなかったとしても、やらせてマイナスになることはないはずですし。(嫌がるのに無理にやらせた場合は別ですが。)

ただ、気をつけて頂きたいのが、大人が見ると簡単そうに見えるものでも、思いがけず全く違うところに線を結んで平気な子や、とにかく手も足も出なくて最初から嫌がってしまう子も中にはいると思います。
そういう場合、まず絶対叱らない。叱っても何一つ解決しませんので。次に、どうしてもできない場合は多少やむを得ないかと思いますが、点の位置を捕らえさせるために「ここから3つ横に行って2つ上に上がったところでしょう?」というような「数える指導」はなるべくしない。

そのほかにもいくつかコツや注意する点があるのですが、それはお子さんの状態に応じてですので、ご興味がある方はまたお尋ねください。

中には、点つなぎをものすごく、一体なぜ?というほど嫌がるお子さんも時々おられます。そういうお子さんはしばしば算数が苦手です。そして、点つなぎを少しずつやって、ある程度できるようになってくると、算数の苦手意識も薄らいでくることが多いのです。

何かご参考になれば幸いです。

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2006年6月19日 (月)

シ、ショック。。。けど気を取り直して。。。

引き続き考え中ということで、7からスタートし、9の途中まで行っていたのにパソコンがフリーズ。。。(泣)
保存してなかったから全部消えました。。。

でも気を取り直して頑張ろう。(別に頑張らなくってもいいんだけど。)

7-7+7-7=0
7÷7+7-7=1
7÷7+7÷7=2
(7+7+7)÷7=3
77÷7-7=4
7-(7+7)÷7=5
(7×7-7)÷7=6
7+(7-7)×7=7
(7×7+7)÷7=8
(7+7)÷7+7=9
(77-7)÷7=10

ここはすっきり♪

8+8-8-8=0
8÷8+8-8=1
8÷8+8÷8=2
(8+8+8)÷8=3
8×8÷(8+8)=4
・・・・・あぁ、ここができれば。。。。。。
8-(8+8)÷8=6
(8×8-8)÷8=7
8+(8-8)×8=8
(8×8+8)÷8=9
8+(8+8)÷8=10

9+9-9-9=0
9÷9+9-9=1
9÷9+9÷9=2
(9+9+9)÷9=3
・・・・・
・・・・・
・・・・・じ、時間が。。。
9-(9+9)÷9=7
(9×9-9)÷9=8
9+(9-9)×9=9
(9×9+9)÷9=10

フリーズで全てが一旦消えてしまい、時間の予定が狂いました。。。
これからちょっとお手伝いに出動なので、思いつかれた方、ご遠慮なくコメントくださいませ。
とりあえず行ってまいります!

帰宅後もちょっと考えたのですが、うむぅぅ。思いつかない。。。
できないのか、私の発想が足りないのか。。。どっちだ。。。

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2006年6月18日 (日)

どうでもいいけど考え中。

休日なのでちょっと頭の体操中。

同じ数を4回と+、-、×、÷と( )を使って(要するに小学生でもできるレベルで)0から10までを作れるか考え中。とりあえず思いついたところから書いてみています。(他にも色々できると思いますが、とりあえず1個。)

私の知能ではまだ思いついていないところがお分かりの方、他の数はできないと証明できる方などおられましたら、コメントなど頂けたらとっても嬉しいです♪(私のおバカっぷりがばれてしまうけど。。。)

1-1+1-1=0
1×1×1×1=1
1×1×1+1=2
1×1+1+1=3
1+1+1+1=4
・・・・・
・・・・・
・・・・・
・・・・・
11-1-1=9
(11-1)×1=10

2+2-2-2=0
2×2÷2÷2=1
2÷2+2÷2=2
2×2-2÷2=3
2×2×2÷2=4
2×2+2÷2=5
2×2×2-2=6
・・・・・あぁ、ここができたらすっきりするのに。。。
2+2+2+2=8
22÷2-2=9
(22-2)÷2=10

3+3-3-3=0
3×3÷3÷3=1
3÷3+3÷3=2
(3+3+3)÷3=3
(3×3+3)÷3=4
3+3-3÷3=5
3+3+3-3=6
3+3+3÷3=7
3×3-3÷3=8
3×3+3-3=9
3×3+3÷3=10

4+4-4-4=0
4×4÷4÷4=1
4÷4+4÷4=2
(4+4+4)÷4=3
4+(4-4)×4=4
(4×4+4)÷4=5
(4+4)÷4+4=6
4+4-4÷4=7
4×4÷4+4=8
4+4+4÷4=9
(44-4)÷4=10 ←pokeさん感謝♪その1

5+5-5-5=0
5×5÷5÷5=1
5÷5+5÷5=2
(5+5+5)÷5=3

まだまだ途中ですが、父の日なので、ちょっと実家に行ってまいります。

さて、ワールドカップ予選もゲーム終了。続き続き。。。

(5×5-5)÷5=4
(5-5)×5+5=5
(5×5+5)÷5=6
(5+5)÷5+5=7←pokeさん感謝♪その2
・・・・・
5+5-5÷5=9
5×5÷5+5=10

6+6-6-6=0
6×6÷6÷6=1
6÷6+6÷6=2
(6+6+6)÷6=3
6-(6+6)÷6=4←pokeさん感謝♪その3
(6×6-6)÷6=5
6+(6-6)×6=6
(6×6+6)÷6=7
(6+6)÷6+6=8←pokeさん感謝♪その4
・・・・・
(66-6)÷6=10

とりあえず今日はここまでにしよう。。。

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2006年6月17日 (土)

奇跡の電話

先日、ある本がネット書店ですごい値段で売られていることを書いた。
その本は本当に読んでみたいと思ったし、その後次々と後を追うようにユーズドの出品がされ、定価の2割増しぐらいのところまで下がってもきていた。
だったらもうそれを買えばいいのでは?という話なのだが、最初は値段に驚いてそっちまで頭がいっていなかったものの、実は値段よりも何よりも最大の問題があったのだ。

実は私は基本的にどんなものでも「中古品」が苦手なのだ。
正しくは「誰が使っていたかわからない中古品」がダメなのであって、友人が読み終わった本や、知り合いから頂いたお古の洋服、そういうものなら大丈夫。ただ、例えばきちんとクリーニングをしてあるものであっても、誰が着ていたかわからない古着には抵抗があるし、同じ理由で骨董品関係も全て苦手だ。

ということは「ユーズド」である限り、それを購入するのは非常に躊躇われる。
出版社にも在庫が切れたということは、この本には縁がなかったのかなと半分諦めかけていた。

ただ、ダメもとで全国に30店近く出店しているらしき大手書店の店頭で尋ねてみた。
しかし、やはりそのお店にも在庫はなく、取り寄せも不可能とのこと。残る手段はと、お店の方が提示してくださったのは、その書店の全店舗にFAXで在庫確認をして、在庫があれば取り寄せることができますよと。

たった1冊の、それも1,500円ほどの本にそこまで手を煩わせてよいものかとも思ったが、とりあえずお願いした。全店舗から確認が取れるのに1週間ほどかかりますといわれ、控えの紙をもらった。

しかし、10日過ぎても連絡はなく、やはり無理だったんだな、この本には縁がないってことなんだなと思っていた。

昨日、レッスン開始直後に携帯が鳴った。レッスン中はマナーモードにしているので、伝言が残っていた。

「ジュンク堂書店の○○です。ご注文の○○が本日入荷致しました。またご都合のよいときにご来店ください。ありがとうございました。」

大袈裟なようだけれど、ちょっと耳を疑った。何か本を間違ってるんじゃないの?とも思った。実際まだ手にしていないので、万一違った本が届いていたらショック倍増になりそうだけど、神様が「読みなさい」って言ってくださったようだ。

たった1冊の本のために全店にFAXを送ってくださったジュンク堂書店さんに心から感謝である。

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2006年6月16日 (金)

ヒントを出すのは優しさか?

子どもが何かの問題で考え込んでしまったとき、側にいる大人はすぐに手を差し伸べようとはしていないだろうか。

私自身、数年前までは明らかにそういう人間だったし、わからなくて悩んでいる子に手を差し伸べるのが優しさなのだと疑いもしなかった。

けれど、今は違う。
もちろん、ヒントが必要な場合はある。本当に手も足も出ない子に「自分で考えろ!」というのであれば、少なくとも教室にきてもらう意味がない。
けれど、まだ考えている途中なのに、ちょっと立ち止まったのを見ただけでヒントを出すのは絶対に避けなければならないと思っている。

どんな状態ならヒントを出し、どんな状態なら出さないかの判断は正直言ってまだまだ難しい。けれど、子どもの表情を見ていると、何かを考えているのか何も考えられず止まっているのかはある程度判断ができる。
それに、どうにも判断がつかないときには、ヒントを出す前に尋ねてみるのだ。「まだ考えてる?」とか「何かヒントほしい?」とか。

考えている最中の子どもにヒントを与えるのは絶対避けたい。それは優しさどころか子どもの才能を潰すようなものだ。
考えてみてほしい。クイズを出され、その答えをあれこれ必死になって考えているとしよう。あと少しで答えが出そうだというときに、横から頼んでもいないのにヒントを出されたらどんな気になるだろう。大抵の人は「あぁ、あと少しで答えが出るところだったのに。。。」とがっかりするか腹を立てるのではないだろうか。

それは子どもだって同じはずだ。クイズなどの娯楽に限らず、勉強だって同じことだと私は思う。

仮に、もし「うちの子は考えることに楽しみを見い出しているようには思えない」という方がおられたら、それまでの育て方を振り返ってみてほしい。もちろん、育て方といっても家庭に限らず、もし幼くして詰め込み式の塾などに行っているような場合も、子どもに大きな影響を及ぼすことがあるだろう。

健やかに育ってきた子であれば、基本的にみんな、あれこれ考えることは楽しいと感じるはずなのだ。その興味の芽をいかに枯らさず、摘み取らずに育てるかが子どもの学びにとって何より重要なのではないかとさえ思う。

それは幼い子であれば、尚更意識しておいてほしい。

最近はお子さんの数もひとりかふたりというご家庭が多くなってきているし、その分ひとりひとりの子どもにかけてやれる時間というのも増えているだろう。だから、可愛い我が子が何かでちょっと立ち止まっていると、すぐに手を差し伸べ、時には手を引いてあげてしまうのではないだろうか。しかし、それによって失われるものはあまりにも大きいのではないだろうか。

もちろん、育児の面で放任しろとか無視しろとかいっている訳ではない。いくらでも抱きしめ、言葉をかけ、愛情を注いで育ててほしい。
ただ、「学び」に関しては手を貸すのをできる限り堪えてほしい。以前にも書いたが、洋服のボタンを留めたり、靴の紐を結んだり、そんなことをやらせもせずに手助けするのは決して愛情ではないと思うのだ。その延長に、何かを学ぼうとする子どもが立ち止まっているときにすぐに手を貸してしまう状態が出来上がってしまうのかもしれないが、子どもが大切であれば尚のこと、そこはぐっと堪えてほしい。

教室に来ている子達の中で、小さくても自分の頭でよく考えているなと思う子達は皆、ヒントを出されるのを嫌う。せっかく考えているのを邪魔されたくないからだ。そして、本当にお手上げのときだけ必要な分だけのヒントを求めてくる。だから一層賢くなっていくのだ。

皆さんも、可愛い我が子にすぐに手を貸し過ぎてはいないか、一度考えてみて頂けると嬉しく思う。

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2006年6月15日 (木)

楽しい会話

先日、字のことでご相談を受けたことを書いた。

その後、話題の彼がレッスンに現れた。
彼は利発な子なのだけれど、少し人見知りが強いのか、信念があるのか、何でも大人が言った通りにやるというタイプではなく、実際教室で書いてくれる文字も、丁寧に書かないので「キレイ」とは言えない状態だった。

お母さんからのご依頼もあったので、試しにレッスンの初めに1枚だけ、ひらがなをお手本通りになぞるプリントを渡してみた。普段はそんなことしないので、気が向かなければ書いてくれないかもと思いながらも、「これ1回だけでいいからじょ~~~~ずになぞってみて。」と言って差し出した。

すると、案外すんなりとひと文字目をなぞり、次の文字、次の文字へと。最初の1文字はお手本をなぞったのだけれど、他の文字は空欄に彼自身の文字が書かれた。驚いたことに、そこに書かれた文字は1年生にしては十分すぎるほど上手な文字だった。

実は私も子どもの頃はお習字や硬筆で結構褒められていたのだけれど、それ以上に上手なのではと思うほど、彼がこれまでに見せたことのない素晴らしい文字だった。

それを見た瞬間、あぁ、この子は大丈夫だと思った。
その気になればこんなにキレイに書けるのだと。これまで走り書きや殴り書きのような文字しか見せてくれなかったから、そうしか書けないのかと思っていただけに、驚きもしたし感激もした。

お迎えにこられたお母さんに、「すごく上手に書けますね~。」とそのプリントを見せると、「こんなにキレイに書けるならちゃんと書けばいいのに。今日も連絡帳がすごいことになってたでしょ。。。」とお母さん。
いくら言ってもきかないのだとのことだったので、お母さんも頭を悩ませているのだろう。

試しに彼に尋ねてみた。

「なんでこんなに上手に書けるのに書かないの?キレイに書いたら学校の先生も『すごいねぇ、こんなに上手に書けるのね!』ってびっくりするよ。」

「だって早く書かなきゃダメだから。」

と彼。

お母さんが、そんなことないでしょう?と尋ねるけれど、彼は認めない。だからわざとこう言ってみた。

「もしかして、キレイに書けないんだって思わせといて、先生をびっくりさせようと思ってるの?」

すると

「そう。びっくりさせようと思ってるの。」

と。

もちろんそんなこと考えてはいなかったに違いないけど、もうおかしくって可愛くって

「そっか。びっくりさせるんや~。じゃあなるべく早くびっくりさせてあげてね。」

そう言ってお見送りした。
お母さんも少し笑っておられた。

さて、彼はいつ先生を驚かせてくれるのか、気長に楽しみに待つことにしよう。

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2006年6月14日 (水)

ご案内

読書感想のブログで何度かご紹介した「りんご先生」が、このたび学習パズルのCDマガジンを発刊されることになりました。

パズルで賢くなるというのは、私も教室をしていてしみじみ感じていることですので、このマガジンはかなり楽しみにしています。(実は私もちょこっとだけ参加させて頂いているのですが、私以外に数名の素晴らしい先生方がエッセイを書いておられ、それも一緒に収められています。私のせいで格が下がってしまうのではということが非常に心配です。(苦笑))

教室に来てくださっている方は、必要に応じてりんご先生のパズルも使っていく予定ですが、それ以外の方でこのブログを読んでくださっている方々、一度ご覧になってみませんか?

創刊号は送料・代引手数料込みで1,000円とのこと。
7月号は6月20日頃に発行の予定だそうです。
詳しくはこちらをご覧ください。

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2006年6月13日 (火)

きれいな文字を書くということ

あるお母さんからご相談があった。

まだ1年生のお子さんが文字を丁寧に書かないのだと。急がなくていいから丁寧に書きなさいと言っても、全くというほど効果がなく、学校でも連絡帳にそんな指摘を受けているので困っていると。

おまけに、習っていない漢字を書き順もめちゃくちゃで書こうとして、それも学校の連絡帳で指摘を受けたとか。

まあ、学校の連絡帳はともかくとして、文字を丁寧に書かない子は決して少なくないと思う。
また、文字がキレイであれば学力も高いとは一概には言えない面もある。

実際、理系の優れた人で非常に読みづらい文字を書く人は少なくない。例えば、昔懐かしい高校時代、ある数学の先生の文字は本当に判読できず、試験中、見回りにきた先生に一斉に質問の手が挙がるのだが、その大半が「これはなんという字ですか?」だった。

また、私と兄は同じぐらいの期間、同じ先生にお習字を習っていたが、書く文字は全く違う。
個人的には、文字にも性格のようなものが現れるのではないかとも思っている。

ただ、お習字などを習ったことがないという子でもときどきとてもバランスのとれた美しい文字を書く子がいる。個人的には、そういう子たちは多分、模写の能力であるとか、図形把握の能力であるとかが優れているのではないかと思ったりする。

また、例えば、お手本に書かれている文字を見て、それを「美しい」と感じられるかどうかも大きなポイントのように思う。

仮に、お手本の文字が美しいと思えば、「あんな風に書けるようになりたい」、「よし、真似をしてみよう」、そんな風に思える気がする。
しかし、お手本の文字を見ても何も感じなければ、真似してみようと思わないだろうし、まだ幼ければ尚更キレイに書くことの必要性もよくわからないだろう。

ただ、もしお手本を見て美しいと思わなかったとしても、例えば私がそうだったように、書かれたお手本を真似して書いたとき、周りの大人が褒めてくれたとしたら、それが嬉しくてもっとうまく真似ようとすることはあるのではないだろうか。
よりお手本に近く書けたときにはぐるぐるの花まるがもらえ、あまり上手く書けなければ小さなまるだったり、まるがもらえなかったりすれば、幼い子であれば花まる欲しさに頑張って真似ようとする子は多いはずだ。

それを文字を書き始めたとき、なるべく早い段階から繰り返せば、手や目がそのバランスを覚えてしまい、読みやすいバランスのとれた字が書けるようになったりはしないだろうか。

もちろん、個人差はあるだろうし、真似が上手な子とそうでない子、花まるに魅力を感じる子とそうでない子などはいるだろう。ただ、ある程度の効果は望めそうな気がする。

ただ、気をつけなくてはいけないであろうことは、せっかく字を覚え始めたときに、上手く書けていない字についていちいち「ここがダメ」だの「こっちはもっとこうしなさい」だのと小うるさく言うことだ。それをされると、恐らく殆どの子はやる気を失うに違いない。

あくまでもポイントは上手くできたところを褒めることであって、できなかったことを指摘することではないのだ。
もちろん、初めのうちは大人が見て上手く書けているものなどないかもしれない。けれど、その中で、例えば部分的にでもいいのだ、どこかお手本にそっくりに書けているところがあれば、その部分だけにぐるぐるとまるをしてあげればいい。

仮に「あ」を5回書かせたとして、1回目は「あ」の最初の横棒だけがぐるぐるのまるだったとしよう。そのときに、「すごいねぇ、ここ上手に書けたねぇ。次はここが上手にまあるく書けたらバッチリね。」というように、次への目標を示してあげればいいのではないだろうか。そして、2回目はさっきより上手になったところがあれば必ずそこを褒める。もしもさっきの方が上手だったら、2回目がダメというのではなく、1回目の字を指して「こっちの方が上手だね」とあくまでも上手な方に目を向けさせる。そんな風にすれば、大抵の子はやる気をそがれることはないのではないだろうか。

ちょっと話は逸れるが、教室で使っている幼児の教材の中に、ときどき運筆練習のようなものが出てくる。点線で書かれた波線や直線、ジグザグの折れ線などをなぞるのだが、それをなぞっているときにも、単調な作業に飽きさせないため、私はその方法を使う。

1回目に書いた中で上手に書けた部分にぐるぐるとまるをする。いっぱい褒める。その後2回目を書いてもらう。ときどきは「○○ちゃんはどこが上手に書けたと思う?」と自分が書いたものの上手なところを答えてもらったりもする。そういうことを繰り返していると、大抵は途中で投げ出すことなく、次はもっと沢山まるをもらおうと頑張ってくれるのだ。

加減は難しいとは思うけれど、「初めのうちは汚くても書けていればいいか」とか、「せっかく書けるようになったのに、書き順まで言ったらイヤになるんじゃないかしら」とか思って、初めのうちは何も言わずにおいて、あるときから突然、「キレイに書きなさい」、「書き順はこうでしょ!」みたいにやられたら、子どもは訳がわからなくなるかもしれない。それこそ、一気にやる気を失う危険がある。

教え込もうとするのではなく、初めのうちはとにかく上手に書けたら褒める、書き順どおりに書けたら褒める、そういうことを繰り返して、やる気をそがずにうまく導くことが大事なのではないだろうか。

ただ、いくら働きかけても変わらないお子さんもいるかもしれない。

例えば、学校に頻繁に忘れ物をしていく子にいくら周囲が働きかけても直らない場合もあるらしい。けれど、親野先生のご本だっただろうか、どうしても忘れ物が直らない子どもが、あるとき、転校することになったお友達にお手紙を書くことを忘れていて、仲良しだったお友達に最後にお手紙を渡せなかったということが強い後悔の念となり、その後忘れ物をしなくなったというエピソードが書かれていた。

要するに、そのときまでその子にとって「忘れ物」は大して困ることではなかったのだろう。だから、いくら言われても直す必要を感じなかったのかもしれない。それが、誰に言われたわけでもなく、本人が強い後悔をしたことによって変わったというのは納得できる話だ。
大人だって、変える必要を感じないことをわざわざ努力して変えようとはしないだろう。

つまり、いくら言っても丁寧に書かない子や書き順を覚えない子は、丁寧に書くことや書き順を覚えることに対して必要性を感じていないのではないかと思うのだ。
けれど、例えば、雑に書いたことでテストで満点を逃したとか、最近ではそんなこともないのかもしれないが、好きな子に手紙を書くためにキレイな字を書きたいと思ったりとか、そんなきっかけである日突然変わるかもしれない。

まあ、極論すれば、文字なんて汚くたって書き順がめちゃくちゃだって、生きていく上でそんなに不自由はない。特に最近では社会に出てからは文字を書く機会もどんどん減っているように思うので、尚更困ることは少ないだろう。

けれど、美しい文字が書けるとそれだけで印象がよくなるのも事実だし、見目麗しい女性が判読不能な文字を書いていたらやはりがっかりしそうな気もする。
だから、書けないよりは書けるに越したことはない。でも、その程度に考えればいいのではないだろうか。

もし今文字を覚え始めたぐらいのお子さんがおられる方は、何か参考にして頂けたらと思って書かせてもらったけれど、一番大事なのは「必要なときに丁寧な字が書けるかどうか」であって、常にキレイな文字を書く必要もない。場合によっては「常にキレイに」ということがかえってマイナスになることだってなくはない。
例えば、とにかくきちんと丁寧に書かなくては気がすまない子は算数などである程度スピードを要求されるときには時間がかかって結果が悪くなってしまうことだってあるからだ。

数年前、塾にいた中学生の男の子は見事だった。漢字テストなど、止めやはねまで意識して書かねばならないときには、それこそお手本になるぐらい整った文字を書くのだが、普段数学の計算のノートなどを見ると、何を書いているのかわからないような文字が結構あり、自分にだけ読めればいいものとそうでないものを区別し、臨機応変に対応していたのだ。こういう子はまず間違いなく頭がいい。

また少し話が逸れたが、お子さんに丁寧な文字を書いてもらうためになにかご参考になれば幸いである。

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2006年6月12日 (月)

半月ほど前から、お隣の屋外給湯器の上につがいらしい鳩が住み着くようになった。
震災後今の家に暮らし始め、もう10年になるが、鳩が住み着いたのは初めてのことだ。初めはたまたまかと思っていたが、そのうち、仕事を終えて夜遅く帰ると、2匹の鳩が常に低位置に止まっているようになった。そしてとうとう小枝がその辺に散らばり、フンがあちこちに落ちるようになった。お隣の部屋の前を通らなければ、私は自分の部屋に入れないので、鳩には罪はないものの、これは困ったことになったなぁと思っていた。

そのうちとうとう、1羽がときどき私の部屋の屋外給湯器にも留まるようになった。さすがにいよいよ困ったことになった。。。
危害を加えずに追い払う方法はないものかとネットで調べてみたのだけれど、鳩のフンは人体に悪影響を与えるとか書かれていて「害鳥」扱いをされていた。
中には鳩に害はないというスプレーなどもあり、購入すべきかどうか迷って数日を過ごしていた。

昨日は休日だったのだけれど、ドアの外で何か声が聞こえる。モニターを覗くと家主さんご夫妻が何かしているようだ。モニター越しに見えた家主さんの両手には一体どこにあったの?というほど大量の小枝が抱えられ、大きなゴミ袋がほぼいっぱいになっていた。

お掃除に来られたのかなと思いながらも、鳩のことをご相談しようとドアを開けると、どうやらお隣の方が連絡をされたようだ。
しかし、もっとも驚いたのは、さっきモニター越しに見えたひと抱えの小枝は全てお隣の給湯器の囲いの中にあったのだという。

「火事にならなくてよかったわ。」

家主さんはそうおっしゃって、とりあえず今日は応急処置をして、また何か考えますとおっしゃった。
しかし、家主さんが続けておっしゃった。

「卵があったんですよ。こんな小さいのがね。気がつかないで(卵を)ダメにしちゃったんですけどね、可哀想なことしました。」

なんだか胸が痛くなった。
私が帰ってくるといつも、つがいの鳩はしっかりと空を見つめ、何かを見張っているように見えた。巣は外からは全く見えなかったので、ただそこに留まっているのだと思っていた私には、なんでここにいついちゃったんだろう?という思いしかなかったが、大切な大切な卵をふたり(ふたはと?)して一所懸命に守っていたのだ。

鳩は何の悪気もなかったのだし、たまたま温かくて安全そうな場所を見つけ、子育てをしようとしたに過ぎない。
鳩のフンは確かに見て気持ちのいいものではないし、おまけにそれが人体に害があると言われれば、住み着かれては困るのは確かだ。けれど、「害鳥」というのは人間の勝手な基準で、鳩は人間に迷惑をかけてやろう、悪いことをしてやろうなんて思っているはずもない。

昨日出かけて帰ってきたときにはもう鳩の姿はなかった。

望んだことに違いないのだけれど、なんだかとても切ない。

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2006年6月11日 (日)

少しの安堵と少しの後悔

以前、「子どもの残業」というタイトルでブログを書いた。
その男の子のことがこのところずっと気になっていた。

3月に聞いたときより明らかにすごい数の習い事を掛け持ちしているらしかった彼は、見ていて心が痛くなるぐらい集中力を失い、後から入ってきたお友だちに見る見る追いつかれ、けれど本人はきっぱりと最難関の中学を受験するのだというのだ。そのために小学1年生にして既に沢山勉強をしなきゃいけないと思っているのだ。

しかし、まだ幼い彼にこちらではAの方法、あちらではBの方法、更に他所ではCの方法と、色々なものを一度に与えられたら、混乱して伸び悩むのは当然じゃないのだろうかと思っていたが、「のんびり屋で集中力がないでしょう。。。」とおうちの方は嘆かれた。

このところ体調も優れないようで、風邪を引いてお休みしたりということもあって、これは近いうちにこちらから言わなくてはいけないのかなと思っていた。
ただ、仮にここを辞めたとしても、その時間をのんびりする訳ではなく、恐らく何か他のお勉強にあてがうのだろうとも思ったので、切り出してよいものかを悩んでいた。

しかしこちらから切り出すまでもなく、秋頃までしばらくお休みしたいという連絡が入った。
きっとそれは「お休み」ではないだろう。可愛い子だったから、彼に会えなくなるのは淋しい。
それでも、このまま通ってもらっても、正直言って恐らく殆ど効果が出ないだろうと思っていたから、淋しいながらもこちらから切り出さずに済んだことに少しだけホッとした。

何度も書いているけれど、私はずっと公立育ちだったから、受験らしい受験といえば大学受験ぐらいだった。(高校も受験はしたけれど、必死で勉強をしたという感じではなかったし。)

そして、教室をしている今も、もし本当に週に3日も4日もお弁当まで持って長時間塾に行き、およそ小学生とは思えない時間帯に帰宅し、深夜に就寝しなければ合格できないのであれば、中学受験の指導をしたいとは全く思っていない。小学生の間にはもっと優先すべき大切なことがあるはずだと思っているからだ。

ただ、もちろん、「中学受験は素晴らしい」「人生において大きな意義がある」とおっしゃる方がおられることもわかっているし、中学受験をして、今素晴らしい人生を歩んでおられる方も大勢おられることだろう。
それに、今通ってくれている高学年になった子達は仮に受験をしますと言ったとしても、それに耐え得る能力やセンスを身につけてくれていると思うので、彼ら彼女らが所謂「受験塾」に行ったとしても、それはそれなりにやっていってくれるようにも思う。

直接受験指導をする気はないけれど、中学受験をする子であれば3年もしくは4年までに私のできる限りのことをして、詰め込みや反復に潰されない土台のようなものを作るお手伝いをしたいとは思っている。

だから私は中学受験を否定する気はない。ただ、あくまでも個人的に、色々なものを犠牲にして必死で勉強をしなければ合格できないような難関校を受ける子達の受験指導をしたいと思わないだけだ。(もちろん、経験もないので、しろと言われても満足にはできないのだろうけれど。)
そういう方には実績やノウハウ、情報をいっぱい持った「素晴らしい受験塾」に行って頂けばいいと思っているというだけだ。ただ願わくは、低学年の間には詰め込みや反復ではない学習をさせてあげてほしい。しかし、そういう場はまだ限られているようだから、私はそのひとつでありたいのだ。

うちの教室には入室テストも成績による線引きも存在しない。これまでは通いたいと思ってくださる方は基本的に皆さんお受けしてきた。

ただ、しばらく前から考えていることがある。
現状の成績がいくら悪くても本人にできるようになりたいという気持ちさえあればお断りしないのは今後も変える気は全くないし、もっときちんと考えた上で「入室基準」のようなものを文書にしたいと思っているが、とにかく私がしたいことは「子どもが幸せになるためのお手伝い」なのだ。そのお手伝いができそうにない場合には正直にそれをお伝えしようと思う。

ただ、もし私がもっともっと勉強をしていて、彼のおうちの方にもっと強く自信を持って色々なことをご提案できる人間だったら、私にもお手伝いできることはあったのだろうと思うと、自分の未熟さが悲しい。

彼の未来が幸せなものでありますように。

○○ちゃん、お役に立てなくてほんとにごめんね。

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2006年6月10日 (土)

分数をイメージする・解答編

実は以前から思っていたのですが、私のこのへなちょこブログを読んでくださっている方の多くが私よりずっと色々お勉強されていて素晴らしい方のような気がすると。
やはりその予想は当たっているようです。

という訳で、コメントくださった皆さまから、それぞれ素晴らしい解答を頂きました。
初めてコメントくださったサインさんだけが最初のコメントでいきなり大正解を出してしまうことにお気遣いくださったようですが(感謝)、後の皆さまはそれぞれに素晴らしい!さすがです。

通分や小数に直す方法を知らなくても大きさ比べをする方法を皆さんで考えてくださったことにとても感謝しています。

しかし、読みながら、すごいなぁ~、几帳面でらっしゃるなぁ~と色々感心致しました。
「ピザを9等分するのが難しそうなので・・・」というコメントには、そうか、そういうこだわりのある子どももきっといるに違いないと、新たな発見もさせて頂きました。

ただ、この問題で答えなければならないのは「どちらが大きいか」ということだけです。
「どちらがどれだけ大きいか」ではありません。

ということは、例えば、アロマぽっとさんが書いてくださったように、正方形を9等分して8つ色を塗ったものと、6等分して5つ塗ったものなら一目瞭然ですよね?
更に、ケーキでもピザでも切るのをちょっとぐらい失敗したって、余程激しいアンバランスさでなければ見たらわかるはずですよね?

小さい子どもにも一番わかりやすいのはAYAGONさんの感覚じゃないかなと思います。

実際、教室の子たちにはその子その子に応じてヒントの出し方は変えたりしますが、もともと教室では分数を主に円を等分したものを使って学習しますので、それを何度も見ている子は言わなくても感覚的に理解して解いてしまいます。

分数を円で見せるもう一つの大きな効果は時間の換算です。
円を時計の文字盤に見立てると、時間を分に直すのには60をかけるとか逆は60で割るとか、そんなこと覚える必要がなくなります。2分の1時間は円の半分だから30分。6分の1時間は円を6等分にするから10分。。。というような感じで、文字盤の大きさから換算してしまいます。

と、ちょっと余談でしたが、小さい子にもわかりやすいとすれば、ケーキの9等分が難しいというご意見がありましたので、ケーキでももちろんOKなのですが、同じカステラかロールケーキを2本ご用意頂きましょう。(実際にはなくて構いません。子どもが絵を描いてもいいかと思います。)

1本は9人で仲良く食べられるように切ります。もう1本は6人で仲良く食べられるように切ります。(仲良くというのは「同じ大きさに」でももちろんOKですね。)
上手に切れたと思っていたら、知らないうちに誰かがどちらも1切れ食べてしまいました。
残っているカステラ(ケーキ)はどっちが大きいでしょう。(9等分のうち1切れ食べたら残りは9分の8、もう一方は6分の5ですね。)

これなら殆どの子どもがわかるはずですし、カステラのような棒状のものだと、線分図のイメージにもつなげられると思いますので、それはそれで役に立ちそうですよね。
中学年以上になってもこの感覚がぴんとこない子は数量感覚が育っていない可能性もありますので、生活の中で色々な実体験をさせてあげてくださいね。

因みに、どちらが大きいとか、大体どのぐらいの数になりそうだとか、そういう感覚が身についている子は学年が上がるにつれ、問題を解くスピードが驚異的に速くなったりもします。仮に、分数が5つぐらい並んでいて、大きい順に並べるような問題があった場合、通分するか小数に直すかでしか判断がつかない子と、頭の中で大きさがイメージできる子とのスピードの差は歴然でしょう。

そういう意味でも、小さいうちは、大量のペーパーの問題を解くのではなく、色々な経験をさせてあげる方が後々絶対伸びると思います。外遊び、昔の遊び、お手伝いなど、直接勉強には関係ないようなことこそが大切なのかもしれませんね。

皆さんの解答が素晴らしかったので、わざわざ書くまでもなかったかと思いますが、何卒お許しくださいませ。(笑)

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2006年6月 9日 (金)

解答の前に。

ありがたいことに、きちんとコメントを入れてくださった方もおられ、アロマぽっとさんのコメントに至っては、「通分」を理解させる上で非常に有効な手立てをご紹介くださっています。(またこちらももう少し詳しく書かせて頂きますね。)

で、解答を書こうと思ったのですが、「なんだそんなの。騙された!」と思われても悲しいので、その前にもうひとつだけ。

問題の分数の分子と分母をよく見てくださいね。

では答えは深夜に。

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分数をイメージする

昨日、もしかしたらまた何かちょこっとお役に立つかもと思った出来事がありましたのでご紹介。

つい先日から通ってくれている、なかなかよくできる小3の男の子。
お母さんがご家庭で小さい頃からいいご指導をしてこられたのだろうと感じる子で、おまけに某受験塾に通っているということで、恐らく普通の小3としてはかなりよくできる子なのだと思う。(どうも最近は通ってきてくれている子達がみんなよくできるので、多分私の「普通」の基準がかなり高いはず。)

某受験塾では、3年までに6年間の内容をまずざっとひと通り学習してしまうらしく、機械的に覚えてしまう前に実感を伴って学習させたいということで来てくれることになったのだけれど、そのため、教材の進め方があちこち行ったり来たりの状態になっている。

で、先日、分数の学習をしたのだけれど、宿題のプリントの中でこの問題は全く理解できていないようだというメモをつけてくださった1枚のプリントを今日彼が持ってきた。
これまで、教材を順にやってきた子達はすんなりと進んでいたので、私自身も新たなる発見でもあった。

そのプリントは2つの分数の大きさ比べをするものなのだけれど、その中の1問がよくわからなかったという。それはこんな問題。

8/9(9分の8) (  ) 5/6(6分の5)

カッコに不等号を入れるだけなのだけれど、現段階で彼は通分も知らないし、分数を小数に直すという考え方も知らない。
お母さんは、通分を教えていいものか迷われて、そのまま持たせてくださったそうだが、私の言葉を聞いたお母さんが「はぁ~っ、そうですねぇ。」としみじみ言ってくださった。
ということは、きっとそんな風に考えたことのない方は他にも大勢おられるのだろうなと。

まあ、そもそも、私自身、分数の大きさ比べをするには通分するか小数に直すかという方法しか習わなかったような気がする。
しかし、うちに来てくれている子達はこの問題をやる段階ではそのどちらも習っていない。そして、この問題を解くのに、実際そのどちらの方法も使わない。けれど、これまでやった子はみんな解いている。

さて、どうやって考えると思われるだろうか?(まあ、とっくにお気づきの方も沢山おられることとでしょうが。)
せっかくなので、たまには一旦ここで皆さんに考えてみて頂くことにします。

続きはまた後ほど。

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あった。。。

今の今まで全く微塵も気づいておりませんでした。。。
私、一昨日ブログを更新していなかったのですね。。。ショックすぎる。。。
絶対何か書いた気がするのに。。。

と思ったら発見しました。。。
何かの手違いで7日の記事が6日の日にUPされておりました。。。(なので7日に直しました。)
書き忘れていたのではなくてちょっとホッとしましたが、書いた内容を全く思い出せなかったということには大いなる不安が。。。(苦笑)

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2006年6月 8日 (木)

知らなかった。

ネット上には色々なニュースサイトやランキングサイトがある。
といっても、普段私が覗くそういうサイトは極々限られていて、片手でも余る。
けれど今日たまたま、とあるニュースサイトからとんだ先でこんなニュースを見つけた。

何度もいうように、最近私は全くというほどテレビを見なくなったし、もともと週刊誌とかは見ないから、芸能ネタには激しく疎くなっている。
なので、本当に全く知らなかったのだけれど、ダウンタウンの松本人志さんが写真週刊誌を訴えて勝ったそうだ。

そのことについてここで知った。
まっちゃんエライ!と思った。

もともと私は写真週刊誌とか女性週刊誌というものが好きではない。ワイドショーを賑わせている芸能リポーターも嫌いだ。
けれど、需要があるからこそ世の中から消えることもないのだろう。

しかし、いくらなんでも行き過ぎだろう。防犯カメラの映像からって、訴えたまっちゃんはえらいと思う。そういうビデオを借りていたとしても、キャラ的になんとでもなるはずだし、たかがそんなことで彼は訴えを起こしたりはしないように思うから、間違いなくご本人が述べておられるようにこんなことがまかり通ったら大変だという思いなのだと思う。

知らないところで撮られている防犯カメラの映像をそんな風に使われることが許されたら、芸能人でなくたって、おちおちエレベーターにも乗れやしなくなる気がする。

マスコミってなんなんだろう。
もちろん、素晴らしい報道も沢山あるし、報道の仕事に誇りを持っておられる方も沢山おられるだろう。
けれど、写真週刊誌や女性週刊誌などでゴシップ記事を書いている人たちに仕事への誇り、そもそも人としての良心、そんなものはあるんだろうか。。。

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本日は。

一旦帰宅してから更新致します。
ちょっとお買い物をせねば。。。

ココログが延々深夜2時から夕方18時過ぎまでメンテで使えなかったため、間で書くことができませんでした。。。では後ほど。

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2006年6月 7日 (水)

もしかしたら何か参考になるでしょうか。。。

教室を始めてから、自分の中でも変わったことが色々ありますが、初期の頃と今とでは更に変わってきていることもあります。
そんな中で、いつ頃からかはちょっと不確かなのですが、ある場面に出くわすとやってみるようになったことがあります。

最近では普通にやっているのですが、そのことがもしかしたら家庭学習の際、何かご参考になるかもと思ったのでちょっとだけご紹介します。といってもなんでもないことなので、既に皆さん実践されているかもしれませんが。

子どもと勉強していて、時々こんなことはありませんか?

前回(前日だったり1週間前だったり、それは色々ですが)スラスラできていた問題が突然できなくなる。
極端な場合は、ほんの2、3分前までスラスラ解いていた問題が突然できなくなる。

子どもがそんな状態に陥ったとき、以前の私は(一体どうしたの??)と思い、子どもにも「なんで?さっき(または先週)までできてたやん?」と尋ね、何とかしてその問題を思い出させようとやっきになったりということがありました。

どう考えたってほんのさっきまでできていたのに、できないはずはない!と思っているため、やったらできるはず。。。と熱くなってしまうのです。

けれど、そういう状態に陥った子に熱くなっても大抵の場合いい結果は得られません。私は焦る、子どもにもそれが伝わるし、確かにさっきまでできていたのになんで?と子どもまで自信をなくしたり、どんどん表情がどんよりしてくる。
ホントにいいとこなしです。

では、どうすればいいのか。

この方法は上記のような状態になった子にしばしば効果がありますので、ご家庭で「なんでこんなのもできないの~~!!(怒)」となってしまう危険を回避するためにもご参考までにお知らせします。

それは、一旦全く別の、できればその子が確実にできそうな問題をやらせてみるのです。
私なら、そのプリントの中で確実にできそうな問題を先にさせるか、その中にはなさそうであれば、別の確実にできそうなプリントなどをまずやらせるのです。そして、調子が戻ってきた頃に、改めてもう一度その問題に戻らせてみると、絶対ではありませんが、かなり状況が改善します。場合によっては「なんでできへんかったんやろ?」とか言いながら、スラスラ解いていく子どもを見ることもできます。

どうしてそういう状態に入り込んでしまうのかはまだわからないのですが、うちに来てくれている子達でそんな状態になることがあるという子は決して少なくありませんから、ご家庭でそんな状態になることもきっとあるんだろうなと。

けれど、実際、以前は当たり前のようにできていたのですから、何かちょっとしたきっかけで元に戻ったりすることは往々にしてあるようです。その方法が、「視点を変える」、「気分を変える」、「できることをやって調子を戻す」といった工夫なのです。

これをやってもダメな場合は、「その日は一旦諦める」というのも大事なんじゃないかと思います。ひと晩寝たらまたできるようになったなんてことも十分あり得ますから。

簡単なことですが、何かご参考になれば幸いです。

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2006年6月 6日 (火)

どうもすっきりしない。

実は今とても読んでみたい本がある。
先日読んだある本でとても感動し、同じ著者の別の本を読みたいと思ったのだ。

早速ネット書店で検索したところ、アマゾンも楽天も@niftyBOOKSもジュンク堂も全て在庫なし。おまけに取り寄せもできないとの表示。

ふと見ると、アマゾンでその本がユーズドで5,000円で出されていた。定価は1,500円である。
さすがにそれを買おうという気にはなれず、とりあえず大きな書店で聞いてみようと思い、先日近くでは一番大きいであろう某書店に行き調べてもらったが、やはり出版社でも売り切れ状態になっているらしい。とりあえず全店の店頭に残っていないか確認してくれることになったが、多分可能性は低いのだろう。

その後、またアマゾンを見てみた。すると、別の出品者が登場し、3,500円で出品されており、それに伴い当初5,000円の設定だった方も値段が下がった。
更に数日経ち、今は全部で5件の出品者がおり、最安値は2,500円まで下がった。けれど、定価より1,000円も高いのだ。

もちろん、そういう商売があるのはわかっている。アンティークでもなんでも、結局はほしい人と売りたい人の折り合いがつくところで売買が成立する。いわばオークションだって同じことだろう。

ただ。。。どうも本に関してはすっきりしないのだ。仮にこれが古文書など、歴史的な価値があるもので値段がつかないものをほしい人が競って買うというのはまだわかる。けれど、つい2年ほど前に出版された本だ。おかしいかもしれないが、私は震災のときを思い出してしまった。

震災のとき、物資が何もかも不足して、特に水をもらうためのポリタンクを手に入れるのがとても困難だった期間が、僅か数日間だったけれどあった。そのとき、避難所へポリタンクを売りに来た人間がいる。我が家がそのポリタンクを買うことはなかったが、常識では考えられない値段が付けられていた。被災した人たちの足元を見るような商売をして得たお金で果たして幸せを得ることなんてできるんだろうかと思ったし、強い憤りも感じた。

もちろん、たかだか本だし、そのときとは全く違う話なのだろうけれど、どうもなんだかすっきりしない。
まあ、あり得ない値段のポリタンクが売れたであろう日数はごく限られていたと思うし、私がほしい本だって結局だんだんと出品数が増えていることを思えば、もっと待てば更に値は下がるのだろう。

2,500円であれば、買って読みたいという思いはあるのだけれど、どうにもこうにも融通が利かない性質のようだ。
素晴らしい方の素晴らしい本なのだから気持ちよく買って気持ちよく読みたい、そう思ってしまい、結局は未だに購入ボタンを押せずにいるのである。

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2006年6月 5日 (月)

衝撃的なニュース

恥ずかしながら、普段新聞を殆ど読まない。届いた新聞の1面をチラッと見るぐらいで、最近はテレビも殆ど見なくなったため、テレビ欄すら殆ど見ることがなくなってしまった。
まあ、たまに気になるニュースが出ていると、ちょこっとだけ読むことはあるけれど、チラシと惰性で取っているようなものかもしれない。

しかし、今日の新聞の1面には秋田の事件のことと村上ファンドのことが大きく書かれていたのだが、そのすぐ下の記事に私は最も衝撃を受けた。

以下をまず読んでみてほしい。この記事の書き出しの部分だ。

 学生たちが教室で鉛筆を走らせている。配られた紙に、ひらがなが羅列されている。
 <ながねんにわたってはぶらしをまよこにうごかすはみがきをつづけているとしにくにちかいぶぶんがくさびじょうにすりへって……>
 課題は、句読点を補って「漢字かな交じり文」に直すこと。辞書の使用は許されている。机の上には国語辞典のほか、辞書機能つきの携帯電話やワープロソフトを立ち上げたパソコン。

さて、この「学生」というのは一体どんな子達を思い浮かべただろうか。
記事はこう続く。

講師が見回り、時々助言する。途中で力尽きたのか、机に突っ伏したり、並んだ椅子に横たわる者もいる。
 講座名は「言語表現・日本語」。でも、彼らは留学生ではない。松本歯科大(長野県塩尻市)にこの春入学した1年生たちだ。6年間の学費総額は5653万円、初年度納付金1173万円。
 時間切れとなり、配られた模範解答と自分の答案を比べ、感想を書く。ある学生はこんな感想を書いた(原文のまま)。
 「じしょがなかなか上手くひけなくてショックだった
(後略)

この記事は「大学淘汰」と題され、迫りつつある「大学全入時代」に向け、現在の大学の抱える問題などを取り上げていくシリーズのようで、その第1回目の記事だ。この後更に3面には東大医学部に進む予定の1、2年生に高校の範囲の生物を「大学の講義で」教えるということが紹介されていたり、ある大学関係者からは「うちの学生の20%が円の面積を求められない。小学4年生レベルの教材はありませんか」という発言があったとの記述もある。

因みに、松本歯科大は歯科医師国家試験の合格率が52%強で全体の合格率が80%強に対して低く留まっているとも書かれているのだが、私にしたら、こんな授業を受けている子達のうち50%が歯科医師の国家試験に合格するという事実の方が衝撃的だ。

小中学生の語彙が減っていると嘆いているレベルの話ではない。そもそも、小中学校は義務教育なのだから、どれだけ勉強ができない子どもがいても理解はできるが、それじゃあ「大学」っていうのはなんなのだ?経営のため、誰でも彼でも受け入れるのであれば、もう本当に「大卒」なんて学歴になんのステイタスもないし、それならむしろ専門学校などに行って真面目に専門の知識を学んだ子の方がよっぽど「使える」大人になるんじゃないか。

あまりに衝撃が大きくて、私は今でも少し信じられない気分だ。
この先日本はどうなっていくんだろう。
こんなに何も資源のない国、自分達だけでは食べ物すら全く自給できない国、そんな国で生まれ育った私たちは知識、知恵、才能、文化、そんな形のないもので身を守っていかねばならないのではないんだろうか。
もちろん、農業を志し、自給自足を目指すとか、日本を脱出して海外で暮らすとか、そんなことをいう人もいるかもしれない。けれど、そうできる人間はきっとほんの一部に過ぎない。

ドラゴン桜で「頭の悪い人間は騙され続け、搾取され続ける」というようなセリフがあったけれど、あれはとりあえず日本国内で官僚など一部の「エリート」と呼ばれる人間達が自分達に都合のいいように法律を作り、制度を作っているというようなことを言っていたはずだ。
しかし、今の時代、諸外国は「遠い国」ではない。詳しいシステムとかはわからないが、それこそ、ある日突然外国資本が国内の大企業の株を買占め、のっとるなんてことも不可能ではない時代なのだろう。そんなことを防げるのは、「いかに考えられる人間であるか」にかかっているように思える。

私は中学生までの子ども達にしか関わっていないけれど、大人たちみんながもっともっと真剣にこの国の未来、子ども達の未来のことを考えなくてはいけないのではないだろうか。

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2006年6月 4日 (日)

新たな事実

昨日は結局週末の疲れもあったのか、更新もできずに夢の中。
今日は今日で1日、ほんの少し家事をした以外はだら~~っと過ごしてしまいました。
というわけで(?)今日はど~でもいいネタです。

晩、実家に行って家族と団欒してきました。
そこでまた新たな事実が発覚。

震災がきっかけで実家を離れ(ざるを得なくなり)、その後会社員を辞め、未だ独身。年老いた両親には心配をかけっぱなしで、せめてもの親孝行に(って、かえって心配させているかもしれないのですが)時々教室であったことなんかを話します。

今日は今通ってくれている子であまりにも色々な教室を掛け持ちして負担になっていそうな子のことが気になっていたので、ちょっとその話題を出してみたのですが、両親は「ほぉ~」とか「へぇ~」とか「大変やなぁ」とか言いながら聞いていました。

で、母がふと「うちはよかったわ。ね、お父さん。」とひと言。

あれ?いやそりゃ違うだろ?(笑)

「いや、母さんは別によくないでしょ?よかったのは私で。ほんまこの家の子でよかったと思うわ。」

すると母がまたひと言。

「あなた呑気やねぇって言われたよ。」

ん?何のこと?誰に?

「塾にも行かせてないで・・・」

お、どうやらお友だちとかに言われたってことらしい。しかし、確かに呑気だったよなぁ、それには感謝してるけど。そう思いつつ

「でも、ほんま呑気やったよね、私もやけど。中3のとき、併願で私立どこ受けますか?って言われて、2人ともわかってなくって、私が学校のパンフレット見て啓○にサッカー同好会があるのを見つけて、先生に『ここ受けます!』って言ったら、『何言ってるんですか!ここを受けなさい!』って。2人とも何にも言えへんで、『はい。』ってそこ受けることになったやん。」

と笑いながら言うと、父はそれを聞いて笑っている。(父はそういうこと一切何も知らなかったと思うので。)

しかし。。。母の次の言葉を聞いて私は仰天してしまった。

「私は親○受けたらって言ったよ、あなたに。」

は?!親○??
正直言ってそんなことを言われたのは全く微塵も覚えていなかったので、そういうと

「あなたがその気がなかったから言っても忘れたんでしょ。」

と母。

し、しかし。。。それが事実なら母さん、あなたは間違いなく「スペシャル呑気者」ですよ?
親○といえば、基本的に併願高じゃないでしょ。高校からだと定員も限られているし、学区でトップの公立校を受けるぐらいの力がいるんじゃないっけ?まあ、時代が今とは随分違うから、多少は簡単だったのかもしれないけど。。。

おまけに母さん、私が女子高向きの性格じゃないこともわかってたのでは?
更に更に、自分の意志をほぼ無視されて担任に志望校を決められてしまった(今は感謝しているけれど)私は第1志望の高校にはかなりギリギリで、絶対併願校に受かっていなきゃダメって状況だったでしょ?違ったっけ?(苦笑)

「併願で受けられる学校じゃないやん。よかったね、先生にそれ言わなくって。きっと笑われてたと思うわ。。。」

そういうと、昔から何でも明らかに実際以上にいい評価をしてくれるところがある母だったため(親バカというのだろうか。。。)恐ろしいことに

「だって、それだけの力あったから。」

ですと。(苦笑)
てか、あなたの娘は塾にも行かず、テストの成績も上の下か中の上ってとこだった気がするんですけどね。。。
てかそもそも。。。ホントにそんな力があったら、公立専願で受けていいって言われてたと思うんだけど?どうかな?(苦笑)

この母にしてこの子あり。間違いない。(笑)
ま、やっぱり色んな意味でこの家の子でよかったなぁと思った休日でした。

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2006年6月 3日 (土)

今週も無事終了。

今週も色々ありましたが、どうにか無事終了しました。
しかし、今からもうひと仕事。
時間と体力があれば深夜に更新する予定です。どうぞよろしく。

皆様よい週末を。

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2006年6月 2日 (金)

子どもへの口止め

多分私も幼い頃、母に言われたことがあるような気もしなくはないが、少なからぬ世のお母さんが子どもに向かって「これは人に言っちゃダメよ」と口にしてはいないだろうか。

例えば、夫婦喧嘩をしたときに人様に知られるのが恥ずかしくって
「○○ちゃん、ママ達が喧嘩してたのはみんなには内緒ね。」
みたいな口止めをすることもあるかもしれないし、ついついお隣の人の愚痴を言ってしまったのを子どもに聞かれて
「○○くん、今言ったことはお隣のおばさんには言っちゃダメよ。」
なんていうこともあるかもしれない。

お家の中でついやってしまった恥ずかしいこと、知られたくないことを口止めするのはまだ可愛いことのような気がするが、私が時々出会う、子どもにとって可哀想な口止めがある。

わかりやすい例で言えば、大量の機械的反復学習はさせないことをお願いしているのだが、量の少なさが不安なのか、お家やそのほかのところで色々反復させておられるご家庭がたまにある。

そんなとき、それをお子さんに口止めされることがあるのだ。
以前から書いているけれど、子ども達はお母さんが大好きだ。お母さんの言いつけは一所懸命守ろうとする。言ったらダメと言われたことは極力言わないように努力するのだ。

しかし、じゃあなぜ私にそれがわかるかというと、これまで何人かの子たちが私にこう言ったからだ。

「お母さんが言っちゃダメって言ってたから。」

子どもは本当にけな気だ。言ったらダメと言われたということを答えてくれる。決して口止めされたことそのものを認めたり、しゃべったりはしないのだ。自分の答えが大人にとっては肯定と同じことだとはわからずに、必死でお母さんとの約束を守ろうとするのだ。

もちろん、ごく稀にそういうことがあるだけなのだけれど、私の小さな教室でさえ稀とはいえそういうことに出会うということは、世の中にはそんな例は沢山あるということなのではないかと思うのだ。

「お母さんが言ったらダメって言ってた」といった子のお母さんにその話を私からすることはない。せっかく本人が必死で約束を守ろうとしているのに、私がそれをお母さんにいうことで、万一その子が「言ったらダメって言ったでしょ!」と怒られたりすることがあっては可哀想過ぎるからだ。

けれど、考えてみてほしい。そもそも、幼い子に口止めをすること自体、大抵の場合無意味だ。子どもは言っていないつもりでも結果的には相手に伝わってしまう確率は低くないと思う。

もちろん、何か約束を守ることは大切なことだ。けれど、無意味な口止めは子どもにいい影響を与えるようには思えない。
ならば、最初から口止めなどしない方がずっといいように思うのだ。

わかりやすいよう、教室の子どもとの例で書かせてもらったが、子どもに伸びやかに幸せに育ってもらいたいと願うのであれば、何かを口止めする前に一度考えてみてほしい。それは本当に口止めすべきことなのかどうか。口止めさせなくてはいけないようなことなら、それ自体をしなければいいのではないかと。
考えた上で口止めが必要なことであれば(例えば、身内が病気だけれど、人に心配をさせないために治るまで言わないようにとか、そういうことは他人への配慮でもあるし、いいのかもしれない。)すればいいと思う。

お母さん達にお願いしたい。
大切な子ども達の小さな心が不必要に痛まないためにも、無意味な口止めはできるだけしないであげてほしい。
私はそう願っている。

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2006年6月 1日 (木)

佐世保の事件の手記

昨日ネットのニュースで佐世保の事件の被害者と加害者それぞれの父親の手記が公開されたのを読んだ。

被害者のお父さんは毎日新聞社の方だったこともあり、事件直後から何らかの手記を何度か発表されたように思うけれど、加害者側からの手記が出たのはこれが初めてのようだ。

あの衝撃的な事件からも随分時間が経ち、私の中での記憶はかなり薄れてしまっていた。あの事件の直後には加害者の家庭に問題があったのだろうと思っていた。

もちろん、子どもが犯した罪の責任は親にもあるだろう。どんな理由があったにしろ、結果的に我が子が人の命を奪ったのだから、その子の親は何の責任もないというのには無理がある。

しかし、手記を読んで正直言って驚いた。もちろん、書かれたものからわかることだけで判断するのは軽率かもしれない。書こうと思えばいくらでも嘘を書けるのだから。

ただ、あの手記を読んで、お父さんが嘘を書いておられるような印象は受けなかった。そして、書かれている内容が全てお父さんにとっての真実なのだとしたら、事件直後、お父さんご自身が本当に信じられなかったに違いない。

もちろん、自分を振り返ってみても、小学6年生頃といえば、もう親に内緒のことも色々あったし、何でも正直に答えていた訳ではない。親に見せる顔と友達に見せる顔は違っていただろうとも思うから、お父さんは子どもの心の底に潜む何かに気づけなかったということなのかもしれないが、少なくとも手記から感じられるその家庭の風景は、親子の会話がないわけでも、親が子どもに過重なストレスを与えていたわけでもないように思える。

だとすると、一体なぜなんだろう。

一時、この本を取り上げたばっかりにちょっとややこしいことになりかけたけれど、ゲームの恐ろしさを挙げた岡田氏の著書のことがまた頭を過ぎった。

そしてまた別に、適応障害などの何らかの障害によって、突発的にそういうことをしてしまう場合があるというようなこともいくつかの本で読んだけれど、そういう障害は親が早い段階で気づいて適切な対処をすれば症状が軽くて済んだり、殆ど治ってしまうこともあるようだけれど、対処を誤ると悲しい結果につながることがあると書かれていたことも頭を過ぎる。

加害者の彼女が果たしてなぜあの事件を起こしてしまったのか、それはいつの日か本人の言葉で伝えられることがあるのかもしれないし、本人以外に本当の理由はわからないだろう。だから、あれこれ考えても仕方のないことなのだけれど、今回の手記はなんだかすごく考えさせられるものだった。

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