5月もおしまい。
早いですね。今年も5ヶ月過ぎてしまいましたね。
ブログ書こうと思っていたのですが、気づけばこの時間。一旦帰らないと電車もなくなるし、また太ってしまいそうです。。。(苦笑)
元気でしたら深夜に更新するかもしれません。どうぞ宜しく。
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早いですね。今年も5ヶ月過ぎてしまいましたね。
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こんなニュースを見つけた。
<強盗返金?>男が「金返しに…」 国立東郵便局・35万円 | |
(毎日新聞 - 05月31日 11:20) |
30日午後5時ごろ、東京都国立市東4の国立東郵便局(小松達雄局長)で、正面から入ってきた男が「金を返しに来た。総務部長さんにこれをお願いします」と言って、現金35万円が入ったビニール袋をカウンターの上に置き、走って逃げた。すぐに局長が自転車で追ったが見失った。局内に客はいなかった。 この郵便局では今年3月、刃物を持った男が現金34万円を奪う未解決の強盗事件があり、警視庁立川署は犯人が金を返しに来たとみている。金は証拠品として押収し、時効まで郵便局には返還されないという。 調べでは、金はすべて1万円札で、茶封筒に入っていた。男は身長約180センチ。やせ形でグレーのパーカに黒っぽいズボン姿。目撃した局員は「3月の事件の犯人と背格好が似ている」と話しているという。【古関俊樹】 |
もちろん、強盗は許されないことだし、そもそも悪いことをしたのだから褒められることでもない。おまけに確実に強盗をした本人なのかもわからないけれど、まあ、状況から考えてきっと本人なのではないかと思う。
どういう事情で強盗に入ったのかわからないけれど、3月に34万奪った強盗が5月に35万返しにきたというあたりもなんだかちょっとほのぼのしてしまった。
恐らく不幸中の幸いで、この強盗は人に怪我をさせたりはしなかったんだろう。何かお金に困り強盗に走ったものの、お金に都合がついたのか、それとも後悔したのか、とにかく捕まる危険を冒しても返しにきたということは「人として」救われる気がする。
あ、もちろん、強盗は絶対いけないことなのだけれども。
それにそもそも34万ぐらい(?)でそんなリスクを冒すなら、どこかから借りられなかったの?という気もしなくもないけれども。。。(苦笑)
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基本的に「スーパー」な子がゴロゴロいる非常に幸せな環境で日々レッスンをさせてもらっている訳ですが、立ち上げのときからの子達は私も一緒に成長してきたという感覚があり、最初の頃の姿も見ているだけに、ひときわその「スーパーぶり」が感じられます。
今日は初期組のスーパー4年生たちとスーパー5年生が来る日だったのですが、今日のスーパーっぷりもすごかった。。。
特に5年生のスーパーぶりは傍で見ていたら殆どの人が呆気にとられるのではないかと思うぐらい。
まあ、計算のスピードに関しては、そろばんやら機械的反復練習やらで極めているような子がいたら、それと同等かそれよりは少し遅いかもしれないけれど、彼とのレッスンで私が彼と交わしている会話を聞いていたら、「それは指導か?」とツッコミを入れられるのは間違いない。
今日は彼と三角形の面積や色々な形を組み合わせて考えるような面積の問題をやっていました。しかし、私は彼に一度も「底辺×高さ÷2=三角形の面積」とか「底辺×高さ=平行四辺形の面積」という公式を教えたことも覚えさせたこともありません。
そもそも、実は長方形や正方形の面積の公式すら教えたことがありません。しかし、長方形や正方形は説明するまでもなく、それまでの積み重ねですいすい解けてしまう教材のため、彼以外の子達も学校より先にここで面積を学習した子たちは長方形や正方形の面積の公式は覚えていません。けれど、もちろん全く問題なく面積を求めることはできます。
で、三角形や平行四辺形の面積の問題になったとき、彼とやったことは方眼紙の一定の幅の中に(高さが等しいということ)底辺の長さが等しい長方形や平行四辺形をいくつか描いてみせ、それぞれの面積を求めさせただけ。
方眼紙の1マスが1平方センチメートルということは既に彼は知っているので、マス何個分になるかさえわかれば面積は求められます。
で、結局、同じ幅の中に同じ底辺で描いた長方形・平行四辺形は全て同じ面積になるということを実感してもらった後は、平行四辺形の面積の求め方を説明する必要は一切ありませんでした。
そして三角形の問題も、直角三角形であれば、こちらが全く何も言わなくても長方形の半分だと自分で解いていました。で、鈍角三角形の問題ではたと止まったので、同様に方眼紙で同じ幅の中に底辺を等しくした色々な三角形を描き、面積を確かめてもらいました。
当然全て同じだと彼は発見しました。それは先週のこと。
で、今日問題をやっていて、ちょっと悩んでいるときに私が彼にかけた言葉は
「ぐぐ~~っと押したらいいやん。」
「ここ切って動かしたらいいんちゃうかったっけ?」
そんなぐらい。
はっきり言って、これだけ聞いても皆さんは「何のこと?」って感じですよね?けれど、彼にはそれでもヒントを出し過ぎたほどになってしまうのです。
そして彼は今日も快調に結構難しいレベルの問題に取り組んでいましたが、それでも多分彼は公式を知らないままだと思います。
公式は私が教えなくたってイヤでもいずれ学校で習う。
そもそも、公式を覚えなくたって解けるのであれば覚える必要なんてないのだし、必要のないものを覚えさせるのは「脳の無駄遣い」なんじゃないかなとも。(きっと批判もおありでしょうけれど。)
ってな訳で、今日の彼も相変わらずスーパーでした。計算のセンスなんてもう完全に私は置き去りにされていますから。。。(苦笑)
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中間テストの日程の関係で、今日は明日の中学生の振替レッスンがあった。中1の男の子2人なのだけれど、ひとりは小4のときから来てくれていて、もうひとりはやっとひと月経ったところだ。
新人くんは、よくも悪くも中学生らしいというか、部活でも疲れ、年齢的にも親や先生に素直にはいはいとは言えない感じもあるのか、いつもなんだかダルそうにしている。
この仕事をしているものにとって、生徒はお客さん、もっと直接的に言えば収入そのものなのは間違いない。特に私みたいな小さな教室の主にとってはひとりの子どもだって大きいのは確かだ。
だけど私はいつも子ども達に言う。
「勉強したくなければしなくていいよ」と。
勉強は自分のためにするのであって、誰かに怒られるからするとかってもんじゃないし、やる気もないのに教室に来るのは時間の無駄だしお金の無駄。そこまではっきり言う。
冷たいかもしれないけど、ホントに真顔で
「来たくなければ来なくていいよ?」
そう言う。
実際、勉強なんてやる気になったときにやればいいんじゃないかとも思う。何か夢や目標が見つかったときには、普段ダラダラのらりくらりやっているときとは比べ物にならないほどのパワーが出てくるものだ。
まあ、そうは言っても、この子だって頭ではやらなきゃいけないことはわかっているんだとは思う。けど、照れみたいなのもあって、素直に「はい」とは言えないんだろう。
そう思いながら話していると、4年の頃から来てくれている子が突然新人くんに向かって言ったのだ。
「そうやでお前、ちゃんとやらんかったら金もったいないで。無駄遣いや。」
またまた驚いた。
この子はとても優しい子だけれど、どちらかと言えばちょっとやんちゃなタイプなのではないかと思う。小学生の頃はおうちの方の趣味か、髪は茶色く染められていたような子である。(といっても、この子のお母さんがいい方なのはよく知っているのだけれど。)
その子が私の新人くんへのお説教を聞いて、素直に同意し、その上「その通り!」って言ってくれるなんて思ってもみなかったので、またひとりで嬉しくなっていた。
言動はちょっとやんちゃなところが見え隠れすることもあるけれど、この子はステキだなぁと改めて思った。
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先日から何度かこのことに関するニュースは目にしていた。色々な自治体で給食費未納が問題になってきているというのだ。
初めに見たときには、そんなこともあるのかと思ったけれど、あまりに次々とニュースになるので、要するに全国的に、少なくない件数で「給食費未納の家庭」が増えているということなのだろう。
私はもともと某巨大掲示板が苦手だ。あそこにはなんだか独特の空気がある気がして、滅多に自ら近寄ることはない。ただ、「明日は明日の風が吹く」で紹介されていたこの記事で紹介されている某掲示板のコメントに関しては、相変わらず無責任でめちゃくちゃな意見を言っている人もいるが、概ね正論、ごもっともという感じの意見が並んでいるように感じた。
もちろん、表現は乱暴だったりするものもあるが、経済的に余裕がないわけじゃないのに払わないという親には、このぐらいの言葉を直接投げつけてもいいのでは?とさえ思ったりもする。
何をどう考えたら「給食費を払えない」という発想が出てくるんだろう。
仮に本当に経済的に困窮しているのであれば、就学援助なりなんなりで助成してもらえるはずだし、そもそも毎月の給食費を払わないってことは、自分の子どもの平日のお昼ご飯を与えない選択を親自らがしているということではないのか?
いくら考えても、なぜそういう発想に行き着くのかが理解できない。
「払ってない人がいるんだから、私も払わないわ」とか「払わないでも食べられるんならその方が得だわ」なんてことなんだろうか?
給食を食べない選択をするなら、例えば正式に学校に申し出て親がお弁当を持たせるとか、そういうことならまだかろうじて理解できる。けれど、払えるのに払わない親の多くはそんなことすらしていないのだろう。
一体なんだ?あなたは子どものなんだ?子どものためのたった数千円が払えないのか?
上述の記事で児童虐待のネグレクトで逮捕すりゃいいみたいな発言があったけど、確かにそれは育児放棄なんじゃないのかな?だって、お金があるのに我が子に給食を与えない選択を親自らがしてるんでしょ?
申し訳ないけど、そんな親に育てられた子どもが「ステキな子」に育つ可能性は残念ながら極めて低いだろうと思う。
ただ、色々法的にとか、立場的にとか難しいところもあるのかもしれないけど、もっと明確に「払わなきゃ食べさせない」という姿勢を(もちろん経済的な理由で本当に払えない場合はきちんと対応すべきだけれど)行政や学校側が打ち出してもいいんじゃないか。
払わなくても食べられるということが広まれば、きちんと払っている人たちが損をしている気になって、もっと未納が広がっていく気がするからだ。それこそNHKの受信料じゃないけど、払ってない人がいるのなら自分も。。。と思うのはそう珍しい感覚ではないと思うから。
しかし、「明日は明日の風が吹く」のyas-toroさんがちょっといつもと違って強い口調(文調)で書いておられるけれど、本当にそんな人間は子どもを生まないでくれ。。。そう思ってしまう。
ただただ、その子ども達の未来が幸せであることを願うばかり。
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もしかすると以前にも書いたかもしれませんが、お母さん方から時々言って頂くことがあります。
「それはきっと先生の教え方がうまいから。」
どんなときにそれを言われているかというと、教室ではスラスラできていた問題をおうちに帰ってやったらできなかったと、宿題のプリントを持ってきてくださった日のレッスンが終わったときです。
これまで何度もそういうことがあり、やっぱりおうちだと緊張感がないとか、甘えの気持ちが出るとかでそうなってしまうのかなぁ?と思っていたのですが、もしかしたらそれだけではないのかもしれないと、最近思うようになりました。
できなかったというプリントを子どもに渡し、どの辺でわからなくなっているのかを見るため、全くノーヒントでやってみてもらうのですが、不思議なことに殆どの子ができなかったはずのプリントを何事もなくスラスラと解いてしまうのです。
「おうちでできなかったの?」とか「なんでできなかったんだろうね?」とか尋ねるのですが、子ども自身もきょとんとしていることが結構あります。
お迎えに来られたときにお母さんに「スラスラできましたよ~」とご報告すると、しばしば上述のようなお言葉を頂くのですが、私はできなかったという子に対して改めて何も指導していないことの方が圧倒的に多いのですから、お母さんがおっしゃることは正しくありません。
教室というところの緊張感や、私という他人、時には別のお子さんの存在などもあって、家ではできなくてもここではできるのかなと思うところもあるのですが、それだけでは説明がつかないようにも思うのです。
そして、もしかしたらと思い当たったことがあります。
私は基本的に「この子はできる」と思って見守っています。そして、できなかったとしても、そのことに対して絶対に怒りません。もしかしたらそこなのかもと思うのです。
「自分にはこんなのできない」
どんなことに対しても、そう思った場合、しばしば本当に失敗したり、できなくなったりするものです。それほどに思いの力は強いのだと思っています。
だとすれば、見守っている人間が「この子にはこんなのできない」と思っていると、敏感な子はそれを感じ取ってしまうこともあるのかもしれません。
そして、大人でもプレッシャーをかけられると実力を発揮できなくなるということは少なくないということを考えても、「できなかったら怒られる」と思うことで、できるものもできなくなってしまう場合があるのではないかとも思うのです。
おまけに、実際のところ、うちの教室の子達の殆どが学校の内容より難しいことに取り組んでいるので、それを見たおうちの方が「こんなに難しいのができるのかしら?」と思ってしまわれることもあるのではないかと思います。すると、見守るときにもその空気がお子さんに伝わってしまって、「そうか、これは難しいんだ。。。」と感じてしまったりすることもあるのではと思うのです。
そういう意味で、子どもには、私はできなくても絶対怒らないという安心感があるはずですし、その上私は「この子ならできる」と思って見守っているのですから、それを感じ取った子は「自分ならできる」と思ってくれるのかもしれません。
もちろん、教室の方が緊張するからというのもあるとは思うのですが、うちの教室の子ども達に限らず、子どもを伸ばすには「信じて見守る」ということはすごくすごく大切なのではないかと、改めてそんなことを思いました。
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実は昨日すごく驚いたことがある。
うちの教室の電話番号は割と覚えやすいと思うのだけれど、困ったことにご近所にある不動産仲介業者さんと番号がとても似ているのだ。(もしうちが133-1221であるなら、あちらは113-1221であるという感じ。)
そのせいでしばしば間違い電話がかかってくる。
昨日の夕方のレッスン中にも間違い電話がかかってきた。
どうも話が通じないので、どちらにおかけですかと尋ねると、
「○○住建さんじゃないですか?」
と。
しょっちゅうのことなので、
「今おかけなのは○××-△△△△ですよね?○○住建さんは○○×-△△△△だと思いますよ。」
とお伝えすると、謝られ電話を切られた。
それを聞いていた、レッスンに来ていた2年生の子が
「間違えたん?先生んとこは○××-△△△△なん?で、間違ってるんは?」
そう尋ねたので、事情を説明し、住建さんの電話番号を口にしたときだった。
黙って聞いていた6年生のお兄ちゃんが彼女に向かって言った。
「○○ちゃん、その話、ここを出たら忘れよ。個人情報やから。」
正直言ってぶったまげた。あまりにぶったまげたので、どこでそんなことを教わったのか聞くのを忘れてしまい、ただ、それは会社の電話番号で電話帳にも出ているし、看板にも出している番号だから、「個人情報」じゃないので大丈夫よということだけを伝えた。
すると、お兄ちゃんは「ふぅん、そうなん。」そう言って、話は終わった。
しかし、彼は一体どこでそんな話を聞いたのだろう。普通に考えると学校で何かを習ったのではないだろうか。もちろん、個人情報保護法だかなんだかができて、色々個人情報に関してはややこしくなっているようだし、子どもにも指導しておかねばということなのかもしれない。
けれど、仮に学校でそれについての指導がされたのだとしたら、一体どんな説明を子ども達は受けたんだろう。
うまく言えないけれど、なんだか妙に心にひっかかった。
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すいません、どうでもいいネタです。
今の教室はもちろん賃貸物件なのですが、とても良心的な不動産屋さんと巡り合い、入居の際にはクロスは全て貼り替えてくれ、前の方が残していったエアコン、照明器具、ブラインド、電気給湯器(?)までついたままで貸して頂きました。(もちろん、故障したときには自分でどうにかしてねと言われましたが。)
で、ずっと悩んでいるのがエアコンではあるのですが、それと別にここ最近、蛍光灯が1本点滅し始め、とりあえず普段つけないところのものと場所を移動させて使っていたものの、とうとう2本目が点滅開始。これはもう交換するところがありません。
しかし。。。悲しいかな、もともと業務用の長い蛍光灯がついているため、近所のスーパーで売っている蛍光灯は使えません。。。ただ、以前家電屋さんを覗いたとき、そんな長い蛍光灯が置いてあった記憶がなく、こりゃどうしたらいいんだろうと。。。
こうなったらネットで注文か?とにかく早くしなきゃ貧乏ったらしい。。。という訳で、昨日頭痛を堪えネット検索をしていました。で、どうにか見つけて注文をしようと思ったのですが、ふと見ると「取り寄せ」の表示。仮にこれでメール問合せをしても、返事は早くて明日。ということは明日メールをしてもあんまり変わらないし、注文したわ、取り寄せに1週間かかりますって言われたらシャレにならないわで、とりあえず保留。
で、今日、出勤途中に寄ることが可能なミ○リ電化に電話をしてみました。すると、ちゃんと置いてあるというではないですか!(ゴメンナサイ、ないと思い込んでいて。。。)
しかし、昨日色々ネットで探した結果、1本安くても1,000円前後するっぽかったので、有店舗の家電屋さんだったらもう少し高いんだろうなと念のため値段をお尋ねすると「1本540円ですね。」と。
は?
思わず「そんなに安いんですか?」と聞き返してしまいました。(苦笑)2本は絶対買うつもりだったし、ネット注文だと別に送料やら代引きなら手数料までかかりそうだったことを思えば、ネットで1本注文する代金で3本買えるじゃん!と。
さっそく店舗に出向いて見てみると、メーカーに寄っても値段が異なるんですね。幸か不幸かもともとついていたものに合うものがそのお手頃価格のものだった訳です。しかし、家電屋さんの名誉(?)のために言うと、昨日ネットで見つけていたものと同じ有名メーカーの蛍光灯でさえ、家電屋さんの方が安かったです!!
って訳で、普段は使わないバス代も使ったけど、結局安いお買い物で、無事今日からまた「明るい」生活を取り戻せました。(笑)
しかし、やはり何事も調べるって大切ですね。(大袈裟って?(笑))
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「お金」が算数の勉強にしばしば有効なので、またゆっくり書かせてもらおうと思っているのですが、本日ちょっとかれこれ4、5時間かすかな頭痛がしており、とりあえず今日改めて思ったことだけ、忘れないうちにちょこっと書かせて頂いておきます。
今日、春から通ってくれている3年生の子が、「1000円の2倍」だとか、「2000円と5000円の本を買って10000円出したらおつりは。。。」だとかそんな問題に結構苦労していました。
1000円とか10000円とか金額が大きいからかなと思いながら、何気なくその子に尋ねました。
「ねえ、2000円や5000円の本は自分では買わないと思うけど、本屋さんで本を買うことなぁい?」
私の遠い記憶では、小学1年のときにはもう本屋さんでマンガ雑誌などを買っていたので、3年生だし当然あるだろうと思って尋ねたのです。
しかし、真顔で「ううん、ない。」と。。。
正直ちょっとびっくりしました。
けれど、もしかしたら最近はそう珍しいことでもないのだろうかと思ったりもしたのです。
お子さんをひとりで出歩かせるのは危険だからとか、一人っ子さんだったり、多くても2人兄弟というご家庭も多いので、「お母さん、○○買って!」とか「△△買ってきて!」と頼んで済んでしまっている子達もいるのかなと。。。
で、思ったのです。
こういう例は過去にも結構あるのですが、2000÷2を筆算しようとするような子に、「2000円を2人で分けたら?」と尋ねるとほぼ確実に暗算で即答です。中学生でも、数字だけではもたもた計算していた子が、その数字に「円」という言葉を付けてあげるだけで急にスラスラ解けるようになるような子もいました。
「お店に行って、チョコレートとクッキーを買って、500円出したらお釣りが200円返ってきた」
そんな経験をしている子は、お釣りを尋ねる文章題が出てもすっと問題に取り組めます。「5000」と言われただけではイメージできない子でも、「5000円」と言えば5000円札を1枚思い浮かべれば済みますし、それを1000円札に替えたら5枚だということもそう難しくないはずです。1000円札は100円10個分ということも、普段からおつかいをしたり、自分でお買い物をしている子なら経験でなんとなく身についていくはずなのです。
ちょうどお金を使って四則計算をしたら、暗算が苦手だったり、大きな数の計算が苦手だったりする子もすっと入っていけるんじゃないかなと思っていたところに今日の出来事。
最近は駄菓子屋さんとかが減っているので、子どもが気軽に買い物できるところも少ないかもしれませんが、例えば一緒にお買い物に行ったときに、小さい子であれば「100円までなら好きなもの買っていいよ」というぐらいから始めてもらったり、近くまで何か少しお使いを頼んで、お釣りの分だけは何か買っていいよなんていうことを日頃からして頂けたら、計算が苦手な子は少し減るんじゃないかなと、そんなことを思っています。(また後日続編のようなものを書かせて頂く予定です。)
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先日、ケーキの大きさのことでメールをくれた友人が、私のブログを見て愛娘ちゃんに、なぜ4分の1.5を8分の3と思ったのかを尋ねてくれたそうです。
その答えにまたも感動。。。
彼女の答えは「何となく」だったそうです。
ただ、その「何となく」がすごくって、頭に円を思い浮かべてその大きさをイメージしたとき、4分の1.5には違和感があったということなのだそうです。
確かに、頭で思い浮かべたら、4つに切ってあるものの1個半の大きさだから、それを「4つに分けた」ということは不自然です。けれど、それを彼女が的確に言葉で説明できるかといえば、まだ4年生ですからうまく言えなくても不思議はありません。
けれど、間違いなく彼女が言っていることはそういうことで、何よりすごいのはそこに違和感を感じるということです。
実は、うちの教室のスーパーな子達は、しばしば「何となく」とか「多分こうやと思う」とかいう表現で、うまく説明はできないにも関わらず、かなり難しそうな問題でも正解を出すことがあります。
その姿を見ながら、きっとこの子達の頭の中には、数字を見たら何らかの量や大きさとして思い浮かぶものがあり、それを頭の中で操作しているのだろうなと感じます。羨ましい限りです。
教室を始めて間もない頃、宮本先生の作られたパズル教材12冊を1冊目から順に解いていたのですが、その中でそのときの私には、偶然解けるときは解けるけど、どういう手立てで考えていけばいいのかよくわからない問題がありました。
大先生にその問題の考え方のコツをお尋ねしたところ、そのときの大先生のお答えは
「ああ、それはできる人にはできるけど、できない人にはできないんですよ。能力ってのはそういうもんです。」
でした。
そのときの私は(おいおい大先生、そりゃないよ。。。)って気分だったのですが、今では先生のおっしゃる意味がわかるような気がします。
例えば、歩けるようになった子どもに「なんで歩けるの?」とか「どうやったら歩けるようになるの?」と尋ねてもきっとうまく説明なんてできません。
電車が好きで、駅の名前をものすごく沢山覚えている子に「なんで覚えられるの?」「どうやって覚えたの?」と尋ねたところで、きっと求めているような答えは返ってこないでしょう。
「何となく」とか「知らないうちに」とかそういう答えしか返せないような気がするのです。
そして、それを「能力」と呼ぶのだなと。
結局、その後色々な問題に触れ、そのときにとうとう解けずに放置していた問題数問を1年ぐらい経っておもむろにもう一度考えてみました。すると、できるのです。その間、誰かにコツを聞いた訳でも、その問題を延々と考え続けた訳でもありません。けれど、できるのです。
もし私に「なんでできるようになったの?」と聞かれても「何となく」としか答えられません。強いて言うなら、その他の色々な問題を山ほど考えたからということでしょうか。けれど、それらの問題を解くことが直接的にヒントになった訳ではないのです。多分、何らかの能力が高まったということなのでしょう。
もう脳が衰え始めるぐらいになってからの私でもそんな変化が見られるのですから、まだ頭の柔らかい彼ら、彼女らが、大人の想像を遥かに超えて伸びたとしても何の不思議もありません。
「何となく」というのは、人によってはそんな曖昧ではいけないとおっしゃるかもしれません。
それでも私は目の前にいるこの子達を見ながら、この子達の言う「何となく」は本物の能力の片鱗だと、そう思えるのです。
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今日、ネットのニュース項目を見ていると、こんなタイトルが目に入った。
仕事柄、学校や教師、子どもの話題には目が留まる。一体どんなニュースなのだろうと読んでみると、なんともやり切れない気持ちになった。
この両親にとって子どもはなんなのだろう。産むつもりもなく産まれてきてしまったのだろうか。
コンビニの賞味期限が切れたもの自体は、廃棄するぐらいなら食べたって構わないと思う。実際、賞味期限は「美味しく頂ける期限」であって、ものが傷んでしまうからそれまでに食べなさいという「消費期限」とは違うのだから。
もちろん、両親には両親の事情があるのだろう。けれど、少なくともこの両親もが栄養失調だったようには思えない。食べないからといって偏った食事をさせることを正当化させるのは親としてやはり絶対間違っていると思う。
この子の救いはこの校長先生に出会ったことかもしれない。校長先生がそんな風にひとりひとりの子どもに目を配っているということにはちょっと感動した。
そういえば、以前読んだ「夜回り先生」の著書の中にも、校長室で手首を切ろうとした男の子の話が出てきたっけ。その子の苦しみを真正面から受け止めて、その校長先生は彼と一緒に暮らしたと書かれていたような気がする。
私には子どもがいない。だから、私が親を批判しても「あなたは苦労をしらないから。」「どれだけ大変かわからないでしょ。」そう言われてしまえば返す言葉もない。
けれど、子育てがどれだけ大変で、どれだけ大切なことなのかはわかっているつもりだ。産んだからには、ある程度自立するまで守り育てるのは親の何よりも優先すべき務めのはずだ。
もちろん、世の中にはいくら子どもを愛していても、貧しくて十分に食べさせられない家庭だってあるだろう。けれど、この子の場合はきっと違う。そして、そんな子は他にもきっといるということなのだろう。
世の中に「親が子どもを育てる」という務めより大切な務めはあるのだろうか。
どうしても自分で育て上げることができないとしても、何の環境も整えずにそれを放棄することはあってはならないことだと思うのだ。自分ができなくても、代わりに愛情を注いでくれる大人は探せばきっといるはずなのだから。
校長先生から牛乳をもらって飲んでいる子ども達はどんな風に笑うんだろう。。。
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昨日の夜、今週は忙しかったなぁと自宅でホッとひと息ついていたところ、友人からメールが届いた。
彼女は現在、愛娘も愛息子もうちに通わせてくれている高校時代の同級生。
愛娘ちゃんはしばしばブログにも登場している、私が教室を立ち上げたときから来てくれている子で現在スーパー4年生。今年1年生になった愛息子くんも、順調にスーパーぶりを発揮してくれつつある。
メールのタイトルが「さすが○○(←私の苗字)塾生」となっていて、一体なんだ?と思ってメールを開くとこんなことが書かれていた。(あ、因みにうちに教室は○○塾とは言いいませんが、ここの子達とは教室を開く前からのお付き合いなため、なぜか一家揃ってそう呼ぶのです。。。)
今日家族4人でケーキを食べていたとき、子ども達がどんどんおかわりをして、結局ホールのケーキを4人で全部食べてしまったという説明の後、メールはこう続いた。
「チョット待って、お父さんとお母さんで4分の1よ。○○(愛娘ちゃんの名前)はどれだけ食べたのよ?」
「□□(愛息子くん)と○○で4分の3。で、○○は4分の1.5で8分の3だわ。」
と、すぐに答えてくれました。
「スゴイ・スゴイ」と騒ぐ私に、○○は簡単だわとでも言いたそうな顔してました。
そのときの彼女の表情まで思い浮かべられるけれど、確かに目の前であっさりそう答えられたら、大抵の大人はきっと感動するだろう。何しろ彼女はまだ4年生で、学校と週1回1時間のレッスン以外に算数のお勉強はしていないのだから。
実際、私もちょっと感動した。もちろん彼女ならちょっと考えたら答えられるとは思うけれど、それが即答だったというのだ。おまけに、4分の3を一旦半分にした後、分数と小数は一緒に使えないということまで考えて8分の3と答えているのだ。
あれ?私、分数と小数を一緒に使えないって言ったっけ?言ったとしても多分ほんの一度だけのはず。それが彼女の中にそんなにもしっかり根付き、咄嗟の質問にあっさりと答えられるまでになっていることに驚く。
何よりも一番の驚きは、その場にいた両親が何のヒントも出していないのに即答したということだ。
友人が感激して思わずメールをくれた気持ちがわかる。
実際、彼女達の存在がどれだけ私を支えてくれたかわからない。まだ教室を始めて間もない頃、右も左もわからないようなところから、私も一緒に育ってきた子達だ。
1週間の疲れも全て吹き飛んでしまうほど、とても幸せな気持ちになった。
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先日、中学のときに通ってくれていた子が試験前で、高校数学を見てもらいたいという話になりました。
しかし、悲しいかな、私が高校生の数学を見たことがあるのは遥か遠い学生時代のこと。さすがにもう何もかも忘れてしまっています。
以前時間があったときに、もう一度解き直したらどこまで理解できるかやってみようと、まずは数Ⅰのチャートを買って途中までは解いたものの、結局なんだかんだと忙しくなりそのままになってしまいました。
ただ、基本的に高校生はお受けしていないので、そのときだけお知り合いのお子さんで理系の大学生の子に見てもらうようお願いしました。
私は別の子達とレッスンをしていたので、彼が説明しているのが耳には入っていたのですが、指導の仕方には何の問題も感じませんでしたし、丁寧にゆっくりと進めてくれていて、指導経験がまだ殆どないにしては上出来だなと思っていたのです。
ですが、レッスンが終わった後、彼が言った言葉であることに気づきました。
「僕の説明でわかっているのかわかっていないのかがわからなくて困った。」
彼はそんなことを言いました。そういえば、レッスン中に彼が何度か高校生に向かって「わかります?」「わかりましたか?」と尋ねていたことを思い出しました。
確かに高校生の子はマイペースでほわんとしたタイプなので、私が一緒にレッスンをしていた頃も「あぁ、そうか!」とか「わかった~!!」みたいな反応はありませんでした。
ですので、彼には「うん、そうよね、ちょっと反応がわかりにくいよね」と答えたのですが、彼を見送った後ふと気づいたのです。最近私は子どもが理解したかしていないかがわからないと感じたことはない気がするということに。
塾に勤めていた頃には子ども達に向かって「わかった?」と尋ねることがありました。けれど、教室を始めてから、そのセリフを口にすることが殆どなくなったのです。
最大の理由は殆ど「説明」をしなくなったということだとは思います。
けれど、さすがに説明なしにはできそうにないところなどは必要最低限の説明はします。それでも尋ねなくなったのです。
もちろん、きっとたまにはそれに近いことは尋ねていると思います。けれど、仮に「わかった?」と尋ねて、子どもが「わかった」と答えたとしても、その答え方で本当に理解したのか、何となくぼんやりとしかわかっていないのかがある程度わかるようになったのだと思うのです。
おまけに、わかってないときの顔とわかったときの顔はそれこそ天と地ほど違う表情だったりもするのですから、きっと一目瞭然なのです、本来は。
どんな子でも理解できていないときの表情はどこか曇っています。けれど、それを超えたときには本当に雲が切れるかのようにぱぁっと明るい表情になります。
ひとりひとりをきちんと見ていれば、使う必要のない言葉なのかもしれないとも思いますが、じゃあ大学生の彼は高校生をきちんと見ていなかったのか?ということになってしまいます。決してそんなことはないはずですし、私だって勤めていた頃にも、精一杯子ども達を見ているつもりでした。それでもやはり判断がつかなかったのです。
経験を積んだこともあるのかもしれません。
けれど、もしかすると、私はこの教室で子ども達が本当に理解したときに見せてくれるあの素晴らしい表情を沢山見せてもらえたからこそ、見分けられるようになったのかもしれないとも思うのです。
わかっていないのに「わかった?」と聞かれて、「わかりません」ときっぱり言える子はどのぐらいいるでしょう?特に学年が上がるほど、人前で「わからない」ということは恥ずかしいと思うようにもなるでしょう。
それを考えると、子ども達に向かって「君たちわかったか~?」なんて質問は実は教える側の気休めに過ぎないのではないかと、そんなことを思ったりしました。
子どもにもプライドがあります。
だから、仮に半分ぐらいしかわかっていなくても、みんなの前では「わかった」と答える子も少なくないでしょう。
だから私はそんな子には表情を見ながら、「半分ぐらいわかったかなぁ?」と尋ねたりもします。そう尋ねて「ううん、全部わかった!」と答えられたことは今のところありませんが、仮に本当によくわかっている子にそう尋ねてしまっても「全部わかった」と答えればいいことですから、その答えに躊躇うことはないでしょうし、仮に半分わかってない子でも「半分」は「わかった」と答えられるのですから、やはり「わからない」というより遥かに答え易くなるのではないでしょうか。
そして、仮にほぼ全く理解していない子にそう尋ねてしまったとしても、きっと曖昧に「う~ん」と返事をするか、そうでなければ「わからない」と答えるでしょうから、「わかった?」と尋ねるよりは遥かに子どもの立場に立った問いかけではないかと思います。
「わかった?」よりは「わかる?」の方がまだ現在形で、今はまだわかるところまで行っていないという印象ですし、「半分ぐらいわかった?」とか「どのぐらいわかった?」とか聞けば、自分の理解の具合を少しは詳しく答えてくれるかもしれません。
言葉ひとつですが、子どもに対して「わかった?」という問いかけは、あまり意味がないのかもしれないな。改めてそんなことを思いました。
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機械にお詳しい方おられませんか?
お知らせにも書いたのですが、修理に出していた複合機が戻ってきて、出す前に一応覚えたつもりだった配線が2週間ほどのブランクでキレイさっぱり頭から消えておりました。
恐ろしいことにここ2日、教室への電話がかからない状態になっていたようです。
焦ってあれこれ繋いでみているのですが、どうしても電話・FAX・インターネットを同時に稼動させることができません。。。
繋ぐパターンなんて限られているし、修理に出す前にはちゃんと全部生きていたのに、一体何にはまっているのか。。。
どなたか、モジュラーと留守番電話とパソコンモデムとプリンタ複合機についているFAXの間の配線が即お分かりになる方おられませんか?とりあえず電話とメールが優先ということで、現在FAXは使用できない状態です。。。本日は諦めます。。。(苦笑)
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以前、中3の子が入試も近づいた3学期のある日「本末転倒」の意味を知らないことがわかった。因みにその子は平均より十分によい成績を取っていた子で、普段のテストでもどの教科もまずまずの得点を取っていたのだ。
賢い子なだけに知らないと言われたときの衝撃は大きかったけれど、実はこの仕事を始めてからこれまで、幾度となくそんな衝撃を受けている。
遡れば、もう10年近く前になるが、その頃一緒に勉強していた中3の男の子達としゃべっていたとき、そこにいた子みんなが「達筆」という言葉を知らなかった。
塾に勤めていた頃には、小学6年の男の子が「鉢植え」がなんだかわからないと言ったのにも驚いた。
あまりにそういうことが多すぎて、殆どを忘れてしまっているけれど、これだけ言葉を知らなければ、中学校や高校の現代文なんて、読んでいてもちんぷんかんぷんなのでは?と思うことがしばしばある。
そうは言っても私自身、難しい本が苦手でわかり易いものばかり読んでいるので、恐らくこの歳にしては語彙は決して多くないと思うし、同年代や私より若い方が趣のある言葉や表現を使っているのを見るとしみじみ感心してしまう。
「語彙が少ない」というのは、年長者が見れば自分より年下のものは大抵自分より語彙が少ないと感じるものなのかもしれないが、もし実際にそうなっているのだとすれば、これは結構大変なことかもしれない。
今の若者には私達にはわからないような若者言葉が色々あり、そういう意味ではそれが国語的に正しいかどうかは別として「単語数」みたいなものだけで言えば、もしかするとそんなに少なくはないのかもしれない。
けれど、教科書や試験に出る文章が「温暖化が進み、このままでは地球はチョ~ヤバイ。ホントイケてないよね~。」とか書いてくれる訳ではないので、やはりある程度は国語的に正しい(国語辞典に普通に出ているような)言葉を身につける必要はあるはずだ。
語彙を増やすのにはどうしたらいいか。そんな質問を受けたとしたら、多くの方が「本を読みなさい」というようなアドバイスをするのではないかと思う。
けれど、私のように「読みやすい本」ばかり読んでいても、一定以上に語彙が増えることはない。語彙を増やすには、やはり意図的にある程度難しい言葉が入っている本を読むか、辞書を読むか、年配の方などとお話したり手紙やメールなどのやりとりをするか、そんなことが必要なのではないかと思う。(実際私は叔母と時々メールのやり取りをしているが、叔母の使う言葉はしばしば「へぇ~、そういう表現を使うんだ」とか「どういう意味だろう?」と思わされる。)
普段、私の教室は小さい子が多いので、なるべく難しい言葉は使わずにと意識してきたのだけれど、それも本当はよくないのかもしれないと思う。大人が子どもは知らないかもしれない言葉を意図的に使って、「それってどういう意味?」という機会を増やすことも大事なのではと思うからだ。
中には、大人にとっては他に言い換える言葉を思いつかないようなものでさえ、「それってどういうこと?」と聞いてくる子もいるだろう。そんなときは一緒に辞書を引いてみたり、辞書を引けるよう教えてあげたりすればいいと思う。
国語(現代文)の出題者は、本文で注もつけていない言葉は当然みんな読んだらわかると思っているはずで、その「当然」が当然でなければ、試験の解答をする以前の問題なのだ。けれど、私達は国語に関して、当たり前に使っている言葉であるばかりに、英単語を覚えたり、社会の重要語句を覚えたりするように、難しい言葉を覚えようと努めることは少ない。
けれど、ある程度大きくなって、試験の成績で評価されるようになった頃に焦って努力を始めても、その頃には他にもしなくてはいけない教科が色々あって、なかなか国語に時間を割くことはできなかったりするのではないだろうか。
そんなことを考えてみても、とにかく、子どもの頃から意識的に多くの言葉に触れさせてあげることは大切なのではないだろうか。そんなことを思う。
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昨日の出来事。
19時10分からのレッスン予定の中1クンが19時になるかならないかの時間にご登場。
部活も始まったし、彼の家からは若干遠いので、19時10分は結構ギリギリの線のはずなのに、早く来られたんだなぁと思って「今日は早く来られてんね」と声をかけると、私がそれを言い終わらないうちに
「なあ、今日ここ何時までおれるん?」
と不思議な質問をする彼。
小学生なんかではたまに、その日おうちの人が帰ってくるのが遅いから、残っててもいい?みたいに聞かれることはあるけれど、さすがにもう中学生だし、元気な男の子だし、一体どうしてそんなことを聞くんだろう??とても不思議な気分。
「なんで?どないしたん?」
そう尋ねたところ、彼の口からはこんな言葉が。
「あんな、学校がもう近づいてきとんねん。」
一瞬、中間テストのことだろうかと思って「あ、テスト?」と尋ねたのだけれど、「いや、ちゃう」との答え。はて?じゃあなんだ、一体。。。
説明をしようと焦って何かを取り出そうとしている彼。そしてもう一度言った。
「あんな、もう学校がこの辺まで来てん。」
正直言って驚いた。予想外だった。
彼が言っているのは、授業の内容が教室でやっていることに追いついてきているので、今日は居残ってでも先に進むということだったのだ。もともと今日は様子を見ながら次へ進もうと思ってはいたので、「ああ、今日は進むよ」と答えたものの、内心はニコニコだった。
彼とは彼が4年生の夏に出会った。既に算数が苦手になりかけている状態で高学年になっての出会いだったし、彼は運動神経が抜群で活発な分、じっくり考えてということが少し苦手だったこともあり、確かに伸びたのは感じるものの、他の低学年から見ている子達と比べるとやはり今一歩伸びきらないところがあった。
おまけに彼自身、勉強よりスポーツというタイプだったので、学校の勉強がわかればそれでいいと思っているのかなと思っていたのだ。
それがこの発言。正直言ってとても嬉しかった。もう夜中まででも付き合っちゃうよ♪みたいな気持ちにもなったのだが、さて、それじゃ頑張ろうかと始めてみたところ、私としてはほぼ予想通りだったものの、彼にしては予想以上に順調にどんどん進むことができたらしく、結局はまだレッスン時間が終わっていないうちから
「なあ、まだ終わらへんの?もうこんなに進んだやん。俺、今日早く来たし。。。」
みたいな発言が出たりした訳だけれど。(苦笑)
ま、そこも彼らしくっていいかなと思いながら、とりあえず時間まではきっちりやって時間通りに終了した。
なんだか気持ちがほんわかするひと言だった。
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(以前に同じようなことを書いていましたらどうかお許しを。。。記事も結構な数になってきたもので。。。)
私はこの仕事を始めてからずっと、絶対に言わないと決めている言葉がある。
もともとはそれを意識したこともなかったし、意識するまでもなく使ったことはなかった。
けれど、会社員を辞めて勤めた個人塾で、ある先生が子ども達に向かってしょっちゅう口にするその言葉を聞きながら、ものすごい抵抗を感じた。
「なんでこんなんもできへんの?」
同じ大学出身で理系の、私より遥かに頭のいい先生だった。そして、その言葉を多発されていたのは2クラスあるうちの勉強が苦手な子達のクラスだった。
きっとその先生からすれば、この子達のもたもた具合やできなさ具合がまどろっこしくって仕方なかったのかもしれない。
けれど、その言葉を聞くたびに私は心の中で思っていた。
(そんなもん、すらすらできるんやったら塾なんか来てへんわ!って誰か言ったれ!)
多分、学力では私はその先生に全く叶わなかったと思う。私自身が先生から「そんなのもできないの?」と言われる可能性は十分にあった。指導力もある先生ではあったけれど、私にはどうしても納得がいかなかった。
その言葉を子どもにぶつけて何になるんだ?
ずっとそう思っていた。
だからそれ以来私は絶対その言葉は口にすまいと決めた。
今でも子ども達に最初に伝える。
「私は勉強ができなくっても絶対に怒らない。もし怒ったら、『嘘つきや』って文句言っていいよ。でも、ルールを守らなかったり、人を傷つけたりしたら、それは怒るから。」
多分この約束は守れていると思う。
そして、伊藤先生に出会い、先生の口からも「できないことを責めても何の意味もない」という言葉を聞き、とても嬉しくなったのを覚えている。
もしも子どもに対して「なんでそんなことも。。。」というような発言をしたことがある方がおられたら、少し考えてみてほしい。
例えば私なら、高校数学に関してはもうほぼ完全に忘れてしまったので、数列とかの問題を目の前に出され、「高校でやったでしょ?なんでそんなこともできへんの?」って言われたとしたら、「なんでって言われても、できへんもんはできへんの。」と答えるかもしれない。
勉強で答えがわからない子に「なんでできない?」と聞くことの無意味さはそう考えればよくわかるのではないだろうか。
お子さんに「なんでこんなのもできないの!」と言ってしまうお母さん、あなたは高校数学が解けますか?高校の英語の教科書が今でもスラスラ読めますか?「習ったのになんでできないの?」とお子さんに聞かれたらどう答えますか?
私は可愛くない子どもだったから、もし子ども時代にそれを言われていたら、絶対言い返していたと思う。塾に勤めていた頃、誰か一人でも先生に言い返してくれないだろうかと密かに願っていたのだが、そんなチャレンジャーは残念ながらいなかったけれど。。。
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「早くしなさい。」
それは子どもにとって本当に早くしなくちゃいけないことですか?
「違うでしょ。なんでそんなのもできないの。」
それは子どもにとって本当に簡単なことですか?
「ちゃんとしなさい。」
目の前のお子さんは必死で頑張っていませんか?
できるのにふざけているのですか?
「そうじゃないでしょ。」
そんな風に言われたら、お母さんはどんな気持ちになりますか?
「なにぐずぐずしてるの。」
それは子どものペースで精一杯急いでいたりはしませんか?
「何度言ったらわかるの。」
お母さんは何でも一度言われたらできますか?
世のお母さん方は本当にお忙しくって、それでも日々家族のために頑張っておられるのだと思います。
大切な大切な子どものためにと、毎日毎日私の想像なんて及ばないぐらい色んなことを考えておられるのだとも思います。
こんな言葉を口にしてしまった後で後悔して反省しておられる方が沢山おられることも知っています。
頭ではわかっているのに、なかなか上手くやれないもどかしさをきっと沢山のお母さんが感じておられるのだろうと思います。
私だって、我が子がいたら、きっと言ってしまうのかもと思います。
それでもやっぱりお願いしたい。
これらの言葉全部、私だったら大人でも言われたくない。だって、全部上からものを言っていたり、命令口調だったりするんですもの。
そんな言い方をされて気持ちのいい人なんて、ちょっと変わった趣味の方以外おられないでしょう。
街中で親子の会話が聞こえてくると、何度となくこんな言葉を耳にします。そしてなんだか悲しい気持ちになるのです。
実際、私の母もこういう言葉をいっぱい使っていました。全く使わないなんてことはきっと不可能なのかもとも思います。
だけど、子供心にこういう言い方をされるのはすごく嫌だったし、やろうと思っていたことさえやる気がなくなったりもしたものです。
一度言ったら何でもさっさと完璧にできるなんて、きっとそんな人、大人だって滅多にいやしません。実際私はできません。
私がこうして書くことで、これを読んでくださったお母さんがその日そういう言葉を1回だけでも控えてくださったら、それだけでも大切なお子さんの心がちくっとすることを1回減らせると思うのです。
だから、わかり切っていることだと思いながらも、改めてこうして書かせて頂きました。
書きながら、自分自身も反省するのですけどね。
私も頑張りますから、お母さん達も頑張ってください。
大切な子ども達のステキな笑顔を見るために。
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この夏休みが来ると、自分の教室を始め、最初の子ども達を迎えてから3年になります。
伊藤先生の指導法にひと目惚れし、それまで考えていたのとは全くというほど違う教室を立ち上げることになったのですが、最近自分でときどき感じることがあります。
伊藤先生に出会ったとき、事前に私自身が沢山勉強しなくては、この指導法を活かせないなと考えていたところ、先生がおっしゃいました。
「実際に子どもがいないとわかりませんよ。先生も一緒に勉強するんですよ。」
実は石橋を叩いても叩いてもなかなか渡れない性格なのですが、伊藤先生の言葉のお蔭で数ヶ月の準備期間を経て教室をスタートさせることになりました。
正直言って、その段階で私ができることは、伊藤先生のところで見せて頂いたこと、お話を伺ったこと、指導用のビデオで学んだことをどれだけ「そのまま」再現できるか努力することだけでした。
いくらビデオなどで学んだところで、教具の操作の仕方などに長けることはできても、実際の生身の子どもへの対応がうまくなるわけではありません。それ自体は先生がおっしゃったように、子ども達を前にしてひとりひとりをしっかり見ながら、私自身が獲得していくしかないものでした。
幸いなことに、最も初期組の子はみんな予想以上に順調に伸びてくれました。このブログにもしばしば登場してくれている子達です。この指導法に関しては赤ちゃんだった私が実践してもこれだけの効果が出るということに改めて驚きもしましたが、やはりまだまだ赤ちゃんだったんだなぁと最近思うことがあります。
やっと私ももう少しで3歳になります。3歳なりに少しは成長したのかもしれないなと、子ども達を前にしながら感じることがあるのです。
初めは「教具は見せすぎてはいけない」とか「1回10枚が目安」とか、その他にも先生やビデオなどから得た「知識」をいかに忠実に実行するかということをすごく意識していましたが、そのせいで辛い思いをさせてしまった子もいたように思うのです。
最初の子達がこの程度見せたらスラスラできるようになったから、他の子もこのぐらいでいいんじゃないかとか、どこか画一的に考えてしまうようなところがあったり、その日子どもの調子が悪かったり、内容が難しかったりしてプリントが5枚ぐらいしか進みそうになかったら、すぐできそうなものなどをやらせて枚数の満足感を与えることに必死になったり。
だけど、遅いと言われるかもしれませんが、最近ようやく頭で理解した知識を使うのではなく、心で感じ、体で覚えたことを行動に移せるようになってきたように思うのです。
「石の上にも3年」ではありませんが、ようやく自分の中にほんの少し染み込んできたかなと感じることがあります。それでもまだ「ほんの少し」なのですが。
結局、最も大切にすべきことは子どもの状態であって、プリントの枚数でもなければ、決められた指導法でもないのだと思います。もちろん、素晴らしい指導法があっても、それを活かさなければ満足いく成果は出ないでしょうし、ベースはもちろんきちんとあるのです。その上で応用できるようになってきたかなと。
要するに、これまでの期間で私は基本問題を沢山解いて、それはある程度確実に身につけられたのではないかと思います。そして、その基本をベースに、応用問題にも自分なりの考え方で取り組んでいけるようになったのかもしれない。そんな感覚です。
よく「わかる」と「できる」は違うと言われますが、子どもに限らず私自身がそのことをしみじみと感じています。更に、「できる」にも段階があるんだなと、そうも感じています。
教具の使い方はビデオを見たら「わかり」ました。その後、初期組の子達とレッスンをしながら、教具を使うことは「できる」ようになりました。けれど、その教具を「活かす」ことはその頃の私にはできていなかったと思いますし、今でもやっと伊藤先生の足元に及んだかどうかというぐらいだろうなとも思いますが、やっと私自身が「使える」ようになってきたのではないかなと思っています。
結局は伊藤先生が最初におっしゃったように、実際の子ども達を前にして試行錯誤をし、私自身が体得する以外、いくら学んで知識を増やしたところで望ましい指導ができるようになることはなかったんだろうと思います。
子ども達と共に、私もまだまだ学んで、成長して行きたい。そう思っています。
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私の教室は靴を脱いで上がるので、子ども達は靴下か素足で上がってくるけれど、私は長時間いるし、一応(?)大人なのでマイスリッパを置いている。(大人の方用のスリッパはもちろんいくつか用意してありますが。)
冬は足元が暖かいよう、もこもこのルームシューズみたいなものを履いていたけれど、さすがにそれはもう暑い。去年使っていた春夏用はちょっと傷んでしまったし、新しいスリッパがほしいなと先日からときどきお店で見てみるのだが、どうもこれというものが見つからない。
とりあえずまたにしようと何度も保留にしていたのだけれど、日曜にあるお店でものすごく可愛いスリッパを見つけた。かなり一目惚れ的に可愛くて、教室のテーマカラーにもバッチリで、これがほしい!と思って手に取ったところ、そのスリッパには2,000円という値段がつけられていた。
2,000円のスリッパなんて高すぎる。。。もったいない。。。
そう思ってまた保留にした。それこそスリッパなんて100均でも売っているし、感じのいいものでも1,000円で十分お釣がくるものがいくらでもある。なのに1足2,000円のスリッパは贅沢だ。迷わずそう思ったのだ。
けれど、今日はもう金曜だけど、あのスリッパはまだはっきりと思い出せる。それほどに可愛かった。
あぁ、どうしよう。。。でも高いよなぁ。。。そう思っていてふと気づいた。
1冊1,500円する本でも本は高いと感じないのだ。もちろん、2,000円を超え始めるとさすがにちょっと高いなぁ、どうしようかなぁという迷いが出るものの、1,500円の本なら平気で2冊でも3冊でも買ってしまうのはいつものことだ。
2,000円の本は買えても、2,000円の超お気に入りのスリッパは買えないんだなって、なんだか自分で可笑しくなってしまった。
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先日、プレートのくまさんでハッとさせられた彼女は本当にすごいです。
およそ3歳とは思えないほどしっかりしていて、なんでもよくできるのですが、それよりもなによりもとってもとってもステキな心を持っています。
お母さんはどんな風に育てておられるんだろうと、しみじみ感心してしまうのですが、今日もこんなことがありました。
「おトイレ行ってくる。」
そう言ってお手洗いに行った彼女。幼児教室用にはなっていないので、手を洗う高さが彼女には高いということもあり、中では手を洗わずに出てきたようでした。
「おてて洗った?」
そう尋ねると、ちょっともじもじしています。
中じゃ洗えないもんねと言って、ここで洗おうと一緒に流しに行き、背が届かない彼女に踏み台を出し、水道のレバーを上げました。最初お水で手を濡らした彼女にハンドソープを出してあげると、とても丁寧に手を洗い始めました。
そのときです。
「お水止めて。」
水道を止めてというのです。
正直言って大人の感覚では、そんなに丁寧に時間をかけて手を洗うとは思っておらず、止めずに出しっぱなしにしていたのです。
慌ててレバーを下げると
「お水なくなっちゃう。」
彼女はそう言いました。
使わないお水を出しっぱなしにしていると、お水がなくなってしまうと言うのです。またやられました。。。
なんてステキな子なんでしょう。そして、お母さんもなんて素晴らしい育て方をされているのでしょう。
どんなものにも心を配れる彼女に出会えたことに心から感謝しています。彼女のお蔭で普段忘れてしまっていることに色々気づかせてもらえること、本当に幸せです。
ありがとう、Mちゃん。
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ど~でもいい話ですので、お暇な方だけお読みください。(笑)
最近自分でもちょっと大丈夫か?と不安になるときがある。
というのは。。。「本を買う」という行為がどんどん加速している気がするのだ。
世の中の星の数ほどある塾や教室の中で、私の教室はほぼ間違いなく「小さい」部類に属している。中堅の塾であれば、1学年だけとっても私の教室全ての子より多いだろうし、大手に至ってはその塾の1クラスの子どもぐらいだったりするかもしれない。
それでも去年の秋以降、少ないなりにも少しずつ来てくれる子ども達が増えてくれて、私はとても喜んでいる。
もともと少し前までは夢とか霞を食べて生活をしていたので(笑)、これで少しはまともにご飯も食べられるかしらと思ったりもしたのだけれど、結局私の月の食費予算は変わることがなく、実際にも以前と同じぐらいしか使っていないのだ。
しかし、明らかに加速度的に増えているのが書籍代。今月なんて、まだ10日ほどしか経っていないにも関わらず、私の月の食費予算を超えてしまった。。。
遠い昔、家庭科の授業だったかで「エンゲル係数」という言葉を習った。家庭の支出のうち食費の占める割合を表すものだったかと思う。
それを習ったとき、エンゲル係数が高いほど生活水準が低いと習ったし、確かに生きていくために最優先されるのは食べることだとも思うので、使えるお金が限られているときは、何よりまず食べるものとなるのだろう。お腹が満たされて初めて生活に必要な次の消費へ、そしてその後嗜好品や贅沢品、教養・娯楽への支出となっていくものなのかもしれない。
そう思いつつ、さて私の家計簿を見てみると、私のエンゲル係数は一般的な数値とされるものよりどうやら明らかに低い。かといって贅沢品への支出などないに等しい。しかし、当然ながら母数が大きいからエンゲル係数が低いなんてことはないわけで、小さな母数の中でありながら、エンゲル係数が低いというちょっと不思議な状態が起きている。(けど、幸い健康だし、一向に痩せる気配もない。。。)
きっと私はエンゲルさんの理論ではなく、「武士は食わねど高楊枝」の武士道精神を受け継いでいるんじゃないかと(いや、食べてるんですがね、一応普通に。。。)そんなバカみたいなことをつらつらと考えてしまった。
そのうち私は本を食べて生きられるようになるかもしれない。。。
(いや、それはないけど。。。)
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以前、ある本のことでもうひとつのブログがちょっとややっこしくなりかけたことがありました。
幸い、皆さんのあたたかいお気持ちに守って頂いて、どうにか収束したようでした。
ただ、某巨大掲示板のどこかに私の記事のURLがはられているらしいということまでわかっていながら、どんな風に書かれているのかわからぬままになっていました。
私はたまに教室名やブログ名、個人名などでネット検索をしてみたりします。知らないところで何か実名を公開されていても大変だし、気づかぬうちにどなたかがブログなどにリンクをしてくださっていることもあったりするので、1、2ヶ月に1回ぐらい、思い出したときに検索をしてみるのです。
そして、一昨日の深夜、とうとう見つけてしまいました。
リンクされているらしいということすら忘れていたのに、今頃になって見つけてしまったのです。。。
そこには私の記事のURLと共にこんなコメントが書かれていました。
とりあえず○○○○(←実際には著書のタイトルが書かれています)を鵜呑みにした人でも“変われる”という実例。
この人の岡田の著書の肯定的書評に強い怒りを感じたこともあったが、でも感情的
にならずに地道に行動していくことが大事なのですね。
ちなみに「元・学生」は私じゃありません。
気にすまいと思ったのですが、見つけてしまってからずっと心にひっかかっているのです。
私は「変わった」のでしょうか?
私は盲目的にあの著書を肯定していた記憶もありませんし、自分の中では何も変わった記憶もありません。
更にこの人が書いている「感情的にならずに地道に行動していくことが大事」というのは、一体何を指しているのかもわかりません。。。少なくともこのコメントを書いたこの人は、私のブログを読み、それに対して怒りを感じたのは間違いありませんし、その後、追記として書いた記事をみて「あぁ、こいつは改心した」と思ったということなのでしょう。
何がなんだか本当にわからないです。。。
ただ、理解はできないものの、ある意味では良識ある方だったということでしょう。私の追記を読んで溜飲を下げ、まあ今回はこれでよしとしてやろうと思われたのでしょうから。
文章を書くことの難しさを改めて感じた出来事でした。
見つけてしまったことは決して快いことではありませんが、どんな風に書かれているかがわかったことで、やっと本当にすっきりした気はします。
ご心配頂いた方に改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。
あ、ちょっと暗い話題になってしまったので、気分を換える意味でくだらない話題を。
これを読んでくださっている方の中で、私のフルネームをご存知の方、お暇でしたらネット検索をしてみてください。実は私って物凄い有名人?と一瞬だけ錯覚して頂けるかもしれません。(笑)
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昨日ブログめぐりをしていたとき、この記事が目に留まった。
このブログは以前何か気になる記事があってお気に入りに登録していたものの、しばらく訪問していなかったのだけれど、読みながら色々なことを考えてしまった。
私は教育学部出身だから、同級生や先輩、後輩で教員になっている人も結構いるし、昔からの友人は出身大学は違うもののやはり教員をしている。
更に、私は学生時代ずっと「先生」には恵まれていた方だとも思っているし、世の中には熱心な先生も多いことも知っている。
最近直接話を聞く機会が多いのは、小学校の教員をしている友人からだが、彼女の話を聞きながら、真面目にやっている先生方は本当に頭が下がるなといつも思っているし、もう少し待遇を改善することはできないんだろうかとも思ったりもする。(単に教員全体の待遇をよくするということではなく、企業のように頑張った人には頑張っただけの評価をするというか、そういうことができないのだろうかと。)
実際、問題のある教員もいるにはいるのだろう。ただ、一概には言えないだろうけれど、私が知る限り公立校の先生になる「教員採用試験」の採用枠は決して広いものではない。(地域や年度、教科などによってもそれぞれ差はあるだろうけど。)つまり、「学校の先生」と言われる人たちの殆どはかなりの倍率の試験をパスした人のはずで、昔言われていた「でもしか先生」のように、「先生にでもなるか」とか「先生にしかなれないや」みたいな風に教員になれる時代ではないだろう。
更に、私自身、昔教員を夢見ていたから思うのだが、特に幼稚園・小中学校の教員を目指す人の殆どが子ども達が好きで、子ども達をもっと幸せにしてあげたいとか、子ども達と沢山思い出を作りたいとか、自分が恩師にしてもらったように自分も子ども達にそれを受け継ぎたいとか、そんな思いを抱いているのではないだろうか。
その思いを抱きながらも、私のように「それは学校では実現できそうにない」と別の道を選ぶ人もいるだろうけれど、その思いを全うして教員になった人が「学校の先生」たちの大半なのではないだろうか。
友人の話を聞いている限り、少なくとも彼女の仕事は激務だ。大抵の学校にひとりしかいない先生という立場なのもあるし、とりわけ神経を張り詰めていなくてはならないような場面が多い彼女も、どう考えても仕事以外の何物でもない移動の交通費さえ自腹を切っていたり、残業や持ち帰り仕事なんて当たり前のようにあるし、休日も校外学習の下見やら、何かの行事の準備やらでしょっちゅう拘束されている。拘束されるだけでなく、それは無給だったりすることも少なくないようだ。
もちろん、企業にだってサービス残業って言葉が当たり前のようにあるし、100%残業を付けてくれる会社なんて殆どないかもしれない。それを思えば公務員は安定しているからいいじゃないかとかそういう意見をいうのは簡単だし、それがイヤなら辞めればいいというのも簡単だ。
指導力があれば、大手の塾にでも勤めるなり、私立校に移れば?そんな意見だってあるだろう。
私だってこれまで、心のどこかでそう思っているところがあった気がするのだ。
けれど、ふと恐ろしいことに気づいてしまった。
これまでの学校で熱心な先生達はほぼ例外なく、明らかに労働量に見合った待遇は受けていないのではないかと思われる。無給の時間外の仕事なんてキリがないぐらいやっているだろうし、自腹で何かするなんてこともいくらでもあるだろう。
きっとそれは熱心でいい先生であればあるほどそうなんだと思う。
そして、そういう先生達は子ども達のために。。。と思って、待遇の不満も何もかも飲み込んで、身を粉にして働いているのではないだろうか。きっとそんな先生の方が圧倒的に多いはずだ。
しかし、そんな中に適当に仕事をして、その人たちと同じ待遇を受けている先生がいたとしよう。私ならきっと我慢できない気がする。全員が同じように頑張って同じように我慢しているならきっと感じずに済む(自分で気づかないふりをしていられるという方が正しいかもしれないが)不満を、そういう人がいることで再認識してしまうのではないか。そして、だんだん虚しくなってきたりはしないだろうか。
頑張る先生達が虚しくなる。
頑張る先生達だけが頑張りすぎて体を壊す。
そこまでいかないにしても、頑張って頑張って疲れが溜まっていけば、子ども達に余裕を持って接することだってできなくなっていくのかもしれないし、くたびれている先生達に子ども達も魅力を感じられず、先生の言うことを聞かなくなったりもしはしないだろうか。
なんだかものすごく大きなことのような気がするのだ。
上手く言えないが、少なくとも義務教育の期間は子ども達にとってかけがえのない大切な期間だ。その期間にどれだけ素晴らしい大人に出会えたかでその後の人生が大きく左右されることだって十分あり得る。
そんな大切な時期にかなり多くの時間を過ごすのが学校なのだ。そこには「素晴らしい大人達」がいる必要があるはずだ。
乱暴な意見だが、仮に教員の待遇が他の公務員より、一般企業よりずっと良かったらどうだろう?
もっと指導力のある先生が教員を目指すかも知れないし、それだけの待遇をしてもらえるんだったらと熱心な先生は不満を言わずにもっと気持ちよく頑張れるかもしれない。おまけに、指導力のある優秀な人材が集まりだしたら、問題教師は自然と淘汰されていくということはないのだろうか。
これを書きながら結構ドキドキもしている。私を含め、塾や教室をしている人間はある意味で学校の足りないところを補うことで存在できているところもあるはずだ。学校の先生達がみんな本当に優秀で素晴らしい方ばかりになれば、私達の仕事はなくなってしまうのかもしれない。
けれど、それはそのときに考えればいいことだ。自分達の生活のために子どもには優秀じゃない先生をあてがっておけばいいなんて本末転倒というか、子どもの幸せを願う人間が考えることじゃない。
子育ての基本というかで、「親自身に気持ちの余裕がある」ということがとても大切であるように、日々かなりの時間を子ども達に関わる先生方にもいい意味での気持ちの余裕というのはきっと不可欠なんじゃないのだろうか。
子育て本などでは周りが母親を支え、見守ってあげようというアドバイスをよく目にするが、もしかすると母親をそのまま「学校の先生」に置き換えたって、同じことが言えるのかもしれない。少なくとも子ども達の幸せを願うなら、安直に教員を責めたり、軽く見たりしてはいけないのだと思う。
仮に今、不適格だと言われている先生がいたとして、その先生だってもしかすると初めは希望に燃え、やる気いっぱいで学校に入ったのかもしれない。(もちろんそうでない場合もあるだろうけれど。)その気持ちを萎えさせたのは、もしかすると制度や周囲の大人なのかもしれない。
考え出したらどんどん止まらなくなって、上手くまとめ切れないけれど、社会全体で真剣に考えなくてはいけないことなのかもしれないとちょっとそう思った。
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「負の数を引くのは正の数を足すのと同じことになる。」
それは忘れておられない限り、世の大人はみんな知っていることだと思います。
けれど、なぜそうなるのかを考えたことがある方は決して多くないのではとも思うのです。
もちろん、社会に出て、負の数を引く計算に出くわすことなんてまずありません。
仮に出くわしたとしても、解き方はわかっているから解くことはできます。
私自身、つい数年前まではそうでした。
子どもに関わる仕事をして、実際、その単元についても何度も何度も指導してきたにも関わらず、意味をあまり考えることがなかったのです。
もちろん、機械的に暗記するのが得意な子もいますし、残念ながら、あれこれ考えるより覚えて使う方が楽という風になってしまっている子も決して少なくありませんから、そういう子にはそういう先生から教わってもらえばいいやと、最近はそんな風に思うようになりました。
私自身、コツコツ努力して暗記するというのがとても嫌いな子どもだったし、それは大きくなった今でも変わりません。もちろん、学生時代は試験で点を取らなければ志望校に合格できないという現実もありましたから、嫌でもしぶしぶやってはいましたが、決して得意科目にはなりませんでした。
だから、私は、今自分の教室で関わる子達には、少しでも「丸暗記」をせずに済む方法をいつも意識しています。もちろん、教科によっては丸暗記しなければどうにもならないものもあると思いますから、せずに済むものはそうすべきなんじゃないかと思うのです。
で、小学生に関しては「公式をただ覚えさせる」ということはほぼ全くせずに学習を進めることが可能になっているものの、中学生はまだ発展途上。素晴らしい先生方や色々な著書などに学びながら、自分なりにあれこれ考えているところです。
そして、ここ最近、「負の数を引く」ということを、ようやく自分の中で消化し、例を挙げて説明できるようになってきた感じがしています。去年や一昨年はまだなんだか無理矢理っぽかったり、借り物的な説明だったりしていたのが、やっと「あぁ、そうか」と思えるようになったことが自分でも新鮮です。
少なくとも大人ならまず皆さんが納得するであろう例と、子どもはもしかするとこの方が納得しやすいかなという例です。これ以外にもこれまで使ってきた、若干無理矢理な力技の例などもあるのですが、この2つの例は自分でとても納得がいったので、もしもご自分のお子さんが「なんで負の数を引いたら正の数を足すことになるの?」という疑問で立ち止まってしまっているというような方がおられたらと、ちょっと自己満足でご紹介することにしました。
もちろん、世の中には素晴らしい方が星の数ほどおられますから、こんなのはとっくにどこかでどなたか別の方が説明しておられるかもしれませんが、その辺りはご容赦ください。
大人ならすんなり納得できそうなのは貯金を正の数で表し、借金を負の数で表す場合。
貯金が増える→正の数を足す→お金が増える。
貯金が減る→正の数を引く→お金が減る。
借金が増える→負の数を足す→お金が減る。
借金が減る→負の数を引く→お金が増える。(正確には増えるという表現かどうか微妙ですが。)
子どもが納得しやすいかもしれないのはテストの採点で1問ごとの得点を正の数、減点を負の数で表し、採点ミスがあった場合。
採点ミスを発見!先生に言いに行きました。
間違っているのに○になっていた。→得点が減る=減点が増える→正の数を引く=負の数を足す
合っているのに×になっていた。→得点が増える=減点が減る→正の数を足す=負の数を引く
ね、ちゃんと成り立ってますよね?(自己満足ですけど。。。)
でも、これを思いつく前の段階で数直線を見ながら、自分で妙に納得したことがあるんです。
増えるとか減るとかいうのは数直線のどっちに向かって進むかということで表せると思うのですが、負の数の側に立った場合、負の数が増えるということはよりマイナス側に進むということですよね。つまり、負の数を足すと数はより小さくなる。そして、負の数が減るということは、負の数にとって「減る」のだから進む方向はプラス側ということ、だから負の数を引くと数が大きくなるんだ~~!!と、本人的にはすごい発見をした気分でした。
心から納得♪って感じでしょうか。
少なくともこの感覚は「踊っていた中学生」にはとても納得がいったようです。
負の数の世界が入ってきても、ある程度、実感、納得させることが可能なんだなぁって、なんだかとっても嬉しいです。
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見つけたからってそれが何?って言われそうですが、私が幼い頃からうちの父の趣味のひとつになぜか「折鶴」っていうのがありまして、隠居して以来その趣味が再燃。2センチ角や3センチ角の小さい紙で千羽鶴を延々折っているかと思えば、自分で工夫して連鶴を折ってみたり。。。不思議な人です。
で、先日、JRの尼崎の事故に107羽の連鶴を届けたというニュースを見て、あんなのを折ってみたいと言い出したのです。
しかし、父はとことんアナログ人間なのでインターネットなんてやったこともありません。なので、代わりにちょっと調べてみたところ、こんなのを見つけました。
なんだかとても趣きがありますね。妙に気になります。
で、どうやらこの本を参考にされたと思われる他のサイト(もっと見やすく、わかりやすく、紙の切り方を画像もつけて説明してくれているようなところ)も見つけたのですが、その途中でこんなのも見つけました。
1枚の紙でこんなのが折れるんだなぁと、賢い人は賢いなぁと感心しつつ、早速自分でも折ってみたりして。。。
空間図形の学習の導入とかでも使えるかもしれないなぁと思ったりしますが、いかがでしょう?
鶴とは全く関係ないのですが、私が折ってみたのはこれです。
連鶴も結構楽しそうだなぁ~~。
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歯が痛いのに眼科に行く人も、頭が痛いのに歯医者に行く人もいないだろう。
英語が習いたいのに韓国語教室に通う人も、字が上手になりたいのにパソコン教室に通う人もいないだろう。
当然、小学校受験指導の塾に行って大学に入れてくださいという高校生もいなければ、大学予備校に通う幼児もいないはずだ。
何をそんな当たり前のバカなことを言ってるんだと思われるかもしれない。
だけどこの頃そんなことを考えている。
私のところに高校生が来て、大学に合格させてくれって言われたってそんなのは無理だ。
それどころか、小学生に有名難関中学に合格させてくれって言われたって、恐らく無理だし、仮に無理じゃなかったとしても、少なくとも私ができるのは「最善の努力」でしかなくって、その子にとって最善の指導ではないはずだ。おまけに私自身がそれをやりたいと思っていないのだから、尚更うまくやれるはずがない。
「餅は餅屋」というけれど、私にとっての「餅」はなんだろう。
それをもっとしっかり見極めて、自信を持って提供できるようになりたい。
この頃そんなことをずっと考えている。
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教室を始めてからこの7月で丸3年になるのですが、これまでここで関わることができた中学生はみんな、中学生になってから来てくれた子達でした。
当然それまでに学校での指導やほかの塾などでの指導を受けてきた子達でしたから、私も基本ラインは過去、塾で指導してきたものを踏まえつつ、可能な範囲で「考えさせる」「イメージさせる」ということを取り込むという対応をしてきていました。
ですが、この春初めて小学生の間から見ていた子が中学生になり、継続して通ってくれることになりました。
自分の頭で考えるということを積み重ねてきた子達ですから、中学内容になった途端、その指導法を変える必要はありません。結局、中学生に対しても、新しい単元であろうと、まずは「考えてみて。」から入るスタイルが取れることになりました。
自分もまた新たに沢山考えなくてはいけないことができる訳ですが、そのしょっぱな、正負の数の計算で個人的に色々な発見をしています。
そちらはまた追々書かせて頂くつもりですが、今日は先日の嬉しかった出来事を書かせて頂くことにします。
実際、私自身中学生のとき、正負の数の計算を習ったとき、負の数を引くと正の数になるとか、負の数かける負の数は正の数であるとかということは理屈なんて考えることなく、機械的に暗記してそのまま覚えて使えるようになったという記憶しかありません。
ですから、これまで家庭教師や塾勤務時代に関わった中学生達には、いかに覚えてもらうかということに努力してきました。
マイナスとマイナスだったら棒が2本だからプラスになるとか、あれこれ説明をして、少しでも頭に残りやすくなればと思っていたのです。
ですが、大抵のものはちゃんと考えればわかるのです。機械的に暗記しなくても、例を挙げて説明することが可能だということに私自身ようやく気づき始めました。(正直言ってこれまで考える必要を感じなかったため、考えようとしたことがありませんでした。)
今、ある中1さんと正負の数の加減計算をしています。
私は彼女にまだ一度も「マイナスとマイナスだったらプラスになるんだよ」という説明をしたことがありません。
けれど、彼女はちゃんと考えて計算をしてくれます。
一番初めはプラスやマイナスの色々な数を書いたカードを用意しました。そのカードを適当にめくってもらい、その合計点が何点になるかたずねることを繰り返しました。
それに関しては、ノーヒントでもほぼ全く間違うことはありませんでした。実際、ゲームなどで「減点○点」というようなことは何度も目にしていることでしょうし、説明しなくても子ども達は感覚的に理解しているのです。
その後、数直線を用意して、スタート地点を決め、次の数を見せてその数直線のどちらに向かって動く数なのかを意識してもらうようにしました。
これに関しても殆ど助けは要りませんでした。
そういうことを繰り返した後、ただの計算問題(式だけの問題)に取り掛かってもらったところ、彼女がなんだか左右に揺れながら踊っているのです。
一瞬なんだろう?と思って彼女の手元を見ると、スタートの位置から右(正の方向)に行くのか左(負の方向)に行くのかを手を動かしてイメージしているのです。
なんだかおかしくって思わず笑ってしまったものの、こうやって考えてくれていれば、符号を逆につける心配は殆どしなくっていいなと、実はとっても嬉しかったのです。
ただ、さすがに学校でそれを習って、教室で踊ったら周りから何か言われそうだったので、頭の中で踊ってくれるよう頼んだところ、諦めて(?)指先だけの踊りに変更してくれました。(笑)
一体これの何が嬉しいんだ?って思われるかもしれませんね。
けど、機械的に暗記させられるより先に、大きさや方向をイメージしてくれていることが、私には本当にとっても嬉しい出来事だったのです。
彼女の姿を励みに、中学生にももっともっと考えてもらえるよう、私自身頑張って考えていこうと思っています。
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先日「単色弁当」をご紹介した@niftyのデイリーポータルZ。これもまた面白い。
企画もですが、文章の表現がうまいなぁって感じで、ひとりの部屋で声を出して笑ってしまいました。。。(苦笑)
タイトルは「水だけ飲み会」
お暇でしたら覗いてみてください。(笑)
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今日は世の中は休日ですが、荷物を受け取らなくてはいけなかったので、教室に出てきていました。
お知らせに少し書きましたが、半月ほど前からプリンタの調子が悪く、白黒印刷をするとなぜかしましま模様になってしまうようになりました。
メーカーに問い合わせたところ、修理するしかないとのことだったのですが、1週間から10日かかるというお返事だったので、その間コピーやプリンタが使えないのは困るなと、どうするか迷ってしばらくは騙し騙し使っていました。
色々考えた末、自宅のプリンタも実はカラー印刷の方がいかれてしまっているので、安い機械を1台買って修理に出し、直ったら、新しい機械は自宅で使うことにしようと、FAX機能はないものでしたが、複合プリンタを購入しました。
ネット購入だったので代引きだったのですが、あいにく細かいのがなく、お札だけで払う準備をしていました。
配達に来た人は、正直言って第一印象からしてあまりいい感じではありませんでした。そして、お札を出すと「3円とかありません?」とちょっと不機嫌な声。
「すみません、ないんです」と謝ると、小銭を出してお釣を出し始めました。
端数は7円なのに、なぜか1円玉を3枚出して小銭をしまおうとするので、「7円ですよね?」と確かめるために普通に尋ねただけなのに、また不機嫌な声で「5円を出そうと思ったんですよ。」と。(3円出しておいて、5円を出そうと思ったっていうのもなんだかおかしな気もするけれど。)
かなりもたついていたので、部下なのか子どもなのかよくわからないぐらいの年恰好の子が気を利かせて、小銭を握って近づいてきてくれたときでした。
「あっち行っとけ。」
その子に向かって不機嫌に言い放ちました。
お釣を受け取り、判を押すと、形式的に「ありがとうございました」と言ってドアを出て行った次の瞬間、怒鳴る声が、聞こえてきました。
「勝手に入ってくんな!邪魔なんや。いっつも言ってるやろ!!」
そんな言葉がしばらくの間階下から聞こえていました。
私には訳がわかりませんでした。階段を上がってくる足音は2人していたし、少し大きな荷物だったから、2人で持ってきたのかもしれない。仮にそうでないなら、もともとその子がついて上がってくる必要はないのだし、荷物を持たせていたのだったら同僚なのかもしれない。あのとき私とのやり取りを聞いて、小銭を出そうとした彼のどこがいけないのでしょう。
私は気の利く子だなと思ったのに、彼は小銭を出しだすこともできないまま、怒鳴られ追い払われました。
仮に何らかのルールがあって、彼がそのルールを守っていないのだとしても、もっと言い方があるのではないかと思うのです。少なくとも、この場合私はお客で、そのお客を待たせないためにしようとした彼の行為をそこまで怒鳴りつける必要はあるのでしょうか?
せっかく新しいプリンタが届いたのに、すごく悲しい、嫌な気持ちになりました。
あの人から受け取ったお釣はお財布にさえ入れたくなくて、丁度コンビニで払わなければいけないものがあったので、それを持ってそのままコンビニにお金を払いに行きました。
この教室には優しい気持ちになれるもの、穏やかな空気が感じられるもの、優しい人が届けてくれたもの、できることならそんなものだけを置きたいのです。
もう今回の会社に注文して教室に何かを配達してもらうのはやめよう。ちょっとそんな気持ちになった休日でした。
あ、でも、プリンタは安いのに結構満足しています。(笑)
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もともとかなりの出不精な私は、記憶にある限り、あらゆるジャンルを通じて、コンサートの類に殆ど行ったことがない。子どもの頃から歌を歌うのは好きだったし、音楽に全く興味がない訳でもないけれど、ここ数年は余程のことがない限り、CDを買うどころか借りることすらなくなった。
昔からガチャガチャした音楽は苦手で、好きな歌手はと聞かれると「歌の上手い人」と非常に抽象的な答えをしていた時期もある。どちらかと言えば歌唱力がある歌手のバラード系の曲が好きだ。
だからといって、クラシックはなんだか敷居が高すぎて、音楽の授業とかでしか聞いたことがないに等しかった。
小学校の教員免許を持っているくせに、うちの大学は器楽か声楽(といってもそんな大層なものではなく、音楽の授業みたいな感じで、声楽だったら歌を歌うだけという感じだった。)どちらかさえ取れば免許を取れたので、実は私はピアノが弾けない。(まあ、猫踏んじゃったとかだったら弾けるかもしれないけど。)だから尚更、縁のない世界の音楽だった。
たまたま今日、友人がピアノのジョイントコンサートをするので、よかったらと声をかけてもらった。偶然、幼馴染みと共通の友人でもあり、今日は幼馴染みと会う約束になってもいたので、付き合ってもらって一緒に行くことにした。
純粋にピアノ演奏が聞きたいというよりは、仕事もお休みだし、せっかく声をかけてもらったし、友人の演奏は聞いてみたいから、ちょっと行ってみようかなってぐらいの気持ちだった。
友人とその連弾のパートナー以外は全く知らない方ばかり。友人達は2曲しか演奏しないらしかったので、他の方々の演奏の間私は耐えられるかとさえ思っていた。
しかし、予想外にピアノは強烈に心地よい音だった。
迫力のある演奏をしているときでさえ、あまりの心地よさに何度も何度も眠りを誘われた。聞いていて、心が穏やかになるのを感じた。
クラシックは全くわからないし、ショパンだのメンデルスゾーンだのラヴェルだのって言われても、聞いたことあるなぁぐらいの話だし、じゃあどの人がどんな曲を書いてるかなんて殆ど知らない。
おまけに、演奏の前にその曲のできた背景やテーマなどを語ってくださるのだけれど、聞いていても「ふ~ん、そうなのかぁ」ってなもので、ちっともぴんとこない。
それでも理屈ぬきに、ピアノの音はすっと心にしみ込んでいくようだった。
ちょっとだけクラシックの敷居が低くなった気がした休日だった。
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あとでまともに書く予定ですが、このブログ、検索ワード(どんな言葉を検索してここに来てくださったか)が見られるようになっていて、普段もたまに「ん?この言葉でなぜ?」と思うことはあるんですけど、今日のはびっくりです。
検索ワード:結婚式両親への感動レターの例文集
私、こんな長いワードをブログに使った記憶は当然全くありません。結婚式、両親への、感動、レター、例文とか完全に別々に集めてきたら、もしかしたらどこかで書いているのかもしれないですが、一体何がひっかかったんでしょう??
このワードでうちに辿り着いてしまわれたどなたか、全くお役に立てず申し訳ありませんでした。(苦笑)
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すみません。今日もちょっとどうでもいいネタです。。。
実は私にはちょっとおかしな癖がある。
まあ、「癖」っていうものはみんな大抵何かおかしいんだとは思うけれど、自分でもなぜんだろうともうずっと前から思っているある癖。
それは記憶にある限り、物心付いて以降ずっとなんじゃないかと思うぐらい昔からの癖なのだけれど、今日「柿ピー」を食べながら、あぁ、まただ。。。と思った。
普段ご飯を食べているときも、お菓子を食べているときも特に意識することはないのだけれど、あられやナッツ類など、やや粒状のものを食べるときに必ずその癖が出る。
一番顕著に出るのは「柿ピー」を食べるときだ。
柿ピーを開ける。欠けていない柿の種をひとつ左の奥歯で噛んだら、次は同じく割れていないものを右の奥歯で噛む。次に手に取ったものが半分ぐらいに欠けたものだったら、その次は同じぐらい欠けたものを取ってさっきと反対の歯で噛む。柿の種ばかりじゃ辛いので、ピーナッツを取ったら、粒のままのものをひとつ食べた後は同じく粒のものを反対の歯で、もし半分のピーナッツだったら次も同じく半分のものを。この徹底ぶりは異常なほどで、3分の1ほどに欠けたものは3分の2ほどに欠けたものと一緒に食べ、その後反対の歯では欠けていないものを食べるなんてことまでする。
とにかく、左右でほぼ全く同じだけ「柿ピー」を噛むのだ。
ひなあられなんかでもその傾向は当然あるのだけれど、一番極端に出るのは柿ピー。どうしてこんな癖が付いてしまったのかは全く思い当たるところがない。
ただ、食べるということでこれは癖とは少し違うけれど、実は昔から苦手な質問がある。
性格診断みたいなものでも出てくることがあったり、話のネタに出てきたりするのだけれど、答えられないのだ。
その質問とは「好きなものを先に食べるか後に食べるか」という質問だ。
食事のとき、好きなものを取っておくか先に食べるかという質問はこれまでの人生でみんな一度や二度されたことがあるのではないかと思う。しかし、私はこの質問に答えることができない。理由のひとつには「大好物」というようなものがないということもあるが、(基本的に何でも食べるし、あまり好き嫌いがない。)私は意識している限り、量や数の多いものから食べるのだ。
例えば、お弁当に玉子焼きが3切れとソーセージが3つ、シュウマイが2つにプチトマトが1つ入っていたとしよう。(そんな変な組み合わせのお弁当は記憶にないが。)
その場合、まず玉子焼きかソーセージを食べる。(この場合、その次にシュウマイに行くことを考えると、多分ウインナー→玉子焼き→シュウマイと考えそうな気がするので、多分最初はウインナーか。)次に2つで揃った3品を、さっきまだ食べていないシュウマイから始めて、玉子焼き、ウインナーのように食べ、そこで全部が1つに揃ったので、あとはぐるぐると。
数が数えにくいものが加わってきた場合、残りの量が同じようなバランスになるよう食べ揃える。揃ったらあとはやはりぐるぐるだ。
これも変な癖だなぁと思いつつ、まあ、この辺りは昔学校などでも指導されていた「三角食べ」の影響かなぁぐらいに思っていた。
ところが、近年実家でそんな話をしたところ、両親は「面白いね」とか「変わってるね」とか言ったのだが、思いがけず「俺もそうやで?」と兄が。。。
これらのおかしな癖は「おかしい」のか、結構他にもおられるのか、今日はそんなことがちょっと気になった。
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もう5月ですね。
年に数回、教室の広告をミニコミ誌のようなものに出すのですが、今日がその折込日でした。
原稿チェックの段階で、ちゃんと見ているつもりなのに、なぜか毎回のように何か見落としているところがあるのを、もう印刷があがってしまってから発見します。。。
それも、悲しいことに大抵の場合、私の原稿が間違っている訳ではなく、先方で印刷用に打ち直してもらう段階で間違えられているのです。。。
自分の原稿は何度も読み返すようにしているのですが、恐ろしいもので、綺麗にカラー印刷され、整然とできあがった原稿になると、なぜか「これは合っている」と思って読んでしまうようです。
もちろん、数ヶ所は見つけるんですよ。今回は「文章題」が「文章」になっていたり、「パズル」が「パスル(って一体なんやねん。。。(苦笑))」になっていたりというのは発見したんです。
しか~し!!このブログと読書のブログを紹介したところ、赤い文字でしっかりと
読書感想ブログ http://~~
日々の思い出 http://~~
となっておりました。。。
ショックすぎる。。。なんかもっちゃりしている。。。
それにしても、こんなところを間違われるなんて思ってもみなかった上、それを見落とした自分にもびっくり。(苦笑)
何事も間違っているのではないかと疑いの目を持って読むことの大事さをしみじみ感じつつ、きっとまたやってしまうんだろうなと思うのでありました。
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ずっとずっと気になっているのだけど、だからといって何ができる訳でもなく、何にもしないよりマシかと以前メールマガジンで政府宛(?)にメールしてみたりもしたのだけど、ここに書けば、たとえひとりかふたりの方しか実行してくださらないとしても、何にもしないよりは前進したってことなんじゃないかって、今日自転車を漕ぎながらふと思ったので、ちょっと書かせてもらうことにした。
特に、結構多くの子どもを抱える塾長先生も時々覗いてくださっていたりもするようだし、先生方が子ども達に働きかけてくださったらすごくすごく嬉しいんだけどなぁとちょっとだけ期待もしてみたりして。。。
自動車が日没後ライトをつけずに走ったら、違反で何か罰せられるはずだし、本来自転車だって灯火は義務なんじゃなかったかと思う。
けど、夜に無灯火で走っている自転車はあまりにも多い。おまけに、無灯火で警官の側を走り過ぎたって、注意すらしているところを見たことがない。一体なんでなんだろう。
無灯火で乗る人たちの中には、ライトをつけるとペダルが重くなって漕ぐのが大変だからみたいなことをいう人もいる。
だけど、じゃあ、車が「ライトをつけたらガソリンが余計にいるから」ってライトをつけずに走ってもいいのか?っていうと、それは危険だからダメっていうんだろう。
そもそも、自転車のライトは自分のためにつけているのではないと思うのだ。実際、夜にライトをつけてもつけなくても、自分の視界は殆ど何も変わらない。街には街頭があるし、真っ暗闇なんてことは殆どないし、自転車のライトは所詮豆電球1個の明るさ。つけてもつけなくっても大して変わらないんだったら、漕ぐのしんどくなるからつけない。そんな理論になるのかもしれない。
けれど、私はこれまで何度も無灯火でスピードを出して走ってくる自転車に怖い思いをさせられたことがある。中には路地から飛び出してきて、ブレーキが間に合わず自分の自転車の前輪や自分の足にそのまま突っ込まれたことだってある。
実際はどうなのかわからないが、私は「自転車のライトは人のためにつける」のだと思っている。信号のない路地などを結構なスピードで走っている子は少なくない。たかが自転車だから、死亡事故とかにはならないかもしれないけれど、もしそこに幼児や高齢者が歩いていたらどうだろう?自転車に激突されて大怪我、骨折。そんなことは十分あり得る。更に、高齢者などであれば、打ち所が悪くてそのまま寝たきりになってしまったりということだってあり得なくはない。
自転車は歩行者にとっては思っている以上のスピードのように思う。実際、日中だって道を歩いていて、自転車が結構な勢いで脇を通り抜けて行くだけでもドキッとすることがある。それが夜の視界が利かないときであれば尚更だ。
ペダルが重くなるのが嫌なら、懐中電灯でもクリップ式のライトでも、何でも方法はあるはずだ。自分がそこにいること、自転車が近づいていることを人に知らせてあげるために、ひとりでも多くの人がライトをつけるようになってほしい。
すごくすごく些細なことかもしれないけれど、結局そういうことが「人への思いやり」なんじゃないのかなぁと、無灯火の自転車を見るたび思うのだ。
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